前半・・・陰陽バランスの崩れ(「神」→「鬼神」…易からきた概念)→精神活動に影響
後半・・・五臓との関連。しかし冠にある五臓は無視したい。
わからん!
・怵惕思慮は「怵惕と思慮」?「怵惕を思慮」?
・動中?
発見
・「天之在我者.徳也.地之在我者.氣也.」の「之」は「ゆく」。天に向かって風のように流れるのが「德」、地に向かって薄まるのが「気」
・「心」(こころ)は物を処置する所で、心で思ったものが「意」。「意」を保ち続けること、またはその高さによるものが「志」。その志が変わってしまったことで考えることが「思」。その思を一歩下がって検討することが「慮」。その慮の是非を決断するのが「智」である。
・仏教の流れをくんでいる?
「之」字を主語と謂語の間に用いて,主謂結構を名詞性の偏正結構に変化させ,句子の主語に充てたものではないか。つまり,単純に「天がわたしを存在させているもとは德であり,地がわたしを存在させているもとは気である」。さらにくだいていえば,天は無形のパワーとして,地は(微細ながら)有形の物質として,命が生れる根源である。
返信削除コメントありがとうございます。
返信削除単純に考えられなくなっている私には「慮」が足りないのかも知れません。
「薄」というのは微細という解釈でいいのでしょうか?
あと「動中」がイメージできません……中には「被害を受ける(中傷)」があり、動には「心揺さぶる」の意があることから「悲哀によって中傷に心を揺さぶられやすくなる」→うつ症状のように感情も表に出ないほど疲れ果ててしまうため「竭絶而失生」なのか?
はたまた悲哀に対する空元気のようなもので、感情をすり減らしすぎて「竭絶而失生」なのか?
精神について考えさせられる本神篇は、神を傷つけない程度に追求していきたいものです。
「徳流気薄而生者也」の「薄」は,迫に通じて「せまる」。こういうのは,「徳が流れ」だから,「気薄」の薄も動詞なんだろうと,予想して字書を引くと大抵見つかる。
削除「悲哀動中」も同じような手順で,前の怵惕思慮,後の喜楽志達,愁憂気結,迷惑失理,恐懼驚蕩(後の4つは『太素』楊上善注に拠って文字を補った)と合わせ考えると手がかりを得られるのでは。
医古文という力強い武具を手に入れれば,やっぱり,とりあえず振り回してみたいものです。わたしらもそうでした。でも,結局は平凡な訓みで通れば,それがかえってマシな解釈だったりする。
「徳流れ気薄(せま)りて生ずるものなり」,「悲哀して中を動じ(こころを動揺させ)」,で結局,どういうこと?と,ここからが本当の問題で……。