2011年11月29日火曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 4 鍼蒭愈鬼 その8

死人の枕の效用について:

李時珍『本草綱目』卷三十八:死人枕席(《拾遺》)
【主治】尸疰、石蛔。又治疣目,以枕及席拭之二七遍令爛,去疣(藏器)。療自汗盜汗,死人席縁燒灰,煮汁浴身,自愈(時珍○聖惠方)。
【發明】藏器曰︰有嫗人患冷滯,積年不瘥。宋·徐嗣伯診之,曰︰此尸疰也。當以死人枕煮服之,乃愈。于是往古塚中取枕,枕已一邊腐缺。嫗服之,即瘥。張景聲十五歲,患腹脹面黃,衆藥不能治,以問嗣伯。嗣伯曰︰此石蚘爾,極難療,當取死人枕煮服之。得大蚘蟲,頭堅如石者五六升,病即瘥。沈僧翼患眼痛,又多見鬼物。嗣伯曰︰邪氣入肝,可覓死人枕煮服之,竟可埋枕于故處。如其言,又愈。王晏問曰︰三病不同,皆用死人枕而俱瘥,何也?答曰︰尸疰者,鬼氣也,伏而未起,故令人沉滯。得死人枕治之,魂氣飛越,不〔江西本「復」字あり〕附體,故尸疰可瘥。石蚘者,醫療既僻,蚘蟲轉堅,世間藥不能遣,須以鬼物驅之,然後乃散。故用死人枕煮服之。邪氣入肝,則使人眼痛而見魍魎,須邪物以鉤之,故用死人枕之氣。因不去之,故令埋於故處也。 〔時珍曰︰按謝士泰《刪繁方》︰治尸疰,或見尸,或聞哭聲者。取死人席(斬棺內餘棄路上者)一虎口(長三寸),水三升,煮一升服,立効。此即用死人枕之意也,故附之。

この【主治】によれば,飲まず,「浴身」しても良いようである。

2011年11月26日土曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 4 鍼蒭愈鬼 その7

『南史』卷三十二
常有嫗人患滯冷,積年不差。嗣伯為診之曰:「此尸注也,當取死人枕煑服之乃愈。」於是往古冢中取枕,枕已一邊腐缺,服之即差。
後秣陵人張景,年十五,腹脹面黃,眾醫不能療,以問嗣伯。嗣伯曰:「此石蚘耳,極難療。當取死人枕煑之【校勘:「取」字各本並脫,據冊府元龜八五九及通志補】。」依語煑枕,以湯投之,得大利,并蚘蟲頭堅如石,五升【校勘:「如石」下,太平御覽七二三引、太平廣記二一八並有「者」字】,病即差。
後沈僧翼患眼痛,又多見鬼物,以問嗣伯。嗣伯曰:「邪氣入肝,可覓死人枕煑服之。竟,可埋枕於故處。」如其言又愈。
王晏問之曰:「三病不同,而皆用死人枕而俱差,何也?」答曰:「尸注者,鬼氣伏而未起,故令人沉滯。得死人枕投之,魂氣飛越,不得復附體,故尸注可差。石蚘者久蚘也,醫療既僻,蚘蟲轉堅,世間藥不能遣,所以須鬼物驅之然後可散,故令煑死人枕也。夫邪氣入肝,故使眼痛而見魍魎,應須而邪物以鈎之,故用死人枕也。氣因枕去,故令埋於冢間也。」

【訓讀】
常(かつ)て嫗人の滯冷を患うもの有り,積年して差(い)えず。嗣伯為に之を診て曰く:「此れ尸注なり。當に死人の枕を取って煮て之を服すべし。乃ち愈えん。」是(ここ)に於いて古き冢の中に往き枕を取る。枕已に一邊腐り缺く。之を服せば即ち差ゆ。
後に秣陵の人張景,年十五,腹脹り面黃ばむ。眾醫 療する能わず,以て嗣伯に問う。嗣伯曰く:「此れ石蚘のみ。極めて療し難し。當に死人の枕を取って之を煮るべし。」語に依って枕を煮,湯を以て之を投ずれば,大いに利し,并びに蚘蟲の頭堅きこと石の如きを得ること,五升。病即ち差ゆ。
後に沈僧翼 眼痛を患い,又た多く鬼物を見る。以て嗣伯に問う。嗣伯曰く:「邪氣 肝に入る。死人の枕を覓(もと)めて煮て之を服す可し。竟(お)えれば,枕を故(もと)の處に埋む可し。」其の言の如くし,又た愈ゆ。
王晏 之に問いて曰く:「三病同じからず。而るに皆な死人の枕を用いて俱に差ゆるは,何ぞや?」答えて曰く:「尸注なる者は,鬼氣伏して未だ起たず。故に人をして沉滯せしむ。死人の枕を得て之を投ずれば,魂氣 飛越し,復た體に附(つ)くを得ず。故に尸注差(い)ゆ可し。石蚘なる者は久蚘なり。醫療既に僻し,蚘蟲轉(うた)た堅く,世間の藥 遣(や)る能わず。所以(ゆえ)に鬼物を須(もと)めて之を驅り,然る後に散ず可し。故に死人の枕を煮せしむるなり。夫(そ)れ邪氣 肝に入る。故に眼痛みて魍魎を見せしむ。應に邪物を須(もち)いて以て之を鈎(さぐ)るべし。故に死人の枕を用いるなり。氣 枕に因って去る。故に冢間に埋めしむるなり。」

【注釋】
○常:ここでは「嘗」の通字と解した。 ○嫗:婦女の通稱。おもに老女。 ○滯冷:おそらく冷え症。 ○積年:多年。 ○為:嫗人のために。 ○尸注:尸疰とも。九注の一つ。『諸病源候論』卷二十三 尸病諸候·尸注候に見える。曰く「尸注病者,則是五尸內之尸注,而挾外鬼邪之氣,流注身體,令人寒熱淋瀝,沈沈默默,不的知所苦,而無是不惡。或腹痛脹滿,喘急不得氣息,上衝心胸,傍攻兩脇,或磥塊踊起,或攣引腰脊,或舉身沈重,精神雜錯,恆覺惛謬〔神志昏亂する〕。每節氣改變,輒致大惡,積月累年,漸就頓滯〔疲勞が長引く〕,以至於死。死後復易〔感染する〕傍人,乃至滅門。以其尸病注易傍人,故為尸注。」早島正雄譯本では,腸チフス、食中毒、ブルセラ症が當てられている。『肘後備急法』卷一·治卒中五尸方第六も參照。 ○死人枕:呉崑『醫方考』卷三 五尸傳疰門第十九に,「死人枕(即死人腦後骨也。得半朽者良。用畢置之原處)」とある。李時珍は『本草綱目』卷三十八に「死人枕席」という項目を立てているので,「まくら」と解したのであろう。どちらが正しいか,待考。 ○煑:「煮」の異体字。 ○冢:高大な墳墓。 ○秣陵:いま南京市。秦,金陵を改めて秣陵となす。漢﹑晉から南朝まで,治むるところ屢しば變革あり,隋以後廢さる。 ○張景:未詳。 ○腹脹:『靈樞』玉版、水脹などの篇にみえる。また『諸病源候論』に腹脹候あり。 ○石蚘:石蛔。他に例を見ず。下文によれば石のような硬い頭を持った蛔虫。 ○投:投藥する。 ○利:「痢」に通ず。下痢。 ○沈僧翼:未詳。 ○鬼物:鬼。幽靈。 ○王晏:齊の尚書令。 ○魂氣:靈魂。『禮記』郊特牲「魂氣歸于天。形魄歸于地。」 ○不得復附體:二度とはもとの體にはよりつけない。 ○久蚘:未詳。 ○僻:正しくない。 ○轉:副詞「ますます」。あるいは,動詞「變轉する」か。 ○世間:世上の。 ○遣:驅逐、排除する。 ○鬼物:幽靈などにかかわる物か。 ○魍魎:人を害する鬼怪の總稱。魑魅魍魎。 ○應須而邪物以鈎之:『太平廣記』に「而」字なし。いま從う。 鈎:引き出す。鈎(かぎ)に引っかけて取る。 ○氣:邪氣。 ○因:憑藉、依據する。

2011年11月23日水曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 4 鍼蒭愈鬼 その6

『南史』卷三十二
嗣伯字叔紹〔『太平廣記』卷二百十八は「德紹」〕,亦有孝行,善清言,位正員郎,諸府佐,彌為臨川王映所重。時直閤將軍房伯玉服五石散十許劑,無益,更患冷,夏日常複衣。 嗣伯為診之,曰:「卿伏熱,應須以水 發之,非冬月不可。」至十一月,冰雪大盛,令二人夾捉伯玉,解衣坐石,取冷水從頭澆之,盡二十斛。伯玉口噤氣絕,家人啼哭請止。 嗣伯遣人執杖防閤,敢有諫者撾之。又盡水百斛,伯玉始能動,而見背上彭彭有氣。俄而起坐,曰:「熱不可忍,乞冷飲。」 嗣伯以水與之,一飲一升,病都差。自爾恒發熱,冬月猶單褌衫,體更肥壯。

【訓讀】
嗣伯 字は叔紹〔『太平廣記』卷二百十八は「德紹」〕,亦た孝行有り,清言を善くし,位は正員郎,諸府佐,彌(いよ)いよ臨川王映の重んずる所と為る。時に直閤將軍の房伯玉 五石散を服すること十許(ばか)りの劑,益無く,更に冷を患い,夏日も常に複衣す。嗣伯為に之を診て,曰く:「卿が伏熱,應に須(すべから)く水を以て之を發すべし。冬の月に非ざれば不可なり。」十一月に至り,冰雪大いに盛ん,二人をして夾(はさ)んで伯玉を捉え,衣を解いて石に坐せしめ,冷水を取って頭從り之に澆(そそ)ぎ,盡くすこと二十斛。伯玉 口噤して氣絕し,家人啼哭して止むを請う。 嗣伯 人を遣(つか)わし杖を執って閤を防ぎ,敢えて諫むる者有らば之を撾(むち)うつ。又た水を盡くすこと百斛,伯玉始めて能く動き,而して背上に彭彭として氣有るを見る。俄かにして起坐して,曰く:「熱 忍ぶ可からず,冷飲を乞う。」嗣伯 水を以て之に與え,一たび飲むこと一升,病都(すべ)て差(い)ゆ。爾(これ)自り恒に發熱し,冬月も猶お單褌衫にして,體更に肥壯す。

【注釋】
○孝行:父母を敬い順い養う德行。 ○清言:高雅な言論。特に魏晉時代の何晏 、王衍などの玄理(深遠奧妙な道理/魏晉の玄學が推崇する道理)に對する研討と談論。 ○正員郎:漢代の散騎侍郎の別稱。魏晉南北朝時代の散騎侍郎,員外散騎侍郎に相對して言う。 ○諸府佐:高級官僚,特に知府の補佐官を府佐という。「諸」は,いくつかの補佐官となったことをいうか。 ○臨川王映:齊の太祖高帝(蕭道成,字は紹伯)の第三子,映。字は宣光。 ○直閤將軍:直閣將軍ともいう。直閤は南北朝にあって內室守衛の武士。兵宿衛宮殿を掌領す。北齊の左右衛に直閤あり,その屬官に直閤將軍あり。 ○房伯玉:南陽之戰(北魏太和二十一年〔齊建武四年,497年〕から翌年の,北魏軍が南朝齊の宛城〔今河南南陽〕に進攻して勝利をおさめた戰さ)に,宛城の太守としてその名がみえる。同一人物か。 ○五石散:古代の養生方劑名。この方を服用後は發熱し,冷たいものを好むため,「寒食散」とも稱される。礦物を原料としてつくられる內服散劑の一種。その組成法は『抱朴子』『諸病源候論』など,各書により同じからず。この方は漢代に始まり,魏晉時,道流名士が長生を求めて,多くこの散を服食して,流行した。その養生に對する效用は認めがたく,健康を害すること顯著であった。隋唐以後,ようやく落ち着いた。 ○複衣:衣服のうちに更に綿服を着る。 ○卿:同輩に對する敬稱。 ○伏熱:ひろく熱邪が體內に潛伏して病むことを指す。 ○斛:約20リットル。 ○口噤:口をくいしばる。 ○啼哭:號泣する。 ○閤:大門のわきの小門。くぐり戶。 ○撾:鞭打﹑敲擊する。 ○彭彭:盛んなさま。 ○氣:湯氣。蒸氣。熱氣。 ○冷飲:清涼飲料水。 ○單:衣物のひとえ。「單衣」、「單褲」の如し。 ○褌:ふんどし。 ○衫:衣服の通稱。また單衣。

2011年11月20日日曜日

王洪图先生

先日,オリエント出版社の野瀬社長と話して,王洪圖教授が亡くなっていたことを知りました。
http://baike.baidu.com/view/763959.htm

現在,先生の《黄帝内经》简介が視聴できます。
http://video.sina.com.cn/v/b/65338328-2512531682.html#8519288

2011年11月16日水曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 4 鍼蒭愈鬼 その5

『南史』卷五十七 列傳第四十七/范雲傳:
武帝九錫之出,雲忽中疾,居二日半,召醫徐文伯視之。文伯曰:「緩之一月乃復,欲速即時愈,政恐二年不復可救。」雲曰:「朝聞夕死,而況二年。」 文伯乃下火而壯焉,【校勘:文伯乃下火而壯焉。「壯」各本作「牀」,據太平御覽七二三、七三八引改。按針灸以艾柱為壯。】重衣以覆之。有頃,汗流於背即起。【校勘:汗流於背即起。「背」各本作「此」。按「此」為「背」之爛文,太平御覽七三八引作「背」,今據改。】二年果卒。

【訓讀】
武帝九錫の出,雲忽ち疾に中(あ)たり,居ること二日半,醫の徐文伯を召して之を視しむ。文伯曰く:「之を緩にすれば一月にして乃ち復し,速くせんことを欲すれば即時に愈さん。政(た)だ恐らくは二年にして復た救う可からず。」雲曰く:「朝(あした)に聞かば夕べに死す,と。而して況んや二年をや。」 文伯乃ち火を下して壯し,衣を重ねて以て之を覆う。頃(ころ)有り,汗 背に流れて即ち起つ。二年にして果して卒す。

【注釋】
○武帝:梁の蕭衍。464年~549年。 ○九錫之出:天子が大臣を厚遇して下賜した車馬、衣服、樂器、朱戶、納陛、虎賁、弓矢﹑鈇鉞﹑秬鬯の九種類の品を九錫という。王莽が漢王朝の政権を簒奪する際,まず九錫をもとめた故事から,魏晉六朝の大臣が政權を奪取するときに九錫文を皇帝から賜り,帝位をゆずりうける前觸れとした。/武帝が即位してから。 ○雲:451年~503年。范雲。字は彦龍。沈約らとともに蕭衍をたすけた。 ○中疾:病む。 ○居:經過する。 ○緩:ゆるやかに治療する。 ○復:恢復する。 ○不復:二度とは~しない。 ○朝聞夕死:『論語』里仁:「子曰:朝聞道,夕死可矣。」 ○下火而壯焉:校勘記事に從い,「壯」を灸をすえる,と解した。「火をさかんに燃やして」の意味かも知れない。 ○有頃:やがて。久しからずして。 ○卒:死亡する。

以上で,徐文伯を終える。

2011年11月14日月曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 4 鍼蒭愈鬼 その4

『南史』卷三十二
宋明帝宮人患腰痛牽心,每至輒氣欲絕,眾醫以為肉癥。文伯曰:「此髮癥。」以油投之,即吐得物如髮。稍引之長三尺,頭已成蛇能動,挂門上適 盡一髮而已,病都差。

『南史』卷三十二
宋後廢帝出樂遊苑門,逢一婦人有娠,帝亦善診,診之曰:「此腹是女也。」問文伯,曰:「腹有兩子,一男一女,男左邊,青黑,形小於女。」帝性急,便欲使 剖。文伯惻然曰:「若刀斧恐其變異,請針之立落。」便寫足太陰,補手陽明,胎便應針而落。兩兒相續出,如其言。

『太平廣記』卷二百十八
徐文伯
宋徐文伯嘗與宋少帝出樂遊苑門,逢婦人有娠。帝亦善診候,診之曰:「是女也。」問文伯,伯曰:「一男一女,男在左邊,青黒色,形小於女。」帝性急,令剖之。文伯惻然曰:「臣請針之,必落。」便針足太隂,補手陽明,胎應針而落,果效如言。文伯有學行,不屈公卿,不以醫自業,為張融所善,歷位泰山太守。文伯祖熈之好黄老,隱於秦望山,有道士過乞飲,留一胡蘆子,曰:「君子孫宜以此道術救世,當得二千石。」熈開視之,乃扁鵲『醫經』一卷,因精學之,遂名振海内,仕至濮陽太守。子秋夫為射陽令。嘗有鬼呻吟,聲甚淒苦。秋夫問曰:「汝是鬼也,何所須?」鬼曰:「我姓斛斯,家在東陽,患腰痛而死。雖為鬼,疼痛猶不可忍。聞君善術,願見救濟。」秋夫曰:「汝是鬼,無形,云何措治?」鬼曰:「君但縳芻作人,按孔穴針之。」秋夫如其言,為針四處,又針肩井三處,設祭而埋之。明日,見一人來謝曰:「蒙君療疾,復為設祭。除飢解疾,感惠實多。」忽然不見。當代服其通靈。(出『談藪』)
又宋明帝宫人患腰疼牽心,發即氣絶,衆醫以為肉癥。徐文伯曰:「此髮瘕也。」以油灌之,則吐物如髮。稍稍引之,長三尺,頭已成蛇,能動。懸柱上,水滴盡,一髮而已。病即愈。(出『談藪』)

【訓讀】
宋の徐文伯嘗て宋の少帝と樂遊苑の門を出でて,婦人の娠有るものに逢う。帝も亦た診候を善くす。之を診て曰く:「是れ女なり。」文伯に問う。伯曰く:「一男一女あり。男は左邊に在り,青黒き色,形 女より小さし。」帝が性急にして,之を剖(さ)かせんとす。文伯惻然として曰く:「〔『南史』卷三十二「若刀斧恐其變異/若し刀斧すれば其の變異を恐る。」〕臣請う,之に針して,必ず落さん。」便ち足太隂に針して,手陽明を補えば,胎 針に應じて落ち,果して效【『南史』作「兩兒相續出/兩兒相い續きて出で」】 〔徐文伯の〕言の如し。【中略】
又た宋の明帝の宫人 腰疼を患い心に牽(ひ)き,發すれば即ち氣絶す。衆醫以て肉癥と為す。徐文伯曰く:「此れ髮瘕なり。」油を以て之に灌げば,則ち物を吐くこと髮の如し。稍稍(少しずつ)之を引けば,長さ三尺,頭已に蛇と成り,能く動く。柱上に懸くるに,水滴盡き,一髮のみ。病即ち愈ゆ。(『談藪』に出づ)

【補説】
『談藪』は,北齊 陽(一作「楊」)松玠撰。徐熈が道士から頂戴したのは,「扁鵲鏡經」ではなく,「扁鵲醫經」。腰目は,奇穴の腰眼と同じであろう。最後の話は,華佗傳の話と通ずるところがある。
『三國志』魏書 方技傳第二十九/華佗 
佗行道,見一人病咽塞,嗜食而不得下,家人車載欲往就醫。佗聞其呻吟,駐車往視,語之曰:「向來道邊有賣餅家蒜韲大酢,從取三升飲之,病自當去。」即如佗言,立吐虵一枚,縣車邊,欲造佗。佗尚未還,小兒戲門前,逆見,自相謂曰:「似逢我公,車邊病是也。」 疾者前入坐,見佗北壁縣此虵輩約以十數。
廣陵太守陳登得病,胸中煩懣,面赤不食。佗脈之曰:「府君胃中有蟲數升,欲成內疽,食腥物所為也。」即作湯二升,先服一升,斯須盡服之。食頃,吐出三升許蟲,赤頭皆動,半身是生魚膾也,所苦便愈。佗曰:「此病後三期當發,遇良醫乃可濟救。」依期果發動,時佗不在,如言而死。

『鍼灸聚英』卷四(鍼灸醫學典籍大系所收本では卷八) 雜病十一穴歌の次の(内容は『神應經』腧穴證治歌である)手足腰腋女人:「難産合谷補無失,再瀉一穴三陰交。」
また卷一(鍼灸醫學典籍大系所收本では卷二)脾經太陰穴:三陰交
按,宋太子出苑,逢姙婦,診曰:「女。」徐文伯曰:「一男一女。」太子性急欲視。文伯瀉三陰交,補合谷,胎應鍼而下。果如文伯之診。後世遂以三陰交、合谷,為姙婦禁鍼。然文伯瀉三陰交,補合谷而墮胎。今獨不可補三陰交、瀉合谷而安胎乎?蓋三陰交,腎、肝、脾三脉之交會,主陰血,血當補不當瀉。合谷為大腸之原,大腸為肺之府,主氣,當瀉不當補。文伯瀉三陰交以補合谷,是血衰氣旺也。今補三陰交瀉合谷,是血旺氣衰矣。故劉元賓亦曰:「血衰氣王定無姙,血王氣衰應有體。」

2011年11月12日土曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 4 鍼蒭愈鬼 その3

『南史』卷三十二
宋孝武路太后病,眾醫不識。文伯診之曰:「此石博小腸耳。」乃為水劑消石湯,病即愈。除鄱陽王常侍,遺以千金,旬日恩意隆重。

【訓讀】
宋の孝武路太后病む。眾醫識(し)らず。文伯之を診て曰く:「此れ石博小腸のみ。」乃ち水劑消石湯を為(つく)り,病 即ち愈ゆ。鄱陽王常侍に除せられ,遺(おく)るに千金を以てす。旬日に恩意 隆重す。

【注釋】
○宋孝武路太后:『南史』列傳第一/后妃上/宋/孝武昭路太后:「孝武昭路太后諱惠男,丹陽建康人也。以色貌選入後宮,生孝武帝,拜為淑媛。及年長,無寵,常隨孝武出蕃。孝武即位,有司奏奉尊號曰太后,宮曰崇憲。太后居顯陽殿,上於閨房之內禮敬甚寡,有所御幸,或留止太后房內,故人間咸有醜聲。宮掖事祕,亦莫能辨也。」http://baike.baidu.com/view/4436527.htm ○石博小腸:未詳。「博」は「搏」の誤りで,「石 小腸を搏(う)つ」か。小腸結石のようなものか。 ○水劑消石湯:『備急千金要方』卷四,『聖濟總錄』卷百八十四、卷百四十四、卷九十五に「消石湯」が見えるという。 ○除:舊い官職を免じて,新しい官職に任命する。 ○鄱陽王:劉休業か。 ○常侍:中常侍または散騎常侍の略稱。秦は散騎と中常侍を置く。三國魏の時にいたり,兩者を合して一と為し,「散騎常侍」と稱す。皇帝の左右に侍從し,過失を規諫す。 ○旬日:十日。 ○恩意:(皇帝などの)情意,恩情。 ○隆重:盛大。深く厚い。重視される。地位が高くなる。

2011年11月10日木曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 4 鍼蒭愈鬼 その2

徐熙の末裔については,徐之才など,正史にさらに多くの名前が見えますが,徐秋夫から離れてしまうので,徐文伯と徐嗣伯までで止めておきます。(徐之才に關しては,岩本篤志先生の研究などを參照。
http://www.asahi-net.or.jp/~yw5a-iwmt/contents/china.htm)

『南史』卷三十二
秋夫生道度、叔嚮,皆能精其業。道度有腳疾不能行,宋文帝令乘小輿入殿,為諸皇子 療疾,無不絕驗。位蘭陵太守。宋文帝云:「天下有五絕,而皆出錢唐。」謂杜道鞠彈棊,范悅詩,褚欣遠模書,褚胤圍棊,徐道度療疾也。

【訓讀】
秋夫 道度と叔嚮を生み,皆な能く其の業に精(くわ)し。道度に腳疾有り,行(ある)くこと能わず。宋の文帝 小輿に乘って殿に入り,諸皇子の為に疾を療せしむ。絕えて驗あらざること無し。蘭陵の太守に位す。宋文帝云う:「天下に五絕有り,而も皆な錢唐に出づ。」杜道鞠の彈棊,范悅の詩,褚欣遠の模書,褚胤の圍棊,徐道度の療疾を謂うなり。

【注釋】
○杜道鞠:『南齊書』卷五十四 列傳第三十五:「杜京產字景齊,吳郡錢唐人。杜子恭玄孫也。祖運,為劉毅衛軍參軍,父道鞠,州從事,善彈棊,世傳五斗米道,至京產及子栖。」 ○彈棊:昔の對局ゲーム。盤上に棋を並べて相手の棋を先にみな落とした方が勝ちとなる。 ○范悅:『宋書』卷二十九 志第十九/符瑞下/木連理:「大明三年九月甲午,木連理生丹陽秣陵,材官將軍范悅時以聞。」 ○褚欣遠: ○模書:書法。 ○褚胤:一作褚允,又作褚引。南朝宋文帝時期圍棋國手。錢塘(今浙江杭州)人。棋藝為當時第一人。七歲圍棋入高品,及長,冠絕當時。因政治牽連判處死刑,尚書憐惜其棋才出面為他求情。盡管棋藝生涯遭遇夭折,但“褚胤懸炮”的棋藝獨創載入了《敦煌棋經》。http://baike.baidu.com/view/2169214.htm ○圍棊:圍碁。

『南史』卷三十二
道度生文伯、叔嚮生嗣伯〔校勘記事:「嗣伯」南齊書褚澄傳作「嗣」〕。文伯亦精其業,兼有學行,倜儻不屈意於公卿,不以醫自業。融謂文伯、嗣伯曰:「昔王微、嵇叔夜並學而不能,殷仲堪之徒故所不論。得之者由神明洞徹,然後可至,故非吾徒所及。且褚侍中澄富貴亦能救人疾,卿此更成不達。」答曰:「唯達者知此可崇,不達者多以為深累,既鄙之何能不恥之。」文伯為効與嗣伯相埒。

【訓讀】
道度 文伯を生み、叔嚮 嗣伯を生む。文伯も亦た其の業に精しく、兼ねて學行有り,倜儻にして意を公卿に屈せず,醫を以て自ら業とせず。融 文伯と嗣伯に謂いて曰く:「昔王微、嵇叔夜並(とも)に學びて能わず,殷仲堪の徒の故(ことさら)に論ぜざる所,之を得る者は神明洞徹に由り,然る後に至る可し。故に吾が徒の及ぶ所に非ず。且つ褚侍中澄 富貴なるも亦た能く人の疾を救う。卿 此れ更に達せざるを成す。」答えて曰く:「唯だ達する者は此の崇(たっと)ぶ可きを知り,達せざる者は多く以て深き累(わざら)いと為し,既に之を鄙(いやし)むるは何ぞ能く之を恥とせざらん。」文伯の効を為すこと嗣伯と相い埒(ひと)し。

【注釋】
○無不:すべて。 ○絕驗:卓絕した效驗。非常にすばらしい效きめ。 ○倜儻:卓越豪邁,灑脫にして束縛されない。 ○屈意:自分の意思をまげない。 ○王微:王微(415~443)字景玄,弘弟光祿大夫王孺之子也。少好學,善屬文,工書,兼解音律及醫方卜筮陰陽數術之事。http://baike.baidu.com/view/47732.htm ○嵇叔夜:嵇康(224-263,一說223-262),字叔夜,漢族,譙國铚縣(今安徽宿州西南)人。嵇康在正始末年與阮籍等竹林名士共倡玄學新風,主張“越名教而任自然”、“審貴賤而通物情”(《釋私論》),成為“竹林七賢”的精神領袖之一。http://baike.baidu.com/view/3996.html 『養生論』を撰す。 ○殷仲堪:殷仲堪[公元?年至399年]字不詳,陳郡人,殷融之孫。生年不詳,卒於晉安帝隆安三年。撰有《殷荊州要方》,已佚。http://baike.baidu.com/view/227701.htm ○神明:ひとの精神と智慧。 ○洞徹:透澈。 ○褚侍中澄:褚澄(公元五世紀)字彥道,陽翟(今河南禹縣)人。於南齊建元(479~480)中拜為吳郡太守,後官至左中尚書。http://baike.baidu.com/view/436988.htm 『南齊書』卷二十三:「澄 字彥道。初,湛之尚始安公主,薨,納側室郭氏,生淵,後尚吳郡公主,生澄。淵事主孝謹,主愛之,湛之亡,主表淵為嫡。澄尚宋文帝女廬江公主,拜駙馬都尉。歷官清顯。善醫術,建元中,為吳郡太守,豫章王感疾,太祖召澄為治,立愈。尋遷左民尚書。淵薨,澄以錢萬一千,就招提寺贖太祖所賜淵白貂坐褥,壞作裘及纓,又贖淵介幘犀導及淵常所乘黃牛,永明元年,為御史中丞袁彖所奏,免官禁錮,見原。遷侍中,領右軍將軍,以勤謹見知。其年卒。澄 女為東昏皇后。永元元年,追贈金紫光祿大夫。」『褚氏遺書』という本があるが,褚澄の撰か疑わしい。

2011年11月9日水曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 4 鍼蒭愈鬼 その1

徐熙、字秋夫、不知何郡人。時爲射陽少令、善醫方、名聞海内、常夜聞有鬼呻吟聲甚淒苦。秋夫曰、汝是鬼、何所須、答曰、我姓斛、名斯、家在東陽、患腰痛死、雖爲鬼、而疼痛不可忍、聞君善術、願相救濟、秋夫曰、汝是鬼而無形、云何厝治、鬼曰、君但縛蒭爲人、索孔穴鍼之、秋夫如其言、爲鍼腰四處、又鍼肩井三處、設祭而埋之、明日一人來謝曰、蒙君醫療、復爲設祭、病除饑解、感惠實深、忽然不見、當代稱其通靈、長子道度、次子叔嚮、皆精其術焉、(唐史)

關聯史料
『南史』卷三十二 列傳第二十二
(張)融與東海徐文伯兄弟厚。文伯字德秀,濮陽太守熙曾孫也。熙好黃老,隱於秦望山,有道士過求飲,留一瓠𤬛與之,曰:「君子孫宜以道術救世,當得二千石。」熙開之,乃『扁鵲鏡經』一卷,因精心學之,遂名震海內。生子秋夫,彌工其術,仕至射陽令。嘗夜有鬼呻吟,聲甚悽愴,秋夫問何須,答言姓某,家在東陽,患腰痛死。雖為鬼痛猶難忍,請療之。秋夫曰:「云何厝法?」鬼請為芻人,案孔穴針之。秋夫如言,為灸四處,又針肩井三處,設祭埋之。明日見一人謝恩,忽然不見。當世伏其通靈。

【訓讀】
(張)融 東海の徐文伯の兄弟と厚し。文伯 字は德秀,濮陽太守熙の曾孫なり。熙 黃、老を好み,秦望山に隱る。道士有り過(よぎ)りて飲を求め,〔そのお禮に〕一瓠𤬛を留めて之を與(あた)う。曰く:「君が子孫宜しく道術を以て世を救べし。當に二千石を得べし。」熙 之を開けば,乃ち『扁鵲鏡經』一卷あり。因って心を精にして之を學び,遂に名 海內を震(ゆるが)す。子の秋夫を生む。彌(いよ)いよ其の術工(たく)みにして,仕えて射陽の令に至る。嘗て夜に鬼の呻吟する有り。聲 甚だ悽愴なり。秋夫何をか須(もと)むるを問う。答えて言う:「姓は某,家は東陽に在り,腰痛を患って死す。鬼と為ると雖も痛み猶お忍び難し。請う,之を療せよ。」秋夫曰い:「云何(いか)に法を厝せん?」鬼 芻人を為(つく)り,孔穴を案じて之に針するを請う。秋夫 言の如くし,〔鬼の〕為に灸すること四處,又た肩井に針すること三處,祭を設けて之を埋む。明日,一人の恩を謝するを見る。忽然として見えず。當世 其の通靈に伏す。

【注釋】
○張融:http://baike.baidu.com/view/139102.htm。張融(444~497)中國南朝齊文學家、書法家。字思光,一名少子。吳郡(今江蘇蘇州)人。 ○東海徐文伯:http://www.hudong.com/wiki/%E5%BE%90%E6%96%87%E4%BC%AF。南北朝時北齊醫家。字德秀。祖籍東莞姑幕(今山東諸城),寄籍丹陽(今江蘇南京)。父有醫名,少承家傳,醫道日精。主要作品有《徐文伯藥方》三卷,及《徐文伯療婦人瘕》一卷等。 ○兄弟厚:文伯の兄弟の話は出てこないが,文伯とイトコ(從兄弟·堂兄弟)の嗣伯と,張融は厚誼があった(仲が良かった),ということであろう。王鳴盛『十七史商榷』卷六十一 南史附傳皆非に「徐文伯嗣伯兄弟世精醫術」とあるのに從った。 ○濮陽:河南省東北部。 ○太守:長官。 ○曾孫:ひまご。 ○黃老:黃帝と老子を創始者とする前漢代に流行した政治哲学思想を黃老思想という。 ○秦望山:いま刻石山。會稽山脈の名山,秦の始皇帝が石に刻んだという傳説あり。 ○瓠𤬛:胡盧。ひょうたん。ひょうたんで作った水や酒を蓄える器。 ○二千石:太守の暗示。 ○扁鵲鏡經:他見せず。『太平廣記』卷二百十八は「扁鵲醫經」につくる。  ○精心:專心。精神を集中して。誠心。誠實に。 ○名:名聲。 ○海內:天下。 ○生子秋夫:『醫説』では,秋夫は熙の字。 ○射陽:一名謝陽。いま河南省南陽縣の東南にあり。 ○令:官名。ある政府機構の長官。 ○鬼:人の死後の靈魂。幽靈。 ○呻吟:病痛やかなしみにより發する聲。 ○悽愴:悽涼悲傷。 ○東陽:山東、河南、浙江など各地に同名の場所あり。 ○云何:「如何」と同じ。どのように。 ○厝:「措」に通ず。措置する。 ○芻人:藁人形。 ○案:「按」に通ず。しらべる,依る。 ○孔穴:いわゆるツボ。 ○為灸四處,又針肩井三處:『普濟方』卷四百九・流注指微鍼賦は「為鍼腰腧二穴肩井二穴」につくる。施灸しなかったのは,藁人形が燃えては困るから,とは某學生の解説。 ○設祭:祭壇を設けて,食料や紙錢などの供物をそなえる。 ○明日:翌日。 ○謝恩:恩賞に感謝する。 ○忽然:突然。猝然。 ○當世:今世﹑當代(のひと)。 ○伏:「服」に通ず。平伏する。信服する。 ○通靈:神靈や鬼神と相い通ずる。 

『普濟方』卷四百九 流注指微鍼賦:「秋夫療鬼而馘效魂免傷悲。」注「昔宋徐熈字秋夫,善醫方,方為丹陽令,常聞鬼神吟呻,甚悽若。秋夫曰:汝是鬼,何須如此。答曰:我患腰痛死。雖為鬼,痛苦尚不可忍。聞君善醫,願相救濟。秋夫曰:吾聞鬼無形,何由措置。鬼云:縳草作人,予依入之。但取孔穴鍼之。秋夫如其言,為鍼腰腧二穴肩井二穴,設祭而埋之。明日見一人來,謝曰:蒙君醫療,復為設祭。病今已愈,感惠實深。忽然不見。公曰:夫鬼為陰物,病由告醫,醫既愈矣。尚能感激况於人乎。鬼姓斛,名斯。」

『鍼灸聚英』卷八に「宋徐秋夫療鬼病十三穴歌」あり。
曰く「人中神庭風府始,舌縫承漿頰車次,少商大陵間使連,乳中陽陵泉有據,隱白行間不可差,十三穴是秋夫置。」

梁 吳均『續齊諧記』
錢塘徐秋夫善治病。宅在湖溝橋東。夜聞空中呻吟聲甚苦。秋夫起至呻吟處,問曰:「汝是鬼邪?何為如此,饑寒須衣食邪?抱病須治療邪?」鬼曰:「我是東陽人,姓斯,名僧平。昔為樂游吏,患腰痛死。今在湖北,雖為鬼,苦亦如生。為君善醫,故来相告。」秋夫曰:「但汝無形,何由治?」鬼曰:「但縛茅作人,按穴鍼之,訖棄流水中可也。」秋夫作茅人,為鍼腰目二處,并復薄祭,遣人送後湖中。及暝夢,鬼曰:「已差,并承惠食,感君厚意。」秋夫,宋元嘉六年為奉朝請。

【補説】
鬼の姓名が異なる。腰目は,奇穴の腰眼と同じであろう。

2011年11月6日日曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 3 妙鍼獺走

宋人王纂海陵人,少習經方,尤精鍼石,遠近知其盛名。宋元嘉中,縣人張方女日暮宿廣陵廟門下,夜有物,假作其壻來,女因被魅惑而病。纂爲治之,始下一鍼,有獺從女被内走出。病因而愈。(劉穎叔異苑)

關聯史料
南朝宋 劉敬叔『異苑』卷八
元嘉十八年,廣陵下市縣人張方女道香,送其夫壻北行。日暮,宿祠門下。夜有一物,假作其壻來,云:「離情難遣,不能便去。」道香俄昏惑失常。時有海陵王纂者,能療邪。疑道香被魅,請治之。始下一針,有一獺從女被內走入前港。道香疾便愈。

【訓讀】
元嘉十八年,廣陵下市縣の人,張方が女(むすめ)道香,其の夫壻を送って北のかたに行く。日暮れて,祠門の下に宿る。夜 一物有り,假して其の壻と作(な)り來たって,「離情遣(や)り難く,便ち去ること能わず」と云う。道香俄かに昏惑して常を失う。時に海陵の王纂なる者有り,能く邪を療す。道香の魅せらるるを疑い,之を治せんことを請う。始めて一針を下せば,一獺有り,女(むすめ)の被內從り走って前の港に入る。道香の疾(やまい)便ち愈ゆ。

【註釋】
○元嘉十八年:441年。 ○廣陵:いま江蘇省中部,揚州。 ○壻:婿。 ○日暮:見送って帰途に日が暮れて。 ○祠:先祖や昔の賢人を祭る場所。ほこら。廟。 ○物:物怪。もののけ。 ○假:「真」の反對。いつわる。假裝する。 ○作:假裝する。「詐」に通ず。 ○離情難遣:離別の情が紛らわせがたい。 ○去:行く。 ○昏惑:意識朦朧となる。眩暈幻惑する。 ○失常:言動や精神狀況が常軌を逸する。 ○時:當時。その時。 ○海陵:いま江蘇省泰州市。廣陵とは50kmほどの距離。 ○王纂: ○邪:奇怪な,正常と異なるもの。人事では理解不能なことがら。邪氣(邪惡不正の氣)。邪魔(妖魔)。邪神(邪惡な鬼神)。邪祟(邪靈異怪の鬼物)。邪惡。妖邪。 ○被魅:惑わされる。もののけに取り憑かれる。 ○始:……するとすぐ。/ひとたび鍼を刺入したらすぐに。 ○獺:現在,獺は三種に分類される。水獺(カワウソ),海獺(ラッコ),旱獺(マーモット)。 ○被:掛け布団。 ○走:逃走する。遁走する。にげる。 ○港:川や海の湾曲して奥まったところ,船舶が停泊できる岸。みなと。 

『太平廣記』卷第四百六十九 水族六 張方
廣陵下市廟,宋元嘉十八年,張方女道香送其夫婿北行,日暮,宿祠門下。夜有一物,假作其婿來云:「離情難遣,不能便去。」道香俄昏惑失常。時有王纂者能治邪,疑道香被魅,請治之。始下針,有一獺從女被內走入前港,道香疾便愈。(出《異苑》)

【補説】
元 王國瑞『扁鵲神應鍼灸玉龍經』註解標幽賦
「王纂鍼交兪,而妖精立出。」 
○交兪:場所未詳。肓兪とは音が異なる。 ○妖精:妖怪變化。

2011年11月4日金曜日

Chinese Text Project

http://ctext.org/library.pl?if=en

ここで検索すれば,馬玄台『素問/靈樞注證發微』,張志聡『素問集注』,高士宗『素問直解』などの画像を見ることができます。

検索の文字入力は,「黃帝內經」ではなく,「黄帝内經」でも大丈夫のようです。
『難經』関連のものも,各種あります。

なお,『素問直解』卷1-95の次は,乱丁・落丁があり,『素問』陰陽応象大論(05)の末尾から,
誤って『素問』欬論(38)の末尾となっています。
「有些頁殘」で,もともとのテキストが悪いのかも知れませんが,どなたか,訂正希望の連絡をしていただけると,ありがたいです。

2011年11月1日火曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 2 明堂 その6

上又以古經訓詁至精(57),學者封執多失(58),傳心豈如會目(59),著辭不若案形(60),復令創鑄銅人爲式(61)。內分腑臟,旁注谿谷(62)。井滎所會(63),孔穴所安,竅而達中(64),刻題于側(65)。使觀者爛然而有第(66),疑者渙然而冰釋(67)。在昔未臻(68),惟帝時憲(69),乃命侍臣爲之序引(70),名曰新鑄銅人腧穴鍼灸圖經。肇頒四方(71),景式萬代(72)。將使多瘠咸詔(73),巨刺靡差(74)。案說蠲痾(75),若對談於涪水(76);披圖洞視(77),如舊飲於上池(78)。保我黎烝(79),介乎壽考(80)。昔夏后敘六極以辨疾(81),帝炎問百藥以惠人(82)。固當讓德今辰(83),歸功聖域者矣(84)。
時天聖四年歲次析木秋八月丙申謹上(85)。

【訓讀】
上は又た以(おも)んみるに,古經訓詁至って精なるも(57),學者封執して失(あやま)り多く(58),心に傳うるは豈に目に會するに如(し)かんや(59),辭を著すは形を案ずるに若(し)かず,と(60),復た銅人を創鑄して式と爲さしむ(61)。內に腑臟を分かち,旁ら谿谷に注ぐ(62)。井滎の會する所(63),孔穴の安んずる所,竅(うが)ちて中に達し(64),題を側に刻む(65)。觀る者をして爛然として第有り(66),疑う者をして渙然として冰釋せしむ(67)。在昔(むかし)未だ臻らず(68),惟(こ)れ帝時(こ)れ憲(のつと)り(69),乃ち侍臣に命じて之が爲に序引せしめ(70),名づけて『新鑄銅人腧穴鍼灸圖經』と曰う。肇(はじ)めて四方に頒(わか)ち(71),景して萬代に式とす(72)。將に多瘠をして咸(あまね)く詔し(73),巨刺をして差(たが)うこと靡からしめんとす(74)。說を案じて痾を蠲(のぞ)けば(75),涪水に對談するが若(ごと)し(76)。圖を披(ひら)きて洞視すれば(77),舊(ひさ)しく上池に飲むが如し(78)。我が黎烝を保ち(79),壽考を介(たす)く(80)。昔夏后 六極を敘べて以て疾を辨じ(81),帝炎 百藥を問いて以て人に惠む(82)。固(もと)より當に德を今辰に讓り(83),功を聖域に歸すべき者なり(84)。
時に天聖四年歲次析木秋八月丙申謹んで上(たてまつ)る(85)。


(57)上:皇上。宋の仁宗を指す。 /原文では他の部分とは異なり,改行平出されていないのが氣がかりであるが,ひとまず從っておく。もし皇帝を指すというのが誤りであれば,「上古」の意味で,「上 又た古經訓詁至って精なるも(上古はまた古醫經の訓詁注釋がきわめて精確であったが),學者封執して失(あやま)り多く,心に傳うるは豈に目に會するに如(し)かんや,辭を著すは形を案ずるに若(し)かざるを以て」となろうか。 【譯】仁宗帝がまた思し召すには,古醫經の訓詁注釋はきわめて精確であったが,
(58)封執:拘泥する。固執する。 /封執:『莊子』齊物論「其次以為有物矣,而未始有封也(其の次は以て物有りと為す。而も未だ始めより封有らざるなり/その次の境地は,物があるとは考えるが,そこには境界を設けない)。」 唐 成玄英 疏:「初學大賢,鄰乎聖境,雖復見空有之異,而未曾封執(初めて大賢を學び,聖境に鄰す。復た空有の異を見ると雖も,而も未だ曾て封執せず)。」もとは事物の境界を言ったが,後に引伸して固執,執著の意となる。  【譯】古醫經を學ぶ者は自說に固執して誤りが多く,
(59)「傳心」句:心で傳えることは,どうして目で會(み)ることに如(し)く(匹敵する)だろうか。鍼灸取穴の奥深い內容については,口頭で傳授し心中で解釋するよりも,模型を利用して,直觀的に理解する方がまさる,という意味である。 【譯】以心傳心は,直接目睹するには及ばないし,
(60)著辭:文辭を書きあらわす。案形:圖形をしらべる。 /案:「按」に通ずる。【譯】(經穴を)文章に著すことは,圖形で勘案することに劣るので,
(61)式:モデル。模型。 /式:規格﹑樣式。 【譯】また詔して銅人を鑄造して模範標準とさせた。
(62)谿(xī吸)谷:ひろく鍼灸腧穴をいう。『素問』氣穴論:「肉之大會為谷,肉之小會為谿(肉の大會を谷と為し,肉の小會を溪と為す)。肉分之閒,谿谷之會,以行榮衞,以會大氣。」  /旁:「傍」に通ずるか。引伸して外あるいは四肢。『素問』陰陽應象大論(05)「谿谷屬骨。」『素問』氣穴論(58)「谿谷三百六十五穴會。」『素問』氣交變大論(69)「其病内舎腰脊骨髓,外在谿谷踹膝。」 【譯】內側には臟腑を配分し,外側四肢では經穴に流注する。
(63)井滎:井穴と滎穴。いずれも五腧穴に屬す。ここでは下句の「孔穴」對となり,ひろく鍼灸腧穴をいう。 【譯】井穴滎穴など腧穴の交わり會するところ,
(64)竅:孔竅(あな)を鑿つ。動詞として用いられている。 /安:配置する。据える。 【譯】孔穴の定位置,そこに竅(あな)を穿って中に達しさせ,
(65)刻題於側:孔穴のわきに,穴名を刻むことをいう。 【譯】經穴名をそのそばに彫刻した。
(66)爛然:鮮明なさま。 第:次第;順序。 【譯】銅人形を觀察するひとに圖像が鮮明で順序だっていることを知覺させ,
(67)「渙然」句:氷が融けてなくなるように疑問が消え失せることをいう。『老子』:「渙兮若冰之將釋(渙兮として冰の將に釋(と)けんとするが若し)。」また晉·杜預『左傳』序:「渙然冰釋,怡然理順(渙然として冰のごとく釋け,怡然として理順う/冰のように疑問が融け去り,よろこび自得するなかに道理にかなった行動思考ができるようになる)。」渙然:散るさま。 【譯】疑問をもつひとにも冰が融けるようにその疑問を渙然として解消させる。
(68)臻:到る。 【譯】むかしは(鍼灸の模型などは)完備されていなかったが,
(69)惟帝時憲:ただ當今の皇帝のみ時に應じて(ただちに)鍼灸の教令を確立した。時憲:『尚書』說命:「惟天聰明,惟聖時憲(惟(こ)れ天は聰明にして,惟(こ)れ聖時(こ)れ憲(のつと)る)。」傳:「憲,法也,言聖王法天以立教(憲,法るなり,聖王,天に法り以て教えを立つるを言う)。」後に當時の教令を稱して時憲と為す。「意」は,動詞として用いられている。法をつくる。 /「惟」を錢先生は「ただ」と解しているが,助詞として訓じた。 【譯】今上皇帝は法令をつくり,
(70)侍臣:作者自身を指す。 序引:序を書く。動詞として用いられている。引:意味は「序」と同じ。 /錢先生は「爲」を介詞(ために)として解しているが,動詞と解すれば「之が序引を爲さしむ(この序文を書かせた)」。 【譯】そこで臣下のわたくしに本書のために序文をものするように命じられた。
(71)肇:はじめる。 /四方:四處各地。 【譯】名前を『新鑄銅人腧穴鍼灸圖經』という。天下に頒布が開始されれば,
(72)景式:最も好いモデルをつくる。式:動詞として用いられている。景:大。 /「景式萬代」は「肇頒四方」と對になっているので,「景」は動詞か副詞であろう。『後漢書』劉趙淳于江劉周趙列傳·劉愷傳:「處約思純,進退有度,百僚景式,海內歸懷(約に處りて〖『論語』里仁:「不仁者は以て久しく約に處る可からず,以て長く樂に處る可からず」〗純に思い〖『左傳』昭公二十八年「在約思純。」杜預注「無濫心。」〗,進退に度有り,百僚 景式し,海內 歸懷す/困窮した境遇にあっても,心を亂すことなく,進退に節度があるので,多數の官僚は敬慕して模範とし,天下の民心はなつきしたがって/慕い集まって/います)。」李賢注:「(景式:)景慕して以て法式と為す。」 /景:仰慕する。景仰する(佩服尊敬する)。 【譯】民は敬慕して萬世の模範となろう。
(73)多瘠:多病のひとをいう。 咸詔:全く教えを受ける。 詔:教え。 /瘠:瘠瘵のごとく,やせ衰える病。 【譯】多病のひとにあまねく教えを垂れ,
(74)巨刺:本指針刺方法之一。『素問』調經論王冰註:「巨刺者,刺經脈,左痛刺右,右痛刺左。」ここではひろく鍼灸治療を指す。 靡差:誤りをおこさない。 【譯】鍼灸治療において過誤をおこさないようにさせる。
(75)案說:『銅人腧穴鍼灸圖經』の論說に照らして。 蠲痾:疾病を取り除く。 痾:「疴」の異體字。 【譯】『銅人腧穴鍼灸圖經』の解說にしたがって病氣を除けば,
(76)「若對談」句:如同在涪水のほとりにいた涪翁に鍼術の教えを請うのと同じようである。『後漢書』方術列傳·郭玉傳:「郭玉者,廣漢雒人也。初,有老父不知何出,常漁釣於涪水,因號涪翁。乞食人間,見有疾者,時下針石,輒應時而效,乃著針經、診脈法傳於世。弟子程高尋求積年,翁乃授之。高亦隱跡不仕。玉少師事高,學方診六微之技,陰陽隱側之術。和帝時,為太醫丞,多有效應。帝奇之,仍試令嬖臣美手腕者與女子雜處帷中,使玉各診一手,問所疾苦。玉曰:“左陽右陰,脈有男女,狀若異人。臣疑其故。”帝歎息稱善。玉仁愛不矜,雖貧賤廝養,必盡其心力,而醫療貴人,時或不愈。帝乃令貴人羸服變處,一針即差。召玉詰問其狀。對曰:“醫之為言意也。腠理至微,隨氣用巧,鍼石之閒,毫芒即乖。神存於心手之際,可得解而不可得言也。夫貴者處尊高以臨臣,臣懷怖懾以承之。其為療也,有四難焉:自用意而不任臣,一難也;將身不謹,二難也;骨節不彊,不能使藥,三難也;好逸惡勞,四難也。鍼有分寸,時有破漏,重以恐懼之心,加以裁慎之志,臣意且猶不盡,何有於病哉!此其所為不愈也。”帝善其對。年老卒官(郭玉なる者は,〖四川省〗廣漢雒の人なり。初め〖その昔〗,老父〖老人〗有り,何(いず)こより出づるかを知らず,常に涪水に漁釣〖魚釣り〗す。因って涪翁と號す。食を人間に乞う。疾有る者を見れば,時に針石を下し〖鍼治療をほどこし〗,輒ち時に應じて效あり〖いつもすぐに效能が見られる〗,乃ち『針經』、『診脈法』を著し世に傳えらる。弟子の程高尋ね求めて年を積ね,翁乃ち之を授く。高も亦た跡を隱して仕えず。玉少(わか)くして高に師事し,方診六微の技,陰陽隱側の術を學ぶ〖王先謙『後漢書集解』引ける沈欽韓:「六微とは,三陰三陽の脈候なり。『素問』に六微旨大論有って,天道六六の節の盛衰,人と相應することを言う。」『後漢書集解』校補:「今案ずるに,隱側とは,隱(ひそ)かに以て之を探り,側(ひそ)かに以て之を求め,陰陽の變化を窮むるを謂い,即ち診候なり。『雲笈七籤』(八十·五稱符二十四真圖)に云わく,子 變化を為さんと欲すれば,當に隱側圖を得べし」と〗。和帝の時,太醫丞と為り,多く效應有り。帝 之を奇とし,仍って試みに嬖臣〖寵愛を受けている近臣〗の美(うるわ)しき手腕の者をして女子と帷(とばり)の中に雜(まじ)え處(お)らしめ,玉をして各おの一手を診し,疾み苦しむ所を問わしむ。玉曰く:「左は陽にして右は陰,脈に男女有り,狀 異人の若し。臣 其の故を疑う〖左手には陽氣があり,右手には陰氣があり,脈には男女の違いがあります。同一人物とは思えません。わたくしはその理由が不思議でなりません〗。」帝歎息して善しと稱す。玉 仁愛にして矜(ほこ)らず,貧賤の廝養〖雜役の奴隷〗と雖も,必ず其の心力〖精神と體力〗を盡くすも,而れども貴人を醫療して,時に或いは愈えず。帝乃ち貴人をして羸服して變處せしむれば〖身分の高いひとを粗末な格好をし,居所を變えさせると〗,一たび針すれば即ち差(い)ゆ。玉を召して其の狀を詰問す。對えて曰く:「醫の言為(た)るや意なり。腠理 至って微にして,氣に隨って巧を用い,鍼石の閒,毫芒〖極めて精細微小なるの比喩〗即ち乖(そむ)く。神 心手〖『莊子』天道:「不徐不疾,得之於手,而應於心。」心で思うままに應じて手が動く〗の際に存し,解することを得可きも,而れども言うことを得る可からざるなり。夫れ貴き者は尊高に處(お)りて以て臣に臨み,臣は怖懾を懷いて以て之を承(う)く。其の療を為すや,四難有り。自ら意を用いて臣に任せず,一難なり。身を將(やしな)うに謹まず,二難なり。骨節彊(つよ)からざれば,藥を使うこと能わず,三難なり。逸を好み勞を惡む,四難なり。鍼に分寸有り,時に破漏有り〖注:分寸とは,淺深の度。破漏とは,日に衝破有る(人神の所在により忌日ある)者なり〗,重ぬるに恐懼の心を以てし,加うるに裁慎の〖慎重な〗志を以てす。臣の意すら且つ猶お盡きず,何ぞ病に於いてすること有らんや〖自分の心さえ整理がつかないのですから,病氣どころではありません〗。此れ其の愈えずと為す所なり。」帝 其の對えを善しとす。年老いて官に卒す〖在職中に死亡する〗)。」 【譯】涪水のほとりで人々を治療していた涪翁と語らい教えられて施術するのと同じであり,
(77)披圖:書中の圖形を閱覽する。 披:披(ひら)いて閱(み)る。 洞視:仔細に診察する。 /洞視:疾病を洞察する。『史記』扁鵲倉公傳「扁鵲以其言飲藥三十日,視見垣一方人。以此視病,盡見五藏癥結。」 【譯】書中の圖を翻くことによって,疾病を仔細に診察れば,
(78)「如舊飲」句:あたかも扁鵲が上池の水を飲んで,盡く體內の疾病を見ることができるようになったかのようである。『史記』扁鵲傅に見える。 舊:久しい。 【譯】久しく上池の水を飲んで體內の疾病が透視できるようになるが如くである。
(79)黎烝:黎民百姓。 烝:多數。 【譯】我が多くの民を保護し,
(80)介:たすける。『詩經』國風·豳風·七月:「以介眉壽(以て眉壽〖長壽のひと。眉が長いのは眉壽の象徵〗を介(たす)く)。」鄭箋:「介は,助くるなり。」壽考:年老;長壽。 考:老。 【譯】みなが長壽になるのをたすける。
(81)夏后:夏禹を指す。『史記』夏本紀:「禹於是遂即天子位,南面朝六下,國號曰夏后,姓姒氏(禹 是に於いて遂に天子の位に即き,南面して天下を朝せしめ,國號を夏后と曰い,姓は姒氏)。」一說では虞舜を指す。『文選』班固『典引』:「陶唐舍胤而禪有虞,有虞亦命夏后(陶唐 胤(よつぎ)を舍(す)てて有虞に禪(ゆず)り,有虞も亦た夏后に命ず/堯は位をその子に授けず,舜にゆずり,舜もまたその子に授けず,禹に位をつぐように命じた)。」 六極:六種類の惡い事柄。『尚書』洪範:「六極:一曰兇短折,二曰疾,三曰憂,四曰貪,五曰惡,六曰弱。」 /『尚書正義』:「一曰凶短折,遇凶而橫夭性命也。二曰疾,常抱疾病。三曰憂,常多憂。四曰貧,困之於財。五曰惡,貌狀醜陋。六曰弱,志力尫劣也。」醫學における六極:『備急千金要方』卷十九腎藏·補腎:「六極者一曰氣極,二曰血極,三曰筋極,四曰骨極,五曰髓極,六曰精極。」詳しくは『巢氏諸病源候總論』卷三·虚勞病諸候·虚勞候等を參照。 【譯】昔,夏朝の創始者禹は六極をのべて疾病を判辨し,
(82)帝炎:即ち炎帝神農氏。 惠人:人類に恩惠を施す。 /問:審問する。 【譯】炎帝神農はあらゆる藥を詳しくしらべ,人々に恩惠を施したが,
(83)「固當」句:必ず現代に幸福を與える。 讓:あたえる。德:福,利。 【譯】それと同じく,當然この度の陛下の偉業は現代に福利をもたらし,
(84)聖域:聖人の領域。ここでは聖人の偉業を指す。以上に二句は,宋の仁宗の功德を稱揚するためのもの。 【譯】そのいさおしは,聖人の域に歸する。
(85)天聖四年:西曆1026年。天聖は,宋の仁宗趙禎の年號。 歲次析木:歲星紀年法によれば,歲星の運行は析木にいたる。析木は,十二星次の一つ。『爾雅』釋天:「析木,謂之津,箕斗之間,漢津也/析木,之を津と謂う。箕と斗の間,漢津なり(析木,之を津と謂う。箕宿と斗宿の間にあり,漢津のことである/漢津は一般に銀河をいい,特に析木の津をいう)。」太歲紀年法太歲在析木為寅年。天聖四年為丙寅年,故云歲在析木。丙申:丙申日。   【譯】時に天聖四年歲次は析木 秋八月丙申 謹んでたてまつる(85)。