2022年12月8日木曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その6

参考文献


[1]黄帝内经素问[M]. 明顾从德刊本影印本. 北京:人民卫生出版社,1956.

[2]程士德. 内经:第2版[M]. 北京人民卫生出版社,2006.

[3]许慎,等. 汉小学四种:下册:[M]. 成都:巴蜀书社,2001:1553.

[4]皇甫谧. 针灸甲乙经[M]. 周琦,校注,北京:中国医药科技出版社,2019(第2版).

[5]梁繁荣,王毅.揭秘敝昔遗书与漆人一一老官山汉墓医学文物文献初识[M]. 成都:四川科学技术出版社,2016.

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[7]李景荣,苏礼,任娟莉,等. 备急千金要方校释[M]. 北京:人民卫生出版社,2014:1069.

[8]张从正. 子和医集[M]. 邓铁涛,等编校. 北京:人民卫生出版社,1994:87.

[9]皇甫中. 明医指掌[M]. 北京:人民卫生出版社,1982:170.

[10]余云岫. 古代疾病名候疏义[M]. 北京:学苑出版社,2012:239.

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[13]柳长华,顾漫,周琦,等. 四川成都天回汉墓医简的命名与学术源流考[J]. 文物,2017(12),58-69.

[14]司马迁. 史记[M]. 北京:中华局、1982.

[15]黄怀信. 鹖冠子校注[M]. 北京:中华书局,2014:323.

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[18]裘锡圭. 长沙马工堆汉墓简帛集成[M](陆). 北京:中华书局,2014:11.

[19]张家山二四七号汉墓竹简整理小组. 张家山汉墓竹简〔二四七号墓〕[M] 释文修订本. 北京:文物出版社,2006.

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[21]郭霭春.黄帝内经灵枢校注语译[M]. 天津:天津科学技术出版社,1999:484.

[22]黄龙祥. 中国古典针灸学大纲[M]. 北京:人民卫生出版社,2019:259-261. 

    〔訳注:260頁:「去瓜」は「五節」の一つである。㿗疝の特徴は「囊腫 瓜の如し」である。すなわちいわゆる「形 匿す可からず,常(裳) 蔽うことを得ず」であり,鈹鍼を使用して水腫を瀉して解消する。「故に命(な)づけて去瓜と曰う」。〕

[23]何宁. 淮南子集释[M]. 北京:中华书局,1998:756-757.

[24]森立之. 神农本草经[M]. 北京:北京科学技术出版社,2016:66.

[25]顾漫,周琦,柳长华. 天回汉墓医简中的刺法[J]. 中国针灸,2018,38(10):1073-1079.

[26]丁光迪. 诸病源候论校注[M]. 北京:人民卫生出版社,2013:605.

[27]段玉裁. 说文解字注[M]. 上海:上海古籍出版社,1981:349.

[28]黄龙祥. 老官山出土西汉针灸木人考[J]. 中华医史杂志,2017,47(3):131-144.

[29]裘锡圭. 老了今研[M]. 上海:中西书局,2021.

[30]钱超尘. 《成都天回汉墓竹简》可正《内经》《伤寒》文字之失[J]. 中医文献杂志,2020,38(1):1-2.

[31]朱鹏举. 浅淡出土古文献材料在研读《黄帝内经》中的重要价值[J]. 中医教育,2018、37(2):78-80.

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おまけ:

重磅!老官山汉墓出土罕见经络漆人以及神医扁鹊失传2000多年的医典《成都老官山汉墓》(下)| 中华国宝

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《天回医简》扁鹊医学辨治体系(老官山汉墓医简)

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成都挖出扁鵲墓,失傳千年的上古扁鵲醫書重見天日?

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2022年12月6日火曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その5

 五則:馬刀

『霊枢』癰疽(81):

發於腋下,赤堅者,名曰米疽。治之以砭石,欲細而長,疏砭之,塗以豕膏,六日已,勿裹之。其癰堅而不潰者,為馬刀挾癭,急治之〔腋の下に發して,赤く堅き者は,名づけて米疽と曰う。之を治するに砭石を以てし,細くして長からんことを欲す。疏(まば)らに之を砭す。塗るに豕の膏(あぶら)を以てし,六日にして已(や)む。之を裹(つつ)むこと勿かれ。其の癰の堅くして潰(つぶ)れざる者は,馬刀挾癭と為す。急(すみ)やかに之を治せ〕[11]135。


 馬刀:『内経』の教師用参考書は,「俠癭」と一つにして解釈し,「病名。瘰癧の類に属す。常に連なって出現し,堅い。其の形が長いものを馬刀という。耳の下と頸項に生じて,欠盆から腋の下まで続いたり,あるいは肩の上に生じて下ったりする」[2]462と注釈している。この注は,諸説を取り合わせようと努力して,かえって意味不明なものになってしまっている。『霊枢』の原文にしたがえば,この病はすでに「腋の下に発する」と分類されていて,「其の癰 堅くして潰(つぶ)れざる者」は,「赤く堅き者」と対になって挙げられていることは明白である。したがって「馬刀」は部位を言っているのであって,腋の下にある癰疽の名に属するとすべきである。これは『諸病源候論』〔巻32・癰疽病〕疽候によっても裏付けられる。「發於掖下,赤堅者,名曰米疽也;堅而不潰者,為馬刀也〔掖(わき)の下に發して,赤く堅き者は,名づけて米疽と曰うなり。堅くして潰れざる者は,馬刀と為すなり〕」[26]。


 『霊枢』経脈(10)に「膽足少陽之脈,……是主骨所生病者……腋下腫,馬刀俠癭」とある。「馬刀」は足少陽脈の「所生病」に属する。かつまた『甲乙経』に収録された「馬刀」を治療する穴の多くは,足臨泣・陽輔・淵腋・章門などの足少陽の穴を取り,その発病部位が足少陽脈がめぐるルート上にあることがわかる。また『甲乙経』巻八・五藏傳病發寒熱第一下で引用される『明堂』の三つの条文で,「腋下腫」が「馬刀瘻」と一緒に挙げられている[4]271-272。これもその部位が腋の下に近いことを示している。「馬刀」と並んで見えるものには「馬瘍」という病名もある。『甲乙経』巻三・腋脇下凡八穴第十八に引用される『明堂』に「淵腋,在腋下三寸宛宛中,舉臂取之,刺入三分,不可灸,灸之不幸,生腫蝕馬刀傷,內潰者死,寒熱生馬瘍可治〔淵腋は,腋の下三寸宛宛たる中に在り,臂を舉げて之を取る。刺入すること三分,灸す可からず。之を灸すれば幸いあらず,腫蝕馬刀を生じて傷(やぶ)れ,內に潰(つぶ)るる者は死す。寒熱して馬瘍を生ずれば治す可し〕」とあり,注文で『素問』気穴論(58)の淵腋〔淵掖〕穴の注「足少陽脈氣所發〔足少陽脈氣 發する所〕」[4]106を示している。これは馬刀と馬瘍の発病部位が淵腋穴周辺の腋下部に位置することを示している。そして同時に淵腋穴は馬刀を治療する主穴である。『甲乙経』巻九の第四に「胸滿馬刀,臂不得舉,淵腋主之〔胸滿馬刀,臂 舉ぐること得ざるは,淵腋 之を主る〕」[4]295とあり,巻十一の第九下に「馬刀腫瘻,淵腋・章門・支溝主之」[4]353とある。


 出土医書では,以下のものに「馬」という病名があらわれる。『足臂十一脈灸経』7-8:「足少陽脈……其病……脇痛,□痛,產馬」[17]189。『脈書』簡四:「在夜(腋)下,為馬」[19]115。天回医簡では「𦟐」あるいは「㾺」と書かれている。天回医簡303に「少陽產瘻產㾺,脇外穜(腫)」,簡594に「(足少陽脈)腋𦟐痛」(図3)とある。


図3 天回医簡 簡303と594〔省略〕


その発病部位が腋の下であること,および少陽脈の所産病に属するなどの記述から,われわれはそれを『霊枢』『甲乙経』に見られる「馬刀」と結びつけることは容易である。すなわち,「馬」と「馬刀」は同じものを指しており,癰疽の形状を描写しているのではないことは明らかである。天回医簡の文字をみれば,「𦟐」は肉(月)部に従っていて,人体のある部位を指すとするべきである。「㾺」は病部に従っているので,これはこの部位と関連する病の名前である。『説文解字』病部に「㾺,目病。一曰惡氣箸身也。一曰蝕創〔㾺は,目の病。一に曰わく,惡氣 身に箸(つ)くなり,と。一に曰わく,蝕(くさ)れ創(かさ),と〕」[27]とある。「目の病」という意味は,明らかにこれとは合致しない。『五十二病方』の目録に「治㾺」があり,その治方に「㾺者,癕痛而潰〔㾺なる者は,癕(=癰)痛みて潰(つぶ)る〕」[17]297とある。これも癰疽に類する疾病であり,『霊枢』と同じで,『説文解字』にいう「蝕創」の意味に近い。天回の漆塗り経脈人形の銘文にも「腋淵」(筆者は,もともとの字形は「夾淵」に作ると考えている)という名称があらわれ,腋の下の部位にしるされていて,『霊枢』『明堂』がいう「淵腋」に相当する[27]。


 以上の文献の整理を通して,われわれは『霊枢』の癰疽篇と経脈篇に見える「馬刀」という病名は,出土医書に見える「馬」病に由来する可能性が高いと考える。逆に伝世医籍にある関連記述も,出土医書にあらわれる「𦟐」「㾺」などの字を考証して解釈する助けとなる。その病の特徴は,発病部位が腋の下であり,足少陽脈がめぐるところであり,癰疽の病証に属し,治療に常用されるのはそこに近い淵腋穴である。したがって頸項部に発症する瘰癧とは異なる病であるので,混同してはならない。


 裘錫圭先生は次のように指摘している。「出土文献は古書の真偽と時代,古書の体例およびその源とその発展,古書の校勘と解読などの古典学の問題を研究する上で,極めて際立った重要な役割を発揮することができる」[29]19。さらに「中国古典学の再建」を展望して,「大量の出土文献が発見され,その整理と研究は,中国古典学の再建に前例のない好条件をもたらした。古典学研究と密接に関連する出土文献は将来もひきつづきあらわれるだろうし,すでに発表された出土文献には新たに整理し,研究を続ける必要があるものがある」[29]24という。天回医簡は,新たに発掘された早期の医学文献として,中国医学経典を校読〔校勘解読〕する上で,伝世文献では代えがたい重要なはたらきを果たすことができ,すでに学界の注目を集め議論を引き起こしている。


2022年12月5日月曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その4

 四則:去爪


『霊枢』刺節真邪(75):

黃帝曰:刺節言去爪,夫子乃言刺關節肢絡,願卒聞之。岐伯曰:腰脊者,身之大關節也;肢(股)脛者,人之管(所)以趨翔也;莖垂者,身中之機,陰精之候,津液之道也。故飲食不節,喜怒不時,津液內溢,乃下留於睾,血(水)道不通,日大不休,俛仰不便,趨翔不能。此病榮(滎)然有水,不上不下,鈹石所取,形不可匿,常不得蔽,故命曰去爪。帝曰:善〔黃帝曰わく,「刺節に去爪〔水を去る〕と言う。夫子は乃ち關節の肢絡を刺すと言う。願わくは卒〔詳〕らかに之を聞かん」。岐伯曰わく,「腰脊は,身の大關節なり。股脛は,人の趨翔する所以(ゆえん)なり。莖垂は,身中の機,陰精の候,津液の道なり。故に飲食 節ならず,喜怒 時ならざれば,津液 內に溢れ,乃ち下(くだ)って睾に留まり,水道 通ぜず,日々に大きくなりて休(や)まず,俛仰 便ならず,趨翔すること能わず。此の病 滎然として水有り,上(のぼ)らず下(くだ)らず,鈹か石の取る所,形 匿(かく)す可からず,常(もすそ)蔽(おお)うことを得ず,故に命(な)づけて去爪〔水を去る〕と曰う」。帝曰わく,「善し」/郭靄春の語訳に基本的にしたがい,著者の説明に合わせて訓読した〕。[21]487


 爪:『甲乙経』巻九・足厥陰脈動喜怒不時發㿗疝遺溺癃第十一は,「衣」に作る[4]309。『太素』〔巻22〕五節刺の楊上善注は,「或水字錯為爪字耳〔或いは「水」字を錯(あやま)って「爪」字と為すのみ〕」[16]705という。郭靄春先生は楊注に賛同する[21]484。黄龍祥先生は「去爪」は「去瓜」に作るべきだと考えている[22]。按ずるに,「爪」と「衣」はともに形が近いので「水」字を書き誤ったのであり,楊上善の説に従うべきである。後の文に詳しいように,「去爪」が刺す病において,水が滞留するのは腰脊・股脛・茎垂〔陰茎と睾丸〕のところであり,「水道が通じなくなり,日ましに大きくなり休(と)まらず」,身体の腫れが大きくなって,いつも着ている衣服では体に合わなくなる。これが「裳不得蔽〔裳(も) 蔽(おお)うことを得ず〕」である(『霊枢』の原文は「常」字に誤る。『甲乙経』に従って「裳」字に作るべきである)。

 〔訳注:上半身を覆うころもを「衣」といい,下半身を覆うころもを「裳」という。『説文解字』に「常,下帬(=裙=スカート)也」とあり,「裳」字は未掲載である。「常」は誤字とするのではなく,郭靄春が引用する恵棟『読説文記』にあるように,「裳」の古字とするべきであろう。〕

そのため,このような治法を「去水」というのである。このような呼称は,漢代では決してまれなものではない。たとえば,『淮南子』繆稱訓に「大戟去水,亭曆愈張,用之不節,乃反為病〔大戟(薬草名)は水を去り,亭曆(薬草名)は張れを愈せども,之を用いること節ならざれば,乃ち反(かえ)って病を為す〕」[23]とある。峻下逐水〔峻烈な瀉水作用〕を代表する別の薬である芫花の『本経』における別名は,「去水」である[24]。天回医簡『刺数』に「㓨(刺)水,〓4〔艸+咸〕(針)大如履〓4〔艸+咸〕(針),囗三寸〔水を刺す,箴(はり)の大いさ履箴の如し,囗三寸〕」(簡653)[25]とある。その中の「水」の字形は〓5〔画像〕に作り,やや劣化して読みづらいが,「衣」「爪」字の古隸ときわめて混淆しやすい。それに使用する鍼具もかなり大きく,『霊枢』にある「大鍼」に相当する。『霊枢』九針十二原(01)に「大針者,尖如梃,其鋒微員,以寫機關之水也〔大針なる者は,尖(さき)は梃(つえ)の如く,其の鋒(ほこさき)は微(かす)かに員(まる)し,以て機關の水を寫するなり〕」[11]6とある。まぎれもなく「去水〔水を去る〕」に用いるものである。そして『霊枢』刺節真邪篇の「去水」が対象としているのは,「腰脊」「股脛」などの関節の肢絡〔四肢の絡脈〕と「身中の機」と称される「茎垂」であり,まさに大鍼が主治する「機関の水」である。したがって『刺数』にある古い刺法の一つである「刺水」は,「五節刺」〔『霊枢』刺節真邪「刺有五節」。また『太素』の篇名〕中の「去水」の濫觴とするべきであり,刺節真邪篇の「去爪」は「去水」を伝承過程で書き誤ったものとする証拠ともなる。


2022年12月3日土曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その3

 三則:快然


〔図1:天回医簡 簡421「後與氣則律然」あり。省略す。〕


 『霊枢』経脈(10):

脾足太陰之脈,……是動則病舌本強,食則嘔,胃脘痛,腹脹善噫,得後與氣則快然如衰,身體皆重〔是れ動ずれば則ち病み舌本 強(こわ)ばり,食らえば則ち嘔(は)き,胃脘 痛み,腹 脹(ふく)れ善く噫(おくび)し,後と氣とを得れば則ち快然として衰うるが如し,身體 皆な重し〕[11]31。


 「得與氣則快然如衰」:『太素』の楊上善注:「穀入胃已,其氣上為營衛及膻中氣,後有下行與糟粕俱下者,名曰餘氣。餘氣不與糟粕俱下,壅而為脹,今得之泄之,故快然腹減也〔穀 胃に入り已(お)わり,其の氣上(のぼ)って營衛及び膻中の氣と為り,後に下行して糟粕と俱に下る者有り,名づけて餘氣と曰う。餘氣 糟粕と俱に下(くだ)らざれば,壅(ふさ)がって脹と為る。今 之を得て之を泄らす。故に快然として腹 減ずるなり〕」[16]190 。


 「快然如衰」:馬王堆帛書『陰陽十一脈灸経』甲本21は「怢然衰」[17]200に作る。乙本20は「逢然衰」[18]に作る。張家山竹簡『脈書』簡三四は「怢然衰」の三字が残欠していて,帛書の甲本から補う[19]121。


 『長沙馬王堆漢墓簡帛集成』の注釈:

    魏啓鵬・胡翔驊(1992:29):怢は「佚」「逸」に通じ,安逸,心地よい。いま按ずるに,「逢」と「怢」は書き方がまったく異なる。形の構成から見れば,「怢」字は,「心」に従い「失」の声である。戦国の楚の文字では通常「失」字は,〓1〔辶+方+𠂉+羊〕と書かれ,あるいは隸定〔隸書の字形〕では〓2〔辶+止+羊〕となり,……「逸」と「失」は「失」の声に従い,往々にして通仮し……「逢」字は秦漢の文字では〓3〔辶+夂+羊〕とも書かれ,「羊」が誤って「丰」の形に変わる。帛書乙本の「逢」は〓1〔辶+方+𠂉+羊〕(〓2〔辶+止+羊〕)の形が誤ったものにちがいないことがわかる。そして『霊枢』経脈などの医籍に見える甲本の「怢」に相当するところにある「快」はあきらかに「怢」字の形が誤ったものである[17]200。


 馬王堆簡帛には楚文字のなごりが多く残されており,主に楚系の写本の影響を受けているとの指摘がすでにある[20]。馬王堆帛書乙本を書いた人は,おそらく〓2〔辶+止+羊〕字の楚文字の形をあまりわかっていなかったため,字形の近い「逢」に誤って書いたのだろう。天回医簡『脈書』下経は「快然」を「律然」に作る(簡421,図1)。見たところ,〓1〔辶+方+𠂉+羊〕(〓2〔辶+止+羊〕)から来た字形の誤りは,帛書乙本が「逢」字に作る情況と似ている。この字形の違いから,われわれはこのいくつかの経脈文献が異なる伝承に由来し,底本には異なる文字が書いてあったと推測できる。帛書乙本と天回医簡はともに戦国文字で書かれた底本を写したものであるが,『霊枢』経脈篇が基づいた底本は帛書甲本に近い秦漢文字に転写された写本である(その字形の変遷関係は図2を参照)。


 図2 字形字形の変遷関係表


〓1(〓2) →字形を誤る→逢(秦漢の際・馬王堆『陰陽』乙本)

 (戦国) →字形を誤る→律(西漢初・天回医簡『脈書』下経)

      →通仮字→怢(秦漢の際・馬王堆『陰陽』甲本)→字形を誤る→快(伝世医籍『霊枢』)


2022年12月2日金曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その2

 二則:不表不裏,其形不久 


 『霊枢』寿夭剛柔(06):

病有形而不痛者,陽之類也;無形而痛者,陰之類也。無形而痛者,其陽完而陰傷之也,急治其陰,無攻其陽;有形而不痛者,其陰完而陽傷之也,急治其陽,無攻其陰。陰陽俱動,乍有形,乍無形,加以煩心,命曰陰勝其陽,此謂不表不裏,其形不久〔病 形有って痛まざる者は,陽の類なり。形無くして痛む者は,陰の類なり。形無くして痛む者は,其の陽 完(まつた)くして陰 之を傷(やぶ)るなり。急(すみ)やかに其の陰を治し,其の陽を攻むること無かれ。形有って痛まざる者は,其の陰 完(まつた)くして陽 之を傷るなり。急(すみ)やかに其の陽を治し,其の陰を攻むること無かれ。陰陽 俱に動ずれば,乍(たちま)ち形有り,乍(たちま)ち形無く,加うるに煩心を以てし,命(なづ)けて陰 其の陽に勝つ,と曰い,此れを表ならず裏ならず,其の形 久しからず,と謂う〕[11]20。


 「此謂不表不裏,其形不久」。馬蒔の注:「病有陰陽俱病,形似有無而心為之煩,此乃陰經陽經各受其傷,而陰為尤甚,欲治其表,陰亦為病,欲治其裏,陽亦為病,治之固難,形當不久矣〔病に陰陽 俱に病む有り,形 有無に似て心 之が煩を為す,此れ乃ち陰經・陽經 各々其の傷を受くるも,陰 尤も甚だしと為す。其の表を治せんと欲するも,陰も亦た病を為し,其の裏を治せんと欲するも,陽も亦た病を為す。之を治すること固(まこと)に難く,形 當に久しからざるべし〕」[12]。


 天回医簡『逆順五色脈蔵験精神』の「病不表,不【可以鑱】石。病不裹〈裏〉,不可以每(毒)藥。不表不【裏者】,〈死〉 〼〔病 表ならざれば,鑱石を以てす可からず,病 裏ならざれば,毒藥を以てす可からず。表ならず裏ならざる者は,〈死〉〼〕」(簡707)[13]は,「不表不裏」を死証とみなした古い証拠を提供してくれた。『素問』移精変気論(13)は祝由を論じて,「今世治病,毒藥治其內,鍼石治其外,或愈或不愈,何也……故毒藥不能治其內,鍼石不能治其外,故可移精祝由而已〔今の世の治病は,毒藥 其の內を治し,鍼石 其の外を治す。或いは愈え或いは愈ざるは,何ゆえか……故に毒藥は其の內を治すこと能わず,鍼石は其の外を治すこと能わず。故に精を移し由を祝す可きのみ〕」[1]31-32とある。『素間』湯液醪醴論(14)には,「當今之世,必齊毒藥攻其中,鑱石鍼艾治其外也〔今の世に當たっては,必齊・毒藥もて其の中を攻め,鑱石・鍼艾もて其の外を治するなり〕」[1]33とある。ともに「鑱石」(あるいは鍼石)と「毒薬」が対になって文ができていて,天回医簡の文と意味は同じであり,当時の医家の治療法として一般的な方法であった。また『素問』奇病論(47)にある「所謂無損不足者,身羸瘦,無用鑱石也〔謂う所の不足を損すること無かれとは,身 羸瘦するは,鑱石を用いること無かれとなり〕」[1]94は,『史記』で倉公が述べている「尸奪者,形弊;形弊者,不當關灸鑱石及飲毒藥也〔尸奪する者は,形弊(つか)る。形弊(つか)るる者は,當に灸鑱石及び毒藥を飲ましむるに關すべからざるなり〕」[14]2802と一致する。また『史記』倉公伝において,倉公は「論曰:陽疾處內,陰形應外者,不加悍藥及鑱石〔論に曰わく,「陽疾 內に處(お)り,陰形 外に應ずる者は,悍藥及び鑱石を加えず」と〕」[14]2811という。「悍薬」と「毒薬」とは同じ意味である。「論に曰わく」の文例によれば,これはまさに倉公が扁鵲の医論を援用しているにちがいない。『鶡冠子』世賢に「若扁鵲者,鑱血脈,投毒藥,副肌膚閒,而名出聞於諸侯〔扁鵲の若き者は,血脈を鑱し,毒藥を投じ,肌膚の閒を副し,而して名 出でて諸侯に聞こゆ〕」とある。治療の方法としては,扁鵲が鑱石と毒薬の使用にたけ,当時の医学の主流を代表していて,当時の人はみなこのことを熟知していたことがわかる。治療の原則としては,扁鵲は表裏を陰陽に分け,「鑱石」と「毒薬」という二種類の治療法を臨床に用いた。病が表にあり陽に属すれば,鑱石・鍼艾をもちいて攻め,病が裏にあり陰に属すれば,毒薬・湯液をもちいて達するようにした。もしその病が表でもなく裏でもない場合は,これを攻めても可ならず,これに達しても及ばず,治療方法はないので,死証である〔著者は,「病 膏肓に入る」の出典「在肓之上,膏之下,攻之不可,達之不及,藥不至焉」を踏まえて記述していると思われる〕。『霊枢』寿夭剛柔や『素問』奇病論などの篇にみえる「不表不裏」に関する論述が発掘された医経で裏付けられ,今本『黄帝内経』が扁鵲医経の理念を継承していることが明らかにされた。


2022年12月1日木曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その1

 一則:疹筋


  『素問』奇病論(47):

    帝曰:人有尺脈數甚,筋急而見,此為何病?岐伯曰:此所謂疹筋,是人腹必急,白色黑色見,則病甚〔帝曰わく:「人に尺脈數なること甚だしく,筋急(ひきつ)れて見(あら)わるること有り。此れを何の病と為す?」岐伯曰わく:「此れ所謂(いわゆる)疹筋なり,是の人の腹 必ず急(ひきつ)れて,白色黑色見(あら)わるれば,則ち病甚だし」〕[1]94。


  疹筋:『内経』の教師用参考書には「疹は,病なり。疹筋は,筋の病変」と注釈があり,張介賓『類経』の注:「疹筋者、病在筋也」[2]439を根拠としている。『釈名』釈疾病には,「疹,診也,有結聚可得診見也〔疹は,診なり,結聚有って診見を得る可し〕」[3]とある。『釈名』の訓によれば,「疹筋」を「筋有結聚〔筋に結聚有り〕」と解釈できそうで,単に「筋の病」と解釈するよりも経義に合っている。しかし『釈名』がここで解釈している「結聚」は,『史記』扁鵲倉公列伝にある「以此視病,盡見五藏癥結〔此れを以て病を視るに,盡(ことごと)く五藏の癥結を見る〕」の「癥結」と同じ意味である〔訳注:「癥結」には比喩として病根,問題の原因という意味もある〕。つまり具体的な形を持っていた病がしだいに抽象化,一般化されて「疾病」概念そのものの比喩となったものである。これは後世の注家が「疹」をそのまま「病也」と訓じた理由でもある。


 「疹筋」を『甲乙経』巻4「病形脈胗」第2上は「狐筋」[4]152に作る。「狐」と「疹」の古い字形は容易に混同が起こりやすい〔http://www.sfds.cn/,http://sf.zdic.net/などで古い字形を参照〕が,この異文については,『内経』の注釈者には重視されていない。天回医簡『脈書』下経には「孤」という病名が登場し,しかも疾病の大分類として記述され,関連する医簡は12本[5]183,186あり,その重要性が十分見てとれる。あわせて「直狐,堅,直少腹」[5]187(簡384)と「孤之陽癉……腹、少腹盡痛,倀(脹)而陰筋痛」(簡616)という症状の描写もあり,狐病の症状は少腹部と腹部の硬満〔脹満して硬く緊張している〕疼痛を主とすることを示し,奇病論に見える「疹筋」が腹部の緊張および拘急症状をあらわすのと対応している。


 「狐」を病名とするものは,『金匱要略』趺蹶手指臂腫轉筋陰狐疝蚘蟲病證治第19に見え,つぎのようにいう。「陰狐疝氣者,偏有小大,時時上下,蜘蛛散主之〔陰狐疝氣なる者は,偏(かたよ)って小大有り,時時上下す。蜘蛛散 之を主る〕」[6]。『千金要方』巻31・鍼灸下の「孔穴主対法」〔㿗疝〕の商丘穴の主治に「狐疝走上下引小腹痛,不可以俛仰〔狐疝は上下に走って小腹に引きつれ痛み,以て俛仰(=俯仰)す可からず〕」[7]とある。『儒門事親』巻2の「疝本肝經宜通勿塞狀19」は,寒疝・水疝・筋疝・血疝・気疝・狐疝・㿗疝という「七つの疝」の名前を立て,狐疝の証候をつぎのように詳述している。「狐疝,其狀如瓦,臥則入小腹,行立則出小腹入囊中。狐則晝出穴而溺,夜則入穴而不溺。此疝出入,上下往來,正與狐相類也〔狐疝は,其の狀 瓦の如く,臥せば則ち小腹に入り,行き立てば則ち小腹を出でて囊中に入る。狐は則ち晝(ひる)に穴を出でて溺(ニョウ)し,夜は則ち穴に入って溺せず。此の疝の出入,上下往來すること,正に狐と相い類するなり〕」[8]。『明医指掌』巻6にある「疝証8」の歌に「寒水㿗血氣孤筋,先哲空留七疝名。蓋是肝經原有熱,外邊卻被濕實侵〔寒・水・㿗・血・氣・孤・筋,先哲空しく留む七疝の名。蓋し是れ肝經原(もと)より熱有り,外邊卻(かえ)って被る濕實の侵〕」[9]とある。余雲岫は「疝病の名は,古今で趣を異にする」[10]とすでに指摘しているが,天回医簡の『脈書』下経にある諸病の名や症状の記述からも,これを証明することができる。その中で「疝病」の多くは心腹痛証を指している。これに対して,「狐病」は体腔に突起物があって時々あらわれたり隠れたりして,少腹と陰筋の疼痛,排尿障害などの症状を伴い,現代の鼠径ヘルニアに似ている。鼠径ヘルニアに嵌頓が発生すると,激しい痛みがおこり,局部で疝の内容物が形成した塊に触れることができ,緊張して硬くなっていることが分かっている。これは,「筋急而見〔筋急(ひきつ)れて見(あら)わる〕」という形容とかなり一致する。これから『甲乙経』が「狐疝」に作るのは伝本に根拠があることがわかり,「狐疝」という病証の描写のように思えるが,一方,『素問』『太素』にある「疹筋」には,他の書にはほとんど照合できる証拠がないので,伝写の誤りである可能性が高い。