2022年11月13日日曜日

『難経』五輸穴の主治病症とその五行観念に関する分析 02

 

  2 『難経』五輸穴の主病と実践との間の距離


 『難経』が提起した五輸穴の主治病症に関する原文は以下のごとし。

    六十八難曰:五藏六府各有井滎俞經合,皆何所主?然。經言:所出為井,所流為榮,所注為俞,所行為經,所入為合。井主心下滿,滎主身熱,俞主體重節痛,經主喘咳寒熱,合主逆氣而泄。此五藏六府其井滎俞經合所主病也〔六十八の難に曰わく:五藏六府各々(おのおの)井滎俞經合有り,皆な何の主る所ぞ?然(こた)う。經に言う:出づる所を井と為し,流るる所を滎と為し,注ぐ所を俞と為し,行く所を經と為し,入る所を合と為す,と。井は心下滿を主り,滎は身熱を主り,俞は體重節痛を主り,經は喘咳寒熱を主り,合は逆氣して泄するを主る。此れ五藏六府 其の井滎俞經合の主る所の病なり。〕[3] 124-125。

 「主病〔病を主る〕」とは,すなわち病症を主治することである。元代の滑伯仁『難経本義』は「主,主治也〔主は,主治なり〕」[5]87と注する。上記の原文にいう「此五藏六府其井滎俞經合所主病」とは,すべての五輸穴を意味する。果たしてそうなのか。また一体何者の病を主治するのか。その内包を正確に理解し,主治の内容の由来を明確にするために,ここでは主に2点を分析する:

 (1)実際には陰脈の五輸穴の主病にすぎない。この点は,少なくとも宋代にはすでに明確に指摘されていた。たとえば,明代の王九思等編の『難経集注』は,宋の丁徳用の「此是五藏井滎俞經合也……〔此れは是れ五藏の井滎俞經合なり……〕」と,虞庶の「以上井滎俞經合,法五行,應五藏,邪湊其中,故主病如是〔以上の井滎俞經合は,五行に法(のっと)って,五藏に應じ,邪 其の中に湊(あつ)まる。故に病を主ること是(か)くの如し〕」[6]90を引用している。しかしながら,その後の認識はかえって以前に及ばず、例えば滑伯仁の『難経本義』も五蔵病から解釈したが,また謝堅白の注,「此舉五藏之病各一端為例……不言六府者,舉藏足以該之〔此れ五藏の病の各々一端を舉げて例と為す……六府を言わざる者は,藏を舉げて以て之を該(かぬ)るに足ればなり〕」[5]88を引用している。清代の徐大椿の『難経経釈』はその主病を「由六十四難五行所屬推之〔六十四難の五行の屬する所に由って之を推す〕」と指摘し,(そして五蔵において)さらに「然此亦論其一端耳,兩經辨病取穴之法,實不如此,不可執一說而不知變通也〔然れども此れも亦た其の一端を論ずるのみ。兩經の辨病取穴の法は,實は此(か)くの如きにあらず。一說に執(とらわ)れて變通を知らざる可からざるなり〕」 [7]90と指摘した。唯一,中華民国の張山雷は『難経注釈箋正』において問題の所在を明確にし,「然於陽經之井滎等五行,則又何如〔然れども陽經の井滎等の五行に於いては,則ち又た何如(いかん)せん〕?」[8]150という。しかしながら,謝堅白の曖昧な認識は今でもきわめて一般的である。例えば中医大学の本科の統一編集教材では,普通高等教育中医薬類計画教材の第6版『針灸学』[9]が「陰脈の五輸穴は五臓の病を主治する」と明言している以外,その他の書は,みなほとんど判断分析をしていない。さらに鍼灸の著作では,これを「五腧穴の主治総綱」と見なしているものさえある[10]。

 (2)五輸主病は,陰脈の五輸穴の五行が五蔵に応ずることに基づいて得られたもので,その具体的な内容は『難経』中から推し量ることができる。著者が『難経』のテキストを整理して見つけたことは,これらの具体的な主治病症は本書の中で論じられている五蔵の病と内在的な関連があり,第十六難で詳しく述べられている五蔵の病の診断に集中していることである。たとえば,「假令得肝脈,其外證:善潔,面青,善怒。其內證:齊左有動氣,按之牢若痛。其病:四肢滿,閉癃,溲便難,轉筋〔假令(たと)えば肝脈を得れば,其の外證は,潔きを善(この)み,面青く,善く怒る。其の內證は,齊(へそ)の左に動氣有り,之を按(お)せば牢(かた)く若(も)しくは痛し。其の病は,四肢滿し,閉癃し,溲便難く,轉筋す〕」[3] 33-34。五輸穴の主治病症とこれらの五蔵の病の表現を照合すると,五輸主病はこれらの五蔵の病の主な表現と特性から抽出したものであることが見いだせる(表2)。


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  第十六難                      第六十八難

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  肝脈……其病:四肢滿,閉癃,溲便難、轉筋。  井主心下滿

  心脈,其外證:面赤、口乾、喜笑……  

五 其病:煩心,心痛,掌中熱而啘。        滎主身熱

  脾脈……其病:腹脹滿、食不消,體重        俞主體董節痛

與 節痛,怠墮嗜臥,四肢不收。

  

陰 肺脈……其病:喘咳,灑淅寒熱         經主喘咳寒熱

脈 

  腎脈……其病:逆氣,少腹急痛,泄如下重,   合主逆氣而泄

  足脛寒而逆。

                        此五藏六府其

性                       井滎俞經合所

  是其病,有內外證。             主病也

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 五輸穴理論を提起した『黄帝内経』において,五輸穴の主病はそれぞれの類穴が所在する部位と関連している。例えば,五蔵の病を主治するのは五輸穴中の「輸」穴,すなわち五蔵の原穴である。六府の病を主治するのは五輸穴中の「合」穴であり,実際には主に六府の下合穴である。腧穴の所在する部位は主治と関係があるため,五蔵の「輸(原)」穴であれ,六府の「(下)合」穴であれ,いずれも同じ種類の穴では所在する部位が似ている特徴を持つ。『難経』が提起した五輸穴の主病は,この法則を全く反映しておらず,五行の属性を内在的根拠とした推論の結果であって,「人体で検証した」術では全くない。そのため,『難経』とその理論が持っている大きな影響,また五輸穴が臨床で常用される類穴でもあることに鑑みて,さらにその根本的な欠陥に対して本質的な分析と価値判別を行う必要がある。


2022年11月12日土曜日

錢 超塵先生 逝去

 2022年11月11日。享年87歳。

ご冥福をお祈りいたします。


超逸絕塵:超然物外,不滯塵俗。

超軼絕塵:謂駿馬奔馳,出群超眾,不着塵埃。比喻出類拔萃,不同凡俗。

《莊子‧徐無鬼》:「天下馬有成材,若卹若失,若喪其一,若是者,超軼絕塵,不知其所」。

『難経』五輸穴の主治病症とその五行観念に関する分析 01

   1 五輸穴を五行に配した経緯


 最初に五輸穴に関する系統的な記述が見えるのは『霊枢』本輸である。各経脈では井穴のみに五行の属性を示す文字がある。たとえば,「肺出於少商,少商者,手大指端內側也,為井木〔肺は少商に出づ。少商なる者は,手の大指端の內側なり,井木と為す〕」「膀胱出於至陰,至陰者,足小指之端也,為井金〔膀胱は至陰に出づ。至陰なる者は,足の小指の端なり,井金と為す〕」[1]4-5である。しかし,現存する最古の『黄帝内経』のテキストである日本の仁和寺古鈔本『黄帝内経太素』[2]189-198巻十一「本輸」の原文には,このような五行の属性に関する文字はない。『黄帝内経』中の五輸穴と四時の関係に関する論述では,井穴はすべて冬(水)に対応する。これは(陰脈の)井穴が木に配属されることにも明らかに合致しない。

 五輸穴と五行の組み合わせたがすべて揃っている内容は『難経』に初めて見え,第六十四難に詳しく述べられている。すなわち:

    陰井木,陽井金,陰滎火,陽滎水,陰俞土,陽俞木,陰經金,陽經火,陰合水,陽合土,陰陽皆不同,其意何也?然。是剛柔之事也〔陰井は木,陽井は金,陰滎は火,陽滎は水,陰俞は土,陽俞は木,陰經は金,陽經は火,陰合は水,陽合は土,陰陽皆な同じからず,其の意は何ぞや?然(こた)う。是れ剛柔の事なり〕 [3] 117。 


 五輸穴は最も常用される十二経脈の要穴であり,分類された腧穴の中で最も数が多く,理論化の程度も最も高く,数の上でも五行と一致している。これも『難経』が五行理論によって五輸穴を集中的に論じた成因かもしれない。五行化された五輸穴の新しい理法はすべてこれを基礎としている。この配当によれば,五輸穴の間は二つのレベルの関係からなる。一つは本経の五輸穴間の五行(生克)関係であり,もう一つは陰脈と陽脈間の五輸穴で,ここでも五行(生克)関係を構成している。陰陽の属性を両立させるのと同時に,五輸穴の五行属性と所属する経脈の陰陽属性を背馳しないようにする。このようにして,同一経脈および身体の内外側に対称的に分布する経脈の五輸穴の特性と関係をはじめて五行理論で表現することができる(表1)。


  表1 『難経』五輸穴の五行配当

五輸     井 滎 俞 経 合

   陰脈  木 火 土 金 水

五行

   陽脈  金 水 木 火 土

関係  陰陽皆不同,……剛柔之事也


 五輸穴と五行の組み合わせは,どのような順序をなすのが非常に重要であるかに基づいて,五輸穴の具体的な五行属性を決定している。五行の間の関係は、隣り合う行は相生,ひとつ隔てた行は相克で,全体は閉じた循環往復関係である。長い期間で言えば,自然界のあらゆる活動は循環しているが,短い期間内または一周期内の活動の特徴としては,盛衰のリズム,つまり始まりがあり終わりがある。たとえば動植物の個体の生命活動の自然は,常に始まりと終わりを繰り返している。四季のはっきりした地域では,一年のうち,自然界の活動は春に発生するため,四時の気は春を初めとする。五行を四時に配するときは,木を春に配する。『難経』が五輸穴を五行に配するのも同様で,井滎輸経合の順にしたがい井穴から始まるが,陰脈と陽脈はそれぞれ異なる。すなわち,「陰井は木,陽井は金」である。その方法はつぎの三点にまとめることができる。1.井穴から始まる。2.木から始まる。3.まず陰脈(の穴)を確定する。

 (1)「井」穴から始まる。五輸穴の順序では,最初の穴は「井」である。これは『黄帝内経』の理論である,経脈が求心性に走行する理論モデルに基づいている。各脈の五輸穴の順序は手足からはじまり肘膝にいたる。その気血の流れは水が水源から出て合流して海に入ることになぞらえられ,「井・滎・輸・経・合」という。つまり「所出為井,……所入為合〔出づる所を井と為す,……入る所を合と為す〕」[1]3である。『難経』には「五藏六府滎合,皆以井為始〔五藏六府の滎合は,皆な井を以て始めと為す〕」[3]116と表現されている。

 (2)木から始まるのは,一年の季節の始まりと終わりの順序に基づいている。すなわち,木から始まって五行の相生の順序で季節の特性と変化に対応する。一年は春から始まり冬に終わり,天地自然の活動の恒常的な循環法則に一致し,またそれを反映している。

 (3)まず陰脈を定める。陰脈は蔵に属し,五蔵を中心とする観念に基づく。そのため,陰陽経脈の井滎輸経合の五輸穴は,井穴から始まり,五行に配当され,またそれを順序とする。

 上述した方法の原理について,『難経』は「井者,東方春也,萬物之始生……當生之物,莫不以春而生。故歲數始於春,日數始於甲,故以井為始也〔井なる者は,東方春なり,萬物之れ始めて生ず……當に生ずべきの物,春を以てして生ぜざるは莫し。故に歲數は春に始まり,日數は甲に始まる,故に井を以て始めと為すなり〕」[3] 116という。黄竹斎の『難経会通』は直截に解釈して,「東為四方之始,春乃四時之始,井乃井滎輸經合之始,故曰井者東方春也,萬物當春而始生,經水始出,所以謂之井也〔東は四方の始め為(た)り。春は乃ち四時の始まり,井は乃ち井滎輸經合の始まり,故に曰わく,井なる者は東方春なり,と。萬物は春に當たって始めて生じ,經水始めて出づ。所以(ゆえ)に之を井と謂うなり〕……」[4]といい,井穴を脈気の始源とすることに注目している。しかし,『難経』の原文はこの難では明確ではないが,四十一難の「肝者東方木也,木者春也,萬物始生〔肝なる者は東方の木なり,木なる者は春なり,萬物始めて生ず〕」[3]82から知ることができる。ここでいう「井なる者は東方の春なり」は,事前に規定された五輸穴の五行属性に依然として基づいているのは明らかであり,しかも陰脈のみである。

 五蔵陰脈の五輸穴の五行配当が確定すると,陽脈の基礎となる。すなわち相克関係に基づいて,六府陽脈の五輸穴の五行属性が確定し,陰と陽,蔵と府の相反する特性と関係に一致する。すなわち「陰井は木,陽井は金,陰滎は火,陽滎は水……陰陽皆な同じからず……是れ剛柔の事なり」である。

 そのため,五輸穴の五行属性が定められた過程から逆に推論すれば,多くは理論観念から導き出されたものであることが分かり,陰陽・蔵府・経脈などの理論に関連しているように表面上は見えるが,五輸穴を類穴【同じ性質を持つとして分類される穴,すなわちここでは五種類の穴の意か?】とする真の根拠と法則については,構成中に考慮されていない。つまり,『難経』における五輸穴と五行の関係は,鍼灸の実践経験を反映したものではない。

 『難経』における陰陽経脈の五輸穴の五行配当は,五輸穴の主治病症,補瀉の刺法,井滎の用穴,四時の用穴,および類穴の意味,『黄帝内経』における補瀉刺法の意図,「迎随」補瀉の解釈などを含む一連の特殊な理論と方法を進化させた。その中でも五輸穴の主病は,直接臨床上の治療用穴に関係して,特に影響が広大で,その明瞭な原因と結果の過程をはっきりさせなければ,実践に役立たない。


2022年11月11日金曜日

『難経』五輸穴の主治病症とその五行観念に関する分析 00

   趙京生 姜姗

                                            〔中国針灸2022年8月第42卷第8期〕

                                                                                

    【要旨】『難経』は『黄帝内経』に続くもう一つの中国医学理論を著わした典籍であり,主に『黄帝内経』に由来する理論を解釈し発展させたものである。五輸穴は常用される重要な腧穴であり,『難経』が提出した「五輸主病〔五輸穴の主治病症〕」は,鍼灸の腧穴の理論と運用に対して,いずれも後世に重要な影響を与えたが,考証した結果,実際には五行学説から推論された虚構にすぎなかった。その理論構築の源流と方法を深く分析することによって,具体的に主治病症の源を考査して発見し,この理論の誤謬の所在を明確にした。そして『内経』『難経』に見える五輸穴が五季に応ずる根本的な差異を比較し,『黄帝内経』における五輸穴と季節の関係の社会観念的背景を深く探り,さらに理論的演繹法から『難経』五輸穴の主治病症の問題点を検証することによって,その意義と価値に対して理性的な判断をおこない,盲目的な実践を避ける。


 【キーワード】難経;五行学説;内経;鍼灸思想史


 『黄帝八十一難経』(『難経』と略称する)は古くは戦国時代の秦越人(扁鵲)が著わしたものとして伝えられたが,現在では多くの人は成書したのは『黄帝内経』以降で,後漢時代よりは遅くないと考えている。『難経』全体は問題を提起し,それを解析する形式で貫かれており,『黄帝内経』を主とする中国医学の理論をさらに解釈し発展させ,系統化している。中国医学と鍼灸理論,およびその運用に深い影響を与えていて,それは今でもかわりなく,中国医学の経典の一つと見なされている。『難経』は鍼灸の多方面の重要な内容を論述し,現在使用されている主要な理論範疇におよぶ。それには経脈・腧穴・刺法・治則・選穴などが含まれていて,いずれも経典鍼灸理論の核心成分に属する。その中で,理論構築方法の大きな特徴は,五行学説の影響が深く浸透していることである。これによって形成されたいくつかの鍼灸の理法〔筋道と構成ルール〕は,『黄帝内経』と比較して非常に異なる。これについて,一般には『黄帝内経』以降の充実や発展とみなしたり,流派の違いに帰したり,内容自体の限界や欠陥を指摘したりするのみで,深く研究されたことは少ない。

 これらの理論で,「五輸主病」は今日の実践になお普遍的な影響を与えている。五輸穴とは「井穴」「滎穴」「輸穴」「経穴」「合穴」と命名された五種類の穴であり,四肢の肘膝以下に位置し,常用されるる重要な腧穴である。いわゆる「五輸主病」とは,五輸穴が主治する病症に対する理論の総称である。『黄帝内経』のこの部分に関連する論述と比べると,『難経』の「五輸主病」理論は,井・滎・輸・経・合の五類穴を完全に網羅し,主治病症は具体的で形式が整い,後世において五輸穴の臨床運用を指導する重要な原則として尊重されている。また、その理論方法は『難経』における井滎穴の使用法,五輸穴と四時(五季)選穴の対応,および五輸穴の補瀉刺法など多くの内容に関連し,あるいは決定づけた。

 しかしながら,筆者の考証では,立論の方法には問題があるため,『難経』が提出した五輸穴主病は実際には偽の命題であり,その根源は五種類の穴と五行の組み合わせがすべて五行学説から出発していることにあり,満たしているのは五行理論であって,用穴の経験法則ではない。そのため,『難経』の鍼灸の理法の理解認識の角度からも,臨床における実用的な意味の理論的分析の前提からも,その理論構築の方法を分析し,さらにその理論の本質と価値を明確に評価することがいずれも肝要である。


2022年7月18日月曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 10

  (10)墓誌には楊上の卒年について、「永隆二年八月十日,年九十三」と記載されている。上述した考証にもとづいて推算される楊上善の年齢と職歴はおおよそ次の通り。

 隋・文帝開皇9年(589年)生まれ。開皇19年(599年)11歳、出家して道士となる。唐・高宗顕慶5年(660年)72歳以前、詔を受けて入朝し、弘文館直学士に除せらる。龍朔元年(661年)73歳、また沛王文学に除せられ、同年左武衛長史に遷る。麟徳2年(665年)77歳、左衛長史に遷る。上元2年(675年)87歳、太子文学に遷る。儀鳳元年から調露元年(676~679年)の間、90歳前後、前後して太子司議郎・太子洗馬に遷る。調露2年(680年)92歳、辞職して家に帰る。永隆2年(681年)93歳、里第〔官僚の私宅〕に卒す。

楊上善の生涯に関する新たな証拠 09

  (9)墓誌に「歲侵蒲柳,景迫崦嵫,言訪田園,或符知止〔歲は蒲柳(水楊。衰弱した体)を侵し,景(ひかり)は崦嵫(日が落ちる山の名。晩年)に迫り,言(ここ)に田園を訪れ,或いは止まるを知るに符す〕」とある。ここにはおおやけにはできない事情が隠されているのではないか。唐・高宗の後期、権力は武氏に帰した。李賢が注釈した『後漢書』は、武則天〔則天武后〕に外戚の専制を暗に風刺しているとの疑いを抱かせた。〔武則天の信頼を得ていた〕方士の明崇厳もまた、李賢は〔実際は武則天の第2子であるが〕武則天の姉である韓国夫人が産んだ子で、命相〔命運と容貌〕は帝位を継承するにはふさわしくないと宮中で噂を流し、李賢はそれを聞いて疑いや不安におそわれたという。調露2年に李賢は皇太子を廃され、のちに巴州に監禁され、自殺を余儀なくされた。楊上善は六品の官位から昇任すること20年、従五品官に昇進したばかりで、通常の状況ではすぐに辞職を望むことはありそうにない。したがってその官を辞して老を養うというのは、太子が廃位されたためか、少なくとも太子の地位が不安定であることを察知したからこそ、辞職して帰郷したのであろう。時は調露2年である。


2022年7月17日日曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 08

  (8) 墓誌に記載される楊上の最後の官職は太子洗馬であり、杜光庭の説と参照しあえる。杜光庭『道徳真経広聖義』の序に、「太子司議郎楊上善は、高宗の時の人、『道徳集中真言』二十巻を作る」とある。『六典』や『通典』などの記載によれば、司議郎は正六品上階であり、ちょうど太子文学の正六品下階と、太子洗馬の従五品下階の間にある。墓誌に記載されている楊上の官職が不完全であることは、その「等」字から知ることができるし、通直郎と左衛長史が記載されていないことからも証明できる。その省略の方法は、おおよそ以下のように推測できる。通直郎は散官であるため、職事官は記したが散官は省略した。左衛長史と左威長史は品階の属性が同じなので、前官を記したが後官は省略した。司議郎に任ぜられたのは、他の二種類の太子府の官職の間なので、前後を記して中間を省略した。これらはみな極めて正常である。楊上善の任官履歴によれば、太子司議郎であったのは儀鳳年間に違いない。『唐会要』巻67に、司議郎は「掌侍從規諫,駁正啟奏,並錄東宮記注,分判坊事,職擬給事中〔侍從の規諫を掌り,啓奏を駁正し,並びに東宮を錄して記注し,坊事を分判し,職として給事中に擬せらる〕」とある。杜光庭はその本を見たことがあり、その署名に基づいて忠実に記載したのに違いない。楊上善が太子洗馬に遷ったのは、調露元年(679年)ごろか、あるいは少し早い時である。洗馬は太子司経局の長官であり、『六典』巻26に、「洗馬掌經史子集四庫圖書刊緝之事,立正本、副本、貯本,以備供進。凡天下之圖書上於東宮者,皆受而藏之。文學掌分知經籍,侍奉文章,總緝經籍,繕寫裝染之功〔洗馬は經史子集四庫圖書刊緝の事を掌り,正本・副本・貯本を立て,以て供進に備う。凡そ天下の圖書 東宮に上(たてまつ)る者は,皆な受けて之を藏す。文學は經籍を分知し,文章を侍奉し,經籍を總緝し,繕寫裝染の功を掌る〕」とある。楊上善は先に太子文学と太子司議郎に任ぜられ、多数の図書の撰注を主宰したのだから、この職に昇進したのは、自然な流れであった。


2022年7月13日水曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 07

  (7)楊上と楊上善は、ともに太子文学である。日本の古鈔本『黄帝内経明堂』の巻頭と『太素』の各巻頭には「通直郎守太子文学臣楊上善撰」と題されており、晩清の楊守敬はもっとも早く、隋代に太子文学の官がなかったことを理由に、楊上善は唐・高宗の時期の太子文学であると指摘した。しかし北周の武帝の建徳3年(574年)にも太子文学が置かれていたことから、張均衡『適園蔵書志』は「周・隋相い接し、上善 此の書を撰するは、尚お周の時に在り」と述べて、伝統的な隋太医侍御説と折り合いを計った。現代の学者がより全面的に深く研究した結果、この説は信用できないことが証明された。北周には太子文学があったが、通直郎の官はなく、隋には通直郎があったが、太子文学はなかったし、守官の制もなかった。隋・唐時代には実職の肩書きは職事官と呼ばれ、職務を定めるために用いられた。栄誉としての虚銜〔名誉職〕は散官と呼ばれ、班位を定めたが、恩寵はされない。散官と職事官の品級は必ずしも一致していないが、唐代はこれに対して異なる呼称法を定めた。『旧唐書』職官志につぎのようにいう。「凡九品已上職事,皆帶散位,謂之本品。職事則隨才錄用,或從閑入劇,或去高就卑,遷徙出入,參差不定。散位則一切以門蔭結品,然後勞考進敘。《武德令》職事解散官,欠一階不至為兼,職事卑者不解散官。《貞觀令》以職事高者為守,職事卑者為行,仍各帶散位,其欠一階依舊為兼,與當階者皆解散官。永徽以來,欠一階者或為兼,或帶散官,或為守,參而用之,其兩職事者亦為兼,頗相錯亂。咸亨二年,始一切為守〔凡そ九品已上の職事,皆な散位を帶ぶ。之を本品と謂う。職事は則ち才に隨って錄用(任用)し,或いは閑從り劇に入り,或いは高きを去って卑きに就き,遷徙出入,參差して定まらず。散位は則ち一切 門蔭(先祖の功績による仕官)を以て品を結し,然る後に勞考進敘す(功績を考査して昇進させたり奨励したりする)。《武德令》は職事(『通典』巻34に「高者」2字あり)散官を解して,一階を欠して至らざるを兼と為し,職事卑き者は散官を解せず。《貞觀令》は職事の高き者を以て守と為し,職事卑き者を行と為し,仍って各々散位を帶び,其の一階を欠して舊に依るを兼と為し,當階に與る者は皆な散官を解す。永徽以來,一階を欠する者或いは兼と為し,或いは散官を帶び,或いは守と為し,參して之を用ゆ。其の兩職事の者も亦た兼と為し,頗る相い錯亂す。咸亨二年(671),始めて一切を守と為す〕」。楊上善の職事官は太子文学で、正六品の下である。散官は通直郎で、従六品の下で、両階を欠す。『武徳令』〔武徳:618年~ 626年〕によって散官を解かれたはずであり、そのため「太子文学」とだけ呼ばれた。貞観十一年〔637〕の新令が公布されてから「通直郎守太子文学」と呼ばれるようになった。また、唐が太子文学を置いた時については、『六典』巻29は、「皇朝顕慶〔656年~661年〕中に始めて置く」という。『通典』巻30は、「龍朔二年〔662〕、太子文学を置く」という。唐・高宗の顕慶の次の年号が龍朔であり、この二説は最少で2年の差しかなく、楊上善の生涯を考証する上でそれほど大きな関係はない。

 先人はすでに楊上善が唐・高宗の時代の太子文学であると考察したが、その根拠は日本の古鈔本に書かれた署銜〔肩書き〕が唯一の証拠であって、その在任期間を確定することはできず、誰が太子の時であったかさえも、より正確な判断を下せなかった。現在は釈道世が「左衛長史兼弘文館学士陽尚善」と称したことと結びつけて、特に墓誌に述べられている楊上の履歴が、楊上と楊上善はたしかに同一人物であることを証明するに十分なだけでなく、その職務経歴をかなりはっきりと考証できる。

 楊上が朝廷に出仕していた20年間の太子は、『旧唐書』巻86『高宗諸子伝』によれば、二人いる。すなわち高宗の第5子李弘は、顕慶元年に皇太子に立てられ、上元2年(675年)に薨じた。第6子の李賢は、上元2年6月に皇太子に立てられ、調露2年(680年)に廃された。墓誌に書かれた楊上の経歴は、李弘とは何の関係もなく、章懐太子李賢の伝記とは相互に裏付けができる。伝に次のようにある。李賢は「龍朔元年 沛王に徙封され,揚州都督を加え,左武衛大將軍を兼ね,雍州牧は故(もと)の如し。二年,揚州大都督を加う。麟德二年(665年),右衛大將軍を加う」。『旧唐書』高宗紀は「左武衛」を「左武侯」に作る。先に引用した李賢の墓誌は「右衛」を「左衛」に作る。楊上の墓誌の記載には、「沛王文学に除せられ、左威衛長史に遷る」とあり、道世はまた楊上善は左衛長史であったという。当時彼は70歳を過ぎていて、王府で文学の職を務めるのはもちろん適職だとしても、なぜ幕府の武官に職を変えられたのかという不可解な問題がもともとあった。李賢の墓誌と伝記を調べていて、突然気づいた。「左威衛」は実は「左武衛」の誤りであり、李賢が任じられた「右衛大将軍」は「左衛大将軍」の誤りとすべきである。楊上は沛王文学に除せられた後、ずっと李賢王府の職にあり、その官名は李賢の加官に従って変遷した。つまり龍朔元年に沛王文学に除せられ、同年に左武衛長史に転じ、麟徳2年に左衛長史に転じた。太子文学に遷ったのは、李弘が太子であった時は不可能であるので、かならず上元2年〔675〕6月に李賢が太子になった後である。楊氏がその後の5年間のうちに2度官を遷っているから、平均すると太子文学の任期は約2年と推算されるので、彼が『太素』に注を施したのは暫定的にこの年とすることができる。


2022年7月12日火曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 06

  (6)楊上が左威衛長史に遷ったことは、楊上善と同一人物である最も有力な証拠の一つとすることができる。唐の釈道世『法苑珠林』巻100に、「『六道論』十巻、皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善撰」とある。古代の楊姓はよく「陽」と書かれる。最も有名な例は戦国初期の道家の人物、楊朱があげられ、陽朱あるいは陽居と書かれる。「尚」と「上」は、音も意味も同じで、人名ではよく混用される。また唐初の李師政『法門名義集』は、「六道とは、地獄道・畜生道・餓鬼道・阿修羅道・人道・天道、是れを六道衆生と為(い)い、亦た六趣と名づく」という。これは、陽尚善『六道論』10巻が、新旧の『唐書』の志に著録されている楊上善『六趣論』10巻であるとするのに十分な証拠である。国家図書館所蔵稿本『新唐書芸文志注』(撰者名なし、晩清の繆荃孫の注か)の巻3は引用する際、注をつけることなく〔楊上善を〕楊尚善に改めている。残念ながら、近現代の楊氏の生涯を考証した論文は、みなこの資料に気づかなかった。ここで最も重視すべきことは、道世が「皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善」と呼んでいるのに対し、墓誌に載せられた楊上は解褐〔出仕〕して弘文館学士に除せられ、左威衛長史に遷ったことであり、同一人物であることは間違いない。左衛長史と左威衛長史の職掌は近く、沛王文学と同じ従六品上階であり、所属する衛名がやや異なるにすぎない。唐代の官制によれば、楊上は沛王文学から左威衛長史となり、まもなく左衛長史となったはずである。道世は陽尚善が左衛長史に在任していた時に弘文館学士を兼ねていたという〔皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善〕。その官階を見ると、墓誌と同じく直学士とすべきであるので、およそ唐代の人は美称として「直」字を省いていたのである。これは、表面上墓誌が解褐して弘文館学士に除せられたというのと完全には一致しないが、唐代の官制にもとづけば、この矛盾は十分に説明できる。弘文館はもともと兼任すべき官であり、楊上は沛王文学に除せられた後も、当然そのまま兼任することができる。『法苑珠林』は、唐の高宗の総章元年(668年)3月に成書しているので、楊上が沛王文学、左威衛長史、左衛長史に任ぜられたのはすべて龍朔から総章〔661~668〕までの7年間で、その間、楊上の官階は昇進していないことの証拠とするに十分である。したがって墓誌にいう「累遷〔累(かさ)ねて遷る〕」は、以下の諸職を指して言っているはずであり、沛王文学から左威衛長史に「累遷〔昇進〕」したのではなく、職務はかわったが、左威衛長史、左衛長史に着任しているあいだ、ずっと弘文館直学士を兼任していたのである。


2022年7月11日月曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 05

 (5)楊上が沛王文学に除せられたことは、その官職の履歴を考証するための基本的な時間座標を提供するし、楊上善が太子文学の任にあったことを考証するのにも新たな証拠を提供する。『大唐故雍王贈章懷太子墓誌銘並序』には、李賢が「龍朔元年〔661〕に沛王に徙封され」、「咸亨二年〔671〕に雍王に徙封された」という記載がある〔1〕。『旧唐書』高宗紀によれば、雍王に徙封されたのは、咸亨3年9月である。ということは、楊上が沛王文学に除せられたのは、龍朔元年から咸亨3年の間(661~673年)〔2〕に限られる。彼の以後の履歴を参考にすると、沛王文学に除せられたのは龍朔の初めである可能性が極めて高い。それ以前には、弘文館直学士として仕え、例によれば兼職して、それ自体には定まった品〔官制中の階級〕はなかった。沛王文学に除せらたことにより官品〔官の分類と階級〕が定まったので、直学士になってからそれほど時間はたっていない。したがって召されて出仕したのは、顕慶(656~660)〔3〕の末年にあたり、その時はすでに70歳を過ぎていたのではないか。楊上は、これ以前の生涯の大半を隠居して道を修め学問に専念していたのに、晩年にいたって召されて出仕したのは朝命には逆らえなかったためであり、盧蔵用の「終南捷径」とは大いに趣を異にする。「賁帛遐徵,丘壑不足自令〔賁帛(帝王が下賜した束帛)もて遐(はる)かに徵し、丘壑(山と谷。隠居)自ら令するに足らず〕」というのは、決して単なる美辞麗句ではない。楊上善には沛王文学に任ぜられた記載はないが、太子文学の職務はこれと関係がある。詳しくは以下の(7)を参照。


    [3]苏盈·唐章怀太子墓志铭文[J].陕西档案,1994,(3):43.

    〔1〕徙封:百度百科:指古代有爵位者,從原封地改封為其他地區。

    〔2〕咸亨3年は、672年。

    〔3〕顕慶は6年まである。顕慶6年(661)は、龍朔元年でもある。