2010年11月30日火曜日

淂 徑

○淂:「得」の異体字。
○經:「徑」にも見えるが、文意から「經」とした。

下の『11-2 刺絡編』の【注釋】に触発されての話題だけれど、言いたいことは全然別なので、新たに項目をたてます。

得の彳は、仁和寺本『太素』でも、氵とそっくりなんです。氵には見えるけれど、第三筆を上から下へと書いていたみたいなんです。だから、これは彳であって、書き癖に過ぎないとして、ただちに「得」と解してもいいのではなかろうか。もっとも江戸時代の書物には、しっかりと「淂」の形に彫っているのも多いんです。『文語解』なんかもそうです。となると、やっぱり別の字形が成立していたと、考えるべきなのか。でも、そうすると異体字というより、誤字では……。でも、もとは誤字であっても……、と、まあ煮え切らないこと、です。
經の糸も、仁和寺本『太素』では、略して纟のように書かれることが多いんです。現代中国の簡体字みたいですね。さらに乡のように見えることもある。そうすると、彳と乡もそっくりでしょう。だからこれは「徑」にも見えるそうだけれど、書いた本人は「經」のつもりじゃないかと思います。

でもセンセイ

先日、久しぶりに日曜講座を聴講させてもらいました。
みなさん、随分とお行儀がいいんですね。
あとから聞いたら、首を傾げるようなことも、無いことも無いけれど、講座の進行を妨げるから控えている、ことも有るそうです。はあ、そうですか。
むかし、原塾のはじめのころ、聴講生の中に何人かは、しょっちゅう「でもセンセイ」というのがいました。島田先生や井上先生の講座ではとくにそうでしたね。なかでも、井上先生の講座が終わった後の酒席では、わたしが、そもそも疑問をうまく表現できずに、もどかしく「ダカラア」というのに、先生からはにやにやしながら「ダケドオ」と反されていました。井上先生は、少なくともわたしには、けっこう楽しそうにみえました。今の宮川さんにだって岩井さんにだって(今回、聴講したのはお二人の講座です)、そのくらいの余裕は有ると思う。

ダカラアとダケドオに因んで、私のGmailアドレスは、だから"雖然如此"(そうはいっても)です。

だからといって、わたしのいなかの読書会の参加者が不作法者というわけではありません。念の為。

2010年11月29日月曜日

11-2 刺絡編

11-2 刺絡編
    京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『刺絡編』(シ・六六三)
    オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』11所収

刺絡編序
夫醫之道好生之具周官
之守也經落骨髓隂陽表
裡賅而存焉箴石湯火所
施百藥八减之冝齊和之
淂不淂者豈有他哉猶慈
石取鐡於己取之而已矣拙
  一ウラ
者失理以瘉為劇以生為死
是則可恤也荻君子元以
醫著北陸移京師其家翁
世々受方為小兒醫々門多疾
屨滿戸外矣子元慨然自
許務廣業名其家嘗曰
吾不能如扁鵲受異人書
  二オモテ
顧惟神農黄帝歧伯伊
尹仲景之言具在即其人
已矣吾第從輪扁求之乃
胠篋徧讀諸書夜以繼日
既聞不學易無以知隂陽
則從博士家受易不學物
産無以辨藥石則從某處
  二ウラ
學物産聞某子甲善鍼砭
則就而受業某氏聞越
前奥良筑主吐法其術◆
郡則就受業良筑良筑
淂子元大驚請割荒知
以南聽子矣尋又聞和蘭
善刺絡則毎歳從和蘭入
  三オモテ
貢受刺絡和蘭西洋遠國
其言侏離其書旁行唯依
傳譯而譯者率進孰於我
竟不能得和蘭要領也辟
若以坤輿圖察四海相厺不
過毫氂而間獨數百里視
之若易行之甚難是子元
  三ウラ
所以盻々為急也廼識譯長
某氏某氏輙奉牛酒交驩
譯長手使口授以至進乎技
者數十條録而成編後之説
刺絡蓋自此始所謂窮河
源睹昆崙也哉子元益自
喜請淂鄙言取徴狂夫故
  四ウラ
余述其勤動以復荻君趣
刊行焉
明和庚寅夏四月
   伊勢高道昂譔

 【読み下し】
刺絡編序
夫れ醫の道は、生を好むの具、周官
の守りなり。經落、骨髓、陰陽、表
裡、賅(そなわ)りて存す。箴石湯火の
施す所、百藥八減の宜、齊和の
得ると得ざる者は、豈に他に有らんや。猶お慈
石の鐡を取るがごとく、己に於いて之を取るのみ。拙き
  一ウラ
者は理を失い、瘉を以て劇と為し、生を以て死と為す。
是れ則ち恤(うれ)うる可きなり。荻君子元、
醫を以て北陸に著(あらわ)れ、京師に移る。其の家翁は
世々に方を受け、小兒醫と為る。醫門に疾多く
屨(ふ)みて戸外に滿つ。子元、慨然として自
許して務めて業の名を廣む。其の家嘗て曰く、
吾れ扁鵲の如く異人の書を受くること能わず。
  二オモテ
顧(た)だ惟(おもんみ)るに、神農、黄帝、歧伯、伊
尹、仲景の言は、即ち其の人に具(つぶ)さに在る
已(の)み。吾れ第(た)だ輪扁に從い之を求むるのみ。乃ち
篋(はこ)を胠(あ)け、徧(あまね)く諸書を讀み、夜以て日に繼ぎ、
既に易を學ばざれば、以て陰陽を知ること無しと聞かば、
則ち博士家に從いて易を受く。物
産を學ばざれば以て藥石を辨ずること無くんば、則ち某處に從い
  二ウラ
物産を學ぶ。某子甲は鍼砭を善くすと聞かば、
則ち就きて業を某氏に受く。越
前の奥良筑、吐法を主り、其の術◆
郡なるを聞けば、則ち就きて業を良筑に受く。良筑は
子元を得て、大いに驚き、請割荒知
以南聽子矣。尋ぬるに又た和蘭
刺絡を善くすと聞けば、則ち毎歳、和蘭の入
  三オモテ
貢するに從い、刺絡を受く。和蘭は西洋の遠國にして、
其の言は侏離、其の書は旁行なり。唯だ
傳譯に依るのみ。而して譯者は率(おおむ)ね進孰す。我に於いて
竟に和蘭の要領を得ること能わざるなり。辟(たと)えば
坤輿圖を以て、四海を察するが若し。相去ること
毫氂に過ぎずして、間(へだ)つること獨り數百里のみ。之を視れば
易きが若くして、之を行うこと甚だ難し。是れ子元の
  三ウラ
盻々として急を為す所以(ゆえん)なり。廼ち譯長の
某氏を識る。某氏は輙ち牛酒を奉じて交驩す。
譯長は手使口授して、以て技を進むる
者(こと)數十條、録して編を成すに至る。後の
刺絡を説くは、蓋し此れ自り始む。謂う所の河の
源を窮めて昆崙を睹るかな。子元は益ます自ら
喜びて鄙言を得、徴を狂夫に取らんことを請う。故に
  四ウラ
余は其の勤動を述べ、以て荻君の
刊行に趣くに復す。
明和庚寅夏四月
   伊勢高道昂譔
※印形は白字で「高印/道昂」と「伯/起氏」。

  【注釋】
○好生:生命をいとおしむ。 ○具:準備。そなえ。才能。 ○周官:『書經』中の「周書」の篇名。『書經』周官序:「成王既黜、殷命滅淮夷、還歸在豐、作周官。」孔安國傳:「言周家設官分職用人之法。」ここでは、『周禮』(天官冢宰「醫師」)のことであろう。 ○經落骨髓隂陽表裡:『漢書』藝文志:「醫經者、原人血脈經落骨髓陰陽表裏、以起百病之本、死生之分、而用度箴石湯火所施、調百藥齊和之所宜.至齊之得、猶慈石取鐵、以物相使.拙者失理、以瘉為劇、以生為死」。經落:經絡。 ○賅而存焉:『莊子』齊物論:「百骸、九竅、六藏、賅而存焉」。 ○箴石:師古曰:「箴、所以刺病也.石謂砭石、即石箴也.古者攻病則有砭、今其術絕矣.箴音之林反.砭音彼廉反.」 ○八減之冝齊和:『史記』扁鵲倉公列傳:「乃使子豹為五分之熨、以八減之齊和煮之」。『索隱』:「五分之熨、八減之齊.案:言五分之熨者、謂熨之令溫暖之氣入五分也.八減之齊者、謂藥之齊和所減有八.並越人當時有此方也」。 ○淂:「得」の異体字。 ○慈石:磁石。 ○拙者:能力の劣る人。
  一ウラ
○瘉:師古曰:「瘉讀與愈同.愈、差也.」 ○劇:はげしくなる。 ○荻君子元:荻野元凱。生年:元文2.10.27(1737.11.19)。没年:文化3.4.20 1806.6.6)。江戸中期の医者。西洋の刺絡法を導入し実践した御典医。字は子原、左中、在中、号は台州。元凱は名。加賀国(石川県)金沢で生まれ、京都の奥村良筑 から古方派の医学を学んだ。明和1(1764)年良筑が主張する吐法を詳しく説明した『吐法編』を著す。6年後には山脇東門が唱導した西洋刺絡について書いた『刺絡篇』を発表し、医名を高めた。朝廷からも認められ、39歳のときに滝口詰所の役に任ぜられる。寛政6(1794)年皇子を診察し典薬大允に昇進した。4年後幕府から召されて医学館の教授となり、瘟疫論を講じたが、間もなく辞して帰京する。西洋医学をも採り入れようとする元凱は漢方医学しか容認しない医学館の教育に嫌気がさしたと思われる。再び朝廷に仕えて皇子の病気を診察し、その功で尚薬となった。文化2(1805)年河内守に任ぜられ、翌年京都で没した。人体解剖を率先して行い解剖史にも名を残しているが、解剖書は残していない。著書には他に『麻疹編』『瘟疫余論』がある。<参考文献>京都府医師会編『京都の医学史』、杉立義一『京の医史跡探訪』。(蔵方宏昌) 朝日日本歴史人物事典。 ○著:名を世に知られる。 ○北陸:若狭国から越後国までの範囲におよぶ。歴史的に古代の「越国」と呼ばれた地方を多く含む。 ○京師:京都。 ○家翁:一家の主。家長。 ○世々:代代。何代にもわたって。 ○醫門:医家。『莊子』人間世:「治國去之、亂國就之、醫門多疾」。 ○屨滿戸外:明・王世貞『弇州四部稿』卷八十三・文先生傳 :「戸外屨常滿」。清・李清馥『閩中理學淵源考』卷四十・韓伯循先生信同:「弟子請業者、戸外屨滿」。 ○慨然:深く感じ入るさま。気力をふるい起こすさま。 ○自許:自負、自信がある。 ○家:家人。 ○扁鵲受異人書:『史記』扁鵲倉公傳:「長桑君……悉取其禁方書盡與扁鵲。」。
  二オモテ
○神農:古代中国伝説上の帝王。製薬の創始者とされる。 ○黄帝:上古の帝王、軒轅氏。神農氏に取って代わって帝位に就く。 ○歧伯:黄帝の臣。医学に精通し、黄帝と医学を論じ、その内容が『黄帝内経』に掲載されているとされる。 ○伊尹:商(殷)初期の大臣。名は摯(し)。料理人として或る貴族に仕え、主人の娘が商の君主・子履(し・り、後の成湯、湯王)に嫁ぐ際に、その付き人として子履に仕える。そこでその才能を子履に認められ、商の国政に参与し重きを成すにいたる。『黃帝三部鍼灸甲乙經』序:「伊尹以亞聖之才、撰用神農本艸、以爲湯液。……仲景論廣伊尹湯液爲數十卷」。これにより、湯液は伊尹が創作したとの説あり。また王好古は『伊尹湯液仲景広為大法』(一二三四年成立)を著した。 ○仲景:張仲景。後漢の医家。名は機。『傷寒卒病論』を著す。 ○輪扁:経験がゆたかで、技術はすばらしいが、ことばでは言い表しがたいひとを形容する。『莊子』天道篇を参照。 ○胠篋:『莊子』胠篋:「將為胠篋探囊發匱之盜。」 ○夜以繼日:昼夜兼行。夜も昼のつづきをして休まないこと。『孟子』離婁下:「周公思兼三王、以施四事、其有不合者、仰而思之、夜以繼日。幸而得之、坐以待旦。」 ○易:『易經』。 ○隂陽:万物を生ずる二種類の元素。陰気と陽気。『易經』繫辭上:「陰陽不測之謂神。」 ○博士家:平安以降、大学寮などにおける博士の職を世襲した家柄。菅原・大江・清原・中原などの各家が有名。 ○物産:天然、人工の産物。動植物・鉱物も含めていう。 
  二ウラ
○某子:男子に対する敬称。 ○甲:某。名前を知らないひと、または故意に名前を隠すべきひと。 ○越前奥良筑:奥村良筑。 ○吐法:毒物、宿食、病邪などを吐き気をうながす薬を用いる方法。からだの上部に疾病がある場合に用いられる。 ○◆郡:◆は碩か、傾か。頁の左側不明。 ○請割荒知以南聽子矣:請いて荒を割いて知るに南するを以てし子に聽く?/『史記』扁鵲伝の「乃割皮解肌.訣脉結筋.搦髓腦.揲荒爪幕.」によるか?腹の底から?/「以南」は「南面して」?弟子として? ○和蘭:オランダ人。オランダ医学。 ○刺絡:絡脈、静脈を刺して血を出すことにより邪気を除く治療法。 ○入貢:外国の使節が貢ぎ物を幕府朝廷に献上すること。
  三オモテ
○西洋:ヨーロッパ。 ○侏離:蛮夷の言語の通じないこと形容。 ○旁行:横書き。 ○率:のべる? ○進孰:進熟。虚美の言を進める。『史記』大宛列傳:「而漢使者往既多、其少從率多進熟於天子」。 ○辟:「譬」に通ず。 ○坤輿圖:地図。『易經』説卦:「坤為地、為母……為大輿。」大地は万物を載せること輿の如し。故に大地を「坤輿」という。 ○四海:広く天下各所をいう。古代中国は周囲を海で囲まれていたと考えていたので、四方を「四海」という。 ○厺:「去」の異体字。 ○毫氂:毫釐。極めて小さい数。 ○獨:リズムを整えることばか? 
  三ウラ
○盻々:苦労しても休まないさま。 ○牛酒:牛肉と酒。昔、贈答や慰労の品をとして用いられた。 ○交驩:交歡。交わりを結んでともに楽しむ。 ○手使:手を使って。手振りで。 ○口授:口で伝授する。 ○窮河源睹昆崙:『史記』大宛列傳:「而漢使窮河源……名河所出山曰崑崙云。……太史公曰:『禹本紀』言河出崑崙。……窮河源、惡睹本紀所謂崑崙者乎」。黄河の源流にたどり着いて崑崙山(カラコルム)を見る。 ○鄙言:卑俗なことば。自分の話の謙遜語。序の筆者のことであろう。 ○徴:人を信服させる証拠。 ○狂夫:愚鈍なひと。序の筆者のことであろう。
  四ウラ
○勤動:勤労。苦労して力をつくすこと。 ○復:こたえる。 ○明和庚寅:明和七(一七七〇)年。 ○伊勢:いま三重県。 ○高道昂:高葛坡(陂)。1724-1776江戸時代中期の儒者。享保9年生まれ。大坂から下総葛飾にうつる。石島筑波にまなび、京都で講義した。晩年、姓を王とあらためた。安永5年8月8日死去。53歳。名は峻。字は伯起、維岳、道昂。通称は嘉右衛門、小左衛門。別号に伊斎。著作に「弇州尺牘国字解」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)/先祖は明代末に日本に来た中国人という。

  四ウラ
巖雄達者肥人也雄達其  倶師事吉雄子學
紅毛瘍醫術余聞其所傳紅毛刺絡事旁見其所筆
記畧洽經論惜哉斷錦屑玉未見一匹之美亦孰肻舎
諸遂演繹之作紅毛鍼書嗣後  就余學疾醫
事旦夕相見又聞其所傳間有小異同持以質之吉
雄子則出西書詳悉其事淄澠方分疑怚頓觧囙
採  之所勝裁新所聞較諸經説徵諸患者累稔
易稿又作刺絡編獨以為得經旨卷末顯効案若干
則以備考證古人云獨智難周如其不逮竢後識者
是歳明和庚寅仲春荻元凱再識

  【読み下し】
巖雄達は、肥の人なり。雄達、其れ  倶に吉雄子に師事し、
紅毛の瘍醫術を學ぶ。余は其の傳うる所の紅毛刺絡の事を聞き、旁ら其の筆
記する所を見る。略(ほ)ぼ經論を洽(あまね)くするも、惜しいかな、斷錦屑玉、未だ一匹の美を見ず、亦た孰(た)れか諸(これ)を舎(す)つるを肯(うべな)わん。
遂に之を演繹して、紅毛の鍼書を作る。嗣後  余に就きて疾醫の
事を學び、旦夕相い見(まみ)ゆ。又た其の傳うる所を聞き、間ま小しく異同有らば、持して以て之を吉
雄子に質(ただ)す。則ち西書を出だし、詳らかに其の事を悉(つく)し、淄澠方(まさ)に分かち、疑い怚(ほ)ぼ頓(とみ)に解す。因りて
之が勝る所を採り、新たに聞く所を裁き、諸(これ)を經説に較べ、諸を患者に徴す。稔(とし)を累ね
稿を易(か)え、又た刺絡編を作る。獨り以て經旨を得たりと為す。卷末に効案若干
則を顯(あら)わし、以て考證に備う。古人云う、獨智は周ね難し、と。如(も)し其れ逮(およ)ばざるは、後の識者を竢(ま)つ。
是の歳明和庚寅仲春、荻元凱再び識(しる)す

  【注釋】
○巖雄達: ○肥:肥前肥後。 ○雄達其:「其」字、読みに疑念あり。本文には三箇所二字分空白があるが、その意図未詳。尊敬とは無関係に思われる。 ○吉雄子:吉雄耕牛か。1724-1800江戸時代中期-後期のオランダ通詞、蘭方医。享保9年生まれ。代々オランダ通詞で、寛延元年大通詞にすすむ。またオランダ商館付医師から外科医学をまなび、吉雄流外科といわれる一派をおこす。前野良沢、杉田玄白らを指導し、「解体新書」に序文をよせた。寛政12年8月16日死去。77歳。肥前長崎出身。名は永章。通称は幸左衛門、幸作。訳書に「因液発備」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus) ○紅毛:紅毛人。江戸時代、オランダ人をよんだ語。ポルトガル人・スペイン人を南蛮人とよんだのに対していう。また、広く西洋人のこと。 ○瘍醫術:外科医術。 ○經:「徑」にも見えるが、文意から「經」とした。 ○斷錦屑玉:美しい絹織物の切れ端と砕かれた宝玉。 ○匹:絹織物を数える量詞。 ○孰:誰。何。 ○肻:「肯」の異体字。承知する。 ○舎:「捨」に通ず。 ○演繹:普遍的な原理をもって特殊な事象を推定する方法。 ○嗣後:これより以後。 ○旦夕:朝晩。 ○西書:西洋の書籍。 ○詳悉:詳細に知悉する。 ○淄澠:淄水と澠水。いま、ともに山東省を流れる。両河川の水の味は異なると伝えられ、混じると判別しがたいたとえに用いられた。 ○怚:「粗」の古字であろう。ほぼ。 ○頓:たちどころに。 ○觧:「解」の異体字。 ○囙:「因」の異体字。 ○採:採用する。 ○裁:判断する。 ○徴:検証する。証明する。 ○稔:年。 ○稿:原稿。 ○顯:表現する。 ○効案:効果のあった事案、カルテ。 ○則:段落などを数える量詞。 ○獨智難周:ひとりの智慧(知っていること)は周到であるのは難しい。「獨智」は「獨知」とも。仏典の列祖提綱縁起に見えるが、これが出典かどうか未詳。 ○逮:到達する。 ○竢:「俟」の異体字。 ○識者:見識ある者。 ○仲春:陰暦二月。 


昇平之世民飫德澤有餘於文恥學
歐蘇於醫賤慣李朱遡洄徃昔遵
循舊訓古道之盛今斯時為然吾
荻先生嘗嘆刺絡之喪世或不知也耑
據素靈旁考蠻法論次研尋作刺
絡編興疢疾於癈餘躋人暉春之
臺彼傚顰之徒不知刺有法度證有
ウラ
當否濫執鍼臨疾甚者有瞽者行之
何以辨形色豈不嘆乎然使人〃知
刺有法證有當而不能也適先生此
書成余受而讀之法明説確以範四
方使人鮮過則不仁政之一助乎哉
是所請先生以公于世也
陸奥 木恒德謹識

  【読み下し】
昇平の世、民は德澤の有餘なるに飫(あ)き、文に於いて
歐蘇を學ぶを恥じ、醫に於いて李朱に慣るるを賤しむ。徃昔に遡洄し、
舊訓古道の盛んなるに遵循し、今ま斯(こ)の時を然りと為す。吾が
荻先生は嘗(つね)に刺絡の世に喪われ、或いは知られざるを嘆くなり。耑(もつぱ)ら
素靈に據り、旁ら蠻法を考え、論次研尋して刺
絡編を作る。疢疾を癈餘より興(おこ)し、人を暉春の
臺に躋(のぼ)らす。彼の顰みに傚(なら)うの徒は、刺に法度有り、證に
  ウラ
當否有るを知らず、濫(みだ)りに鍼を執りて疾に臨む。甚だしき者は、瞽者の之を行う有り。
何を以てか形色を辨ぜんや。豈に嘆ざざらんや。然れば人々をして
刺に法有り、證に當にして能わざる有るを知らしむるなり。適(まさ)に先生の此の
書成る。余受けて之を讀む。法明らかにして説確か、以て四
方に範たりて、人をして過(あやま)ちを鮮(すくな)くせしむれば、則ち仁政の一助ならざらんや。
是れ先生に請いて、以て世に公けにする所なり。
陸奥 木恒德謹識

  【注釋】
○昇平:世の中が平和でよく治まっていること。 ○飫:飽食する。満ちる、飽きる。 ○德澤:恩恵。 ○歐:欧陽修(1007-1072)。 ○蘇:蘇軾(1036-1101)。 ○李:李東垣(1180-1251)。 ○朱:朱丹渓(1281-1358)。 ○遡洄:さかのぼる。 ○遵循:したがう。 ○舊訓古道:ふるい教えや経典。 ○嘗:「常」に通ず。むかしからずっと。 ○耑:「專」と同じ。また「端(はじめ)」に通ず。 ○素:『素問』。 ○靈:『霊枢』。 ○蠻法:南蛮の技法。西洋の技術。 ○論次:論定してならべる。 ○研尋:研究し探求する。 ○興:「起」。いやす。 ○疢疾:疾病。 ○癈:「廢」。 ○躋人暉春:春暉。春の陽光。母の恩恵の比喩。 ○臺:うてな。 ○傚顰:效顰。自分の身もわきまえず、むやみに他人のまねをする(そして、かえって逆効果になる)こと。 ○法度:法式。方法。 ○證有當否:適応症と不適応症。
  ウラ
○濫:軽率に。随意に。 ○瞽者:盲人。 ○何以:どのようにして。反語の語気。「ない、できない」ことを示す。 ○形色:形と色。 ○不能:否。 ○適:おりよく。たった今。 ○範:手本。見習うべきもの。 ○四方:東西南北各地。 ○過:錯誤。過失。 ○仁政:仁徳の政治。 ○所:所以。ゆえん。 ○陸奥:奥州。今日の福島県、宮城県、岩手県、青森県と、秋田県の一部にわたる地域。 ○木恒德:荻野元凱の門人。木村恒徳。字は子慎。

2010年11月27日土曜日

11-1 兪穴辨解

11-1兪穴辨解
     武田科学振興財団杏雨書屋所蔵 乾3594
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』11

兪穴辨解引
江漢之出乎岷嶓也其源夐其流脩而中間有
淼漫呑天之勢者葢水之道為然孟軻氏謂盈
科而後進放乎四海有本者如是觀夫經脈之
繫於藏府亦猶水乎其異流分派縱横逆順肌
肉為之隄防骨空為之科窟方其邪之在經則
搏而躍激而行過顙在山是豈水之性哉觀水
有術故聖人正骨度辨兪穴直欲以鍼焫廻狂
瀾於既倒者職此之由屬者一得子携其所著
  一ウラ
兪穴解來請余檢閲余讀廼知能修其業者其
書大氐彀率攖寧乘矢馬張而以自己意為監
射埶法其間可謂便且詳矣筆以國字者為使
髦士易曉而其有口授亦將有獲其人耳提面
命之者歟是為叙

寳曆甲戌冬十有二月朔信陽滕曼卿謹題


  読み下し
兪穴辨解引
江漢の岷嶓に出づるや、其の源は夐(とお)く其の流は脩(なが)し。而して中間に
淼漫として天を呑むの勢いの者有り。蓋し水の道は然りと為す。孟軻氏謂う、
科(あな)を盈して後に進み、四海に放(いた)る、本有る者は是(かく)の如し、と。夫(か)の經脈の
藏府に繫がるを觀るに、亦た猶お水のごときか。其の流れを異にし派を分かち、縱横逆順、肌
肉、之れを隄防と為し、骨空、之れを科窟と為す。其の邪の經に在るに方(あた)りては、則ち
搏ちて躍らし、激して行(や)らしめば、顙を過ぎ山に在り。是れ豈に水の性なるかな。水
に術有るを觀る。故に聖人は骨度を正し、兪穴を辨じ、直ちに鍼焫を以て狂
瀾を既倒に廻せんと欲する者は、職として此れ之れに由る。屬者(このごろ)一得子、其の著す所の
  一ウラ
兪穴解を携えて來たり、余に檢閲を請う。余讀みて廼ち能く其の業を修むる者を知る。其の
書は大氐、攖寧を彀率し馬張を乘矢す。而して自己の意を以て射るを監すると為し、
法を其の間に執り、便且つ詳と謂つ可し。筆するに國字を以てする者は
髦士をして曉らめ易からしむるが為なり。而して其の口授有るは、亦た將に其の人を獲て、耳提して面(まのあたり)に
命ずるの者有らんとするか。是を叙と為す。

寳曆甲戌冬十有二月朔、信陽滕曼卿謹題

  【注釋】
○江漢:長江と漢水。 ○岷:岷山。四川松潘県北に位置し、四川と甘肅省の境となり、長江と黄河、両大水系の分水嶺をなす。/岷江。河川の名。四川省境にあり、源は松潘縣西北岷山に出て、最後は長江に注ぎ入る。 ○嶓:嶓冢。甘肅省天水縣の西南にあり、漢水の水源地。「兌山」ともいう。 ○夐:遠い。「迥(はるか)」に通ず。 ○脩:長い。久しい。遠い。「修」に通ず。 ○淼漫:海や川が広く果てしがない。 ○孟軻氏:孟子。(西元前 372~前 289)軻は名。字は子輿。戦国時代鄒の人。 ○盈科而後進放乎四海有本者如是:『孟子』離婁下:「孟子曰:原泉混混、不舍晝夜。盈科而後進、放乎四海、有本者如是、是之取爾/源泉は混混として昼夜を舎(お)かず、料(あな)に盈(み)ちて而る後に進み四海に放(いた)る。本(もと)有る者は是(か)くの如し。是れ之を取るのみ/水が穴を満たしてから初めて進むように、学問の道もよく順序を踏まえて進むことが大事である。」『集注』:「盈、滿也。科、坎也。」 ○縱横:水の流れの曲がりくねるさま。 ○逆順:流れの順行と逆行。 ○肌肉:皮膚と筋肉。 ○科:「窠(あな)」に通ず。 ○窟:洞穴。 ○搏而躍激而行過顙在山是豈水之性哉:『孟子』告子上:「今夫水、搏而躍之、可使過顙、激而行之、可使在山。是豈水之性哉。其勢則然也(今夫れ水は、搏ちて之を躍らせば、顙を過ごさしむべく、激して之を行れば、山に在らしむべし。是れ豈に水の性ならんや。其の勢、則ち然らしむるなり)。」顙:額。頭。 ○骨度:骨の長さを基準とした人体の測り方。 ○兪穴:ツボ。 ○鍼焫:鍼灸。/焫:もやす。 ○廻狂瀾於既倒:韓愈『進學解』:「障百川而東之、迴狂瀾於既倒。」力を尽くして悪い局面を挽回する。異端邪説の横行を阻止する。 ○職:もとより。もっぱら。 ○屬者:近時、近日。 ○一得子:村上宗占は土浦藩医員で、名は親方(ちかまさ)、字が宗占、号は一得子(いっとくし)。 
  一ウラ
○大氐:大抵。 ○彀率:弓を引き絞る度合い。 ○攖寧:心が平和で、外部からの刺戟に動揺しないさま。滑壽(『十四経発揮』)のことか。 ○乘:四。『孟子』離婁章句下:「發乘矢而後反(弓矢を四発放ったのち帰った)。」『正義』:「云乘矢者、乘、四矢也、蓋四馬為一乘、是亦取其意也。」 ○馬:馬玄臺(『霊枢註証発微』)か。 ○張:張介賓(『類経』『類経図翼』)か。 ○監:統率する。 ○埶:「藝」に同じ。あるいは「執」か。 ○國字:かな。 ○髦士:俊秀の士。 ○耳提面命:懇切丁寧に教える。『詩經』大雅˙抑:「匪面命之、言提其耳。」 ○寳曆甲戌:宝暦四年(一七五四)。 ○十有二月:十二月。 ○朔:陰暦一日。 ○信陽:信濃。 ○滕曼卿:生没年不詳。萬卿とも。姓は加藤。名は章、通称は俊丈、号は筑水。『難経古義』を著す。医学館で『難経』を講じた。本書の巻頭には、「東都隱醫 友生 加藤俊丈 校」とある。


兪穴辨解序
經脉篇黄帝曰經絡所以能決死生處百
病調虚實不可不通焉愚按學經絡者欲
處百病調虚實者也因茲施鍼灸施鍼灸
者必要兪穴要兪穴者必正骨度骨度正
而要兪穴迎隨開闔行其宜而取効也葢
兪穴之正在骨度骨度不正則兪穴不正
雖施鍼灸無効而反有害也必矣歴代先
哲著經絡鍼灸書而汗牛充棟不乏于世
  二ウラ
然其中語意簡古淵玄而未易曉故吾子
第患之葢按先哲各有得失余不敏讚其
得而補其失參挾諸説而作為兪穴辨解
二卷骨度正誤圖説一卷竒經八脉銅人
形系經訣一卷凡四卷以授子第不敢備
達人云爾
寛保二歳次壬戌春三月
東都 村上親方宗占述

  【読み下し】
兪穴辨解序
經脉篇に黄帝の曰く、經絡は能く死生を決して、百
病を處し、虚實を調うる所以、通ぜざる可からず、と。愚按ずるに、經絡を學ぶ者は、
百病を處し虚實を調えんと欲する者なり。茲に因って鍼灸を施す。鍼灸を施す
者は、必ず兪穴を要(もと)む。兪穴を要むる者は、必ず骨度を正す。骨度正して
兪穴を要め、迎隨開闔、其の宜を行いて、効を取るなり。蓋し
兪穴の正しきは、骨度に在り。骨度正からざる則(とき)は、兪穴正しからず。
鍼灸を施すと雖も、効無くして反って害有ること必せり。歴代先
哲、經絡鍼灸の書を著して、牛に汗し棟に充つ。世に乏しからず。
二ウラ
然れども其の中語意簡古、淵玄にして未だ曉し易からず。故に吾が子
第(た)だ之を患(うれ)う。蓋し按ずるに先哲各おの得失有り。余不敏、其の
得るを讚して、其の失を補い、諸説を參挾して、兪穴辨解
二卷、骨度正誤圖説一卷、竒經八脉銅人
形系經訣一卷、凡そ四卷を作為して、以て子第に授く。敢えて
達人に備えずと云爾(しかいう)。
寛保二歳次壬戌春三月
東都 村上親方宗占述

 【注釋】
○經脉篇:『黄帝内経霊枢』の篇名。 ○語意:ことばの意味。 ○簡古:簡単素朴で古雅。 ○淵玄:深奥。 ○曉:知る。 ○吾子:子は男子の美称。親しみ敬愛をあらわす。あなた。 ○先哲:前代の賢者。 ○不敏:不才。謙遜語。 ○讚:称美する。 ○參挾:まじえる。 ○骨度正誤圖説一卷:宝暦二(1752)年跋刊。九州大学附属図書館画像データベースに一部の画像あり。
http://portal.lib.kyushu-u.ac.jp/cgi-bin/icomb/thumview.cgi?lang=j&wayo=w&num=32&img=1
『臨床古典鍼灸全書』15所収。 ○竒經八脉銅人形系經訣一卷:『銅人形引経訣』(寛政五刊)は、九州大学所蔵。『銅人形引経之訣』は弘前図書館所蔵。須原屋/平助(/)〈江戸〉, 寛政5。/『臨床古典鍼灸全書』35所収。 ○達人:事理に通達したひと。 ○云爾:語末の助詞。「かくのごときのみ」。 ○寛保二歳次壬戌:一七四二年。 ○東都:江戸。
 東京大学 鶚軒文庫所蔵『骨度正誤圖説』(V11:1193)   
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2004/tenji/case1.html#1193


2010年11月25日木曜日

10-2 經穴古今省略

10-2 經穴古今省略
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『經穴古今省略』(ケ-11)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』10所収

經穴古今省略序
此書北渚先生所著也雖有隧兪通考之在採索尤
多難臆誦矣故集口授之語充一軸一名經穴口義
蓋彼家最秘書名妄不語又藏之靈蘭可焉

読み下し
經穴古今省略序
此の書北渚先生著す所なり。『隧兪通考』の在る有りと雖も、採索尤も
多く、臆誦し難し。故に口授の語を集めて、一軸に充つ。一名、經穴口義。
蓋し彼の家の最も秘する書にして、名は妄りに語らず、又た之を靈蘭に藏して可なり。

【注釋】
○北渚先生:堀元厚(1686~1754)。元厚は山城国山科の人で、名は貞忠(さだただ)、号は北渚(ほくしょ)。味岡三伯(あじおかさんぱく)・小川朔庵(おがわさくあん)に学び、医名を馳せた。小曽戸洋『漢方典籍辞典』 ○隧兪通考:オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』9所収。全6巻。延享元(1744)年の掘正修(ほりまさなが)序、同年の自序、翌同2年の掘景山(ほりけいざん)(名正超[まさたつ])跋がある。衢昌栢(くしょうはく)(甫山[ほざん])との共著とされる。饗庭東庵(あえばとうあん)の『黄帝秘伝経脈発揮(こうていひでんけいみゃくはっき)』を基本資料に、諸説と自説を加えて成ったもの。巻1は総攷、巻2~4は正経八脈、巻5は奇経八脈、巻6は奇兪類集。元厚の経穴学に対する力量を示す書で、後世の日本経穴書に大きな影響を及ぼした。小曽戸洋『漢方典籍辞典』 ○臆誦:記憶し諳誦する。 ○軸:卷軸を数える単位。 ○靈蘭:黄帝の蔵書室の名。『素問』霊蘭秘典論:「黄帝乃擇吉日良兆、而藏靈蘭之室、以傳保焉」。

2010年11月24日水曜日

10-1 灸焫要覧

 10-1灸焫要覧
    京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『灸焫要覧』(キ・一一一)
    オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』10所収

   灸焫要覽
經云氣穴三百六十五以應一歳然而後人
所増者蓋亦不少矣初學者或厭其繁舎之
不講至于著艾之際往往失其眞因摘其切
近者一二録成小冊名曰灸焫要覽若夫周
悉者乃有通攷在焉視者勿安小成而可也
享保癸卯初夏平安後學堀元厚謹識


  【書き下し】
   灸焫要覽
經に云う、氣穴三百六十五、以て一歳に應ず。然り而して後人
増す所の者、蓋し亦た少なからず。初學者、或いは其の繁を厭い、之を舎(す)てて
講ぜず。著艾の際、往往其の眞を失うに至る。因りて其の切
近なる者一二を摘みて、録して小冊と成す。名づけて灸焫要覽と曰う。夫(か)の周
悉なる者の若きは、乃ち通攷の在る有り。視る者、小成に安んずること勿くして可なり。
享保癸卯初夏平安後學堀元厚謹みて識(しる)す


  【注釋】
○經云:『素問』気穴論(58)。 ○然而:接続詞。ここでは逆接。 ○著艾:もぐさを着ける。灸をすえる。 ○切近:切要近便。 ○周悉:周到詳尽。 ○通攷:『隧輸通攷』(一七四四年序、写本)。 ○小成:初歩的成就。明 方孝孺『贈林公輔序』:「不安於小成、然後足以成大器」。 ○享保癸卯:享保八(一七二三)年。 ○平安:京都。 ○後學:先輩の学者に対する謙遜語。 ○堀元厚:元厚(1686~1754)は山城国山科の人で、名は貞忠(さだただ)、号は北渚(ほくしよ)。味岡三伯(あじおかさんはく)・小川朔庵(おがわさくあん)に学び、医名を馳せた。〔小曽戸洋『日本漢方典籍辞典』〕

2010年11月23日火曜日

9-1 隧輸通攷

9-1隧輸通攷
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『隧輸通攷』(ス・21)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』9所収

隧輸通考序
北渚子醫而三世者也自少篤信黄岐之
教以講明其書為己任日誦一卷坐而思
思而弗措必通矣思者精通者神了然有
以得乎窅冥昏黙之中矣乃旁搜古今醫
部秘書奥帙罔不津逮淵源所自造詣最   ※「所」は「取」か
深於是開門授徒者數十年矣弟子著録
毎歳百餘人其所以教督之具有其法人
  一ウラ
成其業以良師稱之北渚子益勉不懈述
作日多皆錄以傳之廼者又著隧輸通考
若干卷請序於余余曰善哉北渚子之有
此述也掲之以經方載之以群説斷之以
己見皂白分矣朱紫別矣醫家未了公案
於是次矣吁此體要之書也其益於後學
也不亦大乎吾尚記昔在少年時與聞諸
老先生道德之餘論盖皆貴經術明性命
  二オモテ
之旨有實見識而後著書立言然其朋友
往來雖非其黨不敢拒讀史論文風流敦
厚猶有洛社之古風汩汩四十年旧游論
謝此風遂替才後之徒稱文號稱文章巨
擘學術一變獨醫之學師授傳習百餘年
不諭而朋友切磋猶有古風吾於北渚子
有感也北渚子名某與余曰族其先出于
江湖云
  二ウラ
延享元年臘月
      南湖堀正修序


読み下し
隧輸通考序
北渚子は、醫にして三世なる者なり。少(わか)き自り篤く黄岐の
教えを信じ、以て講じて其の書を明らかにす。己が任と為(し)て日々に誦すること一卷。坐して思い、
思いて措かざれば必ず通ず。思うこと精、通ずること神なれば、了然として
以て窅冥昏黙の中に得る有り。乃ち旁(あまね)く古今の醫
部、秘書奥帙を搜して、淵源に津逮せ/津(わた)して淵源に逮(いた)ら/ざる罔し。自ら造詣する所、最も
深し。是(ここ)に於いて門を開き徒に授くること數十年。弟子、
毎歳百餘人を著録す。其の教督するの所以の具に其の法有り。人、
  一ウラ
其の業を成し、良師を以て之を稱す。北渚子益々勉めて述
作を懈らず。日々多く皆な錄して以て之を傳う。廼者(さきに)又た隧輸通考
若干卷を著し、序を余に請う。余曰く、善きかな。北渚子の
此の述有るや、之を掲ぐるに經方を以てし、之を載するに群説を以てし、之を斷ずるに
己が見を以てし、皂白分ち、朱紫別つ。醫家未だ了せざる公案、
是(ここ)に於いて次(つい)づ。吁(ああ)、此れ體要の書なり。其の後學を益する
や、亦た大ならずや。吾れ尚お記す、昔在(むかし)少年の時、與(とも)に諸(これ)を
老先生の道德の餘論に聞く。蓋し皆な經術を貴び、性命を明かにする
  二オモテ
の旨、實に見識有り。而る後に書を著し言を立つ。然して其の朋友の
往來、其の黨に非ずと雖も、敢えて拒まず。史を讀み文を論じ、風流敦
厚、猶お洛社の古風有り。汩汩として四十年、旧游論じて
此の風を謝し、遂に才を替う。後の徒、文を稱えて號して文章の巨
擘と稱す。學術一變し、獨り醫の學、師授傳習すること百餘年にして
諭(さと)らず。而して朋友切磋し、猶お古風有り。吾れ北渚子に
感有り。北渚子、名某、余と族と曰う。其の先は
江湖に出づと云う。
  二ウラ
延享元年臘月
      南湖堀正修序


【注釋】
○北渚子:堀元厚。名は貞忠。号は北渚。貞享三年(一六八六)~宝暦四年(一七五四)。京都山科のひと。 ○醫而三世者:『禮記』曲禮「醫不三世、不服其藥。」代々続いて由緒正しい医師の家系に生まれる。 ○黄岐:黄帝と岐伯。『素問』『霊枢』。 ○講明:解釈する。明らかに説明する。 ○己任:自分の責務、任務。 ○措:ほうっておく。置く。 ○了然:明白なさま。はっきりしたさま。 ○窅冥昏黙:「窅」は「窈」に通ず。虚無静寂。『莊子』在宥:「至道之精、窈窈冥冥。至道之極、昏昏默默」。 晋 郭象 注:「窈冥、昏默、皆了无也。」 成玄英 疏:「至道精微、心靈不測、故寄窈冥深遠、昏默玄絶。」 ○旁搜:広汎に探し求める。 ○秘書:秘密で重要な書籍。 ○奥帙:奥義の書籍。「帙」はここでは書籍のことであろう。 ○津逮:渡し場を渡って向こう岸に到達する。一定の筋道を通って到達することの比喩。 ○造詣:学業や専門技術などの到達する水準や境地。 ○教督:教導督察。
   一ウラ
○廼者:「乃者」に同じ。さきごろ。ちかごろ。 ○皂白:黒色と白色。是非、正しいことと誤りの比喩。 ○朱紫:朱は正色で、紫は間色。優劣、善悪、正邪など相対するものの比喩。 ○未了公案:いまだ解決できないでいる事案。 ○次:ならぶ。 ○體要:切実にして簡要。 ○經術:天下を治める術。経書を主たる研究対象とする学術。 ○性命:生命。
  二オモテ
○風流:態度。品格。 ○敦厚:寬宏厚道。 ○洛社:宋の欧陽修などが洛陽で組織した詩の結社、洛陽耆英会のこと。あるいは、京都にあった結社のことか、未詳。 ○汩汩:構想が続々と途切れない、滔滔として絶えないさま。盛んなさま。 ○旧游:舊遊。昔から交際している友人。 ○巨擘:親指。傑出した人物の比喩。 ○族:親族。 ○先:祖先。 ○江湖:隱士の居るところ。また民間。
  二ウラ
○延享元年:一七四四年。 ○臘月:陰暦12月の異称。 ○南湖堀正修:まさなが。一六八四~一七五三。堀正意(杏庵)の子孫。杏庵-立庵(正英)-玄達(蘭阜)-正修(南湖)。家は正超(君燕、景山、曠懐堂)が継ぐ。(『京都の医学史』386頁、資料篇など)


自叙
吾友甫山一日謂予曰經輸之於人也大
矣湯液之報使針砭之迎隨灸焫之補瀉一
取法於此爲醫不究之則擿埴冥行不致
顚躓者未之有也歴代説者徃徃因循含
糊遂無歸一之論於是共繙翻群籍切磋
屢屢三經寒暑未脱藁忽得立伯先生所
著經脉發揮者閲之趣同意合實得我心
  ウラ
之所同然者也亦足以爲基址矣唯勉博
考未有折衷爲可憾而已遂輯衆説斷以
臆見名曰隧輸通考僭踰雖無所遁或爲
初學之楷梯亦未可知也謾叙其説敢證
於暗合冥投不蹈襲勦説立伯先生云爾
延享甲子孟秋北渚堀元厚序于京洛烏
巷對井居
 男元昌貞明謹寫

読み下し
自叙
吾が友甫山、一日予に謂て曰く、經輸の人に於けるや大なり。
湯液の報使、針砭の迎隨、灸焫の補瀉は、一に
法を此に取る。醫と爲りて之を究めざれば、則ち擿埴冥行して、
顚躓を致さざる者未だ之れ有らざるなり。歴代の説く者は、往往にして因循含
糊し、遂に一に歸するの論無し。是(ここ)に於いて共に群籍を繙翻し、切磋すること
屢屢にして、三たび寒暑を經て、未だ藁を脱せず。忽ち立伯先生
著す所の經脉發揮なる者を得たり。之を閲すれば趣同じく意合し、實に我が心
  ウラ
の同じく然る所の者を得るなり。亦た以て基址と爲すに足れり。唯だ勉めて博く
考うれば、未だ折衷有らず。憾む可しと爲すのみ。遂に衆説を輯めて斷ずるに
臆見を以し、名づけて隧輸通考と曰う。僭踰ながら、遁(かく)るる所無しと雖も、或いは
初學の楷梯と爲すも、亦た未だ知る可からざるなり。謾(みだ)りに其の説を叙(の)べ、敢て證
す。暗合冥投に於いて、立伯先生を蹈襲勦説せずと云爾(しかいう)。
延享甲子孟秋、北渚堀元厚、京洛烏
巷對井居に序す


  【注釋】
○甫山: ○經輸:ここではいわゆるツボ。 ○湯液之報使:引經報使。ある種の薬物が他の薬物の力を病変部や、ある經脈に導く作用。 ○針砭之迎隨:針先を経脈の流れに逆らう方向(迎)へ刺すことと、流れに沿う方向(隨)へ刺すこと。 ○灸焫之補瀉:元気をおぎなうことと邪気を除くこと。 ○擿埴冥行:夜、道を歩くときに杖で地面を確かめる。学問研究をする時、その手順を知らず、暗中模索することの比喩。/擿:もとめる。さぐる。/埴:土地。 ○顚躓:ころぶ。つまづく。 ○因循:古くからの習わしに従って改めないこと。 ○含糊:言葉がはっきりしない。物事が徹底されず、あやふやなさま。 ○繙翻:書物を読む。書物をひもとく。頁をめくる。 ○群:多数の。 ○切磋:骨角玉石などを切り磨いて器物を作る。互いに比較し研究討論することの比喩。 ○屢屢:常。 ○三經寒暑:三年経った。/寒暑冬と夏のふたつの季節。歳月。 ○脱藁:脱稿。原稿を完成する。 ○立伯先生:饗庭東庵。元和7(1621)~延宝1(1673)。江戸前期の医学者。立伯(りゅうはく)と称した。京都の人。曲直瀬玄朔の門人。のち幕府医官として仕えた林(玄伯)家の祖・林市之進(敬経)と学を交え、中国医学の基本典籍『素問』『霊枢』『難経』を講究し広めた。運気学説(保健・医療暦学)にはとりわけ造詣が深かった。編著書に『重校補註素問玄機原病式』『黄帝秘伝経脈発揮』『素問標註諸言草稿』『医学授幼鈔』がある。その学派は後世別派あるいは素霊派と称され、門派からは味岡三伯、浅井周伯、井原道閲、小野朔庵、岡本一抱、堀杏庵らの優秀な学医が輩出、江戸中期の医学の担い手となった。『朝日日本歴史人物事典』(小曾戸洋)。 ○經脉發揮:『(黄帝秘伝)経脈発揮』。7卷。一六六〇年ごろ初版。万治(1658~60)頃の木活字を用いた印本があり、中国では『北京大学図書館蔵善本医書』(1987)、日本では『臨床針灸古典全書』(1990)に影印収録されている。さらに万治木活字版に返り点・送り仮名を付して覆刻(かぶせぼり)した寛文8(1668)年の整版本もある。『日本漢方典籍辞典』 
  ウラ
○心之所同然者也:『孟子』告子上:「心之所同然者何也。謂理也、義也。」 ○基址:建築物の基礎。事物の根本。 ○折衷:太過と不及を調和させて、理に合うようにさせる。 ○憾:心中に満足できない感覚。 ○臆見:個人の主観的な見解。 ○僭踰:「僭越」に同じ。〔言動が〕自分の身分や力をわきまえず、出過ぎていること。謙遜語。 ○遁:のがれる。かくれる。さける。あざむく。 ○楷梯:「階梯」に同じ。階段。転じて、学問や芸術を学ぶ初めの段階。初歩。入門。手引。 ○謾:「漫」に通ず。軽率に。そぞろに。 ○暗合:思いがけなく一致すること。偶然の一致。 ○冥:期せずして一致する。 ○投:気持ちが合う。投合する。 ○蹈襲:前の人のやり方などをそのまま受け継いで行う。 ○勦説:他人の説を剽窃して自己の説のごとくする。 ○云爾:語末助詞。のみ。 ○延享甲子:延享元年。一七四四年。 ○孟秋:旧暦七月。 ○北渚堀元厚:(1686~1754)。元厚は山城国山科の人で、名は貞忠(さだただ)、号は北渚(ほくしょ)。味岡三伯(あじおかさんぱく)・小川朔庵(おがわさくあん)に学び、医名を馳せた。『臨床針灸古典全書』に影印収録されている。ほかに『灸焫要覧(きゅうぜつようらん)』享保9(1724)年刊、『医学須知(いがくすち)』(1750刊)、『医案啓蒙(いあんけいもう)』(刊本)をはじめ多くの著書があり、とりわけ日本針灸学の形成に寄与した。子の元昌(げんしょう)もその学を継いだ。『日本漢方典籍辞典』/墓、誓願寺(中京区新京極桜ノ町にある浄土宗西山深草派の総本山) ○京洛:京都。 ○烏巷對井居:烏丸にあったか。


隧輸通考跋  11
病其人之急乎攻而達之而操藥以修焉
者是古之道也盖人之經窬血脉摩頂放
踵靡弗處而在焉是以灼知其肯綮而後
始可以攻而達之也已自非攻而達之乃
藥亦何所見其瞑眩之效哉亦唯攻之與
達與藥三者相須而十全之功斯可復許
乎至後世乃以攻與達為粗而少效唯藥
  一ウラ  12
之爲上焉特坐其不哳于經窬血脉也周
時訖六國黄帝隂陽之書世多有焉類皆
依託黄帝以神其道者爾班史之言固是
徴也夫醫盖出於隂陽家其書原人經窬
血脉隂陽表裏以起百病死生之本而度
鍼艾藥餌之所施其論盡精微故術亦十
全周官置師其有所試於是乎其際緩和
越人相踵輩出非後世所能及也迨漢興
  二オモテ  13
大收編籍而劉向李柱國與校方技醫經
亦往往乎出漢志之載可以概見今所見
存黄帝内經乃古之遺已世或高明自喜
者自以方技惡其居下流遂廢古醫經而
擯隂陽之説縁飾儒術以重其言雖論隲
若以美然如其技術晻昧何北渚屈君以
醫學教授於洛顓門有赫赫名方來生徒
横經游從戸外屨不許其幾両君編讀古
  二ウラ  14
醫經其經窬血脉隂陽表裏固未甞不詳
究其説而前脩論辨亦彼善於此則有之
故檻于彼而別于此揚搉有茲輯録成冊
題曰隧輸通考顧君稽古之力其厪至矣
頃屬需余一言余雖素闇醫理而以君與
余雅游且同族誼不可峻拒故略道其後
世鮮能知經窬輙妄攻而達之所以與古
舛馳不能攻十全者云爾
  三オモテ  15
延享乙丑春三月平安屈正超撰


読み下し
隧輸通考跋  11
病は其れ人の急か。攻めて之を達し、而して藥を操って以て焉(これ)を修むる
者は、是れ古の道なり。蓋し人の經窬血脉は、頂を摩(す)りて
踵に放(いた)るまで處として在らざるは靡し。是(ここ)を以て灼として其の肯綮を知り、而る後に
始めて以て攻めて之を達す可きのみ。攻めて之を達するに非ざる自りは、乃ち
藥も亦た何れの所に其の瞑眩の效を見るや。亦た唯だ之を攻むると
達と藥との三者は、相い須(もと)めて十全の功あり。斯れ復た許す可けん
や。後世に至って乃ち攻と達とを以て粗にして效少しと為し、唯だ之に藥するをのみ
  一ウラ  12
上と爲す。特(た)だに坐(ようや)く其れ經窬血脉に晰(あき)らかならざるのみなり。周
の時、六國訖(ま)で黄帝陰陽の書、世に多く有り。類皆な
黄帝に依託し、以て其の道を神とする者のみ。班史の言、固(もと)より是の
徴なり。夫れ醫は蓋し隂陽家に出づ。其の書、人の經窬
血脉隂陽表裏を原(たず)ね、以て百病死生の本を起こして
鍼艾藥餌の施す所を度す。其の論、精微を盡くす。故に術も亦た十
全なり。周官、師を置く。其れ試る所有り。是(ここ)に於いて其の際、緩、和、
越人相い踵して輩出す。後世の能く及ぶ所に非ざるなり。漢興るに迨(およ)び、
  二オモテ  13
大いに收めて籍を編す。劉向、李柱國與(とも)に方技の醫經を校す。
亦た往往乎として漢志の載に出で、以て概見す可し。今ま見る所、
黄帝内經存するは、乃ち古(いにしえ)の遺のみ。世或いは高明にして自ら喜ぶ
者は、自ら方技の其の下流に居るを惡むを以て、遂に古醫經を廢して、
陰陽の説を擯(しりぞ)け、儒術に縁飾して、以て其の言を重んず。論隲(さだ)まりて
以て美なるが若しと雖も、然れども其の技術晻昧なるが如し。何ぞ北渚屈君、
醫學を以て、洛に教授し、顓門として赫赫たる名有らん。方來、生徒
經を横たえ戸外に游從し、屨(ふ)んで其れ幾(ほとん)ど兩を許さず、君、古
  二ウラ  14
醫經を編讀し、其の經窬、血脉、陰陽、表裏、固(もと)より未だ嘗て詳しく
其の説を究めずんばあらず。而して前脩の論辨も亦た彼、此れより善ければ、則ち之れ有り、
故に彼を檻して此れに別かち、揚搉して茲に有り。輯録して冊を成す。
題して曰く、隧輸通考と。顧るに君が稽古の力、其れ厪(つと)めて至れり。
頃おい屬して余に一言を需(もと)む。余は素より醫理に闇しと雖も、而して君と
余とは、雅(つね)に游び、且つ同族なるを以て、誼として峻拒す可からず。故に略(ほ)ぼ其の後
世に能く經窬を知ること鮮く、輙ち妄りに攻めて之に達し、古と
舛馳して十全を攻(おさ)むる能わざる所以の者を道(い)う云爾(のみ)。
  三オモテ  15
延享乙丑春三月、平安屈正超撰す


  【注釋】
○急:危急の事。 ○攻而達之:『春秋左氏傳』成公十年傳「公疾病、求醫于秦、秦伯使醫緩為之……醫至曰:疾不可為也、在肓之上膏之下、攻之不可、達之不及、藥不至焉、不可為也」。注「緩、醫名。為猶治也。達、針」。宋・林堯叟『音註全文春秋括例始末左傳句讀直解』「攻、熨灸也、言不可以火攻。達、針也、言不可以針達。至於用意藥、又不至焉。言疾不可治也」。 ○經窬:「經穴」に同じ。 ○摩頂放踵:頭頂部から踵まで全身。また、全身傷だらけになる。身を捨てて世を救うのに、労苦を厭わないことの比喩。『孟子』盡心上:「墨子兼愛、摩頂放踵、利天下為之。」 ○灼:明白に。はっきりと。 ○肯綮:骨と筋肉の結合部位。物事の重要なところ。 ○也已:確定や肯定の気持ちを強く表す。 ○自非:もし~でなければ。 ○瞑眩:服薬後に生ずる眩暈。『書經』説命:「若藥弗瞑眩、厥疾弗瘳(若し藥、瞑眩せざれば、厥の疾瘳ず)。」 ○相須:相互に依存して。互いに配合して。 ○十全:完全無欠。十人を治療して十人が治癒する。 ○可復許乎:『孟子』公孫丑章句上:「夫子當路於齊、管仲晏子之功、可復許乎(先生がこの斉で政治を取られれば、あの管仲・晏嬰にも匹敵する功績をなされるということですか?)」。許:期待する。あてにする。 
  一ウラ  12
○坐:ヨウヤク(次第に)。イナガラニシテ(じっとしたまま。労せず)。ソゾロニ(わけもなく)。ムナシク(訳もなく)。 ○哳:啁哳。繁く砕ける音の形容。/「晰」字の誤りとしておく。 ○周:王朝名。周朝。 ○訖:「迄」に通ず。 ○六國:戦国時代、函谷関より東にある楚、齊、燕、韓、趙、魏の六大国。 ○黄帝隂陽之書:『漢書』卷三十 藝文志第十「黃帝陰陽二十五卷。黃帝諸子論陰陽二十五卷。」その他、「黄帝」「陰陽」を書名に冠するもの多し。 ○班史:班固(『漢書』)と司馬遷(『史記』)。 ○隂陽家:『漢書』芸文志が九流の一つとする戦国時代に陰陽五行説を提唱した一学派。鄒衍を代表的人物とする。 ○原人經窬血脉隂陽表裏以起百病死生之本而度鍼艾藥餌之所施:『漢書』卷三十 藝文志第十「醫經者、原人血脈經落骨髓陰陽表裏、以起百病之本、死生之分、而用度箴石湯火所施、調百藥齊和之所宜」。 ○周官:「周禮」。『周禮』卷一 天官冢宰「醫師上士二人、下士四人、府二人、史二人、徒二十人」。卷五「醫師掌醫之政令、聚毒藥以共醫事」。 ○緩:『春秋左傳』成公十年を参照。 ○和:『春秋左傳』昭公元年を参照。 ○越人:秦越人。扁鵲。 ○相踵:継続して。次々に。 ○輩出:連続して出現する。 
  二オモテ  13
○劉向:(西元前77~前6)字子政、本名更生、漢の沛県の人。高祖弟、楚元王劉交の第四代孫。成帝の時、改名して向という。光祿大夫に任ぜられ、經傳諸子詩賦などの書籍を校閲し、『別録』を撰す。最も早い分類目録である。 ○李柱國:漢代の医家。成帝の時、御医に任ぜられ、医経、経方の校訂に参与した。 ○方技醫經:『漢書』芸文志を参照。 ○縁飾:修飾する。 ○晻昧:暗い。 ○屈君:「屈」は「堀」の修姓(中国風称呼)。 ○洛:京都。 ○顓門:学術や技能に秀でること。専門。 ○赫赫:顕著なさま。 ○方來:近来。 ○横經:経籍を横にならべる。業を受ける。学習する。 ○游從:相従ってともに遊ぶ。交遊する。先輩と互いに行き来する。 ○屨不許其幾両:実践して匹敵するものがほとんどない、ということか?
  二ウラ  14
○前脩:前修。前代の徳を修めた賢士。 ○檻:おりに閉じ込める。 ○揚搉:大要をあげる。要約して論述する。 ○稽古之力:古いことを研究して得られる優れたところ。 ○厪:「廑」の俗字。「勤」に通ず。 ○頃:近ごろ。 ○屬:「囑」に同じ。 ○雅游:つねに交際往来する。 ○誼:よしみ。 ○舛馳:道に背いてはせる。 ○攻:治療する。
  三オモテ  15
○延享乙丑:延享二年(一七四四)。 ○平安:京都。 ○屈正超:堀正超(一六八八~一七五七)。字は君燕、号は景山、家号は曠懐堂。俗称は禎助。安芸浅野氏の儒官で、後世派の医家。京都姉小路室町に住む。

2010年11月20日土曜日

6-6 宮門流針書

6-6宮門流針書
   武田科学振興財団杏雨書屋所蔵『宮門流針書』(乾3721)
   オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』6所収
 読みやすさを考慮し,読点を付けた。一部の文字の読みに疑念あり。◆は判読できず。()内は意味をはっきりさせるための補足。神文は起請文の意。

 宮門流針書
神文之事
一今度拙者義、御流儀針治法懇望ニ付、御傳法御願申上候處、
 御傳法被成下、難有仕合ニ奉存候
一御傳法之秘事、たとひ親子兄弟たり共、猥りニ語り申間敷候
一御傳法之後者、親兄弟親類之跡を堅ク相守り、忠孝
 第一ニ可仕候事
一御傳法之後、儀を堅く相守可申事、若不儀成事出來仕
 候ハヽ、何時ニ而も御破門被成候而も、少シも恨申間敷候事
一他流之批判、堅く仕間敷候、尚又自慢仕間敷候事
一平生行儀正く、言葉遣正きれいに、慇懃ニ仕候、諸人
  一ウラ
 様方ニ謙り、親子兄弟妻子ハ勿論、諸人むつましく
 可仕候事
一針治之節ハ、平生心安き人たり共、少シもたハむれ言
 葉心安立、并新請仕間敷候、尤貧賤之人、女子婦人
 ニ對し、戲言申間敷候、勿論行義正敷可仕候事、平生たし
 なミ申事也
一貧賤之人を大切ニいたし、何時ニ限らす、療治いたし
 可遣事
一治術之義、日々修行仕候而、達道之御人ニと(問)ひ奉り
 出情(精)可仕候事
一子下ケ針仕間敷候事
  二オモテ
一師家之掟、堅可相守候事
一針治之節ハ、別而行義を正しく可仕候、勿論行義
 不正してハ、針治不出、且又師家之掟ニ相叶不申候
 平生立居ニ而も、針治之節◆◆如く正敷坐◆ぬ
 申也、針治不限、諸藝術皆々如此ニ候、行義不
 正人にハ、秘針傳受、堅く無用たるべし、尚又十四
 經覺不申候也
同日
 右之條々於相背者、日本大小神祇可蒙
 御罪者也、仍而神文如件

2010年11月19日金曜日

6-5 鍼論

6-5鍼論
   京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『鍼論』(シ・645)
   オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』6所収
    「丹」の判読に疑念あり。

鍼論叙
葛希夷鍼論新成問叙於余謝
不敏不可廼受而卒業其意盖
本於傷寒論是古人所未甞發
也嗟乎新奇如是非希夷不能
焉今讀此編則千古鍼法皆廢
  ウラ
矣仲尼曰後世可畏也余於此
舉亦云
文久二年壬戌夏五月
    黙菴埜寧國題


  読み下し
鍼論叙
葛希夷の鍼論、新たに成る。叙を余に問う。
不敏を謝す。廼ち受けて業を卒う可からず。其の意は蓋し
傷寒論に本づく。是れ古人、未だ嘗て發せざるなり。
嗟乎(ああ)、新奇、是(かく)の如し。希夷に非ざれば、能くせず。
今ま此の編を讀めば、則ち千古の鍼法皆な廢せん。
  ウラ
仲尼曰く、後世、畏る可し、と。余、此に
舉げて亦た云う。
文久二年壬戌夏五月
    黙菴埜寧國題す

 【注釋】
○葛希夷:本書『鍼論』の著者。葛西清。字は希夷。号は省齋。讃岐藩のひと。 ○謝不敏:謙遜の辞。能力が足りないためことわる。 ○不能焉:「不能爲」として読んだ。 
  ウラ
○仲尼曰:『論語』子罕に見える。「子曰、後生可畏、焉知來者之不如今也。」 ○文久二年壬戌:一八六二年。 ○黙菴埜寧國:未詳。


鍼論叙(二)
友人葛西希夷據傷寒論推明先刺之
義以立言題曰鍼論有客謂予曰傷
寒論特舉輕證而不及其重證於鍼
法為一端恐不足據焉今乃主張而敷
衍之要亦一家私言耳予曰不然凡
言約而旨遠者聖言也舉一而反三
者聖教也傷寒論之言至簡而其
義則有餘矣固宜權輕及重自淺
徂深而針法之要盡于此矣此傷寒
  ウラ   274
論之書所以爲聖經也夫立言之道
譬如構屋苟取之目巧而不依繩墨
則丹矱雖煥乎亦虞慶之屋已今
希夷所論要皆自繩墨中來豈得
謂之一家私言乎客嘿々而去予以告
希々夷々笑曰請以此為叙
文久二年壬戌孟夏
三溪藤川忠猷撰
  富家高幹書

読み下し
鍼論叙(二)
友人の葛西希夷、傷寒論に據り、先刺の
義を推明し、以て言を立つ。題して、鍼論と曰う。客有り、予に謂いて曰く、傷
寒論は、特だ輕證を舉げて、其の重證に及ばず。鍼
法に於いて一端を為すのみ。恐らくは據るに足らず。今ま乃ち主張して、敷
衍するの要も、亦た一家の私言のみ、と。予曰く、然らず。凡そ
言約にして旨遠き者は、聖言なり。一を舉げて三に反(かえ)る
者は聖教なり。傷寒論の言、至って簡にして其の
義は則ち有餘なり。固(もと)より宜しく輕きを權(はか)りて重きに及び、淺き自り
深きに徂(ゆ)きて、針法の要、此に盡く。此れ、傷寒
  ウラ   274
論の書、聖經爲(た)る所以なり。夫れ言を立つるの道は、
譬えば屋を構えるが如し。苟も之を目巧に取りて、繩墨に依らざれば、
則ち丹矱、煥乎と雖も、亦た虞慶の屋のみ。今
希夷論ずる所の要、皆な繩墨中自り來たる。豈に
之を一家の私言と謂うを得んや」と。客嘿々として去る。予以て
希夷に告ぐ。希夷笑って曰く、請う、此を以て叙と為せ、と。
文久二年壬戌孟夏
三溪藤川忠猷撰
  富家高幹書

【注釋】
○先刺之義:『傷寒論』に「先刺風池風府、却与桂枝湯則愈」とある。本文「鍼解其結、以導藥力而已矣、將投之駿劑也、必先詳其疾病之所在、而按之鍼之、以緩其結、以折其勢、令藥力不窒碍、則自無反煩之患」。 ○立言:精闢で伝えるべき学説言論を樹立する。 ○私言:個人の見解。 ○舉一而反三:一つの隅を示してやれば残り三つの隅は類推して理解する。理解力の優れていること。『論語』述而「擧一隅、不以三隅反、則不復也」。
  ウラ   274
○構屋:家屋を建てる。 ○目巧:目測の技巧。『禮記』仲尼燕居「目巧之室、則有奧阼」。 陳澔集説:「目巧、謂不用規矩繩墨、但據目力相視之巧也」。 ○繩墨:直線を得るための工具。 ○丹:赤い?。誤読しているか? ○矱:尺度、標準。 ○煥乎:明るく輝くさま。 ○虞慶之屋:『韓非子』外儲説左に見える。大工をことばで負かして自分の思いどおりに建物を建てさせたが、結局しばらくして建物は壊れた。 ○嘿々:「黙黙」に同じ。(納得できないが)黙って。 ○孟夏:旧暦四月。 ○三溪藤川忠猷:1817*‐1889。幕末-明治時代の医師、水産開発者。文化13年11月24日生まれ。讃岐(さぬき)高松藩士。父藤川南凱(なんがい)に医を、長崎で高島秋帆(しゅうはん)に西洋砲術をまなび、帰藩して竜虎隊を組織した。維新後は捕鯨のために開洋社を設立、また東京に大日本水産学校、大阪に大阪水産学校を創立するなど、水産事業につくした。明治22年10月22 日死去。74歳。名は忠猷。字 は伯孝。通称は求馬、能登、将監。著作に「捕鯨図識」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus) ○富家高幹:未詳。書家であろう。


(序)
不知要者流散罔窮素靈
二書雖貴乎多缺漏多補増
至尋其旨則河漢無際其要不
可得而求其葛西省齋世以鍼
術顯其術一以傷寒論為貿的
ウラ
唯求要是醫因有鍼論之著余
讀而號之夫刺鍼不求之於素
靈者乃亦深於素靈之旨者耶
雲齋曾本璋撰
  甘原宮延年書


読み下し
(序)
要を知らざる者は、流散して窮り罔し。素靈
二書、貴しと雖も、缺漏多く補増多し。
其の旨を尋ぬるに至っては、則ち河漢、際無きがごとく、其の要
得て求む可からず。其れ葛西省齋は、世に鍼
術を以て其の術を顯す。一に傷寒論を以て質的と為し、
  ウラ
唯だ要を是の醫に求む。因りて鍼論の著有り。余
讀みて之を號(さけ)ぶ。夫れ鍼を刺すに、之を素
靈に求めざる者は、乃ち亦た素靈の旨より深き者か。
雲齋曾本璋撰
  甘原宮延年書

 【注釋】
○不知要者流散罔窮:『霊枢』九針十二原「不知其要、流散無窮」。 ○素靈:『素問』『霊枢』。 ○河漢無際:河漢無極に同じ。河漢は銀河。銀河は広く果てしない。広大すぎて、答えにこまることの比喩。『莊子』逍遙遊:「吾聞言於接輿、大而無當、往而不返、吾驚怖其言、猶河漢無極」。 ○顯:輝かす。名望がある。 ○傷寒論:後漢の張仲景撰。 ○質的:まと。標的。
  ウラ
○夫刺鍼不求之於素靈者乃亦深於素靈之旨者耶:本文「日庸兪穴録」に「余用鍼灸也、一以傷寒論為根據……不必拘々乎素靈所稱述之經絡分數者」とある。 ○雲齋曾本璋:未詳。 ○甘原宮延年:未詳。書家か。


鍼灸名家者世不乏其人所著之
書殆乎可拄屋要皆素靈一派而
已耳葛西省齋氏之論則異於是
葢本諸傷寒論曰先刺曰當灸之
此二語也擴而充之則鍼灸之道
至矣盡矣抑自非通曉傷寒論者
  ウラ
未易與眀也嗚呼我 邦鍼灸家
首唱古醫方者其唯省齋氏乎此
編一出足以洗拭世醫之耳目其
功誠偉矣是為跋
松堂三井篤伯敬撰
原政寛書

読み下し
鍼灸の名家は、世に乏しからず。其の人の著す所の
書は殆ど屋を拄(ささ)うる可し。要するに皆な素靈一派のみ。
葛西省齋氏の論は則ち是れに異れり。
蓋し諸(これ)を傷寒論に本づく。先づ刺すと曰い、當に之を灸すべしと曰う。
此の二語や、擴して之を充す。則ち鍼灸の道、
至れり、盡くせり。抑(そも)そも傷寒論に通曉する者に非ざる自りは、
  ウラ
未だ與(とも)に明むること易からざるなり。嗚呼、我が邦の鍼灸家、
古醫方を首唱する者は、其れ唯だ省齋氏のみか。此の
編、一たび出づれば、以て世醫の耳目を洗拭するに足る。其の
功、誠に偉なり。是を跋と為す。
松堂三井篤伯敬撰
原政寛書
 【注釋】
○拄屋:おそらく「充棟」と同じで、書籍の量が多いことであろう。 ○曰先刺:『傷寒論』に「先刺風池風府、却与桂枝湯則愈」とある。 ○曰當灸之:「其背惡寒者、當灸之」「反少者、當温其上灸之」とある。 ○自非:もし~でなければ。 
  ウラ
○與:かりに「ともに」と読んでおく。 ○眀:「明」の異体字。 ○首唱:一番先に提唱する。 ○洗拭:洗って拭く。 ○松堂三井篤伯敬:未詳。 ○原政寛:未詳。

2010年11月17日水曜日

6-3 一灸万全

6-3一灸万全
武田科学振興財団杏雨書屋所蔵(乾3633)
オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』6所収
 句点をうつ。破損のため読めない字を●であらわす〔おそらく「つ」であろう〕。一部の読みに自信なし。繰り返し記号(「く」を伸ばしたもの)は、「々」にかえた。合字の「コト」は「こと」とした。一部、カタカナでフリガナをつけた。

上一灸萬全并衞生覽要表
草莽の臣松本元泰、誠恐誠惶謹言、臣往年
太守公の浪華を過て始て入國し給ふとき、臣
等故國の   君公にしあれは、山妻とともに
難波橋の傍に伏て、其儀衞の齋整なる
  一ウラ
を縱觀する事を得たり、且   公の神武
ならせ給ふを仰き奉り、心中の驚喜かきりなし、
歸家の路すがら、山妻謂臣曰、「妾、今日かたしけ
なくも   君公を拝し奉り、竊に謂らく、
公上幼年にいますといへども、威德自から外にあら
  二オモテ  87
はるヽ事、賤妻等が申もなか々恐れあり、是れ
則ち闔國の大幸、ひとり賤妻等の幸ひのミに
あらず、但その無病にして、長壽ならせ給はんことを
祈るのミ、妾甞聞、漢土の神仙ハ不老不死の藥を
製すと、其遺方、今尚傳へなきにもあるべからず、良
  二ウラ
人幸に醫を業とす、請、その藥を探索して、今
の  公へ奉らば、無病長壽ならせ給ふこと疑なし」
と、臣曰、「汝、なんぞ言の愚なる、凡そ王侯貴人ハ、万一不
豫ならせ給ふなどのときは、則ち藩中に典藥の
宦あり、又其及ばさる所ある時は、普く諸方良醫を
  三オモテ  89
延請し、衆議を盡して、之を治し給ふ、豈草莽の
者の間然すべきことあらんや、且また不老不死の藥
の如も、其真にこれありと云にはあらず、秦の始皇、
漢の武帝に觀て見べし、假令これあるも、何そ臣輩
のあづかりしる所ならんや」と、嚴くこれを諭せし
  三ウラ
が、山妻曰、「しからば養生の訓を綴りて、これを奉らば、
いかん、妾又竊に聞、凡王侯貴人ハ、平生四體を勤め
玉わずして、或酒味色に過度し給ふもの多し、是
を以て、多く疾病を生し給ふことありと、疾病生れ
バ、いかに禀賦強健なりといへども、天壽を全ふする
  四オモテ  91
ことかたし、又貝原先生遺訓とて、『人の命ハ我にあり、
天にあらずと、老子いへり、人の命はもとより、天にうけ
て、生れ付たれども、養生よくすれば長し、養生
せされば短かし、長命ならんも短命ならんも、
我か心のまヽなり、身つよく長命に生れ付たる人
  四ウラ
も養生の術なかれは、早世す、虚弱にて短命な
るべきと見ゆる人も、保養よくすれば、命長し、是
皆人のしはざなれば、天にあらず、といへり、もし
すくれて、天然ミちかく生れ付たること、顔子などの
ごとくなる人にあらずば、己か養のちからによりて、長
  五オモテ  93
生するは理なり、たとへば火をうつミて、爐中
に蓄へば、久しくきえず、風吹所にあらはしおけ
ば、たちまちきゆ、蜜橘をあらはにおけば、とし
の内をもたもたず、もしふかく藏し、よく蓄へば、
夏までたもつが如し』となり、此に由て之を
  五ウラ
考ふれば、人よく常に養生をよくせば、必天
壽をたもたずといふことなし、良人、今其養生
訓を綴り、奉らは  公の壽康ならせ給わ
んこと疑なからん、はや々綴り奉るべし」と、臣曰、「汝が
寸心取へきに似たれども、汝か淺計、却て笑に堪た
  六オモテ
り、いかんとなれば  公の左右には、明臣良佐、常
に濟々たれば、豈秋毫の盡さざることあらんや、其
養生訓の如きも、古今先哲、既に盡せり、豈更に我
輩の贅することあらんや、汝且(シバラク)聒することなかれ、
我亦聽に堪へず」と、嚴しく之を呵責せしに、猶勤
  六ウラ
ば、獨語して曰、「妾をして醫をしらしめば、必良術
のなきにしもあるべからず」と、日夜に垂首して舎(ヤマ)ず
臣よつて一日按るに、臣が弱冠の頃、後藤某なる者、我
に不老不死の灸法を授しことあり、臣、原來これ
を實地に試るに、其効赫々たり、因て此一灸萬全の
  七オモテ  97
書を編ミ、捧げ奉らばやと、其一二をかたりければ、
山妻大悦し、「しかる良術のあるを何そ、妾がすヽめを
まち給ふや、急々其書を捧け奉るべし、然るに
公君、其灸効をたのミ給ふて、萬一また養生に
怠り給ふことあらば、譬は右に玉を執て、左りに是
  七ウラ
を捨給ふがごとし、亦何の裨益し給ふことかあらん、
良人、前にいふ、  公に明臣良佐濟々たれは、秋
毫の盡ざるなしと、しかれども妾按るに、凡君臣の
間、必恐れ憚の意あらん、是を以て瑣々たる末節
までは一々勝(アゲ)て諫べからず、しかる時ハ、所謂積で
  八オモテ  99
大を成もはかりがたし、養生訓の如きも、先哲既に
盡せりといへども、卷帙洪大  公、豈これを
逐一閲し給ふの暇あらんや、今良人就中(なかんずく)、尤卓見
なる者をゑらみ、繕修補綴して、以て一本に約し、
是をして一覽了然たらしめば、はやく其意を解釋
  八ウラ
し給ひ、自ら厚く守り給はん」と、臣謂へらく、「山妻が言、
其理なきにしもあらず、殊に養生は、酒味色を以て
切務とすれば、其行ひ專ら其人にありて、傍人
の毎事に制すべきにあらず、況や君臣の間に於
をや、しからば、別に其書を編輯するも、亦一補
  九オモテ  101
あらん」、こヽにおひて畧衆説を徧閲せしに、特貝原
益軒氏、及ひ香月牛山氏等の養生を盡せり、
臣、因て今兩家のゑらむ所に就て、其實地に徴し、益
ある説のミを捃摭し、且諸家の傑説、及ひ臣が愚
按などを附て、一本となし、題して衞生覽要と名
九ウラ
●く、遂に淨書して  公へ奉らんと欲す、伏て
冀は清間を以て、左右の明臣良醫に議せしめ、
或之を行ひ給はヽ(゛)、萬壽無疆は山嶽に等しからん、
伏冀は仁明恕察し給ひて  威尊を瀆冒
するの罪を深く咎給ふことなかれ、亦唯臣が老婆
十オモテ  103
心のミ、而てこの書、高貴へ奉るの法にあらずして、國
字を雜へ、并に傍訓を加ふる者は、普く故國の朝
野にも波及せしめ、婦女子までもよみやすからんこと
を希望すればなり、かくいふとしは、弘化二年乙巳
季夏吉旦、大坂堂嶋中街北滇堂に於て草莽
  十ウラ
の臣、松本元泰、誠恐恐惶謹白


 【注釋】
○草莽:田野。郷土に退居し、官についていない。 ○山妻:自分の妻の謙称。 ○儀衞:儀仗と衛士。 ○縱觀:思うがままに見る。 ○神武:英明にして勇武。 ○公上:君公。 ○闔國:全国。 ○不豫:貴人の病をいう。不例。 ○間然:欠点をついてあれこれと批判・非難すること。 ○四體を勤め:『論語』微子「四體不勤、五穀不分、孰為夫子(四體勤めず、五穀分たず、孰(たれ)をか夫子と為す)」。 ○禀賦:稟賦。ひとの天からさずかった資質。 ○貝原先生:1630-1714。益軒。江戸時代前期-中期の儒者、本草家、教育家。寛永7年11月14日生まれ。貝原寛斎の5男。筑前(ちくぜん)福岡藩主黒田光之につかえ、京都に遊学。寛文4年帰藩。陽明学から朱子学に転じるが、晩年には朱子学への疑問をまとめた「大疑録」もあらわす。教育、医学、本草などにも業績をのこした。正徳(しょうとく)4年8月27日死去。85歳。名は篤信。字(あざな)は子誠。通称は久兵衛。別号に損軒。著作はほかに「大和本草」「養生訓」「和俗童子訓」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説) ○遺訓:『養生訓』のこと。引用は卷一総論上に見える。 ○顔子:孔子の弟子、顔回。 ○寸心:心中。 ○良佐:賢い補佐。 ○濟々:陣容の盛大なるさま。 ○秋毫:秋に生え替わる鳥獣の細毛。後に微細なものの比喩。 ○聒:耳をさわがす。 ○垂首:首を垂れる。意気消沈したさま。 ○後藤:後藤艮山の系統か。 ○香月牛山:1656-1740。生年:明暦2(1656)。没年:元文5・3・16(1740・4・12) 江戸中期の医者。名は則真、字は啓益、牛山は号。貞庵、被髪翁とも号す。豊前国(福岡県)中津の人。のち筑前に移り、貝原益軒に儒学を、鶴原玄益に医学を学んだ。中津藩の医官として仕えたが、これを辞し京都に出て二条に医業を開いた。その医流は中国の金元時代の流れをくむいわゆる後世派に属し、当時の後世派医家の代表と目された。著書には『老人必要養草』『薬籠本草』『婦人寿草』『巻懐食鏡』などがある。生涯独身で子がなく、甥の則貫を養嗣としたが、則貫は牛山に先だって没したため、門人の則道を養嗣とし、香月家を継がせた。 (平野満) 朝日日本歴史人物事典。/『小児必用養育草』を著す。 ○弘化二年乙巳:1845年。 ○老婆心:〔仏語。年とった女性が必要以上に気を遣うことから〕自分の心遣いを、度を越しているかもしれないが、とへりくだっていう語。 ○季夏:旧暦六月。 ○松本元泰:1790-1883。江戸後期-明治時代の医師。寛政2年生まれ。大坂にでて医学を、さらに頼山陽(らい-さんよう)の門で漢学を、長崎で西洋医学をまなび、大坂堂島で開業。嘉永(かえい)3年郷里の伯耆(ほうき)(鳥取県)米子にかえり、牛種痘の普及につとめた。明治16年死去。94歳。著作に「一灸万全」、編著に「衛生覧要」。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

2010年11月16日火曜日

6-1 鍼道發秘

6-1鍼道發秘
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『鍼道發秘』(シ・五八九)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』6所収

  一オモテ
鍼道發秘序
醫有十三科鍼居其一焉夫疾病之初發也
大抵可鍼刺而已其既盛也可以湯藥治之
也鍼刺葢因輕揚之因重減之因衰彰之故
曰善用鍼者從陰引陽從陽引陰以右治左
以左治右以我治彼以表知裏以觀過不及
之理其從引左右彼我表裏及補瀉之術必
  一ウラ
有至理精蘊而存焉不然則焉得有若龎安
時診桐城孕婦七日不産而鍼其虎口使縮
手而遽下甄權治魯州刺史庫狄嶔風痺不
得挽弓針肩髃即可射者哉扁之言曰得之
於手而應於心口不能言有數而存焉於其
間可謂至言矣鍼之徃來刺之淺深進退遲
速動靜緩急如魚鼈之觸鈎若鳥銃之發炮
  二オモテ
通身貫徹手足瞤動譬諸良將布陣機會交
投矣葦原英俊幼而喪明研精鍼刺若練九
鍼尤工於毫鍼員利三稜等之術也是以王
侯大人固勿論焉士農工商之就於家而請
治者日以百數焉今茲辛卯夏著鍼道發秘
齎來乞序於余ヒ語之以謝肇淛之言曰古
之醫皆以鍼石灸炙為先藥餌次之今世灸
  二ウラ
艾唯施之風痺急卒之症鍼者百無一焉世
之專此技者苟讀斯書而知其有至理精蘊
也則鍼道復古我於發秘而見之英俊曰謹
奉教因書為序
天保二年重光單閼秋七月

東都醫官 岡本玄冶叔保撰  〔黒字「橘藏/之印」、白字「字曰/叔保」の印形〕



読み下し
醫に十三科有り。鍼、其の一に居す。夫れ疾病の初めて發(おこ)るや、
大抵、鍼刺して已(い)やす可し。其の既に盛んなるや、湯藥を以て之れを治す可し。
鍼刺は、葢し輕に因って之を揚げ、重に因って之を減ず。衰うるに因って之を彰す。故に
曰く、善く鍼を用いる者は、陰從り陽を引き、陽從り陰を引き、右を以て左を治し、
左を以て右を治し、我を以て彼を治し、表を以て裏を知り、以て過不及
の理を觀す。其の從引左右、彼我表裏、及び補瀉の術、必ず
  一ウラ
至理精蘊有りて存す。然らずんば(則ち)焉んぞ龎安
時、桐城の孕婦、七日産せざるを診して、其の虎口に鍼し、
手を縮せしむれば、遽かに下り、甄權、魯州刺史庫狄嶔、風痺
弓を挽くことを得ざるを治するに、肩髃に針して即ち射る可き若き者を有るを得んや。扁の言に曰く、之を
手に得て、心に應じ、口、言うこと能わず、數有りて其の
間に存す、と。至言と謂っつ可し。鍼の往來、刺の淺深、進退遲
速、動靜緩急、魚鼈の鈎に觸るるが如く、鳥銃の炮を發するが若し。
  二オモテ
通身貫徹、手足瞤動、諸(これ)を良將の陣を布くに譬うれば、機會交(こも)ごも
投ずるがごとし。葦原英俊、幼にして明を喪い、鍼刺を研精し、若く九
鍼を練し、尤も毫鍼、員利、三稜等の術に工(たくみ)なり。是(ここ)を以て王
侯大人は固(もと)より論勿し、士農工商の家に就いて
治を請う者、日に百を以て數う。今茲辛卯の夏、『鍼道發秘』を著し、
齎(もたら)し來たって、序を余に乞う。余、之に語るに、謝肇淛の言を以て、曰く、「古
の醫は、皆、鍼石灸炙を以て先と為し、藥餌は之に次ぐ。今世は灸
  二ウラ
艾唯だ之れを風痺急卒の症に施し、鍼する者は百に一無し」、と。世
の此の技を專らにする者、苟も斯の書を讀みて、其の至理精蘊有るを知らば、
(則ち)鍼道の古に復すること、我れ發秘に於いて之を見る。英俊曰く、「謹みて
教えを奉ず」、と。因りて書して序と為す。
天保二年重光單閼秋七月

東都醫官 岡本玄冶叔保撰


【注釋】
○醫有十三科:『元史』卷一百三 志第五十一 刑法二 學規:「諸醫人於十三科內、不能精通一科者、不得行醫。」 ○葢:「蓋」の異体字。 ○因輕揚之……:『素問』陰陽応象大論(05)「病之始起也、可刺而已。……故因其輕而揚之、因其重而減之、因其衰而彰之。」 ○故曰:陰陽応象大論:「故善用鍼者、從陰引陽、從陽引陰、以右治左、以左治右、以我知彼、以表知裏、以觀過與不及之理、見微得過、用之不殆」。
  一ウラ
○龎安時:『宋史』卷四百六十二 列傳第二百二十一 方技下:「龐安時字安常、蘄州蘄水人……嘗詣舒之桐城、有民家婦孕將產、七日而子不下、百術無所效.安時之弟子李百全適在傍舍、邀安時往視之.纔見、即連呼不死、令其家人以湯溫其腰腹、自為上下拊摩.孕者覺腸胃微痛、呻吟間生一男子.其家驚喜、而不知所以然.安時曰:「兒已出胞、而一手誤執母腸不復能脫、故非符藥所能為.吾隔腹捫兒手所在、鍼其虎口、既痛即縮手、所以遽生、無他術也.」取兒視之、右手虎口鍼痕存焉.其妙如此」」。また宋 張杲『醫説』卷二鍼灸にも見える。 ○甄權:『舊唐書』卷一百九十一 列傳第一百四十一 方伎:「甄權、許州扶溝人也.……隋魯州刺史庫狄嶔苦風患、手不得引弓、諸醫莫能療、權謂曰:「但將弓箭向垛、一鍼可以射矣.」鍼其肩隅一穴、應時即射.權之療疾、多此類也」。また宋 張杲『醫説』卷二鍼灸にも見える。 ○扁之言曰:『莊子』天道:「輪扁曰:“臣也、以臣之事觀之。斲輪、徐則甘而不固、疾則苦而不入。不徐不疾、得之於手而應於心、口不能言、有數存焉於其間。臣不能以喻臣之子、臣之子亦不能受之於臣、是以行年七十而老斲輪。古之人與其不可傳也死矣、然則君之所讀者、古人之糟魄已矣。”」。 ○徃:「往」の異体字。 ○魚鼈:魚とスッポン。広く水中に棲む生物を指す。 ○鈎:「鉤」の異体字。釣り針。 ○鳥銃:鳥嘴銃。鳥槍。銃の一種。近くの鳥なら粉砕され、やや離れたところの鳥はやっと原型をとどめる、ということで命名された。殺傷力が強い。 ○發炮:発砲に同じ。
  二オモテ
○通身:全身。 ○貫徹:貫通。通じて。 ○瞤動:ぴくぴく動く。 ○機會:適当な時機。 ○葦原英俊:寛政九(1797)四月十一日~安政四年(1857)一月二十四日。文政四年(1821)検校。天保三年(1832)法眼となり、葦原玄道と改めた。本姓は木曾氏。幼名は酒造太郎。名は義長。剃髪して英俊と改めた。(大浦慈觀、町泉寿郎兩先生による) ○幼而喪明:七歳のときに失明。 ○研精:緻密に研究する。 ○王侯大人:跋文を参照。 ○就:おもむく。今茲:ことし。 ○辛卯:天保二年(1831)。 ○謝肇淛:明のひと。『五雜組(五雜俎)』十六卷を著す。清代は禁書となった。 ○言曰:『五雜組』卷五:「古之醫、皆以針石灸艾為先、藥餌次之。今之灸艾、惟施之風痹急卒之症、針者百無一焉、石則絕不傳矣。」 
  二ウラ
○天保二年:1831年。辛卯年。 ○重光:辛の異名。 ○單閼:卯の異名。 ○東都:江戸。 ○醫官:幕府の医師。 ○岡本玄冶叔保:八世、法印崇室。叔保は字。(横田觀風先生による)初代は、天正(てんしょう)15年生まれ。曲直瀬玄朔(まなせ-げんさく)にまなぶ。元和(げんな)9年将軍徳川秀忠の侍医となり、のち将軍徳川家光の病をなおし、1000石の領地をえる。京都と江戸を往復、京都にいるときは天皇を診療した。正保(しょうほ)2年4月20日死去。59歳。京都出身。名は宗什、諸品。号は啓迪院。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)橘は、姓。
葦原検校英俊一系出於木曾義仲義仲十
九世孫曰義昌豊大閤時移封於下總阿知
戸食邑一萬石其子曰義利有故國除義利
六世孫曰義忠不事諸侯以劔法教授焉其
子忠大夫義富繼業遊歷諸國文化元年卒
于東都是英俊一之父也英俊幼而頴悟七
  一ウラ
歳喪明冒葦原氏以鍼醫為業深造其妙遊
事於松代侯賜月俸二十口謁尾紀二公又
應 儀同公及德川兵部卿之召他列侯貴
戚之請治療者不可勝數也居恆慨然歎世
醫之不熟鍼術而多誤人命矣今茲天保辛
卯夏著此書來乞言余曰醫之不熟術者臨
於死生緩急之地坐見其死草根木皮亦無
  二オモテ
所施矣若夫魏安行妻風痿十年不起王克
明一針而動履如初朱彦修治女子之病衆
患皆除唯頰丹不滅葛可久刺乳立消則術
妙皆入於神境矣是以軒轅岐伯娓娓論而
不置焉世醫之讀此書苟得肯綮焉則譬猶
射者交射矢鋒相觸墜於地而塵不揚御者
取道致遠氣力有餘未甞覺山谷之嶮原隰
  二ウラ
之夷視之一也鍼道發秘於是乎出焉英俊
甞建碑於粟津使余記祖先之事蹟焉因書
為跋

東都    信齋井田寛仁甫撰
読み下し
葦原検校英俊一は、系、木曾義仲に出づ。義仲十
九世の孫を義昌と曰う。豊大閤の時、封を下總阿知
戸に移す。食邑一萬石。其の子を義利と曰う。故有り、國除く。義利
六世孫を義忠と曰う。諸侯に事えず。劔法を以て教授す。其の
子忠大夫義富、業を繼ぎて諸國に遊歷す。文化元年、
東都に卒す。是れ英俊一の父なり。英俊幼にして頴悟、七
  一ウラ
歳、明を喪う。葦原氏を冒す。鍼醫を以て業と為す。深く其の妙に造(いた)る。
松代侯に遊事して、月俸二十口を賜う。尾紀二公に謁し、又
儀同公及び德川兵部卿の召に應ず。他の列侯貴
戚の治療を請う者、勝(あ)げて數う可からざるなり。居恆慨然として世
醫の鍼術に熟せず、而して多く人命を誤ることを歎ず。今茲天保辛
卯の夏、此の書を著し、來たって言を乞う。余曰く、醫の術に熟せざる者は、
死生緩急の地に臨んで、坐ながら其の死を見る。草根木皮も、亦
  二オモテ
施す所無し。夫(か)の魏安行の妻、風痿十年起たず、王克
明、一たび針して、而して動履、初めの如く、朱彦修、女子の病を治するに、衆
患皆除くも、唯だ頰丹滅せず、葛可久、乳に刺して立ちどころに消するが若きは、則ち術の
妙、皆(とも)に神境に入ればなり。是(ここ)を以て軒轅岐伯、娓娓として論じて
置かず。世醫の此の書を讀みて、苟も肯綮を得るときは、(則ち)譬えば猶お
射者交ごも射て、矢鋒相い觸れ、地に墜つるも塵揚らず、御者
道を取って遠を致し、氣力餘り有り、未だ嘗て山谷の嶮、原隰
  二ウラ
の夷を覺えず、之を視ること一なるがごときなり。鍼道發秘、是(ここ)に於いて出づ。英俊
嘗て碑を粟津に建つ。余をして祖先の事蹟を記せしむ。因って書して
跋と為す。

東都    信齋井田寛仁甫撰
【注釋】
○葦原検校英俊一:以下、横田観風著『新版 鍼道発秘講義』(日本の医学社、二〇〇六年、大浦慈観、町泉寿郎論文)を引用する。補足するのみ。 ○木曾義仲:源義仲(みなもとのよしなか)の通称。久寿1(1154) ~元暦1.1.20(1184.3.4)。平安時代末期の武将。源為義の子義賢の次男。(杉橋隆夫)『朝日日本歴史人物事典』の解説から ○義昌:木曾義昌(天文9(1540)~文禄4.3.17(1595.4.26))。安土桃山時代の武将。信濃国(長野県)木曾の領主義康の子。伊予守、左馬頭。弘治1(1555)年に甲斐(山梨県)の武田信玄に下り、その娘を妻とした。武田氏のもとで支配域を拡大し、木曾郡全域を領した。武田氏に衰えがみえ始めると、いち早く織田信長に内通する。天正10(1582) 年2月これを知った武田勝頼の軍が木曾に攻めてくると、織田信忠の援軍を得て鳥居峠で破った。同年3月信長から安曇・筑摩両郡を加増されたが、6月に信長が死んだため実際の支配はできず、2郡の領有を小笠原貞慶と争うことになる。同18年の小田原攻めののちは徳川家康の関東移封に従い、下総の海上郡に1万石を領して網戸(千葉県旭市)に居館を構えた。山梨県では裏切り者とされ、木曾では勇敢な領主とされるが、小領主として戦国時代を泳ぎ渡った典型的な人物である。なお、没した日を13日とする説もある。<参考文献>『岐蘇古今沿革志』『木曾福島町史』 (笹本正治)『朝日日本歴史人物事典』の解説。 ○豊大閤:豊臣秀吉。天文6.2(1537)~慶長3.8.18(1598.9.18)。安土桃山時代の武将。(林屋辰三郎)『朝日日本歴史人物事典』の解説から ○下總:現在の千葉県北部と茨城県の南部にあたる。 ○阿知戸:あじと。 ○食邑:領地。 ○義利:1577‐1639。織豊時代の武将。天正(てんしょう)5年生まれ。木曾義昌(よしまさ)の長男。母は武田信玄の娘真竜院。天正18年下総(しもうさ)蘆戸(あじと)(千葉県)1万石をつぐ。慶長5年関ケ原の戦いで石田三成方につき、所領没収、追放となった。叔父木曾義豊を殺害したためともいわれる。寛永16年死去。63歳。通称は仙三郎。講談社デジタル版 『日本人名大辞典』+Plusの解説より ○有故國除:上文を参照。 ○義忠:天明二年没。『新版』335頁。 ○不事諸侯:大名に仕官しない。浪人。 ○忠大夫義富:未詳。 ○文化元年:一八〇四年。 ○卒:死亡する。 ○東都:江戸。 ○頴悟:穎悟。聡明なることひとに過ぐるをいう。 
  一ウラ
○喪明:失明。 ○冒:他人の姓を名乗る。 ○葦原氏:父の後妻の姓。勾当叙任を期に葦原氏を称す。 ○造:至る。到達する。 ○遊事:つかえる。「遊」も「仕官する」意。 ○松代侯:松代藩(まつしろはん)は、江戸時代、信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)にあった藩。信濃国内の藩では最高の石高を有した。長野県長野市の松代城を居城とし川中島四郡を領した。真田家。Wikipedia。六代、幸公。七代、幸専(ゆきたか)。八代、幸貫(ゆきつら)。 ○月俸二十口:二十人扶持。幕府では、一人扶持で一日当たり男五合、女三合の玄米が毎月支給され、他藩もこれにならった。 ○尾紀二公:尾張藩と紀州和歌山藩の藩主。 ○儀同公:一橋家第二代当主、治済(はるさだ)。 ○德川兵部卿:第十一代将軍、徳川家斉。 ○他列侯貴戚:町論文によれば、鍋島侯など。 ○居恆:日常。つねに。 ○慨然:感慨深く。 ○世醫:代々医学をもって職業としているひと。 ○誤人命:ひとの生命を傷つける。 ○今茲:ことし。 ○天保辛卯:天保二年(1831)。 ○乞言:教えの言葉を請い求める。ここでいう「言」とは、序跋のことか。 ○死生:死亡。 ○緩急:危急。緊急のとき。 ○坐:空しく。何の対処もとれずにいる。 ○草根木皮:薬物。 
  二オモテ
○若夫:~に関しては。 ○魏安行:『大漢和辞典』12-698。宋、饒州楽平のひと。字は彦成。滁州知などを歴任。 ○王克明:『宋史』卷四百六十二/列傳第二百二十一/方技下:「王克明、字彥昭、其始饒州樂平人、後徙湖州烏程縣。紹興、乾道間名醫也。……鍼灸尤精……魏安行妻風痿十年不起、克明施鍼、而步履如初。」 ○朱彦修:朱丹溪。(1281~1358年)、名震亨、字彦修、義烏(今浙江義烏市)赤岸の人。金元四大家のひとり。 ○葛可久:『明史』卷二百九十九 列傳第一百八十七 方伎/葛乾孫「葛乾孫、字可久、長洲人。父應雷、以醫名……」。(1305-1353)。元代、平江路の人。『古今圖書集成』醫部全録卷五百十・醫術名流列傳・明・葛乾孫に引ける『異林』に同様の内容が見える(葛乾孫は「兩乳」に刺した)が、井田信齋は『五雜組』から引用したのであろう。『五雜組』卷五:「魏安行妻風痿十年不起、王克明一針而動履如初。朱彥修治女子療疾皆愈、唯頰丹不滅、葛可久刺乳而立消。」 ○軒轅:黄帝の名号。姓は公孫、軒轅の丘に生まれたため、軒轅氏と称される。 ○岐伯:黄帝の臣。医学に精通し、黄帝と問答して、その内容は『内経』に記載される。 ○娓娓:談論して倦かず、勤勉なるさまをいう。 ○世醫:代々医学を業とするひと。 ○肯綮:事物の要所。 ○交:一斉に。 ○矢鋒:矢の尖端。『列子』湯問:「(紀昌 飛衛)相遇於野、二人交射;中路矢鋒相觸、而墜於地、而塵不揚。」弓の名人飛衛がその弟子紀昌に技を伝えたが、紀昌は天下の敵は師のみとして謀殺しようとして、互いに矢を射た。それが中央で矢の尖端がぶつかって地に落ちた。 ○御者:『列子』湯問:「造父之始從習御也……取道致遠、而氣力有餘、誠得其術也。……未嘗覺山谷之險。原隰之夷、視之一也。吾術窮矣。汝其識之。」 ○嶮:地勢が険悪で進みがたい。 ○原隰:広大にして平坦なところと低く湿った地。
  二ウラ
○夷:平坦。 ○粟津:いま、滋賀県大津市。 ○祖先之事蹟:木曾義仲の経歴など。横田「葦原検校について」を参照。碑文は義仲寺に現存する。 ○東都:江戸。 ○信齋井田寛仁:『諸葛孔明伝註』(文政一〇自序、同一二跋)に注す。『知道詩篇』(初編文政三序、続編天保三跋)を編集する。名は経綸、寛。字は子裕。号は信斎。(『新版 鍼道発秘講義』294頁)天保四年(1833)没。27歳。


語曰内不足者急於人知霈焉有餘厥聞四馳是以
達人專修其道也若夫庖丁之解牛王良之御車飛
衛之學射扁鵲之診病則其所好者道也進乎技矣
所謂霈焉有餘厥聞四馳何以急於人知乎葦原撿
挍之鍼術亦如四子則醫門多疾者於是可知矣天
保二庚寅十一月晦日初見於
大君翌年壬辰九月十四日重有
  三ウラ
命新 賜俸米準侍醫四年癸巳四月有佩刀之
命是古之所無也可謂德充於内應物於外者矣徃
歳著鍼道發秘官醫岡本玄冶法眼有題辭男信齋
亦作之序則何別以贅語為雖然其需不可拒也因
書登庸寵遇之次序以跋
天保五年癸巳春三月

          退耕老人撰〔白字の「田」と「龍」字の印形あり〕

読み下し
語に曰く、内、足らざる者は、人の知ることを急にす。霈焉として餘り有れば、厥の聞、四(よも)に馳す、と。是(ここ)を以て
達人は專ら其の道を修む。夫(か)の庖丁の牛を解き、王良の車を御し、飛
衛の射を學び、扁鵲の病を診するが若きは、則ち其の好む所の者は道なり。技より進む。
所謂る霈焉として餘り有り、厥の聞、四に馳す、何を以て人の知ることを急にせんや。葦原撿
校の鍼術も、亦た四子の如かるときは、則ち醫門多疾者、是(ここ)に於いて知る可し。天
保二庚寅十一月晦日、初めて
大君に見(まみ)ゆ。翌年壬辰九月十四日、重ねて
  三ウラ
命有り、新たに 俸米を賜う。侍醫に準ず。四年癸巳四月。佩刀の
命有り。是れ古の無き所なり。謂っつ可し、德、内に充ちて、物に、外に應ずる者と。往
歳、鍼道發秘を著す。官醫岡本玄冶法眼、題辭有り。男信齋も
亦た之れが序を作るときは、(則ち)何ぞ別に贅語を以て為せん。然りと雖も其の需(もと)め拒む可からざるなり。因って
登庸寵遇の次序を書して以て跋す。
天保五年癸巳春三月

          退耕老人撰す
【注釋】
○語曰:韓愈『五箴五首』知名箴:「內不足者、急於人知;霈焉有餘、厥聞四馳。」 ○霈焉有餘厥聞:名誉、名望。 ○四:四方。 ○庖丁之解牛:『莊子』養生主:「庖丁為文惠君解牛、手之所觸、肩之所倚、足之所履、膝之所踦、砉然嚮然、奏刀騞然、莫不中音。合於《桑林》之舞、乃中《經首》之會。文惠君曰:“譆!善哉!技蓋至此乎?”庖丁釋刀對曰:“臣之所好者道也、進乎技矣……」。 ○王良之御車:『荀子』王霸:「王良、造父者、善服馭者也。」 ○飛衛之學射:『列子』湯問:「甘蠅、古之善射者、彀弓而獸伏鳥下。弟子名飛衛、學射于甘蠅、而巧過其師。紀昌者、又學射于飛衛。飛衛曰:“爾先學不瞬、而後可言射矣。”紀昌歸、偃臥其妻之機下、以目承牽挺。二年之後、雖錐末倒眥而不瞬也。以告飛衛。飛衛曰:“未也、必學視而後可。視小如大、視微如著、而後告我。”昌以氂懸虱于牖。南面而望之。旬日之間、浸大也;三年之後、如車輪焉。以睹餘物、皆丘山也。乃以燕角之弧、朔蓬之簳、射之、貫虱之心、而懸不絕。以告飛衛。飛衛高蹈拊膺曰:“汝得之矣!“紀昌既盡衛之術、計天下之敵己者一人而已、乃謀殺飛衛。相遇于野、二人交射;中路端鋒相觸、而墜于地、而塵不揚。飛衛之矢先窮。紀昌遺一矢、既發、飛衛以棘刺之端扞之、而無差焉。于是二子泣而投弓、相拜于塗、請為父子。尅臂以誓、不得告術于人。」 ○扁鵲之診病:『史記』扁鵲倉公列傳を参照。 ○挍:「校」に同じ。 ○四子:庖丁、王良、飛衛、扁鵲。 ○天保二庚寅:天保二年(1831)は庚寅ではなく辛卯。 ○初見於大君:将軍にお目見え。原文、「大君」は一字台頭。寄合医師となったか。 ○翌年壬辰:天保三年。
  三ウラ
○賜俸米:二十人扶持。 ○準侍醫:奥医師となる。 ○四年癸巳:1833年。 ○佩刀:帯刀。打刀と脇差の 2本の刀を腰に帯びること。 ○德充於内應物於外:『莊子』德充符。篇名に関する郭象注:「德充于内、應物于外、外内玄合、信若符命、而遺其形骸也。」 ○徃歳:往年。過去。 ○岡本玄冶法眼:序の注を参照。 ○男:子息。 ○信齋:井田信齋。 ○贅語:贅言。余計な言辞。 ○登庸:人才を登用する。 ○寵遇:特別に恩寵ある待遇を受ける。 ○次序:次第。 ○天保五年癸巳:天保五年(1834)は甲午。前文に「四年癸巳」とある。 ○退耕老人:井田赤城。名は龍。通称は定七郎。字は雲卿。赤城・愚直翁・退耕処士と号す。長尾村神木(神奈川県川崎市高津区)の出身であるため、著作では長尾赤城と称することも多い。明和五年(1768)生まれ(一説、明和七年)、天保十三年(1842)没。大和高取藩に仕える(江戸詰)。晩年長尾に帰り、退耕処士と号した。

2010年11月13日土曜日

5-8 刺灸必用

5-8刺灸必用
武田科学振興財団杏雨書屋所蔵『刺灸必用』(乾三六二八)
オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』5所収

凡例
一鍼灸之書世間固多然至於經絡主治
 約而備者則甚寡若有之則卷帙浩繁
 皆不便於挾携先師牛淵先生小坂營昇字元
 祐亀山之藩醫有深慨于此故有兪穴捷徑之
 作近者又選定必用盖捷徑者解經絡
 必用者記主治二書相通而其意全可
  一ウラ
 謂兼備矣
一此書先師隨見而採摘古今主治最要
 者故千金外臺或載或否其意一在去
 煩而就約其名必用亦有以也
一經穴次序一依於捷徑〃〃大約本于
 滑壽發揮然發揮之為書脱誤頗多今
 盡補正焉且註新補字於某穴下而以
  二オモテ
 便于搜索
一各經氣血多少則刺灸之所?矣豈可
 忽乎且經穴中刺灸禁忌舊藁闕落者
 居多今皆因諸書而増補
一舊藁題曰針灸必用其章竊以為針者
 物也灸者用也不可併言故更題曰刺
 灸必用矣先師亦可無遺憾于地下也
  二ウラ
 文化丙子秋日   谷其章識

  【読み下し】
凡例
一(ひとつ)、鍼灸の書、世間固(もと)より多し。然れども經絡主治の
 約にして備わる者に至っては、則ち甚だ寡し。若(も)し之れ有れば、則ち卷帙浩繁、
 皆な挾携に不便なり。先師牛淵先生小坂營昇、字は元
 祐、亀山の藩醫、此に深き慨き有り。故に『兪穴捷徑』の
 作有り。近者(ちかごろ)、又た『必用』を選定す。蓋し『捷徑』は、經絡を解し、
 『必用』は、主治を記す。二書相い通じて、而して其の意全し。
  一ウラ
 兼ね備わると謂っつ可し。
一、此の書は、先師、見るに隨いて古今の主治の最も要なる
 者を採摘す。故に『千金』『外臺』、或いは載せ、或いは否(しかせ)ず。其の意は一に
 煩を去りて約に就くに在り。其の名、『必用』も亦た以(ゆえ)有るなり。
一、經穴の次序は、一に『捷徑』に依る。『捷徑』は大約、
 滑壽が『發揮』に本づく。然れども『發揮』の書為(た)るや、脱誤頗る多し。今ま
 盡く補正す。且つ註して新たに字を某穴の下に補い、而して以て
  二オモテ
 搜索に便にす。
一、各經の氣血の多少は、則ち刺灸の?する所なり。豈に
 忽(ゆるが)せにす可けんや。且つ經穴中の刺灸禁忌、舊藁、闕落する者
 多きに居る。今ま皆な諸書に因りて増補す。
一、舊藁題して『針灸必用』と曰う。其章竊(ひそ)かに以為(おもえ)らく、針なる者は
 物なり。灸なる者は用なり。併言す可からず。故に題を更えて『刺
 灸必用』と曰う。先師も亦た地下に遺憾無かる可けんや。
  二ウラ
 文化丙子秋日   谷其章識す

  【注釋】
○約:簡要、精練。 ○備:完備。そろっている。 ○卷帙浩繁:書籍が非常に多い。ここでは一冊の書籍でもその分量が非常に多いこと。 ○挾携:携帯。 ○先師:亡くなられた先生。 ○亀山:丹波亀山藩。 ○兪穴捷徑:寛政五年(一七九三)刊。一巻。一冊。 
  一ウラ
○千金:唐・孫思邈『備急千金要方』『千金翼方』。 ○外臺:唐・王燾『外臺祕要方』。 ○滑壽發揮:元・滑壽『十四経發揮』。 
  二オモテ
○闕落:欠落。 ○居多:多数を占める。 ○其章:本書の鈔録者、谷其章。 ○物:物質。名詞。 ○用:働き。動詞。 ○地下:冥土。
  二ウラ
○文化丙子:文化十三年(1826)。 ○谷其章:字は子憲。本書の鈔録者。

5-7 十四經全圖

5-7十四經全圖
京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『十四經全圖』(シ・一三七)
オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』5所収

十四經全圖序
醫之療疾有三術曰鍼曰灸曰湯藥而湯藥可
以通徹臓腑則瀉實補虚之力莫過焉若夫回死
眼前立功言下則鍼與灸之力居多焉而鍼灸之要
專在臨症取其兪穴中其肯綮則非亦能審其
臓腑與經絡洞見邪之所伏匿使之無所逃遁者則
不能也昔在太朴之世未有藥物專用砭焫以醫百
病無㕮咀搗篩之勞而躋人於壽域斯此道之鼻
  一ウラ
祖而已矣然則用之當今寒郷乏藥物所與其宜
用者其功亦猶古矣予師牛淵先生向已著經穴
籑要以問于四方今亦著十四經全圖五彩特別
臓腑形色以使初學觀而易辨其用心勤矣後
之君子能補其闕正其所不及則是師之意云
  文化九年壬申仲冬
     水府醫官 大橋弘道子稽識


  読み下し
十四經全圖序
醫の疾を療する、三術有り。曰く鍼、曰く灸、曰く湯藥。而して湯藥、
以て臓腑に通徹す可きときは、實を瀉し虚を補うの力、焉(これ)に過ぐるは莫し。若し夫れ死を
眼前に回(かえ)し、功を言下に立つるは、鍼と灸との力、多きに居る。而して鍼灸の要、
專ら症に臨んで其の兪穴を取り、其の肯綮に中(あた)るに在るときは、(則ち)亦た能く其の
臓腑と經絡とを審(つまび)らかにし、邪の伏匿する所を洞見し、之をして逃(のが)れ遁(かく)るる所無からしむる者に非ざるときは、
能わざるなり。昔在(むかし)太朴の世未だ藥物有らず。專ら砭焫を用いて、以て百
病を醫す。㕮咀搗篩の勞無くして、而して人を壽域に躋す。斯れ此の道の鼻
  一ウラ
祖のみ。然らば則ち之を當今寒郷、藥物に乏しき所と、其の宜しく
用ゆべき者とに用いば、其の功亦た猶お古(いにしえ)のごとくならん。予が師、牛淵先生、向(さき)に已に經穴
籑要を著わし、以て四方に問う。今ま亦た十四經全圖を著わし、五彩特(こと)に
臓腑の形色を別ち、以て初學をして觀て辨じ易からしむ。其の心を用ゆること勤めたり。後の君子能く其の闕を補い、其の及ばざる所を正さば、則ち是れ師の意と云う。
  文化九年壬申仲冬
     水府醫官 大橋弘道子稽識(しる)す

【注釋】
○回死:「起死回生(瀕死の重病人を救う)」と同意であろう。 ○言下:すぐに。 ○居多:多数を占める。 ○肯綮:「肯」は骨についた肉、「綮」は肉と骨のつなぎめの意から。物事の急所。大切な所。事の要所。 ○洞見:洞察。物事の先の先まで見抜く。 ○伏匿:かくれる。 ○太朴:太古素朴。 ○砭:砭石。石針。基本的に膿や血を出すのに用いた。 ○焫:もやす。火鍼。 ○醫:動詞用法。いやす。治療する。 ○百病:各種の疾病。あらゆる病気。 ○㕮咀:もともとは「噛み砕く」意。薬物をきざむこと。 ○搗篩:突き砕き、ふるいにかける。 ○躋:のぼらす。 ○壽域:長壽の域。 ○鼻祖:始祖、創始者。
  一ウラ
○當今:現在。 ○寒郷:貧しい地方。 ○牛淵先生:小坂(阪)元祐。 ○經穴籑要:文化七(1810)年序。『鍼灸典籍大系』『鍼灸典籍集成』などに影印収録。 ○文化九年壬申:1812年。 ○仲冬:旧暦十一月。 ○水府:水戸。 ○大橋弘道子稽:


明王之為天下正人倫開教化者文也誅亂逆禁姦宄者武也有
文而無武則無以威天下矣有武而無文則民畏不親也文武相
須而天下治焉良毉之為疾辛苦甘酸以治之於内者藥石也穴
兪繫落以治之於外者鍼灸也或藥石不達者鍼灸之或鍼灸不
行者藥石之有藥石而無鍼灸有鍼灸而無藥石理療之道堙而
不通是故古之明毉皆藥石鍼灸相須相須以藥石鍼灸者譬猶
文武之為天下然而近世毉流日就陵夷到明堂兪經之學最晻
昧矣龜山毉官牛淵先生以沈實之資駕深湛之思奮然特起拾
之於虞泉以五十年刻苦盡極其淵源於鍼灸繫落之一學以為
己任矣嗚呼於是乎明堂之晦也杲〃而復明焉從是海内志軒
ウラ
岐之學者勃然歃血明堂同盟兪經以先生為桓文者日月蜂起
向先生所撰經穴籑要奇偶繫落全備且考據精確纂集博洽雖
然特脱緫繫全圖今又門人欲以此補之矣夫各繫以各色作之
者其來舊矣孫眞人云十二繫落五色作之竒繫八脉以緑色為
之石藏用繪為正背兩圖十二繫落各以其色別之此其尤彰著
者也其他姑置明眼之士皆能知之又何俟予喋々焉凡今日泝
明堂之源者不可不以此為櫓楫也刻成而先生閲之命予曰此
舉也子為一言辨其篇端嗟乎予小生黄口而乳臭又何言乎又
何言乎雖然先生之命峻辤之亦非禮也因聊表各繫各色之説
并論先生於此學為一代之主盟矣或以予為阿所好者亦所不
辤也 文化壬申仲冬幾望 愛日 阪輪杲卿文登拜題


読み下し
明王の天下を為(おさ)むるに、人倫を正し教化を開く者は、文なり。亂逆を誅し、姦宄を禁ずる者は、武なり。
文有りて武無くんば、則ち以て天下を威(おど)すこと無し。武有りて文無くんば、則ち民畏れて親しまざるなり。文武相
須(もち)いて天下治まる。良醫の疾を為(おさ)むるに、辛苦甘酸、以て之を内に治むる者は、藥石なり。穴
兪繫落、以て之を外に治むる者は、鍼灸なり。或いは藥石達せざる者は、之に鍼灸し、或いは鍼灸
行わざる者は、之に藥石す。藥石有りて鍼灸無く、鍼灸有りて藥石無くば、理療の道堙(ふさ)がりて
通ぜず。是の故に古(いにしえ)の明醫は、皆な藥石鍼灸相須(もち)う。相い須いるに藥石鍼灸を以てする者は,譬えば猶お
文武の天下を為(おさ)むるがごとし。然り而して近世の醫流、日に陵夷に就き、明堂兪經の學に到っては、最も晻
昧なり。龜山醫官牛淵先生、沈實の資を以て、深湛の思を駕し、奮然として特に起ち、
之を虞泉に拾い、五十年の刻苦を以て、盡く其の淵源を極め、鍼灸繫落の一學に於いて、以て
己の任と為す。嗚呼、是(ここ)に於いて明堂の晦きや、杲杲として復た明らかなり。是れに從り海内、軒
ウラ
岐の學を志す者勃然として血を明堂に歃(すす)りて兪經を同盟し、先生を以て桓文と為す者、日々月々蜂起し、
向(さき)に先生撰する所の經穴籑要、奇偶繫落全く備わる。且つ考據は精確、纂集は博洽なり。
然ると雖も特に緫繫の全圖を脱す。今ま又た門人、此を以て之を補わんと欲す。夫れ各繫、各色を以て之を作る
者、其の來たるや舊(ふる)し。孫眞人云う、十二繫落、五色もて之を作る、竒繫八脉は緑色を以て
之を為す、と。石藏用繪(えが)いて正背兩圖を為(つく)り、十二繫落、各おの其の色を以て之を別つ。此れ其の尤も彰著なる
者なり。其の他は姑く置く。明眼の士、皆な能く之を知る。又た何ぞ予が喋々を俟たん。凡そ今日
明堂の源に泝(さかのぼ)る者、此れを以て櫓楫と為さざる可からざるなり。刻成りて先生、之を閲(けみ)す。予に命じて曰く、此の
舉や、子、一言を為し、其の篇端に辨ぜよ、と。嗟乎(ああ)、予小生黄口にして乳臭し。又た何をか言わんや。又た
何をか言わんや。然ると雖も、先生の命、之を峻辭するも、亦た禮に非ざるなり。因りて聊か各繫各色の説を表し、
并びに先生此の學に於いて一代の主盟を為すを論ず。或いは予を以て好む所に阿(おもね)ると為す者も、亦た
辭せざる所なり。 文化壬申仲冬幾望 愛日 阪輪杲卿文登拜して題す

【注釋】
○明王:聖明なる君主。 ○為:ここでは「治」と同意。統治する。治療する。 ○人倫:人として守るべき道。 ○教化:教え導き感化して善に進ませる。 ○文:礼節。文化・教養・学術全般。 ○誅:討伐する。懲罰する。 ○亂逆:国家や社会の安定をかき乱すこと。 ○姦宄:盗賊など法を犯し乱をなすこと。 ○武:軍事、暴力などに関する事柄。「文」の対。 ○威:震え上がらせて従わせる。威圧する。 ○辛苦甘酸:五味。文のリズムを重視して「鹹」は省略されている。 ○藥石:ここでは薬物の意。もともとは方薬と砭石。ひいては治療一般。 ○穴兪:いわゆる「ツボ」。 ○繫落:経絡。「繫」は「つなぐ」意。「落」はおそらく『漢書』芸文志にある「醫經者、原人血脈經落骨髓陰陽表裏……」による。 ○理療:治療。「理」はおさめる。 ○堙:埋没する。うもれる。 ○然而:逆接の接続詞。 ○陵夷:徐々に衰微すること。 ○明堂兪經之學:兪穴と経絡に関する学問。 ○晻昧:暗い。隠れて埋没する。 ○龜山:丹後亀山藩。 ○牛淵先生:小坂(阪)元祐。 ○沈實:着実。深く篤実。 ○資:資質。天から授かった才智。 ○駕:乗せる。動かす。 ○深湛:深く厚い。深く透徹した。 ○奮然:奮い立つさま。 ○虞泉:虞淵。伝説で日が没するところをいう。ここでは西方から将来した文献,漢籍のことであろう。神麹斎先生のコメントにしたがい改めた。 ○淵源:事物の本原。 ○於是乎:順接の接続詞。 ○杲杲:日光の明るいさま。 ○海内:天下。四海の内。 ○軒岐之學:医学。黄帝(軒轅)と岐伯の学。
ウラ
○勃然:奮起するさま。 ○歃血:血をすすって盟誓すること。 ○明堂:古代の天子が政治を行う場所。医学では、経脈・経穴と関連する書籍の題名として用いられることが多い。 ○桓文:春秋時代の覇者である、斉の桓公と晋の文公をまとめた言い方。 ○經穴籑要:文化七(1810)年刊行。 ○奇偶繫落:穴がひとつしかない督脈・任脈とその他の左右対称にある経絡のことか。 ○考據:考証。 ○博洽:学識がひろい。 ○緫繫全圖:すべての経脈を網羅した図。 ○孫眞人云:『備急千金要方』卷二十九・明堂三人圖第一「其十二經脈、五色作之、奇經以綠色為之」。 ○石藏用:宋代の医家。石用之。藏用は字。明・邱濬撰『重編瓊臺藁』巻九所収『明堂經絡前圖序』に「有石藏用者、按其状、繪為正背二圖、十二經絡、各以其色別之」とある。 ○喋々:口数の多いさま。 ○櫓楫:舟を漕ぐための櫂。櫓は大きく、楫は短い。 ○小生:自称。謙遜していう。 ○黄口:ひな鳥のくちばし。幼い子。 ○乳臭:口中に乳の味が残っている。幼くて無知なことの比喩。 ○峻辤:「辤」は「辭」の異体字。固辞する。 ○文化壬申:文化九(一八一二)年。 ○仲冬:旧暦十一月。 ○幾望:陰暦の十四日。 ○愛日 阪輪杲卿文登:未詳。『臨床鍼灸古典全書』解説は、「杲」を「果」にあやまる。


刻十四經惣圖跋
夫醫家之有經猶地有山川
也地而無山川則不能導水脉
也醫而廢經絡則不能施針藥
矣其所關也不亦重乎方今之
世操刀圭者不知幾千萬人矣
而精心於經絡者如牛淵先生
者一人而已先生之精微於經
  十六ウラ
絡天下之所知也不待小子之
言嚮著經穴籑要腧穴捷径既
行於世今又校定十四經舊圖
是正其紕繆授剞劂氏小子不
堪其雀躍之情敢以蛇足跋卷
末云
文化九年壬申十二月
本多春泰謹識


  読み下し
刻十四經惣圖跋
夫(そ)れ醫家の經有るは、猶お地に山川有るがごとき
なり。地にして山川無ければ、則ち水脉を導くこと能わざる
なり。醫にして經絡を廢すれば、則ち針藥を施すこと能わざる
なり。其の關わる所や、亦た重からざるや。方今の
世に刀圭を操る者、幾千萬人なるを知らず。
而して心を經絡に精にする者、牛淵先生の如き
者は、一人のみ。先生の經
  十六ウラ
絡に精微なるは、天下の知る所なり。小子の
言を待たず。嚮(さき)に經穴籑要、腧穴捷径を著し、既に
世に行わる。今ま又た十四經舊圖を校定し、
其の紕繆を是正し、剞劂氏に授く。小子、
其の雀躍の情に堪ず、敢えて蛇足を以て、卷
末に跋すと云う。
文化九年壬申十二月
本多春泰謹識

2010年11月11日木曜日

5-6 兪穴捷徑

5-6兪穴捷徑
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『兪穴捷徑』(ユ・一)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』5所収

兪穴捷徑序
盖人身三百六十五穴定之以尺寸求之以肉
郄骨間脉動是自易易者爾然而甲乙以降諸
家紛綸無有確説矧肥瘠修短其異如面一痏
之鍼一丸之艾生命之所繫為其學不亦難乎
龜山醫員小坂元祐受業於家君之門覃思研
精殆二十年矣頃者倣于天聖之舊式手製偶
人點誌兪穴且著斯編以並行焉盖其用志也
  一ウラ
勤矣一鍼一艾先熟斯編然後施之必無孔穴
乖錯之患耶刈繁而就簡自難而入易寔蒙士
之捷徑也元祐為人忠實誠愨同人推稱長者
寛政癸丑冬十二月
法眼侍醫兼醫學教諭丹波元簡廉夫譔

  【訓み下し】
兪穴捷徑序
蓋し人身三百六十五穴、之を定むるに尺寸を以てし、之を求むるに肉
郄骨間脉動を以てす。是れ自ら易易たる者のみ。然り而して『甲乙』以降の諸
家、紛綸として確説有ること無し。矧(いわ)んや肥瘠修短、其の異なること面の如し。一痏
の鍼、一丸の艾、生命の繫ぐ所、其の學を為すに亦た難からずや。
龜山醫員小坂元祐、業を家君の門に受け、覃思研
精すること、殆ど二十年。頃者(このごろ)、天聖の舊式に倣い、手ずから偶
人を製(つく)り、兪穴を點誌す。且つ斯の編を著し、以て並びて行う。蓋し其の志を用いるや、
  一ウラ
勤めたり。一鍼一艾、先ず斯の編に熟し、然る後に之を施さば、必ず孔穴
乖錯の患(うれ)い無からんか。繁を刈りて簡に就かば、難自りして易きに入る。寔(まこと)に蒙士
の捷徑なり。元祐の為人(ひととなり)、忠實誠愨にして、同人、長者に推稱すると
云う。
寛政癸丑冬十二月
法眼侍醫兼醫學教諭丹波元簡廉夫譔す

  【注釋】
○盖:「蓋」の異体字。 ○郄:郤。また「隙」に通ず。 ○易易:非常に容易なさま。 ○然而:逆接の接続詞。 ○甲乙:皇甫謐撰『黄帝三部鍼灸甲乙経』。二五六年前後なる。もと十巻。のち十二巻。巻三と巻七以降に孔穴に関する論述あり。 ○紛綸:多く入り乱れたさま。 ○確説:確実な説。 ○肥瘠:太っているのと痩せているのと。 ○修短:(身長の)長いのと短いのと。 ○面:顔。容貌。 ○痏:瘡。ここでは鍼を刺す回数をあらわす序数詞。 ○丸:ここでは艾を数える助数詞。 ○龜山:丹波亀山藩。 ○醫員:医療にたずさわる役目の者。 ○小坂元祐:名は営昇。号は牛淵。『経穴籑要』自序では「小阪」につくる。 ○家君:自分の父親。 ○覃思研精:深く思考し、綿密に研究する。 ○頃者:近ごろ。 ○天聖之舊式:宋の王惟一は天聖五年(一〇二三)、鍼灸銅人を鋳造した。 ○手:みずからの手で直接に。 ○偶人:土や木などを材料として製造した人形。 ○點誌:点を付けて記す。 ○用志:用心。
  一ウラ
○熟:習熟する。十分になれる。 ○乖錯:背き誤る。 ○患:憂い。心配。 ○寔:「實」に通ず。 ○蒙士:浅学無知の士。 ○捷徑:近道。 ○為人:性格。他人に対する態度。 ○忠實:忠誠篤実。 ○誠愨:真誠。誠朴。 ○同人:同業者。ここでは医者。 ○推稱:推奨称賛する。 ○長者:学問徳行にすぐれたひと。 ○寛政癸丑:寛政五年(一七九三)。 ○法眼:法印に次ぐ地位。 ○侍醫:奥医師。御匙となるのは、寛政十一年。 ○醫學教諭:医学館教諭。 ○丹波元簡廉夫:もとやす。一七五五~一八一〇。廉夫は字。号は桂山、櫟窓。 ○譔:著述。「撰」に通ず。


自序
素問曰脉之在人身其數十二以應十二經水
兪穴三百六十五以配一歳之數其論尚矣夫
經絡之説素靈昉之皇甫謐孫思邈王燾之輩
施及元明諸家特滑壽十四經發揮專行于世
取經挨穴之徒取繩墨于此遂以為萬世不易
之法也然兪穴之數脱者十有一穴〔双行注:足太陽膀胱經/眉冲督兪氣海〕
〔兪關元兪足少陰經廉泉足少陽膽經風市足厥/〕
〔陰肝經急脉督脉中樞印堂鼻交頞中任脉斷碁〕今參考諸書
  二ウラ
補發揮所脱漏之穴然後氣府論所謂氣穴三
百六十五之數始得全矣於是手自製作銅人
施經記穴以與同僚諸君及一二同志且附以
小冊子名曰兪穴捷徑雖未得入其室庶幾乎
得之門是予所志也以為序
寛政癸丑秋      小坂元祐識


 【訓み下し】
自序
『素問』に曰く、脉の人身に在る、其の數十二、以て十二經水に應ず、
兪穴三百六十五、以て一歳の數に配す。其の論尚(たつと)し。夫れ
經絡の説、素靈之を昉(あき)らかにして、皇甫謐・孫思邈・王燾の輩
施(ほどこ)して元明諸家に及ぶ。特に滑壽『十四經發揮』專ら世に行わる。
取經挨穴の徒、繩墨を此に取る。遂に以て萬世不易
の法と為るなり。然れども兪穴の數、脱する者十有一穴
 〔双行注:足太陽膀胱經/眉冲・督兪氣海〕
〔兪・關元兪、足少陰經廉泉、足少陽膽經風市、足厥/〕
〔陰肝經急脉、督脉中樞・印堂・鼻交頞中、任脉斷碁〕今ま諸書を參考し、
  二ウラ
『發揮』脱漏する所の穴を補い、然して後、氣府論に所謂(いわゆる)氣穴三
百六十五の數、始めて全きことを得。是(ここ)に於いて手自(てずか)ら銅人を製作して
經を施し穴を記して、以て同僚の諸君及び一二の同志に與う。且つ附するに
小冊子を以てす。名づけて兪穴捷徑と曰う。未だ其の室に入ることを得ずと雖も、
之れが門を得るに庶幾(ちか)からん。是れ予が志す所なり。以て序と為す。
寛政癸丑秋      小坂元祐識(しる)す


  【注釋】
○素問曰:出所未詳。 ○脉之在人身其數十二以應十二經水:『霊枢』陰陽清濁「余聞十二經脉、以應十二經水者」。 ○兪穴三百六十五以配一歳之數:『素問』気穴論(58)「余聞氣穴三百六十五、以應一歳」。 ○皇甫謐:魏晋間の著名な医家。215~282年。原名は靜。字は士安。号は玄晏先生。『鍼灸甲乙経』を撰す。 ○孫思邈:541? ~ 682年?。唐代の医者、道士。『千金方』を撰す。 ○王燾:670~755年。唐代の著明な医家。『外台秘要方』を撰す。 ○滑壽:元代の医家。字は伯仁。晩号は攖寧生。『診家枢要』『難経本義』などを撰す。 ○十四經發揮:滑壽の撰。三巻。1341年成書。元·忽泰必列が撰した『金蘭循経』に注釈と補充を加えた。 ○挨穴:取穴。「挨」の訓は「とる」。 ○繩墨:大工が直線を引くための道具。すみなわ。のちに法度、規矩の比喩。 ○萬世不易:永く時間が経過しても変わらない。百世不易。 ○足太陽膀胱經眉冲:眉衝。本書十表を参照。 ○督兪:第六・第七胸椎棘突起間の外一寸五分。 ○氣海兪:本書十一丁裏を参照。 ○關元兪:本書十二丁表を参照。 ○足少陰經廉泉:本書十七丁裏を参照。喉頭隆起上際で舌骨との間。 ○足少陽膽經風市:本書二十二表を参照。 ○足厥陰肝經急脉:本書二十四丁裏を参照。 ○督脉中樞:本書二十五丁裏を参照。 ○印堂:本書二十七丁表を参照。 ○鼻交頞中:本書二十七丁表を参照。 ○任脉斷碁:本書二十九丁表を参照。
  二ウラ
○手自:みずから。 ○銅人:鍼灸学習用の人体経脈兪穴模型。北宋の王惟一が銅製の人形を鋳造した。日本製銅人で、銅製のものは少ないであろう。 ○未得入其室:『論語』先進:「由也升堂矣、未入於室也」。学問が十分には深いところまでは達していないことの比喩。 


邃古聖皇之在上也無物而不被其澤矣而其
所最患者則是民之疾苦也是以身親嘗草木
製鍼灸以普濟衆庶於是乎鍼灸藥之方法出
焉嗟乎夫至哉仁也由是觀之非本草素靈何
以知其本非鍼灸藥何以治其疾故後之諸名
醫皆祖述本草素靈以立論製方若夫醫而不
據本草素靈而通鍼灸藥焉得為醫乎予同僚
  三十ウラ
坂元祐家世業醫弱冠而為方伎之學又且刻
意于鍼灸之術於凡經絡兪穴之書無不該覧
今茲秋參考諸書折衷衆説以為一冊子名曰
兪穴捷徑手自製作銅人布經點穴以授蒙士
其意謂非敢馳名求譽庶幾為初學取經挨穴
之一助而已其可不謂勤且力哉梓成維方忻躍
題鄙言於簡末爾
寛政癸丑秋九月
三十一オモテ
   西龜山醫員岡田維方順益識


  【訓み下し】
邃古、聖皇の上に在るや、物として其の澤を被らざる無し。而して其の
最も患(うれ)うる所の者は、則ち是れ民の疾苦なり。是(ここ)を以て身親(みずか)ら草木を嘗め、
鍼灸を製(つく)り、以て普(あまね)く衆庶を濟(すく)う。是(ここ)に於いて鍼灸藥の方法出づ。
嗟乎(ああ)、夫(そ)れ至れるかな、仁や。是れ由り之を觀れば、本草素靈に非ずんば、何を
以てか其の本を知らん。鍼灸藥に非ずんば何を以てか其の疾を治せん。故に後の諸名
醫、皆な本草素靈を祖述して、以て論を立て方を製る。若(も)し夫れ醫にして
本草素靈に據(よ)りて鍼灸藥に通ぜずんば、焉んぞ醫為(た)るを得んや。予が同僚
  三十ウラ
坂元祐、家世々醫を業とし、弱冠にして方伎の學を為す。又た且つ
意を鍼灸の術に刻し、凡そ經絡兪穴の書に於いて該覧せざる無し。
今茲の秋、諸書を參考し、衆説を折衷し、以て一冊子を為す。名づけて
『兪穴捷徑』と曰う。手自(づずか)ら銅人を製作し、經を布し穴を點じ、以で蒙士に授く。
其の意謂は敢えて名を馳せ譽れを求むるに非ず。初學の取經挨穴
の一助を為すを庶幾(こいねが)うのみ。其れ勤め且つ力(つと)むと謂わざる可けんや。梓成る。維方忻躍して
鄙言を簡末に題するのみ。
寛政癸丑秋九月
三十一オモテ
   西龜山醫員岡田維方順益識す


  【注釋】
○邃古:「遂古」に同じ。遠い昔。 ○聖皇:聖なる帝王。 ○無物而不被其澤:あらゆるものがその恩沢を蒙る。 ○所最患者則是民之疾苦也是以身親嘗草木製鍼灸:『太平御覧』卷七百二十一・方術部二・醫一の引く『帝王世紀』には「伏羲氏……嘗味百藥而制九針」「炎帝神農氏……嘗味草木」「黄帝有熊氏……制九針」「(黄)帝使岐伯嘗味草木」などと見える。 ○衆庶:人民。民衆。 ○於是乎:順接の接続詞。 ○本草:『(神農)本草経』。 ○素靈:『素問』『霊枢』。 ○祖述:前人の説や行ないに従い倣う。 ○若夫:文頭に置かれる語気詞。~に関しては。順接・逆接、ともにあり。「夫(か)の~若(ごと)きは」とも訓(よ)む。
  三十ウラ
○坂元祐:小坂元祐。「坂」は片名字(片苗氏)で、尊敬をあらわす。 ○家世:家の者代々。 ○弱冠:『禮記』曲禮上「二十曰弱冠」。のち、ひろく男子で二十歳前後をいう。 ○方伎:「方技」とも書く。占いなども含むが、ここでは医学。『漢書』芸文志・方技略は「医経、医方、房中、神仙」に関する図書目録。 ○刻意:意識を集中する。専念する。 ○該覧:該覽。あまねく閲覧する。 ○今茲:今年。 ○布:設置する。布設する。 ○點:示す。つける。 ○蒙士:序文の注を参照。 ○意謂:心中の思うところ。 ○勤:努力して従事する。 ○力:力を尽くす。 ○梓成:出版する。版木ができあがる。 ○忻躍:「忻」は「欣」に通ず。よろこぶ。欣喜雀躍。喜び極まりないさま。 ○鄙言:浅薄卑俗なことば。自己の言説に関する謙遜語。 ○簡:書物。
三十一オモテ
○西龜山:丹波亀山藩。伊勢亀山藩と区別するため「西」がついているのであろう。 ○岡田維方順益:

古典籍展観大入札会

目録によれば、森立之自筆『医心方提要』(嘉永7年序)が出品されている。
その他としては、福井輗跋『崇蘭館方藪』など。

2010年11月10日水曜日

やんぬるかな

むかし,高名な中国文学者が企画し,その弟子筋の高名な中国文学者が翻訳を完成させた『宋史』日本国が,何年かの間をおいて再刊されたそうな。よかったね。
その中の「黄・軒」に注して「古代の聖王」は良いとして,「黄帝軒轅氏」とは,いかがなものか。黄帝即ち軒轅氏ではなかったか。
さらに,「船火児」に注して「船乗り。火児は不明。あるいは肥後か」には,噴飯である。先生がた,肥後の阿蘇山は御存じらしいが,『水滸伝』はお好きではないらしい。『水滸伝』には,綽号「船火児」の張横なるものが百八人の豪傑の一人として登場する。船頭を「船火児」つまり「船伙児」(伙は仲間)と称することくらいは,中国俗文学ファンなら常識ではないのか。

2010年11月8日月曜日

5-1 鍼學發矇訓

5-1鍼學發矇訓
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『鍼學發矇訓』(シ・四八二)
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』5所収

鍼學發矇訓序
所謂醫者人命之所係而其任重也榮安先生仲
策子者周防防州之産而自弱學于京師博誦醫家
經傳外儒釋之道勉強而探其奥雖平素俚俗之
方言而間有治病之功則以人不廢言也況於業醫
乎於是乎其識甚博其德益厚其業彌顕矣臨
病則温故知新無不取驗其功不可枚舉也先生
嘗謂中古之論醫者唯辨湯液而專内治矣也忘
按術鍼療而疏外治矣也恐近偏枯之意乎哉愚退
省是論宜哉譬如卒倒疝瘕積聚噎膈之類雖
順流氣血而頻補其虚或聚喉嚨而不通或塞肩
ウラ
背而不動或閉京門兩門而不立矣當其時則良
劑奇方無由用焉徒束手而傒死豈足稱醫也乎
苟非九鍼導摩之術則不能也矣若平日以導摩
及木石鍼而非解碎邪骨攻刺痞塞則上仵太痾
何以可起乎於是先生嚮選古今導引集鋟
梓今又選此書命剞劂氏而遍冀行于世敢非延
年益壽之術而已則死生有命桎梏非正命也不
開痞塞不解結滯則急症立到而不救矣先生常
為大患夙夜思之不止庶幾令終其天年矣嗚呼
忠臣孝子不可忘身者親之枝也不敢毀傷孝之
始也夫子之教也聊述其槺概而贊先生之意云爾
  二オモテ
正德甲午冬東都睌進醫生順貞田中白圭子
謹序


鍼學發矇訓序
所謂(いわゆる)醫なる者は人命の係る所にして、其の任重し。榮安先生仲
策子は、周防防州の産、而して弱(わか)き自り京師に學び、博く醫家の
經傳を誦し、外に儒釋の道、勉強して其の奥を探る。平素俚俗の
方言と雖も、而して間ま治病の功有らば、則ち以て人、言を廢さざるなり。況んや醫を業するに於いてをや。
是(ここ)に於いて、其の識甚だ博く、其の德益ます厚く、其の業彌いよ顕かなり。
病に臨んで則ち温故知新し、驗を取らざる無く、其の功、枚舉する可からざるなり。先生
嘗て謂えらく、中古の醫を論ずる者は、唯だ湯液を辨じて專ら内治するや、
按術鍼療を忘れて、外治を疏(うと)んずるなり。恐らくは偏枯の意に近きかな。愚、
是の論を退省するに、宜(むべ)なるかな。譬えば卒倒・疝瘕・積聚・噎膈の類の如きは、
順に氣血を流し、而して頻りに其の虚を補うと雖も、或いは喉嚨に聚りて通ぜず、或いは肩
ウラ
背に塞がりて動ぜず、或いは京門兩門を閉ざして立たず。其の時に當っては、則ち良
劑奇方、焉を用いる由無く、徒らに手を束(つか)ねて死を傒(ま)つは、豈に醫と稱するに足らんや。
苟も九鍼導摩の術に非ざれば、則ち能わざるなり。若(も)し平日、導摩
及び木石の鍼を以て、邪骨を解碎し、痞塞を攻刺するに非ざれば、則ち上は太痾に仵(ひと)しく、
何を以てか起こす可けんや。是に於いて先生嚮(さき)に古今導引集を選して
梓に鋟(きざ)み、今又た此の書を選んで、剞劂氏に命じて、而して遍く世に行われんことを冀(こいねが)う。敢えて延
年益壽の術に非ざるのみ。則ち死生、命有り、桎梏は正しき命に非ざるなり。
痞塞を開かず、結滯を解かざれば、則ち急症立ちどころに到りて救えず。先生常に
為に大いに患(うれ)い、夙夜之を思いて止まず。其の天年を終えしめんことを庶幾(こいねが)う。嗚呼、
忠臣孝子、忘る可からず。身なる者は親の枝なり。敢えて毀傷せざるは、孝の
始めなり。夫子の教えなり。聊(いささ)か其の槺概を述べて、先生の意に贊すと爾(しか)云う。
  二オモテ
正德甲午冬東都睌進醫生順貞田中白圭子
謹序


  【注釋】
○醫者人命之所係: ○榮安先生仲策子:宮脇仲策。養陽子と号す。 ○周防防州:現在の山口県の東南半。 ○京師:首都。京都。 ○平素:平時。 ○俚俗:鄙俗、粗野。 ○博:原文、旁を「專」につくる。 ○温故知新:『論語』為政:「温故而知新、可以為師矣。」かつて学んだことを復習し、新しい知識を増やす。 ○驗:予期した効果。 ○功:成果。成績。 ○疏:原文、偏を「予」に作る。軽視する。いやしむ。 ○偏枯:半身不随の病。引伸して不均衡、失調の意。 ○愚:自分を謙遜していう。 ○退省:反省。 ○噎:原文、偏を「予」に作る。 
ウラ
○閉京門兩門:未詳。 ○良劑奇方:すぐれた処方。 ○無由:方法がない。 ○傒:「徯」。待つ。 ○導摩:按摩導引。 ○痾:疾病。仇。 ○起:治療する。 ○嚮:「向」に通ず。 ○古今導引集:大久保道古編・宮脇仲策(養陽子)校。二巻。 ○鋟:彫刻する。 ○剞劂氏:彫り師。「剞劂」は彫刻刀。 ○死生有命:人の生死は天命によって定められている。『論語』顏淵:「死生有命、富貴在天。」 ○桎梏非正命也:『孟子』盡心上:「盡其道而死者、正命也。桎梏死者、非正命也。」何らかの原因により道半ばで死ぬのは正しい天命とはいえない。 ○夙夜:日夜。朝から晩まで。 ○天年:自然の寿命。 ○親之枝:我が身は親の枝である。『禮記』哀公問:「身也者、親之枝也、敢不敬與。不能敬其身、是傷其親。傷其親、是傷其本。傷其本、枝從而亡。」 ○不敢毀傷孝之始也:『孝經』:「孔子謂曾子曰:身體髮膚、受之父母。不敢毀傷、孝之始也。」 ○夫子:孔子。 ○槺概:梗概。大要。あらまし。 ○云爾:語末の助詞。かくいうのみ。
  二オモテ
○正德甲午:正徳四年(一七一四)。 ○東都:江戸。 ○睌進:「睌」は「晩」の異体字で、後進の意か。 ○順貞田中白圭子:


  以下、ひらがなを補った。
鍼學發矇訓序
恭(うやうや)しく惟(おもんみ)るニ、上古の聖人仰觀俯察シ、五藏六府、精神
氣血、經絡脉筋、骨節髪膚ノ天地同根ナル事ヲ
明辨シ、醫方ヲ作為シ、病殀ヲ救フ、乃ち鍼灸藥按
祝ノ諸法布(の)べテ方策ニ在リ、然るニ後世是ヲ泊どまリ、異
流漸く凋し、正統殆ど缺タリ、啻に偏枝ノミニ執シテ、治功
不完(完からず)、其の術ト言語ト常ニ反ス、徒(いたず)らニ文字ヲ以テ學
文トシ、其の精微ヲ察シ、要奥ニ至ル者、殆ど希ナリ、余、
短陋ナリト雖も、倭醫ノ傳來セル父祖ノ遺訓、彛(つね)に用い
テ驗アルヲ摭(ひろ)ヒ、俗字ヲ以て是ヲ綴リ、聊か童稚ニ便ス、
刊定ノ如きハ後ノ君子ヲ傒(ま)つ、庶幾(こいねが)わくは初めて學門ニ入るノ一
ウラ
助ナラン
正德甲午春防州遊客法橋養陽子仲策武
江普濟堂ニ毫ヲ染むル者也

  【注釋】
○祝:祈祷。 ○泊:停滞。 ○武江:江戸。


  以下、『鍼治口訣鈔』を参照して、一部漢文の語順のところを読み下す。カタカナは原文のまま。「〆」は「シテ」を表す符号の代用。
  當流鍼傳道統
(『口訣』有「野州」)足利田代氏三歸回翁ト云(いえ)ル人、大明ニ入(いり)テ、鍼
法ヲ徐氏ニ學フ、歸朝〆同氏助心ニ傳フ、西海藝
州ヘ來リ、大江ノ元清、一万石ヲ與フ、余カ父、海月翁
正純、其の傳を得て、愚家に及べり、然る後に經絡藏象ハ椎橋
ウラ
紹伴ニ學フ、先生十八歳より、此の道を志し、至って深シ、八十餘歳に至り、
專ら苦勤して一日も怠らず、詳らかに奥妙を得て、銅人藏形を作る、
特(ひと)り古人を超越する也、滑伯仁の後、一人たる耳(のみ)、朝鮮國の、咸
主朴別將(『口訣』作「公感主・利別將」)兩氏ノ經穴刺法を、對州の醫士、端倉求
安ニ學フ、先生は、主命を蒙り、朝鮮國に至って、傳授シ、且つ
此の兩醫ヲ對州ヘ招請しテ來レリト、運氣刺法ハ洛陽
延命院天眞ニ學フ、大明國澄相公(『口訣』作「大清國澄清公」)ノ導引按術、
肥州の大久保氏道古(『口訣』有「享伯」)ニ學フ、其の餘、諸家ノ傳來ヲ
精要撰集〆、此の書ヲ著スノミ
寳暦十二壬午五月廿五日寫畢

2010年11月6日土曜日

4-2 艾灸通説

4-2 艾灸通説
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『艾灸通説』
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』4所収

刻艾灸通説序
通説何也。欲該詳其事
也。蓋灼艾之於病患。不
待己之一舉策。而吾門微
意之所存也。先君子之勤。
  一ウラ
不亦宜乎。手澤遺貽。幸
免朽蠹之災。猶為帷
帳之留物。獨恨鉛槧
屢改。殺青未卒也。有客
告曰。先生嘗云。加我數
  二オモテ
年。將以上梓。既而先生
易簀。今惟子之任耳。
退而檢其書。三四之屬
草。或點鼠亂行。或
句讀難倫。一無足取。又
  二ウラ
奔信于四方之門人。購
求其善本。亦不可就正。
因考吾所藏秘。蓋晩
後之筆削也。奈何吾
黨小子。移寫轉訛。市乕
  三オモテ
毎傳。往ヽ致失眞。今茲
乃刊諸家塾。以示四方同
志也。抑令子弟百世。以
繼其志。以傳于不朽邪。
穆叔有言。曰。雖久不
  三ウラ
廢。此之謂不朽。孤有望焉。
寶暦壬午之春
    子敏謹識


  【書き下し】
刻艾灸通説序
通説とは何ぞや。其の事を該(ことごと)く詳しくせんと欲するなり。
蓋し灼艾の病患に於いて、
己の一舉策を待たず。而して吾が門、微
意の存する所なり。先君子の勤めたるは、
  一ウラ
亦た宜ならずや。手澤遺貽、幸いに
朽蠹の災いを免かれ、猶お帷
帳の留物と為す。獨り鉛槧
屢しば改め、殺青未だ卒(お)えざるを恨むのみ。客有り、
告げて曰く、「先生嘗て云う、『我が數 
  二オモテ
年を加えて、將に以て梓に上(のぼ)せんとす』、と。既にして先生
簀を易う。今は惟だ子の任のみ」と。
退きて其の書を檢するに、三四の屬
草、或いは點鼠、行を亂し、或いは
句讀、倫し難しく、一として取るに足る無し。又た
  二ウラ
信を四方の門人に奔(はし)らせ、
其の善本を購求するも、亦た正に就く可からず。
因りて考うるに吾が藏秘する所は、蓋し晩
後の筆削なり。奈何ぞ吾が
黨の小子、移寫して轉(うた)た訛し、市虎
  三オモテ
毎(つね)に傳うれば、往往にして眞を失うを致さん。今茲、
乃ち諸(これ)を家塾に刊し、以て四方の同
志に示すなり。抑(ここ)に子弟百世をして、以て
其の志を繼がしめ、以て不朽に傳えんか。
穆叔に言有り、曰く、「久しと雖も
  三ウラ
廢さず、此れを之れ不朽と謂う」、と。孤に望み有り。
寶暦壬午の春
    子敏謹みて識(しる)す
  【注釋】
○該詳:あまねくつまびらかにする。 ○灼艾:もぐさを燃やす。 ○病患:疾病。 ○舉策:行為。計画。 ○門:流派。学派。 ○微意:わずかな心遣い。謙遜語。 ○先君子:自分の亡くなった父をいう。/先:今は亡き。尊敬語。 ○勤:(ひとのために)力をつくす。
  一ウラ
○宜:事宜を得る。当然である。適当である。 ○手澤:先人が遺した書付。 ○遺貽:のこる。遺されたもの。 ○朽蠹:腐蝕虫食い。 ○帷帳:カーテン。ここでは寝室や箪笥をいうか。後藤徽序に「稿帳」という語があり、それから察すれば布製の収納用品か。 ○獨:不満の意をあらわす。 ○鉛槧:ノートの記載、文章。筆記用具(鉛筆と木板)の意の引伸。 ○殺青:書籍の定稿、あるいは著作の完成。古く竹簡を作成する際、竹を火で炙って水分を抜き、青皮をはぎ、虫食いを防止した。この過程を殺青という。
  二オモテ
○上梓:版面に文字を刻む。印刷する。 ○既而:そうこうしているうちに。まもなく。 ○易簀:臨終。孔子の門人、曾参が臨終の時、季孫から賜った席褥を礼制に合わず、身分不相応として、取り換えさせた故事による。 ○子:あなた。 ○任:職責。 ○三四:再三再四。数の少ない。 ○屬草:屬草稿。起草した文。 ○點鼠亂行:未詳。小ネズミの被害をいうか?あるいは、判読に誤りがあるか。 ○句讀難倫:句読点の打ち方に従えない、ということか。 
  二ウラ
○信:書簡。 ○善本:版本学における最も理想的な本。時代が最も古い、印刷が素晴らしい、すぐれた鈔本など。 ○就正:ひとに教えを請い、誤りを正す。文章の批判を求めるときに用いる語。『論語』學而:「就有道而正焉、可謂好學也已(有道に就きて正す、學を好むと謂う可きなり)。」 ○藏秘:秘蔵。 ○筆削:著述。 ○黨:志を同じくする仲間。 ○小子:後輩。 ○轉:ますます。 ○市乕:市虎(乕は「虎」の異体字)。無いものを有るとする、人を惑わす流言蜚語。「三人成市虎」。事実無根でも多くのひとが同じこと(市に虎がいる)を言えば事実とされる。
  三オモテ
○今茲:いま。ことし。 ○百世:百代。『孟子』盡心下:「聖人、百世之師也。」 ○穆叔:叔孫豹。春秋時代、魯の大夫。諡は穆子。『左傳』襄公二十四年「穆叔曰……大上有立德、其次有立功、其次有立言。雖久不廢、此之謂不朽/徳を立てるのが最高であり、功を立てるのはその次であり、言を立てるのはまたその次である。いつまでも廃れさせないこと、これを(三つの)不朽という」。
  三ウラ
○孤:早く親に死なれた子。 ○寶暦壬午:宝暦十二(一七六二)年。 ○敏:さとし。後藤椿庵の子、暮庵(一七三六~八八)。〔『日本漢方典籍辞典』〕

 ●は不読字をしめす。
(後藤徽序)
夫灸藥於疾病也是逐邪瘳痼之備固不
可執一焉猶弓弩戈矛雲梯衝車左右揮
之而治攻城野戰各可以建奇勲●●灸
其可藥者藥其可灸者乃不敗績者鮮焉
徃昔先子艮山唱古醫方也其於艾灸實
剏一家言是以艾灸之術無有餘蘊矣竊
觀世醫以艾灸置之度外甲畏乙惡或目
  一ウラ
不識一丁託夢想神傳妄灸欺人故灸其
不可灸者不灸其可灸者滔々皆是焉吁
艾灸之術殆漓耶於是乎先君子在日嘗
刻艾灸通説于家塾以公於世矣偶羅天
明戊申回録之災而燬也荏苒二十年余
髪已種々墜先君子之遺緒是懼頃日校
一家稿帳中遺稿等書陸續將繡梨棗以
  二ウラ
艾灸功於治術先再刻此書爲之前茅若
其湯液之説則竢嗣刻諸書之後勁云
文化戊辰仲冬下浣
栗葊 後藤徽 謹識


(後藤徽序)
夫れ灸藥の疾病に於けるや、是れ邪を逐い痼を瘳(いや)すの備え、固(もと)より
一に執る可からざること、猶お弓弩・戈矛・雲梯・衝車、左右之を揮って
攻城野戰を治むるがごとし。各おの以て奇勲●●を建つ可し。
其の藥す可き者に灸し、其の灸す可き者に藥すれば、乃ち敗績せざる者は鮮(すく)なし。
徃昔、先子艮山、古醫方を唱うるなり。其れ艾灸に於いて實に
一家言を剏(はじ)む。是(ここ)を以て艾灸の術、餘蘊有ること無し。竊かに
世醫を觀れば、艾灸を以て、之を度外に置き、甲は畏れ乙は惡む。或いは目に
  一ウラ
一丁を識らず、夢想・神傳に託して妄りに灸し人を欺く。故に其の
灸す可からざる者に灸し、其の灸す可き者に灸せず。滔々として皆な是れ、焉んぞ
艾灸の術、殆ど漓(うす)きを吁(なげ)かんや。是(ここ)に於いて先君子、在りし日嘗て
艾灸通説を家塾に刻して、以て世に公けにす。偶たま天
明戊申回録〔禄〕の災いに羅〔罹(か)〕かりて燬(や)く。荏苒として二十年。余が
髪已に種々として墜(お)つ。先君子の遺緒、是れ懼る。頃日、
一家の稿帳中の遺稿等を校し、書、陸續として將に梨棗を繡せんとす。
  二ウラ
艾灸の功を以て治術に於いて先とす。再び此の書を刻し、之を前茅と爲す。
其の湯液の説の若きは、則ち嗣(つ)ぎて刻する諸書の後勁を竢(ま)つと云う。
文化戊辰仲冬下浣
栗葊 後藤徽 謹しみて識す

 【注釋】
○痼:痼疾。根深く固い、難治のやまい。 ○執一:一端に固執する。 ○弓弩:弓と弩(機械で発射するゆみ)。 ○戈矛:武器の名。戈は長柄で横に刃があり平頭のほこ。矛は長柄で、鋭い刃を持つ直刺用のやり。 ○雲梯:城攻めのための機械。極めて高いので「雲梯(雲へのはしご)」という。 ○衝車:戦車。城に衝突させて破るために用いる。 ○敗績:戦に負ける。 ○先子:亡父。ここでは広く先祖。 ○艮山:後藤艮山(一六五九~一七三三)。 ○世醫:代々医学を業としている者。 ○度外:思慮の外。 
  一ウラ
○不識一丁:一文字も知らない、学問がないこと。 ○夢想:妄想﹑空想。 ○神傳:かみのお告げ。 ○滔々皆是焉吁艾灸之術殆漓耶:とりあえず、上記の如く、訓む。/滔々:絶えないさま。混乱したさま。 ○先君子:自分の亡き父。 ○在日:健在の時。 ○罹:原文は「羅」に見えるが、意味の上から「罹」とした。 ○天明戊申回録之災:天明八(一七八八)年、旧暦一月三十日に京都で発生した大火。「回録」、正しくは「回禄(火神の名前から、火災の意)」。 ○荏苒:時が徐々に過ぎゆくさま。 ○種々:髪の薄くなるさま。 ○遺緒:死者前人の遺した功績。 ○頃日:近ごろ。 ○陸續:次々に。 ○繡:かざる。ここでは「鐫」の意味であろう。 ○梨棗:印刷出版。かつて梨や棗の木の板を用いたため、このようにいう。 
  二ウラ
○前茅:斥候。先頭。 ○後勁:軍の後部を守る精鋭部隊。しんがり。 ○云:句末の助詞。無義。 ○文化戊辰:文化五(一八〇八)年。 ○仲冬:旧暦十一月。 ○下浣:下旬。 ○栗葊 後藤徽:暮庵の子か。封面によれば、「中立齋」ともいうか?

2010年11月4日木曜日

4-9 灸焫鹽土傳

4-9 灸焫鹽土傳
     京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『灸焫鹽土傳』(キ・一一〇) 
     オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』4所収

灸焫鹽土傳序
東方灸焫之未邈矣然皆民俗之所用而 王者敢
不取焉故如延喜式典藥寮則載於湯液鍼行按摩
博士而未立於灸行博士者是也於傳有之云天正
記年 後陽成天皇貴恙今大路典藥老 奉 灸
表 於是時九條殿下中院諸公卿考正舊史始奏
進之自是茲來灸行盛而至今耳嗚呼漢土灸法貴
散見於諸方書不全矣本朝和丹兩大醫所秘灸法
ウラ
或田夫野客所傳間亦流傳於唐山者亦不少不佞
執匙之暇蒐録本邦灸法若干條分為二册子號曰
灸法鹽土傳  吾國玄古彦火々出見命迫於兄
雐命吟海畔時忽逢鹽土老翁得龍都道此乃天助
而後代蒼生傳於大道之來由是也由是為書名然
 皇和寶暦八戊寅孟秋望
  大彦命八十五世神裔            「裔」は推定。原文は「衣」下「回」。
   大邨圭貞厚三宅意安甫 誌


  読み下し
吾が
東方、灸焫の未だ邈(はる)かならず。然れども皆な民俗の用いる所なり。而して王者は敢えて
焉(これ)を取らず。故に延喜式の典藥寮の如きは、則ち湯液鍼行按摩
博士を載せて、而して未だ灸行博士なる者を立てざるは是れなり。傳に於いて之有りて云う、天正
記年 後陽成天皇に貴恙し、今大路典藥老 灸を奉じて
表す。 是の時に於いて九條殿下、中の院、諸公卿、舊史を考正して、始めて奏して
之を進(たてまつ)る。是茲(このとし)自り來(このかた)、灸行盛んにして今に至るのみ。嗚呼、漢土の灸法貴くして
諸もろの方書に散見するも全からず。本朝和丹の兩大醫、秘する所の灸法、
ウラ
或いは田夫野客の傳うる所、間ま亦た唐山より流傳する者、亦た少なからず。不佞、
匙を執るの暇、本邦の灸法を蒐録すること若干條、分けて二册子と為し、號して曰く、
灸法鹽土傳。 吾が國玄古、彦火々出見命(ひこほほでのみこと)、兄雐命に迫られ、
海畔に吟(なげ)く時、忽ち鹽土老翁に逢い、龍都の道を得たり。此れ乃ち天の助けなり。
而して後代の蒼生、大道を傳うる來由は、是れなり。是れに由り書名を為すこと然り。
 皇和寶暦八戊寅孟秋望
  大彦命八十五世神裔           
   大邨圭貞厚三宅意安甫 誌(しる)す

  【注釋】
○吾東方:日本。 ○焫:「爇」に同じ。もやす。火鍼で穴に刺すことも「焫」という。『素問』異法方宜論(12)「藏寒生滿病、其治宜灸焫。故灸焫者、亦從北方來」。 ○邈:久遠、遙遠。 ○延喜式:律令格に対する施行細則を集大成した古代法典の一つ。延喜五年(九〇五)、醍醐天皇に命により編纂を開始したが、完成奏上は延長五年(九二七)。国史大辞典による。 ○典藥寮:令制宮内省の被管で医療を掌る官司。 ○湯液:医博士のことか。 ○天正:元号。一五七三年から一五九三年。 ○記年:紀年。紀元から数えた年数。天正年間。/「年」字、読みに自信なし。 ○後陽成天皇:安土桃山時代から江戸時代初期の第百七代天皇。在位天正十四年(一五八六)~元和三年(一六一七)。 ○貴恙:貴人の病状を伺うことば。 ○今大路典藥老:曲直瀬玄朔(一五四九~一六三一)。 ○奉灸表:曲直瀬玄朔『医学天正記』巻上・欝二十に、今上皇帝(後陽成天皇)に対して「予奏上欲灸膏肓。有詔、摂家名家見尋舊記。九條殿・二條殿・近衛殿御答、雖無舊記、以艾灸本復、奏上之旨分明、可被灸治。一條殿・鷹司殿御答者、無舊記云云、故不能灸」とあり、施灸はされなかったが、下巻・癰疽四十四に「慶長三年之秋、御腦(ママ)之時、予欲灸治。依無其例、不能灸。頃中院入道也足軒觀出舊記、而奏上、依其、今灸腫上。自今已來、可有灸治之勅意也」とある。 ○九條殿下:五摂家のひとつ。九条兼孝(天文二十二年1553~ 寛永十三年1636)か。関白。 ○中院:中院入道也足軒。中院通勝(なかのいん みちかつ、弘治二年1556年~慶長十五年1610)。戦国時代から江戸時代前期にかけての公家・和学者。 ○公卿:「公」と「卿(けい)」の総称。公は太政大臣、左・右大臣、卿は大・中納言、三位以上の朝官および参議。上達部(かんだちめ)。月卿。卿相。くげ。こうけい。 ○茲:年。 ○漢土:唐土。もろこし。 ○貴:ひとまず「貴」と解す。 ○本朝:日本。 ○和丹:典薬頭、和氣と丹波。 
ウラ
○田夫野客:農夫や山野に住むひと。ひろく民間のひとをいう。 ○傳間:あるいは「傳聞」か。 ○唐山:唐土。もろこし。から。 ○不佞:才知のないこと。自分をへりくだっていう語。一人称。 ○執匙:医業。 ○玄古:太古。古代。 ○彦火々出見命:ヒコホホデミノミコト。ほおりのみこと(火遠理命)。山幸彦。 ○兄雐命:火照命(ほてりのみこと)/火明命(あみのほあかりのみこと)のことであろう。海幸彦。 ○吟:嘆息する。苦しい時に発する声。 ○海畔:海辺。 ○鹽土老翁:塩椎神(しおつちのかみ)。 ○龍都:竜宮。 ○蒼生:民衆。 ○來由:来歴。ゆえん。 ○皇和:日本。皇(おお)いなる大和。 ○寶暦八戊寅:一七五八年。 ○孟秋:陰暦七月。 ○望:十五日。 ○大彦命:おおびこのみこと。孝元天皇の第一皇子。 ○神裔:後代の子孫。 ○大邨圭貞厚三宅意安:大邨圭、貞厚、三宅意安。「大邨」は「屯倉(みやけ)」に通じ、「大邨圭」は「みやけ」の意か。「貞厚」は名で、「意安」は号か。享保六年(一七二一)生まれ(谷田伸治先生による)。

2010年11月2日火曜日

4-4および5 灸點圖解

4-5 灸點圖解
京都大学医学図書館富士川文庫所蔵『医書九種』(イ・一七九)所収「一本堂灸點圖解」および『香川灸點』(カ・七八)より校合した
オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』4所収

題灸點圖解首
夫吾門之施治也灸為最多藥次之湯泉復次之用灸
(カ有「奏」)効驗之夥也舉天下之所知也而其灸(カ有「焉也」)不敢縁古人
之寸法配當隨腹背手足鬱塞痒(カ無「痒」)痛不快處而灸焉也千金
方云呉蜀之國多用此法其將灸也就其病(イ作「痛」)處以指摸索
其穴推而應指頭淵々不中骨不當筋處是屬穴(カ無「推而~屬穴」十七字)
  所謂阿是也吾門常々用此法而雖用古名称之與古
人之所説點法不同則名亦不相當今復改名嫌于好事且恐
郢書而諸子之燕説故暫用古名以枉同厥臭焉彼以寸法配
當為則吾以徹穴内透為律若寸法配當不量老弱長短肥瘠
(カ有「倶一」)而施(カ有「之」)膠柱刻舟幾不能無舛差奚不翅不當穴隔骨
ウラ
胃筯徒損好肉何至効驗障壁罵聾亦悖哉夫灸之有効
也徹穴内透煦々(カ無「々」。イ「煦」作「呴」)温々橐籥一身之氣機陽氣運行周(カ作「用」)軀全無
所不至施故元氣内盈腠理外健是乃所以吾門主探穴必要
覺徹于内也矣至其考証審論委曲(カ有「周盡」)既詳
先君所箸(イ作「著」)行餘醫言中故不復贅焉(カ無「贅焉」)
寶暦丙子孟春香川輿司馬筆于平安
一本糞心室南窓

  読み下し
題灸點圖解首
夫れ吾が門の治を施すや、灸を最多と為し、藥、之に次ぎ、湯泉復た之に次ぐ。灸を用いて
効驗(を奏する)の夥(おびただ)しきや、舉げて天下の知る所なり。而して其の(焉(これ)に)灸(するや)、敢て古人
の寸法配當に縁らず、腹背手足の鬱塞、(痒)痛、不快なる處に隨いて焉(これ)に灸するなり。千金
方に云う、呉蜀の國多く此の法を用う、と。其の將に灸せんとするや、其の病(一作「痛」)處に就きて指を以て
其の穴を摸索す。(推して指頭に應じ、淵々として骨に中(あ)たらず、筋に當らざる處、是れ穴に屬す。)
所謂(いわゆ)る阿是なり。吾が門は常々此の法を用う。而して古名を用いて之を称すると雖も、古
人の所説と點法同じからず。則ち名も亦た相い當たらず。今復た名を改むれば好事を嫌う。且つ
郢書して諸子の燕説するを恐る。故に暫く古名を用い、以て枉(ま)げて厥(そ)の臭を同じくす。彼は寸法配當を以て
則と為し、吾は徹穴内透を以て律と為す。寸法配當の若きは、老弱・長短・肥瘠を量らず
(、倶に一と)して(之に)施す。膠柱刻舟、幾(ほと)んど舛差無きこと能わず。奚(いず)くんぞ翅(ただ)に穴に當たらざるのみならず、骨に隔たり
ウラ
筋を冒して、徒らに好肉を損じ、何ぞ効驗に至らんや。壁を障(へだ)てて聾を罵しるも、亦た悖(もと)らんや。夫れ灸の効有るや、
穴を徹して内に透し、煦々温々として一身の氣機を橐籥し、陽氣は周軀に運行して、全く
至りて施さざる所無し。故に元氣、内に盈ち、腠理、外に健(たけ)し。是れ乃ち吾が門の穴を探るを主とし、必ず
内に徹するを覺ゆるを要(かなめ)とする所以なり。其の考証審論に至っては、委曲(周盡)、既に
先君箸する所の行餘醫言の中に詳し。故に復た贅せず。
寶暦丙子孟春香川輿司馬筆于平安
一本糞心室南窓


  【注解】
○千金方云:『備急千金要方』巻二十九・灸例第六「凡人呉蜀地遊官,體上常須三兩處灸之,勿令瘡暫差,則瘴癘温瘧毒氣不能著人也,故呉蜀多行灸法,有阿是之法,言人有病痛,即令捏其上,若裏當其處,不問孔穴,即得便快成痛處即云阿是,灸刺皆驗,故曰阿是穴也。」 ○好事:変わった物事を好むこと。ものずき。 ○郢書而諸子之燕説:こじつけてもっともらしく説明すること。「郢」は中国の春秋戦国時代の楚の国の都。「燕」は現在の北京付近にあった国の名前。「郢」の人が、燕の大臣に手紙を書いたとき、部屋が暗いので「燭をあげよ」と言いながら、うっかりそれを手紙に書いてしまった。それを受け取った燕の大臣は、それを「明るい人間(賢人)を登用せよ」と解釈して王に進言し、その結果、国が良く治まったと言う故事による。 ○枉同厥臭:「枉」をカは「狂」に作る。不本意だが、古名を踏襲する、という意味であろう。「同臭」は、同類、仲間。 ○膠柱:規則などにとらわれて融通のきかないこと。琴柱(ことじ)に膠(にかわ)す。 ○刻舟:時勢の移り変わりに気が付かないことのたとえ。舟から剣を落とした人が、舟が動くことを考えずに舟端に目印を刻みつけて水中の剣を捜したという『呂氏春秋』察今の故事から。 ○舛差:あやまり。 ○翅:「啻」と同じ。 
ウラ
○冒筋:カは「胃筯」につくる。 ○障壁罵聾:未詳。徒労であることの比喩か。 ○悖:はずれる。もとる。あやまったさま。 ○煦煦:温和。暖和。/呴呴は、「ことばがなめらか」な意。 ○橐籥:ふいご。ふいごで風を送る。 ○氣機:生気。人体の正常なはたらき。 ○周軀:全身。「周」をカは「用」につくる。 ○考証審論委曲:カ作「秀諸證審論委曲周盡」。委曲:詳しい内容。詳細なさま。 ○周盡:あらゆるものを周知し、その理をつくす。周到に詳細。 ○先君:亡き父。 ○箸:撰述。「著」に通ず。 ○行餘醫言:香川修庵(1683~1755)著。全二十二巻(目録には卷之三十まである)。天明八(1788)年刊。 ○寶暦丙子:宝暦六年(一七五六)。 ○孟春:陰暦正月。 ○香川輿司馬:修庵(1755年没)の子、希輿であろう。「司」は「主」のあやまりか。修庵の子、希輿、字は主馬、号は冬嶺、明和五年(一七六八)没。希輿の没後、修庵の甥、南洋(1714~1777)が香川家を継ぐ。名は景与。字は主善。南洋は号。別号に紙荘主人。 ○平安:京都。 ○一本糞心室:未詳。「一本」は「儒医一本」を称えた香川修庵の「一本堂」という堂号にちなむのであろう。

2010年11月1日月曜日

4-3 鍼灸燈下餘録

4-3 鍼灸燈下餘録
     武田科学振興財団杏雨書屋所蔵『鍼灸燈下餘録』(乾3655)
     オリエント出版社『鍼灸臨床古典全書』4所収

(鍼灸燈下餘録序)
人身固有自然之穴兪者針之達病處焫之去邪氣古人濟世
救民之嘉惠何其至邪後世滑張之輩強會之經絡而不知其
陷没徹底是穴乃謂人身始有此經絡則有此穴兪遂復令絡
絡矯引諸穴兪之處後之學者拘泥益甚其弊也不問大小長
短不辨陷没徹底而守拘寸度固執絡絡雖外面如法眞穴不
當其處不然則不知經絡不論穴兪夢託神授以欺人皇甫士
安乃不拘經絡所撰甲乙經分穴兪以部類近吾所嘗臆蓋去
古未遠法尚有存者私謂古人用寸度庶令後者易曉耳若徒
曰在手在足後者於何處取之故其骨間肉縫所不待寸度之
處未嘗謂之也唯於忙乎難尋乃立此寸度也先子艮山出于
數千歳之下始徹沿習以陷没為穴兪自謂在吾方寸之權度
頃日讀書之餘遠追古人之法度近逑先子之遺訓自摸索穴
  一ウラ
兪之處纂次充于集中先子曰取穴之際苟盡吾心求焉則不
中不遠矣若詳之在乎其人
己丑之夏平安後藤敏識


  書き下し
(鍼灸燈下餘録序)
人身固(もと)より自然の穴兪なる者有り。之に針すれば病處に達し、之に焫すれば邪氣を去る。古人、世を濟(すく)い
民を救うの嘉惠、何ぞ其れ至らんや。後世の滑張の輩、強いて之を經絡に會せしめ、而して其の
陷没徹底するを知らず。是の穴は、乃ち人身に始めて此の經絡有りて、則ち此の穴兪有るを謂う。遂に復た絡〔經〕
絡をして諸穴兪の處に矯引せしむ。後の學者、拘泥すること益ます甚だし。其の弊たるや、大小長
短を問わず、陷没徹底を辨ぜず、而して寸度に守拘し、絡〔經〕絡に固執す。外面は法の如しと雖も、眞穴は
其の處に當たらず。然らずんば、則ち經絡を知らず、穴兪を論ぜず。夢に神授を託して以て人を欺く。皇甫士
安は乃ち經絡に拘せず、撰する所の甲乙經、穴兪を分くるに部類を以てす。吾が嘗て臆する所に近し。蓋し
古を去ること未だ遠からず。法、尚お存する者有り。私(ひそ)かに謂(おも)えらく、古人は寸度を用いて、後の者をして曉(あきら)め易くせしめんと庶(こいねが)うのみ、と。若し徒(いたず)らに
手に在り、足に在りと曰わば、後の者、何れの處〔地〕に於いてか之を取らん。故に其の骨間肉縫の所、寸度の
處を待たず、未だ嘗て之を謂わざるなり。唯だ忙乎に於いて尋ね難きは、乃ち此の寸度を立つるなり。先子艮山、
數千歳の下に出でて、始めて沿習を徹して、陷没を以て穴兪と為す。自ら謂えらく、吾が方寸の權度に在りては、
頃日、讀書の餘、遠くは古人の法度を追い、近くは先子の遺訓を逑(あつ)め、自ら穴
  一ウラ
兪の處を摸索し、纂次して集中に充つ、と。先子曰く、取穴の際、苟(いやしく)も吾が心を盡くして焉(これ)を求むれば、則ち
中(あ)たらずとも遠からず。之を詳らかにするが若きは、其の人に在り、と。
己丑の夏、平安後藤敏識(しる)す


  【注釋】
○嘉惠:恩恵。 ○滑張:滑壽、張介賓。 ○矯引:無理にたわめ引き寄せる。 ○絡絡:眉部の批注に「二絡共當作經」とあり。 ○處:眉部の批注に「處者地之誤」とあり。 ○忙乎:忙しい。急を要する仕事。 ○艮山:後藤艮山(1659--1733)。 ○沿習:因習。旧来の習慣に従うこと。 ○權度:規章法則。物の軽重長短を測定する道具。 ○頃日:ひごろ。 ○先子:亡き父。 
  一ウラ
○集中:意見や経験などを帰納する。 ○苟盡吾心求焉則不中不遠矣:『禮記』大學「心誠求之、雖不中不遠矣。」 ○己丑:明和六年(一七六九年)。 ○平安:京都。 ○後藤敏:さとし。後藤慕庵(一七三六~八八)。『艾灸通説』の著者、椿庵の子。後藤艮山の孫。