2011年1月31日月曜日

24-6 長寿養生灸治論伝記

24-6長寿養生灸治論伝記
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『長寿養生灸治論伝記』(チ・96)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』24所収

長壽養生灸治論傳記序文 爲人身骵脾胃藏者土也
○夫人者天地之受於気與理生出而保於長壽也以忠
以孝以仁于信心守於忠孝仁也是故備於天地人心物
之五臓也肝心脾肺腎木火土金水也故人之身体于胸
中下心之藏日神仁信火親止賜而祐於壽命夫々之務
於業全於生命継於先祖之後々也樂於子孫長榮者爲
諸皆人間之與常也福與貧者有運與不運又有勤與不
勤業也有壽命者皆是于養生爲人之身躰脾胃之藏者
  一ウラ
與土也天日親火者仁也是故從天日火受之火生土也
生〔シヤウウマルヽハヱルスヽムハヤシセイ/イキルナマシウムスキハヒソタテルヤシナフ〕
           與讀也此故自灸之火受之
人之身体土與脾胃之藏土生々而目出度々行於天理
爲長々於養命全于茲也 〔於赤坂類焼仕故/東都柴口新橋竹川町之横丁〕
 弘化四〔丁/未〕歳梅月〔陰陽師天社神道/活物本心流針灸醫〕栢野大文字貫齊(花押)
御上様 〔御醫師方/御覧之上〕奉進上 点見 淵齊堂展成(花押)
    御執心之方ヱハ進上申候


  【訓み下し】
長壽養生灸治(ぢ)論傳記序文 人の身體脾胃の藏は土と爲(す)るなり。
○夫(そ)れ人は、天地の氣と理とを受けて生まれ出でて長壽を保つなり。忠以(も)ち
孝以(も)ち仁以(も)ち信心に忠孝仁を守るなり。是の故に天地人と心物
の五臓を備えるなり。肝心脾肺腎木、火土金水なり。故に人の身体、胸
中(キョウチュウ/むねのした)下心の藏に、日神仁信火親止(とど)まり賜うて壽命を祐(たす)け、夫(それ)々の
業を務む。生命を全うして先祖の後々(あとあと)を繼ぐなり。子孫長榮を樂しむは、
諸(これ)皆人間の常と爲(す)るなり。福と貧とは、運と不運とに有り。又勤むと
勤業(つとめ)ざるとに有るなり。壽命は、皆是れ養生に有り。人の身體脾胃の藏は
  一ウラ
土(つち)と爲(す)るなり。天日(てんじつ)親火は、仁(めぐ)むなり。是の故に天の日(じつ)火(ひ)從り之を受けて、火(か)、土(つち)を生ずるなり。
生〔しょう、うまるる、はえる、すすむ、はやし、セイ/いきる、なまし、うむ、すぎわい、そだてる、やしなう〕
           と讀むなり。此の故に灸の火(ひ)自り之を受けて
人の身体の土(つち)と脾胃の藏の土(つち)と、生々(いきいき)して目出度(めでたく)々(めでたく)天理を行う。
長々(ちようぢよう)養命を茲(ここ)に全う爲(す)るなり。 〔赤坂に於いて類焼仕(つかまつ)る故/東都柴口新橋竹川町の横丁〕
 弘化四〔丁/未〕歳梅月〔陰陽師天社神道/活物本心流針灸醫〕栢野(かやの)大文字貫齊(花押)
御上様 〔御醫師方/御覧之上〕進上奉(たてまつ)る 点見 淵齊堂展成(花押)
    御執心の方へは進上申し候


  【注釋】
○骵・躰:「體」「体」の異体字。 ○
  一ウラ
○スキハヒ:すぎはひ。生業。「はひ」は接尾語。なりわい。生計を立てていくための職業。 ○東都柴口新橋竹川町:現在、東京都中央区銀座七丁目あたり。 ○弘化四〔丁/未〕歳:一八四七年。 ○梅月:旧暦二月。 ○陰陽師天社神道:現在、福井県大飯郡おおい町に(陰陽道)天社土御門神道の本庁がある。 ○活物本心流:本書末には「活物本心流針灸醫一天無二療治問家」とある。 ○栢野大文字貫齊:「齊」は「齋」の略字であろう。臨床鍼灸古典全書解説は「栢野」を「柏野」に誤る。また「本文十九葉、都合二十葉」とするが、「本文二十葉、都合二十一葉」であろう。 ○淵齊堂展成:


  書末にある跋を句切り、通用のカナにかえる。

  (跋)
愚、針灸にて難治の卒中風、勞症、肝症、肺よふ、風疾、脹滿、累年の持病疼、積、留飲、
疝氣、脚氣、打身、くじき、其外諸病、即坐より二三四五治にて全快
して、其人〃の直筆實印の禮證文を申受有之故ニ、疑人にハ見せ申候、但し頭痛、
霍亂その外、病ニよりて針を以、即坐ニ治す故ニ、治療を受て、其功知り給ふへし、
 活物本心流針灸醫一天無二療治問家    栢野大文字貫齊


  【注釋】
○愚:自己についての謙遜語。 ○肺よふ:肺癰。 

2011年1月29日土曜日

24-5 増補灸穴早合点

24-5増補灸穴早合点
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『増補灸穴早合点』(キ・74)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』24所収
漢字にはあらかたフリガナが施されているが、おおむね省く。句切る。■は破れていて判読しがたい部分をあらわす。

夫(それ)灸法ハ諸書にあらは■■醫術の人ハかねてしれる所なり、今爰(ここ)に集むるハ世の人
多く煩ふ所の病症、留飲■症・きのかた・せんき・しやく・つかえを初めとし、病名・灸穴を
抜出(ぬきいだ)し、いろは付(つけ)をもつて記之(これをしるす)、又四花患門・脊上五處・騎竹馬及(および)膏肓・三里
等(とう)ハ古今の名灸なれば、別に其(その)主治(しゆぢ)兪(しう?)穴(けつ)を詳(つまびらか)にし、灸治(きうぢ)に委(くはし)からざる人に便(たよ)りす、

  【注釋】
○留飲:六飲の一つ。『金匱要略』痰飲咳嗽病脈證治「留飮者、脇下痛引缺盆、欬嗽則輒已。胸中有留飮、其人短氣而渇、四肢歴節痛、脉沈者有留飮」。 ○きのかた:気の方。神経衰弱。気うつ病。労咳。 ○せんき:疝気。 ○しやく:積。 ○脊上五處:詳しくは本文を参照。出典は『千金方』卷第十四・風癲第五「大人癲、小兒驚癇、灸背第二椎、及下窮骨兩處、以繩度、中折繩端一處是脊骨上也、凡三處畢復斷繩作三折、令各等而參合如ㄙ字、以一角注中央灸、下二角俠脊兩邊、便灸之、凡五處也、故畫圖法以丹注所灸五處、各百壯、削竹皮為度、勝繩也」。

2011年1月28日金曜日

24-4 經絡括要

24-4經絡括要
       京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『經絡括要』(ケ・173)
       オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』24所収
  一オモテ
經絡括要序
夫經絡者軒岐之言而出乎靈
素則其來也尚矣然而經絡流
注兪穴處所晉唐以降逮于宋
眀其説不乏然紛糾雜亂不免
有謬誤其誰適從可淂其眞乎
  一ウラ
蓋兪穴一差則灸刺非徒無益
反遺害於人也故聖人眀經絡
流注兪穴處所以垂教乎萬世
其有旨哉余友玄周其爲人強
識剛毅慨然發憤潛心於經絡
之書考究兪穴舉其尤難淂眞
  二オモテ
要穴五十有八從經旨能加辨
折以正衆説之是非名之曰經
絡括要其言也精且確足以使
後學淂所統知兪穴之眞矣其
功豈可不謂偉哉醫局命之剞
劂其功已完矣玄周瞽也而心
  三オモテ
不盲余嘉其於鍼業精思焦心
有所發眀題其卷首云
文政十年丁亥十二月既望
     畑定眀撰
  〔印形黒字「◆/光」、白字「◆德/之印」〕
     西宮先書
  〔印形白字「西宮/之印」、黒字「字/子禮」〕


  【訓み下し】
  一オモテ
經絡括要序
夫(そ)れ經絡なる者は軒岐の言にして、而して靈
素に出づ。則ち其の來たるや尚(ひさ)し。然り而して經絡・流
注・兪穴の處所は、晉唐以降、宋
明に逮(およ)びて、其の説乏しからず。然れども紛糾雜亂して
謬誤有るを免れず。其れ誰に適從して其の眞を得可けんや。
  一ウラ
蓋し兪穴は一たび差(たが)えれば則ち灸刺徒(いたず)らに益無きのみに非ず、
反って害を人に遺(のこ)すなり。故に聖人は經絡・
流注・兪穴の處所を明らかにして以て教えを萬世に垂る。
其れ旨有るかな。余が友玄周、其の爲人(ひととなり)は強
識剛毅にして慨然として發憤して心を經絡
の書に潛(ひそ)め、兪穴を考究して其の尤も得難き眞の
  二オモテ
要穴を擧ぐること五十有八。經旨に從いて能く辨
折を加えて以て衆説の是非を正す。之を名づけて經
絡括要と曰う。其の言たるや精にして且つ確、以て
後學をして兪穴の眞を統(す)べて知る所を得さしむるに足らん。其の
功、豈に偉と謂わざる可けんや。醫局、之を剞
劂に命ず。其の功、已に完(まつた)し。玄周は瞽なり。而(しか)れども心は
  三オモテ
盲にあらず。余は其の鍼業に於いて精思焦心して
發明する所有るを嘉(よみ)して、其の卷首に題すと云う。
文政十年丁亥十二月既望
     畑定明撰す
     西宮先書す


  【注釋】
  一オモテ
○軒岐:黄帝(軒轅)と岐伯。 ○靈素:『靈樞』と『素問』。 ○處所:場所。所在地。 ○紛糾:交錯して乱雑なさま。 ○適從:したがう。つく。『春秋左傳』僖公五年:「一國三公、吾誰適從」。 
  一ウラ
○差:誤る。 ○眀:「明」の異体字。 ○玄周:秋田藩の医官、横山玄周。本書の著者。『座頭論』あり。 ○強識:記憶力にすぐれる。 ○剛毅:(意志が)つよく、かたい。子路「子曰、剛毅、木訥、近仁(子曰く、剛毅、木訥は、仁に近し、と)。」  ○慨然:感嘆するさま。情緒が高ぶるさま。 ○發憤:足りないのを自覚して、力をふるう。『論語』述而:「發憤忘食、樂以忘憂」。 ○潛心:一心におこなう。心をしずめ集中する。
  二オモテ
○辨折:是非を辨ずる。 ○醫局:明徳館(下文を参照)内にあった養寿局のことであろう。 ○剞劂:雕刻用の曲刀。引伸して出版者。 ○瞽:盲人。
  三オモテ
○精思:子細に考える。 ○焦心:うれえる。 ○發明:前人が知らなかった意義を創造的に明らかにする。 ○文政十年:一八二六年。 ○畑定明: ○西宮先:  


   (跋)
  一オモテ
經絡之書源乎素靈而
晉皇甫謐以下唐宋元
明諸家所説不能無小
異同學者所疑而不能
定者不爲少矣是或印
授口傳之所秘不可以書
  一ウラ
見者也横山玄周積年
考索而有所得乃著其
説以公諸邦内爲針治
者其惠不亦大乎贊其
事者畑道伯津川龍宅
小笹養春亦此有勤哉
  二オモテ
明德館助教 糸井教


  書き下し
   (跋)
  一オモテ
經絡の書は素靈を源とす。而して
晉の皇甫謐以下、唐宋元
明の諸家の説く所は小なる
異同無きこと能わず。學者疑いて
定むる能ざる所の者は、少しと爲さず。是れ或いは印
授口傳の秘する所にして、書を以て
  一ウラ
見る可からざる者か。横山玄周は積年
考え索(もと)めて得る所有り。乃ち其の
説を著して以て諸(これ)を公にす。邦内の針治を爲す
者、其の惠み亦た大ならずや。其の
事を贊(たす)くる者は、畑道伯、津川龍宅、
小笹養春、亦た此れ勤め有るかな。
  二オモテ
明德館助教 糸井教

  【注釋】
○明德館:秋田藩黌明徳館。寛政元年(一七八九)創設。秋田藩第九代藩主佐竹義和(よしまさ)(1775-1815)により、城下東根小屋に上棟(御学館)、寛政五年明道館と命名し、文化八(1811)年に明徳館と改称した。 ○助教:明徳館には、総裁・祭酒・文学・助教各一名がいた。その他に、各局に教授・教授並が十数名いた。(『国史大辞典』秋田藩・藩校など) ○畑道伯:序を撰した畑定明との関係未詳。 ○津川龍宅:本書の校正者。 ○小笹養春:本書の校正者。 ○此有勤哉:判読に疑念あり。 ○糸井教:

2011年1月27日木曜日

24-3 名家灸選三編

24-3名家灸選三編
      京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『名家灸選三編』(メ・5)
      オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』24所収

 (序一)
  一オモテ
名家灸選三編叙
夫淘砂淂者再三不
淘則碎金遺漏而流
矣入山求材者再三
  一ウラ
不入則不能得良材也
曩日予輯名家之灸
法僅一小冊子雖探得
諸家之秘笈俗傳之奇
  二オモテ
輸恃九牛の一毛耳丹
州平子謹善此舉博
蒐懇索而遂作續編
得濟其美焉尓來得
  二ウラ
良掇奇者甚多遂亦
作三編固由子謹平
素勤而不已之誠意
所致也是猶淘砂入
  三オモテ
山者得金與材乎予
深感其勤而不已之
誠意因又爲序
 文化十年秋七月
  三ウラ
 長門守和氣惟亨誌
  〔印形白字「維」「亨」?〕


  【訓み下し】
  一オモテ
名家灸選三編叙
夫れ砂を淘(よな)ぎて得る者は、再三
淘がざれば、則ち碎金遺漏して流る。
山に入りて材を求むる者は、再三
  一ウラ
入らざれば、則ち良材を得ること能わざるなり。
曩日、予は名家の灸
法、僅かに一小冊子を輯(あつ)む。探りて
諸家の秘笈、俗傳の奇
  二オモテ
輸を得ると雖も、九牛の一毛を恃(たの)むのみ。丹
州の平子謹は此の舉を善くす。博く
蒐(あつ)め懇(ねんご)ろに索(もと)め、而して遂に續編を作り、
其の美を濟(な)すを得たり。爾來、
  二ウラ
良を得て、奇を掇(ひろ)う者(こと)甚だ多し。遂に亦た
三編を作る。固(もと)より子謹が平
素勤めて已まざるの誠意の
致す所に由るなり。是れ猶お砂を淘(よな)ぎ
  三オモテ
山に入る者は、金と材とを得るがごときか。予は
深く其の勤めて已まざるの
誠意に感じて、因りて又た序を爲す。
 文化十年、秋七月
  三ウラ
 長門の守、和氣惟亨誌(しる)す

  【注釋】
  一オモテ
○淘砂:水で洗って砂金を選り分ける。 ○碎金:砂金。 
  一ウラ
○曩日:さきごろ。 ○笈:書箱。
  二オモテ
  ○九牛之一毛:多くの牛の一本の毛。多くの中の極少部分のたとえ。 ○丹州:丹波。京都北部。 ○平子謹:平井庸信(ひらいつねのぶ)。字は子謹。『續名家灸選』の撰者。 ○懇:真心あるさま。 ○濟其美:『春秋左氏傳』文公十八年:「世濟其美、不隕其名」。先人のすぐれた事業を継承して、発展させる。 ○爾來:そのときから。
  二ウラ
○掇:ひろう。えらびとる。
  三オモテ
○文化十年:一八一二年。
  三ウラ
○長門守和氣惟亨:わけこれゆき。尾張藩医浅井南溟(あざいなんめい)の門人となり、没後その養子となる。浅井南皐(あざいなんこう)。越後守。〔『日本漢方典籍辞典』〕/『養生録』(文化九年自序)にも「長門守」とある。


  序二、判読に自信なき文字、多数。こころみに一案をしめす。
【訓み下し】【注釋】は保留する。著者名は記されていないが、『續名家灸選』に序をつけている馬杉主一であろう。

 (序二)
  四オモテ
名家灸選三編在何初編
所遺二編所隱助其不据且
見之也編之者誰貫身枝
  四ウラ
於醫而嘗學於京巍〃然
一◆手也斯校焉斯跋
焉在誰其惠生也凡無之
灸病者受讀舊則此編之
  五オモテ
益其大矣哉而弁言以塞
其請在誰前不川釣者
而今千歳山樵也其秊
月時在何文化十秊癸
  五ウラ
酉中秋也
(印形黒字「馬」、白字「主一」)


 跋
  一オモテ
夫藕皮散血起自庖人牽牛
逐水近出野老如阿是灸法
奇輸妙穴亦是草野所試而
或已見於書篇或尚秘諸家
  一ウラ
先生博蒐普求纉南皐先生
之緒有灸法之選復書肆頻
懇三編之選而先生不果予
甞見出奇得妙有不載初續
二編者因請曰先生何不公
  二オモテ
之乎將吝之乎曰豈敢吝之
乎毉方之傳也甞之己而後
施於人施於人有驗而後爲
以可傳矣頃採精良者有三
編之選嗚呼灸選之續出也
  二ウラ
奇輸試驗散見方書者則省
搜閲禁秘諸家者得博施予
不堪欣然爲之跋云文化歳次
癸酉夏五月
 門人 丹州松本光美拜
  〔印形黒字「子/濟」、白字「光/美」〕


  【訓み下し】
夫れ藕(はす)の皮の血を散ずるは、庖人自り起こる。牽牛の
水を逐するは、近ごろ野老に出づ。阿是灸法の
奇輸妙穴の如きも、亦た是れ草野の試す所にして
或いは已に書篇に見え、或いは尚お諸家に秘(かく)さる。
  一ウラ
先生博く蒐(あつ)め普(あまね)く求め、南皐先生
の緒を纘(つ)ぎて灸法の選有り。復た書肆頻りに
三編の選を懇(もと)む。而(しか)るに先生果(はた)さず。予、
甞(かつ)て奇を出だし妙を得て、初續の
二編に載せざる者有るを見る。因りて請いて曰く、先生何ぞ之を公(おおやけ)にせざるや、
  二オモテ
將(は)た之を吝(おし)むや、と。曰く、豈に敢えて之を吝まんや。
醫方の傳あるや、之を己に甞(こころ)み、而(しか)る後に
人に施す。人に施して驗有らば、而(しか)る後に
以て傳う可きと爲す、と。頃おい精良なる者を採りて、三
編の選有り。嗚呼、灸選の續出(い)づるなり。
  二ウラ
奇輸試驗の方書に散見する者は、則ち
省く。搜して禁秘を諸家に閲する者、得れば博く施す。予
欣然として之が跋を爲すに堪えずと云う。文化歳次は
癸酉、夏五月
 門人 丹州松本光美拜す

  【注釋】
○藕皮散血:『証類本草』藕實「陶隱居云、……宋帝時、太官作血䘓[原注:音勘]、庖人削藕皮誤落血中、遂皆散不凝、醫乃用藕療血多効也」〔䘓=血+臽〕。散血を主る。 ○庖人:料理人。 ○牽牛:けんごし。『証類本草』「牽牛子、……療脚滿水腫。……陶隱居云、……此藥始出田野人」。 ○野老:田野に住む老人。また「田夫野老」の略。農夫。 ○阿是:『千金要方』巻二十九鍼灸・灸例第六:「呉蜀多行灸法、有阿是之法、言人有病痛、即令捏其上、若裏當其處、不問孔穴、即得便快成痛處即云阿是、灸刺皆驗、故曰阿是穴也」。 ○奇輸妙穴:効果の著しい穴。 ○草野:民間。田野。 
  一ウラ
○先生:平井庸信。 ○纘:うけつぐ。 ○南皐先生:浅井南皐(1760~1826)。和氣惟亨。『名家灸選』の撰者。平井庸信の師。 ○灸法之選:『續名家灸選』。 ○書肆:書籍出版兼販売業者。
  二オモテ
○頃:ちかごろ。
  二ウラ
○搜閲:搜索して査閲する。 ○欣然:よろこぶさま。 ○文化歳次癸酉:文化十(一八一三)年。 ○丹州:丹波。現在の京都府中部と兵庫県北東部の一部、および大阪府の一部にあたる地域。 ○松本光美:

2011年1月26日水曜日

24-2 續名家灸選

24-2續名家灸選
         京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『續名家灸選』(メ・4)
         オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』24所収
 
 (序一)
  一オモテ
續名家灸選序
夫七年之病求三年之艾者
不足以灼其病何則病久而
攻病者未久也世之欲灼病者
  一ウラ
不知所以灼病之道而且用不
足以灼病者是使人徒忍不可
忍之熱耳乃若其甚者則妄
灼無病之肌膚曰我能灼未然
  二オモテ
之病豈知肌膚焦爛血肉枯涸
強者至弱々者至不可救藥也
耶平井子謹氏竊有戒懼之
心於是索前哲之隱補其師
  二ウラ
之闕以編書一卷名曰續名
家灸選將以使世之灼病者
知七年之病無求三年之艾
與其所以灼病之道焉其於
  三オモテ
起予之才壽世之澤亦豈
鮮々乎哉及其上梓丐序於
主一因弁其端以數語云
文化三年丙寅冬十一月
  三ウラ
丹波園部文學平安馬杉主一撰
 〔印形黒字「園部/文學」、白字「主壹/之章」〕


  【訓み下し】
  一オモテ
續名家灸選序
夫れ七年の病に三年の艾を求むる者は、
以て其の病を灼くに足らず。何則(なんとなれ)ば病久しくして
病を攻むる者は未だ久しからざればなり。世の病を灼かんと欲する者は、
  一ウラ
病を灼く所以の道を知らず。而して且つ
以て病を灼くに足らざる者を用ゆ。是れ人をして徒らに
忍ぶ可からざるの熱を忍ばしむるのみ。乃ち其の甚しき者の若きは、則ち妄(みだ)りに
無病の肌膚を灼きて曰く、我能く未だ然
  二オモテ
らざるの病を灼く、と。豈に肌膚焦爛し、血肉枯涸し、
強き者は弱きに至り、弱き者は救い藥(いや)す可からずに至るを知らんや。
平井子謹氏、竊(ひそ)かに戒懼の
心有り。是(ここ)に於いて前哲の隱を索(もと)め、其の師の
  二ウラ
の闕を補い、以て書一卷を編む。名づけて曰く、續名
家灸選。將に以て世の病を灼く者をして、
七年の病に三年の艾を求むることを無きと、
其の病を灼く所以の道とを知らしめんとす。其の
  三オモテ
予を起こすの才、世を壽(ことほ)ぐの澤も、亦た豈に
鮮々乎たらんや。其の上梓するに及んで、序を
主一に丐(こ)う。因りて其の端に弁ずるに數語を以てすと云う。
文化三年丙寅冬十一月
  三ウラ
丹波園部文學平安馬杉主一撰
  【注釋】
○七年之病:『孟子』離婁上「今之欲王者、猶七年之病求三年之艾也。」
  二オモテ
○平井子謹:平井庸信(ひらいつねのぶ)。字は子謹。 ○戒懼:いましめおそれる。 ○前哲:前代の優れたひと。 ○索隱:隠れていて優れたものを明らかにする。 ○其師:淺井南皐。
  二ウラ
○闕:欠けているもの。 
  三オモテ
○起予:自分が気づかないことを覚らせてくれる。『論語』八佾:「子曰、起予者商也。始可與言詩已矣(予(われ)を起こす者は商なり。始めて與(とも)に詩を言う可きのみ)」。 ○鮮鮮:よいさま。あざやかで美しいさま。 ○弁:(一番前・上に)置く。 ○文化三年丙寅:一八〇六年。
  三ウラ
○丹波園部:京都府南丹市園部町。園部藩。 ○文學:儒官。 ○平安:京都。 ○馬杉主一:
 (序二)
  一オモテ
續名家灸選序
丹州平井庸信今之良
醫而信吾祖業者也頃著
續名家灸選丐叙于予嗚
  一ウラ
呼此舉也灸法大備實醫國
之仁救民之術孰不嘉尚耶
因書簡端以還之云
 文化歳在丁卯四月
  二オモテ
[錦小路修理太夫丹波頼理卿]
  抱卵堂主人識
  〔印形白字「頼理/之印」、黒字「條/甫」〕

  【訓み下し】
  一オモテ
續名家灸選序
丹州の平井庸信は今の良
醫にして吾が祖の業を信ずる者なり。頃(ころ)おい
續名家灸選を著し、叙を予に丐(こ)う。嗚(あ)
  一ウラ
呼(あ)、此の舉や、灸法大いに備わる。實に國を醫(いや)す
の仁、民を救うの術、孰(たれ)か嘉尚せざらんや。
因りて簡の端に書きて以て之を還すと云う。
 文化、歳は丁卯に在り、四月
  二オモテ
[錦小路修理太夫丹波頼理卿]
  抱卵堂主人識(しる)す

  【注釋】
  一オモテ
○祖業:祖先の事績。祖先の遺産。ここでは鍼灸。 ○頃:剛才。近。
  一ウラ
○嘉尚:讚許。たたえる。あがめ尊ぶ。 ○簡:書信。書簡。 ○歳:木星。歳のめぐり。
  二オモテ
○錦小路修理太夫丹波頼理卿:錦小路/丹波よりただ。明和四(1767)年二月九日 ~文政十(1827)年三月二十二日。本草家、医師。嶧山とも号す。正三位修理大夫。『本草薬名備考和訓鈔』『医方朗鑑』を撰す。


 (序3)
  一オモテ
續名家灸選叙
古自有樞素以來鍼灸藥
三法鼎立所以救民之夭殤
札瘥之法大備無以尚焉惟
夫鍼藥二者神聖工巧全
  一ウラ
備詳盡唯其所取故曰醫
者意也如灸焫一途又頗
有要矣有良工察其
病機定其點法星火頃
刻則起癈愈痼肉瘠
  二オモテ
蘇斃者不可舉數也而
本邦古醫之所傳及遠境
草莽之俗所秘反得其要
者間有之予深憾其傳
  二ウラ
之不廣焉是以客歳遍
採廣索選名家灸法以公
于世丹州平子謹深善其
舉今又輯其散逸拾其
遺漏以作續編觀子謹
  三オモテ
脩術于鍼于藥莫不精
密其於灸法亦如是之需
可謂具醫家之鼎趾
者也於是乎言
文化四年丁卯五月
  三ウラ
典藥寮醫員
 朝議郎大藏大録和氣惟亨誌
  〔印形白字「◆◆/之印」、黒字「南/皐」〕(◆◆は「維亮」か?)

  【訓み下し】
  一オモテ
續名家灸選叙
古(いにしえ)、樞素有りて自り以來、鍼灸藥
三法鼎立す。民の夭殤
札瘥を救う所以の法、大いに備わり、以て焉(これ)より尚きは無し。惟(おも)うに、
夫(そ)れ鍼藥の二者は、神聖工巧、
  一ウラ
唯だ其の取る所を全く備え詳しく盡くす。故に曰く、醫
は意なり、と。灸焫の一途の如きは、又た頗る
要有り。良工有り、其の
病機を察し、其の點法を定むれば、星火頃
刻にして則ち癈を起こし、痼を愈やし、瘠を肉づけ、
  二オモテ
斃を蘇らす者、舉げて數う可からざるなり。而して
吾が
本邦、古醫の傳うる所、及び遠境
草莽の俗の秘する所、反って其の要を得る
者、間(まま)之れ有り。予は深く其の傳
  二ウラ
の廣まらざるを憾む。是(ここ)を以て客歳遍(あまね)く
採り廣く索(もと)め、名家灸法を選し、以て
世に公にす。丹州の平子謹、深く其の
舉を善(よみ)し、今ま又た其の散逸するを輯(あつ)め、其の
遺漏するを拾い、以て續編を作りて觀せしむ。子謹は
  三オモテ
術を脩めて、鍼に藥に精
密ならざるは莫し。其れ灸法に於いても亦た是の如きを之れ需(もと)む。
醫家の鼎趾を具(そな)うる
者と謂う可きなり。是に於いて言う。
文化四年丁卯五月
  三ウラ
典藥寮醫員
 朝議郎大藏大録、和氣惟亨誌(しる)す


  【注釋】
  一オモテ
○樞素:『霊枢』『素問』。 ○鼎立:三方が鼎の三本足のように対になって立つ。 ○夭殤:短命早死。 ○札瘥:伝染病などの疾病により死ぬこと。『左傳』昭公十九年:「鄭國不天、寡君之二三臣札瘥天昬、今又喪我先大夫偃」。杜預注:「大死曰札、小疫曰瘥」。 孔穎達疏:「﹝札、瘥、夭、昬﹞揔説諸死、連言之耳」。 ○神聖工巧:『難経』六十一難曰:「望而知之、謂之神。聞而知之、謂之聖。問而知之、謂之工。切脉而知之、謂之巧」。

  一ウラ
○醫者意也:『金匱玉函經』卷一・證治總例。『舊唐書』許胤宗傳など。 ○星火:小さな火。灸。/星:細微な、ちいさな。 ○頃刻:ごく短い時間。 ○癈:廃疾。聾、啞、跛足などの疾病。 ○痼:根深い、難治の病。 ○瘠:瘦せ細った。
  二オモテ
○斃:死。 ○遠境:辺遠の土地。 ○草莽:田野、草野。 
  二ウラ
○客歳:去年。 ○舉:行為。
  三オモテ
○鼎趾:鼎の三本の足。 ○文化四年丁卯:一八〇七年。
  三ウラ
○典藥寮:典薬寮は令制宮内省の被管で医療を掌る官司。……十一世紀以後、典薬頭は、和気氏と丹波氏による世襲するところとなる(『国史大辞典』)。医博士は正七位下。医師は、従七位下。針師は正八位上。 ○朝議郎:養老令(『令義解』官位令)では、正六位上。 ○大藏大録:おおくらだいさかん。正七位上。 ○和氣惟亨:1760~1826。『名家灸選』の撰者。名は惟亨(これゆき)、字は元亮(げんりょう)。尾張藩医浅井南溟の養子となり、浅井南皐と名乗る。
 

2011年1月24日月曜日

24-1 名家灸選

24-1名家灸選
           京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『名家灸選』(メ・3)
           オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』24所収
  一部、判読に疑念あり。

  一オモテ
名家灸選序
夫醫斡旋造化燮理隂陽以     燮:原文「燮」の下を「火」につくる。
賛天地之化育也盖人之有生
惟天是命而所以不得盡其
命者疾病職之由聖人體天
  一ウラ
地好生之心闡眀斯道設立
斯職使人得保終乎天年也
豈其醫小道乎哉其治病之
法則有導引行氣膏摩灸
熨刺焫飲藥之數者而毒藥
  二オモテ
攻其中鍼艾治其外此三者
乃其大者已内經之所載服
��僅一二而灸者三四鍼刺十    ��:「��」(「食」偏に「甘」)。「餌」の意。
居其七盖上古之人起居有常
寒暑知避精神内守雖有賊
  二ウラ
風虗邪無能深入是以惟治其
外病随已自茲而降風化愈
薄適情任欲病多生於内六
淫亦易中也故方劑盛行而
鍼灸若存若亡然三者各有
  三オモテ
其用鍼之所不宜灸之所宜
灸之所不宜藥之所宜豈可偏
廢乎非鍼艾宜於古而不宜
於今抑不善用而不用也在
  三ウラ
本邦鍼灸之傳大備然貴權
豪富或惡熱或恐疼惟安甘
藥補湯是以鍼灸之法寢以
陵遲今世艮山後藤氏盛唱
灸法人稍知其驗而尚古傳
  四オモテ
竒輸試驗妙穴家秘戸藏不
得廣濟博施南皐先生勤摭
古傳普採諸家并祖傳之秘
法既己自試之撰竒驗適實
者著名家灸選命〔庸信〕補正
  四ウラ
焉嗚乎先生善用三法而其
鍼刺補瀉迎奪随濟之法全
存于心手若非其人則不可
傳也灸法惟在因證取穴不
失毫毛尚易爲傳盖此舉也
  五オモテ
特傳其易傳而已矣〔余〕深喜
古傳再眀於今秘法博傳於
世而助氣回陽之功大補於
生化因忘固陋漫題數言以
爲之叙云于時
  五ウラ
文化龍集乙丑端午日丹隂
處士 平井庸信謹識
  〔印形白字「子菫/氏」「庸/信」〕

  【訓み下し】
  一オモテ
名家灸選序
夫れ醫は、造化を斡旋し、陰陽を燮理し、以て
天地の化育を贊(たす)くるなり。蓋し人の生有るは、
惟(た)だ天、是れ命ず。而して其の命を盡すを得ざる所以の者は、
疾病、職として之れに由る。聖人は
  一ウラ
天地の生を好むの心を體して、斯道を闡明し、
斯の職を設立し、人をして天年を保終するを得しむるなり。
豈に其れ醫は小道ならんや。其の病を治するの
法は、則ち導引・行氣・膏摩・灸
熨・刺焫・飲藥の數者有り。而して
  二オモテ
毒藥は其の中を攻め、鍼艾は其の外を治す。此の三者は
乃ち其の大なる者のみ。内經の載する所、服
��(餌)は僅かに一二にして、灸なる者は三四、鍼刺は十に
居ること其の七。蓋し上古の人は、起居に常有り、
寒暑に避くるを知り、精神内に守り、
  二ウラ
賊風虚邪有りと雖も、能く深く入ること無し。是(ここ)を以て惟だ
其の外を治せば、病隨って已ゆ。茲(ここ)自り降って風化愈(いよ)いよ
薄く、情を適(たの)しみ欲に任せ、病は多く内に生ず。六
淫も亦た中(あた)り易し。故に方劑盛行して
鍼灸は存(あ)るが若く亡きが若し。然れども三者は各おの
  三オモテ
其の用有り。鍼の宜しからざる所は、灸の宜しき所。
灸の宜しからざる所は、藥の宜しき所。豈に偏(ひと)えに
廢す可けんや。鍼艾、古(いにしえ)に宜しくして、
今に宜しからざるに非ず。抑(そも)そも善く用いずして用いざるなり。
在昔(むかし)
  三ウラ
本邦、鍼灸の傳は大いに備われり。然れども貴權
豪富、或いは熱を惡(にく)み、或いは疼みを恐れ、惟だ
甘藥補湯に安んずるのみ。是(ここ)を以て鍼灸の法、寢(ようや)く以て
陵遲す。今世、艮山後藤氏、盛んに
灸法を唱え、人稍(や)や其の驗を知り、而して古傳を尚ぶ。
  四オモテ
奇輸、試驗、妙穴、家ごとに秘し戸ごとに藏(かく)し、
廣く濟(すく)い博く施すことを得ず。南皐先生、勤めて
古傳を摭(ひろ)い、普(あまね)く諸家并びに祖傳の秘法を採り、
既に己(おのれ)に自ら之を試み、奇驗適實なる者を撰び、
名家灸選を著し、庸信に命じて補正せしむ。
  四ウラ
嗚乎(ああ)、先生善く三法を用ゆ。而して其れ
鍼刺は補瀉迎奪隨濟の法、全く
心手に存す。若(も)し其の人に非ずんば則ち傳う可からざるなり。
灸法は惟だ證に因りて穴を取るに在るのみ。
毫毛も失わざれば、尚お傳を爲すこと易し。蓋し此の舉や、
  五オモテ
特に其の傳え易きを傳うるのみ。余は深く
古傳の再び今に明らけく、秘法の博く
世に傳わり、而して氣を助け陽を回(めぐ)らすの功、大いに
生化を補うを喜ぶ。因りて固陋を忘れて、漫(みだ)りに數言を題して以て
之が叙と爲すと云う。時に
  五ウラ
文化龍集乙丑、端午の日、丹陰
處士 平井庸信謹しみて識(しる)す

  【注釋】
  一オモテ
  ○斡旋:居中周旋、調解。めぐらす。とりもつ。 ○造化:万物を化育する大自然。 ○燮理隂陽:「燮理」は、調え治める。「陰陽」は、相対立することがら。燮理陰陽は、国家の大事を調和し治める。 ○化育:天地が万物を生成する。『禮記』中庸:「能盡物之性、則可以贊天地之化育」。 ○惟天是命:語法的には「命天」の強調形であろうが、ここでは「天命」の強調であろう。 ○職:副詞。もっぱら。おもに。
  一ウラ
○好生:生命を愛惜して殺すことを好まない。『書經』大禹謨:「與其殺不辜、寧失不經、好生之德、洽于民心」。 ○闡眀:詳しく説明する。 ○斯道:この道。医道。 ○小道:小さな道。正統とはいえない道。医術などの各種の技芸。『論語』子張:「雖小道必有可觀者焉」。 ○導引:道家の養生法のひとつ。気を導き体を引挽する。呼吸と体操を組み合わせた療法。宋・張君房『雲笈七籤』卷三十四・寧先生導引養生法:「夫欲導引行氣、以除百病」。 ○行氣:道教用語。呼吸などの養生による内修法。 ○膏摩:『三國志』魏書・華佗傳:「病若在腸中、便斷腸湔洗、縫腹膏摩、四五日差、不痛、人亦不自寤、一月之間、即平復矣」。 ○熨:薬物など、加熱処理したものを患部や兪穴に貼る治療法。 ○焫:「爇」に同じ。点火する。もやす。医学では火鍼などを指す。 
  二オモテ
○毒藥攻其中、鍼艾治其外:『素問』湯液醪醴篇「當今之世、必齊毒藥攻其中、鑱石鍼艾治其外也」。 ○内經:『黄帝内経』。 ○服餌:丹薬を服食する。道家の養生延年術。ここでは湯液のことであろう。 ○十居其七:十分の七。 ○上古之人起居有常:『素問』上古天真論「上古之人、其知道者、法於陰陽、和於術數、食飮有節、起居有常」。 ○精神内守雖有賊:『素問』上古天真論「皆謂之虚邪賊風、避之有時、恬惔虚無、眞氣從之、精神内守、病安從來」。
  二ウラ
○風化:風俗教化。 ○六淫:風、寒、暑、燥、温、火の六種の病をまねく邪気。
  三ウラ
○貴權:掌握權勢的人。権貴。権力があり身分が高い人。 ○豪富:巨富。富豪。 ○甘藥補湯:甘味で補益の薬湯。苦味のあるものや瀉法の湯液を嫌う。 ○寢:逐漸。 ○陵遲:だんだん衰える。 ○艮山後藤氏:艮山の名は達(とおる)、字は有成(ゆうせい)、俗称左一郎(さいちろう)、別号養庵(ようあん)。わが国古方派の祖とされる人物で、一気留滞説を提唱。後藤流灸法の書として子、椿庵の『艾灸通説』がある。(『日本漢方典籍辞典』)
  四オモテ
○奇:特別。すばらしい。 ○輸:穴。 ○試驗:試みて実際に效驗(効き目)のあったもの。 ○妙:神奇な。たえなる。すばらしい。 ○南皐先生:浅井南皐は名は惟亨(これゆき)、字は元亮(げんりょう)。京都の人で、山田元倫(やまだげんりん)と称したが、尾張藩医浅井南溟(あざいなんめい)の門人となり、没後その養子となった。和気惟亨(わけこれゆき)とも称す。越後守。(『日本漢方典籍辞典』) ○摭:拾起﹑摘取。如:「摭拾」﹑「採摭」。 ○庸信:末文を参照。
  四ウラ
○補瀉:『素問』脈要精微論:「補寫勿失、與天地如一」。王冰注:「有餘者寫之、不足者補之、是應天地之常道也」。 ○迎奪随濟之法:『霊枢』九針十二原「迎而奪之、惡得無虚、追而濟之、惡得無實、迎之隨之、以意和之、鍼道畢矣」。 ○心手:「心手相應(技芸が熟練し、心の欲する所にしたがう)」「心手相忘」という成語に解した。名手。 ○若非其人則不可傳也:『霊枢』官能「得其人乃言、非其人勿傳」。 ○毫毛:きわめて小さい、少ないことの比喩。 
  五オモテ
○助氣回陽:衰えた陽気を助けよみがえらす。 ○生化:生息(生活、生存)化育(前注を参照)。 ○固陋:見聞が浅くいやしい。謙遜語。 ○漫:いたずらに。むなしく。
  五ウラ
○文化龍集乙丑:文化二年(一八〇五)。龍集:歳次、年を記すときに用いる。年回り。元・周密『癸辛雜識』後集・龍有三名:「龍集者、歳星所集也。魏銘所指星也、莽銘乃易置為太歳。今世皆以太歳為龍集、蓋名用莽銘、而實用魏銘也」。 ○端午日:旧暦五月五日。 ○丹隂:おそらく丹後と同じ。現在の京都府北部。 ○處士:民間にあって仕官しない人。 ○平井庸信:南皐の門人の平井庸信(ひらいつねのぶ)。字は子謹[しきん]・通称主膳[しゅぜん]。(『日本漢方典籍辞典』)

  一オモテ
名家灸選跋
老子曰上善若水信哉夫水
善利萬物不自爲功雖然水
吾見蹈而死者矣溺人者非水
之性也盖醫之爲仁術亦猶
  一ウラ
水乎今之業醫者各受家技
自以爲足出以無稽之臆説
而投劑治病非不或中然其
起癈者幾希意有所至仁有
所遺可不愼哉盖聞吾
  二オモテ
本邦醫流厥初大汝少彦二神
垂恩頼以來其術存於和氣
丹波兩家其長浪餘波涾��迨   ��:「沱」「沲」の異体字。「沲」の氵の右に阝あり。
今無絶我南皐先生襲和氣之
後其得古經逸書不少加之其學
  二ウラ
之博資源素靈揚波長沙又    
厲渉晉唐而濡足宋元矣是
以淵涵未易測其諸論亦津々
乎有味矣近日少聞著名家
灸選其爲書也原採和丹金
  三オモテ
櫝之秘藏旁及諸家試驗乃
徴諸古驗諸今瞭然有效所
謂善言古者必徴今者歟凡灸
焫家之要領簡易未甞爲過
之者先生亦不自隱而公之于
  三ウラ
世以浸養萬物而其澤流亦將
濯之海内矣濟世之功豈小補哉
文化二歳次乙丑秋八月
 門人尾張 小泉立策謹撰
        〔印形白字「立/策」、黒字「泰/平」〕

  【訓み下し】
  一オモテ
名家灸選跋
老子曰く、上善は水の若し、と。信(まこと)なるかな。夫れ水は
善く萬物を利して、自ら功と爲さず。然りと雖も水に
吾は蹈みて死する者を見る。人を溺れしむるは水の
の性に非ざるなり。蓋し醫の仁術爲(た)るも亦た猶お
  一ウラ
水のごときか。今の醫を業とする者は各おの家の技を受けて
自ら以て足れりと爲し、出でて以て之を稽(かんが)えること無し。臆説
して劑を投じて病を治す。或いは中(あた)らずんば非ず。然れども其の
癈を起こす者は幾(ほとん)ど希(まれ)なり。意に至る所有り、仁に
遺(のこ)す所有り。愼まざる可けんや。蓋し聞く、吾が
  二オモテ
本邦醫流、厥(そ)の初め大汝、少彦の二神
恩頼を垂れて以來、其の術は和氣、
丹波の兩家に存す。其の長浪餘波、涾��として 
今に迨(およ)んで絶ゆること無し。我が南皐先生は和氣の
後を襲う。其の古經逸書を得ること少からず。之に加うるに(しかのみならず)其の學
  二ウラ
の博きは、素靈に資源し、長沙に揚波し、又た    
晉唐に厲渉して、足を宋元に濡らす。是を
以て淵涵未だ測ること易からず。其の諸論も亦た津々
乎として味有り。近日少(しばらく)して名家
灸選を著すを聞く。其の書爲(た)るや、原(もと)は和丹の金
  三オモテ
櫝の秘藏に採り、旁ら諸家の試驗に及ぶ。乃ち
諸(これ)を古(いにしえ)に徴し、諸を今に驗す。瞭然として效有り。
謂う所の善く古を言う者は、必ず今に徴ある者か。凡そ灸
焫家の要領は簡易にして未だ嘗て之を過ぐる者を爲さず。
先生も亦た自ら隱さずして之を世に公にして
  三ウラ
以て萬物を浸養して、其の澤流る。亦た將に
之を海内に濯(あら)わんとす。濟世の功、豈に小補ならんや。
文化二、歳次乙丑、秋八月
 門人尾張 小泉立策謹撰


  【注釋】
  一オモテ
○老子曰:『老子』第八章「上善若水。水善利萬物而不爭」。 
  一ウラ
○起癈:起廢。『史記』太史公自序:「孔子修舊起廢、論《詩》《書》、作《春秋》、則學者至今則之。」重篤な病人を治す。
  二オモテ
○恩頼:神祇の加護をいう敬語。 ○大汝:おほなむち。大国主命の別名。大汝命(おほなむち)。『播磨国風土記』での呼称。医薬の神。 ○少彦:少彦名命(すくなひこなのみこと)。医薬の神。 ○和氣丹波:和気(半井)家と丹波家は典薬頭であった。  ○涾��:波の連なるさま。涾沲・涾沱。
  二ウラ
○揚波:波を揚げる。 ○長沙:張仲景。 ○厲渉:服を着たまま水をわたる。 ○淵涵:深く広いこと。容量。 ○和丹:和気氏と丹波氏。
  三オモテ
○櫝:木製のはこ。『論語』季氏:「虎兕出於柙、龜玉毀於櫝中、是誰之過與」。 ○善言古者必徴今:『素問』舉痛論「善言古者、必有合於今」。氣交變大論「善言古者、必驗於今」。 ○浸:うるおす。 ○澤:恩惠。 ○濟世:世の人を救う。 ○歳次:歳星(木星)または太歳(木星と逆回りの架空の星)のやどり。 ○小泉立策:オリエント出版社の解説にある「三策」は誤り。印形から「泰平」が字か。

黄帝内経研究集成

中国で銭超塵、温長路主編ということで『黄帝内経研究集成』というのが出ましたね。4大冊で4000頁超というもの凄いものですが、中国で発行された専門誌の記事の寄せ集めのようで、だから海外の研究者は関係無い。
で、例外的に、最後のほうにある『黄帝内経』の研究に関する主要な会議として、『内経』専題学術研討会の情報が載っています。その第5届(1997年5月)に、島田隆司先生、小林健二さん、荒川緑さんと私が参加しましたので、紹介されています。多分、唯一の例外じゃ無かろうか。中国の斯界では、「日本内経医学会」というのは、案外と「有名」なのかも知れない。呵呵。

2011年1月22日土曜日

23-4 経絡明弁

23-4経絡明弁
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『経絡明弁』(シ・136)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』23所収

【表紙】「荇芼経絡辨 全/古道三経脉説 全」(打ち付け書き)
【次】(中扉?)「十四経骨度明弁 全」
【次】経絡弁明
       藤原武臣 校
       高 生德 記
 中島玄春子所著之荇芼觧乞驪忠先
 生以舉其要訣而已與刀圭者依是施
 治則近乎其不差矣

  【訓み下し】
 中島玄春子著す所の荇芼解、驪忠先
 生に乞いて、以て其の要訣を舉ぐるのみ。刀圭に與(あずか)る者は、是れに依りて
 治を施せば、則ち其れ差(たが)わざるに近からん。


  【注釋】 
○中島玄春子:中島元春。篠原孝一先生「小坂元祐の有名な経穴学書『経穴纂要』の多紀元簡の序において元祐の学統が、宮本春仙→多紀元孝→中島元春→藤井貞三→良益→元祐と続くものであることを知る」(23卷所収『宮本氏経絡之書』解説)。 ○荇芼觧:表紙には「荇芼経絡辨」とある。「觧」は「解」の異体字。 ○驪忠先生:目黒道琢(1739--1798)。中島の門人。 ○刀圭:薬を量る器具。引伸して医術。 ○差:誤る。
(「鍼術秘訣口授」末)
寛政九丁巳年七月十四日
文化八辛未年二月十六日
           平岩隆菴謹書

  【注釋】 
○寛政九丁巳年:一七九七年。 ○文化八辛未年:一八一一年。

2011年1月21日金曜日

23-1 宮本氏經絡之書

23-1宮本氏經絡之書
       京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『宮本氏經絡之書』(ミ・30)
       オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』23所収

   一オモテ
此槀也宮本氏所著經絡之書
也蓋素靈者醫家者流之所祖
也然其辭簡古而義亦深矣苟
非其人不能闚其奥邃過此以
徃諸家之書雖槩盡其精粹間
互有得失是以初學輩不能辨
其可否則不知孰從而求之夫
經絡也者湯藥鍼灸之所關也
   一ウラ
學醫而不眀經絡何以施湯藥
鍼灸乎是所以湯藥鍼灸不可
以一日廢則經絡亦不可以一
日廢也唯此書取正於素靈極
其奥玅遍舉諸家之言以匡其
是非故雖淺學者一開卷閲之
顯然如披雲霧而窺青天也然
後湯藥鍼灸可得而施焉由此
觀之其功謂起死回生良不誣
   二オモテ
已白子直余社友也前得此書
而藏焉余請以書寫於是乎題
諸其首

天眀壬寅秋七月
     東都 澀江敬識
    〔印形白字「民苟/之印」、黒字「◆」〕

  【訓み下し】
   一オモテ
此の稿や、宮本氏著す所、經絡の書
なり。蓋し素靈は、醫家者流の祖とする所
なり。然れども其の辭簡古にして義亦た深し。苟(いやし)も
其の人に非ざれば、其の奥邃を闚(うかが)うこと能わず。此を過ぎて以
往、諸家の書、概ね其の精粹を盡せりと雖も、間(ま)ま
互いに得失有り。是(ここ)を以て初學輩、其の可否を辨ずること能わざるときは、
孰(た)れに從って之を求めんことを知らず。夫(そ)れ
經絡は、湯藥鍼灸の關わる所なり。
   一ウラ
醫を學びて經絡を明らめず、何を以てか湯藥鍼灸を施さんや。
是れ、湯藥鍼灸、以て一日も廢す可からざるときは、
經絡も亦た、以て一日も廢す可からざる所以(ゆえん)なり。
唯だ此の書、正を素靈に取り、
其の奥玅を極め、遍く諸家の言を舉げて、以て其の是非を匡す。
故に淺學者と雖も、一たび卷を開いて之を閲(けみ)せば、
顯然たること雲霧を披(ひら)きて青天を窺うが如からん。然して
後、湯藥鍼灸、得て施す可し。此れに由って
之を觀れば、其の功、起死回生と謂わんも良(まこと)に誣(し)いざる
   二オモテ
のみ。白子直は余が社友なり。前に此の書を得て
藏す。余請いて以て書寫す。是(ここ)に於いて、
諸(これ)を其の首に題す。

天明壬寅秋七月
     東都 澀江敬識(しる)す

  【注釋】
  ○白子直:  ○天明壬寅:天明二年(1782)。 ○澀江敬:澀江民敬。


  〔跋〕
舊本誤字衍文[甚多訛謬]不可枚
舉矣蓋傳寫之誤也然未遑盡校
定故姑仍舊而不改云爾

天明壬寅秋七月

     東都 澀江敬

  【訓み下し】
舊本、誤字衍文[甚だ多く、訛謬]枚
舉す可からず。蓋し傳寫の誤なり。然れども未だ盡く校
定するに遑(いとま)あらず。故に姑く舊に仍りて改めすと云爾(しかいう)。

天明壬寅秋七月

     東都 澀江敬

2011年1月20日木曜日

22-4 濟急方灸穴并介保圖

22-4濟急方灸穴并介保圖
    京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『濟急方灸穴并介保圖』(サ・三)
    オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』22所収
    本書は多紀元悳撰『広恵済急方』からの抜粋で、この序も同書からの写し。

  一オモテ  219頁
濟急方刻成安元謂余曰此是 先大君仁民之一事
獨序此書者非足下不可余駭而問故乃徐語余曰距
今十数年矣 先大君一日召臣而問曰仄聞民間疾疫
方其急遽際無遑請醫或僻遠乏醫雖請途遙或
夜間若阻事而不來遂至不可救者往々而有是可憫矣
豈無有救急之方可以備不虞者歟臣不敢妄對退而思之
葢救濟方法非無其書但山埜小民亦能可蓄可辨其
  一ウラ  220頁
可以當 上旨者未之有也於是日夜渉獵諸方書隨
得而抄録夷蠻之奇與夫俗間所傳亦皆采擇不遺裒
而成卷因施諸行事而歷試其功驗亦有年所已五更其
稿而未成書爾後 先大君燕間時召侍醫而問民間疾
疫元悳亦在末則五内為之如燬痛思奉職無狀而無副仁
民之台慮憤悶將疾矣既而 先大君溘捐萬民元悳
慟哭不能起者数日矣然日夜督児元簡等就事竟至今春
而書始脱稿焉足下久陪侍帷幄而與聞其 眀命矣是
  二オモテ 221頁
故敢需一言焉爾義行受而未開卷愀然酸鼻亦將慟矣
於乎 先大君深仁廣德無得而穪哉安元能體
上旨而盡力其職永輔其仁於下焉誰不嘉賞乎余雖不敏
豈可不文為觧蔽其忠誠哉乃録其語以為之序若夫其
書之精選何竢余言四海之民得之則安不得即苦譬之非
大旱之膏雨則中流一壺雖欲不貴得乎欲使山野小民常
讀而熟知故俚語以國字云安元其氏多紀令嗣字安長亦
為通家久矣
  二ウラ  222頁
 寛政紀元歳次己酉十一月冬至日
   肥前守從五位下佐野義行撰
  〔白文「朝散/大夫印」、朱文「藤原/義行」〕


  【訓み下し】
  一オモテ  219頁
濟急方刻成る。安元、余に謂いて曰く、此れは是れ 先大君仁民の一事、
獨り此の書に序せん者は、足下に非ざれば不可なり、と。余駭(おどろ)きて故を問う。乃ち徐(しず)かに余に語りて曰く、
今に距つること十數年。 先大君一日、臣を召して問いて曰く、仄(ひそ)かに聞く、民間疾疫、
其の急遽の際に方(あ)たりて醫を請うに遑無く、或いは僻遠にして醫乏しく、請うと雖も途遙(とお)く、或いは
夜間若しくは事に阻して來たらず。遂に救う可からずに至る者往往にして有り。是れ憫れむ可し。
豈に有救急の方、以て不虞に備う可き者無きか、と。臣敢えて妄りに對(こた)えず。退きて之を思う。
蓋し救濟の方法、其の書無きに非ざれば、但だ山野の小民も亦た能く蓄う可く辨ず可く、其の
  一ウラ  220頁
以て 上旨に當たる可き者は、未だ之有らざるなり。是に於いて、日夜諸の方書を渉獵し、
得るに隨いて抄録し、夷蠻の奇、夫(か)の俗間の傳うる所と、亦た皆な采擇して遺(のこ)さず。裒して
卷を成す。因りて諸(これ)を行事に施し、而して其の功驗を歷試するに、亦た年所有り。已に五たび其の
稿を更(か)えて、而して未だ書を成さず。爾後 先大君燕間時(しば)しば侍醫を召して、而して民間の疾
疫を問わせたます。元悳も亦た末に在れば、則ち五内之が為に燬(や)くが如し。痛く奉職の無狀にして仁
民の台慮に副(そ)うこと無きを思い、憤悶將(ほとん)ど疾めり。既にして 先大君溘として萬民を捐(す)つ。元悳
慟哭して起くること能わざること數日。然れども日夜兒元簡等を督して事に就く。竟に今春に至りて、
而して書始めて稿を脱す。足下久しく帷幄に陪侍して、而して其の 明命を與(あず)かり聞けり。是の
  二オモテ 221頁
故に敢えて一言を需(もと)むるのみ、と。義行受けて而して未だ卷を開かざるに、愀然として酸鼻し、亦た將に慟せんとす。
於乎(ああ) 先大君深仁廣德、得て穪する無きかな。安元能く
上旨に體して、而して力を其の職に盡くし、永く其の仁を下に輔く。誰か嘉賞せざらんや。余、不敏と雖も
豈に不文を解と為して其の忠誠を蔽(おお)う可けんや。乃ち其の語を録して以て之が序と為す。若(も)し夫(そ)れ其の
書の精選は、何ぞ余が言を竢(ま)たんや。四海の民、之を得れば則ち安く、得ざれば即ち苦しむ。之を譬うるに
大旱の膏雨に非ざれば、則ち中流の一壺なり。貴びずんと欲すと雖も得んや。山野の小民をして常に
讀みて熟知せしめんと欲す。故に俚語、國字を以てすと云う。安元、其の氏多紀、令嗣字は安長、亦た
通家為(た)ること久し。
  二ウラ  222頁
 寛政紀元歳次己酉十一月冬至日
   肥前守從五位下佐野義行撰


  【注釋】
  一オモテ  219頁
○濟急方:『広恵済急方』:多紀元悳の著、その子元簡の校訂になる救急医療書。全三巻。 ○安元:多紀元悳(たきもとのり)(1732~1801)。字は仲明、号は藍溪。法印となり、廣壽院、のちに永壽院を改める。 ○先大君:亡き将軍。次の和語序によれば、十代将軍徳川家治であろう。/元悳は寛延三年、九代将軍家重にお目見え、明和三年に家督を相続した。明和五年に奥医師、法眼に叙せらる。天明四年に家治より御料の羽織を賜る。同八年家斉の御匙となる。寛政二年法印に進む(『多紀氏の事蹟』23頁)。 ○仁民:『孟子』盡心上:「君子之於物也、愛之而弗仁。於民也、仁之而弗親、親親而仁民、仁民而愛物」。 ○足下:目上や同輩に対する尊称。 ○急遽際:『広恵済急方』は「急遽之際」に作る。 ○不虞:不慮。意想外の事柄。 
  一ウラ  220頁
○當上旨:上様の意向に合致する。 ○夷蠻:東方、南方のひと。蘭方のことか。 ○裒:あつめる。 ○年所:年数。多年。『書經』君奭:「故殷禮陟配天、多歷年所」。 ○爾後:この後。 ○燕間:ひまな折り。 ○侍醫:奥医師。 ○五内:五臓。内心。からだの中、全体。 ○痛:はなはだしく。 ○無狀:功績がないこと。 ○台慮:将軍の配慮。「台」は相手に対する尊称。 ○既而:そうこうしているうちに。まもなく。 ○溘:突然。 ○捐萬民:万民を捨ててこの世を去る。 ○元簡:元悳の長子。字は廉夫、安長と称す。桂山、櫟窓と号す。法眼。 ○今春:寛政元年春。 ○陪侍:そばに仕える。 ○帷幄:将軍の帳幕。 ○眀命:聡明な命令。将軍の命令。「眀」は「明」の異体字。
  二オモテ 221頁
○義行:この序の筆者。 ○愀然:憂愁のさま。 ○酸鼻:悲痛、傷心のあまり、涙が出て、鼻がつんとするさま。 ○慟:慟哭する。悲哀の感情が高まって大声で泣く。 ○深仁:深い仁。 ○廣德:廣い德。 ○不文:文才がない。 ○觧:「解」の異体字。解答。説明。 ○若夫:~に関しては。 ○精選:周到に選抜する。えりすぐり。 ○竢:「俟」の異体字。 ○四海:東西南北の海。天下のあらゆるところ。 ○膏雨:作物を潤し育てる雨。慈雨。 ○中流一壺:「中流」は河の中央。「壺」はひさご、ひょうたん。河の中央で転覆した船に乗っていたひとにとって、命を救ってくれるひょうたん。『鶡冠子』卷下・學問:「中河失船、一壺千金」。ふだん何でもないものでも、時によっては貴重なものとなる比喩。 ○俚語:俗語。和語。 ○國字:かな。漢字かな交じり文。 ○令嗣:他人の子の尊称。 ○通家:代々親しく交際している家。専門家。
  二ウラ  222頁
○寛政紀元歳次己酉:一七八九年。 ○肥前守從五位下佐野義行:のりゆき。「大和高取城主植村出羽守家道の三男、佐野兵庫頭德行の養子となり、……天明……三年十二月十八日從五位下兵庫頭に叙任し、後肥前守と改む。……序を草した時は三十三歳であった」(『多紀家の事蹟』二三四頁)。印形の「朝散大夫」は、従五位下の唐名。
『広恵済急方』:多紀元悳(たきもとのり)(1732~1801)の著、その子元簡(もとやす)(1754~1810)の校訂になる救急医療書。全3巻。寛政元(1789)年、中野清翰(なかのきよふみ(ママ))・佐野義行(さのよし(ママ)ゆき)序。同年開彫。翌同2(1800)年、元簡跋。同年印行。元悳は父元孝(もとたか)の跡を継いで医学校躋寿館(せいじゅかん)を主宰した人物で、将軍家斉(いえなり)の御匙(おさじ)、法印。本書は、田舎や旅先などで専門医の医療が受けられない状況に備えて作られた応急書で、一般人向けに、平仮名で記し、入手しやすい薬物で簡単な処方を選用。また応急手当法や灸療法などに及び、民間療法を採用してある。『近世漢方集成』に影印収録。また『近世歴史資料集成』(科学書院、1990)にも収める。〔『日本漢方典籍辞典』〕


 【和語序】
 (「く」を伸ばした繰り返し記号は、「々」でかえる。変体仮名は、通用のものにかえる。「ミ」などカタカナは、ひらがなにかえる。合字は「こと」など、二字にかえる。)

それひとの世にあるおりにふれてやまひなきことあた
はずされはわか神代よりして醫療のみち今につた
はりもろこしのひしりと(も)百草をなめてそのうれへを
のそくのをしへかたみによヽにたえすみな生育のこと
はりにして人主仁愛の體とはなしたまふなるへしそも
安永の頃 東の御めくみひろくもらし給はぬあま
  223頁
り民のやまひあらんことをうれへ給ひてそれをのそ
きえさせんことのおほしをきてにつねに侍醫をめし
てはやめるものヽ多少よにをこなはるヽことのあるなきを
とはせ給ふそのひのとのとりの春多紀元悳に 仰下され
しはをよそ世に急症のあつしきにのそみて醫をこふ
まなく遠きさかひにくすしのまれなるあたりは
さらなりまして窮巷などにはほとこすへき術をも
しらすいたつらに命をおとすたくひと(も)すくなからし
さる時にいたりそれに用ひすくふへき經驗の方
を筆しひろくさつくへきよしうち々ことよさし
たまふ元のりつヽしみてうけたまはるされとその
ことのやすからぬをおもひめくらしつヽかヽるかし
  224頁
こきをあまねく世にしらしめんはもとよりねかふところ
なれはなへてわか邦の家〃につたふるところをよひもろこ
しはたえひすの國まてをも遠くもとめひ
ろくあつめすくれたるをあけ萃れるをぬきて
書なりぬ實に天明七年の春になん名つけて濟
急方といふさるかしこき御めくみをもてかく世の
たからとなりぬへきはもとす(の)りかいさほしなりかな
しいかな天台に雲かくれたまひて此卷を
御覽にそなへさりしことと泣血帙にそヽく然るに
今あらたに 御世つかせおはしましてかヽるこ
とヽもうちをかせ給はすかの おほん德を世
  225頁
にあらはしかつはたみの生育をおほしめして此書
を世にしめすへきよし 命下れりけに慈民の御
まつりことをいやつきにあふき奉りぬこれか
はしめ 仰ことうけ給はりつたへたるは三嶋
但馬守政喜なり清翰そのはしめ終を聞しれはあら
ましをしるすへく元のりのこふにまかせて
つかみしかき筆をとることをしかなりといふ
   寛政元年秋八月
       中埜監物藤原清翰謹識


  【句切り、漢字を増やしてみる】
それ人の世にある折りに触れて、病なきこと能
わず、されば我が神代よりして、醫療の道、今に伝わ
り、唐土(もろこし)の聖(ひじり)も百草を嘗めて、その患(うれ)えを
除くの教え、かたみに世々に絶えず、みな生育の理(ことわり)
にして人主仁愛の體とは、なし給うなるべし、そも
安永の頃 東の御惠み廣くもらし給わぬ餘
  223頁
り、民の病あらんことを憂え給いて、それを除
き得させんことの多し掟に、つねに侍醫を召し
ては、病めるものの多少、世に行なわるることの有る無きを
問わせ給う、その丁酉の春、多紀元悳に 仰せ下され
しは、凡そ世に急症の篤しきに臨みて、醫を乞う
間なく、遠き境に醫師(くすし)の稀れなる邊(あた)りは
さらなり、まして窮巷などには施すべき術をも
知らず、徒らに命を落とす類(たぐい)も少なからじ、
さる時に至り、それに用い、救うべき經驗の方
を筆し、廣く授くべき由、内うち言寄さし
給う。元悳(もとのり)謹みて承る、されどその
事の易からぬを思い巡らしつつ、かかる賢
  224頁
きを、あまねく世に知らしめんは、元より願うところ
なれば、なべて我が邦の家々に傳うるところ、及び唐土
はた夷(えびす)の國までをも遠く求め、廣
く集め、優れたるを挙げ、萃(やつ)れるを抜きて、
書なりぬ、實に天明七年の春になん、名付けて濟
急方という、さる賢き御惠みをもて、かく世の
寶となりぬべきは、元悳(もとのり)が功績(いさおし)なり、悲
しいかな、天台に雲かくれ給いて、此の卷を
御覽に供(そな)えざりしことと、泣血、帙に注ぐ。然るに
今新たに 御世嗣(つ)がせおわしまして、かる事
どもうち置かせ給わず、かの 御德を世
  225頁
にあらわし、且つは民の生育を思(おぼ)し召して、此の書
を世に示すべき由、 命下れり、げに慈民の御
政治(まつりごと)をいや嗣(つ)ぎに仰ぎ奉りぬ、これが
初め 仰ぐ事うけ給わり傳えたるは、三嶋
但馬守政喜なり、清翰その初め終わりを聞き知れば、あら
ましを記(しる)すべく、元悳(もとのり)の乞うにまかせて、
摑みし書き筆を執ることを然(しか)なりと云う、
   寛政元年秋八月
       中埜監物藤原清翰謹識

  【注釋】
○もろこしのひしり:神農氏。 ○をしへかたみに:「かたみに」は「片身に」。それぞれ。各自。代わる代わる。 
  223頁
○おほしをきてに:「多し掟に」でよいか? ○ひのとのとりの春:丁酉。安永六年(一七七七)。 
  224頁
○はた:あるいは。 ○えひす:南蛮人。 ○天台に雲かくれ:天明六年(一七八六)八月、家治死去。 ○泣血:血の涙。 ○帙:書籍を保護する入れ物。 
  225頁
○いやつきに:「いや」は、ますます。 ○三嶋但馬守政喜:平氏支流、三嶋政春(まさはる)(『寛政重修諸家譜』卷五百六十六/第九の三三三頁)と同一人物か。政春は、宝暦十三年、御小納戸(将軍に近侍し、雑用を行う)となり、天明八年十二月十六日從五位下但馬守に叙任し、寛政二年に作事奉行に転ずる。 ○寛政元年:一七八九年。 ○中埜監物藤原清翰:きよふで。監物清方の六男。兄備中守房彦の嗣となり、安永五年十月家を継ぎ、六年七月西丸小納戸となり、十二月布衣を著する事を許され、八年六月から本丸の小納戸を勤めた。序を書いた時は三十歳である。『多紀氏の事蹟』234頁。

在網上查看了日本朋友的資料

先日,南京の沈澍農先生からメールがあって,最近になって日本の友人のインターネット上の資料を見ることができたとあって:「インターネット上で貴君の『倉公伝』に関する問題提起を見ました。私(沈澍農)は現在『扁鵲倉公列伝』の校注を行っていますが,いくつかの問題についてはかなりの難問で,上手く解決できるかどうかわかりません。」とのことです。
多分,見たというのはこのBLOGか,私の茶余酒後(例えば淳于意伝)だろうと思うんですが,このBLOGに夏季合宿での発表を書き込めば,中国の高名な先生からのアドバイスが得られるかも知れません。
それにそもそも書き込みが特定の人に限られるのは寂しいです。出来合いの記事を貼り込むのも,賑わしの一手段として考えてみても良いかも知れない。

2011年1月19日水曜日

22-2 引經指南

22-2引經指南
      京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『引經指南』(イ・353)
      オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』22所収

  オモテ
引經指南序
夫穴法者本於甲乙經王氷次註資
生經而滑氏著述也求穴以肉郄骨
空而求之爲良矣蓋分寸者後世
而所述作也然肉郄難分之穴以
尺寸而求之其所用之尺寸者上
古不傳也故諸説多矣或千金方
用一夫之法唐以來用同指寸張
海(ママ)賓計於自目内眥至外眥之間
而爲一寸而用于面部之寸也如比(ママ)
諸説間有之是以滑氏發明而用於
骨度篇之尺寸也是骨度之大意為
  ウラ
穴法非所以作為也然上古無尺寸之
法故立此法以謂同身寸也願不以寸
法而求之穴法之大意也焉

骨度篇膂骨以下至尾骶二十一節
古今医充(ママ)曰上七節一寸四分一厘
中七節一寸六分一厘下七節一寸
二分六厘
胷部四穴之法 自缺盆至𩩲𩨗九
寸ヲ別紙ニテ八寸許五ツニ折一ツ切捨
胷部之穴ヲ附


   【訓み下し】
  オモテ
引經指南序
夫れ穴法なる者は、甲乙經、王氷次註、資
生經に本づく。而して滑氏の著述するや、穴を求むるに肉郄骨
空を以てす。而して之を求むるを良と爲す。蓋し分寸なる者は後世
に而して述作する所なり。然れば肉郄、分ち難きの穴は、
尺寸を以て、而して之を求む。其の用いる所の尺寸なる者は、上
古傳わらざるなり。故に諸説多し。或いは千金方、
一夫の法を用ゆ。唐以來、同指寸を用ゆ。張
海(介)賓、目内眥自り外眥に至るの間を計りて、
而して一寸と爲し、而して面部の寸に用いるなり。此の如く
諸説間(へだて)之れ有り。是を以て滑氏發明して、而して
骨度篇の尺寸を用いるなり。是れ骨度の大意は
  ウラ
穴法爲りて、作為する所以に非ざるなり。然れば上古に尺寸の法無し。
故に此の法を立て、以て同身寸と謂うなり。寸
法を以てせず、而して之を穴法に求むるを願うの大意なり。

骨度篇、膂骨以下、尾骶に至る二十一節、
古今医充(統)曰く、上七節一寸四分一厘、
中七節一寸六分一厘、下七節一寸
二分六厘
胷部四穴の法 缺盆自り𩩲𩨗に至る九
寸を別紙にて八寸許り五つに折り、一つ切り捨て
胷部の穴を附す。

2011年1月18日火曜日

21-6 錦嚢鍼灸秘録

21-6錦嚢鍼灸秘録
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『錦嚢鍼灸秘録』(キ・223)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』21所収

錦嚢鍼灸秘録序
將三軍持兵挾鉾而討賊者謐逆乱安國家
也以刺灸醫病者以天地合人身悉隂陽揆
度奇恒則百病無不治也纔以寸針細艾救
萬民之疾苦其巧無異冝哉前人以醫比言
與良相於于斯上基素難下取諸家而標本
既備集成一扁学者悟此意而窮極其理德
普及天下不亦幸甚哉

旹寛政七年乙卯秌七月之吉 定栄堂識


  【訓み下し】
錦嚢鍼灸秘録序
三軍を將(ひき)いて兵を持し、鉾を挾みて賊を討つ者、逆乱を謐(しず)め國家を安ずるなり。
刺灸を以て病を醫する者は、天地を以て人身に合し、陰陽を悉らかにし、
奇恒を揆度するときは、百病治せずということ無し。纔(わず)かに寸針細艾を以て、
萬民の疾苦を救う。其の巧、異なること無し。宜(むべ)なるかな、前人、醫を以て
良相と比べ言うこと。斯(ここ)に於于(おい)て、上(かみ)、素難に基づき、下(しも)、諸家に取りて、標本
既に備わり、集めて一扁を成す。學者、此の意を悟りて、其の理を窮極せば、德、
普(あまね)く天下に及ばん。亦た幸甚ならずや。

旹(とき)寛政七年乙卯秌(あき)七月の吉 定栄堂識(しる)す


  【注釋】
○悉:原文にはウ冠あり。あるいは「審」の異体字か。つまびらか。 ○揆度奇恒:『素問』玉版論要篇第十五「黄帝問曰、余聞揆度奇恒、所指不同、用之奈何。岐伯對曰、揆度者、度病之淺深也。奇恒者、言奇病也」。 ○前人以醫比言與良相:宋・呉曾『能改齋漫録』卷十三・文正公願爲良醫:「不爲良相、願爲良醫」。宋代の名儒、范仲淹のことば。「相」は宰相。 ○秌:「秋」の異体字。 ○定栄堂:本書の著者、加藤謙齋の号のひとつ。かれの書物を出版している吉文字屋も定栄堂。その関係は未詳。篠原孝市先生解説「加藤謙齋(一六六七~一七二四)は、名を忠実、字を衛愚、号を謙齋、鳥巣道人と称した。浅見絅齋、稲生若水の門人で、『医療手引草』ほかの多くの著作がある。」
 以下、ネットより。
▲方銘 / 定栄堂主人 出版地 煉丹窟蔵版 大坂心斎橋南 ほか 出版者 吉文字屋市右衛門 ほか 亥鼻分館古書コレクション
▲薬方選 定栄堂主人〔加藤謙斎〕 煉丹窟蔵版 吉文字屋市兵衛ら刊 大神文庫目録
▲補方要 野村 謙亨 共同刊行:定栄堂(浪速)  烏巣先生(加藤謙齋)著述書目 定栄堂藏版録 吉文字屋市兵衛ら刊 早稲田大学図書館 画像あり
▲衆方規矩方解上中下付録全2巻、明和8年、浪華定栄堂  渡辺私塾文庫
▲1777 年 加藤忠実(定栄堂主人)『(医通)本草品目』跋刊 
▲漢方箋 定栄堂主人 煉丹窟蔵版 
▲金匱要畧国字觧. 橋本 正隆 安永7序-9[1778-1780] 浪華書坊定栄堂, 心斉橋通安堂寺町(大阪)  早稲田大学図書館 画像あり 

『素問攷注』自筆本

卷第一上下と『素問攷注要義捷見』 三冊
万延元年写
昨日,古書目録が届きました。
売値,52万5千円。

同じく自筆本『傷寒論攷注』卷第二~第四
 元治元・二年  三冊
こちらは,21万円。


2011年1月15日土曜日

21-5 非十四經辨

21-5非十四經辨
       京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『非十四經辨』(ヒの6)
       オリエント出版社『臨書鍼灸古典全書』21所収

  判読に自信なき字多数あり。したがって訓みも何カ所も疑問あり。
  
  一オモテ
題非十四經序
識己者親乎蓋交際之謂也是
故白鱗氏之子幣觀之蘆嘗舉
匏樽引壺觴共酌當論旨酒卿
之賞美味於觀何爲異矣然耽
釃不可説卿終醒去他日觀疾
作不可以執刀圭矣奔過卿之
舎請見童子出迎大人先應紳
笏家需今在佗先生須之幸可
  一ウラ
乎直牽觀使坐書齋側見几上
題有非十四經者竊採讀之意
哂之徒非其言不讓斯章國字
而哂埜陋已逮周編盡或驚或
呑津杲有故哉特爲童蒙謀之
乎聊雖出于膚淺之文惡童蒙
盲者所能容乎終攜主人菅硯
自識之懷紙云宜哉言雖載方
策事術要妙忽難施於之言可
  二オモテ
不愼矣夫要妙可言與抑不可
言與杲不可言者爲若無書乎
臻如漆園庖丁與廩人説矣始
知天下之志士百家千載滔〃
偕愛之未嘗不信焉白鱗氏雖
非割牛造車矣於鍼術頗有因
于茲觀之伎猶且爲不与於斯
乎凡人軀之兪募井營經合奚
爲經傳無由矣實怵惕卿之志
二ウラ
而耳蓋言及是猶敢似贅嘗非
要譽於卿黨若適卿之志乎幸
也是亦尚友之義矣敝之何憾
顧日已且西主人未歸投筆挾
之緒端遺言於童僕去
乙未仲秌穀雨日
 江都醫官 望草玄識
      谷嘉吉書〔印形黒字「◆」、白字「吉」〕


  【訓み下し】
  一オモテ
題非十四經序
己を識る者は親か。蓋し交際の謂なり。是の
故に白鱗氏の子(し)、觀の蘆に幣して、嘗て
匏樽を舉げて壺觴を引き、共に酌して旨酒を論ずるに當たって、卿
の美味を賞(ほ)むるに、觀に於いて何んぞ異と爲さん。然れども
釃に耽りて説く可からず。卿終いに醒めて去る。他日、觀、疾
作(お)こり、以て刀圭を執る可からず。奔りて卿の
舎に過(よぎ)り、見を請う。童子出でて迎う。大人先に紳
笏家の需めに應じて、今ま佗に在り。先生、之を須(ま)てば、幸いに可ならん
  一ウラ
や。直ちに觀を牽きて書齋に坐せしむ。側に几上を見れば
題して非十四經なる者有り。竊かに採りて之を讀めば、意(こころ)に
之を哂う。徒(いたづ)らに其の言を非とし、斯の章に讓らず、國字
にして、埜陋なるを哂う。已に周ねく編盡くすに逮(およ)んで、或いは驚き或いは
津を呑み、杲(あき)らかに故有るかな。特に童蒙の爲のみに之を謀るか。
聊か膚淺の文に出づと雖も、惡(いづ)くんぞ童蒙
盲者の能く容るる所ならんや。終に主人の菅硯を攜えて、
自ら之を懷紙に識(しる)して云う、宜なるかな、言、方
策の事術、要妙を載すと雖も、忽として之を言に施し難し。
  二オモテ
愼まざる可けんや。夫れ要妙、言う可きか、抑そも
言う可からざるか。杲らかに言う可からざる者は書無きが若しと爲すか。
漆園が庖丁と廩人の説の如きに臻(いた)りて、始めて
知る、天下の志士、百家千載滔〃として
偕(み)な之を愛し、未だ嘗て焉(これ)を信ぜずんばあらず。白鱗氏は
牛を割り車を造るに非ずと雖も、鍼術に於いて頗る因有り。
茲に觀の伎猶お且つ斯に与(し)かずと爲さん
や。凡そ人軀の兪募井營經合、
奚爲(なんすれ)ぞ經傳、由無からんや。實に卿の志を怵惕する
二ウラ
のみ。蓋し言、是に及べば、猶お敢えて贅するに似たり。嘗て
譽れを卿が黨に要(もと)むるに非ざれども、卿の志に適(かな)うが若きか。幸い
なるや、是れ亦た尚友の義なり。之を敝(す)てて何ぞ憾みあらん。
日を顧れば已に且(まさ)に西せんとす。主人未だ歸らず。筆を投げ
之を緒端に挾んで言を童僕に遺(のこ)して去る。
乙未仲秌穀雨の日
 江都醫官 望草玄識

  【注釋】
  一オモテ
○親:関係が密接で信頼できるひと、か。 ○白鱗氏:本書の著者、廣瀬白鱗。名は見龍。法印・河野(通頼)仙壽院の門人。 ○幣:贈答する。 ○觀:本序の執筆者、望月草玄(常觀)。 ○匏樽:乾燥させた匏(ひさご)で作った酒の容器。後にひろく一般の酒器を指す。 ○壺:陶あるいは金属製の容器。小口大腹、通常酒や茶などを容れる。 ○觴:杯(さかづき)。 ○旨酒:美酒。 ○卿:なんじ。あなた。 ○耽釃:釃はうすい酒、一説に濃い酒。ここでは、酒の意味で、「耽釃」とは、酩酊するという意味であろう。 ○刀圭:薬を測る器具。 ○大人:父。 ○紳笏:官人。役人。
  一ウラ
○讓:おとる? ○埜:野の異体字。 ○菅硯:「菅」は「管」に通じて筆のことか。 ○懷紙:ふところがみ。 ○事術:物事を処理する算段、手段。「事」の判読があっていればだが。 ○要妙:深く微妙なこと。精微。 ○忽:すみやかに。
  二オモテ
○若無書:『孟子』盡心下:孟子曰、盡信書、則不如無書。 ○漆園:荘周(荘子)。宋国の蒙で漆園の吏をしていた。 ○庖丁:『莊子』養生主:庖丁為文惠君解牛,手之所觸,肩之所倚、足之所履、膝之所踦、砉然嚮然、奏刀騞然、莫不中音。合於《桑林》之舞、乃中《經首》之會。文惠君曰:「譆。善哉。技蓋至此乎。」庖丁釋刀對曰:「臣之所好者道也、進乎技矣。始臣之解牛之時、所見無非牛者。三年之後、未嘗見全牛也。方今之時、臣以神遇、而不以目視、官知止而神欲行。依乎天理、批大郤、道大窾、因其固然。技經肯綮之未嘗、而況大軱乎。良庖歳更刀、割也。族庖月更刀、折也。今臣之刀十九年矣、所解數千牛矣、而刀刃若新發於硎。彼節者有間、而刀刃者無厚、以無厚入有閒、恢恢乎其於遊刃必有餘地矣、是以十九年而刀刃若新發於硎。雖然、毎至於族、吾見其難為、怵然為戒、視為止、行為遲。動刀甚微、謋然已解、如土委地。提刀而立、為之四顧、為之躊躇滿志、善刀而藏之。」文惠君曰:「善哉。吾聞庖丁之言、得養生焉。」 ○廩人:下文の「造車」によれば、『莊子』天道に見える車大工の「輪扁」のことで、『孟子』萬章下「其後廩人繼粟、庖人繼肉、不以君命將之」と混同するか。『莊子』天道:桓公讀書於堂上、輪扁斲輪於堂下、釋椎鑿而上、問桓公曰:「敢問公之所讀者何言邪。」公曰:「聖人之言也。」曰:「聖人在乎。」公曰:「已死矣。」曰:「然則君之所讀者、古人之糟魄已夫。」桓公曰:「寡人讀書、輪人安得議乎。有説則可、無説則死。」輪扁曰:「臣也、以臣之事觀之。斲輪、徐則甘而不固、疾則苦而不入。不徐不疾、得之於手而應於心、口不能言、有數存焉於其間。臣不能以喩臣之子、臣之子亦不能受之於臣、是以行年七十而老斲輪。古之人與其不可傳也死矣、然則君之所讀者、古人之糟魄已矣。」 ○百家:多数の家。いろいろな学派。 ○滔滔:続いて止めどないさま。 ○割牛造車:『莊子』を参照。 ○有因:関連がある。 ○兪募:兪穴と募穴。 ○井營經合:「營」は「滎」「榮」の誤りか。また下に「兪」字を脱するか、あるいは語調をととのえるためにはぶいたか。 ○怵惕:驚き恐れる。
二ウラ
○黨:志を同じくする仲間。 ○尚友:昔の賢人を友とする。 ○緒端:端緒。『非十四經辨』原稿の初めの部分であろう。 ○乙未:安永四年(一七七五)。 ○仲秌:「秌」は「秋」の異体字。仲秋。旧暦八月。 ○穀雨:二十四節気のひとつ。四月二十日前後。仲秋と合致しない。未詳。 ○望草玄:望月草玄。常觀。望月三英の養子。


  三オモテ  369頁
非十四經辯序
事師古毉道亦然余同朋
白鱗者好於鍼灸之術苦
刻有歳嘗作非十四經辯
而至於先生几下先生讀
之曰經絡者古聖人之定
論豈可妄議乎雖然如滑
壽經絡別傳其遺害非淺
今正之錯説余所必取也
  三ウラ
謹受先生之命爲序其首
安永乙未仲秋日
河野仙壽院門人
山嵜松丹謹序


  【訓み下し】
  三オモテ
非十四經辯序
師に事うること、古毉道も亦た然り。余が同朋
白鱗なる者は、鍼灸の術を好み、苦
刻して歳有り。嘗て非十四經辯を作る。
而して先生の几下に至って、先生
之を讀んで曰く、經絡なる者は古聖人の定
論なり。豈に妄りに議する可けんや、と。然りと雖も滑
壽の如きは、經絡別に傳え、其の害を遺(のこ)すこと淺きに非ず。
今之が錯説を正す。余の必ず取る所なり。
  三ウラ
謹しんで先生の命を受けて序を其の首に爲すと
云う。
安永乙未仲秋日
 河野仙壽院門人
    山嵜松丹謹序

  【注釋】
○苦刻:「刻苦」におなじ。 ○有歳:有年。長年。 ○先生:河野通頼(みちより)。仙壽院。明和三年法印。安永二年御匙。寛政五年歿。年八十。(『寛政重修諸家譜』卷第六百十四) ○山嵜松丹:


  一オモテ  371頁
非十四經序
伯鱗氏見滑伯仁之書以為膠人之目
曰人命至重矣鍼石相之不可以已乎
昔者明王竭其目力直鼻横目人皆
見之視其所不見謂某在此某在此
則皮裡名分居然在人睫十目以視
矣百世以明矣乃至乎宋元先民之
典寘諸照鏡上古之言見諸列眉
  一ウラ  372頁
秋毫不失錐末不違皮裡名分若視見
垣一方人哉而明人伯仁鴟目之大將
與何為眎不若鼠拭眥接物昬昬昧
昧摸蘓是類豈唯形骸有盲乎蕭條
君形者瞑焉廼不能不皮裡名分如
縣象有列瞽史貞觀者舉彼錯此
舉此錯彼身體支節多亂其目是
取其所見合會為人非妖即怪人
  二オモテ  373頁
見掩目而走幸莫合會之者耳而不
内自省盱盱高盻蒿目所見載之方
策奚翅不似丘明之書後昆之鑑哉
噫伯仁又矇人也而後進之士不知
離朱師曠畫規之目均之無見獨
眩白黒分明以為神心亦復然抉爾
焰焰眸子代之以夫腐肉之非乎一
人仰之二人嚮之衆人允若之受其黮
  二ウラ  374頁
闇不顧皮裡名分出明王目力者卒以
湮滅出于伯仁蒿目者卒以較著徒有
瞳子而已天下滔滔喪其明焉群瞽
累累居其晦焉乃我生此世亦若河
魚不得明目也久矣幸窺見伯仁之
沙石濊之即用厺之愽覽舊章究
察先言頌論形軀討論文理明王
竭目力之迹皮裡名分粲然猶觀
  三オモテ
火也斯著此書欲使夫人復歸於明焉
然舊之甘瞑於幽冥之室不嘗與日
月之光卒然排之戸牖愕然按劍
而立則稍稍喜得輝燭一旦側目
排之者乎然人命至重矣鍼石相
之不可以已也伯鱗氏欲發衆人之
蒙言其所見如此
   三河  岳融撰
  〔印形白字「岳融/之印」、黒字「字曰/子陽」〕
   友思孝書
    〔印形白字「思/孝」、黒字「奉/◆」〕

  【訓み下し】
  一オモテ
非十四經序
伯鱗氏、滑伯仁の書を見て、以て人の目を膠(にかわ)すと爲して、
曰く、人命は至重なり。鍼石、之を相(たす)く。以て已(や)む可らざらんや。
昔者(むかし)明王、其の目力を竭し、直鼻横目、人皆
之を見る。其の見ざる所を視て、某は此に在り、某は此に在りと謂て、
則ち皮裡の名分居然として人睫に在り。十目以て視る。
百世以て明らかなり。乃ち宋元に至って、先民の
典、諸(これ)を照鏡に寘(お)き、上古の言、諸(これ)を列眉に見る。
  一ウラ
秋毫失わず、錐末違(たが)わず。皮裡の名分、視て垣の一方の人を見るが若きかな。
而して明人伯仁、鴟目の大なる、將(は)た
與(カ)何にか爲さん。眎(み)ること鼠に若かず。眥を拭って物に接するも昬昬昧
昧摸蘓、是れ類せん。豈に唯だ形骸のみにして盲有らんや。蕭條として
形に君たる者瞑す。廼ち皮裡の名分、
縣象、列有り、瞽史の貞觀の如くならざれば能わざる者、彼を舉げて此に錯(そむ)き、
此を舉げて彼に錯(そむ)き、身體支節多く其の目を亂る。是れ
其の見る所を取って合會して、人と爲さば、妖に非ざれば即ち怪人、
  二オモテ
見て目を掩って走らん。幸いに之を合會する者莫きのみ。
内に自ら省みず、盱盱として高盻し、蒿目して見る所、之を方策に載す。
奚ぞ翅(た)だ丘明の書の後昆の鑑(かがみ)たるに似ざるのみならんや。
噫(イ)、伯仁、又人を矇するなり。而して後進の士、
離朱・師曠、之が目を畫規するは、均しく之れ見ること無きに、獨り
白黒分明なるに眩し、以爲(おもえ)らく神心も亦復(またまた)然りと、爾(なんじ)の
焰焰たる眸子を抉(えぐ)って之に代うるに、夫(か)の腐肉を以てするの非を知らざるか。一
人之を仰ぎ、二人之に嚮(むか)ひ、衆人之に允とし若(した)がって、其の黮闇を受けて
  二ウラ
顧みず。皮裡の名分、明王の目力に出づる者、卒(つい)に以て
湮滅し、伯仁が蒿目に出づる者、卒に以て較著す。徒(いたづら)に
瞳子有る而已(ノミ)。天下滔滔として其の明を喪し、群瞽
累累として其の晦に居る。乃ち我、此の世に生まれて、亦
河魚の目を明することを得ざるが若きや久し。幸いに窺って伯仁の
沙石の之を濊(け)がすを見る。即ち用いて之を去って舊章を愽覽し、
先言を究察し、形軀を頌論し、文理を討論すれば、明王
目力を竭(つく)すの迹、皮裡の名分、粲然として猶を火を觀るがごとし。
  三オモテ
斯(ここ)に此の書を著して夫(か)の人をして明に復歸せしめんと欲す。
然れども舊(ひさ)しく之幽冥の室に甘瞑し、嘗て
日月の光に與(あずか)らず。卒然として之が戸牖を排(ひら)けば、愕然として劍を按じて
立たん。則ち稍稍に輝燭を得るを喜ぶも、一旦
之を排(ひら)く者を側目せんか。然れども人命は至重なり。鍼石
之を相(たす)く。以て已(や)む可からず、と。伯鱗氏、衆人の
蒙を發(ひら)かんと欲して、其の見る所を言うこと此(かく)の如し。
三河  岳融撰

  【注釋】
  一オモテ
○伯鱗:白鱗に同じ。 ○滑伯仁:滑寿(1304--1386)。『十四経発揮』を撰す。 ○膠:ものを固定して動かないようにする。いつわる。 ○目力:視力。『孟子』離婁上:「聖人既竭目力焉、繼之以規矩準繩」。 ○直鼻横目:おそらく人間のこと。真っ直ぐな鼻と横型の目。 ○居然:確かに。あきらかに。 ○名分:名義。 ○照鏡:明鏡。 ○列眉:事情がはっきり明白なことは眉毛が整って並んでいるようである。見たところが真実で少しも疑う余地がないことのたとえ。
  一ウラ
○秋毫:微細の物のたとえ。 ○視見垣一方人:『史記』扁鵲傳「扁鵲以其言飲藥三十日、視見垣一方人。」 ○鴟目:フクロウの目。容貌の凶悪なさま。『淮南子』氾論訓「夫鴟目大而眎不若鼠」。大も小に及ばないこともある譬え。 ○將:はた。反語をあらわす。 ○爲:反語の終助詞。 ○昬昬:昏昏。暗くはっきりしない。曖昧で是非が判定できない。 ○昧昧:暗い。 ○摸蘓:模索。連綿語で、「あいまい」の意であろう。 ○蕭條:さびしく冷たいさま。 ○君形:『淮南子』説山訓「君形者亡焉」。 ○縣象:天象。 ○瞽史:周代の二つの官職。瞽は楽師で、楽をつかさどる。史は太史で、陰陽天時の礼法をつかさどる。 ○貞觀:正道を人に示す。『易』繫辭下「天地之道、貞觀者也」。 韓康伯注「天地萬物莫不保其貞以全其用也」。 孔穎達疏「天覆地載之道以貞正得一、故其功可爲物之所觀也」。 陳夢雷淺述「觀、示也。天地常垂象以示人、故曰貞觀」。 ○合會:集め合わせる。合成する。
  二オモテ
○盱盱:直視するさま。跋扈するさま。 ○盻:にらむ。 ○蒿目:目の届く限り遠くを眺める。○丘明:左丘明。春秋魯国の太史。孔子が『春秋』を作り、左丘明が孔子の志を述べ、『春秋』によって、伝を作り、『春秋左氏伝』という。 ○後昆:後代の子孫。 ○噫:悲哀、痛みの語気。心の不平を発するときの音声。ああ。 ○矇:あざむく。 ○離朱:離婁。黄帝時代の人。百歩離れたところの秋毫の末を見分けたという。『莊子』駢拇「是故駢於明者、亂五色、淫文章、青黃黼黻之煌煌非乎。而離朱是已」。 陸德明釋文引司馬彪曰:「離朱、黃帝時人、百步見秋毫之末。一云見千里鍼鋒。『孟子』作離婁」。 ○師曠:人名。字は子野、春秋時代、晋国の楽師。よく音律聞き分けたことで著明。 ○畫規:画策する。 ○神心:心神。 ○焰焰:明るく輝く。 ○眸子:ひとみ。 ○允:承諾する。同意する。 ○若:「諾」に通ず。 ○黮闇:はっきりしないさま。蒙昧なさま。『莊子』齊物論「人固受其黮闇、吾誰使正之。」黮:くらい。
  二ウラ
○較著:顕著になる。 ○滔滔:混乱したさま。『論語』微子「滔滔者天下皆是也、而誰以易之」。 ○瞽:盲者。 ○累累:数が多いさま。 ○河魚不得明目:『淮南子』俶真訓「故河魚不得明目、稚稼不得育時、其所生者然也」。 ○沙石:土砂。 ○濊:「穢」に通ず。よごす。『淮南子』齊俗訓「故日月欲明、浮雲蓋之、河水欲清、沙石濊之」。 ○厺:「去」の異体字。 ○愽覽:博覧。 ○頌:朗読する。
  三オモテ
 ○幽冥:暗眛。 ○甘瞑:「甘冥」に同じ。安らかに眠る。『莊子』列御寇「彼至人者、歸精神乎无始、而甘冥乎无何有之郷」。陸德明釋文「冥……本亦作‘瞑’、又音眠」。 ○按劍:手で剣をなでる。 ○稍稍:だんだん。徐々に。 ○輝燭:輝く光。 ○一旦:ある朝。ある日。突然ある日。 ○側目:横目に人を見る。敬畏、戒懼、怒恨、憤怒などの含意あり。 ○三河:いま愛知県東部地域。  ○岳融:川野正博著『日本古典作者事典』によれば、1792年『壷邱詩稿二集』の跋にも見える。東海(とうかい・大竹融/字;子陽、岳東海)1735ー1803 三河儒:能耳門、江戸で講説、備中足守藩儒、. 「五穀古名考」「東海詩文稿」「荀子孝註」「四家雋考」、岳は大竹の略;修姓.


  四オモテ  377頁
非十四經辨序
昔軒轅制作鍼灸之術以拯民
之瘼則得行於永世者毉家之
要術不可過之矣余志鍼灸之
術三十歳于此吾邦未觀鍼術
之精者復觀今世鍼灸之書皆
滑壽介賓二腐毉精粕而無足
取者余嘗著非十四經辨以告
門人夫余鍼術者絶類離羣徴
  四ウラ
之以軒岐師之以扁倉欲復補
元明以來鍼灸經絡兪穴之弊
竢諸來者耳
安永乙未仲秋
   東都 廣瀬見龍白鱗
  〔印形白字「姓廣瀬/名見龍」、黒字「◆◆/原◆」〕


  【訓み下し】
  四オモテ
非十四經辨序
昔、軒轅、鍼灸の術を制作し、以て民
の瘼(やまい)を拯(すく)い、則ち永世に行う者を得たり。毉家の
要術、之に過ぐる可からず。余、鍼灸の
術に志すこと三十歳。此に于(お)いて吾が邦に未だ鍼術
の精なる者を觀ず。復た今世の鍼灸の書を觀るに、皆
滑壽介賓二腐毉は精粕にして、而して
取るに足る者無し。余嘗て非十四經辨を著し、以て
門人に告ぐ。夫れ余が鍼術なる者は類を絶し群を離れ、
  四ウラ
之を徴とするに軒岐を以てし、之を師とするに扁倉を以てして、
元明以來の鍼灸經絡兪穴の弊を復補せんと欲す。
諸(これ)を來者に竢(ま)つのみ。
安永乙未仲秋
   東都 廣瀬見龍白鱗

  【注釋】
  四オモテ
○軒轅:黄帝。 ○介賓:張介賓。 ○腐:役に立たない。 ○精粕:「糟粕(粗悪無用の物)」の意か。 ○絶類:たぐいなく優れる。絶倫。 ○羣:「群」の異体字。離羣:多くを超越している。蘇軾『表忠觀碑』「篤生異人、絶類離羣」。 
  四ウラ
○徴:証拠とする。 ○扁倉:扁鵲と倉公(淳于意)。 ○來者:後進。後輩。 ○安永乙未:安永四年(一七七五)。 ○東都:江戸。 


  十七オモテ  403頁
匪十四經跋
夫鍼灸術起于軒岐其要妙者秦
漢唐宋之名毉咸有纂述可大備
矣至元滑壽著十四經妄附臆度
差譌遺漏後世無識其妄者豈不
悲乎白鱗素精鍼術者著此書以
辯於滑壽孟浪之説名曰非十四
經辯令余爲之考訂余曰經絡腧
穴之道出于聖人逮至後世毉道
  十七ウラ  404頁
大變穪聖人未發䝿新賤舊滑壽   「稱」 「貴」
殿弊無甚於此矣是故白鱗者欲
使學於門人鍼灸之術者趣正而
遠邪也聊以爲之跋
安永乙未之秋
東都  林鳳舉元恭識
  【訓み下し】
  十七オモテ
匪十四經跋
夫れ鍼灸術は軒岐に起こる。其の要妙なる者は秦
漢唐宋の名毉、咸(み)な纂述有りて大いに備わる可し。
元の滑壽、十四經を著すに至りて、妄りに臆度を附す。
差譌遺漏、後世、其の妄を識(し)る者無きは、豈に
悲しからずや。白鱗は素より鍼術に精しき者なり。此の書を著して以て
滑壽孟浪の説を辯ず。名づけて非十四
經辯と曰う。余をして之が考訂を爲さしむ。余曰く、經絡腧
穴の道は聖人に出づ。後世に至るに逮(およ)びて、毉道
  十七ウラ
大いに變じ、聖人未だ發せずと稱し、新らしきを貴び、舊きを賤しむ。滑壽
殿の弊、此より甚だしきは無し。是の故に白鱗なる者
門人の鍼灸の術を學ぶ者をして正に趣きて而して
邪を遠ざけしめんと欲するなり。聊か以て之が跋と爲す、と。
安永乙未の秋
東都  林鳳舉元恭識(しる)す
  【注釋】
  十七オモテ
○差譌:あやまり。 ○孟浪:軽率なこと。『莊子』齊物論「夫子以為孟浪之言、而我以為妙道之行也」。 
  十七ウラ
○林鳳舉元恭:未詳。朱子学の林家のひとか。


十八オモテ  405頁
非十四經辨跋
經絡之説出於素靈而成於秦越人隋唐
以降諸家所見不同分趣異途莫適爲準
至元滑壽著十四經以爲發揮古昔所未
言而其説皆出於臆斷牽強大與素靈背
馳明馬玄臺祖述之而注内經張介賓本
之而著類經從是而滑氏之説徧行於天
下而有輕重之者鮮焉伯鱗子嘗疑滑氏
之説出於鑿説而固與素靈相悖於是乎
  十八ウラ  406頁
博考遠稽三十年於茲竟知其所發在彼
所謬在此因分條而辨正之命曰非十四
經辨其意合經者扶之悖經者斥之要在
明素靈之旨正炎黄之統其功可不謂勤
乎今欲上之梓以公於世予與伯鱗子相
知深因忘固陋以跋云
  安永戊戌仲春既望
         與住德誼撰
  〔印形黒字「盈/士」、白字「德/誼」〕


  【訓み下し】
十八オモテ
非十四經辨跋
經絡の説は素靈に出で、而して秦越人に成る。隋唐
以降の諸家、見る所同じからず。趣きを分ち途を異にし、適して準と爲す莫し。
元の滑壽に至りて、十四經を著し、以て發揮を爲す。古昔未だ
言わざる所なり。而して其の説皆な臆斷牽強に出で、大いに素靈と
背馳す。明の馬玄臺は之を祖述し、而して内經に注す。張介賓は之に本づき
而して類經を著す。是に從いて滑氏の説徧(あまね)く天下に行われ、
而して之を輕重する者有ること鮮(すくな)し。伯鱗子嘗て滑氏
の説の鑿説を出だし、而して固(もと)より素靈と相い悖(もと)るを疑う。是(ここ)に於いて、
  十八ウラ
博考遠稽すること三十年。茲(ここ)に竟(つい)に其の發する所、彼に在り、
謬る所、此に在るを知る。因りて條に分けて之を辨正す。命(なづけ)けて曰く、非十四
經辨と。其の意の經に合する者は之を扶け、經に悖る者は之を斥(しりぞ)く。要は
素靈の旨を明らかにするに在り。炎黄の統を正す。其の功、勤めたりと謂わざる可けん
や。今之を梓に上ぼせ、以て世に公にせんと欲す。予は伯鱗子と相
知ること深し。因りて固陋を忘れて以て跋すと云う。
  安永戊戌仲春既望
         與住德誼撰

  【注釋】
  十八オモテ
○素靈:『素問』『霊枢』。 ○秦越人:扁鵲。 ○馬玄臺:馬蒔。字は仲華、号は玄臺。明代、浙江会稽の人。『素問』『霊枢』の『註証発微』等を撰す。 ○祖述:前人の学説にならいしたがう。 ○張介賓:字は会卿、号は景岳、また通一子。浙江省山陰県の人。『内経』の注釈書『類経』等を撰す。 ○徧:「遍」の異体字。 ○輕重:軽重を問う。 ○鑿:牽強付会な。
  十八ウラ
○博考遠稽:ひろくものごとを考査する。学問に打ち込んで細かなことも漏らさず研究することの形容。深稽博考。 ○炎黄:炎帝神農氏と黄帝軒轅氏。 ○統:続いて絶えない体系。正統。 ○固陋:見聞の浅いこと。謙遜語。 ○安永戊戌:安永七年(一七七八)。 ○仲春:旧暦二月。 ○既望:旧暦十六日。 ○與住德誼:未詳。


  十九オモテ  407頁
非十四經跋
鍼之於灸藥譬之互行各自運
轉相爲用蓋鍼術之罹厄其元
明之間乎今之學者唯取信於
其書古術之不精職之由廼吾
家翁專志此道若干年目既熟
古書而得之於手應之於心自
若書前後十數篇今於此書亦
必謀諸古爲徴以斥其有錯誤
  十九ウラ  408頁
考以匡之必欲以改其正是家
翁之意也故予固請遂授之梓
人又欲使初學輩佐此竟牗其
衷也而後乃今与夫古之灸藥
相爲唇齒奚異亦庶幾有補於
濟民之術乎哉
安永乙未冬
   東都醫官村田長菴門人廣瀬見仲


  書き下し
  十九オモテ
非十四經跋
鍼の灸藥に於ける、之を譬うれば互いに行い、各おの自ら運
轉し、相い用を爲す。蓋し鍼術の厄に罹(かか)る、其れ元
明の間か。今の學者は唯だ信を
其の書に取るのみ。古術の精ならざるは職として之由る。廼ち吾が
家翁專ら此の道を志すこと若干年、目既に
古書に熟して、之を手に得て、之を心に應ず。自
若として前後十數篇を書す。今、此の書に於いて亦た
必ず諸(これ)を古えに謀りて徴と爲し、以て其の錯誤有るを斥け、
  十九ウラ
考えて以て之を匡し、必ず以て其の正に改めんと欲す。是れ家
翁の意なり。故に予固より請いて遂に之を梓
人に授け、又た初學輩をして佐(たす)けんと欲す。此に竟に其の
衷を牗(みちび)くなり。而る後乃ち今、夫の古えの灸藥と与に
相い唇齒を爲すこと、奚ぞ異ならんや。亦た庶幾(こいねが)わくは
濟民の術を補うこと有らんかな。
安永乙未冬
   東都醫官村田長菴門人廣瀬見仲

  【注釋】
○職:もっぱら。この部分、疑義あり。 ○家翁:父。 ○梓人:ここでは出版業者のことであろう。 ○唇齒:脣齒。きわめて密接な関係。 ○安永乙未:安永四年(一七七五)。 ○村田長菴:村田致和(むねまさ)。壽庵、杏庵ともいった。代々、長庵と号す。安永四年、寄合に列す。五年、家治の日光山詣でに随行。七年八月十四日、奥医となり、十二月十六日法眼に叙せられる(『寛政重修諸家譜』卷一三〇四。第二十册一頁)。 ○廣瀬見仲:廣瀬白鱗の子であろう。

21-3 熙載録

21-3熙載録
    東京大学附属図書館所蔵V11の434
    オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』21所収

  (序)
  一オモテ
書云有能奮庸熙帝之載熙興
也載事也臣熙其君之載忠也
子熙其父之載孝也方今昇平
所育上自先王之道下至諸子
百家莫不駸〃乎至復古之域
矣盛矣哉乃出若垣本鍼源翁
者惟鍼砭之用華枯甦鬼而名
著海内矣夫鍼石湯藥雖自古
  一ウラ
而在未聞一鍼以療萬病也可
不謂奇也乎梶川長卿氏余莫
逆之友也左則左右則右生平
義氣相許燕會行遊未嘗不相
偕也長卿氏亦好古与余同病
相憐往年同游京師莫不叩諸
家之蘊長卿氏聞東洋東洞二
先生各唱古方則皆就而學之
  二オモテ
既而聞鍼源翁善鍼術也亦將
就而學之余𡰱之曰子既受刺  〔尸+工〕「尼」の異体字。
絡之方於紅毛譯司吉雄子升
堂又入室矣而今將遊鍼源翁
之門雖志業之篤余不取也不
聽遂遊余窃怪之往窺鍼源翁
之門牆視其施治余撃節而嘆
曰宜哉長卿氏之不用余言也
  二ウラ
夫紅毛之術雖專執鍼而膏油
藥散有時用之如鍼源翁之術
則異于此唯一鍼以療萬病未
嘗用藥嗚呼鍼源之名不虗可
不謂奇之又奇也哉長卿氏之
不用余言也宜既而鍼源翁易
簀有女子茂登者性敏妙觧刺
法能繼箕裘嚮來吾郷主長卿
  三オモテ
氏多起病客時出一冊子且泣
曰此先人治効之書雖欲公之
世妾所不及也請屬之君長卿
氏悲茂登之志校而上梓不朽
其師詢書名於余〃曰女子而
繼箕裘其志勝丈夫謂之熙父
之載亦可孝哉因題之曰熙載
録云此爲序
  三ウラ
安永戊戌仲春
     學海平寛譔
    〔印形白地「平寛/佑相」「鳴海/釣徒」〕


  【訓み下し】
  一オモテ
書に云う、能く庸を奮って帝の載(こと)を熙(おこ)すもの有り、と。熙は興
なり。載は事なり。臣、其の君の載(こと)を熙(おこ)すは、忠なり。
子、其の父の載を熙すは孝なり。方今、昇平の
育(はぐく)む所、上は先王の道自り、下は諸子
百家に至るまで、駸駸乎として復古の域に至らざるは莫し。
盛んなるかな。乃ち垣本鍼源翁の若き
者出づ。惟だ鍼砭のみ之れ用いて、枯(かれき)を華さかせ鬼を甦らせ、而して名
海内に著(あらわ)る。夫れ鍼石湯藥は、古(いにし)え自り
  一ウラ
して在ると雖も、未だ一鍼以て萬病を療するを聞かざるなり。
奇と謂わざる可けんや。梶川長卿氏は、余が莫
逆の友なり。左は則ち左。右は則ち右。生平
義氣相許し、燕會行遊、未だ嘗て相い
偕(とも)にせずんばあらざるなり。長卿氏も亦た古えを好み、余と同病
相憐み、往年、同(とも)に京師に游び、諸
家の蘊の叩ざるは莫し。長卿氏は東洋、東洞二
先生の各おの古方を唱うるを聞き、則ち皆な就きて之を學ぶ。
  二オモテ
既にして鍼源翁の鍼術を善くするを聞くや、亦た將に
就きて之を學ばんとす。余は之を尼(とど)めて曰く、子、既に刺
絡の方を紅毛譯司の吉雄子に受けて、
堂に升り又た室に入る。而今、將に鍼源翁
の門に遊ばんとす。業を志すこと之れ篤しと雖も、余は取らざるなり。
聽かず。遂に遊ぶ。余は竊(ひそ)かに之を怪む。往きて鍼源翁
の門牆を窺い、其の治を施すを視る。余は節を擊ち、嘆じて
曰く、宜しきかな。長卿氏の余が言を用いざるや。
  二ウラ
夫れ紅毛の術は、專ら鍼を執(と)ると雖も、而して膏油
藥散して時に之を用いる有り。鍼源翁の術の如きは、
則ち此に異なり、唯だ一鍼以て萬病を療するのみ。未だ
嘗て藥を用いず。嗚呼、鍼源の名、虚ならず。
之を奇とすと謂わざる可けんや。又た奇ならんや。長卿氏の
余が言を用いざるや、宜(むべ)なり。既にして鍼源翁、
簀を易う。女子の茂登なる者有り。性、敏妙、刺
法を解し、能く箕裘を繼ぐ。嚮(さき)に吾が郷に來(きた)り、長卿
  三オモテ
氏を主として、多く病客を起こす。時に一册子を出(い)だし、且つ泣いて
曰く、此れ先人の治效の書なり。之を世に公にせんと欲すと雖も
妾の及ばざる所なり、請う之を君に屬(たの)まん、と。長卿
氏、茂登の志を悲しみ、校して梓に上(のぼ)せ、
其の師を朽ざらしめんと、書名を余に詢(はか)る。余曰く、女子にして
箕裘を繼ぐ、其の志は丈夫に勝る、之を父
の載(こと)を熙(おこ)すと謂うも、亦た孝ある可きかな、と。因りて之に題して曰く、熙載
録と云う。此れを序と爲す。
  三ウラ
安永戊戌仲春
     學海平寛譔


  【注釋】
  一オモテ
○書云:『尚書』虞書・卷三・舜典「舜曰:咨、四岳、有能奮庸熙帝之載、使宅百揆、亮采、惠疇(舜曰く:咨(ああ)、四岳、能く庸を奮って帝の載(こと)を熙(おこ)すもの有らば、百揆に宅(お)き、采を亮(たす)けしめん。惠(こ)れ疇(たれ)ぞ)」。(ああ、四岳〔東西南北の四方の神〕よ。よく功を奮い起こして、帝の事をさかんにするものがあるならば、それは誰か。) ○方今:いま。現在。 ○昇平:太平、治平。 ○駸駸:さかんなさま。 ○鬼:死者(の霊魂)。 ○海内:天下。国中。
  一ウラ
○梶川長卿:本書の校定者、梶川東岡。 ○莫逆之友:心の通じ合った、情誼に厚い親友。『莊子』大宗師:「子祀、子輿、子犁、子來……四人相視而笑、莫逆於心、遂相與為友」。 ○義氣相許:意気投合する。 ○燕會:宴会。 ○行遊:旅行。 ○相偕:一緒にいる。 ○好古:古いものを好む。篤學好古/篤信好古:専心して古典籍をまなぶ。 ○同病相憐:同じような不幸にあったものがたがいに同情する。 ○遊:遊学(他郷で勉学)する。 ○叩:質問する。 ○蘊:蘊蓄。 ○東洋:山脇東洋(1705~62)。名は尚徳(たかのり)、字は玄飛(はるたか)・子樹(しじゅ)、通称道作(どうさく)。後藤艮山(ごとうこんざん)に学んだことから古医方を重視。法眼。(小曽戸洋『日本漢方典籍辞典』) ・東洞:吉益東洞(1702~73)。名は為則(ためのり)。字は公言(こうげん)。通称は周助(しゅうすけ)。安芸広島の人。張仲景の医方の研究に傾注し、元文3(1738)年京都に上り医を行い、四十歳過ぎて山脇東洋(やまわきとうよう)に認められてからは大いに名声を博し、古方派の雄として当時の医界を煽った。(『日本漢方典籍辞典』)
  二オモテ
○既而:やがて。まもなく。 ○鍼源翁:本書の著者垣本鍼源。京都のひと。 ○吉雄子:吉雄耕牛(1727~1800)か。阿蘭陀通詞、蘭方医。名は永章。耕牛は号。寛延元年(1748)大通詞。商館付医師から医学・医術を学ぶ。家塾、成秀館には各地から入門者が多く、吉雄流紅毛外科の名は広まった。(『国史大辞典』) ○升堂又入室:『論語』先進「由也升堂矣、未入於室也。」学問や技芸がだんだん進んで高い段階に達したことの比喩。 ○而今:現在。『論語』泰伯「而今而後、吾知免夫」。 ○不聽:従わない。服従しない。 ○門牆:門と塀。家の出入り口。先生の門。『論語』子張:「夫子之牆數仞、不得其門而入、不見宗廟之美、百官之富、得其門者寡矣(夫子〔孔子〕の牆や數仞、其の門を得て入らざれば、宗廟の美と百官の富を見ず。其の門を得る者は寡なし)」。 ○擊節:拍子を打つ。賛意をあらわす。激賞する。
  二ウラ
○易簀:すのこをかえる。臨終をいう。『禮記』檀弓上「曾子寢疾、病。樂正子春坐於床下、曾元・曾申坐於足、童子隅坐而執燭。童子曰、華而睆、大夫之簀與。子春曰、止。曾子聞之、瞿然曰、呼。曰、華而睆、大夫之簀與。曾子曰、然、斯季孫之賜也、我未之能易也。元、起易簀。曾元曰、夫子之病革矣、不可以變、幸而至於旦、請敬易之。曾子曰、爾之愛我也不如彼。君子之愛人也以德、細人之愛人也以姑息。吾何求哉。吾得正而斃焉斯已矣。舉扶而易之。反席未安而沒」。 ○敏妙:敏捷で利発。 ○箕裘:子弟が父兄から受け継ぐ家業。『禮記』學記「良冶之子必學為裘、良弓之子必學為箕」。
  三オモテ
○起:病を治す。 ○先人:亡き父。 ○妾:女性の自称。 ○悲:同情する。心が痛む。 ○上梓:刊行する。
  三ウラ
○安永戊戌:安永七年(1778)。 ○仲春:旧暦二月。 ○學海平寛:川野正博著『日本古典作家事典』http://www.geocities.jp/manyoubitom/S1mokuji.htmに「雷首(らいしゅ・清水しみず長孺/中和、彩川外史、下郷雪房男)1755ー1836 尾張鳴海儒:学海・栗山門、伊勢神戸藩儒臣:追放、京で開塾/詩文、「蜑煙焦余集」」とある。/『日本古典籍総合目録』http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/about.htmlによれば、清水雷首、別称:長孺( ながちか ) 、平八( へいはち ) 。/『張城人物志』(安永七年序刊本、名古屋市鶴舞中央図書館/刈谷市中央図書館・村上文庫所蔵)の跋文にもその名あり。


(序二)
  一オモテ
熙載録序
疾醫之道古者有汗吐下及刺法而後世
失其傳者尚矣今也文運之化及吾救豪
傑繼踵而起闢養榮益氣之邪説以汗
下活人疾醫之道於是復乎古時越有一
叟傳吐法漸布海内乃汗吐下粲然賅存
不亦愉快乎雖然余竊嘗謂至病在血
絡之証則非鍼不能起之豈汗吐下之所能
  一ウラ
達哉故不知刺㳒則爲古醫法也不全夫   ※「㳒」は「法」の異体字。
秦越人醫之聖者也如起虢太子豈非鍼
之妙乎爲疾醫者鍼安可舎也古先聖王
之治必由六典立若舎一典則其致裁成輔
相之功也不全汗吐下刺相資以成功其猶典
有六而不可舎其一邪既而聞平安有垣本
先生善鍼也學而試之愈自信鍼之不
可舎焉余復嘗聞紅毛人刺法以余觀之
  二オモテ
先生之術勝紅毛人遠矣紅毛人唯刺血絡而
已如先生之以鍼療萬病豈凡手所可企及
哉先生止有一女字曰茂登學父之業而術不
減父父没而繼不隊家聲可謂女丈夫矣其
非凡手亦奇去歳秋茂登齎熈載録來
就余于鳴海而正焉將以使海内遍知鍼之妙
且曰此輯先大人之経験者抑先大人之以鍼仁
人不知幾千人唯妾侍而傍觀唯妾侍而
  二ウラ
私録所以多軼也余嘉茂登之志戮力上梓
海内疾醫庶幾聞風而興於鍼矣
皇和安永七年戊戌春二月
   鳴海   梶川樹德撰
    〔印形白字「橘印/樹德」「長卿/◆〕
  【訓み下し】 
(序二)
  一オモテ
熙載録序
疾醫の道、古者(いにしえ)汗吐下及び刺法有り。而して後世
其の傳を失うこと尚(ひさ)し。今や文運の化、吾に救いを及ぼし、豪
傑、踵を繼きて起こる。榮を養い氣を益すの邪説を闢(しりぞ)け、汗
下を以て人を活す。疾醫の道、是(ここ)に於いて古に復す。時に越に一
叟有り。吐法を傳え、漸(ようや)く海内に布(し)く。乃ち汗吐下、粲然として賅(そなわ)り存す。
亦た愉快ならずや。然りと雖も、余竊(ひそ)かに嘗て謂(おも)えらく、病の血
絡に在るの證に至りては則ち鍼に非ずんば之を起こす能わず。豈に汗吐下の能く

一ウラ
達する所や、と。故に刺法を知らずんば、則ち古醫法を爲すや全からず。夫れ
秦越人は、醫の聖者なり。虢の太子を起こすが如きは、豈に鍼
の妙に非ずや。疾醫爲(た)る者、鍼、安(いず)くんぞ舎(す)つ可けんや。古先の聖王
の治は、必ず六典に由りて立つ。若し一典を舎つれば、則ち其の裁成輔
相の功を致すや全からず。汗吐下刺、相資して以て功を成す。其れ猶お典に
六有りて其の一を舎つ可からざるがごときか。既にして平安に垣本
先生有り、鍼を善くするを聞くなり。學びて之を試す。愈いよ自ら鍼の
舎つ可からざるを信ず。余復た嘗て紅毛人の刺法を聞く。余を以て之を觀るに、
  二オモテ
先生の術は紅毛人に勝れること遠し。紅毛人は唯だ血絡を刺すのみ。
先生の鍼を以て萬病を療するが如きは、豈に凡手の企及す可き所ならんや。
先生に止(た)だ一女のみ有り。字(あざな)を茂登と曰う。父の業を學ぶ。而(しか)も術は
父に減(おと)らず。父没して繼ぐ。家聲を隊(お)とさず。女丈夫(じょじょうふ)と謂う可し。其の
凡手に非ざるも亦た奇なり。去歳の秋、茂登は熈載録を齎(もたら)し來(きた)り、
余に就きて鳴海に于(お)いて焉(これ)を正す。將に以て海内をして遍(あまね)く鍼の妙を知らしめんとす。
且つ曰く、此れ先大人の経験を輯(あつ)むる者なり。抑(そも)そも先大人の鍼を以て
人に仁するは、幾千人なるかを知らず。唯だ妾は侍(はべ)りて傍觀するのみ。唯だ妾は侍りて
  二ウラ
私(ひそ)かに録するのみ。軼すること多き所以(ゆえん)なり、と。余は茂登の志を嘉(よみ)し、力を戮(あわ)せ梓に上ぼす。
海内の疾醫、庶幾(こいねがわ)くは風を聞いて鍼を興せ。
皇和安永七年戊戌春二月
鳴海   梶川樹德撰

  【注釋】
  一オモテ
○疾醫:『周禮』天官・疾醫「疾醫掌養萬民之疾病」。 ○文運:文学(学問)の気運。 ○化:教化。徳化。感化。 ○繼踵:かかとを接する。連なりつづくさま。 ○越有一叟:荻野元凱(1737~1806)のことか。元凱は金沢の出身だが。『吐法編』(1764)を著す。また『刺絡編』(1771)を刊行した。 ○賅:兼備する。完備する。『莊子』齊物論「百骸、九竅、六藏、賅而存焉」。
  一ウラ
○裁成輔相:『漢書』卷二十一律曆志上「后以裁成天地之道、輔相天地之宜」。『易經』泰卦「后以財成天地之道、輔相天地之宜、以左右民」。/裁成:成就する。/輔相:助ける。 ○典有六:周代に帝王を補佐して国を治めるための六種の法典。治典、禮典、教典、政典、刑典、事典。『周禮』天官・大宰「大宰之職、掌建邦之六典、以佐王治邦國」。
  二オモテ
○凡手:平凡な腕前。 ○企及:つま先だってなんとか達しようとする。おいつく。/不可企及:隔たりが大きすぎて、追いつけない。 ○家聲:家の名声。 ○女丈夫:女傑。傑出した女性。 ○鳴海:尾張国鳴海(いま、愛知県名古屋市緑区鳴海)。 ○先大人:亡父。「先」は亡くなった人に対する尊称。「大人」は父母などに対する称呼。 ○仁人:「医は仁術」。人を治療する。
  二ウラ
○軼:「佚」に通ず。散逸する。 ○聞風:情報を得る。/聞風而起:情報を得てすぐ反応する。/聞風而動:情報を聞いてすぐに行動する。 ○皇和:皇(おお)いなる大和。日本。 ○安永七年:一七七八年。 ○梶川樹德:本書の扉に「梶川東岡先生校定」とある。橘氏。鳴海のひと。


  (後序)
  一オモテ
熙載録後敘
欲知世運之消息莫若察之人事不
藉蓍龜不質鬼神較然著明余嘗竊
慨歎於刺鍼之事久矣但可爲識者
道難爲俗士道語曰有文叓者必有    ※「叓」は「事」の異体字。
武備又稱君子之行曰強有力曰智
仁勇夫勇武君子之所以勉德而固
  一ウラ
本者也豈可廢乎唯是太平日久則
丈夫皮薄膚柔筋弛骨弱血氣態度
擬於女子而題之曰上流男子翕然
愛之暖〃姝〃如韋如脂風俗行窳
迷而不復亦必然之勢也君子無勇
何以勉德政無武備何以固本可不
戒乎病萬變醫亦多方藥所不及鍼
  二オモテ
以達之水以灌之火以熏之非多方
乎盖古之刺㳒兼用大鍼小鍼素問    ※「盖」は「蓋」の異体字。
有刺膚見血語亦足徵也近世獨用
小鍼而大鍼隱小鍼之於人如蚊虻
噆膚焉能厺病哉以故醫不敢執鍼    ※「厺」は「去」の異体字。
而盲者承乏資以餬口而已世運之
消息繫焉是余所以慨歎也平安有
  二ウラ
鍼源子者善用大鍼活人如神事在
熙載録中然鍼源子之徒猶寥々焉
鍼源子没而大鍼將復隱能勿憾乎
世俗所謂上流男子惡大鍼如蜂蠆
刺膚見血怵惕自悼而在位君子及
富農大賈多上流男子故疝瘕動則
唯小鍼是頼蚊虻噆而瀉邪氣耳血
  三オモテ
猶水也与夫汗溲涕唾何以擇何上
流男子忌血之甚惡在乎其尚勇武
夫刺鍼之叓技之小者也然有説誠
使鍼源子之徒繼踵而至比肩而立
是勇武不廢而大鍼顯世也是天地
之元氣盛而國家之命祚長也不亦
善乎嗚呼刺鍼之事技之小者也乃
  三ウラ
其所繫也大矣豈唯去病而已哉
     鶴鳴 市川匡子人撰
    〔印形黒字「市/匡印」「子/人氏」〕


  【訓み下し】
  一オモテ
熙載録後敘
世運の消息を知らんと欲せば、之を人事に察するに若(し)くは莫し。
蓍龜を藉(か)りず、鬼神に質さず、較然として著明なり。余嘗て竊(ひそ)かに
刺鍼の事を慨歎すること久し。但だ識者の
道と爲す可きのみ。俗士の道と爲し難し。語に曰く、文事有る者は、必ず
武備有り、と。又た君子の行いを稱して、強く力有りと曰い、智
仁勇と曰う。夫れ勇武は、君子の德に勉めて
  一ウラ
本を固むる所以の者なり。豈に廢す可けんや。唯だ是の太平の日久しく、則ち
丈夫の皮薄く膚柔らかく、筋弛(ゆる)み骨弱く、血氣態度、
女子に擬す。而して之を題して曰く上流男子と。翕然として
之を愛す。暖暖姝姝として韋(なめしがわ)の如く脂(あぶら)の如し。風俗行窳し、
迷いて復せざるも、亦た必然の勢いなり。君子に勇無くんば、
何を以てか德に勉めん。政(まつりごと)に武備無くんば、何を以てか本を固めん。
戒めざる可けんや。病は萬變し、醫も亦た方多し。藥の及ばざる所、鍼
  二オモテ
以て之に達し、水以て之に灌(そそ)ぎ、火以て之を熏ずれば、方多きに非ずや。
蓋し古(いにし)えの刺法は、大鍼小鍼を兼用す。素問に
膚を刺し血を見るの語有り。亦た徵するに足るなり。近世獨り
小鍼のみを用いて、而して大鍼隱る。小鍼の人に於けるや、蚊虻の
膚を噆(か)むが如し。焉くんぞ能く病を去らんや。故(ゆえ)を以て醫敢えて鍼を執らず。
而して盲者乏しきを承けて、資(と)りて以て口に餬(のり)するのみ。世運の
消息焉(ここ)に繫(か)かる。是れ余の慨歎する所以(ゆえん)なり。平安に
  二ウラ
鍼源子なる者有り。善く大鍼を用いて、人を活(い)かすこと神の如し。事は
熙載録中に在り。然れども鍼源子の徒、猶お寥々焉たり。
鍼源子没して、而して大鍼將に復た隱れんとす。能く憾み勿からんか。
世俗謂う所の上流男子、大鍼を惡(にく)むこと蜂蠆の如し。
膚を刺して血を見れば、怵惕して自ら悼(おのの)く。而して位に在る君子、及び
富農大賈に、上流男子多し。故に疝瘕動ずれば、則ち
唯だ小鍼のみ是れ頼る。蚊虻噆みて邪氣を瀉すのみ。血は
  三オモテ
猶お水のごときなり。夫(か)の汗溲涕唾と何を以てか擇(えら)ばん。何ぞ上
流男子、血を忌むこと之れ甚だしき。惡くんぞ其の勇武を尚ぶこと在らんや。
夫れ刺鍼の事は、技の小なる者なり。然して説有り。誠に
鍼源子の徒をして踵を繼して至り、比肩して立たしめば、
是れ勇武廢せず。而して大鍼世に顯わるるなり。是れ天地
の元氣盛んにして、而して國家の命祚(さいわい)にして長きなり。亦た
善ならずや。嗚呼(ああ)、刺鍼の事は、技の小なる者なり。乃ち
  三ウラ
其の繫かる所や大なり。豈に唯だ病を去るのみならんや。
     鶴鳴 市川匡子人撰


  【注釋】
  一オモテ
○世運:世間における盛衰治乱の気運。 ○消息:栄枯盛衰。『易經』豐卦「天地盈虛、與時消息」。 ○蓍龜:蓍草と亀。古くは卜筮に用いたので、占いを指す。 ○鬼神:亡くなった人の魂や神霊。 ○較然:明らかなさま、顕著なさま。 ○俗士:見識の浅い人。卑俗な人。 ○語曰:『史記』孔子世家「孔子攝相事、曰、臣聞有文事者必有武備、有武事者必有文備」。文事:軍事以外の事。 ○強有力:『禮記』聘義「質明而始行事、日幾中而後禮成、非強有力者弗能行也。故強有力者、將以行禮也。」 ○智仁勇:『論語』子罕:「子曰、知者不惑、仁者不憂、勇者不懼」。『禮記』中庸「知仁勇三者、天下之達德也、所以行之者一也」。『史記』平津侯主父列傳「智、仁、勇、此三者天下之通德、所以行之者也」。武士道の要諦。
  一ウラ
○丈夫:男子。成年男子の身長は一丈前後であった。 ○翕然:一致するさま。 ○暖暖姝姝:柔和従順なさま。『莊子』徐无鬼:「所謂暖姝者、學一先生之言、則暖暖姝姝、而私自説也」。 ○行窳:おこたる。なまける。
  二オモテ
○刺膚見血:『素問』診要經終論「夏刺絡兪、見血而止」。繆刺論篇「刺足跗上動脉……見血立已」。「刺膚」の語は『素問』には見えず。 ○蚊虻:カとアブ。 ○蚊虻噆膚:『莊子』天運「蚊虻噆膚則通昔不寐矣」。 ○以故:したがって。だから。 ○承乏:空いた職を補充する。多くは官吏が自分の任官を謙遜していう。『春秋左氏傳』成公二年「敢告不敏、攝官承乏」。 ○資:たのみとする。 ○餬口:人に頼り、わずかの粥を得て生活する。腹を満たす。『莊子』人間世「挫鍼治繲、足以餬口」。 ○繫:関係する。
  二ウラ
○鍼源子:「子」は孔子、老子と同様、尊称。 ○寥寥:数が非常に少ないさま。 ○能:反語をあらわす。「能」字は「然」にも見えるが、後につづく「勿憾乎」から「能」とした。 ○蠆:さそり。 ○怵惕:驚き恐れる。 ○賈:商人。 ○疝:ひろく腹腔の内容物が不正常に外へ突出する病症。多く気痛の症状を伴うので、「疝気」ともいう。 ○瘕:腹中に硬結が生じる病症。
  三オモテ
○汗溲涕唾:あせ・尿・涙鼻水・つば。 ○誠:もし。仮定をあらわす。 ○比肩:肩を並べる。次から次に。たくさん。『戰國策』齊策三:「寡人聞三千里而一士、是比肩而立、百世而一聖、若隨踵而至」。 ○祚:天から授かった福。 ○乃:かえって。
  三ウラ
○鶴鳴 市川匡子人:『朝日日本歴史人物事典』:生年:元文5(1740)。没年:寛政7・7・8(1795・8・22)。江戸時代中期の漢学者。上州(群馬県)高崎の人。名は匡,匡麻呂,字は子人,通称は多門。鶴鳴と号す。儒学を大内熊耳に学ぶ。代々高崎藩士であったが,両親が亡くなると藩を去り,信濃,尾張,京都,大坂,薩摩と各地を転居。寛政3(1791)年,高崎藩に徴され,世子の侍読となる。寛政異学の禁(1790)に際し,真っ向から反対した五鬼のひとりとして知られる。また,本居宣長の『直毘霊』に対し,『まがのひれ』を著して,その国学思想を批判。この後続く論争の口火を切ったことは,思想史において大きな意義を持つ。■参考文献■小笠原春男『国儒論争の研究』(高橋昌彦)

2011年1月13日木曜日

21-1 家傳十四經

21-1家傳十四經
     東京大学附属図書館所蔵『家伝十四経』(Ⅴ11-2053)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』21所収

 〔書末〕
右十四經者味岡三傳也上領家秘之然予傳授之故家
傳加二字石川家為秘非其仁而授之則蒙神文
罸者也

 寛政四子閏二月大吉日
   上領玄碩傳
     石川玄格源朝重字月舟謹書焉
      〔印形黒字「石川/玄格」「字/月/舟」〕

  儒醫 今村良庵手澤

  【訓み下し】
右十四經は、味岡三〔伯〕の傳なり。上領家、之を秘す。然れども予は之を傳授す。故に家
傳、二字を加う。石川家、秘と為す。其の仁に非ずして之を授くれば、則ち神文の
罸を蒙る者なり。

 寛政四子閏二月大吉日
   上領玄碩傳
     石川玄格源朝重字月舟謹みて焉(これ)を書す

  【注釋】
○味岡三傳:「三」の下、「伯」字を脱するか。 ○上領:「かみりょう」と読むか。 ○其仁:「其人」に同じ。 ○神文:しんもん。罰文。約束を破った場合には神仏による罰を受けるという文言。 ○罸:「罰」の異体字。 ○寛政四子:一七九二年。 ○上領玄碩: ○石川玄格源朝重字月舟: ○今村良庵:(1814~90)。山県大弐(やまがただいに)の孫で、名は亮(あきら)、字は祗卿(しけい)、号は復庵(ふくあん)・了庵。佐藤一斎(さとういっさい)に儒を、多紀元堅(たきもとかた)に医を学び、江戸に開業。のち伊勢崎藩医。明治維新後は、大学で皇漢医術を教授し、脚気病院委員、明宮(はるのみや)皇子(のちの大正天皇)の侍医を歴任した。〔小曽戸洋『日本漢方典籍辞典』〕

2011年1月12日水曜日

20-7 穴名備考

20-7穴名備考
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『穴名備考』(ケ・一一六) 
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』20所収
     判読に自信のない字あり。

  一オモテ
穴名備考序
有物必有名正名而後實可索矣
語曰必也正名乎夫子爲政之所先特
名而已吾醫亦可言乎因受以正名
蓋名者實之標其可不正哉人身
  一ウラ
孔穴三百六十有五而一穴或三五名
加以奇兪歳至千餘名繽紛穴雜
不正將謬焉紀府田生患其未正
類聚其名括以國字是舉也岩邑河
生与翁二生者余之高足也書成而
  二オモテ
請余閲焉余急於教授而慢其事遲延
三年而田生歿又三年而河生歿余泫然
而泣曰久矣余之負於二生也余聞君子
成人之美二生之美其可廢哉遂轉攷
方書補其遺佚雖非集成名得略正
  二ウラ
矣鍼灸家卷懷一通尚不致疑惑於穴名
也是編之行也庶丈二子之名與孔穴之名倶
不朽哉因題其首付諸剞劂氏
寶暦癸酉之春花朝日平安圖南
滕直惟寅撰  〔印形黒字「滕氏/惟寅」、白字「圖南/◆◆」〕


  【訓み下し】
  一オモテ
穴名備考序
物有れば必ず名有り。名を正して而る後に實、索(もと)む可し。
語に曰く、必ずや名を正(ただ)さんか、と。夫子、政(まつりごと)を爲すに先んずる所は、特に
名のみ。吾が醫も亦た言う可きか、因りて受けて以て名を正す、と。
蓋し名なる者は、實の標なり。其れ正さざる可けんや。人身
  一ウラ
孔穴三百六十有五、而して一穴或るいは三五名あり。
加うるに奇兪を以てす。歳、千餘に至り、名は繽紛として穴雜(まじ)りて
正しからず、將に謬らんとす。紀府の田生、其の未だ正しからざるを患(うれ)い、
其の名を類聚して括るに國字を以てするは是の舉なり。岩邑の河
生と翁の二生とは、余の高足なり。書成りて
  二オモテ
余に焉を閲するを請う。余、教授を急として其の事を慢(おこた)り、遲延すること
三年にして田生歿し、又た三年にして河生歿す。余、泫然として
泣きて曰く、久しきかな、余の二生に負(そむ)くや、と。余聞く、君子は
人の美を成す、と。二生の美、其れ廢す可けんや。遂に轉じて
方書を攷(かんが)え、其の遺佚を補う。集成するに非ずと雖も、名略(やや)正すを得たり。
  二ウラ
鍼灸家、一通を卷懷して、尚(ねが)わくは疑惑を穴名に致さざらんことを。
是の編の行わるるや、庶(こいねが)わくは丈二子の名、孔穴の名と倶に
朽ちざらんことを。因って其の首に題して諸(これ)を剞劂氏に付す。
寶暦癸酉の春花朝日、平安 圖南
滕直惟寅撰


  【注釋】
  一オモテ
○必也正名乎:『論語』子路に見える語。 ○亦:「所」か。 ○其可:「其相」か。
  一ウラ
○奇兪:奇穴。 ○繽紛:乱雑で多く盛ん。 ○將:「猶」か。 ○紀府田生:紀伊国(紀州)の医官、竹田景淳。 ○岩邑:美濃岩邑藩か?跋文によれば、周防岩国領か? ○河生:医官、河北宗碩。 ○翁:別字かも知れない。「翁」字でよければ、男性に対する尊称で竹田氏のこと。 ○高足:弟子に対する美称。
  二オモテ
○泫然:涙が流れ落ちるさま。『禮記』檀弓上「孔子泫然流涕、曰……」。 ○君子成人之美:『論語』顏淵「君子成人之美、不成人之惡(君子は他人の善事を助成し、他人の悪事を助成しない)」。唐・韓愈『處州孔子廟碑』「後之君子、無廢成美」。 ○攷:「攻(おさめる)」か。
  二ウラ
○卷懷:収蔵する。『論語』衛靈公:「邦有道則仕、邦無道則可卷而懷之。」 ○通:文書を数える量詞。 ○剞劂:彫刻用の曲刀。版木を彫ること。印刷。剞劂氏は版木を彫る職人。 ○寶暦癸酉:宝暦三(一七五三)年。 ○花朝日:旧暦の二月十二日か、十五日。春の花が咲く時期。 ○平安:京都。 ○圖南滕直惟寅:浅井図南(あざいとなん)。一七〇六~八二年。名は政直(まさなお)、字は惟寅(これとら)(維寅とも)、通称頼母(たのも)。京都の人であるが、父浅井東軒(名正仲[まさなか])の跡を継いで尾張藩医となり、以後歴代尾張藩医を襲う。(以上、小曽戸洋『日本漢方典籍辞典』)/「滕」、浅井家は、藤原氏を祖とするので、「藤」の漢語風表記であろう。


  後一オモテ
題穴名備考後
誰與輯斯編者紀之田周
之河也葢欲貫珠璧於一
繯使觀者不眩於衆寳已
於是乎耕藍田蒐崐岡左
右取之和盤托出眀月夜
  後一ウラ
光斕然在睫烏乎二生之
功偉矣嘗就家君攻其疵
瑕家君朝磋夕磨成而未
鏤東宦于尾遂舉彫刻之
役属之於路路也非賈師
焉能辨其物使海内信連
  後二オモテ
城乎雖然蘊匱不發恐獲
罪於成美聊附一言公之
市肆亦唯為和氏拆璞已
寳曆乙亥冬十一月望
  平安 滕正路識
   〔印形白字「正路/之印」、黒字「由/卿」)


  【訓み下し】
題穴名備考後
誰か、斯の編を輯する者は。紀の田、周
の河なり。蓋し珠璧を一繯に貫かんと欲すれば、
觀る者をして衆寳に眩(くら)まざらしむるのみ。
是に於いて、藍田に耕し崑岡に蒐(あつ)め、左
右、之を取り、盤に和して托出し、明月の夜
  後一ウラ
光、斕然として睫に在り。烏乎(ああ)、二生の
功、偉(おお)いなるかな。嘗て家君に就きて其の疵
瑕を攻(おさ)む。家君、朝(あした)に磋(みが)き夕べに磨(みが)きて成る。而して未だ
鏤(え)らず。東のかた尾に宦(つか)え、遂に彫刻の
役を舉げて、之を路に属(シヨク)す。路や賈師に非ず。
焉んぞ能く其の物を辨じ、海内をして連城を信ぜしめんや。
  後二オモテ
然りと雖も、匱(ひつ)に蘊(たくわ)えて發(ひら)かずんば、恐くは
罪を成美に獲ん。聊か一言を附して之を市肆に公(おおやけ)にするも、
亦た唯だ和氏の拆璞の為めのみ。
寳曆乙亥冬十一月望
  平安 滕正路識(しる)す
  【注釋】
○紀之田:紀伊国の竹田景淳。 ○周之河:周防国の河北宗碩。 ○珠:真珠。 ○璧:扁平で円形、中央に穴がある玉器。 ○繯:縄でくくった輪。「環」に通ず。 ○衆:多くの。 ○藍田:山の名。美玉の産地。現在の西安の北方。/藍田生玉:優れた父親に優れた子どもが生まれる。 ○崐岡:崑崙山。美玉の産地。 ○和盤托出:すこしも残さず洗いざらい持ち出したり説明すること。 
  後一ウラ
○斕然:色が多彩なさま。 ○家君:自分の父親。 ○攻:学問をおさめる。研究に従事する。 ○疵瑕:きず。あやまち。 ○朝磋夕磨:切磋琢磨。『禮記』大學「如切如磋、如琢如磨。」のちに研究討論することをいう。 ○鏤:彫刻する。版木に彫る。 ○宦:仕官する。 ○尾:尾張。平安(京都)より東方の尾張(名古屋)に遷る。 ○属:「嘱」に同じ。委嘱する。 ○路:浅井正路。 ○賈師:市場を管理し、物の値段を決定するひと。商人。 ○海内:四海の内。全国。天下。 ○連城:貴重な物のたとえ。戦国時代、趙国に和氏の璧という宝玉があり、秦の昭王が十五の城(都市)と交換することを望んだ。『史記』卷八十一・廉頗藺相如伝を参照。「連城之價(きわめて高い価値)」「連城之珍(非常に貴重な宝物)」。
  後二オモテ
○成美:すでに完成された素晴らしい物。唐・韓愈『處州孔子廟碑』「後之君子、無廢成美」。 ○市肆:町中の店。 ○和氏拆璞:『韓非子』和氏「楚人和氏得玉璞楚山中、奉而獻之厲王、厲王使玉人相之、玉人曰、『石也』。王以和為誑、而刖其左足。及厲王薨、武王即位、和又奉其璞而獻之武王、武王使玉人相之、又曰『石也』、王又以和為誑、而刖其右足。武王薨、文王即位、和乃抱其璞而哭於楚山之下、三日三夜、泣盡而繼之以血。王聞之、使人問其故、曰、『天下之刖者多矣、子奚哭之悲也』。和曰、『吾非悲刖也、悲夫寶玉而題之以石、貞士而名之以誑、此吾所以悲也』。王乃使玉人理其璞而得寶焉、遂命曰、『和氏之璧』」。 ○寳曆乙亥:宝暦五(一七五五)年。 ○望:旧暦十五日。 ○平安:京都。 ○滕正路:浅井南溟(あざいなんめい)、一七三四~八一。図南の子。名は正路(まさみち)。字は由卿。南溟と号す。和気の姓も用いる(以上、篠原孝市先生解説)。尾張浅井第三代。

20-6 經絡發明  20-5 十四經早合點

20-6經絡發明  20-5十四經早合點
京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『經絡發明』(ケ・62)『十四經早合點(シ・140)』
オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』二十所収
(序一)
一オモテ
經絡發明序
毉敎丕闡軒岐卓明經兪運行論定萬世爰
取準繩經絡者百病之標準診治之要領猶
有天之宿度扁之起死厥緩之見膏肓換骨
之靈方湔腸之竒術皆來於此誠毉門之先
務也自滑氏以兪兪繋經之訓唱世其説始
與軒岐之道背馳而後世轍跡相襲邪路傍
徑依樣胡盧瞀瞀聵聵虚誕競起日日離正
一ウラ
雖爭之力辨之強不及其弊至今日極矣我
友菊地氏英偉聰敏之質取經之文嚼髓溯
源旬儲月積有年所于茲矣因爲經絡之大
成盡廢滑氏之謬説頗辨諸家之正偽強非
立異論埒材角玅其言皆內經之奥旨也其
才也博其論也確渙然氷解怡然理順瞽復
視聾復聽豈不愉快哉夫存亡有數隱顯有
時斡旋變化無徃不復者天之未喪斯文待
二オモテ
其人而開示於世也菊君其人歟能得此篇
研窮磨切則升堂入室亦有其人乎述以國
字者葢欲使人易解也書成請序於弻弻也
不佞焉足稱揚萬一以爲之重也哉然以有
傾葢之親猥忘其固陋敢題簡端云寶曆癸
酉之歲冬十月薩陽麑府東庵二宮政弻識


經絡發明序
【訓み下し】
毉の敎え丕(おお)いに闡(ひら)き、軒岐は經兪を卓明し、運行論定し、萬世爰(ここ)に
準繩を取る。經絡なる者は、百病の標準、診治の要領にして、猶お
天の宿度有るがごとし。扁の死厥を起こし、緩の膏肓を見、換骨
の靈方、湔腸の奇術は、皆な此より來(きた)る。誠に毉門の先
務なり。滑氏自り兪兪を以て經に繋ぐの訓、世に唱え、其の説始めて
軒岐の道と背馳す。而して後世、轍跡相い襲い、邪路傍
徑、樣に依りて胡盧し、瞀瞀聵聵として虚誕して競り起ち、日日に正しきを離れ、
一ウラ
之と爭いて力(つと)め、之を辨じて強(つと)むと雖も及ばず、其の弊は今日に至って極れり。我が
友菊地氏、英偉聰敏の質あり。經の文を取り、髓を嚼(か)み
源に溯り、旬儲え月積み、茲(ここ)に年所有り。因りて經絡の大
成を爲し、盡く滑氏の謬説を廢し、頗る諸家の正偽を辨ず。強いて
異論を立つるに非ず。埒材角玅、其の言は皆な内經の奥旨なり。其の
才や博し。其の論や確(かた)し。渙然として氷解し、怡然として理順う。瞽復た
視、聾復た聽く。豈に愉快ならずや。夫れ存亡に數有り、隱顯に
時有り。斡旋變化、往きて復(かえ)らざる者無し。天の未だ斯文を喪(ほろぼ)さず、
二オモテ
其の人を待ちて、而して世に開示するや、菊君は其の人か。能く此の篇を得て、
研窮磨切すれば、則ち堂に升り室に入らん。亦た其の人有るか。述ぶるに國字を以て
するは、蓋し人をして解し易からしめんと欲すればなり。書成り、序を弼に請う。弼や
不佞、焉くんぞ萬一を稱揚し、以て之が重きを爲すに足らんや。然れども
傾蓋の親しき有るを以て、猥りに其の固陋を忘れ、敢えて簡端に題すと云う。寶曆癸
酉の歳冬十月、薩陽麑府、東庵二宮政弼識(しる)す。


【注釋】
一オモテ
○軒岐:黄帝と岐伯。黄帝は「軒轅」の丘に生まれたので「軒轅氏」という。 ○卓明:たかく明らかにする。 ○經兪:経絡と兪穴。 ○論定:人物、物事などをはかって評価する。 ○準繩:事物をはかる法度。 ○宿:音「シュウ」。星座。星宿。二十八宿。 ○扁之起死厥:扁鵲が虢の太子を救ったことをいう。『史記』扁鵲倉公列伝を参照。 ○緩之見膏肓:秦の和緩に関する故事。『春秋左氏伝』成公十年を参照。 ○換骨:「洗心換骨」「奪胎換骨」など、道教の語では、道を修めて俗骨を取り換えて仙骨にかわることを指す。 ○湔腸之竒術:『史記』扁鵲伝「一撥見病之應、因五藏之輸、乃割皮解肌、訣脈結筋、搦髓腦、揲荒爪幕、湔浣腸胃、漱滌五藏、練精易形」。 ○背馳:かれこれ相反して行われる。 ○轍跡:わだち。車輪の通った跡。 ○邪路:邪道。誤った行為や方法。 ○傍徑:「邪路」と同じ。「傍」は「正しくない」意。「徑」は「小道」または一般の「道路」をいう。 ○依樣胡盧:模倣するのみで、なんら創見がないことのたとえ。宋・魏泰『東軒筆録』卷一:「頗聞翰林草制、皆檢前人舊本、改換詞語、此乃俗所謂依樣畫葫蘆耳、何宣力之有」。 ○瞀瞀:目がはっきりと見えないさま。 ○聵聵:耳がよく聞こえないさま。 ○虚誕:虚偽。荒唐無稽。
一ウラ
○英偉:英俊魁偉。すぐれ抜きんでている。 ○聰敏:聡明にして鋭敏。 ○質:資質。特性。 ○嚼:かみくだく。 ○髓:事物の重要な部分の比喩。精髄。 ○溯:さかのぼる。遡上する。 ○旬:十日。 ○儲:たくわえる。あつめる。 ○有年所:数年。多年。 ○茲:現在。 ○埒材角玅:才能をくらべ素晴らしさをきそう。ここでは才能の抜きんでたさまをいうか。/埒:ひとしい。おそらく引伸して「比較する」。/材:才能。資質。/角:くらべる。/玅:「妙」の異体字。 ○渙然氷解:氷が熱のために消え去ること。のちに疑問や誤解があとかたもなくなくなることの譬え。晉・杜預『春秋左氏傳』序:「若江海之浸、膏澤之潤、渙然冰釋、怡然理順」。 ○怡然:よろこび自得するさま。 ○理順:整理されていて適切である。道理にしたがう。 ○瞽:盲人。 ○聾:唖者。聴覚障害者。 ○存亡:存在と衰亡。生と死。 ○有數:運命によってあらかじめ定められている。「數」は命数・命運○天数。 ○隱顯:世に知られないことと知られること。 ○有時:偶然。 ○斡旋:めぐること。 ○斯文:この学問。特に孔子が伝えた礼楽制度。『論語』子罕:「天之將喪斯文也、後死者不得與於斯文也」。
二オモテ
○開示:啓発する。 ○研窮:研究する。深く調べて、ものの本質をみきわめる。 ○磨切:みがきあげる。 ○升堂入室:学問や技術がだんだんと進んで、高く深い段階に達することの比喩。『論語』先進:「由也升堂矣、未入於室也」。 ○國字:和文。 ○葢:「蓋」の異体字 ○弻:「弼」の異体字。この序を著した二宮政弻。 ○不佞:才能がないこと。謙遜の辞。 ○稱揚:称賛してほめあげる。 ○萬一:万分の一。きわめて小さいことの形容。 ○傾葢:友として親しく交わること。「蓋」は、馬車のかさ屋根。道で出会って車を止め、傘蓋を傾けて歓談する。『説苑』尊賢「孔子之郯、遭程子於塗、傾蓋而語終日」。 ○固陋:見識が浅い。 ○簡:書簡。書物。 ○云:句末の助詞。文末に置く。 ○寶曆癸酉之歲:宝暦三(一七五三)年。 ○薩陽:薩摩。 ○麑府:鹿児島。 ○東庵二宮政弻:未詳。


(序二)
一オモテ
經絡發明序
余聞之作者曰文章之盛衰繇氣運
之昇降豈啻文章已哉凡百技藝亦
然盖古之時大道未墜乎地斯文猶
存乎人則凡百技藝亦各獲竆其
致矣世降而文亦從焉人飾其巧而不
得其眞也建言愈多厺道益遠
墨糸楊岐果哉其無奈之何
一ウラ
方今承平百年偃武布文文
章之盛猶乎日之再中也則凡百
技藝亦各得窮其致矣美哉時
乎作者之言於是乎可徴也已余獨
怪醫道猶未盛也豈未得其道歟
抑有其人而隱其名也何其寥々乎
其聞焉哉先是得介友人以謁
東籬菊君者余就叩之鏘然能鳴
二オモテ
君最長乎經絡學徴之素靈誡之
今日莫不取之左右逢其原者可謂
勤矣頃日著一書以論其要領者蓋
其意欲質之四方有道而兼益研
明其道也嗚乎有其人而隱其名者
菊君其人哉其書既成其門人
校焉刻焉不佞正翼應其徴序
寶曆癸酉冬十一月望
東都富正翼撰
〔印形黒字「龍/潭」、白字「冨印/正翼」〕


【訓み下し】
經絡發明序
余、之を聞くに、作者曰く、文章の盛衰は氣運
の昇降に繇(したが)うと。豈に啻に文章已(のみ)ならんや。凡百の技藝も亦た
然り。蓋し古(いにしえ)の時、大道未だ地に墜ちず。斯文猶お
人に存すれば、則ち凡百の技藝も、亦た各おの其の致を窮(きわ)むるを獲たり。
世降って文も亦た焉(これ)に從う。人は其の巧を飾って
其の眞を得ざるなり。建言愈いよ多く、道を去ること益ます遠し。
墨糸楊岐、果たせるかな、其れ之を奈何(いかん)ともする無し。
一ウラ
方今、承平百年、偃武布文、文
章之盛んなること、猶お日の再び中するがごときなり。則ち凡百の
技藝も、亦た各おの其の致を窮むるを得。美なるかな、時なる
かな。作者の言、是に於いてか徴す可きなる已(のみ)。余獨り
怪しむ、醫道猶お未だ盛んならざるを。豈に未だ其の道を得ざらんや。
抑(そも)そも其の人有りて其の名を隱さんや。何ぞ其れ寥々乎として
其れ焉(これ)を聞かんや。是れに先んじて友人を介して以て
東籬菊君なる者に謁するを得たり。余就きて之に叩く。鏘然として能く鳴る。
二オモテ
君最も經絡學に長ず。之を素靈に徴し、之を
今日に誡しむ。之を左右に取り其の原に逢わざる者は莫し。謂っつ可し、
勤めたりと。頃日、一書を著し以て其の要領を論ずる者は、蓋し
其の意は之を四方の有道に質し、而して兼ねて益ます
其の道を研き明らかにせんと欲せばなり。嗚乎(ああ)、其の人有りて其の名を隱す者は、
菊君其の人かな。其の書既に成り、其の門人
焉(これ)を校し、焉を刻す。不佞正翼、其の徴に應じて序す。
寶曆癸酉冬十一月望
東都富正翼撰

【注釋】
○凡百:すべての。さまざまな。 ○技藝:技術。技能。 ○大道:人が踏むべき再興の道。自然の法則。 ○斯文:学問。 ○建言:ことばや文章で意見を述べる。 ○墨糸楊岐:『蒙求』「墨子悲絲、楊朱泣岐」。注「淮南子曰:楊子見逵路而哭之。爲其可以南可以北。墨子見練絲而泣之。爲其可以黄可以黒。高誘曰:憫其本同而末異」。(墨子悲絲:一旦染まったら、その色になってしまうからである。楊朱泣岐:その踏み出しを誤れば、大変な違いになるからである。)/『墨子』所染「子墨子言見染絲者而嘆曰、染於蒼則蒼、染於黃則黃。所入者變、其色亦變。五入必而已、則為五色矣。故染不可不慎也(墨子は、ひとが糸を染めるのをみて感嘆して言った。「糸は青い顔料で染めれば青くなり、黄色い顔料で染めれば黄色になる。染料が異なれば、その糸の色も明らかに変化する。それを五回すれば、五色になる。だから染めるときには謹んでしなければならない」)」。『荀子』王霸「楊朱哭衢涂、曰、此夫過舉蹞步、而覺跌千里者夫(楊朱は分かれ道ではげしく泣いて言った。「これは、半歩の踏み違いで千里のへだたりにもなったことに気づくというものだ」)」。楊岐:のちに、道を誤ることのたとえ。
一ウラ
○方今:当今。 ○承平:太平盛世の長く続くこと。 ○偃武布文:偃武修文に同じ。戦いをやめ、文教を興して、平穏な世の中を築く。『書經』武成:「王來自商、至於豐、乃偃武修文」。 ○寥々:数が少ない。さみしい。 ○東籬菊君:菊地玄蔵。名は周之(ちかゆき)。東籬は号。陶淵明『飲酒詩』:「採菊東籬下、悠然見南山(菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る)」。 ○叩:質問する。 ○鏘然:金石がぶつかって音を出すさま。 ○鳴:名声が遠くまで聞こえる。 
二オモテ
○長:たける。得意とする。 ○左右逢其原:左右どちらからでも水源に到達する。学問で自得した者は、自在に応用できてつきないこと。『孟子』離婁下:「資之深、則取之左右逢其原」。 ○頃日:近頃。 ○質:「貿」字のようにも見えるが、自序と勘案して「質」字と判断した。 ○有道:学問・道徳・技芸が身に備わっているひと。 ○不佞:わたし。謙遜の辞。 ○正翼:下文を参照。 ○徴:もとめ。 ○寶曆癸酉:宝暦三(一七五三)年。 ○望:旧暦十五日。 ○東都:江戸。 ○富正翼:富永正翼(まさしげ)。1687-1771。号、龍潭(りゅうたん)。字、君厳(くんげん)。大和郡山、柳澤藩の江戸詰医師。柳澤信鴻の侍医。詩文集『逍遥楼文集』(十一卷)。明和8年没。 


(序三)
一オモテ
經絡發明自序
恢々大园悠々方儀豈人智之所能度乎
然天有宿度以得定日月之盈虚也地有
經水以獲見山川之高下也夫人者小天
地也故有經脉焉有經脉而後以知其人
之平異矣而其經脉也不能見於皮膚之
上也抉膜導筳亦不可得觀焉惟有邪氣
傳流之道而發於内外表裏則所謂經脉
一ウラ
者宛然可觀矣而分其各經則在指稍辨
其内外則在鍼石經所謂以我知彼以表
知裡是也或浮血横行於他道而獨熱獨
寒獨動獨陷其候正在孫絡焉經脉則直
行絡脉則交錯故如絡脉則可謂有曲折
也經脉豈有曲折乎滑氏自兪至兪引經
爲曲折狀如閃電然靈樞所載經脉豈有
如此之曲折乎獨有婁全善始知其誤也
二オモテ
而其説爲滑氏隱不能盛行也豈不惜乎
滑氏之謬傳恐使來者目盲也余自數年
潛心素靈欲一得其旨也然孱工短器不
可企及也今述一二之管窺而欲質四方
君子幸憫愚誠深埀裁斷焉何啻余之幸
甚寳曆癸酉歳重陽日菊地周之謹識


【訓み下し】
一オモテ
經絡發明自序
恢々たる大圓、悠々たる方儀、豈に人智の能く度(はか)る所ならんや。
然れども天に宿度有り、以て日月の盈虚を定むることを得るなり。地に
經水有り。以て山川の高下を見ることを獲るなり。夫れ人は小天
地なり。故に經脉有り。經脉有って而して後に以て其の人
の平異を知る。而(しかれ)ども其の經脉や皮膚の上に見る能わざるなり。
膜を抉(えぐ)り筳を導くも、亦た觀るを得可からず。惟だ邪氣
傳流の道有りて、而して内外表裏に發するとき、則ち所謂る經脉なる
一ウラ
者、宛然として觀(みつ)つ可し。而して其の各經を分つことは、則ち指稍に在り。
其の内外を辨ずること、則ち鍼石に在り。經に所謂る我を以て彼を知り、表を以て
裡を知る、是なり。或いは浮血、他道に横行し、而して獨熱・獨
寒・獨動・獨陷、其の候、正に孫絡に在り。經脉は則ち直
行し、絡脉は則ち交錯す。故に絡脉の如きは則ち謂っつ可し、曲折有り、と。
經脉、豈に曲折有らんや。滑氏、兪自り兪に至って經を引き
曲折を爲す。狀(かた)ち閃電の如く然り。靈樞載する所の經脉、豈に
此(かく)の如きの曲折有らんや。獨り婁全善有り、始めて其の誤りを知れり。
二オモテ
而れども其の説、滑氏が爲に隱されて盛には行わるること能わざるなり。豈に惜まざらんや。
滑氏が謬傳、恐らくは來者をして目盲せしめんことを。余數年自り、
心を素靈に潛む。一たび其の旨を得んと欲するなり。然れども孱工短器、
企て及ぶ可からず。今ま一二の管窺を述べて、而して四方の
君子に質さんと欲す。幸いに愚誠を憫れみ、深く裁斷を埀れよ。何ぞ啻に余が幸
甚のみならん。寳曆癸酉歳重陽日、菊地周之謹んで識(しる)す。


【注釋】
一オモテ
○恢々:広大なさま。 ○大园:大圓。天。/园:国構えの中に「元」。「円」の異体字。 ○悠々:長久、遙かなさま。 ○方儀:地。 ○宿度:天空の指標となる星宿の位置の度数。二十八宿がそれぞれの度を占める。 ○抉膜導筳:『史記』扁鵲傳「乃割皮解肌、訣脉結筋、搦髓腦、揲荒爪幕」。『漢書』王莽傳「翟義黨王孫慶捕得、莽使太醫、尚方與巧屠共刳剝之、量度五藏、以竹筳導其脈、知所終始、云可以治病」。
一ウラ
○宛然:はっきりと。 ○觀ツ可シ:江戸時代には「観っつ可し」「謂っつ可し」など、促音便で読まれたようだ。 ○指稍:「指梢」(指の末端)の意か。 ○經所謂:『素問』陰陽応象大論「以我知彼、以表知裏」。 ○婁全善:明・樓英(1332—1401)、一名、公爽。字、全善。号、全斎。『醫學綱目』の撰者。
二オモテ
○潛心:心を集中して物事に没頭する。 ○孱:浅はかな。劣っている。 ○短:能力が乏しい。拙い。 ○管窺:管の中から物をのぞくように、見聞が狭い。管見。 ○幸:願う。してほしい。 ○愚誠:自分の真心を謙遜していうことば。 ○埀:「垂」の異体字。 ○裁斷:是非を判断して決定する。 ○寳曆癸酉歳:宝暦三(一七五一)年。 ○重陽日:旧暦の九月九日。


(序四)
一オモテ
長菴氏者其口歯科巨擘乎以術鳴于世人称其
妙先既淂
召見而次列官毉之班於是乎聲譽愈益籍甚
与余為莫逆之交毎把臂一堂談笑移日豪放
滑稽無不臧否人物日者語余曰菊周之者信陽人
歳十有三而志學日夜無怠終極廣博旁通
一ウラ
醫籍且謂信中者弾丸僻陋無由舒其羽翼遂
撃千里乃來東都云近甞著經絡解以縄滑壽之
愆書已成矣請為我題一言幸甚余荅曰有之哉
明堂之義至為幽深焉軒岐越人之旨粲然方
策且經皇甫士妟刪次至孫真人王燾而盡矣何
有餘蘊然元滑壽妄作經絡臆説輸穴自爾末
學之徒惑〃無知其非者諺謂為毉不知經絡
二オモテ
者縱如無燈夜行嗚乎經絡豈可不談乎而亦
不可妄談而已今也周之下帷講經覃志研精
想當有所淂焉余老矣近且患目而廢書
巻恨未能熟覽其書帷聞其言未見其人
然長菴氏屡称其篤信好學之状而不止亦
有不淂已不佞者乃取之長菴氏長菴氏
豈欺我乎長庵氏豈欺我乎
寳曆癸酉之冬十月
鹿門   望三英


【訓み下し】
一オモテ
長菴氏なる者は、其の口歯科の巨擘か。術を以て世に鳴る。人、其の妙を称す。先ず既に召見を得て、次(つい)で官毉の班に列す。是に於いてか、聲譽愈いよ益ます籍甚たり。
余と莫逆の交を為し、毎(つね)に一堂に臂を把って、談笑して日を移す。豪放にして
滑稽、人物を臧否せざる無し。日者(かつて)余に語って曰く、菊周之なる者、信陽の人、
歳十有三、而して學を志す。日夜怠ること無く、終に廣博を極め、
一ウラ
醫籍に旁通す。且つ謂う、信中は弾丸僻陋、其の羽翼を舒ぶる由無し。遂に
千里を撃ち、乃ち東都に來(きた)ると云う。近ごろ嘗みに經絡の解を著し、以て滑壽の愆(あやま)ちを縄(ただ)す。
書已に成る。我が為に一言を題せば幸甚と請う。余答えて曰く、之れ有るかな。
明堂の義は、至って幽深為(た)り。軒岐越人の旨は、粲然として方策あり。
且つ皇甫士妟の刪次を經て、孫真人・王燾に至って盡くせり。何ぞ
餘蘊有らん。然れども元の滑壽、妄りに經絡を作り、輸穴を臆説し、爾(これ)自り、末
學の徒、惑惑として其の非を知る者無し。諺に謂う、醫と為りて經絡を知らざれる
二オモテ
者は、縱(たと)えば燈無くして夜行くが如し。嗚乎、經絡、豈に談ぜざる可けんや。而して亦
妄りに談ずる可からざるのみ。今や、周之、帷を下して經を講じ、覃志研精、
想いて當に得る所有るべし。余老いたり。近ごろ且つ目を患って書巻を廢す。
恨むらくは、未だ其の書を熟覽する能わず、帷に其の言を聞きて、未だ其の人を見ざるを。
然して長菴氏、屢しば其の篤信好學の状を稱して止まず。亦
已むを得ざること有り。不佞なる者、乃ち之を長菴氏に取る。長菴氏、
豈に我を欺かんや。長庵氏、豈に我を欺かんや。
寳曆癸酉之冬十月
鹿門   望三英

【注釋】
一オモテ
○長菴氏:跋文との関連、また「口歯科の巨擘」ということから、堀本好益のことか。跋文の注を参照。 ○巨擘:親指。傑出した人材の比喩。『孟子』滕文公下:「於齊國之士、吾必以仲子為巨擘焉。」 ○召見:上位のものが下位のものを呼び寄せて会う。 ○官毉之班:侍医。奥医師。 ○聲譽:声望と名誉。 ○籍甚:名声が遠くまで伝わり、ひろく人に知られること。『漢書』卷四十三˙陸賈傳:「賈以此游漢廷公卿間、名聲籍甚。」 ○莫逆之交:意気投合した、互いに思いの一致した交友。 ○把臂:互いにうでを取り合う。親密さの表現。 ○移日:時をすごす。 ○臧否人物:誉めたり貶したり、人物の好悪を品評する。 ○日者:先日。最近。 ○信陽:信濃の漢語風称呼。 ○旁通:広く物事に通じている。
一ウラ
○弾丸:土地の狭小なことのたとえ。 ○僻陋:いなかで文化が遅れている。 ○舒:のばす。広げる。 ○撃:はばたく。飛翔する。 ○東都:江戸。 ○縄:繩。一定の標準にしたがって改め正す。 ○滑壽:元・滑伯仁。『十四経発揮』を撰す。 ○明堂:明堂孔穴。人体の経絡兪穴。 ○幽深:深く暗い。 ○軒岐:黄帝(軒轅氏)と岐伯。 ○越人:秦越人。扁鵲。 ○粲然:鮮明。はっきりとしたさま。 ○方策:方は木板。策は竹簡。いずれも書記に用いる。よってひろく書籍をいう。 ○皇甫士妟:皇甫謐。後漢・建安二十年(二一五年)~西晋・太康三年(二八二年)。字は士安。みずから玄晏先生と号す。『鍼灸甲乙経』の撰者とされる。 ○刪次:取捨編集する。 ○孫真人:唐・孫思邈(?~六八二)。『千金方』を撰す。 ○王燾:唐のひと(六九〇頃~七五六)。『外台秘要方』を撰す。 ○餘蘊:全部は現れずに中に隠されているもの。 ○惑惑:まどうさま。 ○諺謂:『扁鵲心書』「學醫不知經絡、開口動手便錯。」 
二オモテ
○下帷:とばり(カーテン)をおろす。とばりをおろして書物を読む。勉学にはげむ。=塾を開いて子弟に教授する。 ○覃志研精:研精覃思。綿密に研究して深く考える。 ○篤信:『論語』泰伯「篤信好學、守死善道、危邦不入、亂邦不居。」 ○不佞:口べたで、おべっかが言えない。才能がない。また、謙遜して自分をいう。 
○鹿門 望三英:望月三英(一六九七~一七六九)。名は乗(じょう)、字は君彦(たかひこ)、号は鹿門(ろくもん)。法眼(ほうげん)の位に進んだ。


跋文は判読できていない文字が多い、参考に供する。
須此撰鐫成閲之其次
書畢鑠袋法◆◆
謂(何・誤)草◆勉焉
醫官  堀本好益撰
〔印形黒字「◆華/峯◆◆」〕

【注釋】
○堀本好益:『寛政重修諸家譜』巻千三百二十三によれば、堀本氏は口科の医を業としている。代々、好益と名乗る。望月三英がいう「口歯科の巨擘」である長菴氏と同一人物であろう。堀本顕晴(あきはる)は、寛保二(一七四二)年に寄合(医師)に列する。宝暦四年五月二十一日に死す。年七十一。その後を継いだ顕承(あきつぐ)も好益と名乗り、宝暦四年八月四日に遺跡を継ぐ。

2011年1月11日火曜日

あかいか しんえか

『黄帝内経太素』巻十一の気府に「行五,五五廿五」云々とあって、新校正は楊上善注に「亞會」というのをあげて、「亞」は古「囟」字の誤りと指摘しています。でも、原鈔に書かれているのは本当に「亞」ですかね。微妙に異なると思いますが。勿論、銭先生の出任せではないんですよ、その形は『敦煌俗字典』などにも「亞」字として載っています。
でもねえ、『医心方』の巻二の孔穴主治法の頭上の第一行の第一穴はこんな字なんです。これってもともと「囟」の異体字なんじゃなかろうか。といっても、こんなのは異体字典にも見つからないけれど。
欄外に『玉篇』が引いてある。改めて『玉篇』をひもとけば、囟部四十三に「囟 先進切 説文云象人頭會 腦蓋也 或作顖𦞤」とあります。欄外と同じですね。
だからこれはもともと「囟會」であったものを、誰かが「亞會」と誤ったのかもしれない。少なくとも『医心方』の筆者は「囟會」のつもりでいる。でも、『太素』の筆者はすでに「亞會」と思っているかも知れない、といったところですかね。

2011年1月8日土曜日

20-1 灸草考

20-1灸草考 
京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『灸草考』キの94
オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』20所収
注は、小曽戸洋『日本漢方典籍辞典』などによる。
一部判読に自信なし。

  一オモテ
灸艸考敘
吾邑毉學井上氏之子
桐菴夙誦稻若水貝篤
信二公書慨然為治本
草之志遂入京從松岡
  一ウラ
先生受業退而研窮弗
措其所筆記有本艸傳
習錄本草製譜倭本草
正誤相庵雅言詩騒選
名箋等數百卷未悉脱
  二オモテ
稿灸草攷一册盖其緒
餘耳夫獲片玉而抵鵲
之富可知也茲編一上梓
海内諸君子必有問其寳
者矣
  二ウラ
享保丁未旾正月赤石
文學梁田邦美題
   〔印形黒字「梁印(?/甘+卩)/◆毛」、白字「蛻/巖」〕

  【訓み下し】
  一オモテ
灸艸考敘
吾が邑毉學井上氏の子
桐菴、夙(つと)に稻若水、貝篤信
二公の書を誦し、慨然として
本草を治するの志を為し、遂に京に入り松岡先生に從い、
  一ウラ
業を受く。退いて研窮して措(お)かず。
其の筆記する所、本艸傳
習錄、本草製譜、倭本草
正誤、相庵雅言、詩騒選
名箋等數百卷有り。未だ悉くは稿を脱せず。
  二オモテ
灸草攷一册、盖(けだ)し其の緒
餘のみ。夫れ片玉を獲て鵲を抵(う)つ
の富知る可きなり。茲(こ)の編、一たび梓に上(のぼ)せば
海内の諸君子、必ず其の寳を問う者有らん。
  二ウラ
享保丁未旾正月赤石
文學梁田邦美題す。


  【注釋】
○井上桐菴:生没年不詳。井上玄通は播州明石藩医で、字は子黙(しもく)。号は桐庵(とうあん)。京都で松岡玄達(まつおかげんたつ)に学び、本草学に通じた。他著に『本草製譜(ほんぞうせいふ)』『本草伝習録(ほんぞうでんしゅうろく)』『大和本草正誤(やまとほんぞうせいご)』などがある。 ○稻若水:稲生若水(1655~1715)名は宣義[のぶよし](義とも)、字は彰信(しょうしん)、通称正助(しょうすけ)、修して稲若水(とうじゃくすい)とも。江戸の人。前田綱紀(まえだつなのり)に召され、加賀金沢藩儒となった。『庶物類纂(しょぶつるいさん)』を著すなど本草家として名高い。 ○貝篤信:貝原益軒(かいばらえきけん)(1630~1714)。益軒は筑前福岡藩士で、名は篤信(しげのぶ)、字は子誠(しせい)。損軒(そんけん)と号したが、晩年益軒と改めた。父寛斎(かんさい)・兄存斎(そんさい)に医学・漢学を学び、黒田光之(くろだみつゆき)に藩医として仕えた。京都に遊学して儒者や、向井元升(むかいげんしょう)・稲生若水(いのうじゃくすい)ら本草学者と交わった。 ○慨然:感嘆したさま。 ○松岡玄達:(1668~1746)。玄達の字は成章(なりあき)、通称は恕庵(じょあん)、号は怡顔斎(いがんさい)。京都の人で、山崎闇斎(やまざきあんさい)・伊藤仁斎(いとうじんさい)に儒を、浅井周伯(あざいしゅうはく)に医を、稲生若水(いのうじゃくすい)に本草を学んだ。小野蘭山(おのらんざん)はその弟子。著書はすこぶる多いが、生前刊行された著作に『用薬須知(ようやくすち)』がある。
  一ウラ
○研窮:精審窮究。みがききわめる。研究。 ○卷:書かれているのは、異体字「㢧」(「弓+一」)の「一」の部分が「二」となる字形。『雲笈七籤』など道教文献でもちいられることが多い。
  二オモテ
○緒餘:あまり。のこり。多く学問・道徳などについていう。 ○片玉:才能が傑出した人の比喩。 ○抵鵲:桓寬『鹽鐵論』崇禮「南越以孔雀珥門戸、崑山之傍以玉璞抵烏鵲。」もともとは中原(中国)で尊ばれているものが、辺境ではさげすまれていることをいう。のちに「抵鵲」を才能あるひとを小さなことに使うことの譬えとする。また借りて「玉璞」を指す。 ○上梓:刊行。 ○海内:天下。全国。
  二ウラ
○享保丁未:享保十二(一七二七)年。 ○旾:春の異体字。 ○赤石:明石。 ○梁田邦美:寛文十二~宝暦七(一六七二~一七五七)年。梁田(やなだ)。名は邦美(ほうび)・彦邦、字は景鸞、号は蛻巌(ぜいがん)。亀毛とも称す。儒者、詩人。其角の門人で俳号は亀毛。江戸生まれ。人見鶴山(竹洞)に学び、山崎闇斎の学を慕い、新井白石にも教えを受け、室鳩巣らと交わり、朱子学を主として仏典・神道にも通じた。享保四(一七一九)年、四十八歳から明石藩の藩儒。『蛻巌集』などの著書あり(早稲田大学図書館ネットで公開中)。

2011年1月7日金曜日

19-1 鍼灸樞要

19-1鍼灸樞要
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『鍼灸枢要』(シ-512)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』19所収。卷2末落丁あり。

  一オモテ
  鍼灸樞要叙
山本玄通叟自號不貫乘工鍼
法以其平生試之所有經驗者暇
日講明彙而爲編名之曰鍼
灸樞要蓋本諸滑攖寧氏之書
兼及百家之言自素難以下採
  一ウラ
輯孫眞人皇甫謐王維一樓全
善方賢李梴徐春甫陳善同
張景岳李士材之書推而廣之
觸類長之且交以己意可謂奇也
去取不一涇渭以分可謂勤矣抑
赤烏神鍼玄悟神鍼三奇六儀
  二オモテ
枕中子午之經況又甄權張子
存之所傳者亦如何哉迎隨
應手補瀉任心遲速精微從
其思斟酌之損益之死可生
矣凶可吉矣丁其刺之時則茫
然復不覺鍼之在手神遊其
  二ウラ
間可謂妙也余未嘗識叟去
載、在武而始識其爲人叟晋
而乞其題辭余豈敢耶今
茲在我白雲峰中而退居叟
屢寄書而需之不已於是不能
已遂書
  三オモテ
寛文十年春二月日
 潛樓散人埜三竹子苞父書


  【訓み下し】
  一オモテ
山本玄通叟、自ら不貫乘と號す。鍼法を工(たくみ)にし、
其の平生、之を試み經驗有る所の者を以て、暇
日講明して彙(あつ)めて編を爲し、之を名(なづ)けて
鍼灸樞要と曰う。蓋し諸(これ)を滑攖寧氏が書を本とし、
兼ねて百家の言に及ぶ。素難自り以下、
  一ウラ
孫眞人・皇甫謐・王維一・樓全
善・方賢・李梴・徐春甫・陳善同・
張景岳・李士材が書を採(と)り輯して、推して之を廣め、
類に觸(ふ)れて之を長じ、且つ交(まじ)うるに己が意を以す。奇なりと謂(いつ)つ可し。
去取一ならず、涇渭以て分る。勤めたりと謂(いつ)つ可し。抑(そも)そも
赤烏神鍼・玄悟神鍼・三奇六儀・
  二オモテ
枕中・子午の經、況んや又た甄權・張子
存が傳(つた)うる所の者、亦た如何(いかん)ぞや。迎隨、
手に應じ、補瀉、心に任す。遲速精微、
其の思いに從って、之を斟酌し、之を損益す。死も生ず可し。
凶は吉なる可し。其の刺すの時に丁(あた)っては、則ち茫
然として復た鍼の手に在ることを覺えず。神、其の
  二ウラ
間に遊ぶ。謂(いつ)つ可し、妙なりと。余、未だ嘗て叟を識らず。去
載、武に在って、始めて其の人と爲りを識る。叟、晋(すす)んで
其の題辭を乞う。余、豈に敢てせんや。今
茲、我が白雲峰中に在って、退居す。叟
屢しば書を寄せて之を需(もと)めて已(や)まず。是(ここ)に於いて
已むこと能わず。遂に書す。
  三オモテ
寛文十年春二月日
 潛樓散人埜三竹子苞父書


  【注釋】
  一オモテ
○山本玄通:本書の撰者。不貫乗、適庵(菴)と号す。宗孝(むねたか)と称す。『木偶説』『人身図説』などを撰す。 ○叟:老年男子に対する尊称。 ○不貫乘:『孟子』滕文公下「我不貫與小人乘(我、小人と乘ることを貫(なら)わず)」。趙岐注:「貫、習也」。慣に通ず。 ○暇日:ひまな日。『孟子』梁惠王上:「壯者以暇日修其孝悌忠信」。 ○講明:解釈する。 ○滑攖寧氏:滑壽。字は伯仁。攖寧と号す。『十四經発揮』を撰す。攖寧は、『荘子』大宗師にみえる語。 ○素難:『素問』『難經』。
  一ウラ
○孫眞人:唐の医家。孫思邈。『千金方』を撰す。 ○皇甫謐:字は士安。西晋のひと。『鍼灸甲乙経』の撰者とされる。 ○王維一:宋のひと。王惟一。『銅人腧穴鍼灸図経』を撰す。 ○樓全善:明の医家。楼英。全善は字。『医学綱目』を撰す。 ○方賢:明の医家。『奇効良方』を編纂す。 ○李梴:明の医家。字は健斎。『医学入門』を撰す。 ○徐春甫:明の医家。字は汝元あるいは汝源。『古今医統大全』を撰す。 ○陳善同:明の鍼灸家。陳会。善同は字。『神応経』を撰す。 ○張景岳:明の医家。張介賓。景岳は号。『類経図翼』を撰す。 ○李士材:明末清初の医家。李中梓。士材は字。『医宗必読』を撰す。 ○觸類長之:『易經』繫辭上「引而伸之、觸類而長之。」ひとつの事物の法則を理解して、それをさらに進めてその他の同類の事柄に応用すること。 ○涇渭以分:涇水は源を六盤山に発し、黄土地帯を流れ、大量の泥砂を帯びて流れる。対して渭水は源を秦嶺に発し、急峻な崖壁に挟まれた山谷をへるため、河水は澄んでいる。涇水が渭水に流入する時は、清濁が混じらず、境界がはっきりしている。後に善悪の区別が非常にはっきりしていることの譬えにもちいる。 ○赤烏神鍼:『隋書』経籍志に「赤烏神鍼經」あり。赤烏は、孫権の年号。 ○玄悟神鍼:『宋史』芸文志に「玄悟四神針經」あり。 ○三奇六儀:『隋書』経籍志に「三奇六儀鍼要經」あり。
  二オモテ
○枕中:『隋書』経籍志に「華佗枕中灸刺經」あり。 ○子午:『子午流注鍼經』。 ○甄權:隋唐間の医家。『明堂人形圖』を撰す。 ○張子存:『赤烏神鍼經』を撰す。    二ウラ
○去載:去年。 ○武:武州。武蔵の国。江戸。 ○今茲:今年。
  三オモテ
○寛文十年:一六七〇年。 ○潛樓散人埜三竹子苞:野間三竹。京都の名医野間玄琢の子。医師。墓所は京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町白雲渓。/(鷹ヶ峰常照寺の東)同じ一角に曲直瀬玄朔・曲直瀬道三(玄朔義父)の墓があるという。


  四オモテ
 鍼灸樞要序
嘗聞鍼灸之法權輿于黄帝
故扁倉已來以醫鳴者無不
用此術其救病之効活人之玅與
湯液丸散並行然方劑之書多
而鍼灸之書少矣唯各書之内
  四ウラ
標擧一門也昔 本朝之立醫
博士兼學鍼術故和丹両家
有擧鍼博士者中葉以降未
聞以鍼灸顯名者偶淂其傳者
亦著書幾希頃間門人南直携
鍼灸樞要來請曰此是山本玄通
  五オモテ
所纂也彼業鍼術通灸穴其
效稍顯世或知之平生厚志家
業閲若干方書至論鍼灸則
悉抄之集之其間有自淂則記
於其絛末研覃厯年盡精
力於此積為二十卷願弁一
  五ウラ
語以��子孫乃是玄通之志也余
聞之曰人各有業同業而可以議
其事也異業而相共議則猶樵之
談水漁之談山乎故曰道不同不相
為謀況余未知玄通之面哉直
頻勧頻請於是謂壽夭雖有命於
  六オモテ
死生之衟大也鍼灸之術有起
死回生之効則一刺一壯豈其容
易乎由是言之二十册之堆有
補益於人不為少乎是亦仁
之一方而惠民之端乎嗚呼玄
通精于勤成于思其効見於
  六ウラ
書何拘識面與不識哉韓子
曰名一藝者無不庸余為彼
有期焉其餘待如子陽子
豹者論而可也
延寳元年癸丑仲冬
賜弘文院學士林叟序


  【訓み下し】
  四オモテ
 鍼灸樞要序
嘗て聞く、鍼灸の法、黄帝に權輿す。
故に扁倉より已來、醫を以て鳴る者、此の術を用いずということ無し。
其の病を救う効、人を活する玅、
湯液丸散と並び行わる。然れども方劑の書は多くして、
鍼灸の書は少なし。唯だ各書の内(うち)
  四ウラ
一門を標擧す。昔 本朝の醫博士を立つる、
鍼術を兼ね學ぶ。故に和丹の両家
鍼博士を擧ぐる者有り。中葉より以降(このかた)、未だ
鍼灸を以て名を顯わす者を聞かず。偶たま其の傳を得る者、
亦た書を著すこと幾んと希(まれ)なり。頃間(このごろ)門人南直、
鍼灸樞要を携え來たりて請いて曰く、此れは是れ、山本玄通
  五オモテ
纂(あつ)むる所なり。彼れ鍼術を業とし、灸穴に通ず。其の
效(しるし)稍(や)や顯る。世、或いは之を知る。平生、志を家業に厚し。
若干(そこばく)方書を閲(けみ)す。鍼灸を論ずるに至っては、(則ち)
悉く之を抄し、之を集む。其の間、自得すること有るときは、(則ち)
其の絛末を記す。研覃、年を歴、精力を此に盡くして、
積みて二十卷と為す。願わくは、一語を弁(こうむ)らしめて、
  五ウラ
以て子孫に遺さんことを。乃ち是れ玄通が志なり。余、
之を聞いて曰く、人各おの業有り。業を同じくして、以て其の事を
議す可し。業を異にして相共に議するときは、(則ち)猶を樵の
水を談じ、漁の山を談ずるがごときか。故に曰く、道同じからざれば、相
為めに謀らず。況んや余未だ玄通が面を知らざるをや。直(た)だ
頻りに勧して頻りに請う。是に於いて謂らく、壽夭、命有りと雖とも、
  六オモテ
死生の衟(みち)に於いては、大なり。鍼灸の術、死を起こし、
生を回(めぐ)らすの効有り。(則ち)一刺一壯、豈に其れ容易ならんや。
是に由りて之を言えば、二十册の堆(うずたか)き、
人に補益有ること少なしと為せざるか。是れ亦た仁の
一方にして民を惠むの端(はし)なるか。嗚呼(ああ)、玄通
勤めに精しく、思に成る。其の効、書に見(あらわ)る。
  六ウラ
何んぞ面を識(し)ると識らずは與(とも)に拘わらんや。韓子が
曰く、一藝に名の者、庸(もち)いられずということ無し。余、彼れが為に
期すること有り。其の餘は子陽、子豹が如き者を待ちて
論じて可なり。
延寳元年癸丑仲冬
賜弘文院學士林叟序


  【注釋】
  四オモテ
○權輿:萌芽。開始の比喩に用いる。 ○扁倉:扁鵲と倉公(淳于意)。 ○已來:「以來」と同じ。 
  四ウラ
○標擧:掲示する。列挙する。 ○醫博士:典薬寮において医生の教育にあたった。正七位下。 ○和丹:和気家と丹波家。 ○鍼博士:鍼生の教育にあたった。従七位下。 ○南直:未詳。 
  五オモテ
○淂:「得」の異体字。 ○厯:「歴」の異体字。 ○研覃:深く研鑽する。 ○弁:前や上に置く。
  五ウラ
○��:「遺」の異体字。B領域。 ○
  六オモテ
○精勤:専心にはげみつとめる。 
  六ウラ
○韓子曰:『(新・舊)唐書』韓愈傳「占小善者率以錄、名一藝者無不庸」。 ○子陽、子豹:ともに扁鵲の弟子。 ○延寳元年:一六七三年。 ○賜弘文院學士林叟:林羅山の子、林鷲峰。寛文三(一六六三)年十二月に「弘文院学士」の名号を得た。
 

  七オモテ
鍼灸樞要序
滑伯仁所謂方藥之説肆行鍼
道寢遂不講盖當旹然今也厺
伯仁又遠其不講宜乎夫灸者
散寒邪除隂毒開欝破滯助氣
回陽其功最在火艾藥者百艸
  七ウラ
各有所主焉醫以爲君爲臣爲
佐爲使調攝之醫與藥功相合
而治病鍼也則不然經所謂如
寒者熱之熱者寒之堅者削之
客者除之結者散之留者攻之
溢者行之強者瀉之屬皆用瀉
  八オモテ
之灋也如散者収之燥者潤之
急者緩之脆者堅之衰者補之
勞者温之損者益之驚者平之
屬皆用補之灋也爲之舉醫在
之指掌故不朙經旨不衷經絡
則不猒譱之宜乎鍼道不興矣
  八ウラ
想夫鍼灸藥之於病也猶智仁
勇之於德也闕一不可也先賢
所謂若鍼而不灸〃而不鍼非
良醫也鍼灸而不藥〃而不鍼
灸亦不良醫也實不朙經絡不
審虚實是又此道之疾病也盍
  九オモテ
先治此病而後治彼病乎夫素
問靈樞以下論之者不少而其
言約其義淵初學者未易窺測
之亦藥方後僅載之者未盡其
要旨適雖有近世之書冰炭鈎
繩不相符或有精于醫者而鍼
  九ウラ
也爲小技而不窮心焉嗚呼無
精工也亦宜哉矣余慨經旨之
無傳患鍼道之不興忘己謭陋
竊攟摭靈素之文以梢爲緒夫
正經絡極兪穴則彙類經及衆
書之諸圖探病因温本源則於
  十オモテ
赤水玄珠及朙哲之確論摘��
于鍼灸者取穴治術之灋補瀉
之要宗素靈且渉獵諸名公之
鍼書吐露師傳之隱秘又或俗
説雖非正穴者日鍛月錬有捷
効者則不敢自私必載之裒成
  十ウラ
袟劙爲二十卷名曰鍼灸樞要
云爾凡易稿數四而恐其條分
次第參差舛誤冀同志之士相
與訂焉
寛文九季己酉孟冬不貫乘
玄通渉毫於適庵
     〔印形白字「適/菴」、黒字「不/貫/乘」〕


  【訓み下し】
  七オモテ
鍼灸樞要の序
滑伯仁が所謂る、方藥の説肆(ほしいま)まに行われ、鍼
道寢(いよ)いよ遂に講せず、と。蓋(けだ)し當時すら然り。今や
伯仁を去ること、又た遠し。其の講せざること、宜べなるかな。夫(そ)れ灸は、
寒邪を散し、陰毒を除き、欝を開き、滯を破り、氣を助け、
陽を回(めぐ)らす、其の功最も火艾に在り。藥は百艸
  七ウラ
各おの主とする所有り。醫、以て君と爲し、臣と爲し、
佐と爲し、使と爲し、之を調攝して、醫と藥と功相い合して
病を治す。鍼は則ち然らず。經に所謂る
寒なる者は之を熱し、熱なる者は之を寒し、堅き者は之を削り、
客なる者は之を除き、結する者は之を散し、留まる者は之を攻め、
溢るる者は之を行(めぐ)らし、強き者は之を瀉すという屬(たぐ)いの如き、
皆瀉を用いるの
  八オモテ
法なり。散する者は之を收め、燥なる者は之を潤し、
急なる者は之を緩くし、脆き者は之を堅くし、衰う者は之を補ない、
勞する者は之を温め、損する者は之を益し、驚く者は之を平らぐという
屬いの如き、皆な補を用いるの法なり。之を爲すこと舉けて醫の
指掌に在り。故に經旨を明らめず、經絡を衷(ただ)さざるときは、
之を善すること猒(いと)わず。宜べなるかな。鍼道の興らざることや、
  八ウラ
想うに夫れ鍼灸藥の病に於ける、猶お智仁
勇の德に於けるがごとし。一を闕(か)いて不可なり。先賢の
所謂る、若(も)し鍼して灸せず、灸して鍼せざるは、
良醫に非ず。鍼灸して藥せず、藥して鍼灸せざるも、
亦た良醫にあらず、と。實に經絡を明らめず、
虚實を審らかにせざる、是れ又た此の道の疾病なり。盍(なん)ぞ
  九オモテ
先づ此の病を治して後に彼の病を治せさるや。夫(そ)れ素
問靈樞より以下、之を論ずる者、少なからず。而(しか)も其の
言約に、其の義淵にして初學の者未だ之を窺い測り易からず。
亦た藥方の後に僅かに之を載する者は、未た其の要旨を盡さす。
適(たま)たま近世の書有りと雖も、冰炭鈎
繩相い符せず。或いは醫に精しき者有れば、鍼を
  九ウラ
小技と爲して心を窮めず。嗚呼、
精工の無きこと、亦た宜べなるかな。余、經旨の
傳え無きことを慨(なげ)き、鍼道の興らざることを患(うれ)い、己れが謭陋を忘れ、
竊(ひそ)かに靈素の文を攟摭して、以て稍(や)や緒を爲す。夫れ
經絡を正し、兪穴を極むるときは、類經及び
衆書の諸圖を彙(あつ)め、病因を探り、本源を温(たず)ぬるときは、
  十オモテ
赤水玄珠及び明哲の確論に於いて、
鍼灸に便(たよ)りある者を摘(つ)み、取穴治術の法、補瀉の
要は、素靈を宗とし、且つ諸名公の鍼書を渉獵し、
師傳の隱秘を吐露す。又た或いは俗
説の、正穴に非ざる者と雖も、日に鍛し月に錬し、捷効有る者は、
則ち敢えて自ら私せず、必ず之を載せ、裒(あつ)めて袟を成し、
  十ウラ
劙(そ)げて二十卷と爲し、名づけて鍼灸樞要と曰うと、
爾(しか)云う。凡そ稿を易(か)うること數四。而(しか)も恐る、其の條分
次第、參差舛誤あらんことを。冀(こいねが)わくは同志の士、相い
與(とも)に焉(これ)を訂(ただ)せ。
寛文九季己酉孟冬不貫乘
玄通、毫(ふで)を適庵に渉す。


  【注釋】
  七オモテ
○滑伯仁所謂:未詳。 ○寢:原文は穴冠につくる。傍訓に「く」の繰り返し記号あり。/寢:「寖」に通じる。ようやく。次第に。 ○盖:「蓋」の異体字。 ○旹:「時」の異体字。 ○厺:「去」の異体字。 ○夫灸者:張介賓『類經圖翼』卷十一・鍼灸要覧・諸証灸法要穴「凡用灸者、所以散寒邪、除陰毒、開欝破滯、助氣回陽」。
  七ウラ
○調攝:ととのえ、やしなう。体調を恢復させる。/『本草經』序例「藥有君臣佐使、以相宣攝……」。 ○經所謂:『素問』至真要大論「寒者熱之、熱者寒之、温者清之、清者温之、散者收之、抑者散之、燥者潤之、急者緩之、堅者耎之、脆者堅之、衰者補之、強者寫之」。「勞者温之、結者散之、留者攻之、燥者濡之、急者緩之、散者收之、損者温(ママ)之、逸者行之、驚者平之」。 
  八オモテ
○灋:「法」の異体字。 ○朙:「明」の異体字。 ○不衷:不善。不当。 ○猒:「厭」に通ず。 ○譱:「善」の異体字。 ○
  八ウラ
○智仁勇:智慧・仁徳・勇敢。儒家思想の中で君子がかならず持っていなければならないとされた三種の徳性。 ○先賢所謂:『備急千金要方』卷三十・孔穴主対法「若針而不灸、灸而不針、皆非良医也。針灸而薬、薬不針灸、尤非良医也。」『鍼灸資生經』卷二・針灸須薬の引用する千金は「尤」を「亦」につくる。 
  九オモテ
○約:簡略。 ○淵:深い。淵博(ふかくひろい)。 ○冰炭:性質が相反して、かれこれ、相容れないこと。 ○鈎繩:鈎(鉤)は曲尺。繩(縄)は木を真っ直ぐにする道具。/規矩鉤繩:円・方・平・直を製作測量する器具。守るべき法の比喩。
  九ウラ
○窮心:思慮をつくす。/窮:探究する。 ○謭陋:学識が浅薄である。/謭:「譾」の異体字。浅い。 ○攟摭:クンセキ。拾い集める。/攟:「攈」「捃」の異体字。 ○類經:明・張介賓の撰。ここでは『類經圖翼』のことであろう。
  十オモテ
○赤水玄珠:明・孫一奎の撰。『赤水玄珠全集』の略称とすれば、『医旨緒余』なども含まれる。 ○確論:精確な評論、議論。 ○��:「便」の異体字。
○名公:技量のすぐれた人、あるいは有名な人。/公:書かれている文字は「㕣」エン(「八」の下に「口」)。篆書の「公」であろう。 ○日鍛月錬:長い時間をかけてたゆまず研鑽をかさねることの比喩。 ○捷効:速効。 ○袟:「袠」の異体字。「帙」に通じる。書籍を入れるケース。ここでは書籍。
  十ウラ
○劙:さく。わる。 ○云爾:語末の助詞。というわけである。のみ。 ○數四:再三再四。何度も。『類經』自序「凡歴歳三旬、易稿數四」。 ○條分:項目分け。 ○參差:乱雑で整っていない。不一致。 ○舛誤:錯誤。 ○相與:相互に。 ○寛文九季己酉:寛文九(一六六九)年。 ○孟冬:陰暦十月。 ○渉毫:筆を動かす。渉筆。/毫:毛筆。
  卷二十の三十オモテ
鍼灸樞要跋
余聞千金之子坐不垂堂百金
之子不騎衡葢危也矧醫者人
命之所係也何不擇其術之精
粗哉適菴玄通翁洛陽人也髫
齓携手文場寓目經籍逮壯歳
  卷二十の三十ウラ
不懈螢雪以鑽研為己任一日
讀甲乙經所謂夫受先人之體
有八尺之軀而不知醫事遊魂
耳若不精通於醫道雖有忠孝
之心仁慈之性君父危困無以
濟之焉可忽乎從是切頻志於
  卷二十の三十一オモテ
毉術昕夕孜孜不輟祇憾雖歴
代名醫其間是非觳牴未視歸
一之論妄投方劑以爍骨髓刮
腸胃擅用鍼灸以爛藏腑斷筋
膜班氏云有病不治常得中醫
信哉此言也因知毉之本在岐
  卷二十の三十一ウラ
黄之經典矣其有源水其委長
稽古者驗于今諦樞素則不掩
乎雜説然簡古淵涵難通曉衍
文錯字亦不寡積年熟讀沈翫
頗得闖其籓籬於此施鍼刺取
其效如桴鼓形影余親視其所
  卷二十の三十二オモテ
治起死回生之功不遑曲指而
筭之逈異於世之叩刺者豈異
哉至如其或刺之或不刺之猶
扁之刺虢君之蹷而不刺於趙
簡秦穆宜哉此書成焉曩季戊
午冬來余廬語曰此書未暇訂
  卷二十の三十二ウラ
正願吾子為予電覽則可也余
素愧不才而弗敢肯適翁曰吾
子遊饗庭氏門已有年矣於
東都昉講靈素何其不為為哉余   〔※この行、一字擡頭〕
曰向有高明之二序足以称和
璞僕豈賛之雖然四瀆八流殊
  卷二十の三十三オモテ
源委而倶歸乎海且經所謂經
治者鍼灸藥竝用治其病依之
觀之則公與余道無有異同矣
遂忘蕪陋取之閲之純據于素
靈越人士安及叔和滑壽而近
世英傑方書無不櫽括焉如通
  卷二十の三十三ウラ
弊九章義理捷徑辨論確如可
謂力焉然或有變古亂常之輩
嗟乎燕雀安知鴻鵠之志哉天
於翁隂德未報亦命哉彼不垂
騎乎堂衡之子不足論焉
 旹
  卷二十の三十四オモテ
延寳歳在己未仲秋既望
 武陵隱醫通菴竹中敬瑞伯識
   〔印形白字「瑞伯/之印」、黒字「通/菴」〕

  【訓み下し】
  卷二十の三十オモテ
鍼灸樞要跋
余聞く、千金の子は坐するに堂に垂れず、百金の
子は衡に騎(の)らず、と。葢(けだ)し危(あやう)ければなり。矧(いわ)んや醫は、人
命の係る所なり。何ぞ其の術の精粗を擇ばざるや。
適菴玄通翁は、洛陽の人なり。髫
齓より手を文場に携え、目を經籍に寓す。壯歳に逮(およ)ぶも、
  卷二十の三十ウラ
螢雪に懈(おこた)らず、鑽研を以て己が任と為す。一日、
甲乙經を讀む。所謂る、夫れ先人の體を受け、
八尺の軀有り、而して醫事を知らずんば遊魂ならく
のみ。若(も)し醫道に精(くわ)しく通せずんば、忠孝の
心、仁慈の性有りと雖も、君父の危困、以て
之を濟(すく)うこと無し。焉(いず)くんぞ忽(ゆるが)せにす可けんや。是れ從り志を毉術に切頻す。
  卷二十の三十一オモテ
昕夕孜孜として輟(や)まず。祇(た)だ憾(うら)む、歴代名醫と雖も、
其の間、是非觳牴して未だ歸一の論を視ず、
妄りに方劑を投じ、以て骨髓を爍し、腸胃を刮し、
擅(ほしいまま)に鍼灸を用い、以て藏腑を爛し、筋膜を斷つを。
班氏の云う、病有り、治せざるは常に中醫を得とは、
信(まこと)なるかな、此の言や。因って知る、毉の本、
  卷二十の三十一ウラ
岐黄の經典に在るを。其れ源有れば、水は其の委(お)れ長し。
古(いにしえ)を稽(かんが)うる者は、今に驗あり。樞素を諦(あきら)むれば、則ち
雜説に掩(おお)われず。然れども簡古淵涵にして通曉し難し。衍
文錯字も亦た寡(すく)なからず。積年熟讀沈翫して、
頗る其の籓籬を闖(うかが)うを得。此に於いて鍼刺を施し、
其の效を取ること、桴鼓形影の如し。余親しく其の治する所を視、
  卷二十の三十二オモテ
起死回生の功、指を曲げて之を筭(かぞ)うるに遑(いとま)あらず、
逈(はる)かに世の叩刺する者に異なる。豈に異ならんや。
其の或いは之を刺し或いは之を刺さざるが如きに至っては、猶お
扁が虢君の蹷を刺し、而して趙簡秦穆を刺さざるがごとし。
宜(むべ)かな、此の書成る。曩季(こぞ)の戊
午の冬、余が廬に來たって語って曰く、此の書未だ訂正に暇あらず。
  卷二十の三十二ウラ
願わくは吾子、予が為に電覽するは可なり、と。余、
素(もと)もと不才を愧ぢて敢えて肯(うべな)わず。適翁の曰く、吾
子、饗庭氏の門に遊び、已に年有り。
東都に於いて昉(はじ)めて靈素を講ず。何其(なん)ぞ為(つく)ることを為せざるや。余
曰く、向(さき)に高明の二序有り。以て和璞を称するに足れり。
僕、豈に〔之を〕賛(たた)えんや。然れども四瀆八流、
  卷二十の三十三オモテ
源委を殊にすと雖も、而して倶に海に歸る。且つ經に所謂る經
治は、鍼灸藥竝びに用いて其の病を治し、之に依って
之を觀れば、則ち公と余、道に異同有る無し。
遂に蕪陋を忘れて、之を取って、之を閲(けみ)す。純(もつぱ)ら素
靈、越人、士安及び叔和、滑壽に據る。而して
近世英傑の方書まで櫽括せざる無し。
  卷二十の三十三ウラ
通弊九章の如きは、義理捷徑にして、辨論確如たり、
謂っつ可し、力(つと)めたりと。然れども或いは變古亂常の輩有らん。
嗟乎、燕雀安(いづ)くんぞ鴻鵠の志を知らんや。天の
翁に於ける、陰德未だ報せず、亦た命なるかな。彼の
堂衡に垂騎せざるの子、論ずるに足らず。
 旹(とき)
  卷二十の三十四オモテ
延寳歳在己未仲秋既望
 武陵隱醫通菴竹中敬瑞伯識(しる)す

  【注釋】
  卷二十の三十オモテ
○千金之子:『史記』卷一百一 袁盎晁錯列傳列傳第四十一「臣聞千金之子坐不垂堂、百金之子不騎衡」。金持ちの子供は軒下には坐らない(瓦が落ちる危険なところにはいない)し、衡にはまたがらない。「衡」の解釈には二説あり。一説には車の轅(ながえ)の先にわたした横木。もう一説は楼殿の周囲にめぐらせた欄干。 ○洛陽:京都の漢語風称呼。 ○髫齓:七、八歳の子ども。垂れ髪をして歯の抜け替わるころの子ども。 ○文場:文士の集まるところ。 ○寓:よせる。 ○壯歳:壮年。三十から四十歳のころ。
  卷二十の三十ウラ
○不懈螢雪:「螢」は、晋代の車胤が蛍の光の明るさを借りて読書した故事を指す。「雪」は、孫康が雪の光の照り返しを利用して読書した故事を指す。「映雪囊螢」。後に「螢雪」を苦学して勉強につとめることの比喩とする。 ○鑽研:徹底的に深く研究する。 ○
夫受先人之體:『黄帝三部鍼灸甲乙經』序「夫受先人之體、有八尺之軀、而不知醫事、此所謂遊魂耳」。 ○遊魂:遊動不定の霊魂。 ○ならくのみ:ただ、まさに……なのである。断定の「なり」の未然形+接尾語「く」+「のみ」。 ○君父:君主。 ○危困:危急困窮。 ○切頻:ちかづける。接近する。
  卷二十の三十一オモテ
○昕夕:朝から晩まで。一日中。 ○孜孜:勤勉に怠らないさま。 ○觳牴:矛盾する。/觳:角。きそう。ふれる。牴:抵。觝。角でぶつかり合う。 ○爍:焼く。とかす。 ○刮:はぐ。けずる。 ○班氏云:班固『漢書』藝文志「故諺曰:有病不治、常得中醫」。
  卷二十の三十一ウラ
○水:川の流れ。 ○委:委曲。折れ曲がる。送り仮名「レ」に従って「おれ」と訓んだが、「委」は源の対で、下流、末の意味があるので、この意味で使っているのかも知れない。 ○稽古者驗于今:『漢書』董仲舒傳第二十六「善言天者必有徴於人、善言古者必有驗於今」。 ○簡古:簡略で質朴。 ○淵涵:深く広い。 ○積年:長年。 ○沈翫:じっくり研究する。/翫:玩。 ○籓籬:範囲。 ○桴鼓:バチとツヅミ。打てば響く。『素問』至真要大論「桴鼓相應」。 ○形影:カタチとカゲ。「形影不離」「形影相隨」など関係の密接なるをいう。
  卷二十の三十二オモテ
○筭:「算」の異体字。 ○叩刺者:たたきさす者。下手な施術者をいうか。
○扁之刺虢君:『史記』扁鵲伝を参照。「虢太子……故暴蹶而死」。 ○蹷:蹶に同じ。「趙簡子……疾五日、不知人……扁鵲曰:血脉治也、而何怪、昔秦穆公嘗如此七日而寤」。 ○曩季戊午:昨年、延宝六(一六七八)年。
  卷二十の三十二ウラ
○吾子:あなた。敬愛の意をあらわす。 ○電覽:目上のひとに見せることの敬称。電矚。呈電。 ○不才:才能がない。浅学菲才。 ○饗庭氏:饗庭東庵。 ○有年:数年。多年。 ○東都:江戸。 ○昉講靈素:万治三(一六六〇)年、半井家の家塾で『霊枢』などを講じた(オリエント出版社『黄帝内経要語集註』2石田秀實先生解説)。 ○何其:「何」と意味に変わりなし。 ○高明:地位や権勢のある人。 ○和璞:正当に評価されない才能などのたとえ。のちにはきわめて重要なもののたとえ。「璞」は、磨いていない玉石。和氏之璧。『韓非子』和氏および『史記』廉頗藺相如列伝を参照。ここでは『鍼灸樞要』のこと。「称」は「たたえる・称賛する」。 ○四瀆:古代の江、淮、河、濟諸河川の総称。/八海四瀆は、各地の海川。 ○八流:渭、漢、洛、涇、汝、泗、沔、沃の八つの河川。 ○源委:水源と下流。
  卷二十の三十三オモテ
○蕪:乱雑。 ○陋:学識が浅薄な。 ○越人:秦越人。扁鵲。『難經』の撰者とされる。 ○士安:皇甫謐。士安は字。『鍼灸甲乙經』の撰者とされる。 ○叔和:王叔和。『脈經』の撰者。 ○滑壽:滑伯仁。『十四經発揮』『難經本義』などの撰者。 ○櫽括:矯正する。文章に手を入れる。
  卷二十の三十三ウラ
○通弊九章:卷一目録の前に「鍼灸通弊辨」あり。「九章」については未詳。 ○捷徑:近道。 ○變古亂常:もともとある正常な規則を改変する。『史記』袁盎晁錯列傳・論「語曰:變古亂常、不死則亡」。 ○燕雀:『史記』卷四十八・陳渉泄家に見える語。燕や雀のような小さな鳥に、鴻鵠(おおとり)の大きな志が理解できるはずがない。 ○陰德:ひとに知られざる徳行。『淮南子』人間訓「有陰德者必有陽報」。
  卷二十の三十四オモテ
○延寳歳在己未:延宝七(一六七九)年。 ○仲秋:陰暦八月。 ○既望:陰暦の十六日。 ○武陵:武蔵国(武州)の漢語風称呼。 ○通菴竹中敬瑞伯:敬は名。字は昌。美濃のひと。万治二(一五五九)年、江戸に移り、半井通仙院瑞堅の門に入る。通庵(号)と瑞伯(名)は、半井瑞堅より授けられる。『黄帝内經素問要語集注』『黄帝内經靈樞要語集注』『古今養性録』などを撰す。