2020年12月28日月曜日

拙訳 黄龍祥 『鍼経』『素問』の編撰と所伝の謎を解く 04

 正しい翻訳は『季刊内経』No.220(2020年秋号)掲載

 左合昌美先生訳 『針経』『素問』編撰と流伝の謎を解く

 をご覧下さい


6 討論

 漢以前に各家の諸説が次から次へとあらわれた医学思想と向き合って、これをどのように裁断するか?どのようにつなぎ合わせたら、統一的な理論体系を構築できるか?『鍼経』の序論である九針十二原篇を見て分かるように、著者の目標は明確である。「必有明法、以起度数、法式検押、乃後可伝焉〔必ず明法有りて、以て度数・法式検押を起こし、乃ち後に焉(これ)を伝う可し〕」〔『霊枢』逆順肥痩(38)〕という鍼経を創作することである。古経を煉瓦として新しい建物を建てるのであって、古医籍を整理するのではない。明らかに劉向と李柱国が漢以前の諸医家の単独文献を集めて校正し、各家の総集定本を作るという作業とは性質がまったく異なる。

『鍼経』の構想において、最初の篇では黄帝が道を問うことから始まり、まとめの篇では黄帝が道を伝え広めることに終わる。前後呼応して、密接につながっている。作者が本書全体で構想した独創的な大局観と叙述の妙を十分に展開している。

『鍼経』の全体的な構想が論理的に綿密であることは、伝世本の経脈篇(10)の編纂から一斑を窺い知ることができる。作者は、邪気臓腑病形・営気・五十営・経水・脈度・禁服・経別・営衛生会・逆順肥痩という諸篇に幾重にも重なった伏線を張った上で、最後に経脈篇で、十二経脈が「環の端無きが如く」流注する環状方式の論理構築を完成させた。これに似た幾重にも伏線を張り、密接に連なった篇章の構想事例は、『鍼経』の至る所に見られる。こういう前後が関連する構想は一人の手によってしかなしえない。『鍼経』には、統一された全体構想、統一された完全な方針の枠組み、統一された表現スタイルと習慣があり、演繹的方法を通じて一つ一つ一歩一歩シミュレーションしながら、完備した理論体系を作り出している。学界が「一時の文、一人の作」と見なす「論文集」の性質では全くない。

 内外篇の構想全般から見て、内篇の構想は理論の革新を体現することにあり、外篇の構想は文献の整理を主に体現している。『鍼経』の編集は精密で、『素問』の編集はおおまかである。この両者の性質が相違するのは、それらの位置付けが異なっていたためであり、それを決定づけたのは構想と加工段階において取り扱い方が異なっていたからである。

 編纂方式において、内篇は古い文献を取り入れる際には合編方式を多く採用して改編した。異なる古いテキストの間につなぎの段落を追加し、さらにしばしばテキストの冒頭に「帽子をかぶせ」たり、篇の末尾に「靴をはかせ」たりする〔取って付けたような、不自然で場違いの〕作者が創作した特徴的な標識を残して、完全に統一された新しいテキストを作り出した。それと比較すれば、王冰が改編する以前の外篇『素問』では、このようなものはあまりない。このことから、内篇と外篇では性質が異なるだけでなく、編纂の方式も大きく異なっていて、内篇の編纂の方式は「撰」であり、外篇の方式は「編」であることが分かる。このことから推定すると、もし『漢書』藝文志に著録された七家の医籍が再び日の目を見たり、より早い時期に単独で伝えられた医書が発掘されるという考古学的発見があったとしたら、『素問』と同じかそれに非常に近いテキストには出会えるかも知れないが、『鍼経』に関しては、同じかあるいは非常に近いテキストを見つけることは難しいと考えられる。

    〔『漢書』藝文志:黄帝内経十八巻。外経三十(九)〔七〕巻。扁鵲内経九巻。外経十二巻。白氏内経三十八巻。外経三十六巻。旁篇二十五巻。右医経七家、二百一十六巻。〕

『鍼経』『素問』の主人公が「黄帝」であることは、既知の事柄である。そうであれば素材の選択において、漢代の劉向父子が校定した『黄帝内経』『黄帝外経』が材料の第一選択肢であったことは間違いない。また筆者の調査から、扁鵲医籍の多くの文も『鍼経』『素問』に見られることが分かったので[16]、劉向父子が校定した『扁鵲内経』『扁鵲外経』も素材の一つであることが分かる。ただ引用する時には元の文献の主人公が「扁鵲」から「黄帝」に変えられた。材料の取捨選択においては、著者が新たに定めた理論の枠組みに適合する扁鵲医学の内容の多くはそのまま採用されて、それぞれやや相違する改編方式で引用されている。しかし、理論の枠組みに矛盾する文章は捨てられて使われることはなかった。後世の医籍にははっきりと白氏の医籍に関わる文であると照合できる標識となるものは発見されていないが、推論は可能である。劉向が当時整理した『白氏内経』『白氏外経』『旁篇』も、『鍼経』と『素問』を編纂した素材の一つであり、取捨選択の原則も扁鵲医籍を引用したときと同じであり、適合すればこれを用い、適合せざればこれを捨てた。内篇外篇の位置付けが異なっていれば、材料選びも当然異なる。つまり、内篇『鍼経』では当然『黄帝内経』『扁鵲内経』『白氏内経』の三家の内経を基本的な素材とし、外篇『素問』では三家の外経および白氏の旁篇を基本的な素材としている。

 内篇『鍼経』は古人や前人の文献を煉瓦として新しい建物を建てたもので、古い材料が目的に合わなければ改造し、足りないときは新たに製造したものである。外篇は元の文献の旧態をより多く保持している。内篇で改編に使われた素材ですら、元の文献の大部分が外篇に保存されている。たとえ残文断簡〔不完全な文章〕であっても、内篇と関連するのであれば外篇にも保存され、安易には捨てられていない。

『鍼経』と『素問』は一つの書であるとはいえ、編集された順序は、内篇が先で外篇が後である。これについては、九針十二原篇がはっきり述べている。「必明為之法令、終而不滅、久而不絶、易用難忘。為之経紀、異其[篇]章、別其表裏。為之終始令各有形、先立針鍼経〔必ず明らかに之を法令と為し、終わりて滅びず、久しくして絶えず、用い易く忘れ難くす。之を経紀と為し、其の[篇]章を異にし、其の表裏を別つ。之を終始と為して各々をして形有らしめ、先に鍼経を立つ〕」。

 伝世本『霊枢』『素問』が編集された時間座標を調べても、非常に有力な証拠を見つけることができる。『鍼経』の経文を解釈し論述する数多くの篇章が『素問』に見えることはその証拠となるが、それ以外にさらに多くのさらに有力な証拠がある。その1、『素問』には八正神明論と離合真邪論の二篇があり、『鍼経』の結びとなる官能篇にある長い経文を専門に注解している。このことだけでも外篇『素問』が内篇『鍼経』より後に成書したと判定するのに十分である。その2、篇目の構想をみると、内篇に「玉版」があり、外篇にはこの篇を論述した「玉版論要」「玉機真蔵」がある。内篇に「経脈」があり、外篇には「経脈別論」がある。

 最後にすこし説明を加える。確定的な証拠により、以下のことが明らかになった。今日、目にするところの馬王堆・張家山・老官山から出土した漢代および漢以前の古医籍を、『鍼経』の作者または劉向と李柱国は、書籍を校定した時に見ている。例えば、経脈文献である馬王堆の『足臂十一脈灸経』と『陰陽十一脈灸経』、そして老官山から最近出土した経脈文献の特徴的な文は、「経脈」「経別」「営気」「経筋」にもその痕跡がある。出土文献の文が完全に『鍼経』に現われていないのは、まさにこの書が理論革新の作品であって、文献整理の書ではないからである。これに対して、さらに遅れて成書した『黄帝明堂経』は文献の整理統合に重点が置かれているので、出土文献と関連するより多くの文を見ることができるのである[17]。


                                  参考文献

[1]于光.《伤寒论·序》作者之我见[J]. 贵阳金筑大学学报,2005(3):99-110.

[2]黄帝内经素问[M]. 北京:人民卫生出版社,1979:5.

[3]黄龙祥. 针灸甲乙经:精编版[M]. 北京:华夏出版社,20008:130-131.

[4]班固. 前汉书艺文志[M]. 北京中华书局,1985:40.

[5]李秀华.《淮南子》书名演变考论[J]. 西南交通大学学报:社会科学版,2009,(5):25-29,60.

[6]黄龙祥. 中国古典针灸学大纲[M]. 北京:人民卫生出版社,2019:130-131.

[7]刘海燕. 西汉梁孝王东苑初探[J]. 商丘师范学院学报,2005(3):139-141.

[8]郑一. 《灵枢·大惑沦》开创了精神分析的先河[J]. 中医药学报,1995(4):3-4.

[9]黄龙祥. 经脉理论还原与重构大纲[M]. 北京:人民卫生出版社,2016:52-65.

[10]黄龙祥. 扁鹊医籍辨佚与拼接[J]. 中华医史杂志,2015,45(1):33-43.

  〔季刊内經 No.203 2016年夏号 岡田隆訳:散佚扁鵲医籍の識別・収集・連結〕

[11]黄龙祥. 扁鹊医学特征[J]. 中国中医基础医学杂志,2015,21(2):203-208.

  〔季刊内經 No.204 2016年秋号 岡田隆訳:扁鵲医学の特徴〕

[12]李德辉. 兰台及其与东汉前期文学[J]. 华夏文化论坛,2015(01);29-38.

[13]李更旺. 西汉府官藏书机构考[J]. 图书馆杂志,1984(1):67-68.

[14]黄龙祥. 针灸名著集成[M]. 北京:华夏出版社,1997:5.

[15]真柳誠. 黄帝医籍研究[M]. 東京:汲古書院,2014:74-75.

[16]黄龙祥. 扁鹊医籍辨佚与拼接[J]. 中华医史杂志,2015,45(1):33-43.

  〔季刊内經 No.203 2016年夏号 岡田隆訳:散佚扁鵲医籍の識別・収集・連結〕

[17]黄龙祥. 中国针灸学术史大纲[M]. 北京:华夏出版社,2001:692-694.

  〔2021年に、森ノ宮医療学園出版部から翻訳が出版される予定(ダッタ)。〕


拙訳 黄龍祥 『鍼経』『素問』の編撰と所伝の謎を解く 03

 正しい翻訳は『季刊内経』No.220(2020年秋号)掲載

 左合昌美先生訳 『針経』『素問』編撰と流伝の謎を解く

 をご覧下さい


4 作者

 著者について、筆者の最近の研究でわかったことは、『鍼経』と『素問』がともに一人によりまとめられたことである。作者の名前は不明だが、この人は以下の条件を備えていると判断できる。①国家蔵書機構に長期にわたって勤めた経験があり、劉向や李柱国が整理した全部または大部分の医学書を利用できた。②該博な天地人の知識および非凡な文章表現能力を持つ。

    〔李柱国:漢の成帝時(前33~29年)の侍医で、医経など方技書の校訂に参与した。〕

『鍼経』『素問』を編纂するために採用された大量の漢以前の医経類の古書を、民間で揃えるのは不可能である。たとえ前漢の最も盛名を博した淮南国や梁国といった地方の学宮〔学校〕であっても揃えるのは容易ではない。後漢になって、劉向父子が校定した書籍がしだいに社会に流布し、それまで国家蔵書機構に収蔵されていた古籍の定本を民間で見る機会が得られたとしても、古籍が手書きで伝えられた時代には、特別な背景を持たない学者が、劉向父子が整理した全部または大部分の古医籍を読むことは明らかに不可能である。これについて『漢書』藝文志の方技略総序は、つぎのようにはっきり述べている。「方技者、皆生生之具、王官之一守也〔方技なる者は、皆な生生の具、王官の一守なり〕」[7]78。また『黄帝鍼灸甲乙経』序には、「方技者、蓋論病以及国、原診以知政。非能通三才之奥、安能及国之政哉〔方技なる者は、蓋し病を論じて以て国に及び、診を原(たず)ねて以て政を知る。能く三才の奥に通ずるに非ざれば、安(いず)くんぞ能く国の政に及ばんや〕」[14]とある。そのような特殊な社会背景の下で、『鍼経』『素問』のような各家を集大成し、また自ら体系をなした医経をつくることができる可能性が最も高い人は、蘭台の令官、あるいは長く蘭台に勤務した経験のある医官または著名な学者である。

    〔後漢に始めて置かれた宮廷の蔵書の校定などを担当する「蘭台令史」という官があった。〕

 次のような可能性もある。劉向父子と李柱国による医書の校正には、二段階の壮大な計画があった。第一段階で伝世の各医経を整理し、第二段階において新しい理論体系を構築し、百家を合わせて統一する。この可能性があるなら、この計画の第二段階の計画は、李柱国またはその後継者によって達成された可能性がより大きい。

 さらに考察すると、次のことが明らかになる。『鍼経』『素問』は官修〔政府編修〕ではなく私修〔私的編修〕に由来する。これらの条件を備えた作者は、在任中に編纂したのではなく、退職したり、政治的な連座により罷免されたりしたのちに創作したのである。なぜなら劉歆本人がその在任前または在任中の同僚の著作であれば、劉歆は知らないはずがないし、かつ極端な政治的要因がない限り、著録しないわけにはいかないからである。

 著者は必ずしも優れた医術の医官でなくとも、非常に高い理論構築能力を持っていなければならない。『鍼経』の構想と執筆から、著者の理論的洞察力が張仲景に勝るだけではなく、更に後の『鍼甲乙経』の作者にも勝ることが容易に見て取れる。『鍼経』『素問』に反映されている著者の学識から見れば、この人は当時の通儒の大家〔古今に通暁し学識が該博な儒者〕であり、その在任期間中、医学書の定本を繕写〔謄写編集〕する際に自分用に副本を取っておき、老年になってこの副本をもとにこの世を驚かす作品を創作した可能性が高い。言い換えれば、本書の編纂方法と作者の経歴は、司馬遷が『史記』を編修したのと同じで、個人が編纂したものであって、集団で編纂したものではない。作者は長い間官職に就いていたが、編纂が完成したのは職を退いた後である。その上『鍼経』のような「一家の言を成す」、特に公理的な方法で統一理論体系が構築された著作は、個人にしかできない。


5 伝承

『鍼経』『素問』の伝承について、筆者の最近の研究では以下のような結論が得られた。

 第一、『淮南子』の運命とは正反対で、外篇は広く伝えられたが、内篇は限定的であった。

 他の内外に篇が分かれた子書の伝承の法則性とは異なり、外篇『素問』は注目度が高く、改編され、続補され、注解されたが、内篇『鍼経』が改編や注解されることはまれであった。伝承の上でこのような特殊な現象が現われたことについて、以下の二つの要素が関係すると考える。その1、『鍼経』は入念に構想して編纂されており、全体に一貫した内在論理がある。作者の編纂思想を理解できないならば、後代の人は改編しようとしてもほとんど手の下しようがなく、これ以上創作する余地は小さい。対して外篇『素問』の応用例と資料性は、その筋道と系統性において内篇『鍼経』には遠く及ばないため、さらに整理する余地が大きい。その2、筆者の『鍼経』『素問』に対する総合的な調査によれば、六朝時代に全元起が整理した後の『素問』には、多くの文字の重出と混乱があり、さらには同じ文章が異なった篇に重出していることさえあった。以前の伝本に混乱や重出がひどければ、「其の重複を去る」ことは、本を編集するための基本的な要求である。このことは、ある種の突発的事件があったために、全体の編纂(主に外篇である『素問』の部分)を完成できなかった可能性を示唆する。つまり本書が未定稿――内篇には題名がまだ付けられず、その上全体の書名もない――であることと、みな関連があるのかも知れない。

    〔子書:中国古代の図書は、経・史・子・集の四つに分類される。その三番目。ここには諸子百家・仏教・道教・小説・技藝・術数などの著作が含まれる。

     『素問』王冰序:「而世本紕繆、篇目重畳、前後不倫、文義懸隔、施行不易、披会亦難、歳月既淹、襲以成弊。或一篇重出、而別立二名。或両論併呑、而都為一目。或問答未已、別樹篇題、或脱簡不書、而云世闕、……其中簡脱文断、義不相接者、捜求経論所有、遷移以補其処、篇目墜欠、指事不明者、量其意趣、加字以昭其義。篇論呑幷、義不相渉、闕漏名目者、区分事類、別目以冠篇首。君臣請問、礼儀乖失者、考校尊卑、増益以光其意。錯簡砕文、前後重畳者、詳其指趣、削去繁雑、以存其要」。〕

 第二、伝世本には亡佚・錯簡・続編がある。

 亡佚の証拠:伝世本『素問』の篇目および本文の亡佚については、非常に多くの考証があるので、贅言しない。実は、伝世本の『霊枢』にも失われているところがある。一番はっきりしているのは刺節真邪篇が引用する『刺節』の原文であり、早くからない。

 錯簡については、唐代の王冰が注解したとき、すでに明確に指摘している。具体的な状況は以下の通り。

    「帝曰:形度・骨度・脈度・節度,何以知其度也了」。

    王冰注曰:「形度、具『三備経』。節度・脈度・骨度、幷具在『霊枢経』中。此問亦合在彼経篇首、錯簡也。一経以此問為『逆従論』首、非也」。(『素問』通評虚実論(28))

    「治在『陰陽十二官相使』中」。

  王冰注曰:「言治法具于彼篇、今経已亡」。(『素問』奇病論(47))

  詳らかにするに、全元起注本『素問』には『十二蔵相使』篇があり、「凡此十二官者、不得相失也」「主不明則十二官危」の論があることから、『陰陽十二官相使』はこのような篇章であると推測される。

    〔『素問』霊蘭秘典論(08)の冒頭:「新校正云:按全元起本名『十二藏相使』在第三巻」。〕

 このほか、『素問』にある注〔『霊枢経』曰:などの引用文〕と『霊枢』の経文が完全には対応していないことからも、原文に脱簡や錯簡があることが見いだせる。

 錯簡、同一書内あるいは同じ篇内の文章の前後の乱れについては、古今の注家がすでに多くの実例を発見し、指摘している。筆者が気づいたのは、『鍼経』の結語にあたる官能篇でまとめられた諸篇の要となる文のうち、伝世本『霊枢』には見えないものが1条あり、それが『素問』調経論(62)に見られることである。ちょうどこの篇は、『鍼経』理論体系を構築するための原案を明確に提出し、疾病の全般的な病機や鍼灸治療の全般的な治則を論述し、全般的な病因などの重要な理論命題を確立していて、全理論体系を構築する上で不可欠の重要な篇章である。著者の内外篇の構想原則に従えば、これも内篇に置かれてしかるべきものである。初期の伝本では、内外篇が一つまとまりとして伝えられ、そのうえ内篇は書名を欠いてたため、内外篇の文は混乱が生じやすかった。しかし現在のところ、さらに多くの『鍼経』と『素問』の両書で互いに入れ違っていることの証明となる、より多くの実例を見つけられていない。

 このほか、伝世本『霊枢』の19~26篇はいささか特殊である。その1、黄帝君臣の問答(19篇の引用は除く)がない。その2、道を論ぜず、病症診療をいう。理屈からいえば、内篇ではなく外篇に置くべきである。これには二つの可能性がある。その1、伝えられる過程で篇の順序〔位置〕が乱れ、外篇にあった篇が内篇に混入された。その2、内篇は伝えられる過程で、篇目〔いくつかの篇〕が欠失して九巻に足りなくなったが、初期の伝本名が「九巻」であることは周知のことであったし、また、経文には「余聞九鍼九篇、夫子乃因而九之,九九八十一篇」と明言されている。それゆえ、外篇の文を用いて内篇の欠を補った。『素問』が早い時期に一巻を失ったことは、このこととあるいは関係があるのかも知れない。

 また、伝世本『素問』が記載する王冰が引用する『霊枢経』『鍼経』の文、および林億の新校正による注文に基づき、伝世本『霊枢』の脱字・誤字・錯簡の例を知ることもできる。具体的には以下のごとし。

    経文:「中部人、手少陰也」。

    王冰注曰:謂心脈也。在掌後鋭骨之端、神門之分、動応於手也。『霊枢経』持鍼縦捨論、問曰:「少陰无輸、心不病乎?」対曰:「其外経病而蔵不病、故独取其経於掌後鋭骨之端」。正謂此也。(『素問』三部九候論(20))

 いま調べてみると、王氏が引用した「持鍼縦捨論」の文は、伝世本では邪客篇に見られる。このことは、以下のことを物語っているのかも知れない。すなわち、伝世本の邪客篇は、原始本にあった複数の篇を一つに再編したもの、あるいは早期の伝本では「持鍼縦捨論」と「邪客」が隣り合っていたため、前者の篇名の文字が脱落し、その本文が伝世本の邪客篇に混入してしまった。

    経文:「去寒就温、無泄皮膚、使気亟奪」。

    王冰注曰:去、君子居室〔正しくは「去寒就温、言居深室也」〕。『霊枢経』曰:「冬日在骨、蟄虫周密、君子居室」。(『素問』四気調神大論(02))

 いま調べてみると、王氏が引用した『霊枢経』の文は、伝世本『素問』の脈要精微論篇に見られる。

    経文:「以淡泄之」。

    王冰注曰:淡利竅、故以淡滲泄也。蔵気法時論曰:「脾苦湿、急食苦以燥之」。『霊枢経』曰:「淡利竅也」。(『素問』至真要大論(74))

 いま調べてみると、以上の王氏が引用した『霊枢経』の文は、伝世本には見えない。

    経文:「其気以至、適而自護」。

    王冰注曰:『鍼経』曰:「経気已至、慎守勿失」。此其義也。(『素問』離合真邪論(27))

    経文:「為虚与実者、工勿失其法」。

    王冰注曰:『鍼経』曰:「経気已至、慎守勿失」。此之謂也。(『素問』鍼解(54))

 この〔鍼解〕篇の下文にすぐ「経気已至、慎守勿失」という〔経〕文があるのに、王冰は本篇の経文を引用せず、「『鍼経』曰」と注する。『素問』離合真邪論も同じ〔で「『鍼経』曰」と注する〕。また鍼解篇は、『鍼経』九針十二原篇の経文の注解であることは知られている。したがって、引用された「経気已至、慎守勿失、勿変更也」が『鍼経』の文の注文であることが知られる。王冰が見た『鍼経』の伝本ではまだこの篇が失われていなかったので、これを引用できたのである。

 外篇にあたる『素問』の配列に手が加えられていることについて、特に唐代の王冰が重注した時に行なった大幅な配置移動については、すでに多く現代人には知られているので、詳述しない。『鍼経』の配列の変更については、『素問』よりはるかに小さいとはいえ、伝世本の配列順序が原本とは異なっていることを示す証拠もある。最も顕著な例は、結語にあたる官能篇であり、伝世本では第73篇目であって、最終篇ではない。

『素問』以外の各篇を総称して「九巻」と呼んだということは、そう呼んだ最初の時点ですでに『素問』が九巻ではなかったことを暗示している。また、早い時期の伝本である『鍼灸甲乙経』『太素』に収録された『素問』のテキストも、みな〔一部の文章が欠けていることは除くとして〕まるまる一つの篇が伝世本に見えないというのは発見されていない。これは二つの可能性を示唆する。その1、『素問』の篇目の失われた時期が早い。その2、『素問』はもともと8巻であって、失われたことはない(伝承の過程で一時失われたことを除く)。

 筆者の調査では、最も早く直接『鍼経』『素問』を引用しているのは、漢代の『難経』と『黄帝明堂経』であり、最も早く直接引用し、かつ出典を明示したのは魏晋の『脈経』である。

 伝世本『霊枢』『素問』の源流について、日本の学者、真柳誠教授による近年の最新研究成果が指摘するところでは、現行の『霊枢』24巻は北宋・元佑刊『鍼経』9巻系統に基づいて改編されたもので、祖本は南宋・国子監紹興25年序刊本である。この時、国子監は『霊枢』と『素問』を合刻し、両書の合刻本を『黄帝内経』と総称したのである[15]。


拙訳 黄龍祥 『鍼経』『素問』の編撰と所伝の謎を解く 02

 正しい翻訳は『季刊内経』No.220(2020年秋号)掲載

 左合昌美先生訳 『針経』『素問』編撰と流伝の謎を解く

 をご覧下さい


2 書名

 伝世本『霊枢』『素問』の命名については、先人の研究を総括して次のように判断した。

 第一、外篇の名は『素問』である。内篇には固定した名称がなく、唐は以前は「九巻」が暫定的に用いられた。あわせて前後して、「九虚」(「九墟」とも書く)、「九霊」、「鍼経」、「霊枢」など、異なる命名案があり、伝世本では『霊枢』が引き続き用いられている。

 第二、もともと全体の書名はない。筆者としては、内外篇全体の命名案として内篇は「黄帝鍼経」、外篇は「黄帝素問」と決めた。

 内篇の題名について、伝世本『霊枢』の冒頭篇「九針十二原」は、「鍼経」といい、口問篇も「九鍼の経」という。筆者は調べてみて、伝世本『霊枢』と『素問』中の「九鍼」には広義と狭義の2つの用法があることに気づいた。広義の「九鍼」は鍼灸の道を指すが、狭義の「九鍼」は9種類の鍼具を指す。書名としての「九鍼の経」の「九鍼」は広義の用法であるが、書中に多く登場する「九鍼」もしばしば「九鍼の経」の略語、つまり「鍼経」を指すものとして用いられている。

  しかし、原本に書名がなかった、あるいは原本の書名が書き写し伝えられる過程で失われたため、漢末の『傷寒論』序は、内篇を援用する際そのまま「九巻」の名を用いている。しかし、この序文の構成と年代については学界に論争があり[1]、これを根拠として、この暫定的な名称がすでに漢代に見える、と確定することはできない。年代の確実な魏晋の『脈経』が『九巻』として内篇を引用しているのは明らかだが、伝世本『脈経』ではこれらの引用文の出典が全部『鍼経』に変更されている。これは宋代の校正医書局が変えたものである。宋以前にあった古本『脈経』の引用文の表記については、唐代の王冰「補注黄帝内経素問序」に附された「新校正」が、次のようにはっきり述べている。「又『素問』外九巻、漢·張仲景及西晋王叔和『脈経』只為之九巻、皇甫士安名為『鍼経』、亦専名『九巻』〔又た『素問』の外に九巻あり。漢の張仲景及び西晋の王叔和『脈経』は、只だ之を九巻と為(い)い、皇甫士安 名づけて『鍼経』と為し、亦た専ら『九巻』を名とす〕」[2]。ここでは、張仲景の書と『脈経』は、内篇を引用するのに、いずれも「九巻」の名を用いていることが明言されている。「皇甫士安名為『鍼経』、亦専名『九巻』」とは、『鍼灸甲乙経』序が引く『鍼経』を指しているが、本文の引用文では『九巻』と表記されていることを言っている。あいにくなことに、伝世本『鍼灸甲乙経』序にも疑問があるので[3]、これに基づいて西晋時代にはすでに「鍼経」という名称が内篇を指す名称として専ら用いられていた、とは認定できない。これから分かることは、初期に伝えられた内篇には書名がなく、後世の医書ではそのまま「九巻」という暫定的な名称で引用され、唐代の楊上善が勅を奉じて『太素』を官修した時までは、「九巻」「素問」を用いて内・外篇を引いていて、専用の書名「九虚」(また「九墟」)「鍼経」「九霊」「霊枢」などは、みな晋以後、唐以前に登場し、その中の『霊枢』が継承されて今でも使われているということである。

 このように、伝世本の『霊枢』が言及する内篇の書名である「鍼経」は、正式な書名が付けられなかったか、あるいは伝えられた初期に書名が失われて、かなり長期にわたってずっと「九巻」という暫定名で伝えられていたことが分かる。対して外篇は、社会に流布したはじめからすぐに「素問」と呼ばれ、今に至るまで使われている。内篇外篇は最初から一つの書として伝えられたが、内篇外篇を統括する全体の書名はなく、後世になって「黄帝内経」を全体の書名として、内篇が「黄帝内経素問」(唐代の王冰注本)、外篇が「黄帝内経霊枢」(宋代の史崧本)といわれる。ここでの「黄帝内経」は、実際のところ「黄帝医経」の別称として用いられている。この点については、以下の古医籍の命名からはっきり見て取れる。すなわち『黄帝内経太素』と『黄帝内経明堂』である。この角度から見れば、「黄帝内経素問」「黄帝内経霊枢」という命名法は筋が通っている。しかしながら、この名称にすると、伝世本『霊枢』『素問』は『漢書』藝文志に著録されている『黄帝内経』と同じものであると、人々に極めて誤解されやすくなる。したがって、採用するべきではない。

 伝世本『霊枢』『素問』が最初に著録された官修目録『隋書』経書志には、『黄帝鍼経』『黄帝素問』とある。外篇の名称は古今に相違がなく、内篇には様々な名称がある。しかし、国内外の図書目録の著録を見ると、「黄帝鍼経」という名称がもっとも通用している。公式文書の正式名称からもこの点が見て取れる。例えば、唐政府の詔令永徽令・開元令および宋の天聖令は、みな「黄帝鍼経」と称している。

 『黄帝鍼経』『黄帝素問』という書名にある「黄帝」を「黄帝医経」または「黄帝医派」と読み解き、全体の書名として使用することは全く可能であり、かつこのような用例は、早くも漢代の劉向父子が校書した時にすでに創られ使われていた。

    〔『漢書』藝文志にいう「右醫經 七家、二百一十六卷。醫經者,原人血脈……」のことか。「黄帝医派」は未詳〕。

 伝世本『淮南子』を成立当初、作者である淮南王・劉安は『鴻烈』と名づけたが、これはただその主に編集した一部分の名であって全部ではないので、『漢書』は『内書』『内篇』と題している。前漢末の劉歆〔劉向の子〕は全体の書名を『淮南』と定めた。しかし内篇の原作者がつけた題名は「鴻烈」である。劉歆はあるいは政治的な要素に配慮して、不便だが評価の意味を含まない中立的な「内」字を選んだのかも知れない。雑家類には「『淮南内』二十一篇、王安①。『淮南外』三十三篇」として正式に著録された[4]。「淮南」については、地名・学派名・人名・書名といった多くの捉え方ができる。劉向・劉歆父子によって公式に認めれた『淮南内』は、政治的な影響がなくなる魏晋の時代になると、もともとの「内篇」という書名を人々がまた用いるようになり、さらに劉歆が考案したものを加えて、全体の書名を『淮南鴻烈』と名づけた。

    原注①:「王安」とは、「淮南王劉安」の略称か、あるいは劉安の誤りか、確定できない。

    〔劉安[生]文帝1(前179)?.~[没]元狩1(前122)。中国、前漢高祖の孫で、淮南王。『淮南子』の撰者。呉楚七国とともに景帝に対して謀反を企てて果たさず (→呉楚七国の乱 ) 、のちに多くの士を養って武帝の時代に再び挙兵しようとしたが、事前に発覚し、捕えられて自殺した。学を好み、多くの賓客とともに『内書』 21編、『中書』8編、『外書』 23編を著した。『淮南子』はその一部である『内書』にあたる。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)/『淮南鴻烈』、前漢の劉安・蘇非・李尚・伍被らの編著。/後漢の高誘『淮南鴻烈解』序:「号曰鴻烈。鴻、大也。烈、明也。……劉向校定撰具名之淮南。又有十九篇者、謂之淮南外篇」。/『漢書』巻44・淮南衡山済北王伝第14:「招致賓客方術之士数千人、作為内書二十一篇、外書甚衆、又有中篇八巻、言神仙黄白之術、亦二十余万言」。/『漢書』藝文志・雑家:「淮南内二十一篇(王安)。淮南外三十三篇」。〕


 この例によれば、『黄帝鍼経』『黄帝素問』の中の「黄帝」も、書名として理解してまったく問題ない。つまり「黄帝」を全体の書名として用い、「鍼経」を子目〔細目〕としての内篇の名とし、「素問」を子目としての外篇の名としている。全体の書名〔黄帝〕を加えれば、『鍼経』と『素問』が表裏をなす一つの書であることを示すだけでなく、漢代および漢以降に伝わった他の「鍼経」という名を持つ医書との区別も示せる。

 歴史と論理を統一するという原則に基づき、筆者は伝世本の『霊枢』と『素問』の名称案を以下のように確定する。内篇の名称は『鍼経』、外篇の名称は『素問』、内篇の非省略名は『黄帝鍼経』、外篇の非省略名は『黄帝素問』である。「黄帝」を全体の書名としたので、もはや「黄帝内経」を全体の書名としては用いない。したがって、以下では特に伝世本を除いて、内篇の正式名称として『鍼経』を採用し、『霊枢』『九墟』『九霊』をその別称とする。


3 年代

『鍼経』と『素問』の成書について、学界での見解の相違は大きい。しかし、「一時の文に非ず、一人の書に非ず」といった共通認識がある。筆者の最近の研究では、この共通認識とは正反対の判断が得られた。『鍼経』と『素問』は性質が異なるが、『鍼経』は「撰」であり、『素問』は「編」である。しかし同一人物が完成したもの、あるいは、みな漢代に成書したものである①。

  ①「漢代に成書した」とは、原作者が編集した原本の年代を指す。原本が社会に伝えられ、後の人がおこなった増補や改編は、原本の年代の認定に影響しない。例えば後代の人(特に宋人)が『傷寒論』『脈経』『備急千金要方』といった経典におこなった補足と改編の度合いは、『鍼経』『素問』に対する改編に比べて一層甚だしいが、学会ではこれらの経典は宋代に成書したという見解が提出されたことは一度もない。

 一例を挙げて、筆者の問題に対する解答を考える筋道を説明する。唐代の孫思邈『備急千金要方』は、唐以前の各家の文献を素材として編集したものである。もしこの書が書き写し伝えられる過程で、表紙と自序がともに失われたと仮定する。われわれは書名も作者も成書年代も知らない。従来の『鍼経』と『素問』の成書を考察した考え方に照らして、この書名・作者・成書年代の「三無」古医籍の年代を考察したら、どんな結論が得られるだろうか?この書を文献を編集したものと考えれば、次のような様々な異なる判断が得られる。すなわち、先秦に成書した。漢代に成書した。魏晋南北朝に成書した。隋代に成書した。唐代に成書した。そこで最後に、諸説を調停した「定説」が得られる。すなわち「此れ一時に成り、一人に出づるの書に非ず」②である。しかし、この先入観を捨てて、この書をある時期に単独のものとして成立した中医臨床診療全書とすれば、正しい答えが得られやすい。すなわち、本書は唐代に成書したものであり、さらに比較的正確な成書年代を狭めることができる。

  ②この論理によって類推すれば、多くの後世の中医古典は、みな一時の一人の作品ではないと言える。『新修本草』『証類本草』『本草綱目』『諸病源候論』『太平聖恵方』が、その最も典型的なものである。

  〔「此非成于一時出于一人之書」は、漢代以前に成書した書籍についてよく言われる言葉。たとえば、余嘉錫『四庫提要辨証』巻7・越絶書:「要之、此書非一時一人所作」。『素問』について呂復は「『内経素問』、世称黄帝岐伯問答之書、及観其旨意、殆非一時之言、其所譔述、亦非一人之手」(『九霊山房集』巻27)という。〕

 この仮想的な年代調査実験を通して、われわれは以下のことがはっきりする。すなわち現在『鍼経』『素問』の成書を調査考察するとは、それが編集された年代のことであって、その書の中に採用された原始文献の年代のことではない。この思考回路によれば、漢以前の古医籍を多く書中に素材として取り入れているとしても、伝世本『霊枢』『素問』が成書したのは漢代である、と確定できる。

 第一、書籍の性質から考察すると、『鍼経』と『素問』、特に前者は古典を整理した成果ではなく、理論革新の著作であり、『漢書』藝文志に著録された『黄帝内経』『黄帝外経』とは性質が全く異なる。

 第二、『鍼経』の序論的性質を有する初篇「九鍼十二原」の構造から見て、その本文は秦代、乃至先秦の文献を採用しているとはいえ、主人公の前口上ははっきりとした漢帝の口調を帯びている[6]。

 また九針十二原篇の冒頭の文章から知られることは、黄帝の口を借りてこの書を編纂する趣旨と編纂計画を述べていることであり、本書の作者の手によるのは間違いない。しかし、作者の筆による「黄帝」のイメージは秦の始皇帝とは相容れず、かえって『漢書』に記載されている漢帝の言動とそっくりであり、これはまさに本書の作者が身を置いた年代を反映しているのである。本文に秦代や先秦の特徴ある文が現れるといっても、この篇が漢代に創作されたという確定になんら影響はない。また知られることは、全体の結びの篇としての官能篇は、首篇である九針十二原と相応じていて、いずれも一人の手によることである。であれば、これも必ず漢代に書かれたことになる。もしこの書の序論と結語が漢代に書かれていると確定するならば、本書全体が漢代に書かれていると基本的に判定してよいことになる。

 第三、『霊枢』大惑論に「東苑」「清泠の台」とある。「東苑」だけならば、いつのどこの建築物であるのか確定するのは難しいけれども、「東苑」と「清泠の台」が一緒につながっているのであれば、正確な場所を探し出すことができる。東苑とは、前漢の梁孝王が紀元前153年から紀元前150年の間に建てた、あずまや・離宮・湖水・奇山・草花・陵墓などが一体となった皇帝が狩猟・巡行・娯楽などをおこなうために供される多目的庭園であり、「清泠台」はその中の美しい景観の一つである[7]。

『霊枢』大惑論で述べられた故事は、東苑を背景に、ある漢代の帝王の真実の診療録である可能性が極めて高い。つまり、世界で最初の精神分析法を適用した診療録と称することができる[8]。このほか、この内篇に反映されている精細な死体解剖の知識の最も可能性の高い情報源は、王莽時代の公式死体解剖の成果である[9]。ほぼ後漢末以後、東苑はしだいに荒廃した。したがって大惑論は、後漢以前に書かれたに違いない。

 第四、本書の全体的な学術の大筋から見ると、内外篇はともに扁鵲医籍の文を大量に引用しているが、すべて新しく決めた理論の枠組みに合わせて変更を加えている[10]。例えば五色篇は素材を扁鵲医学から取っているが、中に挿入された脈法は『鍼経』が推奨する最新の診察法「人迎寸口脈法」であって、これは後代の人が編集した動かぬ証拠である。また、『史記』扁鵲倉公列伝や近ごろ老官山から出土した扁鵲医籍からも分かるように、漢代の初中期に流行した扁鵲医籍に見られる蔵象説は、「心肺肝胃腎」を五臓とし、〔前〕漢中期の非医籍『淮南子』と依然として同じである。しかし『鍼経』の新しい理論体系では、扁鵲が五蔵として論じている「胃」は、一部の置き換えられていない例を除いて、みな「脾」に換えられている[11]。また、五蔵の五行配当には、いわゆる「古文説」と「今文説」があるが、『鍼経』『素問』に見えるものはほぼ例外なく「今文説」である。これは明らかに、著者が新たに定めた理論枠組みに基づいて改編した結果である。

 第五、内外篇のテキストから、それが置かれた社会背景には以下の特徴があることが容易に見いだせる。その1、国土の統一、思想文化における大一統〔天下統一の重視〕の成熟、そして黄帝文化の大一統の指導者としての地位の確立。その2、医学の象徴的な意味としての扁鵲の下降の始まり、それに対する黄帝の上昇。その3、黄帝諸臣内での岐伯の地位の向上。その4、医学文献が極めて豊富になり、かつ系統的に整理された。以上の4つがみな備わっているのは、漢代である。『漢書』藝文志に著録された医経類の図書目録では、黄帝の名義に帰する医経の篇巻の数が明らかに扁鵲のものを超えていること、また神仙類の図書目録に『黄帝岐伯按摩』十巻が著録されていることから、以下のような結論が下せる。すなわち、遅くとも劉向が校書したときには、医学の象徴としての扁鵲の意味が下降し始め、医学の象徴としての黄帝の意味が上昇し、かつ黄帝諸臣内での岐伯の地位が向上し、さらに医学の始まりとの関連が明らかになった。

    〔黄帝と岐伯は、医学の創始者とされ、医学を「岐黄の術」ともいう〕。

 第六、国家蔵書機構から見ると、「蘭台」は漢代に設立された国家蔵書機構で、内府〔宮廷〕に属する書庫である。『鍼経』『素問』には、秘典要籍を「霊蘭の室」に置くという経文が繰り返し登場する。その内容は以下の通り。

    「黄帝曰:……是謂陰陽之極、天地之蓋、請蔵之霊蘭之室、弗敢使泄也」。(『霊枢』外揣(45))

    「黄帝曰:善。請蔵之霊蘭之室、不敢妄出也」。(『霊枢』刺節真邪(75))

      ―楊上善注:霊蘭之室、黄帝蔵書之府、今之蘭台故名者也。(『太素』〔巻22〕五節刺)

    「黄帝曰:善哉、余聞精光之道、大聖之業、而宣明大道、非斎戒択吉日、不敢受也。黄帝乃択吉日良兆、而蔵霊蘭之室、以伝保焉」。(『素問』霊蘭秘典論(08))

    「帝曰:至哉!聖人之道、天地大化、運行之節、臨御之紀、陰陽之政、寒暑之令、非夫子孰能通之!請蔵之霊蘭之室、署曰『六元正紀』、非斎戒不敢示、慎伝也」。(『素問』六元正紀大論(71))

    「帝乃辟左右而起、再拝曰:今日発蒙解惑、蔵之金匱、不敢復出。乃蔵之金蘭之室、署曰気穴所在」。(『素問』気穴論(58))

    「黄帝曰:善乎哉論!明乎哉道!請蔵之金匱、命曰三実、然此一夫之論也」。(『霊枢』歳露論(79))

『素問』の経文そのものから「金蘭の室」は「金匱」であることが分かり、「霊蘭の室」についての楊上善注によれば、すなわち「蘭台」であり、みな蔵書の府である。その中の「蘭台」は漢代に設立された国家蔵書機構で、内府に属する蔵書室であり、多くの国家法規と皇帝の詔令などを所蔵している。同時にまた重要な校書・著述の場所でもある。蘭台の全盛期は前漢の明・章・和帝三朝のときで、和帝以後、東観の興隆とともに多くの文人が東観の修史に召集され、蘭台の国家蔵書・著述と校書の機能は、次第に東観に取って代わられた[12]。「金匱」は秦代の国家蔵書室であり、漢代には外府〔王室〕に属する蔵書室として用いられ、所蔵された多くは玉版〔貴重な典籍、特に図などを含む〕と図讖〔未来の吉凶を予言した書物〕である[13]。『鍼経』『素問』に見える多くの「霊蘭の室」「金蘭の室」が、みな「帝曰」「黄帝曰」とともに言及されているのも道理である。

 以上の6点を総合すると、以下のことが分かる。すなわち、『鍼経』『素問』は漢代に成書した。およそ文化思想の大一統を構築した『淮南子』がしだいに解禁されてきた前漢晚期から、『傷寒論』が成書した後漢晚期までの間である。第6条から見れば、成書年代の下限は、後漢中期まで引き上げることができる。なぜなら、後漢の初期には蔵書の校書はまだ蘭台で行なわれていたが、和帝〔在位88~105〕以後、後漢末まではずっと東観で行なわれていた。もし成書が後漢中期以後であれば、『鍼経』に頻繁に言及される国家官庁蔵書室の大半は、「東観の室」「東観」などと書かれたはずである。

『素問』のテキストにはより古風で素朴な特徴があるので、『素問』が先にでき『鍼経』ができたのはそれより後である、と考えるひとがいる。しかし筆者が調べたところ、『素問』には『鍼経』の結語篇の文を注解した篇が2篇あるのだから、『鍼経』より前に成書したはずがないことは明らかである。人々がこのような印象を持つ理由は、主に作者が内外篇に対して異なる位置づけをし、異なる編纂方法を採用したことを理解できていないことによる。『鍼経』の理論革新に対して、『素問』は古典の整理という性質をより多く持っているため、集録された初期文献の旧態がより多く保存されているのである。


拙訳 黄龍祥 『鍼経』『素問』の編撰と所伝の謎を解く 01

正しい翻訳は『季刊内経』No.220(2020年秋号)掲載

 左合昌美先生訳 『針経』『素問』編撰と流伝の謎を解く

 をご覧下さい


○付き数字の後の文は、原注。原文では、頁末の脚注になっているが、翻訳では段落の末に移した。

〔〕内は、訳注。 

 【要旨】伝世本『霊枢』『素問』の編纂にかかわる思想を掘り下げ整理することによって、両者は一つのまとまった書籍の二つの部分であることが分かった。両者の性質と関係は、『霊枢』は内篇で、理論革新の作であり、その叙述方法は「撰」を主とする。『素問』は外篇で、臨床応用と資料整理の性質を有し、叙述方法は「編」を主とする。内篇外篇はいずれも前漢晚期から後漢の間に成書した。作者は国家蔵書機構に長く勤めていた一流の学者である。宋以前では外篇は広く伝えられたが、内篇は限定的であった。両者は伝承される過程で、内容に亡佚・補足、篇の順序の乱れや人為的な調整があるとしても、全体としては変容の程度はそれほど大きくない。特に内篇『霊枢』に関してはそうである。

  【キーワード】『鍼経』;『素問』;『黄帝内経』;編纂思想;版本の流通伝播

 伝世本『霊枢』『素問』はいつ成書したのか?誰の手によるのか?古い医籍を整理した産物か?それとも理論革新の結晶か?二つの異なる本か?それとも同一書の異なる二つの部分か?筆者の最新の研究で得た結論は以下の通り。

 第一、伝世本『霊枢』『素問』は一つのまとまった本の二つの部分である。前者は内篇であり、理論革新の作品である。後者は外篇で、臨床応用と資料整理の性質を有する。原書は全体の題名は付けられなかった。その外篇は『素問』という。しかし内篇には書名が付けられず、魏晋の時には暫定的に『九巻』が用いられた(後にはまた『九霊』『九墟』『鍼経』『霊枢』などの別称もある)。『鍼灸甲乙経』序は「黄帝内経」を「九巻」「素問」の全体的な書名としたが、劉向が整理し、『漢書』藝文志に著録された『黄帝内経』とは異なる書である。

    〔劉向:[前77ころ~前6]中国、前漢の経学者。本名、更生。字(あざな)は子政。宮中の書物の校訂・整理に当たり、書籍解題「別録」を作り、目録学の祖と称される。/デジタル大辞泉〕


 第二、この本の内外篇はともに前漢晚期から後漢の間に成書した。作者は国家の蔵書機構に長い間勤めていた一流の学者で、主に執筆された時期は、その退任または罷免された後の数年間内である。

 第三、『霊枢』『素問』は伝承過程において、その内容は亡佚および補足、篇の順序の乱れや人為的調整があるが、全体的に言えば、変容の程度は大きくない。特に『霊枢』の部分に関してはそうである。

 第四、この書の内篇『霊枢』の主要な価値は、漢以前の各医籍を保存することではなく、漢以前の各医家の説を整理統合し、統一的な中医鍼灸学の理論体系を創設したことにある。


1 構成

 伝世本『霊枢』『素問』の篇名を詳しく調べてみると、次のような法則があることが分かった。

 ①身体観の系統的な論述、および鍼灸学体系の分部理論(気街説・経絡説・経筋学説・営衛説・三焦説など)は、いずれも『霊枢』にあり、鍼道に関する解釈・修練・応用、および非主流の諸説別論は、『素問』に多い。

 3篇の鍼道別論「陰陽別論」「五臓別論」「経脈別論」はすべて『素問』にあり、その他の別説もみな『素問』にも置かれている。6篇の経文に関する注解は、「小鍼解」の1篇を除いて、その他の5篇はみな『素問』にある。また、収録されている扁鵲医籍7篇も、『素問』にある。

 ②主流である学説・診法・輸穴・刺法・治法は、『霊枢』にある。しかし主流ではない、あるいは廃れてしまった学説・診法・刺法・治法は、『素問』にある。

 例えば、正経〔十二経脈〕・経刺および経輸の本輸・標輸・背輸に関する論などは、みな『霊枢』にある。しかし奇経・繆刺・背輸の別法は『素問』にある。漢代に主流であった、あるいは新たに提唱された寸口脈法・人迎寸口脈法といった脈診は、『霊枢』に集中している。しかし三部九候のような脈診の古法は『素問』にある。扁鵲の早期の鍼処方である砭刺と刺脈のような鍼の古法、および灸法の臨床応用などは『素問』にある。

 ③刺法の基準と治療の大法〔憲法・法則〕は『霊枢』に集中し、具体的な臨床応用は『素問』に多い。

 標準および治療の大法は『霊枢』にあり、著者の「必明為之法(必ず之を為す法を明らかにし)」「為之経紀(之を経紀と為す)」〔『霊枢』九針十二原(01)〕という編纂の趣旨をまさに体現している。

 以上の3つの面の対比から、著者の『霊枢』『素問』両書に対する異なる位置づけが非常に明確に反映されているのが分かる。すなわち『霊枢』が主であり、『素問』が補である。漢代の書籍にある「内」「外」という体裁で分けるとすると、『霊枢』は内篇であり、『素問』は外篇である。内篇では理論の革新、体系の構築がより多く体現されていて、外篇では理論の臨床応用に重きを置き、より多く実用性と資料性を体現している。前者は「撰」の要素がより多く、後者は「編」の要素がより多い。

 篇名から見ても、『霊枢』『素問』の主従関係は一目瞭然である。『霊枢』には「玉版」があり、『素問』にはこの篇を発展させた「玉版論要」「玉機真蔵」がある。『霊枢』には「経脈」があって、『素問』には「経脈別論」がある。

 引用文の記述形式をみると、伝世本『霊枢』『素問』には7箇所、引用文の前に「経言」の表記がある。そのうち6例は『素問』で、引かれている文はすべて伝世本『霊枢』に見られる。『霊枢』に見えるのは『歳露論』の1例のみである。「黄帝問于岐伯曰:『経』言夏日傷暑、秋病瘧。瘧之発以時、其故何也?」この文は『鍼灸甲乙経』と『太素』には見えないし、次の答えも質問には対応していない。明らかに誤りである。『素問』には『霊枢』の経文を注解した篇がたくさんあるが、『素問』自身にある経文を注解した篇は一つもない。反対に『霊枢』には『素問』の経文を注解した篇はなく、唯一あるのは『霊枢』自身の経文のみである。『霊枢』を「経」、『素問』を「伝〔注解〕」として構想した作者の意図が明らかに見てとれる。伝世本の『霊枢』『素問』の関係は、漢代の劉安『淮南内』『淮南外』の「内篇は道を論じ、外篇は事を言う」〔『漢書』藝文志「淮南外三十三篇」顔師古注:「内篇論道、外篇雑説」〕のようなものであり、道と事の関係もまさに『淮南子』後序に言う『道を言いて事を言わざれば、則ち以て世と浮沈する無し。事を言いて道を言わざれば、則ち以て化と遊息する無し」である。このように、内外表裏が符合し、主と次があり、詳と略があり、一方では理論革新の簡明さが際立ち、一方では臨床応用の実用性と資料性を兼ね備えている。

 このような内外篇の異なる性格と目的の位置づけも、両者の書き方での異なる構想を決定づけた。具体的な情況は以下の通り。

 内篇には構想上、序論的性質をもつ冒頭篇「九針十二原」と全書の要旨を総括する結語篇「官能」がある。各篇の間の論理関係が緊密であるため、全体にわたって前後の篇章には高い頻度で内容を相互に引用する「互引」の例が現われる。外篇『素問』には構想上、内篇で論じられた鍼道に対する注釈と応用、および鍼道の非主流の別論が示され、実用性と資料性が際立つ。したがって、多くは篇と篇の間には密接な内在的なつながりはあらわれず、「互引」の例はほとんど見られない。

 また指摘しなければならないのは、『霊枢』はもともと9巻であったかも知れないが、81篇とは限らない。伝世本48篇「禁服」は「九鍼六十篇に通ず」という。また結びにあたる「官能」篇は伝世本では73篇目であることから、原本の篇幅は70篇前後と推測される。伝世本の『霊枢』の前9篇を詳細に読んでみると、全書を大きく要約したもののようであることに気づく。なぜなら、「終始」(9)を先に編集していたのであれば、「禁服」(48)を再編する必要がなく、たとえ編集するとしても終始篇を直接引用するはずで、「外揣」(45)からは引用しないはずである。同様に「経脈」(10)の人迎寸口診法の内容も、終始篇を直接引用するはずで、禁服篇からは引用しないはずである。これから推察すると、『鍼経』の原本は、60篇で完成した本をまず編集し、さらに9篇の略本を編集し、結語篇を加えて、全体の篇幅は70篇前後となったのである。

 

2020年11月9日月曜日

2020.11.08. 粗読講座 『霊枢』通天篇 第七十二 (担当:大八木)

十一月八日の粗読講座のまとめです。


・通天篇全体の内容は、
黄帝が問い少師が答える形で

①陰人と陽人の違いは?
→陰陽に、さらに五がある

②その概略は?
→人に五つの態がある

③その違いは?
→太陰、少陰、太陽、少陽、陰陽和平の五態で、それぞれの人の性格が違う

④その治療法は?
→五態ごとに陰と陽を診て、それに応じて、虚、実、補、写、をする

⑤初対面の人の五態の見分け方?
→顔色や立ち振る舞いを見て判断する

となっています。


・黄帝の問答相手の少師について考えました。

少師は、中国古代の高官の職名でした。
朝鮮の王朝でも、少師の職名がありました。


・篇名の通天について考えました。

通天の語は、『霊枢』では、通天篇の篇名のみに使われ、
『素問』では、生気通天論篇の篇名及び文中に、病能論篇、六元正紀大論篇の文中に使われています。

また、中国古典に通天の語のあるものは意外と少なく、
『荘子』知北遊篇、『韓詩外伝』巻八第八章、などがあります。
この両書の当該篇では、どちらも黄帝と他者との問答が記されて点に注目しました。


・「口」について考えました。

通天篇の「口弗能遍明也」(口ではなかなか申しにくい)と、
『荘子』知北遊篇の「夫知者不言」(そもそも知者は物を言わない)との相似に注目しました。


・通天篇の文中の陰陽和平の人を説明する語の顒顒然について考えました。

『韓詩外伝』巻八第八章は、君子について論じていますが、
そこに引用される詩句は『詩経』大雅・巻阿篇で、
この巻阿篇に顒顒の語があります。

なお、この『詩経』巻阿篇は君子の姿を詠っています。


・通天篇の著者の真意を考えました。

通天篇では、結語的に陰陽和平の人が君子だ、としていますので、
人を君子に導く治療が理想だとする意(君子論)が、この通天篇の著者の眼目であるかもしれない、と考えました。


以上です。
この篇に関連する『素問』『霊枢』の他篇の読み込みが必要と感じました。

2020年10月30日金曜日

『類經』ノート 卷一・三、古有真人至人聖人賢人 つづき(七ウラ~)さらに

 ○天地之道,天圓地方,

『靈樞』邪客:「天圓地方,人頭圓足方以應之」。

『大戴禮記』曾子天圓:「天圓而地方者,誠有之乎」。

百度百科によれば,「天圓地方」は『尚書』虞書・堯典が出典。

https://baike.baidu.com/item/%E5%A4%A9%E5%9C%86%E5%9C%B0%E6%96%B9


○乾為天,乾者健也;坤為地,坤者順也。君子之自強不息,

『易經』乾・象傳:「天行健,君子以自強不息」。


○安時處順,

『莊子』養生主:「安時而處順,哀樂不能入也」。大宗師:「安時而處順,哀樂不能入也」。


★このように,類注を読んでいて,経文(本文)とどう繋がりがあるのかと首をかしげたくなる文が出てきた場合は,出典があるのではないかと考えて類文を検索すると,古籍で見つかる可能性が高いです。

出典がみつかれば,著者張介賓のいいたいことがより深く理解できるようになるでしょう。

いまでは,中国哲学思想の基礎的知識教養がなくても,ある程度,出典を探し出すことができる時代になりました。

2020年10月29日木曜日

郭靄春先生

  これまた偶然に、1985年11月の第1回天津学術交流会の写真が出て来ました。35年前の写真です。なんと郭靄春先生が写っていました。もう一人は金古英毅さん。 



2020年10月22日木曜日

安徽中医薬大学 王鍵学長

  ふと、本箱から、安徽中医薬大学に招待されたときの名刺群が出て来ました。10年くらい前なのかなあ。

 学生3万人の大学の学長が王鍵さんで、なんどか食事に招待されました。生まれ年が同じなので気安くなりましたが、片や学長さん、片や小さな会の会長さん。よく招待してくれたと思います。

 ネットで検索したら、2020年10月16日、王鍵学長の収賄罪が確定したもよう。10年の刑と、60万元の罰金だと。なんとまあ。まさに裏表、天国と地獄。こういうのを陰陽というならば、日本では陰陽の真の理解はできないのだろう。陰陽はあまり振りかざさないほうがいいかも。

 かの有名な石学敏の名刺もありました。フランスの中医学の校長の名刺もありました。ずいぶん高名な方々とお会いしているのですが、あまり血肉になりませんでした。

 そういえば、香港中文大学からもご招待受けたこともあります。日本内経医学会というのは、だいぶ有名らしい・・・

2020年10月20日火曜日

『類經』ノート 卷一・三、古有真人至人聖人賢人 つづき(七ウラ~)

 ○聖,大而化也。

『孟子』盡心下:「何謂善?何謂信?」曰:「可欲之謂善,有諸己之謂信。充實之謂美,充實而有光輝之謂大,大而化之之謂聖,聖而不可知之之謂神。樂正子,二之中,四之下也。」


○和其光,同其塵也。

『老子道徳經』四:「和其光,同其塵」。和光同塵:光を和らげ塵に同ずる。すぐれた才能を隠して、俗世間に交わる。


○人操必化之器,託不停之運。

宋・褚伯秀注『南華眞經義海纂微』(『莊子』)卷之十六・内篇大宗師第三:「世人操必化之器、託不停之運、為化所遷、不自知也」。

東晉・張湛注『沖虚至德眞經』(『列子』)卷一・天瑞:「昧者操必化之器、託不停之運、自謂變化可逃、不亦悲乎」。


○烏飛兔走,誰其免之?

【烏飛兔走】古代傳說太陽中有金烏,月亮中有玉兔。比喻日月運行,光陰流逝快速。歳月のあわただしく過ぎ去るたとえ。月日の速く過ぎるたとえ。

【烏兔】神話中,日中有烏,月中有兔。後人則以烏兔代稱日月。

2020年10月16日金曜日

九針十二原篇のあらまし(仮)

〇黄帝と岐伯の問答の辞から始まる2段落とする。前の段落は九針の篇で「どう刺すか」,後の段落は十二原の篇で「どこへ刺すか」。

〇微針を以て経脈を通じることによる治療を確立したい。そのために先ず『針経』を成立させる。

〇補写の3様:

➀小針の要:刺の微は速遅に在る。つまり刺すべきときに刺し,抜くべきときに抜く。タイミング。

➁大要:徐刺速抜と速刺徐抜。手技のスピード。

➂写曰迎之,補曰随之:術者の責任か,患者の身体の反応次第か。

漏らすつもりであれば,術者が積極的に奪いにいくべきである。保つつもりであれば,じっくりと聚まるのを待つしか無い。術者の思惑通りにはいかない。

〇此処に施術しても彼処に何の反応も無いとしたら,その間に障碍物が有るはずであり,血絡として横居しているのであろうから,それを取り除く。

〇上記のような状態を解決するには,針術がもっとも有効である。そこで様々な針の形状と用途を説く。いずれも針の尖端を病処に届かせる。どうして遠隔操作的な針術を記述しないのか。

〇陥脈,中脈は刺針の深度の問題。ごく浅く刺して陽邪を散じ,やや深く刺して陰邪を漏らす。さらに深くして分肉の間に届けば精気が至る。

〇病によって在る処はそれぞれであるから,用いるべき針はそれぞれであるべきで,相応しくない針の使用,過剰な施術は危険をまねく。

〇針の施術が有効であるのは,患者の身体が反応したからであり,闇雲に刺しさえすればいいとというわけにはいかない。刺の道は,気至らざればその数を問うこと勿れ,気至れば乃ちこれを去り,また針すること勿れ。

〇針術は極めて微妙なものであるが,曖昧というわけものではない。きちんと施術すれば明確な反応が現れるはずである。

〇経脈には神気の遊行出入するポイント=本輸がある。

〇経脈の一端に本輸があり,他の一端に蔵府がある。

〇五蔵の気は,内の掖膺と外の四末で,絶したり実したりしている。内が絶したときに,外を実せしめてはならぬ。外が絶したときに,内を実せしめてはならぬ。腋膺か四末か。刺すところによって,経脈に傾斜が生じる。

〇施術量は必要充分であるべきで,過剰になったりすることが特にいけない。

〇腕踝の関節の原穴が,五蔵の診断兼治療点である。

〇鬲肓の原は府の病を分担する。脹満と飱泄である。

〇五蔵の疾の類型は,たとえば刺閉のごとし。

〇瀉は熱に対する散針,補は寒に対する留針をもととする。

〇腹中に熱症があれば,三里で下す。

〇脹満には鬲の原,(胃)大腸の下合穴,さらに陽陵泉。飱泄には肓の原,小腸の原,さらに陰陵泉。

 

2020年9月24日木曜日

邪気蔵府病形篇

 『太素』27邪中

  黃帝問[]歧伯曰:邪氣之中人也奈何?

  歧伯曰:邪氣之中人也高。

  黃帝曰:高下有度乎?

  歧伯曰:身半已上者,邪中之也;身半以下者,濕中之也。故曰:邪之中人也,无有恒常,中于陰則留于府,中于陽則留于經。

  黃帝曰:陰之與陽也,異名同類,上下相會,經絡之相貫,如環无端。邪之中人也,或中於陰,或中於陽,上下左右,无有恒常,其故何也?

  歧伯荅曰:諸陽之會,皆在于面。人之方乘虛時,及新用力,若熱飲食汗出腠理開,而中于邪。中面則下陽明,中項則下太陽,中于頰則下少陽,其中于膺背兩脇亦中其經。

  黃帝曰:其中于陰奈何?

  歧伯荅曰:中于陰者,常從臂胻始。夫臂與胻,其陰皮薄,其肉淖澤,故俱受于風,獨傷其陰。

  黃帝曰:此故傷其藏乎?

  歧伯曰:身之中于風也,不必動藏。故邪入于陰經,其藏氣實,邪氣入而不能客,故還之于府。是故陽中則溜于經,陰中則溜于府。

  黃帝曰:邪之中藏者奈何?

  歧伯曰:愁憂恐懼則傷心。形寒寒飲則傷肺,以其兩寒相感,中外皆傷,故氣逆而上行。有所墯墜,惡血留內,若有所太怒,氣上而不下,積于脇下,則傷肝。有所擊仆,若醉入房,汗出當風,則傷脾。

  有所用力舉重,若入房過度,汗出浴水,則傷腎。

  黃帝曰:五藏之中風奈何?

  歧伯曰:陰陽俱感,邪乃得往。

  黃帝曰:善。

  黃帝問[]歧伯曰:首面與身形,屬骨連筋,同血合氣耳。天寒則裂地凌水,其卒寒,或手足懈墮,然其面不衣,其故何也?

  歧伯曰:十二經脈,三百六十五絡,其血氣皆上於面而走空竅。其精陽氣,上於目而爲精;其別氣,走於耳而爲聽;其宗氣,上出於鼻而爲臭;其濁氣,出於胃,走脣舌而爲味;其氣之津液,皆上熏於面,面皮又厚,其肉堅,故熱甚,寒不能勝也。

『太素』15色脈尺診

  黃帝曰:邪之中人,其病形何如?

  歧伯荅曰:虛邪之中身也,洫泝動形。正邪之中人也微,先見于色,不知于身,若有若無,若亡若存,有形无形,莫知其情。

  黃帝曰:善。

  黃帝問[]歧伯曰:余聞之,見其色,知其病,命曰明;按其脈,知其病,命曰神;問其病而知其處,命曰工。余願聞之,見而知之,按而得之,問而極之,爲之奈何?

  歧伯荅曰:夫色脈與尺之相應也,如桴鼓影響之相應也,不得相失也。此亦本末根葉之出候也,故根死則葉枯矣。色脈形肉不得相失也,故知一則爲工,知二則爲神,知三則神且明矣。

  黃帝問曰:願卒聞之。

  歧伯荅曰:色青者其脈弦,色赤者其脈句,色黃者其脈代,色白者其脈毛,色黑者其脈石。見其色而不得其脈,反得其相勝之脈,則死矣;得其相生之脈,則病已矣。


2020年9月22日火曜日

  『類經』〔一六二四年序〕ノート 卷一・三、古有真人至人聖人賢人(四ウラ~)

○白樂天〔七七二~八四六〕曰:「王喬・赤松、吸陰陽之氣、食天地之精、呼而出故、吸而入新」。

    ■出典未詳。/淮南王の劉安 (前 一七九?~前 一二二) 編輯『淮南子』泰族訓:王喬・赤松、去塵埃之間、離群慝之紛、吸陰陽之和、食天地之精、呼而出故、吸而入新。(王喬と赤松は、俗塵を去って、よこしまな俗事から離れ、陰陽の和気を吸い、天地の精を食らい、古い気を吐き出し、新しい気を吸い入れた。)王喬・赤松は、『列仙傳』を参照。

○方揚〔明代。字は思善。一五七一年、進士。〕曰:「凡亡於中者、未有不取足於外者也。故善養物者守根、善養生者守息」。此言養氣當從呼吸也。

    ■明・焦竑(一五四〇~一六二〇)『莊子翼』卷六外物:方思善:「凡亡於中者、未有不取足於外者也。……故善養物者守根、善養生者守息。此至人所以貴天游也」。

○曹真人〔曹文逸、宋朝宣和年間(一〇〇九~一一二六)の女道士〕曰:神是性兮炁〔=氣〕是命、神不外馳炁自定。

    ■曹文逸『靈源大道歌』:「神是性兮氣是命、神不外馳氣自定。本來兩物更誰親、失卻將何為本柄?」

○張虛靜〔張虛靖(本名は張繼先。道教正一派第三十代天師。一〇九二~一一二七。『虛靖語錄』。別稱:張虛靖、虛靖公、虛靖天師)〕曰:「神若出、便收來、神返身中炁自回」。此言守神以養氣也。

    ■『道法心傳』:虛靖天師曰:「神若出、便收來、神返身中氣自迴」。

○淮南子曰:「事其神者神去之、休其神者神居之」。此言靜可養神也。

    ・『淮南子』俶真訓:「是故事其神者神去之、休其神者神居之」。

○金丹大要〔元代の道士・陳致虛撰。致虛、字は觀吾、号は上陽子、故に『上陽子金丹大要』ともいう。〕曰:「炁聚則精盈、精盈則炁盛」。此言精氣之互根也。

    ■元・陳致虛撰〔紫霄絳宮上陽子觀吾陳致虛撰〕『上陽子金丹大要』卷之三・上藥 精氣神說上:「精與炁相養、炁聚則精盈、精盈則炁盛」。

○契秘圖曰:「坎為水為月、在人為腎、腎藏精、精中有正陽之氣、炎升於上。離為火為日、在人為心、心藏血、血中有眞一之液、流降於下」。此言坎離之交構也。

    ■『上陽子金丹大要』卷之五:『契祕圖』曰:「坎為水、為月、在人為腎。腎藏生精、精中有正陽之氣、炎升于上、精陰氣陽、故鉛柔而銀剛」。……『契祕圖』曰:「離為火、為日、在人為心。心藏生血、血中有眞一之液、流降于下、血陽液陰、故砂陽而汞陰」。

○呂純陽〔唐。796年生まれ。原名は呂岩。字洞賓、別號純陽子、又號回道人。道教主流——全真道祖師、中國民間傳說中的八仙の首、道教仙人の一。〕曰:「精養靈根炁養神、此眞之外更無眞」。此言脩眞之道、在於精炁神也。

    ■呂純陽『絶句』:「精養靈根炁養神、此真之外更無眞」。

○胎息經〔『高上玉皇胎息經』。唐代か?道家養生の術、胎息(呼吸法)の要旨を説く。七言韻文で全篇八十八字。〕曰:「胎從伏氣中結、氣從有胎中息、氣入身來爲之生、神去離形爲之死、知神氣可以長生、固守虛無以養神氣、神行即氣行、神住即氣住、若欲長生、神氣須注、心不動念、無來無去、不出不入、自然常住、勤而行之、是眞道路。胎息銘曰:三十六咽、一咽爲先。吐唯細細、納唯綿綿。坐臥亦爾、行立坦然。戒於喧雜、忌以腥膻。假名胎息、實曰內丹。非只治病、決定延年。久久行之、名列上仙」。此言養生之道、在乎存神養氣也。

    ■『胎息經』:「胎從伏氣中結、氣從有胎中息。氣入身來為之生、神去離形為之死。知神氣可以長生、固守虛無以養神氣。神行即炁行、神住即炁住。若欲長生、神氣相注。心不動念、無來無去、不出不入、自然常住。勤而行之、是真道路。 胎息銘:三十六咽、一咽為先。吐唯細細、納唯綿綿。坐外亦爾、行立坦然。戒於喧雜、忌以腥羶。假名胎息、實曰內丹。非只治病、决定延年。久久行之、名列上仙」。

○張紫陽〔北宋の道士。原名は伯端、字は平叔。九八四~一〇八二。『悟真篇』『讀參同契作』など。〕曰:「心能役神、神亦役心、眼者神遊之宅、神遊於眼而役於心、心欲求靜、必先制眼、抑之於眼、使歸於心、則心靜而神亦靜矣」。此言存神在心、而靜心在目也」。又曰:「神有元神、氣有元氣、精得無元精乎?蓋精依氣生、精實而氣融、元精失則元氣不生、元陽不見、元神見則元氣生、元氣生則元精產」。此言元精元氣元神者、求精氣神於化生之初也。

    ■張紫陽『玉清金笥青華秘文金寶內煉丹訣』心為君論:「心求靜、必先制眼。眼者神遊之宅也。神遊於眼而役於心。故抑之於眼、而使之歸於心、則心靜而神亦靜矣」。精從氣說:「神有元神、氣有元氣、精得無元精乎?蓋精依氣生。精實腎宮、而氣融之、故隨氣而升陽為鋁者、此也。精失而元氣不生、元陽不見、何益於我哉?元神見而元氣生、元氣生則元精產」。

○李東垣〔名は杲、字は明之。東垣は号。一一八〇~一二五一。〕省言箴曰:「氣乃神之祖、精乃氣之子、氣者精神之根蒂也、大矣哉!積氣以成精、積精以全神、必清必靜、御之以道、可以爲天人矣、有道者能之。余何人哉、切宜省言而已」。此言養身之道、以養氣爲本也。

    ■李東垣『脾胃論』省言箴:「氣乃神之祖、精乃氣之子。氣者、精神之根蒂也。大矣哉!積氣以成精、積精以全神、必清必靜、御之以道、可以爲天人矣。有道者能之、予何人哉、切宜省言而已」。

                      http://books.eguidedog.net/tw/books2/%E9%A1%9E%E7%B6%93/

                                                                中華經典古籍庫

                                          https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=468235

                                                          中國哲學書電子化計劃

                                                                              

 

2020年9月13日日曜日

2020.9.13. 粗読講座 『霊枢』脹論篇 第三十五 (担当:土山)

 

本日の粗読講座のまとめです。

疑問点は1回持ち帰って頂いて、またの機会に勉強させて頂きたいと思います。


・丸山先生は栞のなかで、脹論篇の治療法は明確性を欠いているとしており、補足として甲乙経の治法を挙げている。前半は「虚実に関係なく、脹病に対しては足三里の瀉法を行え」とあったのにも関わらず、中盤では「虚実を間違えないようよくよく診断できるのが良い治療家」とあることから、この補足を加えたと思われる。

・上記のように、統一感が度々失われていることから、それぞれの理論が固まった時代ごとに数人の作者がいると思われる。

・『素問』水熱穴論や評熱病論、『霊枢』水脹篇、衛気失常篇に浮腫の各論があり、本編は脹病の総論を述べた篇だと思われる。

・脹病の大きな原因は衛気の流通障害であり、臨床における衛気の大切さをあらためて実感したことから、もう一度衛気について深い追及をしたいところである。

・浮腫みに悩まされる患者は多いが、単に湿邪だけのせいとは考えにくい。日本人の浮腫みに多いのは水分過多な浮腫みではなく、衛気失調の浮腫みか?→その場合、水分を出すだけの治療ではなく、汗を止めたり、飲食物に気を使ったり、季節に応じた生活や睡眠を正すことで衛気失調から回復し、浮腫みなどの脹病が治療できると考える。

・錯簡と思われる条文が数か所ある一方、比喩表現も多彩であることから文化的な発展があった時代のものも含まれるか?


内経に時たま現れる素朴な比喩表現と臨床にも使える実用的な条文が混在しており、粗読するには単純に面白いと感じる一篇でした。季節は秋になりましたが、残暑がきつく、最近も汗が止まらない人が多い印象ですが、中には足冷えが始まっている人がいます。足三里をうまく使えば今の時期にふさわしい治療ができるのではないかと、少し期待もできた粗読でした。

2020年7月1日水曜日

『クラシカル素問』


「本書は、1956年に人民衛生出版社で印刷・出版された『重広補注黄帝内経素問』を底本としており、これは1852年に金山銭によって校勘されているものです。」

困ったものだ。
現代漢語の読解力が足りないのか,『素問』版本についての基礎知識を持っていないのか。

上記のネット記事しか読んでいないが,
この訳書の底本は,人民衛生出版社の活字本(1963年初版)だと思う。
そうであれば,上記の説明は,あきらかに誤りである。
人民衛生出版社の「出版説明」には,次のようにある。
*******************************************************
われわれ(人民衛生出版社)は,我が社が1956年に景印出版した顧從德本『素問』を監本とし,1852年の金山の錢氏守山閣本とその校勘記,および関聯書を参考にして,全面的に校勘を行なった。
*******************************************************
1956年本を底本として,1852年本の校勘記事などを取り入れた上で,全体を校勘し,1963年に出版した本である。
 「校勘記」は,もちろん金さんのものではない。金山は地名。守山閣の錢熙祚のものでもなく,顧觀光の『素問校勘記』である。

2020年5月18日月曜日

2020.5.17. 粗読講座 『霊枢』海論 第三十三 (担当:中野)

人の営衛血気が流れ集まるものとして、胃・衝脈・膻中(胸中)、脳を挙げ、それぞれ自然界の四海になぞらえて水穀・血・気・髄の海と定める。
四海それぞれの診断点と有余不足の症状を説明し、治療原則を示す。

以下、あがった疑問に対して話した内容です。
(いろいろ話はしましたが結論は出ていません。各自持ち帰り、考えたい人は考える。)
「四」はどこから来た?
・『山海経』では4つの海と表現されている
・「四海」には「世界」の意味がある
・『論語』顔淵第十二の五に「四海」を「世の中」という意味で使われている
・「7つの海」という表現はどこから?→ヨーロッパ圏の影響だと思われる
・ギリシャの四元素説(ガレノスの四体液説につながる)からインドの四大説、そこからの仏教やインド医学、チベット医学の影響があるのではないか
・主流の医学として残っていない、モンゴルや少数民族の世界観や医学からの影響もあるかもしれない

「衝脈」って結局なに?
・「血の海」ということから大動脈を指しているのではないか
・衝脈の「十二経之海」という表現は、海論の他に素問霊枢では動輸(63)にある
他に『素問』で痿論(44)に「経脈之海」、『霊枢』で逆順肥痩(38)に「五蔵六府之海」、五音五味(65)に任脈と併せて「経絡之海」とある(「血の海」という表現はどこから来てる?)
・任脈、督脈の深いところが衝脈という解釈がある
・『素問』上古天真論(1)で女子十四歳の説明で「任脈通太衝脈盛」とあり、王冰注に「衝為血海」とある
・女性の生理・病理に関する記述に衝脈が出てくるが、男性の衝脈はどのように考えられているのか

2020年4月15日水曜日

丸山先生のオンライン鍼灸治療

 『素問・鍼経の栞』(日本内経医学会、1995)の中に島田先生が「丸山昌朗先生のこと」と題し丸山先生のことを書き残しています。
 その中に今風に言えば「オンライン診療・鍼灸版」のお話が出てきます。気の波長が遠隔操作で患者さんに響くのでしょう。紹介しておきます。


「丸山昌朗先生のこと」

 一、はじめに


 一年間にわたって丸山先生の『校勘和訓黄帝素問』と『校勘和訓黄帝鍼経(通称『霊枢』)』テキストをもとにした日本内経医学会の講座が開かれたことに感謝致します。先生の没後十八年にして先生のテキストを基にして、多くの新進の鍼灸家によってここまで新たな研究が展開されるようになったことを先日墓前に報告して来ました。きっと泉下の先生もお喜びになられていることと思います。
 今日はこの一年のまとめとして先生の業績や生涯についてお話ししたいと思います。と申しますのは、亡くなられてもう十八年も経ってしまって、先生のご生前に身近で飲み、語り、論じ合っていた人達、井上恵理・岡部素道・竹山普一郎・石原明・間中喜雄・石野信安・工藤訓正・豊田白詩・藤木俊朗・神戸源蔵などの諸先生が全て亡くなってしまって、先生のことを話す機会が段々なくなってしまう、と言うことが一つ。もう一つは、やっと私自身が平静に先生のことをお話しできるようになったかな、と言うこと。そしてまた、今お話ししておかないと、この日本内経医学会の魂のより所である丸山先生のことをお伝えする機会がなくなるのではないかと思うのです。ただ、非才です。お伝え仕切れないことを嘆く次第です。

 二、鍼灸臨床家としての丸山先生


 「内経研究が生涯のテーマだった丸山先生」というイメージが強いのですが、先生はあくまで鍼灸の臨床家です。

 先生は生来非常に病弱で、ご自分のことについて「生まれ落ちたときから到底一人前には成育の見込みがないと医師に宣言されていた」とお書きになられています。中学四年の時に欠席がちのために退学を勧奨されました。検査した所が、東大で《結核性の痔瘻》、直ちに手術の要ありと診断され、塩田外科に入院されました。精密検査をしたところが肺尖カタルと乾性肋膜炎を併発していることが分かり、当分手術不能と言われた。ご尊父が塩田教授に面会すると、「手術をしても完全に治癒するとは断言しかねる」とのこと。そこでご尊父が親交のあった当時の灸の名人・沢田健氏に相談した所、「痔瘻や肺尖カタルなどは一年間灸をすれば必ず治る」と断言された。ご尊父は沢田氏の言を信じて丸山先生を退院させ沢田健氏の灸治療を受けさせた。その言の通りに約十カ月間で完治し、その後は全く再発しなかったのです。

 このことがあって、ご尊父が「灸で命を救われたのだから、鍼灸を学んで恩返しをせよ。そのためには医師になっておかねばならぬ。早く免状だけ取って、あとは沢田先生の下で十年間修行しろ」と言われたので先生は医者の道を進まれることになったのです。

 先生は昭和十六年に昭和医学専門学校(現昭和大学医学部)を出られて医師となり、軍医に徴用された数年間を除いて、ついに一生涯、注射器と西洋薬を使われなかったのです。治療の手段はほとんど《鍼灸》だけでした。それに後年になって《漢方薬》を加えられました。

 《刺絡治療》での卓効、というより神効については、その一端が論文にも書かれてあります(『鍼灸医学と古典の研究―丸山昌朗東洋医学論集―』所収。創元社・昭和五十二年)。しかし鍼灸臨床については具体的なことを何も書き遺されていないので、ご存じの方が少ないのです。そこで、身近な例を一、二お話ししておきたいと思います。

 私の長女が小学校の一~二年の頃だったと思います。鍼灸学校を卒業したばかりで、往診などで遅くなり夜の十一時過ぎに帰宅すると、娘が先程からの突然の尿閉で泣いている。家内が「もう一時間くらい、トイレを往復しているがオシッコが出ない」と慌てている。先生に電話してご指示を仰ぐと「小指で三陰交の辺りを下から上に向かって軽くこすれ」と言われる。指示通りにすると、いままで泣き叫んでいた娘が「出た、出た」と大声で喜ぶ。「何故小指で、なのですか」と次にご教示を受ける機会にお聞きすると、「君の人指し指では強すぎるのだ」と。

 またまた自家体験です。家内の《行痺=移動性関節リウマチ》のことをお話ししましょう。そのころ月に一回ほど、幾つかの関節を移動していくリウマチ性の痛みに悩まされていました。先生にご相談した所、連れて来いと言われる。知熱灸のご指示をいただき、漢方薬を処方していただく。帰宅してから、せっかく戴いた漢方薬は一服も服用せず、一回も灸せずに、約一年間発作しない。たまたま先生からお電話を頂いたときに小生が不在で家内がでたとき、「その後リウマチはどうか」と聞かれる。「はい、お陰様で全然痛まずに過ごさせていただいております」とお答えする。その日からリウマチが再発したのです。やむを得ず再び診察をお願いして、連れて行くと、何もせずにまた治ってしまう。
 先生はご自分を《変弱》とあだ名することがありましたが、扁鵲の再来と自負されていたのかも知れません。

………
(以下略)

2020年3月9日月曜日

『内経』粗読の記録(霊枢)

内経講座の午前中に行っている『内経』粗読は、現在『霊枢』全81篇のうち25篇を読みました。
今日までの記録です。

年月日・篇名(篇番号)・担当

@鶯谷(第三日曜日)

2018.02.18.本神(08)土山
2018.03.18.五十營(15)中野
2018.03.18.營氣(16)中野
2018.04.15.病本(25)小宮山
2018.04.15.病傳(42)小宮山
2018.05.20.経脈(10)米谷
2018.05.20.経別(11)米谷
2018.06.17.四時気(19)土山
2018.07.15.骨度(14)山田
2018.07.15.脈度(17)山田

2018.09.16.九宮八風(77)吉田
2018.10.21.天年(54)大八木
2018.11.18.周痺(27)大久保
2018.12.16.雑病(26)江口

2019.01.20.五味(56)小宮山
2019.02.17.腸胃(31)中野
2019.02.17.平人絶穀(32)中野
2019.03.17.大惑(80)米谷
2019.04.21.玉版(60)土山

@北里(第二日曜日)

2019.05.12.五邪(20)大久保
2019.06.09.営衛生會(18)山田
2019.07.14.五味論(63)小宮山

2019.09.15.九鍼十二原(01)米谷
2019.10.13.(台風で中止)
2019.11.10.根結(05)土山(@多摩)
2019.12.08.(meeting)(@大森)

2020.02.09.陰陽清濁(40)山田
2020.03.08.(新型コロナで中止)