2011年10月30日日曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 2 明堂 その5

去聖寖遠(31),其學難精。雖列在經訣(32),繪之圖素(33),而粉墨易糅(34),豕亥多譌(35)。丸艾而壞肝(36),投針而失胃(37)。平民受弊而莫贖(38),庸醫承誤而不思(39)。非夫聖人(40),孰救茲患?洪惟我后(41),勤哀兆庶(42),迪帝軒之遺烈(43),祗文母之慈訓(44),命百工以脩政令(45),敕大醫以謹方技(46),深惟鍼艾之法(47),舊列王官之守(48)。人命所繋,日用尤急,思革其謬(49),永濟于民。殿中省尚藥奉御王惟一素授禁方(50),尤工厲石(51)。竭心奉詔,精意參神(52)。定偃側於人形(53),正分寸於腧募(54)。增古今之救驗,刊日相之破漏(55)。總會諸說,勒成三篇(56)。

【訓讀】
聖を去ること寖(ようや)く遠く(31),其の學 精なること難し。列(つら)ねて經の訣に在りと雖も(32),之を圖素に繪けば(33),而(すなわ)ち粉墨糅(まじ)り易く(34),豕亥の譌多し(35)。艾を丸れば而ち肝を壞し(36),針を投ずれば而ち胃を失す(37)。平民 弊を受くるも贖(あがな)うこと莫く(38),庸醫 誤りを承けて思わず(39)。夫(か)の聖人に非ずんば(40),孰(たれ)か茲(こ)の患いを救えん。洪(そ)れ惟(た)だ我が后のみ(41),兆庶を勤(うれ)い哀しみ(42),帝軒の遺烈に迪(よ)り(43),文母の慈訓を祗(つつ)しみ(44),百工に命じて以て政令を脩めしめ(45),大醫に敕して以て方技を謹めしむ(46)。深く鍼艾の法を惟(おも)い(47),舊く王官の守に列(つら)ね(48),人命の繋る所,日々用いて尤も急とし,思いて其の謬を革(あらた)め(49),永く民を濟(すく)わんとす。殿中省尚藥奉御の王惟一素より禁方を授け(50),尤も厲石に工(たくみ)なり(51)。心を竭して詔に奉じ,意を精にして神を參ず(52)。偃側を人形に定め(53),分寸を腧募に正す(54)。古今の救驗を增し,日相の破漏を刊(ただ)す(55)。總て諸說を會して,勒して三篇と成す(56)。

(31)寖遠:しだいに遠くなる。寖は,「浸」に同じ。段々と。 【譯】聖人の時代からしだいに遠くなり,聖人の鍼灸醫學に精通することは困難になった。
(32)經訣:醫學經典の方法を指す。 /○訣:法術﹑方法。 【譯】鍼灸は医学經典にひとつの方法として並べられているが,
(33)圖素:圖卷。ここでは鍼灸經絡の圖を指す。 /○素:白色の生絹。「黃素」は黃色の絹,また詔書をいうが,新校備急千金要方序 「仲景黃素、元化綠袟」,『抱朴子』內篇·雜應「余見戴覇、 華他所集金匱緑 嚢、崔中書黃素方」などの用例によれば,「素」は,書籍で,醫學書に關しても使われる。  【譯】繪卷に圖として描こうすると,
(34)粉墨易糅:圖象が容易に混雜してはっきりしない。粉墨:もとは指繪を描くときに用いられる色,ここでは借りて經絡腧穴が描かれた鍼灸圖を指す。粉墨易糅は,また「粉墨雜糅」にも作る。この語の出典は『後漢書』左周黃列傳·黃瓊傳:「陛下不加清澂,審別真偽,復與忠臣並時顯封,使朱紫共色,粉墨雜糅,所謂抵金玉於沙礫,碎珪璧於泥塗,四方聞之,莫不憤歎(陛下 清澂〖詳細な檢查〗を加えて審らかに真偽を別(わか)たず,復た忠臣と與(とも)に時を並べて顯封し,朱と紫とをして色を共にし〖『論語』陽貨:「紫の朱を奪うを惡む。」朱は正色,紫は間色〗,粉と墨とをして雜糅せしむ。所謂る金玉を沙礫に抵(なげう)ち,珪璧を泥塗に碎くものにして,四方 之を聞きて,憤り歎ぜざるは莫し/陛下は詳しい調査をして,真偽を明らかにすることもなく,また忠臣とかれらを同時に高く封じましたが,これは正色の朱と間色の紫を一緒くたに扱い,白粉(おしろい)と墨とを混ぜ合わせ,金玉を砂利に放り込み,珪璧を泥の中で碎くようなもので,天下のひとはこれを聞いて,みな憤り歎いております)。」 【譯】經穴圖はまぎらわしいものとなり,
(35)豕亥多譌:文字に多くの誤りが存在することを指す。出典は『呂氏春秋』察傳:「子夏之晉,過衛,有讀史記者曰:『晉師三豕涉河。』子夏曰:『非也,是己亥也。夫己與三相近,豕與亥相似。』至於晉而問之,則曰晉師己亥涉河也(子夏 晉に之かんとして,衛を過ぐ。史の記を讀む者有り,曰く:「晉の師三豕に河を涉る。」子夏曰く:「非なり,是れ己亥なり。夫(そ)れ己と三は相近く,豕と亥は相似たればなり。」晉に至りて之を問えば,則ち晉の師己亥に河を涉ると曰うなり/孔子の弟子である子夏が晉に行こうとして,衛國を通過したとき,衛國の史官が記錄を音讀していて,「晉の軍隊が三豕に河を渡った」と言っていた。子夏は「誤りです。それは己亥でしょう。そもそも己と三は字形が近く,豕と亥も字形が似ているからです。」晉に到着してこのことについて質問すると,やはり「晉の師己亥に河を涉る」であった)。」後に字形が近いために誤ることを稱して「亥豕」という。譌:「訛」の異體字。 【譯】(傳承過程で)文字も多くの誤りが生じている。
(36)「丸艾」句:誤って艾灸を用いると肝を傷つけることをいう。丸艾は,艾炷をつくって灸すること。丸は,動詞として用いられている。物をこねて圓形にする。 【譯】(誤って)施灸すれば肝を壞し,
(37)「投針」句:誤って刺鍼すれば胃氣を損することをいう。 【譯】(誤って)刺鍼すれば胃氣を失う。
(38)贖:つくろい補う。補足する。 /○平民:民草。 【譯】一般の人々は害を受けても補償はされず,
(39)承:うけつぐ。繼承する。 【譯】低劣な醫者たちは過ちをそのまま繼承して,思いをいたさない/悩み悔いることを知らない。
(40)夫:その。遠指代詞。 【譯】もしあの過去の聖人でなければ,いったい誰がこれらの病を治すことができようか。
(41)洪惟我后:只有我們皇上。洪:語首助詞。后:君主。 【譯】そもそも我らが皇帝陛下だけが,
(42)勤哀:憂慮同情する。勤:憂慮する。哀:同情する。 /○兆庶:兆民。多くの人々。 【譯】萬民をうれいかなしみ,
(43)迪:繼承する。依る。 帝軒:黃帝。 遺烈:遺された功績。烈:業績,功業。 【譯】黃帝の遺された功績を繼承して實行し,
(44)「祗文母」句:文母太姒の慈愛教えを敬い奉ずる。祗:うやまう;敬いしたがいおこなう。文母:文德のある母。文王の妃,太姒を指す。『詩經』周頌·雍(雝):「既右烈考,亦右文母(既に烈考に右(すす)め,亦た文母に右(すす)む/功績ある亡父に供物をすすめ,文德ある母にも供物をすすめる)。」また『烈(列)女傳』母儀傳·周室三母:「太姒者,武王之母,禹後有㜪(また「莘」につくる)娰氏之女,仁而明道,文王嘉之……太姒號曰文母。文王治外,文母治内(太姒なる者は武王の母にして,禹の後の有㜪〖國名〗娰氏〖姓〗の女(むすめ)なり。仁にして道に明らかなり。文王 之を嘉(よみ)し……太姒 號して文母と曰う。文王 外を治め,文母 内を治む〖『禮記』昏義:「天子聽外治,后聽內職。」〗/太姒とは武王の母で,禹の子孫の有㜪〖莘〗娰氏の女(むすめ)である。思いやり深く道に明るく,文王が氣に入り……太姒は文母(文德厚い母/文王の偉大なる妃)と呼ばれた。文王が天下の外を治め,文母が内を治めた)。」後に皇后の美稱としても用いられるようになった。 /慈訓:(母の)いつくしみ深い教訓。 【譯】文母のいつくしみ深い教えにしたがい行ない,
(45)百工:多くの官僚を指す。 脩:「修」の異體字。 【譯】多數の官僚に命じて〔醫藥の〕政策法令を修訂させ,
(46)敕(chì赤):〔帝王の〕命令。 謹:謹しみ守る。/○方技:醫術、占星術などの技術。 【譯】名醫に詔敕を發して醫術を嚴守させた。
(47)深惟:深くおもう。惟:思う,念ず。 /原文は「深惟」のところで改行平出されているので,主語は皇帝であろう。 【譯】皇帝は深く鍼灸の方法を考慮なされ,
(48)王官之守:天子の官である職守(役職)のひとつ。『漢書』藝文志·方技略:「方技者,皆生生之具,王官之一守也。」 【譯】(醫官は)古くは帝王の百官中のひとつとして名をつらねおり,
(49)革:あらためる;ただす。 /○思:行の第一字目にあるので,皇帝の思いと解しておく。人命所繋:『三國志』魏書·方技傳·華佗傳:「佗術實工,人命所縣,宜含宥之(『後漢書』華佗傳は「佗方術實工,人命所懸,宜加全宥」)。」急:動詞。重要である。重視する。 【譯】(醫學は)人命と関わるものであり,日々用いてとりわけ重要であり,其の誤謬を改めようと思(おぼ)し召され,永遠に民眾を救濟しようとなされた。
(50)殿中省:官署の名,皇帝の飲食、服裳、車馬等の事柄を掌る。下に尚食、尚藥、尚衣、尚乘、尚輦の六局が設けられ,監一人により統率され,少監二人が副となる。尚藥奉御:醫の官名。 /○尚藥奉御:南北朝時代,南朝梁代が尚藥局を設け,その長官を奉御と稱した。唐代は正五品下。宋代,元豐〔1078年~1085年〕以後,典御と稱す(『宋史』卷一百六十八 志第一百二十一/ 職官八/ 合班之制/ 元豐以後合班之制) ○素:日頃。 ○禁方:祕密の醫方。ここでは醫學。 【譯】殿中省の尚藥奉御である王惟一は平素より醫學を教授しており,
(51)工:精通する。長(た)けている。 厲石:もともとは砥石のことであるが,ここでは鍼灸技術をいう。 /○厲石:砭石のことか。 【譯】とりわけ鍼に精通している。
(52)參神:鍼灸の神妙な道理を參考して驗證する。參:詳細に檢查する。參考して驗證する。 /○竭心:心を盡す。 ○奉詔:皇帝の命令を承る。 ○精意:一意專心となる。 【譯】心を盡して皇帝の命令を奉じ,精神を統一して鍼灸の神秘を驗證し,
(53)「定偃側」句:人體の前後と兩側の經絡の循行路線を定める。偃:仰臥。ここでは人體の前後と腹背をいう。 /○偃:仰臥。倒れ伏す。 ○側:わき。側面。 ○人形:人の形體。にんぎょう。 【譯】人體の前後兩側にある經脈を銅人形の上に設定し,
(54)正分寸:各腧穴の位置と分寸を確定する。 腧募(mó膜):人體の穴。また「募腧」、「募俞」にもつくる。背脊部にあるものを腧といい,胸腹部にあるものを募という。募:「膜」に通ず。 /正:誤りをただす。整理する。分析する。 【譯】背の兪穴、腹の募に代表される各穴の位置、分寸、深淺等をさだめ,
(55)刊:訂正する。 日相:古代の鍼灸取穴の學說で,日時の干支に基づき,某日某時に取るべき腧穴を推算すること。子午流注、靈龜飛騰の類。 破漏:鍼灸取穴學說の缺陷遺漏をいう。一說では,鍼刺禁忌の時機をいう。 /○驗:效驗。效き目。 日相:『銅人腧穴鍼灸圖經』卷下にある「人神」「避太一法」「血忌」のことか。 【譯】古今の治驗例を増やし,古い鍼灸忌日/時間治療學說の缺陷や漏れを訂正し,
(56)勒:刻む。ここでは書寫する意。 /○總會:總合してあつめる。 【譯】諸說を總合會聚して,三篇に編輯した。

2011年10月29日土曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 2 明堂 その4

臣聞聖人之有天下也(1),論病以及國,原診以知政(2)。王澤不流(3),則姦生於下(4),故辨淑慝以制治(5);真氣不榮(6),則疢動於體(7),故謹醫砭以救民(8)。昔我聖祖之問岐伯也(9),以為善言天者,必有驗於人(10)。天之數十有二,人經絡以應之(11);周天之度三百六十有五(12),人氣穴以應之(13)。上下有紀(14),左右有象(15),督任有會(16),腧合有數(17)。窮妙于血脈(18),參變乎陰陽(19),始命盡書其言(20),藏於金蘭之室(21)。洎雷公請問其道(22),迺坐明堂以授之(23),後世之言明堂者以此(24)。由是閞灸鍼刺之術備焉(25),神聖工巧之藝生焉(26)。若越人起死(27),華佗愈躄(28),王纂驅邪(29),秋夫療鬼(30),非有神哉,皆此法也。

【訓讀】
臣聞くならく,聖人の天下を有(たも)つや(1),病を論じて以て國に及び,診を原(たず)ねて以て政(まつりごと)を知る,と(2)。王澤流れざれば(3),則ち姦,下に生ず(4),故に淑慝を辨じて以て治を制す(5)。真氣榮せざれば(6),則ち疢(やまい),體に動ず(7),故に醫砭を謹んで以て民を救う(8)。昔我が聖祖の岐伯に問うや(9),以て善く天を言う者は,必ず人に驗有りと為す(10)。天の數十有二,人の經絡以て之に應ず(11);周天の度三百六十有五(12),人の氣穴以て之に應ず(13)。上下に紀有り(14),左右に象有り(15),督任に會有り(16),腧合に數有り(17)。妙を血脈に窮め(18),變を陰陽に參じえ(19),始めて命じて盡く其の言を書し(20),金蘭の室に藏せしむ(21)。雷公,其の道を請いて問うに洎(およ)んで(22),迺(すなわ)ち明堂に坐して以て之を授く(23)。後世の明堂と言う者は此れを以てなり(24)。是れに由り閞灸鍼刺の術備わり(25),神聖工巧の藝生ず(26)。越人,死を起こし(27),華佗,躄を愈(いや)し(28),王纂,邪を驅し(29),秋夫,鬼を療するが若きは(30),神有るに非ざるや,皆な此の法なり。

【註釋】
(1)聖人:聖明なる帝王を指す。 有:統治する。 【譯】臣(わたくし)は以下のように聞いております。古代の聖人が天下を統治していたとき,
(2)「論病」二句:『漢書』藝文志:「其善者,則原脈以知政,推疾以及國(其の善き者は,則ち脈を原ねて以て政を知り,疾を推して以て國に及ぶ)。」高明なる醫生は病情を診察分析して,國情政事まで推論できるという意。「原」は,探究する。動詞。『國語』晉語八:「文子曰:醫及國家乎?對曰:上醫醫國,其次疾人,固醫官也(文子曰く:「醫は國家に及ぶか。」對えて曰く:「上醫は國を醫(いや)し,其の次は疾人,固(もと)より醫官なり。」/上級の医者は国家もいやし、その次が病人である。これが本来の医官である)。」韋昭注:「其の淫惑を止む,是れ國を醫すと為す。」『左傳』昭公元年:「晉侯求醫於秦,秦伯使醫和視之,曰:「『疾不可為也,是謂近女室,疾如蠱。非鬼非食,惑以喪志。良臣將死,天命不佑(晉侯 醫を秦に求む。秦伯 醫和をして之を視しむ。曰く:「疾 為(おさ)む可からざるなり。是を女室に近づき,疾 蠱の如しと謂う。鬼に非ず食に非ず,惑いて以て志を喪う。良臣將に死なんとし,天命も佑(たす)けず」。)」漢·王符『潛夫論』思賢:「上醫醫國,其次醫疾。夫人治國,固治身之象。疾者,身之病;亂者,國之病也(上醫は國を醫し,其の次は疾を醫す。夫れ人の國を治するは,固(もと)より身を治むるの象なり。疾なる者は,身の病なり。亂なる者は,國の病なり)。」 /○原:もとづく。 【譯】病情を論述して國情を推論し,病の診察方法を探究して/に基づいて/政を治める方法を知り得る,と。
(3)王澤不流:賢君の道德教化が傳播されない。澤:恩澤。ここでは道德教化を指す。「流」は,傳播。 【譯】もし聖王の恩澤が流布しないと,
(4)姦:「奸」の異體字。奸邪,邪惡。 【譯】邪惡が天下に生まれる。
(5)淑:善良。慝(tè特):邪惡。 /○辨:分别する。 ○制治:統治する。政務をおこなう。『尚書』周官:「制治于未亂,保邦于未危。」孔穎達正義:「治謂政教。邦謂國家。治有失則亂,家不安則危。恐其亂則預為之制,慮其危則謀之使安,制其治於未亂之前,安其國於未危之前。」 【譯】ゆえに善惡を判別して統治する。
(6)榮:充盛。 /○真氣:真元の氣。『素問』上古天真論:「恬惔虛無,真氣從之(恬惔虛無なれば,真氣,之に從う)。」 また正氣,「邪氣」と相對していう。『靈樞』邪客:「如是者,邪氣得去,真氣堅固,是謂因天之序(是(かく)の如ければ,邪氣去るを得,真氣堅固なり,是れを天の序に因ると謂う)。」  【譯】もし真氣がさかんでないと,
(7)疢(chèn襯):疾病。 【譯】病氣が體內で發生する。
(8)謹:謹しみ守る。注意する。重視する。動詞として用いられている。 醫砭:ひろく醫術を指す。  【譯】ゆえに医術を重視して民衆を救濟する。
(9)聖祖:黃帝を指す。 【譯】むかし我らが聖祖黃帝が岐伯に(醫學のことを)質問したとき,
(10)「善言」二句:『素問』舉痛論:「善言天者,必有驗於人;善言古者,必有合於今(善く天を言う者は,必ず人に驗する有り。善く古を言う者は,必ず今に合する有り)。」,また『素問』氣交變大論:「善言天者,必應於人;善言古者,必驗於今(善く天を言う者は,必ず人に應あり。善く古を言う者は,必ず今に驗あり)。」 【譯】天道を語ることに長じていれば,人體においても效き目がある/檢證できる。
(11)「天之數」二句:人の十二經脈は,天の十二ヶ月に相應ずるを指す。『靈極』陰陽繋日月』:「足之十二經脈,以應十二月。」にもとづく。有,「又」に通ず。 【譯】天の數は十二であり,人の經絡はそれに應じている。
(12)「周天」句:地球が太陽を一周繞る三百六十五度をいう。『後漢書』顯宗孝明帝紀:「見史官,正儀度(史官を見て,儀度を正す)。」李賢注:「儀謂渾儀,以銅為之,置於靈臺,王者正天文之器也。度,謂日月星辰之行度也。史官即太史,掌天文之官也(儀とは,渾儀〖天體の運行を觀測する儀器。渾天儀〗を謂う。銅を以て之を為(つく)り,靈臺〖天子が天文や氣象を觀察する物見臺〗に置き,王者の天文を正すの器なり。度とは,日月星辰の行度〔運行の度數〕を謂うなり。史官は即ち太史,天文を掌るの官なり)。」 【譯】天を周る度數は三百六十五度であり,
(13)「人氣穴」句:人は三百六十五個のツボで天と相應することを指す。氣穴は,即ちツボ。『靈樞』邪客:「歲有三百六十五日,人有三百六十五節。」 【譯】人の腧穴は,それに相應じている。
(14)上下:天地を指す。 紀:綱紀。法度。 【譯】天地には要綱法度があり,/人體の氣血の上下の運行には一定の法則があり,
(15)左右:四方を指す。 象:物象;跡象。 【譯】四方には物體の形象がある。/人の經絡のめぐりには左右に一定の軌跡がある。
(16)督任:督脈と任脈。 會:交會。 【譯】督脈、任脈には交わり會するところがあり,
(17)腧合:腧穴と合穴。 數:定數。 /○腧:「兪」に通ず。五行穴のひとつ。 【譯】兪穴、合穴には定まった數がある。
(18)窮妙:微妙な道理を窮める。窮は,形容詞が動詞として用いられている。 【譯】血脈の微妙な道理をきわめ,
(19)參變:變化を參合する。參は,參合(驗證相合/綜合觀察/綜合參考),比較する。 【譯】陰陽の變化を比較參考にし,
(20)其言:黃帝、岐伯の鍼灸に関係する言論を指す。 【譯】それからはじめて黃帝は命令して、その鍼灸醫學に関連する言論をすべて記載させ,
(21)金蘭之室:古代の帝王が貴重な文書を收藏する場所。金蘭:本は友情の契合(意氣投合)すること。金は堅さを喻え,蘭は香を喻える。『周易』繋辭上:「二人同心,其利斷金;同心之言,其臭如蘭(二人 心を同じうすれば,其の利(と)きこと金を斷つ。同心の言は,其の臭(にお)い蘭の如し/君子の道は……初めは不同なようでも,最後には通い合うものである。この二人が心を合わせれば,その銳利さは金をも断ち切れる。心を合わせたものの言葉は,蘭のごとく香しい)。」ここの「金蘭」は貴重なもののたとえ。 /『素問』氣穴論(58)「今日發蒙解惑。藏之金匱,不敢復出。乃藏之金蘭之室,署曰氣穴所在(今日蒙を發(ひら)き惑を解けり。之を金匱に藏して,敢えて復た出ださず。乃ち之を金蘭の室に藏し,署して氣穴の在る所と曰う)。」 【譯】金蘭の室に收蔵した。
(22)洎(jì記):及ぶ。到る。 /○請問:ひとに質問するときの敬辭。 【譯】雷公が鍼灸醫學についておうかがいすると,
(23)迺:「乃」の異體字。 明堂:古代の天子が政教を宣明する場所。凡そ朝會および祭祀、慶賞、選士、養老、教學等の大典は,ひとしくこの場所で舉行される。古樂府『木蘭詩』:「歸來見天子,天子坐明堂(歸り來たりて天子を見れば,天子 明堂に坐す)。」 【譯】そこで黃帝は明堂に坐し,鍼灸醫學を雷公に傳授した。
(24)以:依據する。雷公が人の經絡血脈を問うたとき,黃帝は明堂に坐して之を授けたと傳えられる。ゆえに後世の醫家は人體の經絡腧穴の圖を稱して明堂圖という。 /『素問』著至教論(75):「黃帝坐明堂,召雷公而問之曰:子知醫之道乎?」 【譯】後世に經穴圖を明堂圖,經穴學書を明堂經というのは,このことに基づく。
(25)閞(guān關):すなわち「關」字。鍼灸もまた「關灸」という。『史記』扁鵲倉公列傳』:「形弊者不當關灸、鑱石及飲毒藥也(形弊(つか)るる者は當に關灸、镵石及び毒藥を飲む/ましむ/べからざるなり)。」 『老子』二十七章:「善𨳲(閉)無閞(關)楗而不可開(善く閉ずるものは關楗無くして,而も開く可からず/門を閉ざすのにすぐれたものは,かんぬきは必要ないが,〔閉めた扉は〕開けられない)。」 /○閞:門柱上の斗拱(ますがた。建物の柱の上にあって,梁、棟木をささえるもの)。 ○關:かかわる。 形弊(つか)るる者は當に灸镵石及び毒藥を飲むに關するべからざるなり(體力の衰えた者は,灸、鍼、砭石をしたり劇藥を飲む/ませる/べきではない)。 /○關:門を閉ざす橫棒。かんぬき。つらぬく。一說,「つらぬく」から引伸して孔穴。一説,關節孔穴。 形弊(つか)るる者は當に關灸、镵石し,及び毒藥を飲む/ましむ/べからざるなり(體力の衰えた者は,關節孔穴に灸や、鍼刺、砭石をしたり,劇藥を飲む/ませる/べきではない)。/『扁倉傳割解』:「關灸之關,猶『靈樞』所謂關刺之關,謂行灸於關節孔穴也。」『扁鵲倉公傳彙攷』元堅附桉:「關灸之關,疑譌。滕〔惟寅(淺井圖南)『割解』〕以官鍼篇關刺之關,釋之,難從。」 【譯】これによって,關灸鍼刺(施灸刺鍼)の技術が完備し,
(26)神聖工巧:望、聞、問、切をいう。『難經』六十一難:「望而知之謂之神,聞而知之謂之聖,問而知之謂之工,切脈而知之謂之巧。」また『素問』至真要大論:「工巧神聖」:王冰註:「針曰工巧,藥曰神聖。」 【譯】望聞問切という四診の技能がうまれた。
(27)越人起死:秦越人が鍼術をもちいて虢の太子を蘇生させたことを指す。『史記』扁鵲傳を参照。 /扁鵲傳:其后扁鵲過虢。虢太子死,扁鵲至虢宮門下,問中庶子喜方者曰:“太子何病,國中治穰過於眾事?”中庶子曰:“太子病血氣不時,交錯而不得泄,暴發於外,則為中害。精神不能止邪氣,邪氣畜積而不得泄,是以陽緩而陰急,故暴蹷而死。”扁鵲曰:“其死何如時?”曰:“雞鳴至今。”曰:“收乎?”曰:“未也,其死未能半日也。”“言臣齊勃海秦越人也,家在於鄭,未嘗得望精光侍謁於前也。聞太子不幸而死,臣能生之。”中庶子曰:“先生得無誕之乎?何以言太子可生也!臣聞上古之時,醫有俞跗,治病不以湯液醴灑,镵石撟引,案扤毒熨,一撥見病之應,因五藏之輸,乃割皮解肌,訣脈結筋,搦髓腦,揲荒爪幕,湔浣腸胃,漱滌五藏,練精易形。先生之方能若是,則太子可生也;不能若是而欲生之,曾不可以告咳嬰之兒。”終日,扁鵲仰天嘆曰:“夫子之為方也,若以管窺天,以郄視文。越人之為方也,不待切脈望色聽聲寫形,言病之所在。聞病之陽,論得其陰;聞病之陰,論得其陽。病應見於大表,不出千里,決者至眾,不可曲止也。子以吾言為不誠,試入診太子,當聞其耳鳴而鼻張,循其兩股以至於陰,當尚溫也。”中庶子聞扁鵲言,目眩然而不瞚,舌撟然而不下,乃以扁鵲言入報虢君。虢君聞之大驚,出見扁鵲於中闕,曰:“竊聞高義之日久矣,然未嘗得拜謁於前也。先生過小國,幸而舉之,偏國寡臣幸甚。有先生則活,無先生則棄捐填溝壑,長終而不得反。”言末卒,因噓唏服臆,魂精泄橫,流涕長潸,忽忽承睫,悲不能自止,容貌變更。扁鵲曰:“若太子病,所謂‘尸蹷’者也。夫以陽入陰中,動胃繵緣,中經維絡,別下於三焦、膀胱,是以陽脈下遂,陰脈上爭,會氣閉而不通,陰上而陽內行,下內鼓而不起,上外絕而不為使,上有絕陽之絡,下有破陰之紐,破陰絕陽,(之)色[已]廢脈亂,故形靜如死狀。太子未死也。夫以陽入陰支蘭藏者生,以陰入陽支蘭藏者死。凡此數事,皆五藏蹙中之時暴作也。良工取之,拙者疑殆。”扁鵲乃使弟子子陽厲鍼砥石,以取外三陽五會。有閒,太子蘇。乃使子豹為五分之熨,以八減之齊和煮之,以更熨兩脅下。太子起坐。更適陰陽,但服湯二旬而復故。故天下盡以扁鵲為能生死人。扁鵲曰:“越人非能生死人也,此自當生者,越人能使之起耳。”
(28)華佗愈躄:華佗が灸法をもちいて跛足をなおしたことを指す。『三國志』華佗傳 裴松之注の引用する『華佗別傳』に見える。躄は,跛足。 / 『三國志』魏書 卷二十九 方技傳第二十九 華佗傳注引ける佗別傳に曰く:「有人病兩脚躄不能行,轝詣佗,佗望見云:『己飽針灸服藥矣,不復須看脈。』便使解衣,點背數十處, 相去或一寸,或五寸,縱邪不相當。言灸此各十壯,灸創愈即行。後灸處夾脊一寸,上下行端直均調,如引繩也(人有り,兩脚の躄を病みて行くこと能わず,轝(こし)もて佗に詣(いた)る。佗望み見て云う:『己れ/已に針灸服藥に飽く。復た脈を看るを須(もと)めず/須(ま)たず』と。便ち衣を解かしめ,背に點すること數十處, 相去ること或いは一寸,或いは五寸,縱邪(ななめ)相當らず。此に各十壯を灸し,灸の創(きず)愈ゆれば即ち行かんと言う。後に灸する處は脊を夾(はさ)むこと一寸,上下行(なら)ぶこと端直均調にして,繩を引く〔大工が墨繩で線を引く〕が如きなり)。」
(29)王纂驅邪:『太平御覽』卷七百二十二の引用する劉敬叔『異苑』に云う:「縣人張方女暮宿廣陵廟門下,夜有物假作其壻,來魅惑成病。纂為治之,始下一針,有獺從女被內走出,病遂愈。」王纂は,北宋醫家,鍼術が巧みなことで著名。 /劉敬叔『異苑』卷八:「元嘉十八年,廣陵下市縣人張方女道香,送其夫壻北行。日暮,宿祠門下。夜有一物,假作其壻來云:「離情難遣,不能便去。」道香俄昏惑失常。時有海陵王纂者,能療邪。疑道香被魅,請治之。始下一針,有一獺從女被內走入前港。道香疾便愈(元嘉十八〔441〕年,廣陵下市縣の人,張方が女(むすめ)道香,其の夫壻〔婿〕の北に行くを送る。日暮れて,祠門の下に宿る。夜に一物〔もののけ〕有り,其の壻に假し〔裝い〕作(いつわ)り,來たりて云う:「離情遣り〔紛らわせ〕難く,便ち去ること能わず」と。道香俄かに昏惑〔意識朦朧と〕して常を失す〔舉動、精神狀態が常軌を逸す〕。時に海陵の王纂なる者有り,能く邪を療す。道香の魅〔惑〕せらるるを疑い,之を治せんことを請う。始めて一針を下せば,一獺〔カワウソ/ラッコ〕有り,女の被內〔ふとん〕從り走りて前の港に入る。道香の疾(やまい),便ち愈ゆ)。」元·王國瑞『扁鵲神應鍼灸玉龍經』註解標幽賦:「王纂針交兪,而妖精立出。」 ○交兪:場所,未詳。 ○妖精:妖怪變化。
(30)秋夫療鬼:『南史』張融傳:「夜有鬼呻吟聲,甚悽愴。秋夫問:‘何須?’答言:‘姓某,家在東陽,患腰痛死,雖為鬼,痛猶難忍,請療之。’秋夫云:‘何厝(cuò措)法?’鬼請為芻,案孔穴針之。秋夫如言,為灸四處,又針肩井三處,設祭埋之。明日,見一人謝恩,忽然不見。當世伏其通靈〔夜,鬼の呻吟する有り,聲,甚だ悽愴たり。秋夫問う:‘何の須(もと)むるところぞ?’答えて言う:‘姓は某〔『醫説』鍼灸作「我姓斛,名斯」〕,家は東陽に在り,腰痛を患い死なんとす。鬼〔靈〕と為ると雖も,痛み猶お忍び難し。之を療するを請う。’秋夫云う:‘何をか法を厝〔措置〕せん?’鬼,芻(人)〔藁人形〕を為(つく)り,孔穴を案〔考查、察辦。依據、依照〕じて之に針するを請う。秋夫,言の如くし,〔幽鬼の〕為に灸すること四處,又た肩井三處に針し,祭を設けて〔祭壇を設置して供物を捧げ〕之を埋む。明日,一人の恩を謝するを見る。忽然として見えず。當世,其の通靈〔神靈に通じ,鬼神と相通ずる〕に伏〔信服〕す〕。」秋夫は,南朝宋代の醫家徐秋夫で,醫術に精通していた。 /『普濟方』卷四百九 流注指微鍼賦:「秋夫療鬼而馘效魂免傷悲」。注:「昔宋徐熈,字秋夫,善醫方,方為丹陽令,常聞鬼神吟呻甚悽若。秋夫曰:汝是鬼,何須如此?答曰:我患腰痛死,雖為鬼,痛苦尚不可忍,聞君善醫,願相救濟。秋夫曰:吾聞鬼無形,何由措置?鬼云:縳草作人,予依入之,但取孔穴鍼之。秋夫如其言,為鍼腰腧二穴,肩井二穴,設祭而埋之。明日見一人來,謝曰:蒙君醫療,復為設祭,病今已愈,感惠實深。忽然不見。公曰:夫鬼為陰物,病由告醫,醫既愈矣。尚能感激况於人乎。鬼姓斛,名斯。」著者未詳『凌門傳授銅人指穴』に「秋夫療鬼十三穴歌」あり。曰く「人中神庭風府始,舌縫承漿頰車次,少商大陵間使連,乳中陽陵泉有據,隱白行間不可差、十三穴是秋夫置」。

2011年10月28日金曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 2 明堂 その3

新刋補註銅人腧穴鍼灸圖經序
翰林學士兼侍讀學士景靈宮判官起復朝奉
大夫尚書左司郎中知制誥判集賢院權尚書
都省柱國泗水縣開國男食邑三百户賜紫金
魚袋臣夏竦 奉
聖旨撰

【注釋】
○翰林學士:官名。唐玄宗 開元初以張九齡、張說、陸堅等掌四方表疏批答、應和文章,號“翰林供奉”,與集賢院學士分司起草詔書及應承皇帝的各種文字。德宗以後,翰林學士成爲皇帝的親近顧問兼秘書官,常值宿內廷,承命撰擬有關任免將相和冊後立太子等事的文告,有“內相”之稱。唐代後期,往往即以翰林學士升任宰相。北宋翰林學士仍掌制誥。清代以翰林掌院學士爲翰林院長官,其下有侍讀學士、侍講學士。清末復置翰林學士,僅備侍讀學士的升遷。〔『漢語大詞典』。以下,特にことわりがなければ『漢語大詞典』による〕 ○兼:同時擔任或具有兩種以上的職務或身分、行為等。〔『重編國語辭典修訂本』〕 ○侍讀學士:官名。唐始設,初屬集賢殿書院,職在刊緝經籍。後爲翰林院學士之一,職在爲皇帝及太子講讀經史,備顧問應對。 ○景靈宮:景靈宮位於山東省曲阜市城東四公裡的舊縣村北邊吳陵南約五十米的交阜平原上。宋真宗帝“推本世系,遂祖軒轅”,以軒轅皇帝為趙姓始祖。於大中祥符五年(公元1012年)閏十月,詔曲阜縣更名為仙源縣,將縣城遷往壽丘之西,又興建了景靈宮奉祀黃帝。“祠軒轅曰聖祖,又建太極宮祠其配曰聖祖母。 景靈宮石碑越四年而宮成,總一千三百二十楹,其崇廣壯麗罕匹。於是琢玉為像,龕於中殿,以表尊嚴,歲時朝獻,如太廟儀,命學老氏者侍祠,而以大臣領之”。當時的景靈宮各種殿、宮、門等1320間,規模宏大;玉琢成像,富麗莊嚴;祭祀時用太廟禮儀,等級最高。〔百度百科 http://baike.baidu.com/view/962734.htm〕 ○判官:古代官名。唐代節度使、觀察使、防禦使均置判官,爲地方長官的僚屬,輔理政事。宋沿唐制,並於團練、宣撫、制置、轉運、常平諸使亦設置判官。 ○起復:封建時代官員遭父母喪,守制尚未滿期而應召任職。泛指一般開缺或革職官員重被起用。 ○朝奉:宋有朝奉郎、朝奉大夫等官名。宋人因以“朝奉”尊稱士人。 ○大夫: 古職官名。周代在國君之下有卿、大夫、士三等;各等中又分上、中、下三級。後因以大夫爲任官職者之稱。秦 漢以後,中央要職有御史大夫,備顧問者有諫大夫、中大夫、光祿大夫等。唐 宋尚存御史大夫及諫議大夫,明 清全廢。  ○尚書:官名。始置於戰國時,或稱掌書,尚即執掌之義。……隋代始分六部,唐代更確定六部爲吏、戶、禮、兵、刑、工。從隋 唐開始,中央首要機關分爲三省,尚書省即其中之一,職權益重。宋以後三省分立之制漸成空名,行政全歸尚書省。 ○左司郎中:唐朝の官吏位階では從五品上。/郎中:官名。始於戰國。秦 漢沿置。掌管門戶、車騎等事;內充侍衛,外從作戰。另尚書臺設郎中司詔策文書。晉武帝置尚書諸曹郎中,郎中爲尚書曹司之長。隋 唐迄清,各部皆設郎中,分掌各司事務,爲尚書、侍郎之下的高級官員,清末始廢。 ○知制誥:掌管起草誥命之意,後用作官名。唐初以中書舍人爲之,掌外制。其後亦有以他官代行其職者,則稱某官知制誥。開元末,改翰林供奉爲學士院,翰林入院一歲,則遷知制誥,專掌內命,典司詔誥。宋代因之,爲清要之職。/唐宋兩朝專掌內命,典司詔誥的官吏。〔『重編國語辭典修訂本』〕 ○判:古稱高位兼低職或出任地方官。如唐代宰相判六軍十二衛事,宋以宰相判樞密院。〔『重編國語辭典修訂本』〕/唐 宋官制,以大兼小,即以高官兼較低職位的官也稱判。宋 陸游《老學庵筆記》卷六:“慶曆初,西鄙未定,命夏竦判永興。” ○集賢院:官署名。唐開元五年(717),於乾元殿寫經、史、子、史、集四部書,置乾元院使。次年,改名麗正修書院。十三年,改名集賢殿書院,通稱集賢院。置集賢學士、直學士、侍讀學士、修撰官等官,以宰相一人為學士知院等,常侍一人為副知院事,掌刊緝校理經籍。宋沿置,為三館之一置大學士一人,以宰相充任;學士以給、舍、卿、監以上充任;直學士不常置,修撰官以朝官充任,直院、校理以京官以上充任,皆無常員。〔百度百科〕/集賢:集賢殿書院的省稱。/集賢殿:唐代設立的文學三館之一,掌刊輯經籍,搜求佚書等事的官署。原名集仙殿,至唐玄宗開元中改稱為「集賢殿」。以五品以上為學士,宰相知院事。〔『重編國語辭典修訂本』〕/唐宮殿名。開元中置。於殿內設書院,置學士、直學士,以宰相爲知院事,有修撰、校理等官,掌刊輯經籍、搜求佚書。指集賢殿書院。 ○權:唐以來稱試官或暫時代理官職爲“權”。 ○都省:漢以僕射總理六尚書,謂之都省。唐 垂拱中,改尚書省曰都省。後亦以指尚書省長官或尚書省政事堂。 ○柱國:官名。戰國時楚國設置,原爲保衛國都之官,後爲楚的最高武官。唐以後沿用作勛官的稱號。/指肩負國家重任的大臣。 ○泗水縣:いま山東省濟寧市。 ○開國:晉以後在五等封爵前所加的稱號。 ○男:古代爵位名。五等爵的第五等。《禮記·王制》:“王者之制祿爵,公、侯、伯、子、男,凡五等。”/古代封建制度五等爵的最末一等,即男爵。〔『重編國語辭典修訂本』〕 ○食邑:指古代君主賜予臣下作爲世祿的封地。唐 宋時亦作爲一種賜予宗室和高級官員的榮譽性加銜。清 袁枚《隨園隨筆·勛階封號食邑實封之分》:“其食邑與實封有別者,如余襄公食邑二千六百戶,實對二百戶是也。”參閱《宋史·職官志十》。/古代君主賞賜臣子封地,即以此地租稅作為其俸祿。封地。史記˙卷九十五˙灌嬰傳:「賜益食邑二千五百戶。」〔『重編國語辭典修訂本』〕 ○户:原文に近い字形。異体は「戶・戸」。量詞。計算住家數量的單位。 ○賜:賞賜,給予。 ○紫金:一種珍貴礦物。/一種綜合了金、銅、鐵、鎳等多種元素的合金。俄羅斯是其主要產地,其余還分布在土耳其等國。〔百度百科〕 ○魚袋:唐代官吏所佩盛放魚符的袋。宋以後,無魚符,仍佩魚袋。《舊唐書·輿服志》:“咸亨三年五月,五品以上賜新魚袋,并飾以銀……垂拱二年正月,諸州都督刺史,并准京官帶魚袋。”《宋史·輿服志五》:“魚袋。其制自唐始,蓋以爲符契也……宋因之,其制以金銀飾爲魚形,公服則繫於帶而垂於後,以明貴賤,非復如唐之符契也。”/唐制,五品以上官員發給魚符,上刻官吏姓名,以為憑信,因為裝在袋內,故稱為「魚袋」。宋沿唐制,並用金銀裝飾魚形,然不再有符契的作用。〔『重編國語辭典修訂本』〕/魚符:隋 唐時朝廷頒發的符信,雕木或鑄銅爲魚形,刻書其上,剖而分執之,以備符合爲憑信,謂之“魚符”,亦名魚契。隋 開皇九年,始頒木魚符於總管、刺史,雌一雄一。唐用銅魚符,所以起軍旅,易官長;又有隨身魚符,以金、銀、銅爲之,分別給親王及五品以上官員,所以明貴賤,應徵召。 ○夏竦:(985—1051)字子喬,北宋大臣,古文字學家,初謚“文正”,後改謚“文莊”。夏竦以文學起家,曾為國史編修官,也曾任多地官員,宋真宗時為襄州知州,宋仁宗時為洪州知州,後任陜西經略、安撫、招討使等職。由於夏竦對文學的造詣很深,所以他的很多作品都流傳於後世。〔百度百科http://baike.baidu.com/view/143081.htm〕/『宋史』に傳あり。 ○奉:推崇、擁戴する。うやうやしく承る。 ○聖旨:帝王的意旨和命令。 ○撰:著述する。纂集する。

2011年10月27日木曜日

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 2 明堂 その2

訓讀『銅人腧穴鍼灸圖經』夏竦序

冒頭の「新刋補註……奉聖旨撰」の部分は金大定本より補った。官銜(官吏的頭銜。唐˙封演˙封氏聞見記˙卷五˙官銜:「官銜之官,蓋興近代,當是選曹補受,須存資歷,聞奏之時,先具舊官名品于前,次書擬官于後,使新舊相銜不斷,故曰官銜,亦曰頭銜。」)の部分には,『漢語大詞典』等から注を引用した。引用元に感謝申し上げます。
以下,【注釋】は基本的に段逸山主編『醫古文』第2版,高等中醫藥院校教學參考叢書,人民衛生出版社,2006年第2版收載の上編 四十、《銅人腧穴鍼灸圖經》序(錢超塵)による(一部,誤植を訂正したり,參考引用文を長くしたりしてあるが,一一注記は加えていない)。錢超塵先生に多謝申し上げます。また,その他の醫古文書籍等を參考にして補註拙譯を附した。
なお訓讀は,錢先生の注と現代語譯を大いに參考にしつつ,對句表現などを重視しておこなった。
入力は,中國盲人數字圖書館http://www.cdlvi.cn/dzts/content/2008-10/30/content_30153287.htm のデータを利用し,繁体字にコンバートしたため,誤字など一部修正し切れていない箇所があるかも知れない。

『銅人腧穴鍼灸圖經』夏竦序

【作者與作品】
作者夏竦,宋仁宗時翰林學士。《銅人腧穴鍼灸圖經》是我國宋代著名的針灸學家王惟一(又作王惟德)所撰。仁宗天聖四年(1026),翰林醫官王惟一奉詔,考氣穴經絡之會,辨針砭之法,總會諸說,訂正訛誤,編撰了《銅人腧穴鍼灸圖經》三卷,頒布天下。圖中繪有“正背左右人形,並主治之術”,列明了針灸經脈及孔穴的部位,論述了主治病證及針灸方法。與此同時,王氏又主持創鑄了兩座針灸銅人模型。“分藏府十二經,旁注腧穴所會,刻題其名”,以供針灸教學和考試醫師之用。王氏之針灸銅人及《圖經》,是一大創舉,對後世針灸學的發展,產生了深遠的影響。
【譯】
作者の夏竦は,宋仁宗時に翰林學士である。『銅人腧穴鍼灸圖經』は我が國宋代の著名な鍼灸學家である王惟一(また「王惟德」にもつくる)の撰する所である。仁宗の天聖四年(1026),翰林醫官王惟一は詔を奉じて,氣穴經絡の會を考え,鍼砭の法を辨じ,諸説を總會し,訛誤を訂正して,『銅人腧穴鍼灸圖經』三卷を編撰し,天下に頒布した。圖中の繪には「正背左右人形,並びに主治の術」があり,鍼灸の經脈および孔穴の部位が列(なら)べて明らかにされ,主治病證および鍼灸の方法が論述されている。これと同時に,王氏はまた二体の鍼灸銅人模型の鋳造を主導した。「藏府十二經を分け,旁らに腧穴の會する所に注ぎ,其の名を刻して題し」,鍼灸の教育學習と醫師の試驗用に提供された。王氏の鍼灸銅人および『圖經』は,一大創舉であり,後世の鍼灸學の發展に對して,深遠なる影響をあたえた。

『醫説』鍼灸 關聯史料集成 2 明堂 その1

●『醫説』鍼灸2 明堂
今醫家記鍼灸之穴、爲偶人、點誌其處、名明堂、按銅人兪穴圖序曰、昔黄帝問岐伯、以人經絡窮妙于血脉、參變乎陰陽、盡書其言、藏於金蘭之室、洎雷公請問、乃坐明堂、以授之後世、言明堂者以此、(並事物紀原)

關聯史料
宋 高承編撰『事物紀原』卷七:明堂
今醫家記鍼灸之穴、為偶人、點誌其處、名明堂、按銅人腧穴圖序曰、黄帝問岐伯、以人之經絡窮妙於血脈、參變乎隂陽、盡書其言、藏於金蘭之室、洎雷公請問、乃坐明堂、以授之、後世之言明堂者以此。

【訓讀】
今の醫家 鍼灸の穴を記すに、偶人を為(つく)って、其の處を點誌し、明堂と名づく。按ずるに『銅人腧穴圖』の序に曰く:「黄帝 岐伯に問うに、人の經絡を以てし、妙を血脈に窮め、變を隂陽に參(まじ)え、盡く其の言を書して、金蘭の室に藏す。雷公の請い問うに洎(およ)んでは、乃ち明堂に坐して、以て之を授く。後世の明堂と言う者は、此を以てなり」と。

2011年10月25日火曜日

張杲『醫説』鍼灸 關聯史料集成

『醫説』は基本的に四庫全書本による。引用されている原典がある場合は、それを揭載する。その他、關聯すると思われる史料があれば揭載する。簡体字のネットデータを繁体字に變換したり、また手で入力したりするので、「黄」「黃」「為」「爲」など混在した表記となろう。

●『醫説』鍼灸1 鍼灸之始
帝王世紀曰、太昊畫八卦、以類萬物之情、六氣六腑、五臟五行、陰陽四時、水火升降、得以有象、百病之理、得以有類、乃制九鍼、又曰、黄帝命雷公岐伯、教制九鍼、蓋鍼灸之始也、

關聯史料
宋 高承編撰『事物紀原』卷七:九鍼
帝王世紀曰、太昊畫八卦、以類萬物之情、六氣六府、五藏五行、隂陽四時、水火升降、得以有象、百物之理、得以有類、乃制九鍼、又曰、黄帝命雷公岐伯、教制九鍼、蓋鍼灸之始也、

【訓讀】
帝王世紀に曰く:太昊 八卦を畫して、以て萬物の情を類す。六氣六府、五藏五行、隂陽四時、水火の升降、以て象有ることを得たり。百物の理、以て類有ることを得たり。乃ち九鍼を制す。又た曰く:黄帝 雷公と岐伯に命じて、九鍼を制せしむ。蓋し鍼灸の始めなり。

【補説】
『醫説』鍼灸のタイトルは、「鍼灸之始」といいながら、「灸」についての言及がない。『事物紀原』での原題は「九鍼」であることがわかり、この矛盾は解消される。張杲は鍼灸卷の最初のタイトルとして「鍼灸之始」を持ってきたかったのであろう。『事物紀原』(四庫本、和刻本とも)「百物」を『醫説』は「百病」につくる。

『太平御覽』卷第七百二十一 方術部二 醫一
帝王世紀曰、伏羲氏仰觀象於天、俯觀法於地、觀鳥獸之文、與地之宜、近取諸身、遠取諸物、於是造書契以代結繩之政、畫八卦以通神明之德、以類萬物之情、所以六氣六府、五藏五行、陰陽四時、水火升降、得以有象、百病之理、得以有類。乃嘗味百藥而制九針、以拯夭枉焉。
又曰、黃帝有熊氏命雷公歧伯論經脈傍通、問難八十一、爲難經、教制九針、著內外術經十八卷、

【訓讀】
帝王世紀に曰く:伏羲氏仰いでは象を天に觀、俯しては法を地に觀、鳥獸之文と地の宜とを觀、近くは諸(これ)を身に取り、遠くは諸を物に取る。是(ここ)に於いて書契を造り、以て結繩の政に代え、八卦を畫(えが)いて以て神明の德に通じ、以て萬物の情を類す。所以(ゆえ)に六氣六府、五藏五行、陰陽四時、水火升降、以て象有るを得、百病の理、以て類有るを得たり。乃ち百藥を嘗め味わい、而して九針を制(つく)り、以て夭枉を拯(すく)う。
又た曰く:黃帝有熊氏 雷公と歧伯に命じて、經脈傍通を論じ、問難すること八十一、難經を爲(つく)り、九針を制(つく)らしめ、內外術經十八卷を著す。

【補説】
こうしてみると、『事物紀原』は『帝王世紀』から鍼灸にかかわりない情報を取り除いていることがわかる。また『帝王世紀』では「問難」と言っていることから「難」を「むずかしい」ではなく、「質問」と解していたと推測できる。『難經』に關しては、

『事物紀原』卷七 難經
帝王世紀曰、黃帝命雷公岐伯論經脈旁通問難八十〔一章〕、為難經、楊元操難經序曰、黃帝八十一難經者、秦越人所作、按黃帝內經二秩、秩九卷、其義難究、越人乃採精要八十一章、為難經、

【訓讀】
帝王世紀に曰く:黃帝 雷公と岐伯に命じて經脈を論じ、旁ら問難を通ずること八十〔一章〕、『難經』を為(つく)る。楊元操『難經』序に曰く:黃帝八十一難經は、秦越人の作る所なり。按ずるに『黃帝內經』二秩、秩ごとに九卷、其の義究め難し。越人乃ち精要八十一章を採って、『難經』を為(つく)る。

【補説】
楊玄操は唐代のひとであるから、皇甫謐『帝王世紀』からの引用はその前までである。「楊玄操」の「玄」が「元」となっているのは、宋代の避諱による。楊玄操によれば、『難經』の「難」は「むずかしい」の意。「秩」は「帙」。

『集註難經』楊玄操序
按黃帝內經二帙、帙各九卷、而其義幽賾、殆難究覽、越人乃採摘英華、抄撮精要、二部經內凡八十一章、勒成卷軸、伸演其首、探微索隱、傳示後昆、名爲難經、

【訓讀】
按ずるに黃帝內經二帙、帙各おの九卷、而れども其の義幽賾〔深遠玄妙〕にして、殆ど究覽し難し。越人乃ち英華を採摘し、精要を抄撮す。二部經の內 凡(すべ)て八十一章、勒(寫)して卷軸を成し、其の首に伸演するに、微(かく)れたるを探り隱(かく)れたるを索(もと)めて、後昆(後代の子孫)に傳示す。名づけて難經と爲す。

2011年10月23日日曜日

東洋文庫ミュージアム

東洋文庫
http://www.toyo-bunko.or.jp/museum/
ミュージアム開館ということで,
http://www.toyo-bunko.or.jp/tirashi/110825A4.pdf
行きました。
展示されている国宝『史記』(巻物)に用いられているヲコト点は,岩井先生が日本内経医学会日曜講座中級で読んでいる古鈔本『重広補注釈文黄帝内経素問』と同じ系統,博士家点(紀伝点・明経〔みょうぎょう〕点)でした。

モリソン書庫の2万4千冊の本を下から仰ぎ見て,いろいろ複雑な感慨がわいてきました。
http://www.toyo-bunko.or.jp/museum/facility.html#syokai3

入場料は一般880円。

2011年10月2日日曜日

『黄帝内経太素』影写本 25冊

東京古典会創立100周年記念 和本シンポジウムに出かけてきました。
そこで,東京古典会創立100周年記念 古典籍展観大入札会 出品物プレビュー
として,展示してあった『黄帝内経太素』影写本をガラス越しですが,見ました。
だいぶ前に杏雨書屋で拝見した本物より,はるかに高さがある印象です。
巻物を冊子にしたのですから当然かも知れませんが。
遠くから見ると,朝鮮版が置いてあるような雰囲気です。
影写本ですから,虫損のあとも,朱点も書き込まれています。

http://www.koten-kai.jp/catalog/information.php?siID=23

関心がある方は,2011年11月11日(金) 10:00~18:00
入札するしないにかかわらず,手にとって見ることができます。

他に医学関連ですと,福井崇蘭館旧蔵『傷寒活人書括』などがあります。