2026年10月10日土曜日

15-3 江戸時代鍼灸文献序跋集 腧穴圖鑑

 15-3 腧穴圖鑑  鈴木文彊撰

    京大富士川文庫所蔵(ユ/三)

     https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00005528

    訓点などで使われる「ナリ」をあらわす「也」の省略体は「なり」にかえた。一部、ルビをつけた。読点を打った。


腧穴圖鑑         東都  鈴木文彊甫圖

凡此圖画スル所ハ、諸家ノ説ヲ引キ、其骨郄分肉ト尺寸ト相符号スルヲ取テ、以折衷スル所なり、其據トスル説ハ、予ガ先ニ著ス兪穴便覧ニ詳ナレハ、是ヲ省ク、若シ便覧ト此圖鑑ト校見スル寸(時)ハ、兪穴ヲシテ掌中ヲ指(さす)カゴトクナランヤ、絡脉傳注交經ノ如キハ、引經スル所ニ非ス、只其直行ナル者ヲ分色シテ、兪穴ノ部位ヲ見得易カラシム、其絡脉交經交會ノ如キハ、滑氏十四經發揮ニ審也、熟覧スベシ


 【注釋】

 ○東都‥江戸 ○鈴木文彊‥『兪穴便覽』(『鍼灸便覽』)を著す。 ○甫‥男子の美称。 ○掌中ヲ指‥手のひらの筋目をゆびで指して他人に示す。容易なことの比喩。


凡そ此の圖画スル所ハ、諸家ノ説ヲ引キ、其の骨郄分肉ト尺寸ト相い符号スルヲ取っテ、以て折衷スル所𬻿(なり)、

 【意訳】ここに図にして描いてあるものすべては,多くの専門家の説を引用して,その骨の隙間や肉の分かれ目と尺寸の寸法が互いに一致するものを選び,採用したものである。

其の據(よりどころ)トスル説ハ、予ガ先ニ著ス兪穴便覧ニ詳らかナレハ、是れヲ省ク、

 【意訳】その根拠とした説については,わたくしがこれより先に著わした『兪穴便覧』で詳しく述べているので,ここでは省略する。

若シ便覧ト此の圖鑑ト校見スルときハ、兪穴ヲシテ掌中ヲ指さすカゴトクナランヤ、

 【意訳】もし『兪穴便覧』とこの『腧穴図鑑』を照らし合わせて見るならば,自分の手のひらを自分で指さすのと同じくらい腧穴の位置を容易に理解できるようになるだろう。

絡脉傳注交經ノ如キハ、引經スル所ニ非ス、

 【意訳】絡脈が伝わり注いで次の経脈に連絡する線や,経脈と経脈が交わる部位のようなものは,線引きしていない。

只だ其の直行ナル者ヲ分色シテ、兪穴ノ部位ヲ見得易カラシム、

 【意訳】ただ,その直行する経を(各経脈ごと五行の色に)色分けして,腧穴の部位を見やすくしただけである。

其の絡脉交經交會ノ如キハ、滑氏十四經發揮ニ審らか也、熟覧スベシ

 【意訳】その絡脈が次の経脈に連絡するところや,経脈と経脈が交わる部位のようなものについては,滑寿の『十四経発揮』に詳しいので,熟読すべきである。

2026年10月9日金曜日

15-2 江戸時代鍼灸文献序跋集 兪穴便覽

 15-2 兪穴便覽  鈴木文彊撰

    京大富士川文庫所蔵(ユ/四)

     https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00005529


兪穴便覧叙

經也絡也氣脈所之猶道路然起

蹷湔腸察膏肓原來於此矣可不

明乎自黄岐倡之和者庶而富矣

惟恨墨絲楊岐愈多愈惑一薫一

蕕不可簡焉齒乎脣乎群蛙亂聽

  一ウラ

汎虖不知攸嚮褎如充耳雖其論

似備也施諸今則豐蔀㞐半漆桶  〔㞐‥「居」の異体〕

掃帚不啻耳辟之水月鏡花美則

美矣不可取而授焉是故膠者守

株昧者添足自匪具眼之徒則不

能迎刃而獲其肎綮也後進竟束  〔肎‥「肯」の異体〕

  二オモテ

手焉便言天應固古賢所稱要在

於迪滯而已亡一不可刺爇之處

矧乎上下曲直何妨之有從此説

木鐸於前途吠聲耳食矛盾相軋

朙堂之學至掃地也矣木子識少  〔朙‥「明」の異体〕

念之染指二經者閲年矣𦧇荼言  〔𦧇‥「舐」「舓」の異体〕

  二ウラ

齏語甘焉如薺取左右逢其原也

甞恐其徒之為妄語兒所紿而上

自軒岐下曁元明錯綜參攷必中

于正鵠以救偏門之弊於是乎朱

紫可辨焉淄澠可味焉書曰念茲

在茲可謂子識亦善念焉近究絶

  三オモテ

韋之力而後授梓記之以隻字不

脩其辭者為啟夫阿蒙而固無意

乎售美要譽則何必潤色追琢藻

繢黼黻以費匠心為辭達而已矣

聖言可徴也九方歅之相馬略其

玄黄取其駿逸子識之意葢在于  〔葢‥「蓋」の異体〕

  三ウラ

此與以余長於方伎家今官於佔

畢丐首冕一言余亦父兄之所業

於此舉也不能不推轂也聊為並

蕪乃以充蘄寛政辛亥清咊月   〔咊‥「秋」の異体〕

   友人 星岡源通虎

      〔印形黒字「通虎/之印」、白字「字/文郷」〕


  【訓み下し】

兪穴便覧の叙

經や、絡や、氣脈の之く所、猶お道路のごとく然り。蹷を起し腸を湔(あら)い膏肓を察する、原(もと)此より來たる。明らめざる可けんや。黄岐、之を倡(とな)えて自(よ)り、和する者庶にして富めり。惟だ恨むらくは墨絲楊岐、愈(いよ)々多く愈々惑う。一薫一蕕、簡(えら)ぶ可からず。齒か脣か、群蛙、聽を亂(みだ)る。

  一ウラ

汎虖として嚮(むか)う攸(ところ)を知らず、褎として充耳の如し。其の論備わるに似たりと雖も、諸(これ)を今に施すときは、豐蔀、半(なか)ばに居し、漆桶掃帚啻(ただ)ならざるのみ。之を水月鏡花の美なることは美なれども、取りて授く可からざるに辟(たと)う。是の故に膠(かかわ)る者は株を守り、昧(くら)き者は足を添う。具眼の徒に匪ざる自りは、刃を迎えて其の肯綮を獲ること能わず。後進、竟に

  二オモテ

手を束(つか)ぬ。便ち言う、天應は固(もと)より古賢の稱する所、要は迪滯に在るのみ。一も刺爇す可からざるの處亡(な)し。矧んや上下曲直をや。何の妨げか之れ有らん、と。此の説、前途に木鐸せし從り、吠聲耳食、矛盾相軋り、明堂の學、地を掃うに至る。木子識、少(わか)きより之を念(おも)い、指を二經に染むること閲年。荼言

  二ウラ

齏語を𦧇(な)めて甘んずること薺の如く、左右に取りて其の原(もと)に逢う。嘗(かつ)て其の徒の妄語兒の為に紿(あざむ)かれんことを恐れて、而して上(かみ)は軒岐自り、下(しも)は元明に曁(およ)び、錯綜參攷、必ず正鵠に中して、以て偏門の弊を救う。是(ここ)に於いて朱紫辨ず可く、淄澠味わう可し。書に曰く、茲(これ)を念えば茲に在り、と。子識も亦た善く念うと謂う可し。近ごろ絶

  三オモテ

韋の力を究めて、而して後、梓に授く。之を記するに隻字を以てし、其の辭を脩めざる者は、夫(か)の阿蒙を啓(ひら)くが為にして、固(もと)より美を售(う)り、譽れを要(もと)むるに意無きときは、何ぞ必ずしも潤色追琢、藻繢黼黻、以て匠心を費すことを為さん。辭達するのみ。聖言徴す可し。九方歅の馬を相する、其の玄黄を略して、其の駿逸を取る。子識が意、蓋(けだ)し

  三ウラ

此に在るか。余、方伎家に長じ、今ま佔畢に官するを以て、首に一言を冕せんことを丐(こ)わる。余も亦た父兄の業とする所、此の舉に於いてや、推轂せざること能わず。聊か為に並蕪して、乃ち以て蘄(もと)めに充(あ)つ。寛政辛亥 清和月

   友人 星岡源通虎


 【注釋】

 ○起蹷‥『史記』扁鵲傳、虢太子の部分を参照。 ○湔腸‥『三國志』華佗傳「病若在腸中、便斷腸湔洗、縫腹膏摩、四五日差」。 ○察膏肓‥『左傳』成公十年傳「公疾病、求醫于秦、秦伯使醫緩為之……醫至曰‥疾不可為也、在肓之上膏之下、攻之不可、達之不及、藥不至焉、不可為也」。 ○黄岐‥黄帝と岐伯。『黄帝内經』。 ○庶‥多い。 ○墨絲楊岐‥元は同じでも、末が異なる。ここでは、選択枝が多くて悩むことの意であろう。『蒙求』「墨子悲絲、楊朱泣岐」。『淮南子』説林訓「楊子見逵路而哭之、為其可以南可以北。墨子見練絲而泣之、為其可以黄可以黑」。高誘曰「憫其本同而末異」。墨子は白糸があらゆる色に染まるのを賛嘆し、楊子は岐路に立って、どちらの道にもいけるので泣いた。 ○一薫一蕕‥『左傳』僖公四年「一薰一蕕、十年尚猶有臭」。薰は香草。蕕は臭草。一薰一蕕は、香草と臭草を一緒にして、十年も放置すれば、香気はなくなり、臭気だけが残る。善いものは消えやすく、悪いものは除きがたい、善いものは悪いものに容易に蔽われてしまうことの比喩。ここでは、善いものと悪いもの。 ○簡‥「柬」に通ず。 ○齒乎脣乎‥互いに密接で依存する関係にあるもの。『韓非子』揚權「聽言之道、溶若甚醉。脣乎齒乎、吾不為始乎、齒乎脣乎、愈惛惛乎/言を聽くの道は、溶(かたち)(容)甚だ醉うが若し。脣や齒や、吾れ始めを為さざらんか、齒や脣や、愈々惛惛たらんか」。 ○群蛙亂聽‥未詳。諸説入り乱れることか。書家で有名な米芾には「群蛙亂聽」に悩まされ、硯を池に投げ込んだというエピソードがある。 一ウラ ○汎虖‥あふれるさま。「汎」は「泛」に通ず。「虖」は「乎」に通ず。 ○褎如充耳‥士大夫の服飾が華美であるのに、その徳が釣り合わないこと。『詩經』邶風 旄丘「叔兮伯兮、褎如充耳」。「褎」は服飾が華美なさま。「充耳」は耳を塞ぐ、あるいは耳を覆うほどの多くの飾り。ここでは沢山あることか。 ○豐蔀‥光を遮る蔽い。『易經』豐卦 上六「豐其屋、蔀其家」。王弼注「既豐其屋、又蔀其家、屋厚家覆、誾之甚也」。 ○㞐半‥半分を占める。「㞐」は「居」の異体。 ○漆桶‥漆を入れた桶。あるいは漆塗りの桶。いずれにせよ真っ黒の桶で、禅宗では、無明の比喩。真っ黒で何も見分けがつかないように、仏法について何もわからない僧。また、その原因である煩悩や妄執。 ○掃帚‥ほうき。掃除用具。俳論『華月一夜論』「或は山海経に見えたる春起鳥をうぐいすぞといふ人あり。 或は又吉利子をうぐいすぞといふ妄説もあり。今のごとく喚起鳥をうぐいすぞといふ億説もあれど。いづれも摸索のみにて★(注に「★は添か」と。)桶掃帚の類なれば。 全決しがたし」。これによれば、想像による根拠のない説の比喩か。

  http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/kagetsu1.html

  『碧巖録』一則「打破漆桶」。八十六則「漆桶裏洗黑汁〔「洗」一作「盛」〕」。

  『正法律興復大和上光尊者伝』(一一)「然而要其所論。率不免為漆桶掃箒之摸索也」。現代語訳「ところが、彼らが唱えていることは、要は重箱の隅をつついているようなものに過ぎない。」

  http://www.horakuji.hello-net.info/jiun/biography/11.htm

  ○辟‥「譬」に通ず。 ○水月鏡花‥実在しないもの、幻影。水の中の月、鏡の中の花。 ○膠者‥「かかわるもの」、振り仮名による。拘泥する者。 ○守株‥『韓非子』五蠹「宋人有耕田者、田中有株、兔走、觸株折頸而死、因釋其耒而守株、冀復得兔、兔不可復得、而身為宋國笑」。過去の経験に拘泥する。 ○昧者‥愚昧、蒙昧。愚か者。 ○添足‥蛇足を加える。畫蛇添足。『戰國策』齊策二「舍人相謂曰、數人飲之不足、一人飲之有餘。請畫地為蛇、先成者飲酒。一人蛇先成、引酒且飲之、乃左手持卮、右手畫蛇、曰、吾能為之足。未成、一人之蛇成、奪其卮曰、蛇固無足、子安能為之足。遂飲其酒。為蛇足者、終亡其酒」。 ○自匪‥自非。もし~でなければ。 ○具眼之徒‥事物を鑑別する眼力を有したひと。 ○迎刃‥「迎」は「出会う」。刃をすすめる。迎刃而解‥物事を容易に処理することの比喩。 ○肎綮‥肯綮。「肎」は「肯」の異体。物事の急所、要所。肯綮(骨と筋が接する部分)に刃物があたると巧みに切り離せるため。 ○後進‥学識や経験の浅いひと。 ○束手‥手の施しようがない。方策がない。「束」、しばる。 二オモテ ○便言‥経穴を否定した下文によれば、特定のひとのことばのようであるが、誰の言であるか、未詳。 ○天應‥李梃『醫學入門』内集卷一・鍼灸・子午八法「散針者、治雜病而散用某穴、因病之所宜而針之、初不拘於流注也。若夫折傷跌撲、損逆走痛、因其病之所在而針之、雖穴亦罔顧其得與否也(雙行注‥指痛針痛、徐氏謂之天應穴)」。 ○古賢‥古代の聖人賢者。 ○迪滯‥滞りを解消する。 ○爇‥焼く。ここでは「灸」の意。 ○上下曲直何妨之‥(経脈の流注が)上ろうが下ろうが、曲がっていようが、真っ直ぐであろうが、どうでもよいではないか、という意か。 ○木鐸‥銅の鈴で、舌が木製のもの。群衆を集めて布告するときに用いた。警告を発し教導する。 ○前途‥ここでは「以前」の意か。 ○吠聲‥吠形吠聲。吠影吠聲。一匹の犬が影に対して吠え声をあげると、他の犬もその聲につられて吠える。世の中のひとが真偽もわきまえずに、盲目的に附和雷同すること。 ○耳食‥耳を口の代わりにして、食物を判断する。見識が浅く、伝聞を軽々しく信じ込み、真実を追究しない。 ○朙堂之學‥腧穴学。「朙」は「明」の異体。 ○掃地‥地面の塵汚れを掃除する。すっかり破壊され消え失せることの比喩。 ○木子識‥鈴木文彊。「木」は「鈴木」の修姓(唐風の呼び方)、「子識」は字。「自叙」末に黒字の印形で「字曰/子〔言+戈〕」とある。〔言+戈〕は「𧨺」の省略体で「識」の異体。 ○染指‥『左傳』宣公四年の記事に基づく。ごちそうをもらえないので、鼎の中に指を差し込んだ。おもに他人の持ち分まで手を伸ばすという悪い意味で用いられたが、転じて物事に手をつける意味となる。 ○二經‥『素問』『霊枢』。 ○閲年‥数年。 ○𦧇‥「舓(舐)」の異体。 ○荼言‥「荼」は苦菜。「荼」のように苦いことば。 二ウラ ○齏語‥「齏」は調味用に細かく砕いた辛い食物あるいは菜の粉末。「齏」のように辛いことば。 ○甘焉如薺‥『詩經』邶風 谷風「誰謂荼苦、其甘如薺。」薺は、甘い菜。荼菜は苦いが、内心の痛苦に比べれば、薺菜のように甘美に感じる。ひとは心の持ち方で、大きな苦しみも甘美なものとして受け入れられることの比喩。 ○取左右逢其原‥『孟子』離婁下「資之深則取之左右逢其原、故君子欲其自得之也」。左右どちらにも水源が得られる。道を自得した者は、それを無限かつ自在に応用できるたとえ。 ○甞‥「嘗」の異体。 ○妄語兒‥でたらめを言う輩。「兒」は、相手を軽蔑した言い方。 ○軒岐‥黄帝と岐伯。黄帝は軒轅の丘に生まれたため、軒轅氏という。 ○錯綜‥資料をいろいろ運用し綜合的に参照する。『易經』繫辭上「參伍以變、錯綜其數」。 ○參攷‥参考する。「攷」は「考」の異体。 ○中‥命中する。あたる。 ○正鵠‥的(まと)の中心。 ○偏門‥傍の門。中正でない道。邪道。 ○於是乎‥順接の接続詞。 ○朱紫‥『論語』陽貨「惡紫之奪朱也」。何晏『集解』引孔安國「朱、正色。紫、間色之好者。惡其邪好而奪正色」。後に「朱紫」をもって正と邪、是と非、善と悪の比喩とする。 ○淄澠‥淄水と澠水。山東省を流れる川。ふたつの川の水の味は異なると伝えられている。それが混じり合えば判別が難しくなることのたとえ。また性質がはっきりことなる二種類の物のたとえ。 ○書曰‥『尚書』大禹漠「帝念哉。念茲在茲、釋茲在茲。名言茲在茲、允出茲在茲、惟帝念功」。 ○念茲在茲‥ひろく思念して、あることを忘れないことを指す。 三オモテ ○絶韋之力‥韋編三絶。竹簡を編んでいた綴じ糸が何度も切れる。『史記』孔子世家。読書に勉め、学問に勤めるさま。 ○而後‥しかるのち。そうしてはじめて。 ○授梓‥雕板に附す。印行する。 ○隻字‥カタカナのことか。本文は漢字カタカナ交じりの和文。 ○不脩其辭者‥漢文でないこと。 ○啟‥「啓」の異体。啓蒙する。 ○阿蒙‥三国時代、呉の名将、呂蒙。武人であったが、孫権のすすめにしたがい、勉学に励み、数年後にはひろい学識を有するようになった。後に学識の浅いひとの意に用いる。 ○潤色‥文章を飾る。 ○追琢‥雕琢。ことばを飾る。 ○藻繢‥藻繪。華麗な色彩。文章。 ○黼黻‥衣裳の花柄。文章。 ○匠心‥詩文などの作品の創作に凝らす工夫。 ○辭達‥意味が通る。 ○聖言‥聖なることば。 ○徴‥もとめる。あらわれる。 ○九方歅‥九方皋。九方堙。春秋時代の人。名馬を見分ける名人。『列子』説符に見える。 ○相馬‥馬の優劣を観察する。 ○略其玄黄取其駿逸‥『列子』説符「伯樂對曰、……有九方皋、此其于馬、非臣之下也。請見之。穆公見之、使行求馬。三月而反、報曰、已得之矣、在沙丘。穆公曰、何馬也。對曰、牝而黄。使人往取之、牡而驪。穆公不説、召伯樂而謂之曰、敗矣、子所使求馬者。色物、牝牡尚弗能知、又何馬之能知也。伯樂喟然太息曰、……若皋之所觀、天機也、得其精而忘其粗、在其内而忘其外。見其所見、不見其所不見。視其所視、而遺其所不視。若皋之相馬、乃有貴乎馬者也。馬至、果天下之馬也」。色など外見などを問題にせず、その本質を見抜く。「玄」は黒色。『説文解字』「驪、馬深黑色」。駿逸‥馬のすぐれている、足の速いさま。 ○葢‥「蓋」の異体。 三ウラ ○長‥生長する。生まれ育つ。 ○方伎家‥方技家。ここでは、医者の家。 ○佔畢‥木簡。書籍を読誦する。儒者のことか。 ○丐‥乞い求める。 ○首‥卷首。 ○冕‥冠。卷頭に置く。 ○舉‥行為。 ○推轂‥車を前進させる。推挙する。 ○並蕪‥蕪雑な文句を並べる。 ○寛政辛亥‥寛政三(一七九一)年。 ○清咊‥陰暦四月の別称。「咊」は「和」の異体。 ○星岡源通虎‥未詳。字は文郷。


兪穴便覧の叙

 【意訳】『腧穴便覧』の序文

經や、絡や、氣脈の之く所、猶お道路のごとく然り。

 【意訳】経脈と絡脈は気脈がおもむく場所であり,ちょうど道路のようなものである。

蹷を起し腸を湔(あら)い膏肓を察する、原(もと)此より來たる。

 【意訳】扁鵲が意識不明の虢の太子をよみがえらせたり,華佗が腸を洗浄したり,医緩が膏肓にある病を診察したりしたのは,元を正せば,この経絡に由来するのである。

明らめざる可けんや。

 【意訳】これを明らかにしないで,どうしようか。

黄岐、之を倡(とな)えて自(よ)り、和する者庶にして富めり。

 【意訳】黄帝・岐伯がこれを提唱して以来,これに同調するひとが多くなり,その内容も豊富になった。

惟だ恨むらくは墨絲楊岐、愈(いよ)々多く愈々惑う。

 【意訳】ただ残念なことに,学説が多岐に分かれてしまい,それが多くなればなるほど人々がますます惑わされることになった。

一薫一蕕、簡(えら)ぶ可からず。

 【意訳】その結果,良い説と悪い説が渾然一体となって,選別することが困難になってしまった。

齒か脣か、群蛙、聽を亂(みだ)る。

 【意訳】歯と唇のように互いに密接な関係にありながら,多数のカエルが一斉に鳴いているように諸説が入り乱れている。

汎虖として嚮(むか)う攸(ところ)を知らず、褎として充耳の如し。

 【意訳】情報が多すぎてどこへ向かえば良いかわからず,あふれかえって耳を塞ぎたいほどである。

其の論備わるに似たりと雖も、諸(これ)を今に施すときは、豐蔀、半(なか)ばに居し、漆桶掃帚啻(ただ)ならざるのみ。

 【意訳】その論議は一見すると十分備わっているようにみえるが,それをいま治療に用いようとすると,半分ぐらいは分からなかったり,根拠に乏しい説だったりして,役に立たないことこの上ない。

之を水月鏡花の美なることは美なれども、取りて授く可からざるに辟(たと)う。

 【意訳】たとえてみれば,水に映る月や鏡に映る花は美しいことは美しいけれども,実際に手に取ってひとに授けることができないようなものである。

是の故に膠(かかわ)る者は株を守り、昧(くら)き者は足を添う。

 【意訳】そのため頑固な人は過去の経験,古い方法に固執し,愚昧な人は蛇足を加えることになる。

具眼の徒に匪ざる自りは、刃を迎えて其の肯綮を獲ること能わず。

 【意訳】鑑識眼に優れた人でなければ,その要諦を的確に捉えることはできない。

後進、竟に手を束(つか)ぬ。

 【意訳】後学の学識や経験が浅い人たちは,結局どうしていいか分からず,手をこまねくばかりである。

便ち言う、天應は固(もと)より古賢の稱する所、要は迪滯に在るのみ。一も刺爇す可からざるの處亡(な)し。矧んや上下曲直をや。何の妨げか之れ有らん、と。

 【意訳】そこで口の達者なものは次のように言う。「天応穴(阿是穴)はもともと昔の賢者が称賛したものであり,要点はとどこおりを解消することに過ぎない。鍼灸をほどこして悪い場所は一箇所もない。上であろうが下であろうが,まっすぐであろうが曲がっていようが,関係ない。何の不都合などあろうか」と。

此の説、前途に木鐸せし從り、吠聲耳食、矛盾相軋り、明堂の學、地を掃うに至る。

 【意訳】このような説に先導されると,一匹の犬が吠えると万匹の犬がつられて吠えるように,真偽もわきまえず付和雷同し,耳で食物の善し悪しを判断するように伝聞を軽々しく信じ込み,矛盾した説が衝突し,明堂(腧穴)の学問が塵のように掃除されて,すっかり消え失せてしまうことになる。

木子識、少(わか)きより之を念い、指を二經に染むること閲年。

 【意訳】鈴木子識は,年少の頃からこのことに深く考えをめぐらし,『素問』『霊枢』の二経を手にして歳月を重ねてきた。

荼言齏語を𦧇(な)めて甘んずること薺の如く、左右に取りて其の原(もと)に逢う。

 【意訳】苦い食物を食べても甘い食物のように感じられるほど,古文の言葉を味わい学んできて,左右どこからでもその本源に到達できるようになった。

嘗(かつ)て其の徒の妄語兒の為に紿(あざむ)かれんことを恐れて、而して上(かみ)は軒岐自り、下(しも)は元明に曁(およ)び、錯綜參攷、必ず正鵠に中して、以て偏門の弊を救う。

 【意訳】以前,門弟がでたらめを言う輩(やから)にだまされることを心配して,古くは黄帝・岐伯の時代から近くは元・明の時代におよぶまで,いろいろな資料を総合的に参照し,正しい的(まと)に当たるようにし,邪道の偏った一派による弊害から救おうとした。

是(ここ)に於いて朱紫辨ず可く、淄澠味わう可し。

 【意訳】こうして是非,善悪を判別できるようになり,その違いが区別できるようになった。

書に曰く、茲(これ)を念(おも)えば茲に在り、と。子識も亦た善く念うと謂う可し。

 【意訳】『書経』に「茲(これ)を念(おも)えば茲に在り(ひろく思念して忘れない)」とあるが,鈴木子識もまた,よく念うひとと言える。

近ごろ絶韋の力を究めて、而して後、梓に授く。

 【意訳】最近,学問に励んだ成果をはじめて出版することになった。

之を記するに隻字を以てし、其の辭を脩めざる者は、夫(か)の阿蒙を啓(ひら)くが為にして、固(もと)より美を售(う)り、譽れを要(もと)むるに意無きときは、何ぞ必ずしも潤色追琢、藻繢黼黻、以て匠心を費すことを為さん。

 【意訳】これを仮名交じり文で記して,漢文にしなかったのは,初学者を啓蒙するためであり,美文をひけらかし名誉を求める意図がないからである。そうであればどうして言葉を飾り立てて,文章をよく見せようなどと苦心をする必要があろうか。

辭達するのみ。聖言徴す可し。

 【意訳】文章は伝わればよいのである。このことは,聖人の言葉が証拠立てている。

九方歅の馬を相する、其の玄黄を略して、其の駿逸を取る。

 【意訳】名馬を見分ける名人である九方歅は,馬の毛の色など外見にとらわれず,その本質の優劣を見抜いた。

子識が意、蓋(けだ)し此に在るか。

 【意訳】鈴木子識の意図も,おそらくここにあるのであろう。

余、方伎家に長じ、今ま佔畢に官するを以て、首に一言を冕せんことを丐(こ)わる。

 【意訳】わたくしは,代々医者の家に生まれ育ち,いまは儒者として勤めていることから,卷首に一言序文を載せることを求められた。

余も亦た父兄の業とする所、此の舉に於いてや、推轂せざること能わず。

 【意訳】わたくしとしても,父や兄が仕事としているのであるから,この出版の壮挙について,推薦せずにはおれない。

聊か為に並蕪して、乃ち以て蘄(もと)めに充(あ)つ。

 【意訳】ひとまず鈴木氏のために拙い文句を並べて,氏の求めに応えることとする。

寛政辛亥 清和月

 【意訳】寛政三年(1791) 八月

   友人 星岡源通虎

 【意訳】鈴木子識の友人 星岡源通虎


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  四オモテ

腧穴便覧敘

仲尼不云乎信而好古夫學不師古則

豈有能成者乎雖然信古之篤亦不察

古人有一失之在則不獨誤己亦復誤

人多矣要在博覧研究之耳蓋經穴之

書也諸科固非所忽諸而在鍼灸科

則尤為當務之急也見今之業鍼灸者

  四ウラ

大率不依骨度僅以指頭挨二三要穴

其餘置而不論皆取之於其臆粗亦甚

矣社友木子識常有患之欲導其徒令

之習以精其術乃錯綜諸家擇其善者

而從之著腧穴便覧予閲之雖兒女子

一寓目則不縁師友而取法蓋盡於此

矣於戲非特為導童蒙雖老成人亦

  五オモテ

大有所得也間者將上梓來徴敘於予

予素不能文固辭者再三焉不聽因題

數言於卷端聊塞其責云爾

寛政辛亥夏四月

       神戸美恭

    〔印形白字「神戸/美恭」、黒字「玄/眞」〕


  【訓み下し】

  四オモテ

腧穴便覧の敘

仲尼云わざるか、信じて古(いにしえ)を好む、と。夫れ學びて、古を師とせざれば、則ち豈に能く成す者有らんや。然りと雖も、古を信ずるの篤きこと、亦た古人に一失の在る有りを察せざれば、則ち獨り己を誤るのみならず、亦た復た人を誤らすこと多し。要するに之を博覧研究するに在るのみ。蓋し經穴の書なるや、諸科固(もと)より諸(これ)を忽せにする所に非ず。而して鍼灸科に在っては、則ち尤も當に務むべきの急と為(す)るなり。今の鍼灸を業とする者を見れば、

  四ウラ

大率(おおむね)骨度に依らず、僅かに指頭を以て二三の要穴を挨(と)るのみ。其の餘は置きて論ぜず、皆な之を其の臆に取る。粗なること亦た甚だし。社友の木子識、常に之を患(うれ)うること有り。其の徒を導きて、之をして習いて以て其の術を精ならしめんと欲す。乃ち諸家を錯綜し、其の善なる者を擇(えら)んで而して之に從い、腧穴便覧を著す。予、之を閲すれば、兒女子と雖も一たび寓目すれば、則ち師友に縁らずして、而して取法、蓋し此に盡く。於戲(ああ)、特(た)だ童蒙を導くを為すのみに非ず、老成の人と雖も、亦た

  五オモテ

大いに得る所有るなり。間者(このごろ)將に梓に上(のぼ)せんとす。來たりて敘を予に徴(もと)む。予素(もと)より文を能くせず。固辭すること再三なり。聽かず。因って數言を卷端に題し、聊(いささ)か其の責めを塞ぐと云爾(しかいう)。

寛政辛亥 夏四月

       神戸美恭


 【注釋】

 ○仲尼‥孔子。名は丘、字は仲尼。 ○信而好古‥『論語』述而「子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭」。 ○夫‥「支」字に見えるが、「夫」とした。 ○當務之急‥緊急の課題。『孟子』盡心上「知者無不知也、當務之為急」。 四ウラ ○挨‥取る。「挨穴」は、「取穴」の意味で、江戸時代用いられた。5-6兪穴捷徑の注を参照。 ○臆‥当て推量。 ○社友‥おなじ結社、団体の友人、仲間。師を同じくする友人(同塾生)。 ○木子識‥鈴木文彊。本書の著者。「子識」は字。 ○錯綜‥資料を総合的に参考にして運用する。 ○寓目‥目を注ぐ。 ○師友‥交際して自分の道徳学問などに益あるひと。 ○取法‥法とすること。模範。取穴法。 五オモテ ○能文‥文章をつくるのがうまい。 ○聽‥聞き入れる。受け入れる。 ○寛政辛亥‥寛政三(一七九一)年。 ○神戸美恭‥


腧穴便覧の敘

 【意訳】『腧穴便覧』の序文

仲尼云わざるか、信じて古(いにしえ)を好む、と。

 【意訳】孔子はおっしゃったではないか。「古(いにしえ)の教えを信じて,それを愛好する」と。

夫れ學びて、古を師とせざれば、則ち豈に能く成す者有らんや。

 【意訳】そもそも学習する上で,古(いにしえ)を先生としなければ,どうして大成することなどできようか。

然りと雖も、古を信ずるの篤きこと、亦た古人に一失の在る有りを察せざれば、則ち獨り己を誤るのみならず、亦た復た人を誤らすこと多し。

 【意訳】とはいえ,古(いにしえ)を篤く信じるとしても,やはり古人にも千慮の一失があることを見抜けなければ,自分ひとりだけが誤ってしまうだけでなく,多くの他の人をも誤らせることになる。

要するに之を博覧研究するに在るのみ。

 【意訳】肝要なことは,多数の書籍を読んでよく研究することである。

蓋し經穴の書なるや、諸科固(もと)より諸(これ)を忽せにする所に非ず。而して鍼灸科に在っては、則ち尤も當に務むべきの急と為(す)るなり。

 【意訳】思うに経穴学の書籍は,どの医学の諸科においても軽視してよいものではないが,鍼灸科ではとりわけ最優先で取り組むべき急務である。

今の鍼灸を業とする者を見れば、大率(おおむね)骨度に依らず、僅かに指頭を以て二三の要穴を挨(と)るのみ。

 【意訳】ところが現状の鍼灸界をみると,たいてい骨度に基づかず,指先の感覚で二三の重要な穴を取るだけである。

其の餘は置きて論ぜず、皆な之を其の臆に取る。粗なること亦た甚だし。

 【意訳】それ以外は論外で,みな当て推量で取穴していて,お粗末であること極まりない。

社友の木子識、常に之を患(うれ)うること有り。

 【意訳】わたくしの学友である鈴木子識はいつもこのことを憂えていた。

其の徒を導きて、之をして習いて以て其の術を精ならしめんと欲す。

 【意訳】生徒を指導し,学習して,取穴の技術を精緻なものにさせたいと願った。

乃ち諸家を錯綜し、其の善なる者を擇(えら)んで而して之に從い、腧穴便覧を著す。

 【意訳】そこで多くの専門家の説を総合的に検討して,そのすぐれたもの選び,それにしたがって,『腧穴便覧』を著わしたのである。

予、之を閲すれば、兒女子と雖も一たび寓目すれば、則ち師友に縁らずして、而して取法、蓋し此に盡く。

 【意訳】わたくしがこれに目を通したところ,女子供でも一度目にしたら,先生やすぐれた友人を頼りとせずともわかるように,取穴法の要点が,これにつくされていた。

於戲(ああ)、特(た)だ童蒙を導くを為すのみに非ず、老成の人と雖も、亦た大いに得る所有るなり。

 【意訳】ああ,この書は幼児や初心者の指南書となるだけでなく,経験を積んだ熟練者であっても,やはり大いに得るところがあるはずである。

間者(このごろ)將に梓に上(のぼ)せんとす。來たりて敘を予に徴(もと)む。

 【意訳】近頃,出版されることになり,わたくしに序文を書いてほしいとやってきた。

予素(もと)より文を能くせず。固辭すること再三なり。聽かず。

 【意訳】わたくしは,文章を書くのは得意でないので,何度も固く辞退したが,聞き入れてもらえなかった。

因って數言を卷端に題し、聊(いささ)か其の責めを塞ぐと云爾(しかいう)。

 【意訳】そこで巻頭に数句を記して,とりあえずその責めを果たした次第である。

寛政辛亥 夏四月

 【意訳】寛政三年(1791) 夏四月

神戸美恭

 【意訳】神戸美恭


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  六オモテ

兪穴便覧自叙

夫人身有經絡三陰三陽命目者豈猶有道途

山陰山陽命目哉有兪穴命目者豈猶有郡縣

命目哉庖犧氏立道途郡縣命目者是治天下

一端也軒轅氏立經絡兪穴命目者是治人身

一端也故良將者精於地理矣其興平則以德

教其禍乱則察某地理而出甲兵以治之醫亦

無異之故不可不審兪穴也其平性則以養生

其疾病則診某經穴而施鍼灸以治之然不正

  六ウラ

兪穴則不可愈病也故以諸家之説而折衷之

以國字書焉以俚諺説焉為童蒙初學一助題

曰兪穴便覧矣既成而命諸剞劂氏雖然此書

非敢公諸大方也唯欲省子弟傳借謄録之勞

也耳

寛政二庚戌年夏至日 東都鈴木文強識

       〔印形白字「木/彊」、黒字「字曰/子識」〕


  【訓み下し】

兪穴便覧の自叙

夫れ人身に經絡に有りて、三陰三陽もて命目する者は、豈に猶お道途有りて、山陰山陽もて命目するがごとからんや。兪穴有りて命目する者は、豈に猶お郡縣有りて命目するがごとからんや。庖犧氏、道途に郡縣を立てて命目する者は、是れ天下を治する一端なり。軒轅氏、經絡に兪穴を立てて命目する者は、是れ人身を治する一端なり。故に良將なる者は地理に精(くわ)し。其の興平なる則(とき)は德を以て教え、其の禍乱なる則(とき)は某の地理を察して而して甲兵を出して以て之を治す。醫も亦た之と異なること無し。故に兪穴を審(つまび)らかにせざる可からざるなり。其の平性なる則(とき)は以て生を養い、其の疾病なる則(とき)は某の經穴を診て、而して鍼灸を施して、以て之を治す。然れども

  六ウラ

兪穴正しからざる則(とき)は病を愈やす可からざるなり。故に諸家の説を以て、而して之を折衷し、國字を以て焉(これ)を書き、俚諺を以て焉(これ)を説き、童蒙初學の一助と為(す)。題して兪穴便覧と曰う。既に成り而して諸(これ)を剞劂氏に命ず。然りと雖も、此の書敢えて諸(これ)を大方に公けにするに非ざるなり。唯だ子弟傳借して謄録するの勞を省かんと欲するのみ。

寛政二庚戌年 夏至日 東都 鈴木文強識(しる)す


 【注釋】

 ○命目‥命名する。名前をつける。 ○庖犧‥伏羲。郡縣を命名したという説の出所、未詳。 ○軒轅氏‥黄帝。 ○興‥昌盛。さかん。 ○平‥安寧。戦争のない状態。 ○甲兵‥武裝した士兵。またひろく軍隊を指す。 ○平性‥平生と同じであろう。平時。 六ウラ ○折衷‥折中。異なる意見を調整して、みなに受け入れられるようにする。 ○國字‥カナ。漢字カナ交じり文。 ○俚諺‥日本語。漢文でないこと。 ○剞劂氏‥彫り師。刻工。出版業者。剞劂‥雕刻用の曲刀。雕版、刊印。 ○大方‥有名な大家。大方家。 ○謄録‥抄写。書き写す。 ○東都‥江戸。 ○寛政二庚戌年‥一七九〇年。


兪穴便覧の自叙

 【意訳】『兪穴便覧』の自序

夫れ人身に經絡有りて、三陰三陽もて命目する者は、豈に猶お道途有りてに山陰山陽もて命目するがごとからんや。

 【意訳】そもそも人の身体に経絡があって三陰三陽によって名前がつけられているのは,街道があって山陰道・山陽道と名前がつけられているのと同じではないか。

兪穴有りて命目する者は、豈に猶お郡縣有りて命目するがごとからんや。

 【意訳】腧穴があって名前がつけられているのは,郡や県があって名前がつけられているのと同じではないか。

庖犧氏、道途に郡縣を立てて命目する者は、是れ天下を治する一端なり。

 【意訳】庖犧氏(伏羲)が道路に郡や県を設けて命名したのは,天下を治めるための一つの手段である。

軒轅氏、經絡に兪穴を立てて命目する者は、是れ人身を治する一端なり。

 【意訳】黄帝が経絡に腧穴を設けて命名したのは,人の身体を治めるための一つの手段である。

故に良將なる者は地理に精(くわ)し。

 【意訳】そのため,すぐれた将軍は地理に精通しているのである。

其の興平なる則(とき)は德を以て教え、其の禍乱なる則(とき)は某の地理を察して而して甲兵を出して以て之を治す。

 【意訳】世の中が盛んで平和な時は,徳をもって教え導き,世の中が乱れた時は,その地理を察知した上で,兵隊を派遣して治めるのである。

醫も亦た之と異なること無し。

 【意訳】医術もこれになんら異なるところはない。

故に兪穴を審(つまび)らかにせざる可からざるなり。

 【意訳】だからこそ腧穴のことを詳細に知らなければならないのである。

其の平性なる則(とき)は以て生を養い、其の疾病なる則(とき)は某の經穴を診て、而して鍼灸を施して、以て之を治す。

 【意訳】身体が健康な時は養生をおこない,病にかかった時はその経穴を診察した上で,鍼灸を施術して,これを治療する。

然れども兪穴正しからざる則(とき)は病を愈やす可からざるなり。

 【意訳】しかし,腧穴を正確に取れなければ,病を治癒することはできない。

故に諸家の説を以て、而して之を折衷し、國字を以て焉(これ)を書き、俚諺を以て焉(これ)を説き、童蒙初學の一助と為(す)。

 【意訳】そこで多くの医書に書かれた専門家の説を集めて参考にし,妥当なものを選び取り,仮名交じりで表記して和語で説明し,児童や初学者のためのわずかばかりの助けとした。

題して兪穴便覧と曰う。

 【意訳】書名は『兪穴便覧』とした。

既に成り而して諸(これ)を剞劂氏に命ず。

 【意訳】完成したので,出版業者に刊行をゆだねた。

然りと雖も、此の書敢えて諸(これ)を大方に公けにするに非ざるなり。

 【意訳】とはいえ,本書は立場もわきまえず医学の大家に公開しようとするものではない。

唯だ子弟傳借して謄録するの勞を省かんと欲するのみ。

 【意訳】ただ弟子たちが借りて書き写す手間を省きたいと思ったのに過ぎない。

寛政二庚戌年 夏至日 東都 鈴木文強識(しる)す

 【意訳】寛政二年(1790)かのえいぬの夏至の日 江戸 鈴木文強 記す

2026年10月4日日曜日

15-1 【意訳】江戸時代鍼灸文献序跋集 骨度正誤圖説

 15-1 骨度正誤圖説  村上宗占撰

    京大富士川文庫所蔵(コ/六七)

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     https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00002549

    


骨度正誤序

盖醫之術大也人之死生係焉而其疾  〔盖‥「蓋」の異体〕

病多端詳察其症以為之治或藥餌𢦙  〔𢦙‥「或」の異体〕

針砭或灸艾或按摩各通其一科用以

取驗此之謂醫也

國家升平百有餘年豪傑并起夫人專

門不乏其術唯經絡骨度惟難嚮水野

  一ウラ

壹州公出村上宗占所著書示不佞且

命序不佞熟讀其書錯綜諸説參考百

家正其違刊其謬間加己意以發千載

不言之妙於是乎經絡之理骨度之法

瞭然明于今不佞箕裘之業自結髪時

講求經絡骨度嘗有大疑於是書乎大

疑頓解嗚呼宗占之術可謂勤矣別有

  二オモテ

二火一得評其言亦可觀也水野公寬

弘君子宗占屢遊公門則宗占之為人

亦可知也不佞雖未知宗占是以序云

延享二歳次乙丑臘月

  江都 官醫 井上雅貴撰


  【訓み下し】

骨度正誤の序

蓋し醫の術は大なり。人の死生は焉(ここ)に係る。而して其の疾病は多端なり。詳(つまび)らかに其の症を察して、以て之が為に治するに、或いは藥餌し、或いは針砭し、或いは灸艾し、或いは按摩す。各々其の一科に通じて、用いて以て驗を取る。此れを之れ醫と謂うなり。國家升平にして、百有餘年、豪傑并びて起こる。夫(か)の人、專門に乏しからず。其の術、唯だ經絡骨度のみ、惟(こ)れ難し。嚮(さき)に水野

  一ウラ

壹州公、村上宗占著す所の書を出して不佞に示し、且つ序を命ず。不佞、其の書を熟讀するに、諸説を錯綜し、百家を參考し、其の違を正し、其の謬を刊(ただ)し、間ま己が意を加え、以て千載不言の妙を發す。是(ここ)に於いて經絡の理、骨度の法、瞭然として今に明らけし。不佞、箕裘の業に結髪の時自(よ)り、經絡、骨度を講求し、嘗て大疑有り。是の書に於いて大疑頓解す。嗚呼(ああ)、宗占の術、勤めたりと謂(いい)つ可し。別に

  二オモテ

二火一得評有り。其の言も亦た觀つ可し。水野公は寬弘なる君子なり。宗占屢(しば)々公の門に遊ぶ。則ち宗占の為人(ひととなり)も亦た知る可し。不佞、未だ宗占を知らずと雖も、是を以て序すと云う。

延享二 歳次乙丑 臘月

  江都 官醫 井上雅貴撰す

      〔印形黒字「◇/良/氏」、白字「俊/良」〕


 【注釋】

 ○升平‥太平。 ○百有餘年‥延享二(一七四四)年は、江戸時代のはじめより、百年以上の時をへる。 ○水野壹州公‥若年寄、水野壹岐守忠定(元禄四年~寛延元年/一六九一~一七四八)。 一ウラ ○村上宗占‥宗占は土浦藩医員で、名は親方(ちかまさ)、字が宗占、号は一得子(いつとくし)。本書(『骨度正誤圖説』)はさきに宗占が著した『兪穴辨解』を補完する目的で編まれたもの(『典籍辞典』)。 ○不佞‥自分を謙遜していう。不才。佞は「才」の意。 ○錯綜‥多くの資料を縦横に運用にして綜合する。『漢書』敘傳下「錯綜群言、古今是經、勒成一家、大略孔明」。 ○百家‥多数の人。各種の流派。 ○刊謬‥書物の誤りをなおす。校正する。 ○千載‥千年。長い時間の比喩。 ○瞭然‥明瞭。はっきりとしたさま。 ○箕裘之業‥父親の職業。『禮記』學記「良冶之子必學為裘、良弓之子必學為箕」。 ○結髪‥元服。二十歳。 ○講求‥研究する。 ○頓解‥頓悟。一瞬にして真理をさとる。 ○勤‥周到である。心力を尽くしている。 二オモテ ○二火一得評‥鳥海廣通(湛齋)『二火一得』(寛保三/一七四三年刊)を評したものか。 ○寬弘‥心がひろく、包容力がある人。 ○延享二歳次乙丑‥一七四四年。 ○臘月‥旧暦十二月。 ○江都‥江戸。 ○官醫‥幕府の医師。 ○井上雅貴‥印形白字に「俊/良」とある。『寛政重修諸家譜』卷千五百五(第二十二冊三四三頁)「井上方正(かたまさ)。俊良。交泰院。法眼。法印。……寛保元(一七四一)年……法眼に叙し、三年……奥醫となり、延享二(一七四五)年九月朔日より西城に勤仕す。……寛延元(一七四八)年……法印に叙し、……三年……御匙となる。……明和元年……死す。年六十六。法名俊良」。


『骨度正誤』の序

蓋し醫の術は大なり。

 【意訳】そもそも医術は重大なものである。

人の死生は焉(ここ)に係る。

 【意訳】ひとの生死がこれにかかっているからである。

而して其の疾病は多端なり。

 【意訳】しかしながら人間の病は多種多様である。

詳(つまび)らかに其の症を察して、以て之が為に治するに、或いは藥餌し、或いは針砭し、或いは灸艾し、或いは按摩す。

 【意訳】その症状を詳細に観察して,それを治療する方法としては,薬物・鍼灸・按摩などがある。

各々其の一科に通じて、用いて以て驗を取る。

 【意訳】それぞれが一つの専門分野を究めて,それを用いて治療効果を上げる。

此れを之れ醫と謂うなり。

 【意訳】これこそ医というものである。

國家升平にして、百有餘年、豪傑并びて起こる。

 【意訳】天下は太平の世となり,この百年あまり,傑出した人物がこぞって現われた。

夫(か)の人、專門に乏しからず。

 【意訳】それぞれの専門家は,十分にいる。

其の術、唯だ經絡骨度のみ、惟(こ)れ難し。

 【意訳】ただその医術において,経絡骨度だけは,難しい分野である。

嚮(さき)に水野壹州公、村上宗占著す所の書を出して不佞に示し、且つ序を命ず。

 【意訳】さて水野壱岐守さまは,村上宗占が著わした書物をわたくしにお示しになり,さらに序文を書くように命ぜられた。

不佞、其の書を熟讀するに、諸説を錯綜し、百家を參考し、其の違を正し、其の謬を刊(ただ)し、間ま己が意を加え、以て千載不言の妙を發す。

 【意訳】わたくしが,この書物を熟読したところ,多くの説を縦横に運用して総合し,多数の専門家を参考として,その過ちを修正し,その誤謬を訂正し,ときに私見を加えて,古代より論じられることが無かった素晴らしい奥義を明らかにしている。

是(ここ)に於いて經絡の理、骨度の法、瞭然として今に明らけし。

 【意訳】これによって,経絡の道理や骨度の方法が,今や明瞭に理解出来るようになった。

不佞、箕裘の業に結髪の時自(よ)り、經絡、骨度を講求し、嘗て大疑有り。

 【意訳】わたくしは,医業を受け継ぐ家に生まれ,元服して以来,経絡や骨度を研究してきたが,以前から大きな疑問を抱えていた。

是の書に於いて大疑頓解す。

 【意訳】しかし,この書物を読んで,大きな疑問が一挙に氷解したのである。

嗚呼(ああ)、宗占の術、勤めたりと謂(いい)つ可し。

 【意訳】ああ,村上宗占の医術への取り組みは,まさに勤勉であるというべきである。

別に二火一得評有り。

 【意訳】かれには別に『二火一得評』(鳥海広通『二火一得』に対する批評)がある。

其の言も亦た觀つ可し。

 【意訳】その議論もまた見るに値するものである。

水野公は寬弘なる君子なり。

 【意訳】水野さまは,度量が広く大きい君子である。

宗占屢(しば)々公の門に遊ぶ。

 【意訳】村上宗占は,たびたび水野さまを訪れて交遊している。

則ち宗占の為人(ひととなり)も亦た知る可し。

 【意訳】そのことからも村上宗占の人柄は推して知るべしである。

不佞、未だ宗占を知らずと雖も、是を以て序すと云う。

 【意訳】わたくしは,村上宗占に会ったことはないが,このことを書いて序文とする。

延享二 歳次乙丑 臘月

 【意訳】延享二年(1745)歳次はきのとうしの十二月

  江都 官醫 井上雅貴撰す

 【意訳】江戸 奥医師 井上雅貴 著わす


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骨度正誤自序

夫氣血者譬如流水也經絡者猶堤坊之

在河水也是以流水為物妨礙則妄行氾

濫以遂失其性也矣人之經絡為邪壅塞

則氣血為之不行而疾病立至焉欲治之

者能視其通塞因其正道而考其經絡究

其兪穴於斯也鍼灸湯液施其宜豈可不

九折相愼乎故伯仁曰不明經絡則不知

邪之所在信哉此言也今也考究經絡兪

  三ウラ

穴者或有焉或無焉奚得其眞乎葢兪穴

之正道在骨度骨度一差則穴處無不差

而穴處差則灸刺非徒無益且施害於人

也必矣故聖人立骨度之法以垂教於後

世實不易之㳒也向來經絡之書灸刺之   〔㳒‥「法」の異体〕

㳒積為卷數周行于世家喩戸曉其有功

於學者亦不少焉然未合經旨者間在矣

或曰視此書大凡的張介賓而議汝曾有

讎于張氏歟抑按景岳者明朝醫家之孤

  四オモテ

霍德高才智豐而天下顯名之人也合靈

素二經之類照己之見識著二經之註間

啓發蘊奧矣其功績至大哉舉世而賞焉

後學講二經者多賴於類經也汝今舉張

氏之説以為非而議者恐闊人之情而不

可也予應之曰雖智者亦不能無一失也

凡是為是非為非者天下之通論也葢按

類經附翼心主三焦命門辨其下者是之

高者非之又圖翼謂背兪篇俠脊寸㳒形

  四ウラ

志篇草度之㳒象胸腹骨度之折㳒肩至

肘骨度之註倶皆非經旨也雖然舉世以

為博識敏達故不正其非而是之信之者

衆矣余曾嘆其以繆傳誤故為吾子第著

此書名曰骨度正誤圖説不敢有仇於張

氏不得已也篇末草度之㳒象別以國字

和解而便於初學童蒙云爾

延享元年甲子十一月冬至日

    村上親方宗占自敘

      〔印形白字「村上/氏」、黒字「親方/宗占」〕


  【訓み下し】

骨度正誤の自序

夫れ氣血は、譬えば流水の如し。經絡は、猶お堤坊の河水に在るがごとくなり。是(ここ)を以て流水、物の為に妨礙するときは、妄行氾濫して以て遂に其の性を失す。人の經絡、邪の為に壅塞するときは、氣血、之が為に行かずして、疾病立ちどころに至る。之を治せんと欲する者は、能く其の通塞を視て、其の正道に因って、而して其の經絡を考え、其の兪穴を究め、斯(ここ)に於いて、鍼灸・湯液、其の宜しきを施す。豈に九たび折って相い愼まざる可けんや。故に伯仁の曰く、經絡に明らかならざれば、邪の在る所を知らず、と。信(まこと)なるかな、此の言。今や經絡・兪

  三ウラ

穴を考え究むる者、或いは有り、或いは無し。奚(いず)くんぞ其の眞を得んや。蓋し兪穴の正道は、骨度に在り。骨度一たび差(たが)えば、穴處差わざる無く、穴處差えば、灸刺徒(ただ)に益無きのみに非ず、且つ害を人に施すや必せり。故に聖人、骨度の法を立て、以て教えを後世に垂る。實(まこと)に不易の法なり。向來、經絡の書、灸刺の法、積んで卷數を為し、周(あまね)く世に行わる。家々喩し戸ごとに曉す。其の學者に功有ること、亦た少なからず。然れども未だ經旨に合わざる者、間ま在り。或るひと曰く、此の書を視るに、大凡(おおよそ)張介賓を的して議するは、汝曾て張氏に讎有るか。抑々(そもそも)按ずるに、景岳は、明朝の醫家の孤

  四オモテ

霍、德高く、才智豐かにして、天下顯名の人なり。靈素二經の類を合して、己の見識を照らし、二經の註を著し、間ま蘊奧を啓發す。其の功績至大なるかな。世を舉げて賞す。後學、二經を講ずる者多く類經に頼れり。汝、今ま張氏の説を舉げて以て非と為して議する者は、恐らくは人の情に闊(うと)くて、不可なり、と。予、之に應じて曰く、智者と雖も亦た一失無きこと能わず。凡そ是(ぜ)を是と為(し)、非を非と為(す)るは、天下の通論なり。蓋し按ずるに、類經附翼心主三焦命門辨、其の下(ひく)き者は、之を是とし、高き者は之を非とす。又た圖翼謂える背兪篇俠脊寸法、形

  四ウラ

志篇草度の法象、胸腹骨度の折法、肩より肘に至る骨度の註、倶に皆な經旨に非ざるなり。然りと雖も世を舉げて以て博識敏達と為(す)。故に其の非を正さずして、之を是(ぜ)とし、之を信ずる者衆(おお)し。余曾(かつ)て嘆ず。其の繆を以て誤を傳う。故に吾が子第の為に此の書を著す。名づけて骨度正誤圖説と曰う。敢えて張氏に仇有らず。已むことを得ざるなり。篇末、草度の法象、別に國字を以て和解(わげ)して、初學童蒙に便りとす〔云爾〕。

延享元年甲子 十一月冬至日

    村上親方宗占自ら敘す


 【注釋】 

 ○堤坊‥堤防。 ○妨礙‥妨害。 ○九折‥何度も臂を折って、いろいろな治療方法を経験して、みずから良医となること。のちに、多くの経験を積むことの比喩となる。『楚辭』屈原・九章・惜誦「九折臂而成醫兮、吾至今而知其信然」。 ○伯仁‥滑壽。字は伯仁。引用文は『十四經發揮』自序。 三ウラ ○向來‥従来。 ○家喩戸曉‥どの家でもみな知っている。事情や名声がきわめて広く流布していることの形容。 ○的‥まとにする。標的にする。 ○張介賓‥下文にあるように『類經』『類經圖翼』『類經附翼』等を著し、日本にも大きな影響を及ぼした。 ○讎‥仇。うらみ。 ○景岳‥張介賓の号。 ○孤霍‥孤鶴。特にすぐれて高潔なひと。 四オモテ ○顯名‥名前の知れ渡った。 ○靈素‥『靈樞』『素問』。 ○啓發‥導いてさとらせる。 ○蘊奧‥学問の奥義。 ○後學‥後進の学者。 ○二經‥『靈樞』と『素問』。 ○闊‥実体にそぐわない。 ○智者亦不能無一失‥聡明な人は、問題に対して熟慮するとしても、たまには誤りをおかしてしまう。『史記』淮陰侯傳「智者千慮、必有一失。愚者千慮、必有一得」。 ○通論‥道理にかなった議論。 ○類經附翼心主三焦命門辨‥『類經附翼』卷三・三焦包絡命門辨。 ○圖翼謂背兪篇俠脊寸法‥本文「十三、背兪寸方辨不同」、「二十、背兪篇俠脊辨」を参照。 四ウラ ○形志篇草度之法象‥本文「十五、血氣形志篇草度之方解」、「十九、張介賓草度方解」を参照。 ○胸腹骨度之折法‥本文「五」以下を参照。 ○肩至肘骨度之註‥本文「八」を参照。 ○博識‥見聞が広く、学識が豊富。 ○敏達‥敏捷で道理をわきまえている。 ○繆‥錯誤。「謬」に通ず。 ○子第‥子弟。 ○不敢‥好きこのんでするわけではない。 ○和解‥わげ。日本語による解説。 ○初學‥学習を始めたばかりで学問の造詣が浅いひと。 ○童蒙‥年少で無知な児童。 ○云爾‥文末に置かれ、言い切りの語気を表す。訓は「のみ」「しかいう」。上文は「便リトス」で終わっているので、ここでは訓じていないと思われる。 ○延享元年甲子‥一七四四年。 ○冬至日:訓み下せば、「冬至の日」ではなく、「冬の至日」。 ○村上親方宗占‥前序を参照。


『骨度正誤』の自序

夫れ氣血は、譬えば流水の如し。

 【意訳】気血というものは,たとえれば流れる水のようなものである。

經絡は、猶お堤坊の河水に在るがごとくなり。

 【意訳】これに対して,経絡は,河川に設けられた堤防のようなものである。

是(ここ)を以て流水、物の為に妨礙するときは、妄行氾濫して以て遂に其の性を失す。

 【意訳】そのため,流れる水は行く手が阻まれると,氾濫して,結果としてその本来の性質を失ってしまう。

人の經絡、邪の為に壅塞するときは、氣血、之が為に行かずして、疾病立ちどころに至る。

 【意訳】人の経絡が邪気によって塞がれると,気血がそのためにめぐらなくなり,病がたちまち起こるようになる。

之を治せんと欲する者は、能く其の通塞を視て、其の正道に因って、而して其の經絡を考え、其の兪穴を究め、斯(ここ)に於いて、鍼灸・湯液、其の宜しきを施す。

 【意訳】これを治療したいのであれば,その場所が通じているか塞がっているかを観察し,その正しい道筋に基づいて,その経絡を考察し,その兪穴を考究する。その上で,鍼灸・湯液を適切におこなう。

豈に九たび折って相い愼まざる可けんや。

 【意訳】どうして多くの経験を積んで,慎重におこなわなくていいことがあろうか。(慎重におこなうべきなのである。)

故に伯仁の曰く、經絡に明らかならざれば、邪の在る所を知らず、と。

 【意訳】そのため,滑伯仁は(『十四経発揮』において),「経絡のことを理解出来なければ,邪がどこにあるかはわからない」と言った。

信(まこと)なるかな、此の言。

 【意訳】この言葉は,まことにその通りである。

今や經絡・兪穴を考え究むる者、或いは有り、或いは無し。

 【意訳】現在,経絡や兪穴を考究する人は,いたりいなかったりする。

奚(いず)くんぞ其の眞を得んや。

 【意訳】そのような状態で,どうして真実を得ることができようか。

蓋し兪穴の正道は、骨度に在り。

 【意訳】そもそも腧穴(ツボ)の正しい位置を定める根本は,骨度を正確に理解することにある。

骨度一たび差(たが)えば、穴處差わざる無く、穴處差えば、灸刺徒(ただ)に益無きのみに非ず、且つ害を人に施すや必せり。

 【意訳】骨度をもし間違えれば,腧穴の場所がずれてしまい,腧穴の場所がずれてしまえば,単に施灸も刺鍼も効果がないばかりでなく,必ず人に害を与えることになる。

故に聖人、骨度の法を立て、以て教えを後世に垂る。

 【意訳】そのため高い徳を身につけた人は,骨度の方法を設けて,その教えを後世に伝えたのである。

實(まこと)に不易の法なり。

 【意訳】これはまさに不変の法則である。

向來、經絡の書、灸刺の法、積んで卷數を為し、周(あまね)く世に行わる。家々喩し戸ごとに曉す。

 【意訳】従来,経絡に関する書籍や施灸刺鍼の方法については,たくさんの巻数が著わされ,世の中に行き渡り,きわめて広く普及して誰でも知っている状態である。

其の學者に功有ること、亦た少なからず。

 【意訳】それを著わした学者に功績があることも,また少なくない。

然れども未だ經旨に合わざる者、間ま在り。

 【意訳】しかし,経典の本来の趣旨に合致しないものも,時折見られる。

或るひと曰く、此の書を視るに、大凡(おおよそ)張介賓を的して議するは、汝曾て張氏に讎有るか。

 【意訳】ある人が言った。「本書を見てみると,たいてい張介賓を批判の的にしているが,張氏に恨みでもあったのか。

抑々(そもそも)按ずるに、景岳は、明朝の醫家の孤霍、德高く、才智豐かにして、天下顯名の人なり。

 【意訳】そもそも考えてみれば,張景岳は明代の医者で,名声がきわめて広く行き渡り,徳が高く,才知に富んだ,天下の有名人である。

靈素二經の類を合して、己の見識を照らし、二經の註を著し、間ま蘊奧を啓發す。

 【意訳】『霊枢』と『素問』という二つの経典の内容を分類してまとめて,みずからの見識に照合して,ふたつの経典の注を著わし,時にその奥深い真理を明らかにした。

其の功績至大なるかな。世を舉げて賞す。

 【意訳】その功績は,きわめて大きく,世の人々がこぞって賞賛している。

後學、二經を講ずる者多く類經に頼れり。

 【意訳】後世の学者で『素問』『霊枢』を研究解説するひとは,多くの場合,張景岳が著わした『類経』に頼っている。

汝、今ま張氏の説を舉げて以て非と為して議する者は、恐らくは人の情に闊(うと)くて、不可なり、と。

 【意訳】ところが,あなたは今,張介賓の説を取り上げて,誤りであると論じているが,おそらくは,人々の感情を逆なでするもので,良くないのではないか」。

予、之に應じて曰く、智者と雖も亦た一失無きこと能わず。

 【意訳】わたくしは,次のように答えた。「いくら智慧がある人でも,一つの誤りもないということはありえない。

凡そ是(ぜ)を是と為(し)、非を非と為(す)るは、天下の通論なり。

 【意訳】正しいものを正しいとし,誤ったことを誤りとすることこそ,天下に共通する道理である。

蓋し按ずるに、類經附翼心主三焦命門辨、其の下(ひく)き者は、之を是とし、高き者は之を非とす。

 【意訳】『類経附翼』(巻3・求正録)にある「心主・三焦(包絡)・命門辨」を調べてみると,低いものを正しいとし,高いものを誤りとしている。

又た圖翼謂える背兪篇俠脊寸法、形志篇草度の法象、胸腹骨度の折法、肩より肘に至る骨度の註、倶に皆な經旨に非ざるなり。

 【意訳】また『類経図翼』にいう,「背兪篇の俠脊寸法」「形志篇の草度の法象」「胸腹骨度の折法」「肩から肘までの骨度の注」は,みな『内経』の本来の趣旨に合致しない。

然りと雖も世を舉げて以て博識敏達と為(す)。

 【意訳】それなのに,世間全体では,張景岳のことを博識で聡明であると考えている。

故に其の非を正さずして、之を是(ぜ)とし、之を信ずる者衆(おお)し。

 【意訳】そのためその誤りを正すことなく,かれを正しいと思い,かれを信奉する人が多数いる。

余曾(かつ)て嘆ず。

 【意訳】わたくしは以前からつねに嘆いていた。

其の繆を以て誤を傳う。

 【意訳】その誤謬をさらに誤って伝えていることを。

故に吾が子第の為に此の書を著す。名づけて骨度正誤圖説と曰う。

 【意訳】そこで,わが門の子弟のために本書を著わし,『骨度正誤図説』と名づけた。

敢えて張氏に仇有らず。已むことを得ざるなり。

 【意訳】どうして張氏に恨みがあるはずがあろうか。そうせざるを得なかったである。

篇末、草度の法象、別に國字を以て和解(わげ)して、初學童蒙に便りとす〔云爾〕。

 【意訳】篇の末の,草度の法象(草度之方象国字解)については,仮名を用いて解説して,初学者の便宜をはかった。

延享元年甲子 十一月冬至日

 【意訳】延享元年(1744)きのえね十一月 冬至の日

    村上親方宗占自ら敘す

 【意訳】村上親方宗占みずから記す


*******************************************************


骨度正誤跋

醫民命所係任重業博為其術内經為本方藥為

末病論定而治療立本末明而治療施譬諸大匠

作于廣廈堂宇規矩準繩得心應手無施而不可

也故醫國濟天下之名也漢唐之間諸名家出而

從内經有不失其義者矣歷世到今日醫家者流

勃然于世立功爭名診候之務摩頂放踵無不盡

惟方是求惟治是求葢治療之要雖在于方藥捨

本務末雖多奚為乎同寮宗占平素讀内經精力

過絕人遂得其旨統嘗著骨度正誤又素問血氣

  五ウラ

形志篇草度之文簡約而旨意深淵讀者難焉類

經草度解雖張氏聰惠辨博未盡焉於是乎草度

之方象出圖而書於所得以辨解之大發明經旨

無餘蘊矣使學者易曉指掌粲目也發先輩之所

未發也誠不朽之確言也嗚呼經之蘊奧非闇記

研究日久豈可其得乎骨度正誤形志篇草度方

解合而著之發張氏之未備而遂成一家言者也

寶曆二年壬申五月七日與忠廣玄伸書于東都

茅坡園


  【訓み下し】

骨度正誤の跋

醫は民命の係る所、任重く、業博し。其の術為(た)る、内經を本と為(し)、方藥を末と為(す)。病論定まって治療立ち、本末明らかにして治療施す。諸(これ)を大匠の廣廈堂宇を作るに譬う。規矩準繩、心に得て手に應ず。施として不可無し。故に國を醫(いや)し、天下を濟(すく)うの名あり。漢唐の間、諸名家出でて、内經に從って其の義を失わざる者有り。世を歴(へ)て今日に到り、醫家者流、世に勃然として功を立て、名を爭う。診候の務むる、頂きを摩して踵(くびす)に放(いた)るまで、盡くさざる無く、惟(た)だ方是れ求め、惟だ治是れ求む。蓋し治療の要、方藥に在りと雖も、本を捨てて末を務む。多しと雖も、奚(なに)をか為さんや。同寮宗占、平素、内經を讀む。精力、人に過絶す。遂に其の旨統を得たり。嘗て骨度正誤を著す。又た素問血氣

  五ウラ

形志篇、草度の文簡約にして旨意深淵、讀む者焉(これ)を難(かた)んず。類經草度の解、張氏聰惠辨博と雖も、未だ盡くさず。是(ここ)に於いて草度の方象、圖を出だして、得る所を書して、以て之を辨解す。大いに經旨を發明して餘蘊無し。學者をして曉し易く、掌(たなごころ)を指すがごとく目を粲たらしむ。先輩の未だ發せざる所を發す。誠に不朽の確言なり。嗚呼(ああ)、經の蘊奧、闇記研究、日久しきに非ずんば、豈に其れ得可けんや。骨度正誤、形志篇草度方解、合せて之を著す。張氏が未だ備わらざるを發して、遂に一家の言を成す者なり。

寶曆二年壬申 五月七日 與忠廣玄伸 東都茅坡園に書す


 【注釋】

 ○醫民命所係任重‥明・虞摶『醫學正傳』序「夫醫之為道、民命死生所繫、其責不為不重/夫れ醫の道為(た)るや、民命死生の繫(か)かる所、其の責として重からずと為さず」。民命‥民衆の生命。人命。 ○大匠‥高度な技術をもった職人。『孟子』告子上「大匠誨人、必以規矩。學者亦必以規矩/大匠の人を誨うること、必ず規矩を以てす。學ぶ者も亦必ず規矩を以てす」。 ○廣廈‥広大な建物。 ○堂宇‥殿堂。 ○規矩準繩‥円(圓)・方・平・直などを製作測量するための器具。一定の基準となるものの比喩。『孟子』離婁上「聖人既竭目力焉、繼之以規矩準繩、以為方員平直/聖人既に目力を竭くし、之に繼ぐに規矩準繩を以てし、方員(圓)平直を為なす」。 ○得心應手‥心に思うことを手がその通りに動く。『莊子』天道「不徐不疾、得之於手、而應於心」。3-3鍼科發揮の注を参照。 ○無施而不可‥施術すればいつもよい結果が得られる。 ○醫國‥『國語』晉語八「上醫醫國、其次疾人、固醫官也」。 ○勃然‥興起する、奮い立つさま。 ○立功‥功績を立てる。 ○爭名‥名声を争う。 ○摩頂放踵‥頭から足まで全身に傷を負う。身を捨てて世を救うに労苦を惜しまないことのたとえ。『孟子』盡心上「墨子兼愛、摩頂放踵、利天下為之/墨子は兼ね愛す。頂を摩して踵までに放るまで、天下を利するは、之を為す」。 ○惟方是求、惟治是求‥「求方(方を求む)」「求治(治を求む)」の強調形。 ○捨本務末‥『傷寒論』張仲景序「祟飾其末、忽棄其本/其の末を祟飾し、其の本を忽棄す」。 ○同寮‥同僚。 ○平素‥日頃から。 ○過絕‥超越する。 ○旨統‥趣旨の系統。思想体系。 五ウラ ○旨意‥主旨。 ○難‥かたしとす。むずかしいと思う。 ○聰惠‥聰慧。聡明で智恵が抜きんでている。 ○辨博‥辯博。学識が広いこと。 ○發明‥前人の知らない意を創造的に明らかにする。 ○餘蘊‥のこり。残余。 ○曉‥知る。 ○指掌‥自分のてのひらを指さす。きわめて明白で理解しやすいことのたとえ。 ○粲‥あきらか、はっきりさせる。 ○發‥啓発する。明らかにする。 ○確言‥確実な言説。 ○蘊奧‥奥義。 ○闇記‥暗記。 ○形志篇草度方解‥本書の十五に「血氣形志篇草度之方解」(目録)あり。 ○寶曆二年壬申‥一七五二年。 ○與忠廣玄伸‥同僚であるので、土浦藩医であろう。 ○東都‥江戸。 ○茅坡園‥與玄伸(忠廣)の書斎名か。


『骨度正誤』の跋

醫は民命の係る所、任重く、業博し。

 【意訳】医学は人命に関わるものであり,その責任は重く,学ぶべき範囲は広い。

其の術為(た)る、内經を本と為(し)、方藥を末と為(す)。

 【意訳】医術においては,『黄帝内経』を根本として,処方薬を枝葉とする。

病論定まって治療立ち、本末明らかにして治療施す。

 【意訳】病の議論評価が定まることにより治療方針が確立し,根本と枝葉が明らかになるにより治療をほどすことができる。

諸(これ)を大匠の廣廈堂宇を作るに譬う。

 【意訳】これを優れた大工が広大な建物を建てるのにたとえてみよう。

規矩準繩、心に得て手に應ず。施として不可無し。

 【意訳】コンパスや定規,墨縄などの道具を心に描いたように使いこなせれば,どのような仕事でもできないことはない。

故に國を醫(いや)し、天下を濟(すく)うの名あり。

 【意訳】そのため,優れた医者は国を癒やし,天下を救うという名声があるのである。

漢唐の間、諸名家出でて、内經に從って其の義を失わざる者有り。

 【意訳】漢代から唐代にかけて,多くの名医があらわれたが,『黄帝内経』に従っていて,その真義を見失う者はいなかった。

世を歴(へ)て今日に到り、醫家者流、世に勃然として功を立て、名を爭う。

 【意訳】時代が下って現代に至ると,医者たちは世ににわかに盛んになって功績を立てて,名声を競うようになった。

診候の務むる、頂きを摩して踵(くびす)に放(いた)るまで、盡くさざる無く、惟(た)だ方是れ求め、惟だ治是れ求む。

 【意訳】かれらは,診療において身を粉にして努力を怠らないが,ただ処方,ただ治療法のみをひたすら求めるだけである。

蓋し治療の要、方藥に在りと雖も、本を捨てて末を務む。

 【意訳】治療の要点は,処方薬にあるとしても,根本を捨てて枝葉ばかりを求めている。

多しと雖も、奚(なに)をか為さんや。

 【意訳】それがどれほど多かったとしても,何の意味があろうか。

同寮宗占、平素、内經を讀む。

 【意訳】わたくしの同僚である村上宗占は,日頃から『黄帝内経』を読み込んでいる。

精力、人に過絶す。

 【意訳】その精力は,常人をはるかに越えている。

遂に其の旨統を得たり。

 【意訳】そしてついにその真意を会得した。

嘗て骨度正誤を著す。

 【意訳】そして『骨度正誤』を著わした。

又た素問血氣形志篇、草度の文簡約にして旨意深淵、讀む者焉(これ)を難(かた)んず。

 【意訳】また『素問』血気形志篇に掲載されている,草度(背兪穴の位置を決めるための草を用いた度り方)の文が簡潔ではあるが意味深淵で,読者にとって難解である。

類經草度の解、張氏聰惠辨博と雖も、未だ盡くさず。

 【意訳】『類経』にある草度の解説は,張景岳の聡明博識の才能をもってしても,十分に説明が尽くされていない部分がある。

是(ここ)に於いて草度の方象、圖を出だして、得る所を書して、以て之を辨解す。

 【意訳】そこで村上氏は草度の方法・形象を図に示して,得た知見を書き記し,解説した。

大いに經旨を發明して餘蘊無し。

 【意訳】そうして『内経』の趣旨を大いに明らかにして,秘められた意味を余すところなく示したのである。

學者をして曉し易く、掌(たなごころ)を指すがごとく目を粲たらしむ。

 【意訳】これによって学習者は理解しやすくなり,自分の手のひらを指さすことのように明らかになったのである。

先輩の未だ發せざる所を發す。

 【意訳】これは,先輩たちがそれまで明らかにしてこなかったものである。

誠に不朽の確言なり。

 【意訳】誠に後世まで朽ちることのない確かな説である。

嗚呼(ああ)、經の蘊奧、闇記研究、日久しきに非ずんば、豈に其れ得可けんや。

 【意訳】ああ,経典の奥深い極意は,そらんじるまで読み込んで長年にわたって研究しなければ,どうして会得することができようか。

骨度正誤、形志篇草度方解、合せて之を著す。

 【意訳】骨度の正誤と『素問』血気形志篇にある草度の解説を合わせて著わした。

張氏が未だ備わらざるを發して、遂に一家の言を成す者なり。

 【意訳】張景岳の説で不十分なところを補い明らかにし,ついには独立したひとつの見解となしたものである。

寶曆二年壬申 五月七日 與忠廣玄伸 東都茅坡園に書す

 【意訳】宝暦二年(1752)みずのえさるの五月七日 與 玄伸(忠廣) 江戸の茅坡園にて記す

2026年9月29日火曜日

神楽坂の東瀛閣について

 2023年1月に宮川先生から「漢方の臨床の12月号の「目で見る漢方資料館」432に、神楽坂の「東嬴閣」の写真が載っています。ネットでしらべても、情報がありません。おわかりになる方は、著者の小曽戸先生に教えてあげてください。」というメールが届いた。https://photos.app.goo.gl/BHLLpt8FNnc3m8Sk9

昭和30年(1955)の写真らしい。神楽坂のすぐ近くに住む私としては、なんとか調べられないものかと、手を尽くし、1月末に一応の結論を出したのだが、まだ調べ切れていない資料などがあったので、今回3年越しに都立中央図書館の当時の地図や電話帳を探り、不可解だったポイントなどが解消できたので、以下にまとめてみた。


1.早稲田鶴巻町の「東瀛閣」

「東瀛閣」は、歌手として知られる東海林太郎と弟の東海林三郎が、昭和5~6年(1930~31)頃に早稲田鶴巻町で始めた中華料理店であった。

このことが一番わかる最近公開されたブログがある。詳しいので読んでみてほしい。https://damebunkei.livedoor.blog/archives/41970868.html

この調査では、昭和5年12月号の『我観』にすでに東瀛閣が登場することから、昭和5年11月以前には営業していた可能性が指摘されている。店名は東海林太郎が付けたとされ、弟の三郎がその後の経営の中心となったらしい。早稲田大学の学生や大学関係者などにもよく利用されていた。

所在地については早稲田鶴巻町59番と70番の二説があるが、当時の商工名鑑の広告や火災保険特殊地図などから、70番を店舗所在地とみる説が有力である。ただし、59番説にも同時代資料があり、完全には確定していない。

昭和17年(1942)4月18日のドーリットル空襲では、早稲田鶴巻町も爆撃を受けた。当時の早大生の回想には、東瀛閣について「類焼したらしく、水浸しになっていた」という記述がある。したがって東瀛閣が空襲で被災したようである。

その後、昭和19年(1944)の資料でも東海林三郎は「支那料理業」とされ、さらに戦後には東瀛閣に下宿していた人物の回想から、戦後も中華料理店として営業していたことが確認できる。その人物が東瀛閣を出たのが昭和25年(1950)頃で、それ以後の早稲田店の営業を直接確認できる資料は今のところ見つかっていない。また三郎の住所も、昭和22年には店舗所在地と考えられる早稲田鶴巻町70番だったものが、昭和26年には130番に変わっている。

したがって、早稲田の東瀛閣は戦時中に被災しながらも戦後まで営業し、昭和25~26年(1950~51)頃に早稲田での営業を終えたのではないかというのが、現在の比較的妥当な推定になる。


2.その後、神楽坂2丁目(地図の緑丸)へ移った可能性


東京都立中央図書館で確認した昭和27年(1952)9月の『東京都職業別電話帳』では、「中華料理」の項目に、「東濂閣 神楽坂2-12」という店が掲載されている。

さらに、わずか2か月後の昭和27年11月の火災保険特殊地図を見ると、神楽坂2-12-12に、「東叡園食堂」と読める飲食店が記載されている。

「東濂閣」と「東叡園食堂」という表記は一致しないが、同じ時期、ほぼ同じ住所、一方は明確に「中華料理」、いずれも「東○」という特徴的な名称、「東瀛」は日常的には非常に読み書きしにくい文字、地元の聞き込み調査にて、この場所について「東海林太郎の弟がやっていた中華料理屋だった」という地元の証言が残っていることを合わせると、これらが「東瀛閣」を誤記・異表記したものであった可能性を考えることができる。

ここで時系列に注目すると、

1950~51年頃 早稲田の東瀛閣の記録が途絶える

↓

1952年9月 神楽坂2-12に「東濂閣」という中華料理店

↓

1952年11月 同地点に「東叡園食堂」

となる。

そのため、早稲田鶴巻町での営業終了後、東海林三郎が神楽坂2丁目に店を移したのではないかという仮説は、時間的にも地理的にも成立する。


3.昭和29~32年頃、「神楽坂東えい閣」が鍼灸・漢方関係者の会合に利用される

『医道の日本』や『漢方の臨床』を調べると、昭和29~32年(1954~57)頃の記事に、「神楽坂東えい閣で会合」や「東えい閣で座談会」といった記録が複数確認できる。

医道の日本社, 1955-01
https://photos.app.goo.gl/NP7DSsr85XRGEQHg7

漢方の臨床 40(3)(463)(東亜医学協会, 1993-03)
https://photos.app.goo.gl/4WuiTSHHn6n6HkL56

写真も残されており、単なる一度だけの利用ではなく、昭和30年前後の鍼灸・漢方関係者が会食・座談会・会合を行う場所として、ある程度知られた店だったらしい。

これが1952年の神楽坂2-12の「東濂閣/東叡園食堂」と同一の店であったとすれば、1952年頃に神楽坂へ移転 → 昭和30年前後には矢数医院(地図の青丸)の近くにあるために鍼灸・漢方界の会合場所として利用という流れができる。

この点は東瀛閣の歴史だけでなく、昭和30年代初頭の漢方・鍼灸界の人的交流を考える上でも興味深い。


4.神楽坂2-12-12のその後

同地点については、住宅地図と地元の証言から、その後の変遷がかなり追えるようになった。

現時点で確認できる流れは、

1952年「東濂閣」または「東叡園食堂」と記録される飲食店=東瀛閣であった可能性

↓

1957年料亭「福らく」『東京都全住宅案内図帳 新宿区』[1957]

↓

1962年キャバレー「ムーンライト」『東京都全住宅案内図帳 新宿区』[1962?]

↓

1980年ムーンライト撤退後、うなぎ割烹「志満金」の建て替え時の仮店舗(1年間のみ)

↓

現在、建物はなく、新築工事中(2000年ころから先日まではカラオケ屋だった)

という変遷になる。

地元の方の証言の一つに「ムーンライトになる前には、東海林太郎の弟がやっている中華料理屋があった」という証言があった。


5.もう一つの証言

実は、地元の証言にもう一つ有力としていたものがあった。「現在津久戸町の熊谷組の本社がある場所(地図の赤丸)にあった」というもので、他の方に聞いたところ「そこは「東京閣」という看板ではなかったかな、でも子供のころのことで漢字が読めなかったのかな」ということで、赤丸にお店があったことをほぼ確定と考えていた。しかし、『東京都全住宅案内図帳 新宿区』[1957]と『東京都全住宅案内図帳 新宿区』[1962?]を確認したところ、赤丸の場所に「旅館 東京閣」という表記があり、史料に裏付けられたことにより、二人目の証言が正しいこととして、赤丸の地点には東瀛閣はないことがほぼ確定となった。


6.写真の会合の内容

小林健二先生が調べてくださったことになるが、写真の撮影を昭和30年として、柳谷素霊がいることによりフランス鍼灸学会の招聘により「ヨーロッパにおける鍼指導の旅」(昭和30年6月14日~9月20日)を外すと、下記の二つに絞られる。

*中国医師・潭述渠氏、邸錦城氏、呉恵平氏の三氏、京都の日本東洋医学会(第六回)に出席のため来日、三氏の歓送迎会(4月12日)など、1ケ月程滞在し矢数道明氏、柳谷素霊氏らと交流。(昭和30年4月)

*「柳谷素霊先生、フランス帰朝報告講演会」東京教育会館 (30年10月2日)

2026年9月25日金曜日

14-2 【意訳】江戸時代鍼灸文献序跋集 鍼灸要歌集

14-2 鍼灸要歌集  安井昌玄撰

    京大富士川文庫所蔵(シ/五三七)

     https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00003463

鍼灸要歌集序

達則爲相而蠲民之患窮則

爲醫而療人之疾盖君子之

處通塞也共是所以施仁惠

之權乎醫道豈可輕焉夫醫

者得兼鍼灸藥三者而後爲

  一ウラ

全醫矣所謂周官之十全者

也今見被逼病口箝咽塞者

五藥無所施用之自非假灸

火鍼石之力則不能回生也

鍼灸之功亦大哉 本邦醫

道之行也尚矣然精藥醫者

  二オモテ

頗夥而明鍼灸者猶尠予竊

有感于此因茲忘其謭陋不

顧僣偸而采群書之要領舉

家傳之秘奥以輯録之將補

執鍼石者之萬一焉但爲粗

工耳何足呈於大家之前乎

  二ウラ

書成矣緫五策題曰鍼灸要

歌集旹元禄癸酉之夏長至

日把筆於南紀僑居

     安井昌玄編集


  【訓み下し】

鍼灸要歌集の序

達するときは相と爲りて民の患(うれ)いを蠲(のぞ)き、窮するときは醫と爲りて人の疾を療す。蓋し君子の通塞に處するや、共に是れ仁惠を施す所以の權か。醫道、豈に輕(かろ)んず可けんや。夫れ醫は、鍼灸藥、三の者を兼ぬることを得て、而して後に

  一ウラ

全醫と爲(す)。所謂(いわゆる)周官の十全なる者なり。今ま病に逼(せま)られて口箝(つぐ)み咽(のんど)塞がる者を見るに、五藥施し用うる所無し。灸火鍼石の力を假(か)るに非ずんば、回生すること能わず。鍼灸の功、亦た大なるかな。 本邦、醫道の行わるること尚(ひさ)し。然れども藥醫に精しき者

  二オモテ

頗る夥しくして、鍼灸に明らかなる者、猶お尠なし。予、竊(ひそ)かに此に感ずること有り。茲(こ)れに因って其の謭陋を忘れ、僭偸を顧みずして、群書の要領を采(と)り、家傳の秘奥を舉げて、以て之を輯録す。將(まさ)に鍼石を執れる者の萬が一を補わんとす。但だ粗工の爲(ため)にするのみ。何ぞ大家の前に呈するに足らんや。

  二ウラ

書成んぬ。緫(すべ)て五策、題して鍼灸要歌集と曰う。旹(とき)に元禄癸酉の夏長至日、筆を南紀の僑居に把(と)る。

                  安井昌玄編集す


 【注釋】

 ○達……窮‥『孟子』盡心上「古之人、得志、澤加於民、不得志、修身見於世。窮則獨善其身、達則兼善天下/古の人、志を得れば、澤、民に加わり、志を得ざれば、身を修めて世に見(あら)わる。窮すれば則ち獨り其の身を善くし、達すれば則ち兼ねて天下を善くす」。 ○通塞‥境遇の順境と逆境。 ○仁惠‥仁愛恩徳。 ○權‥力。 ○醫者得兼鍼灸藥三者而後爲全醫矣所謂周官之十全者也‥35-4銅人形引經訣の注を参照。  ○五藥‥五種類の薬物。あらゆる薬物。『周禮』天官冢宰 疾醫「以五味、五穀、五藥養其病」。鄭玄注「五藥、草木蟲石穀也」。 二オモテ ○謭陋‥譾陋。知識が浅く狭い。 ○僣偸‥僭踰。僭越。能力などをわきまえず、差し出たことをする。 二ウラ ○元禄癸酉‥元禄六(一六九三)年。 ○夏長至日‥夏至。 ○南紀‥紀伊国。和歌山県と三重県の一部。 ○僑居‥他郷の居住地。 ○安井昌玄‥


鍼灸要歌集の序

達するときは相と爲りて民の患(うれ)いを蠲(のぞ)き、窮するときは醫と爲りて人の疾を療す。

 【意訳】栄達したら大臣となって民衆の患難を取り除き,困窮したら医者となって人々の疾病を治療する。

蓋し君子の通塞に處するや、共に是れ仁惠を施す所以の權か。

 【意訳】思うに,君子にとっては順境にあろうと逆境にあろうと,いずれにあっても仁愛恩徳をほどこす力を発揮するものではないか。

醫道、豈に輕(かろ)んず可けんや。

 【意訳】(そうであるなら)医道をどうして軽んじることができようか。

夫れ醫は、鍼灸藥、三の者を兼ぬることを得て、而して後に全醫と爲(す)。

 【意訳】そもそも医学は,鍼・灸・薬の三者をかねておこなうことができて,はじめて十全な医者なのである。

所謂(いわゆる)周官の十全なる者なり。

 【意訳】『周礼』天官にいう,十人患者が来たら,十人とも全部治す医者というものである。

今ま病に逼(せま)られて口箝(つぐ)み咽(のんど)塞がる者を見るに、五藥施し用うる所無し。

 【意訳】いま病に苦しめられて,口が閉ざされ,のどが詰まって,どのような薬物も飲ませることができないとしよう。

灸火鍼石の力を假(か)るに非ずんば、回生すること能わず。

 【意訳】(このようなときは,)灸や鍼の力を借りなければ,死の淵から回復させることはできないのである。

鍼灸の功、亦た大なるかな。 

 【意訳】鍼灸の効果は,なんと偉大ではないか。

本邦、醫道の行わるること尚(ひさ)し。

 【意訳】我が国で,医道がおこなわれるようになってから,すでに長い歴史がある。

然れども藥醫に精しき者頗る夥しくして、鍼灸に明らかなる者、猶お尠なし。

 【意訳】しかしながら,薬に精通した医者はたくさんいるが,鍼灸に明るい医者は今なお少数である。

予、竊(ひそ)かに此に感ずること有り。

 【意訳】わたくしには,このことについて個人的に感じ思うところがあった。

茲(こ)れに因って其の謭陋を忘れ、僭偸を顧みずして、群書の要領を采(と)り、家傳の秘奥を舉げて、以て之を輯録す。

 【意訳】そこで,自分の浅学非才を忘れ,分を越えた振る舞いとなることをかえりみず,多くの医書から要点を採取し,我が家に代々伝わる奥義をかかげて,これらを編集して収録することにした。

將(まさ)に鍼石を執れる者の萬が一を補わんとす。

 【意訳】そうすることで,鍼灸にたずさわるひとにほんのわずかでも補いとなればいいと思ったのである。

但だ粗工の爲(ため)にするのみ。

 【意訳】技術に劣る医者のためのみにしたことである。

何ぞ大家の前に呈するに足らんや。

 【意訳】どうして名人たちの面前に進呈できるようなものであろうか。

書成んぬ。

 【意訳】こうして本書は完成した。

緫(すべ)て五策、題して鍼灸要歌集と曰う。

 【意訳】全五冊,題名を『鍼灸要歌集』とした。

旹(とき)に元禄癸酉の夏長至日、筆を南紀の僑居に把(と)る。

 【意訳】時は元禄六年(1693)の夏,夏至の日,紀州の仮住まいで執筆した。

                  安井昌玄編集す

 【意訳】安井昌玄が編集した。


  【参考】

  『國語』晉語八「平公有疾、秦景公使醫和視之、出曰、不可為也。是謂遠男而近女、惑以生蠱。非鬼非食、惑以喪志。良臣不生、天命不祐。若君不死、必失諸侯。趙文子聞之曰、武從二三子以佐君為諸侯盟主、於今八年矣。内無苛慝、諸侯不二。子胡曰良臣不生、天命不祐。對曰、自今之謂。和聞之曰、直不輔曲、明不規闇、拱〔一作「榣」〕木不生危、松柏不生埤。吾子不能諫惑、使至於生疾、又不自退而寵其政。八年之謂多矣、何以能久。文子曰、醫及國家乎。對曰、上醫醫國、其次疾人、固醫官也/平公に疾有り、秦の景公、醫和をして之を視しむ。出でて曰く、為(おさ)む可からざるなり。是れを男を遠ざけて女を近づけ、惑いて以て蠱を生ずと謂う。鬼に非ず食に非ず、惑いて以て志を喪(うしな)う。良臣生きず、天命祐(たす)けず。若し君死なずんば、必ず諸侯を失わん、と。趙文子、之を聞いて曰く、武、二三子に從いて、以て君を佐(たす)け諸侯の盟主と為(な)ること、今に於いて八年なり。内に苛慝無く、諸侯二せず。子胡(なん)ぞ良臣生きず、天命祐けずと曰うや。對(こた)えて曰く、今自り之れを謂う。和、之れを聞く、曰く、直は曲を輔けず、明は闇を規(ただ)さず、拱〔一作「榣」〕木は危(たか)きを生ぜず、松柏は埤(ひく)きを生ぜず。吾子、惑いを諫むる能わずして、疾を生ずるに至らしめ、又た自ら退かずして其の政(まつりごと)を寵とす。八年も之れ多しと謂う、何を以てか能く久しからん、と。文子曰く、醫は國家に及ぶか、と。對えて曰く、上醫は國を醫し、其の次は疾人、固(もと)より醫官なり、と」。


   『周禮』天官冢宰「醫師。掌醫之政令。聚毒藥以共醫事。凡邦之有疾病者、疕瘍者造焉、則使醫分而治之。歳終、則稽其醫事、以制其食。十全為上、十失一次之、十失二次之、十失三次之、十失四為下/醫師。醫の政令を掌る。毒藥を聚めて以て醫事に共す。凡そ邦の疾病有る者、疕瘍ある者、焉(ここ)に造(いた)れば、則ち醫をして分かちて之を治めしむ。歳終われば、則ち其の醫事を稽(かんが)え、以て其の食を制す。十全を上と為し、十に一を失するは之に次ぎ、十に二を失するは之に次ぎ、十に三を失するは之に次ぎ、十に四を失するを下と為す」。

  

   「不為良相、願為良醫」。范仲淹(九八九~一〇五二)は中国・北宋の政治家、文人。字は希文、諡は文正。

   宋・呉曾『能改齋漫録』卷十三 文正公願為良醫「范文正公微時、常〔一作「嘗」〕詣靈祠求禱、曰、他時得位相乎。不許。復禱之曰、不然、願為良醫。亦不許。既而嘆曰、夫不能利澤生民、非大丈夫平生之志。他日有人謂〔公〕曰、〔大〕丈夫之志於相、理則當然。良醫之技、君何願焉。無乃失於卑耶。公曰、嗟乎、豈為是哉。古人有云、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。且〔大〕丈夫之於學也、固欲遇神聖之君、得行其道。思天下匹夫匹婦有不被其澤者、若己推而内之溝壑〔一作「中」〕。能及小大生民者、固在為相為相〔一作「固惟相為然」〕、既不可得矣、夫能行救人利物之心者、莫如良醫。果能為良醫也、上以療君親之疾、下以救貧民之厄、中以保身長命〔一作「全」〕。在下而〔能〕及小大生民者、捨夫良醫、則未之有也/范文正公微(いや)しき時、常に〔嘗て〕靈祠に詣(いた)り求め禱(いの)る。曰く、他時、相に位するを得るか、と。許されず。復た之に禱りて曰く、然らずんば、願わくは良醫と為らん、と。亦た許されず。既にして嘆じて曰く、夫れ生民を利澤する能わずんば、大丈夫の平生の志に非ず、と。他日、人有り〔公に〕謂いて曰く、〔大〕丈夫の相を志すは、理として則ち當然なり。良醫の技、君何んぞ焉(これ)を願う。乃ち卑に失するに無からんや、と。公曰く、嗟乎(ああ)、豈に是と為さんや。古人有りて云う、常に善く人を救う、故に人を棄つること無し。常に善く物を救う、故に物を棄つること無し、と〔『老子』二十七章〕。且つ〔大〕丈夫の學に於けるや、固(もと)より神聖の君に遇い、其の道を行くを得んと欲す。天下の匹夫匹婦の其の澤を被らざる者有るを思い、己の若く推して之を溝壑〔一作「中」〕に内(い)る。能く小大の生民に及ぼす者は、固より相為(た)るに在り。相為るに〔一作「固より惟だ相のみ然りと為す」〕、既に得可からず、夫れ能く人を救い物を利するの心を行う者は、良醫に如(し)くは莫し。果して能く良醫と為るや、上、以て君親の疾を療し、下、以て貧民の厄を救い、中、以て身を保ち命〔一作「全」〕を長くす。下に在りて〔能く〕小大の生民に及ぼす者、夫(か)の良醫を捨つれば、則ち未だ之れ有らざるなり」。

2026年9月20日日曜日

14-1 【意訳】江戸時代鍼灸文献序跋集 合類鍼法奇貨

14-1 合類鍼法奇貨  渡邊東伯撰

    京大富士川文庫所蔵(コ/二一四)

     https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00002455

 

合類鍼法奇貨序

竊以醫者乃人之司命匪志士而莫爲針

者亦理之淵微須至人之指教先究其病

源而後攻其道手見巧應針取驗正知玄

裏玄一達妙中之妙誠哉高皇抱疾未痊

李氏刺巨闕而復甦太子暴死越人鍼會

維而復醒秋夫針腰俞而鬼免沉痾王篡

  一ウラ

針交俞而妖精立出臂痛甄權刺曲池肩

井而復射躄足華陀針懸鐘環跳而立行以

是通玄指要賦欲治病莫如用針巧運神

氣之妙工開聖理之深外取砭針直蠲邪

而輔正中含水火善回陽而倒陰矣竇漢

卿標幽賦極救之法妙用者針也察歳時

於天道定形氣於予心雖然去聖俞遠此

  二オモテ

道漸衰或不得意而散其學或愆其能犯

禁忌庸愚智淺難契於玄言至道淵深得

之者九牛一毛也時思古今遺跡者凡是

後世之師因之廣搜難素之秘文奥義深

考諸家之肘幽妙臆今新撰之號合類鍼

法奇貨不敢以示智明達人焉庶幾啓乎

後學童蒙之心眼者也旹延寳第七己未

  二ウラ

二月甲子南京統伯序


  【訓み下し】

合類鍼法奇貨の序

竊(ひそ)かに以(おもん)みるに、醫者(は)乃(いま)し人の命を司る。志士(こころざしのひと)に匪ずんば爲すこと莫かれ。針は亦た理の淵微。至人の指教(ゆびのおしえ)を須(もと)めて、先ず其の病の源を究めて、而(しか)る後に其の道を攻め、手に巧みを見(あらわ)し針に應じ驗(しるし)を取る。正に知んぬ、玄裏の玄、一(はじ)めて達す、妙中の妙たることを。誠なるかな。「高皇、疾(やまい)を抱(いだ)いて未だ痊(い)えざるに、李氏、巨闕に刺して、復た甦(よみがえ)り、太子暴(にわ)かに死す、越人、會維に鍼して、復た醒めぬ、秋夫、腰俞に針して、鬼、沉痾を免(まぬか)れ、王篡、

  一ウラ

交俞に針して、妖精立ちどころに出づ、臂の痛み、甄權、曲池・肩井に刺して、復た射る、躄足に華陀、懸鐘・環跳に針して、立ちどころに行く」。是(ここ)を以て通玄指要の賦に「病を治(ぢ)せんと欲せば、針を用いるに如(し)くは莫し、巧みに神氣の妙を運らし、工(たく)みに聖理の深きを開き、外、砭針を取りて直ちに邪を蠲(のぞ)き正を輔け、中、水火を含んで善く陽を回(めぐ)らし陰を倒す」と。竇漢卿が標幽の賦に「極(きわ)めて救うの法、妙用の者は針なり、歳時を天道に察し、形氣を予(わ)が心に定む」と云へリ。然りと雖も、聖を去ること俞(ます)ます遠くして此の

  二オモテ

道漸く衰え、或いは意(こころ)を得ずして、其の學を散じ、或いは其の能を愆(えら)んで、禁忌を犯し、庸愚智淺、玄言に契し難く、至道の淵深、之を得る者、九牛が一毛なり。時に思う、古今の遺跡は、凡(すべ)て是れ後世の師なり、と。之に因って廣く難素の秘文奥義を搜(さぐ)り、深く諸家の肘幽妙臆を考え、今ま新たに之を撰んで、合類鍼法奇貨と號す。敢えて以て智明達人には示さず。後學童蒙の心眼を啓かんことを庶幾(こいねが)う者なり。旹(とき)に延寳第七己未

  二ウラ

二月甲子 南京統伯序す


 【注釋】

 ○高皇 李氏‥未詳。一説では、元のフビライと李元(字は善長、フビライの侍医)。また一説では、金王朝の高皇帝と李浩。『標幽賦』「抑又聞高皇抱疾未瘥、李氏刺巨闕而後蘇。太子暴死為厥、越人針維會而復醒。肩井・曲池、甄權刺臂痛而復射。懸鐘・環跳、華佗刺躄足而立行。秋夫針腰俞而鬼免沉痾。王篡針交俞而妖精立出」。 ○太子 越人‥扁鵲傳を参照。 ○甄權‥『舊唐書』列傳 方伎「甄權、許州扶溝人也。嘗以母病、與弟立言專醫方、得其旨趣。隋開皇初、為祕書省正字、後稱疾免。隋魯州刺史庫狄嶔苦風患(『新唐書』作「痺」)、手不得引弓、諸醫莫能療、權謂曰、但將弓箭向垜、一鍼可以射矣。鍼其肩隅一穴、應時即射。權之療疾、多此類也。貞觀十七年、權年一百三歳、太宗幸其家、視其飲食、訪以藥性、因授朝散大夫、賜几杖衣服。其年卒。撰脈經、鍼方、明堂人形圖各一卷」。 ○華佗‥『三國志』魏書・方技・華陀傳注「佗別傳曰、有人病兩脚躄不能行、轝詣佗、佗望見云、己飽針灸服藥矣、不復須看脈。便使解衣、點背數十處、相去或一寸、或五寸、縱邪不相當。言灸此各十壯、灸創愈即行。後灸處夾脊一寸、上下行端直均調、如引繩也」。 ○秋夫 鬼‥『南史』列傳・徐文伯「(徐熙)生子秋夫、彌工其術、仕至射陽令。嘗夜有鬼呻吟、聲甚悽愴、秋夫問何須、答言姓某、家在東陽、患腰痛死。雖為鬼痛猶難忍、請療之。秋夫曰、云何厝法。鬼請為芻人、案孔穴針之。秋夫如言、為灸四處、又針肩井三處、設祭埋之。明日見一人謝恩、忽然不見。當世伏其通靈」。『醫説』鍼灸・鍼蒭愈鬼「徐熙、字秋夫、不知何郡人。時爲射陽少令、善醫方、名聞海内。常夜聞有鬼呻吟聲甚淒苦。秋夫曰、汝是鬼、何所須。答曰、我姓斛、名斯、家在東陽、患腰痛死、雖爲鬼、而疼痛不可忍、聞君善術、願相救濟。秋夫曰、汝是鬼而無形、云何厝治。鬼曰、君但縛蒭爲人、索孔穴鍼之。秋夫如其言、爲鍼腰四處、又鍼肩井三處。設祭而埋之。明日一人來謝曰、蒙君醫療、復爲設祭、病除饑解、感惠實深。忽然不見。當代稱其通靈。長子道度、次子叔嚮、皆精其術焉(唐史)/徐熙、字は秋夫。何れの郡の人かを知らず。時に射陽の少令と爲る。醫方を善くし、名、海内に聞こゆ。常(かつ)(=嘗)て夜に鬼の呻吟する有るを聞く。聲 甚だ淒苦なり。秋夫曰く「汝は是れ鬼なり。何の須(もと)むる所ぞ」と。答えて曰く「我が姓は斛、名は斯。家は東陽に在り。腰痛を患い死せり。鬼と爲ると雖もしかるに疼痛 忍ぶべからず。君の術を善くするを聞く。願くは相い救濟せよ」と。秋夫曰く「汝は是れ鬼にして形無し。治を厝するに云何(いかん)せん」と。鬼曰く「君は但だ蒭を縛りて人を爲(つく)り、孔穴を索(もと)めて之れに鍼せよ」と。秋夫、其の言の如く鍼を腰の四處に爲し、又た肩井の三處に鍼す。祭を設けて之れを埋む。明日、一人來たりて謝して曰く「君の醫療を蒙り、復た爲に祭を設く。病い除かれ、饑え解かれ、惠を感ずること實に深し」と。忽然として見えず。當代、其の通靈を稱す。長子は道度、次子は叔嚮。皆な其の術に精し(『唐史』)」。『南史』では、秋夫は徐熙の子。 ○王篡(王纂) 妖精‥劉穎叔『異苑』卷八「元嘉十八年、廣陵下市縣人張方女道香、送其夫婿北行。日暮、宿祠門下。夜有一物、假作其婿來云、離情難遣、不能便去。道香俄昏惑失常。時有海陵王纂者、能療邪。疑道香被魅、請治之。始下一針、有一獺從女被內走入前港。道香疾便愈」。『醫説』鍼灸・妙鍼獺走「宋人王纂海陵人、少習經方、尤精鍼石、遠近知其盛名。宋元嘉中、縣人張方女日暮宿廣陵廟門下。夜有物、假作其壻來、女因被魅惑而病。纂爲治之。始下一鍼、有獺從女被内走出。病因而愈(劉穎叔異苑)/宋の人、王纂は海陵の人なり。少(わか)きより經方を習い、尤も鍼石に精(くわ)し。遠近、其の盛名を知る。宋の元嘉中、縣人、張方の女(むすめ)、日暮れて廣陵廟の門下に宿る。夜、物有り。假りて其の壻と作(な)り來たる。女、魅惑せらるるに因って病む。纂、爲に之を治す。始めて一鍼を下す。獺有り。女の被内從り走り出づ。病、因って愈ゆ(劉穎叔『異苑』)」。『流注指微賦』にも名がみえる。『扁鵲神應鍼灸玉龍經』注解標幽賦(末尾)によれば、穴名は交兪。『古今醫統大全』卷一 歴世聖賢名医姓氏「王纂。海陵人、習覽經方、尤工針石、遠近知其名、所療多效。初、嘉祐中有女人被妖惑、纂爲針、妖狐即從女衾中逃鼠、女病遂愈」。 ○標幽賦極‥「極」、原文は手偏の「亟」に作る。『標幽賦』は「拯」に作る。 ○云ヘリ‥添え仮名。 二オモテ ○愆‥振り仮名「ヱランテ」。 ○廣搜難素之秘文奥義、深考諸家之肘幽妙臆‥『鍼灸聚英』所収「流注指微賦」には「廣搜難素之秘密文辭、深考諸家之肘凾妙臆」とある。「難素」は『難經』と『素問』。 ○延寳第七己未‥一六七九年。 二ウラ 南京統伯‥未詳。書末に「南京 渡邊東伯秀富 撰」とある。「南京」は「南都」と同じで奈良か。「統伯」は「東伯」の別表記か。 


  【参考】

  『標幽賦』「拯救之法、妙用者針。察歳時於天道、定形氣於予心」。

  『通玄指要賦』「必欲治病、莫如用針。巧運神機之妙、工開聖理之深。外取砭針、能蠲邪而扶正。中含水火、善回陽而倒陰。原夫絡別支殊、經交錯綜。或溝池谿谷以岐異、或山海丘陵而隙共。斯流派以難揆、在條綱而有統。理繁而昧、縱補瀉以何功。法捷而明、曰迎隨而得用」。

  

合類鍼法奇貨の序

竊(ひそ)かに以(おもん)みるに、醫者(は)乃(いま)し人の命を司る。

 【意訳】私見によれば,医師こそが人命をつかさどるものなのである。

志士(こころざしのひと)に匪ずんば爲すこと莫かれ。

 【意訳】志があるひとでなければ,医療行為をしてはいけない。

針は亦た理の淵微。

 【意訳】鍼のことわりは,また深く微妙なものである。

至人の指教(ゆびのおしえ)を須(もと)めて、先ず其の病の源を究めて、而(しか)る後に其の道を攻め、手に巧みを見(あらわ)し針に應じ驗(しるし)を取る。

 【意訳】達人の指導を求めて,まず病の源を究明する。その上で医道に専念して従事し,手に巧みな技術を備えて,鍼をほどこせばすぐさま効果が得られるようにする。

正に知んぬ、玄裏の玄、一(はじ)めて達す、妙中の妙たることを。

 【意訳】そうすることで,深淵中の深淵にはじめて達し,神業の中の神業であることが,まさに知ることができる。

誠なるかな。

 【意訳】いかにも確かなことである。

「高皇、疾(やまい)を抱(いだ)いて未だ痊(い)えざるに、李氏、巨闕に刺して、復た甦(よみがえ)り、

 【意訳】「高皇が病を患って治らなかったとき,李氏が巨闕の穴に鍼を刺すと病から恢復した。

太子暴(にわ)かに死す、越人、會維に鍼して、復た醒めぬ、

 【意訳】虢の世継ぎが意識不明に陥ったとき,秦越人が会維(維会)の穴に鍼を施すと,ふたたび意識を取り戻した。

秋夫、腰俞に針して、鬼、沉痾を免(まぬか)れ、

 【意訳】徐秋夫が腰兪の穴に鍼をすると,幽霊は長患いから解放された。

王篡、交俞に針して、妖精立ちどころに出づ、

 【意訳】王簒が交兪に鍼をすると,妖怪はすぐさま取り憑いた女を離れて布団の中から出て逃げ出した。

臂の痛み、甄權、曲池・肩井に刺して、復た射る、

 【意訳】上肢の痛みのために弓を引けなかった人に,甄権が曲池と肩井の穴に鍼を刺すと,以前のように弓矢を射ることができるようになった。

躄足に華陀、懸鐘・環跳に針して、立ちどころに行く」。

 【意訳】足に障害があって歩けなかった人に,華佗が懸鍾と環跳の穴に鍼すると,すぐさま歩けるようになった。」

是(ここ)を以て通玄指要の賦に「病を治(ぢ)せんと欲せば、針を用いるに如(し)くは莫し、巧みに神氣の妙を運らし、工(たく)みに聖理の深きを開き、外、砭針を取りて直ちに邪を蠲(のぞ)き正を輔け、中、水火を含んで善く陽を回(めぐ)らし陰を倒す」と。

 【意訳】こういうわけで,『通玄指要の賦』に「病気を治療したいと思ったら,鍼を用いることが最善である。巧妙に神気の精微をめぐらせて,巧妙に聖なることわりの深いところを開いて,外部からは(砭石や)鍼を使ってただちに邪気を取り除いて正気を助けて,内部では水・火を含みながら陽気をめぐらせて陰気を倒す」とある。

竇漢卿が標幽の賦に「極(きわ)めて救うの法、妙用の者は針なり、歳時を天道に察し、形氣を予(わ)が心に定む」と云へリ。

 【意訳】竇漢卿の『標幽の賦』にも「極めて(拯(すく)って)救う方法で,不思議な働きをするものは鍼である。歳月を天体の運行で観察し,自分のこころで患者の形気(血気の外から判断できるもの/形体と気質)を判定する」という。

然りと雖も、聖を去ること俞(ます)ます遠くして此の道漸く衰え、或いは意(こころ)を得ずして、其の學を散じ、或いは其の能を愆(えら)んで、禁忌を犯し、庸愚智淺、玄言に契し難く、至道の淵深、之を得る者、九牛が一毛なり。

 【意訳】そうとはいえ,聖人の時代を離れることますます久しくなり,医道は次第に衰退し,ある者は,真意を理解できず,その学びを捨ててしまい,ある者は自分の才能を誤解して禁忌を犯す。愚かで智慧があさく,奥深い言葉に適いがたく,最上の道の奥深さを得られる人は,九牛の一毛ほどで極めてまれである。

時に思う、古今の遺跡は、凡(すべ)て是れ後世の師なり、と。

 【意訳】いつも思っているが,古今の人々がのこしたものは,みな後世の人たちにとって師となるものである。

之に因って廣く難素の秘文奥義を搜(さぐ)り、深く諸家の肘幽妙臆を考え、今ま新たに之を撰んで、合類鍼法奇貨と號す。

 【意訳】このため,『難経』や『素問』に秘められた文章にある奥深い意味を広く探し求め,多くの専門家の妙なる見解を深く考察し,いま新たに編集して,『合類鍼法奇貨』と命名した。

敢えて以て智明達人には示さず。

 【意訳】賢明な深く物の道理に通じた人に示す勇気はないが,

 後學童蒙の心眼を啓かんことを庶幾(こいねが)う者なり。

 【意訳】後学の初心者の心と目を開く助けとなることを願うばかりである。

旹(とき)に延寳第七己未二月甲子 南京統伯序す

 【意訳】時は延宝七年つちのとひつじ(1679)二月きのえねの日 南都奈良の統伯 序文をしたためる

  

  ★  GoogleAIおよびQwenAIによれば,

  延宝7年の「2月」の中に「甲子の日」は1日も存在しません。

  干支(甲子など)は60日ごとに巡ってくるため、延宝7年1月28日の次に「甲子」となるのは60日後の延宝7年3月29日(グレゴリオ暦1679年5月9日)となります。

  

  延宝7年にある甲子の日は以下の通り。

  延宝7年 正月29日 (西暦1679年3月10日)

  延宝7年 3月29日 (西暦1679年5月9日)

  延宝7年 5月30日 (西暦1679年7月8日)

  延宝7年 8月2日 (西暦1679年9月6日)

  延宝7年 10月2日 (西暦1679年11月5日)

  延宝7年 12月3日 (西暦1679年12月3日は旧暦、西暦1680年1月4日)

  

  2月1日(3月12日):丙寅(ひのえとら)

  2月9日(3月20日):甲戌(きのえいぬ)

  2月19日(3月30日):甲申(きのえさる)

  2月29日(4月9日):甲午(きのえうま)

  2月30日(4月10日):乙未(きのとひつじ)

  

  「二月」が「三月」の誤記である場合(最も有力)

  延宝7年の次の「甲子」の日は、旧暦3月29日 です。

2026年9月19日土曜日

13-2 【意訳】江戸時代鍼灸文献序跋集 主治針法

 13-2 主治針法  著者未詳

    京大富士川文庫所蔵(シ/八〇) 

     https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00003001

    三巻本。以下の序は,巻之下の末尾に綴じられている。


主治鍼法之序

夫醫之治病猶人之治水水

之行于天地猶血氣之行于

人身也或為四氣七情所干

則經脉流注交際之處或塞

或壅或溢焉皆害ヲナシ病

トナルニ至氣血之凝滯取

其和平主治者鍼法耳而鍼

ヲ刺テ病シルシ速ナル經

穴圖章訓釋而以便準量取

  ウラ

穴目之曰主治鍼法ワケテ

為三卷雖一言半句私ノ言

アラズ皆醫學入門十四經

發揮鍼灸聚英其外諸家之

説トツテヌキガキシテ門

弟子シメス懷中秘而他見

スルコトナカレト云尒

 旹

延寶五丁巳歳孟夏良辰


  【訓み下し】

主(シユ)治(ジ)鍼(シン)法(ハウ)の序(シヨ)

夫れ醫の病を治(ジ)すること猶お人の水を治むるがごとし。水の天地を行くことは、猶お血氣の人身を行くがごとし。或いは四氣七情の為に、干(ヲカ)さるるときんば、經脉流注交際の處、或いは塞がり、或いは壅ぎ、或いは溢る。皆な害をなし、病となるに至る。氣血の凝滯、其の和平(クワヘイ)を取る。主治は、鍼法のみ。而して鍼を刺して病にしる(著)し。速(スミヤ)かなる經穴圖章、訓釋(キンセキ)して以て準量して

  ウラ

穴を取るに便りす。之を目(ナツ)けて、主治鍼法を曰う。わ(分)けて三卷と為(す)。一言半句と雖も、私(ワタクシ)の言(コトバ)にあらず。皆な醫學入門、十四經發揮、鍼灸聚英、其の外諸家(シヨケ)の説をと(取)って、ぬ(抜)きが(書)きして、門弟子(テイシ)にしめ(示)す。懷中に秘して他見することなかれと爾(シカ)云(イフ)。

 旹

延寶五丁巳歳 孟夏良辰


 【注釋】

 ○シルシ‥顕著である。効果がある。 ○醫學入門‥明・李梃撰。 ○十四經發揮‥元・滑壽撰。 ○鍼灸聚英‥明・高武撰。 ○尒‥「爾」の異体。 ○旹‥「時」の異体。 ○延寶五丁巳歳‥一六七七年。 ○孟夏‥夏季のはじめの月。旧暦四月。 ○良辰‥吉日。


主(シユ)治(ジ)鍼(シン)法(ハウ)の序(シヨ)

夫れ醫の病を治(ジ)すること猶お人の水を治むるがごとし。

 【意訳】医者が病を治療することは,人が治水するのと同じようなものである。

水の天地を行くことは、猶お血氣の人身を行くがごとし。

 【意訳】水が天地をめぐることは,血気が人体をめぐるのと同じようなものである。

或いは四氣七情の為に、干(ヲカ)さるるときんば、經脉流注交際の處、或いは塞がり、或いは壅ぎ、或いは溢る。

 【意訳】(春夏秋冬の)温・熱・冷・寒に代表される外因や,喜・怒・憂・思・悲・恐・驚などの感情に代表される内因によって人体がおかされると,経脈が流れて交わるところが,塞がったり,遮られたり,あふれたりする。

皆な害をなし、病となるに至る。

 【意訳】いずれの場合でも,障害が生じて,発病することになる。

氣血の凝滯、其の和平(クワヘイ)を取る。

 【意訳】気血の凝りとどこおったものは,調和平安を求める。

主治は、鍼法のみ。

 【意訳】治療をつかさどるのは,鍼法だけである。

而して鍼を刺して病にしる(著)し。

 【意訳】鍼を刺して病に効果が顕著である。

速(スミヤ)かなる經穴圖章、訓釋(キンセキ)して以て準量して穴を取るに便りす。

 【意訳】時間がかからない経穴に関する図示・説明で位置を計測することによって,取穴の便宜をはかった。

之を目(ナツ)けて、主治鍼法を曰う。

 【意訳】書名を『主治鍼法』と名付けた。

わ(分)けて三卷と為(す)。

 【意訳】上中下の三巻に分けた。

一言半句と雖も、私(ワタクシ)の言(コトバ)にあらず。

 【意訳】片言隻句であっても,個人的な見解を入れたところはない。

皆な醫學入門、十四經發揮、鍼灸聚英、其の外諸家(シヨケ)の説をと(取)って、ぬ(抜)きが(書)きして、門弟子(テイシ)にしめ(示)す。

 【意訳】すべては,『医学入門』『十四経発揮』『鍼灸聚英』,その他,多くの鍼灸家の説を採用して,必要な部分を抜き出し,弟子たちに示したものである。

懷中に秘して他見することなかれと爾(シカ)云(イフ)。

 【意訳】ふところの中にしまって,決して他人には見せてはいけない。

 旹

 【意訳】これを記した時は,

延寶五丁巳歳 孟夏良辰

 【意訳】延宝五年(1677) 四月吉日

2026年9月18日金曜日

12-4 【意訳】江戸時代鍼灸文献序跋集 解體鍼要

 12-4 解體鍼要  加古良玄撰

    京大富士川文庫所蔵(カ/四〇)

     https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00001513

     https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00001512 (カ/39)

    

解體鍼要序

道不離形器象數而形器象數非所以盡

道也何以知之今使善書者教二人書焉

其受教者其志同其精力同其所學歳月

日數亦同而一則巧一則拙判然不同是

其故何天分有異也天分之異則神也非

器數之所得預也凡天地萬事萬物皆然

是故人之得病毉之療疾皆出於意量之

   一ウラ

外有不可思議爲者是神也非器數之所

得盡也善乎聖人之言云神而明之存于

其人莊周以輪扁斵輪發神理之妙眞達

人之見也雖然得器數而得道者有焉未

有未得器數而能得道者也毉之解剖藏

府而探得疾之源委是亦器數之末學也

雖然因此明知藏腑之位置經脉之連絡

骨骸之接屬皮膜之包容然後得疾之源

   二オモテ

委大畧可推而知則其於治術不爲無補

而於外科正骨諸術最爲緊要矣或以謂

掩骼埋胔聖人之仁政親剖屍體而檢視

腑臓是荷蘭内景之學蠻夷殘忍之習仁

人君子之所不忍爲也此言極是雖然王

莽誅翟義之黨使大毉刳剝之量度五藏

導脉終始廣西戮歐希範之黨靈簡剖腹

詳視之爲五藏圖以傳于世祟寧刑泗州

   二ウラ

賊楊介決隔膜摘膏肓作存眞圖以傳于

後由是觀之蕐夏聖人之邦固有其學不

特外夷之習也且也刑殺之法豈仁人君

子之所忍爲乎雖然刑一人則千万之人

懍〃乎惴慄瞿〃然徴艾不敢犯邦禁而

觸刑綱也是故其殺一人也生千萬人也

大舜謂之刑期于無刑周公謂之刑人而

脱桎梏而尼山老聖亦言刑不刑也今解

  三オモテ

一極刑死人之體而知病之源委而施治

得其至當躋億兆於壽域則其解一屍也

亦生千萬人也竆隂沍寒冰霜刻厲之氣

變而爲春風和氣卉木煥發之象乃是亦

古聖人之遺意也仁人君子奚爲不忍乎

予自少時有得于此學凡解視屍體者十

有五度雖未及無爲張濟視一百七十人

然略得其要領矣施諸内治施諸正骨施

  三ウラ

諸針砭得于此者爲居多焉是故今作此

圖説以續靈氏五藏楊氏存眞二圖要使

吾黨學者於形器象數無所不盡而後悟

神理之妙耳世之邃達神理者或以予爲

形器末學或爲荷蘭夷學呼馬呼牛任人

多口予於莊周有取云

文化六年歳次己巳仲冬南至

      阿波加古良玄識

        〔印形白字「加古/◇印」、黒字「字/將士」〕

    

  【訓み下し】

解體鍼要の序

道は形器象數を離れず。而して形器象數は、道を盡くす所以(ゆえん)に非ざるなり。何を以てか之を知る。今ま書を善くする者をして、二人に書を教えしめば、其の教えを受くる者、其の志同じく、其の精力同じく、其の學ぶ所の歳月日數も亦た同じ。而るに一は則ち巧、一は則ち拙にして、判然として同じからず。是れ其の故何ぞや。天分に異有るなり。天分の異は則ち神なり。器數の預り得る所に非ざるなり。凡そ天地の萬事萬物、皆な然り。是の故に人の得病、醫の療疾、皆な意量の

   一ウラ

外に出づ。不可思議有りて爲す者は是れ神なり。器數の盡くし得る所に非ざるなり。善きかな、聖人の言。神にして之を明にするは、其の人に存す、と云う。莊周、輪扁斵輪を以て、神理の妙を發するは、眞に達人の見なり。然りと雖も、器數を得て道を得る者有るも、未だ器數を得ずして能く道を得る者未だ有らざるなり。醫の藏府を解剖して、疾の源委を探り得るは、是れも亦た器數の末學なり。雖りと然も、此れに因って明らかに藏腑の位置、經脉の連絡、骨骸の接屬、皮膜の包容を知り、然る後に疾の源

   二オモテ

委を得れば、大略推して知る可し。則ち其の治術に於いて補無しと爲(せ)ず。而(しか)も外科正骨の諸術に於いては、最も緊要と爲(す)。或いは以謂(おもえ)らく、骼を掩(おお)い胔を埋(うず)むは、聖人の仁政なり。親しく屍體を剖(さ)きて、腑臓を檢視するは、是れ荷蘭内景の學、蠻夷殘忍の習い、仁人君子の爲すに忍びざる所なり、と。此の言極めて是なり。然りと雖も、王莽、翟義の黨を誅し、大醫をして之を刳剝し、五藏を量度し、脉の終始を導かしむ。廣西、歐希範の黨を戮し、靈簡、腹を剖き、詳(つまび)らかに之を視て、五藏圖を爲(つく)り、以て世に傳う。祟寧、泗州の

   二ウラ

賊を刑す。楊介、隔膜を決し、膏肓を摘し、存眞圖を作り、以て後に傳う。是れに由り之を觀れば、華夏の聖人の邦、固(もと)より其の學有り。特に外夷の習いのみにあらざるなり。且や、刑殺の法、豈に仁人君子の爲すに忍ぶ所をや。然りと雖も、一人を刑すれば、則ち千万の人、懍々乎として惴慄し、瞿々然として徴艾し、敢えて邦禁を犯して、刑綱(網)に觸れざるなり。是の故に其れ一人を殺すや、千萬人を生かすなり。大舜之を、刑は刑無きを期すと謂い、周公之を、人を刑して桎梏を脱(と)くと謂い、而して尼山の老聖も亦た刑は刑せずと言うなり。今ま

  三オモテ

一極刑の死人の體を解して、病の源委を知り、而して治を施し、其の至當を得れば、億兆を壽域に躋(のぼ)せん。則ち其の一屍を解するや、亦た千萬人を生かすなり。窮陰沍寒、冰霜刻厲の氣變じて、春風和氣、卉木煥發の象と爲る。乃ち是れも亦た古聖人の遺意なり。仁人君子、奚爲(なんす)れぞ忍ばざらんや。予、少(わか)き時自り此の學に得有り。凡そ解して屍體を視ること、十有五度。未だ無爲の張濟の一百七十人を視るに及ばずと雖も、然れども略ぼ其の要領を得たり。諸(これ)を内治に施し、諸を正骨に施し、

  三ウラ

諸を針砭に施して、此れを得る者は、爲に多きに居る。是の故に今ま此の圖説を作り、以て靈氏の五藏、楊氏の存眞二圖に續く。要するに吾が黨の學者をして形器象數に於いて、盡くさざる所無く、而る後に神理の妙を悟らしむるのみ。世の邃(ふか)く神理に達する者は、或いは予を以て形器の末學と爲し、或いは荷蘭の夷學と爲し、馬と呼び牛と呼ぶも、人の口多きに任す。予は莊周に於いて取る有りと云う。

文化六年 歳次は己巳 仲冬南至

       阿波 加古良玄識(しる)す


 【注釋】

 ○形器‥有形の器物。物質。人体。 ○象數‥『易經』の象と数。周易は天、日、山、澤などを「象」とし、初、上、九、六の類を「數」とする。 ○判然‥はっきりと異なるさま。 ○天分‥天賦、天資。 ○意量‥意をもってはかる。想像する。 一ウラ ○不可思議‥想像するすべなく、理解しがたい。神秘奥妙を含んで、一般の情理の外にある。 ○神而明之存于其人‥『周易』繫辭上「極天下之賾者、存乎卦。鼓天下之動者、存乎辭。化而裁之、存乎變。推而行之、存乎通。神而明之、存乎其人/天下の賾を極むる者は、卦に存す。天下の動を鼓する者は、辭に存す。化して之を裁するは、變に存す。推(お)して之を行うは、通に存す。神にして之を明にするは、其の人に存す」。あることの奥妙をあきらかにするのは、ひとえにそのひとの人格如何による。 ○莊周以輪扁斵輪‥『莊子』天道。3-3鍼科發揮の注を参照。 ○源委‥ものごとの本末。 ○末學‥浅薄な基礎のない学識。ここでは、末端の学問。 二オモテ ○掩骼埋胔‥腐乱した死体を埋める。『禮記』月令「毋聚大衆、毋置城郭、掩骼埋胔」。 ○仁政‥人民をいつくしむ政治。人民を幸福にする政治。 ○荷蘭‥オランダ。 ○内景‥道教では体内神をいうが、医学では解剖図、人体の内部構造の意味で用いられる。 ○蠻夷‥野蛮人。中国以外の人。西洋人。 ○王莽誅翟義之黨‥『漢書』王莽傳中「翟義黨王孫慶捕得、莽使太醫、尚方與巧屠共刳剝之、量度五藏、以竹筳導其脈、知所終始、云可以治病/翟義の黨の王孫慶捕得せられ、莽は太醫、尚方をして巧屠と共に之を刳剝し、五藏を量度し、竹筳を以て其の脈を導き、終始する所を知らしめて、以て病を治す可しと云う」。 ○廣西歐希範之黨‥多紀元胤『醫籍考』卷十六『呉氏(簡)歐希範五藏圖』。〔呉氏(簡)歐希范五臟圖〕佚。/趙與時曰、慶歷間、廣西戮歐希范及其黨。凡二日剖五十有六腹、宜州推官靈簡皆詳視之、為圖以傳於世、王莽誅翟義之黨、使太醫尚方與巧屠、共刳剝之、量度五臟、以竹筵導其脈、知所終始、云可以治病。然其説今不傳/趙與時曰く、慶歷の間、廣西、歐希范及び其の黨を戮す。凡そ二日、五十有六腹を剖(さ)き、宜州推官の靈簡、皆な詳らかに之を視て、圖を為(つく)り以て世に傳う。……然れども其の説、今は傳わらず(『賓退録』)。/鄭景璧曰、世傳歐希范五臟圖、此慶歷間杜杞待制治廣南賊歐希范所作也。希范本書生、桀黠有智數、通曉文法、嘗為攝推官。乘元昊叛、西方有兵時、度王師必不能及、乃與蒙幹嘯聚數十(千)人、聲搖湖南。朝廷遣楊畋討之不得、乃以杞代。杞入境、即偽招降之説、與之通好。希范猖獗久、亦幸苟免、遂從之、與幹挾其酋領數十人皆至。杞大為燕、犒醉之以酒、已乃執於坐上、翌日盡磔於市、且使皆剖腹、刳其腎腸、因使醫與畫人、一一探索、繪以為圖。未幾、若有所睹、一夕登圊、忽臥於圊中、家人急出之、口鼻皆流血。微言歐希范以拳擊我、三日竟卒/鄭景璧曰く、世に傳うる歐希范五臟圖、此れ慶歷の間に、杜杞待制、廣南の賊、歐希范を治して作る所なり。希范は本(もと)書生、桀黠にして智數有り、文法に通曉し、嘗て推官に攝するを為す。元昊の叛するに乘じ、西方に兵有る時、王師を度するも必ずしも及ぶ能わず、乃ち蒙幹と嘯聚すること數十(千)人、聲、湖南を搖がす。朝廷、楊畋を遣わして之を討たしむるも得ず、乃ち杞を以て代う。杞、境に入り、即ち招降の説を偽り、之と好(よしみ)を通ず。希范猖獗すること久しく、亦た幸いに苟免し、遂に之に從い、幹挾と其の酋領數十人皆な至る。杞、大いに燕を為し、犒(ねぎら)いて之を醉わすに酒を以てし、已にして乃ち坐上に執(と)らえ、翌日盡く市に磔す。且つ皆な腹を剖き、其の腎腸を刳(えぐ)らしめ、因って醫と畫人とをして、一一探索し、繪(えが)きて以て圖を為(つく)らしむ。未だ幾(いくば)くならず、睹る所有るが若し。一夕、圊(かわや)に登り、忽ち圊中に臥す。家人急ぎて之を出だすに、口鼻皆な血を流す。微かに言う、歐希范、拳を以て我を擊つ、と。三日にして竟に卒す(『劇談録』)。/楊介曰、宜賊歐希范被刑時、州吏呉簡令畫工就圖之以記、詳得其證。呉簡云、凡二日剖歐希范等五十有六腹、皆詳視之。喉中有竅三、一食、一水、一氣、互令人吹之、各不相戾。肺之下則有心肝膽脾、胃之下有小腸、小腸下有大腸。小腸皆瑩潔無物、大腸則為滓穢、大腸之傍則有膀胱。若心有大者、小者、方者、長者、斜者、直者、有竅者、無竅者、了無相類。唯希范之心、則紅而硾、如所繪焉。肝則有獨片者、有二片者、有三片者、腎則有一在肝之右微下、一在脾之左微上、脾則有在心之左。至若蒙幹多病嗽、則肺且膽黑。歐詮少得目疾、肝有白點、此又別內外之應、其中黄漫者脂也/楊介曰く、宜賊の歐希范刑せられし時、州吏の呉簡、畫工をして就きて之を圖(えが)き以て記(しる)さしめ、詳らかに其の證を得たり。呉簡云う、凡そ二日、歐希范等を剖くこと五十有六腹、皆な詳らかに之を視る。喉中に竅有ること三。一は食、一は水、一は氣、互いに人に之を吹かしめば、各々相戾せず。肺の下に、則ち心肝膽脾有り。胃の下に小腸有り。小腸の下に大腸有り。小腸は皆な瑩潔にして物無し。大腸は則ち滓穢を為し、大腸の傍らに、則ち膀胱有り。心の若きは大なる者、小なる者、方なる者、長なる者、斜なる者、直なる者、竅有る者、竅無き者有り、了として相類する無し。唯だ希范の心のみ、則ち紅にして硾(か)き、繪く所の如し。肝は則ち獨片なる者有り、二片なる者有り、三片なる者有り。腎は則ち一は肝の右微(わず)かに下に在り、一は脾の左微かに上に在る有り。脾は則ち心の左に在る有り。蒙幹の若きに至りては嗽を病むこと多く、則ち肺は膽の黑に且(ちか)し。歐詮は少しく目疾を得て、肝に白點有り。此れ又た内外の應を別ち、其の中の黄漫する者は脂なり(僧幻雲『史記標注』、引『存真圖』)。 二ウラ ○楊介……作存眞圖‥『醫籍考』卷十六『楊氏(介)存真圖』。楊介曰、黄帝時醫有俞跗、一撥見病因、能割皮解肌、湔浣腸胃、以祛百病云。宜賊歐希范被刑時、州吏呉簡令畫工就圖之記、詳得其狀、或以書考之則未完。崇寧中、泗〔州刑〕賊於市、郡守李夷行遣醫並畫工往觀、決膜摘膏、曲折圖之、得盡纖悉。介取以校之、其自喉咽而下、心肺肝脾膽胃之系屬、小腸大腸腰腎膀胱之營疊、其中經絡聯附、水穀泌別、精血運輸、源委流達、悉如古書、無少異者/楊介曰く、黄帝の時、醫に俞跗有り。一たび撥すれば病因を見、能く皮を割き肌を解き、腸胃を湔浣し、以て百病を祛(のぞ)くと云う。宜賊歐希范刑せられし時、州吏の呉簡、畫工をして就きて之を圖(えが)き記(しる)さしめ、詳らかに其の狀を得、或いは書を以て之を考うるも、則ち未だ完からず。崇寧中、泗〔州の〕賊を市〔に刑〕す。郡守の李夷行、醫並びに畫工をして往きて觀、膜を決し膏を摘し、曲折して之を圖かしめ、盡く纖悉なるを得たり。介、取りて以て之を校するに、其の喉咽自りして下り、心肺肝脾膽胃の系屬、小腸大腸腰腎膀胱の營疊、其の中の經絡の聯附、水穀の泌別、精血の運輸、源委の流達、悉く古書の如く、少しも異なる者無し(僧幻雲『史記標注』引)。/政和三年、洛陽賈偉節『存真環中圖』序曰、楊君介吉老以所見五臟之真、繪而為圖、取煙蘿子所畫、條析而釐正之、又益之十二經、以存真環中名之/政和三年、洛陽の賈偉節『存真環中圖』序に曰く、楊君介吉老、見る所の五臟の真を以て、繪いて圖を為(つく)り、煙蘿子の畫く所を取り、條析して之を釐正し、又た之に十二經を益し、存真環中を以て之を名づく(同上、幻雲曰、存真、五臟六腑圖也。環中、十二經圖也)。/趙希弁曰、存真圖一卷、上皇朝楊介編、崇寧間、泗州刑賊於市、郡守李夷行遣醫並畫工往、親決膜摘膏肓、曲折圖之、盡得纖悉。介校以古書、無少異者。比歐希范五臟圖、過之遠矣、實有益於醫家也。王莽時、捕得翟義黨王孫慶、使太醫尚方、與巧屠共刳剝之、量度五藏、以竹筵導其脈、知所終始、云可以治病。亦是此意/趙希弁曰く、『存真圖』一卷、上皇朝楊介編、崇寧間、泗州、賊を市に刑す。郡守の李夷行、醫並びに畫工をして往きて、親しく膜を決し膏肓を摘し、曲折して之を圖かしめ、盡く纖悉なるを得たり。介、校するに古書を以てするも、少しも異なる者無し。『歐希范五臟圖』に比するに、之を過ぐること遠し。實に醫家に益有るなり。王莽の時、翟義の黨王孫慶を捕え得て、太醫尚方をして、巧屠と共に之を刳剝し、五藏を量度し、竹筵を以て其の脈を導き、終始する所を知らしめ、以て病を治す可しと云う。亦た是れ此の意。/王明清曰、楊介吉老者、泗州人、以醫術聞四方/王明清曰く、楊介吉老なる者は、泗州の人、醫術を以て四方に聞こゆ(『揮塵餘話』)。 ○蕐夏‥古代漢族の自称。「蕐」は「華」の異体。 ○仁人君子‥仁徳をそなえた君子。情け深く熱心にひとを助けるひと。『晉書』卷三十 刑法志「刑之則止、而加之斬戮、戮過其罪、死不可生、縱虐於此、歳以巨計。此迺仁人君子所不忍聞」。 ○懍々‥恐れおののくさま。 ○惴慄乎‥おそれ、戦慄するさま。 ○瞿々然‥あわておそれるさま。懼懼然。 ○徴艾‥懲艾。いましめおそれる。 ○邦禁‥国家の禁令。 ○刑綱‥「刑網」のあやまりか。形法。 ○大舜謂之刑期于無刑‥『書經』大禹謨「帝曰、皋陶、惟茲臣庶、罔或干予正。汝作士、明於五刑、以弼五教、期於予治。刑期於無刑、民協於中、時乃功、懋哉/帝曰く、皋陶(舜の臣)、惟(こ)れ茲(こ)の臣庶、予が正を干(おか)すこと或る罔(な)し。汝、士と作(な)り、五刑を明らかにして、以て五教を弼(たす)く。予が治に期せり。刑は刑無きを期し、民は中に協(かな)わしむ、時(こ)れ乃(なんじ)の功なり、懋(つと)めんかな」。刑罰を施すのも、それによって刑罰をなくすためである。 ○周公謂之刑人而脱桎梏‥『易經』蒙「初六、發蒙。利用刑人、用説桎梏。以往吝/初六は、蒙を發(ひら)く。用(もつ)て人を刑し、用て桎梏を説(と)くに利あり。以て往けば吝」。まず刑罰を与え、その上で手かせ足かせをはずしてやる。「説」は「脱」に通ず。伝説では、周の文王が卦辞を作り、周公が爻辞を作ったという。 ○尼山老聖‥孔子。山東省尼山で生まれた。 ○刑不刑‥『孔子家語』刑政「孔子曰、聖人之治化也、必刑政相參焉。太上以德教民、而以禮齊之。其次以政言導民、以刑禁之、刑不刑也/孔子曰く、聖人の治化するや、必ず刑政相參ぜしむ。太上は德を以て民を教え、而して禮を以て之を齊(ひと)しくす。其の次は政言を以て民を導き、刑を以て之を禁ずるも、刑は刑せず」。刑罰を用いて禁止するが、実際には刑罰を適用しない。 三オモテ ○億兆‥民衆。 ○壽域‥長寿の境地。 ○竆隂‥窮陰。冬がきわまり年が終わる時。陰気がきわまる。 ○沍寒‥寒沍。寒がきわまって氷をむすぶ。 ○冰霜‥氷と霜。 ○刻厲‥苛酷。 ○春風和氣‥春のなごやかな風。温かな恩沢のたとえ。 ○卉木‥草木。 ○煥發‥奮いたつ。光を放つ。 ○遺意‥前人がとどめた意味。 ○有得‥心得がある。さとるところがある。 ○無爲張濟視一百七十人‥宋・邵博『邵氏聞見後録』卷二十九「無爲軍醫張濟善用針、得訣於異人。云能解人、而視其經絡、則無不精。因歳饑疫、人相食。凡視一百七十人。以行針無不立驗。如孕婦因仆地而腹偏左、針右手指而正。久患脱肛、針頂心而愈。傷寒翻胃、嘔𠸺累日、食不下、針眼眥、立能食。皆古今方書不著。陳瑩中為作傳云/無爲軍の醫、張濟、善く針を用い、訣を異人に得たり。能く人を解し、而して其の經絡を視れば、則ち精ならざる無しと云う。歳、饑うるに因って疫あり、人相い食(は)む。凡そ視ること一百七十人。以て針を行い、立ちどころに驗あらざる無し。孕婦の地に仆るるに因って、而して腹、左に偏するは、右手の指に針して正し、久しく脱肛を患うは、頂心に針して愈やし、傷寒に翻胃し、嘔𠸺すること日を累(かさ)ねて、食下らざるは、眼眥に針して、立ちどころに能く食らうが如し。皆な古今の方書に著れず。陳瑩中、為に傳を作ると云う」。張杲『醫説』鍼灸 善鍼にも見える。無爲軍は、宋代に設置された軍事行政区。いま、安徽省巢湖市區無爲縣。陳瑩中、名は瓘。『宋史』に傳あり。 三ウラ ○居多‥多数を占める。 ○黨‥意気投合するひと。仲間。朋友。 ○神理‥神妙な法則。 ○夷學‥蛮夷の学問。洋学。 ○呼馬呼牛‥相手から牛と呼ばれれば自分は牛だと思い、馬だと呼ばれれば自分は馬だと思う。相手の言うがままになって逆らわないことの喩え。『莊子』天道「老子曰、夫巧知神聖之人、吾自以為脱焉。昔者子呼我牛也、而謂之牛、呼我馬也、而謂之馬。苟有其實、人與之名而弗受、再受其殃。吾服也恒服、吾非以服有服/老子曰く、夫れ巧知神聖の人は、吾れ自ら以て脱(まぬが)れたりと為す。昔者(むかし)子は我を牛と呼びて、而して之を牛と謂(おも)えり。我を馬と呼べば、而して之を馬と謂(おも)わん。苟も其の實有るに、人、之に名を與えて受けざれば、再び其の殃(わざわい)を受けん。吾の服(したが)うや恒に服うも、吾は服うを以て服うと有(な)すには非ず」。 ○文化六年歳次己巳‥一八〇九年。「歳次」は歳星(木星)または太歳のやどり。「歳は己巳に次(やど)る」とも訓む。 ○仲冬‥陰暦十一月。 ○南至‥冬至。 ○阿波‥いま徳島県。阿波徳島藩。 ○加古良玄‥名は嚴。字は將士。号は藍洲。堂号は正骨堂。『折肱要訣』自序および丹波元簡(文化六/一八〇九年)序によれば、父、祐菴に学び、その後長じて四方に周遊した「草澤之人」。文政三(一八二〇)年、白土彝 輯定『今世醫家人名録』北に「本(道)・外(科) 下谷長者町一丁目 加古良玄」とある(『整骨・整形外科典籍大系』蒲原宏解説)。


解體鍼要の序

道は形器象數を離れず。而して形器象數は、道を盡くす所以(ゆえん)に非ざるなり。

 【意訳】道(道徳規範や自然法則としての根源的な原理。形而上的本体)というものは,形器(形体をそなえた具体的な事物。形而下のもの)や『易経』にいう象・数から離れて存在するものではないが,形器や象・数だけで説明し尽くせるものでもない。

何を以てか之を知る。

 【意訳】なぜそれがわかるのか。

今ま書を善くする者をして、二人に書を教えしめば、其の教えを受くる者、其の志同じく、其の精力同じく、其の學ぶ所の歳月日數も亦た同じ。而るに一は則ち巧、一は則ち拙にして、判然として同じからず。

 【意訳】いま書道の名人がいて,二人に書を教えたとする。名人から教えを受ける二人は,志も精力も同じで,学ぶ歳月日数もまた同じである。それなのに一人は巧みになり,もう一人は下手なままであり,はっきり違いが出る。

是れ其の故何ぞや。天分に異有るなり。天分の異は則ち神なり。器數の預り得る所に非ざるなり。

 【意訳】その違いが生じる理由は何か。天賦の才能が異なるからである。天賦の才能の違いとは神であり,器や数の関与するところではない。

凡そ天地の萬事萬物、皆な然り。

 【意訳】すべて天地にあるあらゆること・あらゆるものは,みなそうである。

是の故に人の得病、醫の療疾、皆な意量の外に出づ。

 【意訳】このため人が病にかかることと医者が病を治療することは,みな意図や推量のおよばない外から生じる。

不可思議有りて爲す者は是れ神なり。器數の盡くし得る所に非ざるなり。

 【意訳】不思議なことがあり,それをおこなうのは神であり,器や数で説明し尽くせるものではない。

善きかな、聖人の言。神にして之を明にするは、其の人に存す、と云う。

 【意訳】素晴らしいではないか,聖人の言葉は。(『易』繋辞上に)「あることの奥妙をあきらかにするのは,ひとえにそのひとの人格如何(いかん)による」と。

莊周、輪扁斵輪を以て、神理の妙を發するは、眞に達人の見なり。

 【意訳】荘子は車大工の扁が車輪を作る話をもちいて,神の理の非常に精緻なものをあきらかにしたが,これはまぎれもなく達人の見識である。

然りと雖も、器數を得て道を得る者有るも、未だ器數を得ずして能く道を得る者未だ有らざるなり。

 【意訳】とはいえ,器・数を体得して道を得るひとはいるが,器・数を得ないで道を体得した人はいない。

醫の藏府を解剖して、疾の源委を探り得るは、是れも亦た器數の末學なり。

 【意訳】医者が蔵府を解剖して,疾病の原因とその証候を探って得られるとしても,これもまた器・数の枝葉の学問に過ぎない。

雖りと然も、此れに因って明らかに藏腑の位置、經脉の連絡、骨骸の接屬、皮膜の包容を知り、然る後に疾の源委を得れば、大略推して知る可し。

 【意訳】とはいえ,解剖することによって,臓腑の位置,経脈との連絡,骨とのつながり,皮膜の包み具合を知って,それから疾病の原因と証候を得たならば,おおまかなことは推測できるであろう。

則ち其の治術に於いて補無しと爲(せ)ず。

 【意訳】そうすれば,その治療術において補益するところがある。

而(しか)も外科正骨の諸術に於いては、最も緊要と爲(す)。

 【意訳】それどころか外科・正骨などの術では,極めて重要である。

或いは以謂(おもえ)らく、骼を掩(おお)い胔を埋(うず)むは、聖人の仁政なり。

 【意訳】あるひとはこう考えるかも知れない。亡くなった人をそのまま埋葬することは,聖人の民を慈しみ思いやる政治である。

親しく屍體を剖(さ)きて、腑臓を檢視するは、是れ荷蘭内景の學、蠻夷殘忍の習い、仁人君子の爲すに忍びざる所なり、と。

 【意訳】自分で死体を解剖して,蔵府を検分するのは,オランダの解剖学,野蛮人の残忍な風習であり,思いやりのある徳の高いひとには耐えられないことである,と。

此の言極めて是なり。

 【意訳】この言い分は,きわめてもっともである。

然りと雖も、王莽、翟義の黨を誅し、大醫をして之を刳剝し、五藏を量度し、脉の終始を導かしむ。

 【意訳】しかしながら,王莽が翟義の徒党を誅伐したときに,大医に解剖させて,五蔵を測量し,経脈の始まりから終わりまでを導かせた。

廣西、歐希範の黨を戮し、靈簡、腹を剖き、詳(つまび)らかに之を視て、五藏圖を爲(つく)り、以て世に傳う。

 【意訳】広西では,欧希範の一党を処刑した際,霊簡が腹部を解剖して,詳細に観察して五蔵図を作成して,世の中に伝えた。

祟寧、泗州の賊を刑す。楊介、隔膜を決し、膏肓を摘し、存眞圖を作り、以て後に傳う。

 【意訳】崇寧年間,泗州の賊が処刑された。楊介は,隔膜を切り開き,膏肓を摘出し,『存真図』(解剖図)を作成して,後世に伝えた。

是れに由り之を觀れば、華夏の聖人の邦、固(もと)より其の學有り。特に外夷の習いのみにあらざるなり。

 【意訳】これらからわかるように,中華という聖人の国でも,もともとこの学問は存在したのであり,単に劣った外国の習わしというわけではない。

且や、刑殺の法、豈に仁人君子の爲すに忍ぶ所をや。

 【意訳】そもそも,刑罰によって人を殺すことは,本当に思いやりのある徳の高いひとにとって忍びがたいことであろうか。

然りと雖も、一人を刑すれば、則ち千万の人、懍々乎として惴慄し、瞿々然として徴艾し、敢えて邦禁を犯して、刑綱(網)に觸れざるなり。

 【意訳】そうだとしても,一人を(見せしめに)処刑すれば,何千何万という人が恐れおののいて,いましめと思って,あえて国の禁令を犯して,形法に触れることはなくなる。

是の故に其れ一人を殺すや、千萬人を生かすなり。

 【意訳】だから一人を(見せしめとして)殺すことによって,何千何万という人を救えるのである。

大舜之を、刑は刑無きを期すと謂い、周公之を、人を刑して桎梏を脱(と)くと謂い、而して尼山の老聖も亦た刑は刑せずと言うなり。

 【意訳】偉大なる舜は,これを「刑は刑無きを期す(刑罰を加えるのは,刑罰がいらなくなることを目的とする)」といい,周公は,これを「人を刑して桎梏を脱く(人を罰して,その上で手かせ足かせをはずしてやる)」といい,孔子も「刑は刑せず(刑罰で禁止するが,実際は刑罰を適用しない)」と言っている。

今ま一極刑の死人の體を解して、病の源委を知り、而して治を施し、其の至當を得れば、億兆を壽域に躋(のぼ)せん。

 【意訳】いま,極刑に処された一人の死体を解剖して,疾病の原因と証候を知って,治療をおこない,適切な結果が得られるならば,万民を長寿にすることができよう。

則ち其の一屍を解するや、亦た千萬人を生かすなり。

 【意訳】つまりひとつの死体を解剖することが,何千何万という人を生かすことになるのである。

窮陰沍寒、冰霜刻厲の氣變じて、春風和氣、卉木煥發の象と爲る。

 【意訳】陰が極まって氷を結ぶ,氷と霜の季節が変わって,春の和やかな風が吹き,草木が光を放つ景色となるようなものである。

乃ち是れも亦た古聖人の遺意なり。

 【意訳】これこそ古代の聖人が遺した意図もである。

仁人君子、奚爲(なんす)れぞ忍ばざらんや。

思いやりのある徳の高いひとが,どうして耐えられないことがあろうか。

予、少(わか)き時自り此の學に得有り。

 【意訳】わたくしは,若いときから解剖学に心得があった。

凡そ解して屍體を視ること、十有五度。

 【意訳】死体を解剖して検視した回数は,全部で十五回におよぶ。

未だ無爲の張濟の一百七十人を視るに及ばずと雖も、然れども略ぼ其の要領を得たり。

 【意訳】無為郡の(鍼医)張済が百七十人を検視したというのには人数がおよばないとはいえ,解剖の要領についてはあらかた習得した。

諸(これ)を内治に施し、諸を正骨に施し、諸を針砭に施して、此れを得る者は、爲に多きに居る。

 【意訳】こうして得た知識をもちいて,内科の治療にも,正骨にも,鍼にも応用したが,これによって得たものは,非常に多かった。

是の故に今ま此の圖説を作り、以て靈氏の五藏、楊氏の存眞二圖に續く。

 【意訳】そのため,いまこの図説を作成し,霊簡の五蔵図と楊介の存真図の二図を継承するものである。

要するに吾が黨の學者をして形器象數に於いて、盡くさざる所無く、而る後に神理の妙を悟らしむるのみ。

 【意訳】要するに,わたくしの仲間の学習者に形器象数を知り尽くして,その上で神妙な法則の精緻な本質を悟らせたいのである。

世の邃(ふか)く神理に達する者は、或いは予を以て形器の末學と爲し、或いは荷蘭の夷學と爲し、馬と呼び牛と呼ぶも、人の口多きに任す。

 【意訳】世の中で深く神理に達している人は,わたくしのことを形ばかりにとらわれた浅はかなものと見なすかもしれない。あるいは,オランダの野蛮な学問と見なされようと,(『荘子』天道にあるように)わたくしのことを馬と呼ぼうが牛と呼ぼうが,言うがままにまかせよう。

予は莊周に於いて取る有りと云う。

 【意訳】わたくしは,荘子の言葉には学ぶべき所があると思う。

文化六年 歳次は己巳 仲冬南至

 【意訳】文化六年(1809),歳星はつちのとみにあり,十二月冬至の日

       阿波 加古良玄識(しる)す

 【意訳】阿波の加古良玄 記す

    

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  (再序)

此書既成藏諸巾箱有年于茲矣 水野子同君

偶見之知其有功于醫術慫惥刊之捐其貲財助其

刻費 君平生以愛物存乎心矣其在官也以慈惠

為先務此舉也一則使予積年苦心不就煙滅焉

一則使天下之毉淂治術之大本焉一則使生民免

橫夭焉是亦 君慈愛之所波及也嗚呼古之所謂

遺愛於 君乎見之

  文政改元戊寅孟冬   良玄重識〔印形黒字「良」「玄」〕


  【訓み下し】

此の書既に成り、諸(これ)を巾箱に藏すること茲(ここ)に年有り。 水野子同君、偶々(たまたま)之を見る。其の醫術に功有るを知りて之を刊するを慫惥し、其の貲財を捐し、其の刻費を助く。 君は平生、物を愛するを以て心を存す。其の官に在るや、慈惠を以て先務と為(す)。此の舉や、一に則ち予が積年の苦心をして煙滅に就かしめず。一に則ち天下の醫をして治術の大本を得さしむ。一に則ち生民をして橫夭を免れしむ。是れも亦た 君が慈愛の波及する所なり。嗚呼(ああ)、古(いにしえ)の所謂(いわゆる)遺愛 君に於いてか之を見る。

  文政改元戊寅 孟冬   良玄重ねて識(しる)す


 【注釋】

 ○巾箱‥書卷などを入れる小箱。 ○有年‥多年。数年。 ○于茲‥今に至るまで。 ○水野子同‥跋の注を参照。 ○慫惥‥慫恿。傍らから勧め励ます。 ○捐‥寄附する。金銭、財物などを投げ出して援助する。 ○貲財‥財貨。「貲」は「資」に通ず。 ○刻費‥出版費用。 ○平生‥常日頃。 ○愛物‥『孟子』盡心上「君子之於物也、愛之而弗仁。於民也、仁之而弗親、親親而仁民、仁民而愛物/君子の物に於けるや、之を愛して仁せず。民に於けるや、之を仁して親しまず、親を親しみて民に仁し、民に仁して物を愛す」。 ○存乎心‥『孟子』盡心上「盡其心者、知其性也。知其性、則知天矣。存其心、養其性、所以事天也/其の心を盡くす者は、其の性を知るなり。其の性を知れば、則ち天を知る。其の心を存し、其の性を養うは、天に事(つか)うる所以(ゆえん)なり」。 ○慈惠‥仁愛。 ○先務‥首要な務め。『孟子』盡心上「仁者無不愛也、急親賢之為務。堯舜之知而不徧物、急先務也/仁者は愛せざること無きも、賢を親しむを急にする、之れ務めと為す。堯舜の知にして物に徧(あまね)からざるは、先務を急にすればなり」。 ○舉‥行為。 ○一則‥一項。一条。 ○積年‥多年。 ○煙滅‥堙滅。埋没。消滅。 ○毉‥「醫」の異体。 ○淂‥「得」の異体。 ○生民‥人民。 ○橫夭‥意外の事態に遭遇して早死にする。 ○波及‥恩恵がおよぶ。 ○遺愛‥後世に遺される仁愛。後世に留まり、追慕される徳行、恩恵、貢献。『左傳』昭公二十年「及子産卒、仲尼聞之、出涕曰、古之遺愛也」。 ○文政改元戊寅‥文政元(一八一八)年。 ○孟冬‥陰暦十月。


此の書既に成り、諸(これ)を巾箱に藏すること茲(ここ)に年有り。 

 【意訳】この書籍は書き終わってから,文箱(ふばこ)に何年もしまいこんでいたものである。

水野子同君、偶々(たまたま)之を見る。

 【意訳】水野子同さまが,偶然これに目をとめた。

其の醫術に功有るを知りて之を刊するを慫惥し、其の貲財を捐し、其の刻費を助く。 

 【意訳】本書が医術に有益なことを知って,刊行することを勧め,私財をなげうって,出版費用を援助してくださった。

君は平生、物を愛するを以て心を存す。

 【意訳】水野さまは,ひごろから民をいつくしみ物を愛する心を持っていらっしゃる。

其の官に在るや、慈惠を以て先務と為(す)。

 【意訳】その官職においても,仁愛のこころを第一の務めと考えていらっしゃる。

此の舉や、一に則ち予が積年の苦心をして煙滅に就かしめず。

 【意訳】この行為によって,ひとつにはわたくしの多年の苦心が雲散霧消するのを防いでくださった。

一に則ち天下の醫をして治術の大本を得さしむ。

 【意訳】ひとつには,国中の医者が治療術の根本的な道理を会得できるようにしてくださった。

一に則ち生民をして橫夭を免れしむ。

 【意訳】ひとつには,人民が早死にするのを避けられるようしてくださった。

是れも亦た 君が慈愛の波及する所なり。

【意訳】これもやはり,水野さまのいつくしみ愛するこころがおよんだ結果である。

嗚呼(ああ)、古(いにしえ)の所謂(いわゆる)遺愛 君に於いてか之を見る。

【意訳】ああ,古くから言われている「後世に遺される恩恵」を,まさに水野さまに見ることができる。

  文政改元戊寅 孟冬   良玄重ねて識(しる)す

 【意訳】元号を文政に改元されたつちのえとらの十月 加古良玄 あらためて記す


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解體鍼要跋

先生嘗著折肱要訣早已行于世今茲己卯解體鍼

要成矣是舉也 大司冦水候輔其貲費非先生誰

能得斯侯非斯侯誰又輔先生哉今而後吾黨之喜

可知也醫道十三家正骨之一術缺而不具矣先生

始開其道得要津焉若夫伸筋之術別有機軸者順

其經絡回其氣血蓋所以施於癱瘓家也且是術也

古人之所未發先生始行之故世之學醫者以先生

為正骨家之棟梁為伸筋家之柱石匕刀者疾域之

  ウラ

指揮旌藥種者病域之防鬭卒古人有言曰不為良

將則為良醫矣我於先生始見其人嗚呼知我者亦

唯先生乎知先生者其在斯書也與文政己卯仲春

       天洲居士信濃最上虎識

         〔印形黒字「最上/虎」「天/洲」〕


  【訓み下し】

解體鍼要の跋

先生嘗て折肱要訣を著し、早く已に世に行わる。今茲己卯、解體鍼要成る。是の舉や 大司寇水候(侯)、其の貲費を輔く。先生に非ずんば、誰か能く斯(こ)の侯を得ん。斯の侯に非ずんば、誰か又た先生を輔けんや。今にして後、吾が黨の喜び、知る可し。醫道十三家、正骨の一術缺(か)けて具(そな)わらず。先生始めて其の道を開き要津を得たり。若し夫れ伸筋の術、別に機軸有る者は、其の經絡に順い、其の氣血を回(めぐ)らす。蓋し癱瘓家に施す所以なり。且つ是の術や、古人の未だ發せざる所、先生始めて之を行う。故に世の醫を學ぶ者は、先生を以て正骨家の棟梁と為し、伸筋家の柱石と為す。匕刀は疾域の

  ウラ

指揮旌、藥種は病域の防鬭卒なり。古人に言有り。曰く、良將と為らざれば、則ち良醫と為る、と。我、先生に於いて始めて其の人を見る。嗚呼、我を知る者も亦た唯だ先生のみか。先生を知る者は、其れ斯の書に在るか。文政己卯 仲春

       天洲居士 信濃最上虎識(しる)す


 【注釋】

 ○折肱要訣‥文化七(一八〇八)年刊。五卷。 ○今茲‥今年。 ○己卯‥文政二(一八一九)年。 ○大司冦‥大司寇。刑部尚書。大目付の唐名。 ○水候‥「候」は「侯」。水野子同。当時(文化七/一八一〇年から)の大目付、水野主殿頭忠通(ただゆき)か。 ○貲費‥資費。費用。 ○黨‥志を同じくする仲間、友人。 ○醫道十三家‥6-1鍼道發秘の注を参照。 ○要津‥重要な渡し場。要害の地。重要な地位。 ○若夫‥話題の転換、問題の提起をあらわす。 ○機軸‥知恵。工夫。 ○癱瘓家‥脳血管疾患など、身体の一部の運動機能が失われる疾病を患ったひと。片麻痺の患者。 ○正骨家‥ここの「家」は専門家。骨折などの整復の専門家。 ○棟梁‥重責大任をになうひと。統率者。棟木。 ○伸筋家‥正骨伸筋散という骨折や打撲に用いられる外皮用薬があるので、傷科・骨科の別称であろうか。 ○柱石‥中心人物。家の支柱と礎。 ○匕刀‥薬量をはかる匙。 ウラ ○旌‥(羽毛などで飾られた)旗。 ○藥種‥くすり。薬の材料。 ○防鬭卒‥戦いを防ぐ兵卒。「鬭」は「鬥」「闘」の異体。 ○不為良將則為良醫矣‥本来、「將」は「相(宰相)」。軍事をたとえに用いたため、「將」にかえたものか。宋の范仲淹(九八九年~一〇五二年)の故事。14-2鍼灸要歌集の注を参照。 ○知我者‥『論語』憲問「子曰、莫我知也夫。子貢曰、何為其莫知子也。子曰、不怨天、不尤人。下學而上達。知我者、其天乎/子曰く、我を知る莫きか。子貢曰く、何ぞ其れ子を知る莫しと為すや。子曰く、天を怨みず、人を尤(とが)めず。下學して上達す。我を知る者は、其れ天か」。 ○文政己卯‥文政二(一八一九)年。 ○仲春‥陰暦二月。 ○天洲居士信濃最上虎‥


解體鍼要の跋

先生嘗て折肱要訣を著し、早く已に世に行わる。

 【意訳】加古先生は,以前『折肱要訣』を著わされ,早くから世の中に広まっている。

今茲己卯、解體鍼要成る。

 【意訳】今年,つちのとう(文政二年),『解体鍼要』が完成した。

是の舉や 大司寇水候(侯)、其の貲費を輔く。

 【意訳】この壮挙に対して,大目付の水野さまがその出版費用を補助された。

先生に非ずんば、誰か能く斯(こ)の侯を得ん。

 【意訳】加古先生でなければ,だれが水野さま(の援助)を得られるだろうか。

斯の侯に非ずんば、誰か又た先生を輔けんや。

 【意訳】このような殿様でなければ,だれがまた加古先生を助けることができようか。

今にして後、吾が黨の喜び、知る可し。

 【意訳】これから先の,われら医療関係者の喜びは,言うまでもない。

醫道十三家、正骨の一術缺(か)けて具(そな)わらず。

 【意訳】医学の十三科目には,正骨の一技術が含まれていない。

先生始めて其の道を開き要津を得たり。

 【意訳】加古先生は,その科目を開設して重要な地位を確立した。

若し夫れ伸筋の術、別に機軸有る者は、其の經絡に順い、其の氣血を回(めぐ)らす。

 【意訳】たとえば筋を伸ばす術には,独自の仕組みがあり,その経絡にしたがって,気血をめぐらせる。

蓋し癱瘓家に施す所以なり。

 【意訳】思うに,これは半身不随の患者に施すためのものである。

且つ是の術や、古人の未だ發せざる所、先生始めて之を行う。

 【意訳】なおかつこの術は,古(いにしえ)の人が明らかにしてこなかったものであり,先生が創始したものである。

故に世の醫を學ぶ者は、先生を以て正骨家の棟梁と為し、伸筋家の柱石と為す。

 【意訳】そのため世間の医学を学ぶひとたちは,加古先生を正骨家の大黒柱とみなし,伸筋家の礎石と仰いでいる。

匕刀は疾域の指揮旌、藥種は病域の防鬭卒なり。

 【意訳】薬の量をはかる匙は疾病領域を指揮するための旗であり,薬は疾病領域の防護兵である。

古人に言有り。曰く、良將と為らざれば、則ち良醫と為る、と。

 【意訳】昔の人が次のように言った。「優れた将軍になれないならば,優れた医者になる」,と。

我、先生に於いて始めて其の人を見る。

 【意訳】わたくしは,加古先生にはじめてそのような優れた人物を見ることができたのである。

嗚呼、我を知る者も亦た唯だ先生のみか。

 【意訳】ああ,わたくしを理解してくれるひとは,やはり先生だけだろうか。

先生を知る者は、其れ斯の書に在るか。

 【意訳】先生を理解するのには,まさに本書にこそあるのではないか。

文政己卯 仲春

 【意訳】文政二年 二月

       天洲居士 信濃最上虎識(しる)す

 【意訳】天洲居士 信濃の最上虎 記す

2026年9月15日火曜日

承淡安の東京での写真

 2019年9月に有志を募って行った、南京中医薬大学との学術交流からすでに7年も経っていることに戦慄を覚えています。

その際に南京中医薬大学の张建斌先生から承淡安(南京中医薬大学の前身の江蘇省中医進修学校の初代校長)の日本での活動に関しての発表があり、その中で下記の写真の詳細を知りたいという旨の問いかけがありました。その際は日本から来た私たち全員が応えられず、もやもやした気持ちで今までいました。ちなみに1934年10月-1935年6月に日本で活動していたとのことです。(承淡安の半生に関する投稿にもこの写真があります。https://www.sohu.com/a/346998249_676116?utm_source=chatgpt.com)


現在はchatGPTを筆頭にAI君たちが何でも調べてくれる世の中ですので、ずっともやもやしていたものを解消してくれるように、頼んでみました。そうすると下記のことがわかりました。

龍の水桶→日光のwikiに同じものがありました。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ADragon_fountain_at_Nikko.jpg

そして1931年の写真にも同じものがあります。

https://www.meijishowa.com/photography/1789/80121-0019-dragon-fountain

ちなみにこの写真は生成AIが作ったのかなと思うくらい鮮明でしたので、もう少し調べたら2016年のブログにも同じ写真があったので、生成AIがまだまだの時期ですのでただの鮮明な写真でした。

https://dracmaycave.blogspot.com/2016/07/?m=0

「宇都宮市 有志者中 明治三十年 岡崎雪聲」と書かれてあり、現在は輪王寺の勝道上人像の前に置かれてあります。

1928年に書かれたテリーさんの日光ガイド(https://terrys-guide.pages.dev/read/route-14-nikko/)にも、「The Futatsu-do (‘Two halls’), low, beautifully red-lacquered connecting structures known also as Yoritomo-dd, because one of this celebrity’s bones is said to be enshrined here. Observe the droll demonlets in whimsical attitudes astride the posts just beneath the eaves at the corners. The lovely green-bronze dragon-fountain which stands on an irregular stone base in the recessed court or bay was (along with the stone lantern) presented to Prince Kitashirakawa's tomb (farther up the hill) by the municipality of Utsunomiya. (二つ堂(「二つの堂」)で、低く、美しく朱漆を塗った、連なる建物である。この名高い人物(頼朝)の骨の一つがここに祀られているというので、頼朝堂とも呼ばれる。隅の軒のすぐ下の柱にまたがる、おどけた姿の小鬼たちに目を留めよ。奥まった庭、すなわち入江の、不揃いな石の台座に立つ美しい緑青の龍の水盤は、(石灯籠とともに)宇都宮市から、丘のさらに上にある北白川宮の墓へ献じられたものである。)」とあり、場所は少し違っていますが、龍の水桶自体はこれでほぼ確定でよいと思います。

そして、移設されたとして、背景はどこかというのも調べてもらいました。北白川宮の墓(https://toby.la.coocan.jp/sub5-kitshirakawa.htm)というキーワードはありますが、輪王寺全体から二つ堂というキーワードから、常行堂と法華堂をつなぐ廊下ではないかと推測しています。(輪王寺のHP:https://www.rinnoji.or.jp/)

https://auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w1213763327

https://adeac.jp/nikko-city/catalog/ct0049-00003

上記ヤフオクで出品された日光二ツ堂の絵葉書の左端に、かろうじて龍のしっぽが見えるのと、もう一つのリンクの日光二ツ堂の写真に石灯篭は手前の建物に隠れて見えないが、奥の建物と手前の建物の間におそらく龍の水桶があるように見えます。

https://hotokami.jp/area/tochigi/Htgtr/Htgtrtk/Dppyr/148393/

その二ツ堂というのは常行堂と法華堂のことで、上記サイト内の写真にあるそれをつなぐ廊下というか門というか、そのあたりの柱や扉の装飾などがほぼ一致しているので、元々そこにあったのだろうと推測できます。

これ以上調べるとすると、輪王寺に電話して、戦時中にでも移設したのか、移設前の場所はどこかを聞けばいいのかなと思いますが、そこまではしていません。

ということで、どこかのタイミングで日光に行った際には、同じ画角で写真を撮ってこようかと思います。

2026年9月11日金曜日

12-3 【意訳】江戸時代鍼灸文献序跋集 刺絡聞見録

 12-3 刺絡聞見録  三輪東朔〔説〕伊藤大助〔記〕

    京大富士川文庫所蔵(シ/四六六) 

     https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00003374


刺絡聞見録序

吾本州人荻元凱著刺絡編詳説

和蘭之術毉家刺絡之術自是而

興焉越前縣道策近江中神右内

輩皆長此術矣雖然非專于此者

也其專此術而屢奏神效者莫三

輪東朔若也東朔之言曰百病生于

欝滯〃〃生于氣血擁塞刺絡祛瘀

  一ウラ

濁之血通邪結之氣則擁塞者開

焉欝滯者散焉正氣宣達而眞

血流通諸患於是乎頓瘥矣是刺

絡之效也臺駘宣汾洮神禹疏九

河瀹濟漯決汝漢排淮泗能止天

下之大患能濟天下之黔黎吾術

同于此矣彼昏不知補住是悦欝

者益欝壅者益壅不近似鯀障

  二オモテ

洪水乎此言極是夫專其術者必

造其玅〃而不止必入其神東朔

專攻此術四十年如一日矣今年

踰七旬其術殆入神妙而其獲

奇效偉驗駭人之耳目固宜矣

雖然醫之發汗吐下莫非開欝莫

非達塞又何特刺絡乎吐下之所

不及假此開達壅欝是為得之矣

  二ウラ

醫治非專在于此而是亦醫治之

所不可闕也吾門人信濃伊藤大介

精于古醫方頃從東朔受其術筆

記其説以傳四方來而請序於予

予語之曰鯀障洪水而殛死漢志

以隄障為下策雖然漢唐宋明能

捍黄河之大患者唯此隄障〃〃

之功能殖百穀能育萬民則上古

  三オモテ

之事不可以律今也且也靜然補

病莊周曾言之病之有補三代遺

言也予以謂毉治補瀉兩端猶車

之有兩輪與聖人之德刑仝缺一不

可發汗吐下皆是瀉也刺絡則瀉

術之最明顯者也聖人德禮之化

後人難企而覇者政刑之治其功

易成醫家之滔〃乎趣瀉術是亦

  三ウラ

世道之汚隆時勢之所使然予不

得不為此三嘆也

文化丁丑春二月十三日

  錦城老人加賀大田元貞才

  佐撰

    董齋文進書

            〔印形黒字「文」「進」、白字「董/齋」〕

         沖鶴年鎸


  【訓み下し】

刺絡聞見録の序

吾が本州の人、荻元凱、刺絡編を著し、和蘭の術を詳説す。醫家刺絡の術、是れ自り而して興る。越前の縣道策、近江の中神右内の輩、皆な此の術に長ず。然りと雖も、此れに專らなる者に非ざる也。其れ此の術に專らにして、而して屢しば神效を奏する者は、三輪東朔に若(し)くは莫し。東朔の言に曰く「百病は、欝滯に生じ、欝滯は氣血の擁塞に生ず。絡を刺して瘀

  一ウラ

濁の血を祛(さ)り、邪結の氣を通ぜしめば、則ち擁塞する者は開き、欝滯する者は散じ、正氣宣達して眞血流通す。諸患、是(ここ)に於いて頓(とみ)に瘥(い)えん。是れ刺絡の效なり。臺駘は汾・洮を宣(とお)し、神禹は九河を疏(とお)して、濟・漯を瀹(おさ)め、汝・漢を決して、淮・泗を排し、能く天下の大患を止め、能く天下の黔黎を濟(すく)う。吾が術は此れに同じ。彼れ昏くして知らず、補い住(とど)むるを是れ悦(よろこ)びて、欝する者は益々欝し、壅する者は益々壅するを。鯀の洪水を障(さえぎ)るに近似せざるや」と。

  二オモテ

此の言極めて是なり。夫れ其の術を專らにする者は、必ず其の玅に造(いた)り、玅にして止まらざれば、必ず其の神に入る。東朔、專ら此の術を攻(おさ)めて、四十年一日の如し。今年、七旬を踰(こ)え、其の術、殆ど神妙に入る。而して其の奇效偉驗を獲て、人の耳目を駭(おどろ)かすこと、固(まこと)に宜(むべ)なるかな。然りと雖も醫の發汗吐下、欝を開くに非ざるは莫く、塞を達(とお)すに非ざるは莫し。又た何ぞ特(た)だ刺絡のみならんや。吐下の及ばざる所は、此れに假りて壅欝を開達す。是れ之を得たりと為す。

  二ウラ

醫治は專ら此に在るに非ず、而して是れも亦た醫治の闕(か)く可からざる所なり。吾が門人、信濃の伊藤大介、古醫方に精(くわ)し。頃(このご)ろ東朔に從いて其の術を受け、其の説を筆記し以て四方に傳う。來たりて序を予に請う。予、之に語りて曰く「鯀、洪水を障りて殛死す。漢志、隄障を以て下策と為す。然りと雖も漢・唐・宋・明、能く黄河の大患を捍(ふせ)ぐ者は、唯だ此の隄障のみ。隄障の功は能く百穀を殖(う)え、能く萬民を育つ。則ち上古

  三オモテ

の事は以て今を律す可からざるなり。且や靜然として病を補うこと、莊周曾て之を言う。病の補有るは、三代の遺言(いげん)なり。予以謂(おもえ)らく、醫治の補瀉は兩端にして、猶お車の兩輪有るがごとし。聖人の德刑と同じく、一を缺(か)くも不可なり。發汗吐下、皆な是れ瀉なり。刺絡は則ち瀉術の最も明顯なる者なり。聖人の德禮の化は、後人企て難し。而れども覇者の政刑の治は、其の功、成し易し。醫家の滔滔乎として瀉術に趣く。是れも亦た

  三ウラ

世道の汚隆、時勢の然らしむる所なりと。予、此れが為に三嘆せざるを得ざるなり」と。

文化丁丑 春二月十三日

  錦城老人 加賀大田元貞才佐撰す

    董齋文進書す

         沖鶴年鐫す


 【注釋】

 ○本州‥故郷。地元。ここでは加賀。 ○荻元凱著刺絡編‥11-2刺絡編の注を参照。 ○縣道策‥江戸中期の人(生没年未詳)。越前府中の医家。名は長英、字は華山、道策は通称。奥村良筑に吐方を学び、刺絡療法にも通じた。著書『縣氏吐方』。長男(名は省、字は子修)は二代目縣道策、大田錦城が一時養嗣子になった。二男(名は蘭)は奥村良筑の養嗣子となった。 ○中神右内‥中神(なかがみ)琴溪(きんけい)。一七四四~一八三三。名は孚(まこと)、字は以隣(いりん)、通称右内(うない)。堂号は生々堂(せいせいどう)。門人の筆録として『生々堂醫譚』『生々堂養生論』『生々堂傷寒約言』『生々堂雑記』などの書がある。 ○三輪東朔‥一七四七~一八一九。京都の人で、字は望卿(ぼうけい)、号は浅草庵(せんそうあん)。刺絡術を荻野(おぎの)元凱(げんがい)に学んだ(『典籍辞典』)。 一ウラ ○祛‥とりのぞく。「はらう」が一般的な訓。 ○臺駘‥上古五帝のひとり、帝嚳の時の人。汾河、洮河を治めた。『左傳』昭公元年「臺駘能業其官、宣汾・洮」。 ○禹‥五帝のひとり、帝顓頊の孫。夏王朝の創始者。黄河の治水につとめる。『孟子』滕文公上「禹疏九河、瀹濟漯、……決汝漢、排淮泗」。九河は多くの河川。濟・漯・汝・漢・淮・泗は、みな河川の名前。禹は、たくさんの河川を治水した。濟水・漯水を疏通させ、汝水・漢水を決壊させ、淮水・泗水に流し込んだ。 ○黔黎‥人民。一般の人々。 ○彼昏不知‥『詩經』小雅 節南山 小宛「彼昏不知」。 ○鯀‥禹の父。堤防を築くことによって黄河の氾濫を治めようと試みたが、失敗した。そのため堯に殺されたともいう。 二オモテ ○七旬‥七十。 二ウラ ○伊藤大介‥一七七八~一八三八。大助は通称。名は初め祐(すけ)慶(よし)のちに祐(すけ)義(よし)。字は忠岱、別に鹿里・潛龍齋・迎繼堂と号した。藤原不比等の流れを汲む。二十七歳(一八〇四)で京都に出て吉益南涯に入門(『漢方の臨床』四十九卷五号、町泉寿郎)。本書の筆記者。 ○殛‥責めて殺す。 ○漢志‥『漢書』溝洫志「治河有上中下策……若乃繕完故隄、增卑倍薄、勞費無已、數逢其害、此最下策也」。 ○隄障‥堤防。 三オモテ ○靜然補病‥『莊子』外物「靜然可以補病、揃滅可以休老、寧可以止遽」。 ○莊周‥『莊子』の撰者とされる。 ○三代‥夏・殷・周の三王朝。 ○遺言‥先人のすぐれたことば。 ○德刑‥恩沢と刑罰。『左傳』宣公十二年「叛而伐之、服而舍之、德刑成矣。伐叛、刑也。柔服、德也。二者立矣」。 ○滔滔‥世の風潮にしたがって進み行くさま。 三ウラ ○汚隆‥時世風俗の盛衰。浮き沈み。 ○三嘆‥何度も感嘆する。深く感心する。 ○文化丁丑‥文化十四(一八一七)年。 ○大田元貞‥一七六五(明和二)~一八二五(文政八年四月二十三日)。名は元貞、字は公軒、通称は才佐、号は錦城。加賀大聖寺の医師・本草学者大田玄覺の子。京都の皆川淇園、江戸の山本北山に学ぶも、意に満たず、考証派となる。 ○董齋文進‥松本正義。董齋は号。大阪の中井董堂に師事した書家。東京都江東区の亀戸天神に董齋筆塚があるという。 ○沖鶴年‥近世後期の版木彫り師。名家の書や序跋文の摸刻など、字彫りを専らとした。鶴年は号、平次郎と称した。生没年未詳。鶴年の名を刻する作品は、……文化十一年刊『諸家人名録』の龜田鵬齋序(秦星池書)、文化十四年刊三輪東朔『刺絡見聞録』の大田錦城序文、文政二年刊大窪詩佛著『西游詩艸』大田錦城序(秦星池書)、文政四年刊大田錦城著『仁説三書』源半千序(秦星池書)、松本董齋序(書も)、同年刊林國雄著『興哥考』松本董齋序(書も)など、特定の文人に集中する(岩波書店『日本古典籍書誌学辞典』高橋明彦)。 ○鎸‥「鐫」の異体。刻む。彫る。


刺絡聞見録の序

吾が本州の人、荻元凱、刺絡編を著し、和蘭の術を詳説す。

 【意訳】我が国(加賀)の人である荻野元凱は,『刺絡編』を著わして,日本とオランダの技術を詳しく説明している。

醫家刺絡の術、是れ自り而して興る。

 【意訳】医者の間で,刺絡の術が,これをきっかけに盛んになった。

越前の縣道策、近江の中神右内の輩、皆な此の術に長ず。

 【意訳】越前の縣道策や,近江の中神琴渓などは,みなこの刺絡術にたけていた。

然りと雖も、此れに專らなる者に非ざる也。

 【意訳】とはいえ,これを専門におこなっていたわけではない。

其れ此の術に專らにして、而して屢しば神效を奏する者は、三輪東朔に若(し)くは莫し。

 【意訳】この技術を専門にして,たびたび驚異的な成果を挙げたひとでは,三輪東朔の右に出るものはいない。

東朔の言に曰く

 【意訳】三輪東朔は次のように言った。

「百病は、欝滯に生じ、欝滯は氣血の擁塞に生ず。

 【意訳】「多種多様な病は,鬱滞から生まれ,鬱滞は気血がふさがることから生まれる。

絡を刺して瘀濁の血を祛(さ)り、邪結の氣を通ぜしめば、則ち擁塞する者は開き、欝滯する者は散じ、正氣宣達して眞血流通す。

 【意訳】血絡を刺して滞って濁った血を取り除き,邪の結ぼれた気が通うようにすれば,塞がりは開き,鬱滞は消散し,正気が通り達し,(瘀血ではなく)本来の血が流れ通るようになる。

諸患、是(ここ)に於いて頓(とみ)に瘥(い)えん。

 【意訳】多くの病は,そこでたちまち治癒するだろう。

是れ刺絡の效なり。

 【意訳】これが刺絡の効果なのである。

臺駘は汾・洮を宣(とお)し、神禹は九河を疏(とお)して、濟・漯を瀹(おさ)め、汝・漢を決して、淮・泗を排し、能く天下の大患を止め、能く天下の黔黎を濟(すく)う。

 【意訳】(古代中国の治水に譬えていえば)台駘が汾水と洮水を疎通させ,神禹(禹の尊称)が九つの河川を疎通させ,済水と漯水の流れを治め,汝水と漢水の堤防を決壊させ,淮水と泗水に流し込んだようなものである。そうして天下の大きな災害を止め,天下の人民を救うことができたのである。

吾が術は此れに同じ。

 【意訳】私の術も,これと同じである。

彼れ昏くして知らず、補い住(とど)むるを是れ悦(よろこ)びて、欝する者は益々欝し、壅する者は益々壅するを。

 【意訳】(ところが)医学に暗く,よろこんで補法ばかりしていて,(そのため)鬱滞するものは,ますます鬱滞し,塞がるものは,ますます閉塞するを知らない。

鯀の洪水を障(さえぎ)るに近似せざるや」と。

 【意訳】これは,鯀が洪水を防ぐために堤防を築いたのに,似ていないだろうか」。

此の言極めて是なり。

 【意訳】この言葉はきわめて正しい。

夫れ其の術を專らにする者は、必ず其の玅に造(いた)り、玅にして止まらざれば、必ず其の神に入る。

 【意訳】そもそも刺絡の術を専門にするものは,かならずその奥深い境地にいたり,そこにとどまらずさらに研鑽すれば,神妙の境地に達する。

東朔、專ら此の術を攻(おさ)めて、四十年一日の如し。

 【意訳】三輪東朔は,この刺絡の術を専攻し,四十年ずっと変わらなかった。

今年、七旬を踰(こ)え、其の術、殆ど神妙に入る。

 【意訳】今年すでに七十歳をこえて,その術はほぼ神妙の境地に達している。

而して其の奇效偉驗を獲て、人の耳目を駭(おどろ)かすこと、固(まこと)に宜(むべ)なるかな。

 【意訳】そしてその思ってもみないような偉大な治験を獲得して,人々を驚かせているのは,当然なことである。

然りと雖も醫の發汗吐下、欝を開くに非ざるは莫く、塞を達(とお)すに非ざるは莫し。

 【意訳】とはいえ,医術において発汗・催吐・瀉下の治法は,みな鬱滞閉塞を取り除くものである。

又た何ぞ特(た)だ刺絡のみならんや。

 【意訳】またどうして刺絡のみを特別視する必要があろうか。

吐下の及ばざる所は、此れに假りて壅欝を開達す。

 【意訳】吐法・下法では効果が期待できない場合は,この刺絡の方法を利用して閉塞を開き,鬱滞をとおるようにする。

是れ之を得たりと為す。

 【意訳】これこそ刺絡のすぐれたところである。

醫治は專ら此に在るに非ず、而して是れも亦た醫治の闕(か)く可からざる所なり。

 【意訳】医療がすべて刺絡にあるわけではないが,これもやはり医療に欠くことができない治法の一つである。

吾が門人、信濃の伊藤大介、古醫方に精(くわ)し。

 【意訳】我が門下生である信濃出身の伊藤大介は,古い医学に精通している。

頃(このご)ろ東朔に從いて其の術を受け、其の説を筆記し以て四方に傳う。

 【意訳】近頃,三輪東朔から刺絡術を学び,その説を書き留めて,四方へ伝えようとしている。

來たりて序を予に請う。

 【意訳】わたくしの所へ来て,序文を書いてほしいと請われた。

予、之に語りて曰く

 【意訳】わたくしは,伊藤大介に次のように言った。

「鯀、洪水を障りて殛死す。

 【意訳】鯀は洪水を防ぐために川の水をせき止めたが,そのために(尭に)誅殺された。

漢志、隄障を以て下策と為す。

 【意訳】『漢書』溝洫志は,堤防を築くことは,まずい方法だとした。

然りと雖も漢・唐・宋・明、能く黄河の大患を捍(ふせ)ぐ者は、唯だ此の隄障のみ。

 【意訳】そうはいっても,漢・唐・宋・明の時代を通じて,黄河の大洪水を防ぐことができたのは,この堤防があったからに他ならない。

隄障の功は能く百穀を殖(う)え、能く萬民を育つ。

 【意訳】堤防があったおかげで,穀物を植えることができ,多数の民を育(はぐく)むことができたのである。

則ち上古の事は以て今を律す可からざるなり。

 【意訳】したがって古代の方法に基づいて,現代の問題を判断処理することはできない。

且や靜然として病を補うこと、莊周曾て之を言う。

 【意訳】また静かに病に補をおこなうことについては,莊子もかつて(『莊子』雜篇・外物で)言及している。

病の補有るは、三代の遺言(いげん)なり。

 【意訳】病の治療法に補法があることは,夏・殷・周の三代から伝えられてきたすぐれた言葉である。

予以謂(おもえ)らく、醫治の補瀉は兩端にして、猶お車の兩輪有るがごとし。

 【意訳】わたくしが思うに,医療において補瀉は二つのもので,車に車輪が二つあるのと同じである。

聖人の德刑と同じく、一を缺(か)くも不可なり。

 【意訳】また聖人には,徳治と刑罰がともにあるのと同じであり,どちらか一方が欠けても成り立たない。

發汗吐下、皆な是れ瀉なり。

 【意訳】発汗法と吐下法は,みな瀉法である。

刺絡は則ち瀉術の最も明顯なる者なり。

 【意訳】刺絡は,瀉法の中でも最もあきらかなものである。

聖人の德禮の化は、後人企て難し。

 【意訳】聖人による徳と礼による教化は,後世の人間には追いつくことは難しい。

而れども覇者の政刑の治は、其の功、成し易し。

 【意訳】しかし覇者による政令と刑罰による治世は,その効果をあげやすい。

醫家の滔滔乎として瀉術に趣く。

 【意訳】医家が世の風潮にしたがって瀉術にしたがい向かう。

是れも亦た世道の汚隆、時勢の然らしむる所なりと。

 【意訳】これもまた世の中の盛衰,時代の情勢がそうさせているのである,と。

予、此れが為に三嘆せざるを得ざるなり」と。

 【意訳】わたくしは,このために何度もため息を漏らさざるを得ないのだ」と。

文化丁丑 春二月十三日

 【意訳】文化十四年(1817)春二月十三日

  錦城老人 加賀大田元貞才佐撰す

 【意訳】錦城老人 加賀の大田元貞才佐 著わす

    董齋文進書す

 【意訳】董斎 文進(松本正義) 浄書

         沖鶴年鐫す

 【意訳】沖 鶴年 彫る



 以下、句切り、濁点を用い、ひらがなで送りがなを増やす。訓点に用いられる「コト」「シテ」をあらわす文字はひらがなとする。ルビをつける。


刺絡聞見録(伊藤大助序)

余弱冠ヨリ医学ニ志シ、初め李朱ノ説ヲ尊信セシガ、後ち東洞先生ノ著書ヲ朋友ノ許(もと)ニ見テ、仲景氏ノ方法ノ精妙ナルことヲ知リ、専らコレヲ尊奉シ、晋唐以來ノ諸大家ノ家言ヲ眄睨シ、千載ノ卓見トセリ。其の後亦た平安ニ至リ、其の嗣タル南涯先生ニ師事シテ傷寒論金匱要略ノ講説ヲ聞く。始めハ思フ、古先生ノ旨ニ戻(もと)リ、氣血水ノ三統ヲ以テ、此れヲ辨別スルハイカント。日ヲ經(へ)月ヲ累(かさ)ヌルニ從っテ、先生ノ意味ノ寓スル所ヲ知リ、此の説ヲ篤ク信ゼリ。篤ク信ズルこと數年ナリシガ、一日一大疑案ヲ生じタリ。イカント云フニ、凡そ仲景氏ノ傷寒論ハ論ナルべシ。論ナラバ論ヲ以テ主トスベキニ、今ま其の撰次ノ書ヲ歴觀スレバ、類聚ヲ以て主

  一ウラ

トスルモノナリ。然ルヲ、イカンシテ論ト云ふモノヲ以テ講説スルことヲ得ンヤト疑フ。コレヨリ其の疑フ所ニ意ヲ留メテ、其の遺訓ヲ讀むニ、ナルホド其の一章ノ體ハ論ナリ。論ヲ以テ主トナシタル證據ハ、晋唐以來ノ医書トヒト(等)シカラズ。三隂三陽ノ病名ヲ建て而(て)、其の陽病云云ノ證ハ何湯主之、云云ノ證ハ何湯ニ宜しト云ひ、或いは與ふト云ひテ、證ヲ先ニシ方ヲ後ニス。其の先ニスルノ證ニ他ト混ズルヲ別ツアリ。其の別ツ所ニ目ヲ注いデ、造次顛沛ニモコレヲ思ふ。コレヲ思ふこと數年ナリ。數年ニシテ其の書、體ハモト論ニシテ、類聚ハ王叔和ガ自己ニ出づルことヲ知リ、斷然トシテ云ふ、作者ノ意味ハ論ニアツテ、類聚ニアラズト。コレヨリ王叔和ノ撰次ニヨルことヲ止メ、論ヲ主トシテ證ヲ其の混ズル所ニ集メ、コレヲ別ツノ撰次ヲナス。其の撰次ヤ十余年ノ星霜ヲ經(へ)

  二オモテ

テ、漸クナルナリテ、其の意ヲ註解シ、コレヲ獨斷ト名づけ、先づ其の正文ナルモノヲ世ニ公けニセントス。其の詳らかナルハ、傷寒論或問ニ辨論ス。故ニ爰(ここ)ニ贅セズ。實ニ仲景氏ノ遺訓ヲ讀みテ其の意味ヲ知ルことヲ得バ、信(まこと)ニ我ガ精氣ノ極ノ然ラシムル所ト、其の身モコレヲ自負シ、其のスル所ハ東洞先生ノ主トスル所ヲ主トシ、其の講説スル所ハ其の排スル所ヲ排セズ。東漢ニ溯洄シ、仲景氏ノ主トスル所ヲ主トス。是れ平生、其の志行ノ所ヲ云ふノミ。其の志行ヲナス中ニ、ヒトリ湯液ノ及バザル所ヲ輔翼スルモノアリ。世ニ云ふ刺絡ノ術ナリ。其の術ハ瘀濁ノ惡血ヲトルト云ふモノニシテ、其の事ヲ平安ノ荻台州ガ著セシ刺絡篇ニテ知リ、郭右陶ノ痧脹玉衡ヲ求メテ讀むニ、萬病ニ痧アルことヲ覚(さと)ル。其の後、高陽朴ノ医談、中神右内ノ医談雜記ヲ得テ、其の事マタ詳らかニナレリ。

  二ウラ

然レドモ常ニ見ザルノ血ヲ見ルノ術タル故ニ、病家モ好マズ、又た己モ人ノ好まザル所ヲ施すニ心ナシ。其の施すニ心ナキハ、其の事ニナレザルニ起こル。ナレザル刺絡ハモトヨリ論ナシ。平日トリ(取)アツカ(扱)ウ湯藥サヘ、下劑ノツヨ(強)キハ人ノ惡ム所ナリ。然レドモ強ひテコレヲナス。吐劑ニ至っテハ、順ニ下降スべキ飮食ヲ、逆ニ吐出セシムル故ニ、病家ハモトヨリ医モ亦たコレヲ與へズ。越前ノ奥村良筑ノ如キハ、医中ノ豪傑ナリ。超然トシテ人ノ忌み好まザルことヲナス。故ニ人モコレニ目ヲ注ぎ、其の國ニ至リ、其の治ヲ学ぶ。其のコレヲ学ぶモノ多キ中ニ、獨嘯庵ガ吐方考、荻台州ノ吐法編アルハ、先づ其の意味ヲヨク得タル人トモ謂ふベシ。其の書ヲ得テ讀むモノハ、其の理ヲ知ルノミニシテ、其の事ニナレザルニヨリテ恐怖スル所アリ。又た其の術ヲ受くル人ハ、無知ノ俗ナレバ、世

  三オモテ

ニ異ナル治ヲナスト稱ス医、其の事ニナレザル恐怖スルノ藥ヲ與へレバ、飮食ヲ吐出シテ悶亂シ、手足厥シ冷汗出で、コレニヨリテ病家ハ毒ヲ與ふルガ如ク周章シ、或ひハ死ニ至らンカト問ふ。コレニヨリテ医モイヨイヨ恐怖シテ與ふルことヲ欲セズ。與ふルことヲ欲セザルハ、コレ他ナシ、唯だ其の書ヲ讀んデ其の理ヲ知リ、其の事ニナレ(慣)ザルニヨレリ。獨嘯庵・台州ノ如キハ、親しク其の國ニ至リ、其の人ニ從事シテ、其の事ニ屢しばナレタルナリ。故ニ苦労スル形狀ヲモ知リ、疾病ノ治セシことモ見聞セシ故ニ、恐怖ノ心ナク施セシナラン。又た奥村ハモトヨリ專門タレバ、其の許(もと)ニ至ル病人、吐ハクル(苦)シキト云ふことヲ會得シテカヽリ、又た吐ニヨリテ疾病ノ治スルヲ見聞シテ至ル故ニ、果然トシテ志定まルモノナリ。又た其の門ニテハ平生ノ作業タル故ニ、病人ヲ見ルト治ヲ施サ

  三ウラ

ルニ治スルト思惟シテ、恐怖ノ心ナク、藥ノ分量ヲ定メテ與フ。コレ他ナシ、ナレルトナレザルトノ二つノミ。總(す)べテ百事ハナレルトナレザルニヨリテ、霄壤ナリ。余、前ニ舉ぐル如キ刺絡ノ書ヲ讀むトモ、其の事ニナレザルニヨリテ、其の理ハ知レドモ、親しク見聞スルことナキ故、心ニ恐怖スル所アリ。恐怖スル所アルモノハ、其の事ニナレザルニヨレリ。ナレザル故ニ、其の事ヲナサズ。空しク年月ヲ經タリ。去年六月、中神右内、江戸ニ出で脚氣ヲ刺絡シ、足舉げガタク沈重スルモノモ、即時ニカル(軽)カラシムルナドアリト傳聞ス。秋ニ至リ、山脇家法ヲ得テ讀むニ、刺絡ノことヲ詳らかニス。冬ニ至リ、數年患ふル所ノ痔漏ヲ治セント、江戸ニ来たリ、京橋因幡町、畑中分中子ニ治ヲ請ふ。其の間、加賀医官吉田長俶子ノ著セル泰西熱病論ヲ見ルニ、熱病ニモ刺絡シ、痘瘡ニモ刺

  四オモテ

絡スルことヲ載ス。余始めハ思ふ、山脇・中神ノ兩家ヲ訪ね、其の術ヲ学ばント志し、又た吉田氏ノ著書ヲ見テ、其の人ニ学ばントス。時ナルカナ、小網町三丁目、加田屋長右衞門ニ寓居シテ在りシガ、總州銚子ノ人、羽戸七右衞門、余ガ医学ヲ好むことヲ聞き、其の身刺絡シテ危急ヲ救ひタルこと、其の他竒効ヲ奏セシヨシヲカタ(語)ル。初夜ヨリ中夜ニ及ぶ故ニ、其の術ヲ何所(いづく)ニ受けシヤト問はバ、三輪東朔ト云ふ人ニ学ぶト云ふ。余、其の人ノ住居ヲ問はバ、云ふ、先ニ銚子ニ在り、今ま淺草ニ寓スト云ふ。我れ手ヲ拍(う)っテ曰く、數年学ばント欲スルノ術、イマダ其の人ニア(会)ハズシテ、空しク年月ヲ經タリ。又た他ト異ナル説ヲ建て、湯藥主トセズ、刺絡主トスルト云ふノ人ニ逢ふことヲ得ルオヤ。實ニ天、我ニ幸ひヲ得セシムルノ時ナリ。時ヲバ失ふベカラズト、其の居ヲ訪ね、姓名ヲ通シ、門ニ入らント請フ。先生コレヲ許ス。故ニ束脩シテ、其の門

  四ウラ

ニ入リ、其の大體ヲ聞くニ、古人未發ノ説ニして先哲未言ノ所ヲ述べテ、我ニ聞かシム。我コレヲ聞き、歎ジテ曰く、仲景氏ハ医聖ナリ。其の医聖ノ方法ヲ用ゐテモ應ゼザルアリ。其の應ゼザルヲ應ゼシメントスルニハ、刺絡ノ術輔翼スルニアラザレバ、病、膏肓ニアルモノニ應ズルことアタハズト。爵躍シ、膝ノ進むことヲ知ラズ。又た其のスル所ヲ見レバ、瘀濁ノ惡血ヲサ(去)リ、澁滯ノ血ヲして運動活潑ノ用ヲナサシムルノ術タリ。余コレニヨリ、其の會得スル所ト、先生ノ論辨シ玉フ所トヲ記シテ二卷トシ、刺絡聞見録ト号シ、其の事ヲ詳審ニシ、其の經驗ヲモ併せ舉グ。コレ其の事ヲ親しク聞見セザルモノモ、恐怖ノ心ナク其の術ヲ施スベキ爲ニナス。實ニ此の術ハ、湯液ノ及ばザルヲ輔翼スルモノニシテ、医タルモノ知ラズンバアルベカラザルモノナリ。若し亦た事ヲ解スベキ

  五オモテ

病家アラバ、此の書ヲ讀まシメトキ(説)キカ(聞)サシメバ、血ヲ見ルトモ忌み嫌ふベキことモナク、恐怖ノ心モ生ゼザラシメン。若し然らバ起きガタキ沈痾痼疾ハ勿論、鬼籍ニ載らントスルノ危急促迫ノモノモ平快ニ至らン。然れバ余ガ医学ヲ好スル志モ世ニ顕レ、先生ノ説モ廣ク四方ニ流布シ、海内ニ先生アルことヲ知らシメ、其の志、萬民ヲして骨ニ肉スルノ幸ひアラシメントスルノ主意モ達センナリ。故ニ事ヲ竒ニセズ、術ヲ隠サズ、唯だ濟世ヲ主トシ、如此(かくのごとく)其の本末ヲ序スルト云爾(しかいふ)


文化十四年丁丑孟春  信濃 伊藤大助謹述

  〔印形黒字「藤/原」、白字「祐/鹿」〕


 【注釋】

 ○弱冠‥二十歳。 ○李朱‥李東垣と朱丹溪。後世派。 ○東洞先生‥吉益東洞(一七〇二~一七七三)。古方派を代表する人物。 ○仲景氏‥後漢・張仲景。 ○眄睨‥横目に見る。 ○平安‥京都。 ○南涯先生‥吉益南涯(一七五〇~一八一三)。父、東洞の万病一毒説を敷衍して気血水説を唱える。 ○古先生‥東洞。 ○疑案‥解決できない疑問案件。 ○類聚‥同類のものを集める。ここでは證ごとに集める。 一ウラ ○遺訓‥張仲景の書。 ○其の一章‥伊藤大助『傷寒論張義定本』を参照。 ○造次顛沛‥つまずき倒れるわずかの間。非常に短い時間。『論語』里仁「君子無終食之間違仁、造次必於是、顛沛必於是/君子は食を終うるの間も仁に違うこと無く、造次にも必ず是に於いてし、顛沛にも必ず是に於いてす」。 ○星霜‥歳月。 二オモテ ○獨斷‥ ○傷寒論或問‥ ○東漢‥後漢。 ○溯洄‥さかのぼる。 ○輔翼‥補佐。補助。 ○志行‥志と行い。 ○平安‥京都。 ○荻台州‥荻野元凱。台州は号。 ○郭右陶ノ痧脹玉衡‥清・郭志邃撰。右陶は字。康煕十四(一六七五)年初刊本は三卷。十七年に増補して四卷本となる。 ○痧‥『痧脹玉衡』を参照。血分にあるものは瀉血する。 ○高陽朴ノ医談‥『暘谷齋醫辨』の異本か。高階淳(生没年未詳)。陽朴は字。号は暘谷齋。長崎のひと。漢詩人・高階暘谷(一七一九~六六)の弟(『漢方の臨床』四十九卷二号、長野仁)。 ○医談雜記‥『生生堂醫譚』『生生堂襍記』。 二ウラ ○病家‥患者。 ○奥村良筑‥貞享三(一六八六)年~宝暦十(一七六〇)年。江戸中期の医者。名は直、号は南山。良竹(良筑)は字。越前国府中松森村(福井県武生市)生まれ。父は道喜。十余歳で駿府(府中)藩医山崎良伯に就いて医を学び、一時大坂に出たが帰郷して医を業とし、府中藩医となって本多侯に仕えた。のち本多侯の息女に従って京都に上り、後藤艮山、並河天民らの説を聞き、帰郷。古医方に通じたが、そのうち吐法が埋もれているのを惜しんで研究を積み、吐剤を臨床に活用し、新治療を開き、京都など各地から多くの弟子が参集した。著述をなさなかったが、その治法は永富獨嘯庵『吐方考』や荻野元凱『吐方編』など門人の著述によりうかがえる。∧参考文献∨土肥慶蔵『鶚軒游戯』「奥村良筑考」(『朝日日本歴史人物事典』小曾戸洋)。 ○超然‥超脱。世俗にとらわれない。 ○獨嘯庵ガ吐方考‥永富獨嘯庵(一七三二~六六)。獨嘯庵は長門国赤馬関(下関市)の人で、名は鳳(ほう)、字は朝(ちよう)陽(よう)、通称昌(しよう)安(あん)、のち鳳(ほう)介(すけ)。医師永富氏の養子となり、十八歳のとき京の山脇東洋に入門。東洋は古方の汗・下法に巧みであったが、吐方に通ずるため、当時吐方に詳しかった越前の奥村良竹(りようちく)のもとに、獨嘯庵と嫡男の東門(とうもん)を派遣し、学ばせた。その成果が本書である。宝暦十二(一七六二)年の山脇東洋(とうよう)の序、翌十三年の清水(しみず)伯毅(はくき)(剛(つよし))の跋を付して同年刊(『典籍辞典』)。 ○荻台州ノ吐法編‥宝暦十四(一七六四)年刊。 三オモテ ○周章‥あわてふためき騒ぐ。周章狼狽。 三ウラ ○霄壤‥天と地。天と地ほども大きな違いがあることのたとえ。 ○山脇家法‥未詳。山脇東門は東洋の第二子で、名は玄陶(はるすえ)、字は大鑄(たいちゆう)、初名は玄侃(はるやす)、方学(ほうがく)居士(こじ)とも号した。十七歳のとき父の命で永富獨嘯庵とともに越前の奥村良竹を訪ね、吐方の術を学んだ(『典籍辞典』)。 ○畑中分中子‥未詳。本書卷上十二裏に痔漏(瘻)の患者が多いことが記されている。 ○吉田長俶子‥安永八(一七七九)年~文政七(一八二四)年。江戸後期の蘭方医。名は成德、字は直心。駒谷と号す。書斎号を蘭馨堂。長淑は通称で、佐侯とも称す。幕府の御先手組同心馬場兵右衛門の子として江戸に生まれたが、母方の祖父吉田長肅の養子となり医者を志す。幕府医官土岐長元に学んだのち、桂川甫周(國瑞)について蘭方医学を学ぶ。また、蘭方医宇田川玄真の義弟として内弟子以上の待遇で懇切な指導を受けた。文化七(一八一〇)年、宇田川玄真の推挙により藤井方亭と共に加賀藩の江戸住医師となる。 当時の蘭方医学はもっぱら外科が中心であったが、長淑は蘭方内科を専門とした。享和年間(一八〇一~〇四)には江戸日本橋にわが国で初めて蘭方内科を標榜した医院を開業した。翻訳書にはレメリーの薬物辞典の翻訳『和蘭藥撰』三卷、その増補『遠西樂圃綱目』十七卷、『蘭藥鏡原』五十卷(草部三卷のみ一八二〇年刊)、ブカンの『蒲剛製劑篇』、ハックサムの内科書『泰西熱病論』六卷付録一卷(一八一四)がある。蘭馨堂門下には高野長英(長英の名は長淑から与えられたもの)、足立長雋、湊長安、吉田正恭をはじめ百数十人の名が知られる。∧参考文献∨平野満「蘭方医・吉田長淑年譜考」(『明治大学大学院紀要』十五集)、同「古方から蘭方へ」(『駿台史学』四十五号) (『朝日日本歴史人物事典』平野満)。 ○泰西熱病論‥玉凾夫古撒謨(ヨハン・ヒーサム)著。吉田成德訳。 四オモテ ○時ナル‥時節が到来する。 ○初夜‥戌の刻。今の午後八時ごろ。また、今の午後七時ごろから午後九時ごろまで。初更。/一昼夜を六分した「六時」の一つ。夜を初・中・後に三分した最初の時間で、だいたい午後六時から午後九時までに当たる。 ○中夜‥一夜を三分した真ん中の時間。亥の刻から丑の刻(=午後九時ごろ~午前三時ごろ)までの間。 ○束脩‥入門するとき師にさしあげる進物や礼金。 四ウラ ○病膏肓‥病気が重くなって治る見込みがなくなる。 ○爵躍‥「爵」は「雀」に通ず。雀が跳躍するがごとく欣喜のきわみ。 ○膝ノ進む‥すわったまま相手に近寄る。話に乗り気になるさま。思わず身を乗り出す。 ○知ラズ‥~に対して自覚がない。 ○活潑‥活発。動作が生き生きしているさま。元気で勢いがよい。 五オモテ ○鬼籍‥死者の氏名・戒名・死亡年月日などを書きつける帳面。過去帳。 ○骨ニ肉スル‥骨に筋肉が再生する。深い恩を受けるさま。『左傳』襄公二十二年「吾見申叔夫子、所謂生死而肉骨也」。杜預注「已死復生、白骨更肉」。 ○主意‥中心となる重要な意味。主眼。 ○竒‥ふしぎなこと。珍しいこと。 ○濟世‥世の人を救う。 ○孟春‥陰暦正月。


刺絡聞見録(伊藤大助序)

余弱冠ヨリ医学ニ志シ、初め李朱ノ説ヲ尊信セシガ、後ち東洞先生ノ著書ヲ朋友ノ許(もと)ニ見テ、仲景氏ノ方法ノ精妙ナルことヲ知リ、専らコレヲ尊奉シ、晋唐以來ノ諸大家ノ家言ヲ眄睨シ、千載ノ卓見トセリ。

 【意訳】わたくしは,二十歳のころから医学を志望し,最初は李東垣・朱震亨(など金元四大家に基づく後世派)の説を信奉していたが,のちの吉益東洞先生の著書を友人のところで見て,張仲景先生の治療法の素晴らしいことを知って,(それ以来)もっぱら張仲景を信奉し,晋・唐以降の諸大家の見解を横目で見て,仲景の説を千年来の優れた見解だと思った。

其の後亦た平安ニ至リ、其の嗣タル南涯先生ニ師事シテ傷寒論金匱要略ノ講説ヲ聞く。

 【意訳】その後,京都に行って,東洞先生の跡継ぎである吉益南涯先生に師事して,『傷寒論』や『金匱要略』の講義を聞いた。

始めハ思フ、古先生ノ旨ニ戻(もと)リ、氣血水ノ三統ヲ以テ、此れヲ辨別スルハイカント。

 【意訳】最初は,東洞先生の趣旨に反して,気・血・水という三系統によって病を区別するのは,いかがなものか,と思った。

日ヲ經(へ)月ヲ累(かさ)ヌルニ從っテ、先生ノ意味ノ寓スル所ヲ知リ、此の説ヲ篤ク信ゼリ。

 【意訳】それから時を重ねて,南涯先生が言っていた意味の所在を知って,この説を非常に信じるようになった。

篤ク信ズルこと數年ナリシガ、一日一大疑案ヲ生じタリ。

 【意訳】非常に信じるようになってから数年たったある日,大きな疑問が生じた。

イカント云フニ、凡そ仲景氏ノ傷寒論ハ論ナルべシ。

 【意訳】どういうことかと言うと,張仲景先生の『傷寒論』はすべて論であるはずである。

論ナラバ論ヲ以テ主トスベキニ、今ま其の撰次ノ書ヲ歴觀スレバ、類聚ヲ以て主トスルモノナリ。

 【意訳】論であるならば論を主体とすべきであるのに,現在,その著わされた書籍を渉猟してみれば,証ごとに集めたものが主体となっている。

然ルヲ、イカンシテ論ト云ふモノヲ以テ講説スルことヲ得ンヤト疑フ。

 【意訳】それなのに,どうして論というものを講義することができようかと,疑った。

コレヨリ其の疑フ所ニ意ヲ留メテ、其の遺訓ヲ讀むニ、ナルホド其の一章ノ體ハ論ナリ。

 【意訳】それから,この疑問点に意識を集中して,その遺された教えを読んでみると,確かにその章立ては論である。

論ヲ以テ主トナシタル證據ハ、晋唐以來ノ医書トヒト(等)シカラズ。

 【意訳】論を主体とした証拠は,晋・唐以降の医学書とは異なる。

三隂三陽ノ病名ヲ建て而(て)、其の陽病云云ノ證ハ何湯主之、云云ノ證ハ何湯ニ宜しト云ひ、或いは與ふト云ひテ、證ヲ先ニシ方ヲ後ニス。

 【意訳】三陰三陽の病名を立てた上で,その陽病……の証は何々湯,これをつかさどる,……の証は何々湯が良い,といい,あるいは与えると言って,証を先に出して処方を後に掲載している。

其の先ニスルノ證ニ他ト混ズルヲ別ツアリ。

 【意訳】その先に挙げられた証には,他の証とは混同しないような区別が設けられている。

其の別ツ所ニ目ヲ注いデ、造次顛沛ニモコレヲ思ふ。

 【意訳】その区別に注目して,わずかな隙間時間もこのことを考えつづけた。

コレヲ思ふこと數年ナリ。

 【意訳】このことを考えつづけて,数年がたった。

數年ニシテ其の書、體ハモト論ニシテ、類聚ハ王叔和ガ自己ニ出づルことヲ知リ、斷然トシテ云ふ、作者ノ意味ハ論ニアツテ、類聚ニアラズト。

 【意訳】数年たって,『傷寒論』という書物は,その本来の形体が論であって,類聚という形式が王叔和自身がおこなったことを知った。断言できるのは,作者の意図は論にあって,類聚にはない,ということである。

コレヨリ王叔和ノ撰次ニヨルことヲ止メ、論ヲ主トシテ證ヲ其の混ズル所ニ集メ、コレヲ別ツノ撰次ヲナス。

 【意訳】これから王叔和が編次した『傷寒論』に基づくことをやめ,論を主体として証をその混じっているところに集めて整理し,新たに独自の編集をおこなった。

其の撰次ヤ十余年ノ星霜ヲ經(へ)テ、漸クナルナリテ、其の意ヲ註解シ、コレヲ獨斷ト名づけ、先づ其の正文ナルモノヲ世ニ公けニセントス。

 【意訳】その編集に十年あまりの歳月を費やし,ようやく形が整った。その意図するところを注解して,これを独断と名付けて,まずその(張仲景の)正文としたものを世間に公表しようとした。

其の詳らかナルハ、傷寒論或問ニ辨論ス。

 【意訳】その詳細については,『傷寒論或問』で論じている。

故ニ爰(ここ)ニ贅セズ。

 【意訳】そのため,ここでは繰り返さない。

實ニ仲景氏ノ遺訓ヲ讀みテ其の意味ヲ知ルことヲ得バ、信(まこと)ニ我ガ精氣ノ極ノ然ラシムル所ト、其の身モコレヲ自負シ、其のスル所ハ東洞先生ノ主トスル所ヲ主トシ、其の講説スル所ハ其の排スル所ヲ排セズ。

 【意訳】実際に張仲景先生が遺した教えを読んで,その意味を知ることができて,まさに自分の精力を注ぎ尽くした結果であると,我が身であっても自負した。その内容は,東洞先生が主体と判断したものを主体とするが,その講義で張仲景の説ではないと排除したところは排除していない。

東漢ニ溯洄シ、仲景氏ノ主トスル所ヲ主トス。

 【意訳】後漢時代にさかのぼり,張仲景が主張したものを主体とする。

是れ平生、其の志行ノ所ヲ云ふノミ。

 【意訳】以上は,わたくしが平生から抱いていた志とそれに基づいた行動について述べたものである。

其の志行ヲナス中ニ、ヒトリ湯液ノ及バザル所ヲ輔翼スルモノアリ。

 【意訳】その志しておこなう中で,湯液だけでは達成できないことの助けとなるものがあった。

世ニ云ふ刺絡ノ術ナリ。

 【意訳】世間で言う刺絡の術がこれである。

其の術ハ瘀濁ノ惡血ヲトルト云ふモノニシテ、其の事ヲ平安ノ荻台州ガ著セシ刺絡篇ニテ知リ、郭右陶ノ痧脹玉衡ヲ求メテ讀むニ、萬病ニ痧アルことヲ覚(さと)ル。

 【意訳】その術は,滞り濁った悪い血を取るというもので,このことを京都の荻野台州(元凱)が著わした『刺絡編』で知り,郭右陶(志邃)の『痧脹玉衡』を手に入れて読むと,あらゆる病には痧というものがあることに気づいた。

其の後、高陽朴ノ医談、中神右内ノ医談雜記ヲ得テ、其の事マタ詳らかニナレリ。

 【意訳】その後,高階陽朴の『医談』,中神右内(琴渓)の『医談雑記』を入手して,それについてまた詳細がわかった。

然レドモ常ニ見ザルノ血ヲ見ルノ術タル故ニ、病家モ好マズ、又た己モ人ノ好まザル所ヲ施すニ心ナシ。

 【意訳】しかしながら,刺絡はふだんは目にすることがない出血させる術であるために,病人も好まず,また自分としてもひとが好まないことをする気になれなかった。

其の施すニ心ナキハ、其の事ニナレザルニ起こル。

 【意訳】する気にならないのは,そのことに慣れていないことに起因する。

ナレザル刺絡ハモトヨリ論ナシ。

 【意訳】慣れていない刺絡など,もとより論外である。

平日トリ(取)アツカ(扱)ウ湯藥サヘ、下劑ノツヨ(強)キハ人ノ惡ム所ナリ。

 【意訳】普段取り扱っている飲み薬でさえ,強い下剤は人々が嫌うものである。

然レドモ強ひテコレヲナス。

 【意訳】それでも(必要なときは)無理やりでも投与する。

吐劑ニ至っテハ、順ニ下降スべキ飮食ヲ、逆ニ吐出セシムル故ニ、病家ハモトヨリ医モ亦たコレヲ與へズ。

 【意訳】まして吐剤となると,本来はのどから胃腸へ順に下っていく飲食物を逆に吐き出させるのであるから,患者はもとより医者もこれを投与しようとしない。

越前ノ奥村良筑ノ如キハ、医中ノ豪傑ナリ。

 【意訳】越前の奥村良筑のような人は,医者の中の豪傑である。

超然トシテ人ノ忌み好まザルことヲナス。

 【意訳】人々の忌み嫌うことを悠々とやってのける。

故ニ人モコレニ目ヲ注ぎ、其の國ニ至リ、其の治ヲ学ぶ。

 【意訳】そのため人々も注目して,わざわざ越前まで行って,その治療法を学ぶのである。

其のコレヲ学ぶモノ多キ中ニ、獨嘯庵ガ吐方考、荻台州ノ吐法編アルハ、先づ其の意味ヲヨク得タル人トモ謂ふベシ。

 【意訳】この治療法を学ぶ人が多い中で,永富独嘯庵の『吐法考』と荻野元凱の『吐法編』があるが,この二人はこの治療法の本質的な意味をよく理解した人であるとも言えよう。

其の書ヲ得テ讀むモノハ、其の理ヲ知ルノミニシテ、其の事ニナレザルニヨリテ恐怖スル所アリ。

 【意訳】かれらの書物を手に入れて読んだ人は,その理屈を知るだけで,実際の治療には不慣れなので恐怖心を抱いてしまう。

又た其の術ヲ受くル人ハ、無知ノ俗ナレバ、世ニ異ナル治ヲナスト稱ス医、其の事ニナレザル恐怖スルノ藥ヲ與へレバ、飮食ヲ吐出シテ悶亂シ、手足厥シ冷汗出で、コレニヨリテ病家ハ毒ヲ與ふルガ如ク周章シ、或ひハ死ニ至らンカト問ふ。

 【意訳】またその施術を受ける患者は,無知な一般人である。世間とは異なる治療法をするという医者が,本人も習熟しておらず,恐ろしいと思っている薬を与えたならば,飲食物を吐き出して悶え苦しみ,手足が冷えて汗が噴き出し,このため患者は毒を盛られたかのように慌てふためき,死んでしまうのではないか,と詰問する。

コレニヨリテ医モイヨイヨ恐怖シテ與ふルことヲ欲セズ。

 【意訳】こうなると医者もますます恐怖心を募らせて,吐剤を投与したくなくなる。

與ふルことヲ欲セザルハ、コレ他ナシ、唯だ其の書ヲ讀んデ其の理ヲ知リ、其の事ニナレ(慣)ザルニヨレリ。

 【意訳】投与したくなくなるのは,ほかでもない,ただその書物を読んだだけで,理屈は知っていても,実際の治療に習熟していないからなのである。

獨嘯庵・台州ノ如キハ、親しク其の國ニ至リ、其の人ニ從事シテ、其の事ニ屢しばナレタルナリ。

 【意訳】永富独嘯庵や荻野元凱のような人物は,みずからその国,越後に赴き,当人に師事して実際に何度も施術して習熟したのである。

故ニ苦労スル形狀ヲモ知リ、疾病ノ治セシことモ見聞セシ故ニ、恐怖ノ心ナク施セシナラン。

 【意訳】そのため患者が苦しむさまも熟知し,病気が治ることも見聞したので,恐怖心を抱かずに治療を施すことができたのであろう。

又た奥村ハモトヨリ專門タレバ、其の許(もと)ニ至ル病人、吐ハクル(苦)シキト云ふことヲ會得シテカヽリ、又た吐ニヨリテ疾病ノ治スルヲ見聞シテ至ル故ニ、果然トシテ志定まルモノナリ。

 【意訳】また奥村良筑は元々吐法を専門にしていたので,彼のところにやってくる病人は,吐いて苦しむということを承知の上で治療を受けに来たし,また吐くことによって病気が治ることを見聞きして来たので,覚悟がはっきりと定まっているのである。

又た其の門ニテハ平生ノ作業タル故ニ、病人ヲ見ルト治ヲ施サルニ治スルト思惟シテ、恐怖ノ心ナク、藥ノ分量ヲ定メテ與フ。

 【意訳】また奥村の門下では,普段の仕事なので,病人を見て治療を施せば治ると思っているので,恐怖心を抱かず,薬の分量を決めて与えているのである。

コレ他ナシ、ナレルトナレザルトノ二つノミ。

 【意訳】これは,ほかでもない。慣れているか慣れていないかの二つの違いにすぎない。

總(す)べテ百事ハナレルトナレザルニヨリテ、霄壤ナリ。

 【意訳】総じて何ごとにおいても,慣れているか慣れていないかによって,天と地ほどの差が生じるのだ。

余、前ニ舉ぐル如キ刺絡ノ書ヲ讀むトモ、其の事ニナレザルニヨリテ、其の理ハ知レドモ、親しク見聞スルことナキ故、心ニ恐怖スル所アリ。

 【意訳】わたくしは,先に挙げたような刺絡の書籍を読んでも,その実際の施術になれていないので,その理屈はわかっても,直接現場を見聞したことがなかったので,恐怖心があったのだ。

恐怖スル所アルモノハ、其の事ニナレザルニヨレリ。

 【意訳】恐怖心があるのは,そのことに習熟していないことが原因である。

ナレザル故ニ、其の事ヲナサズ。

 【意訳】慣れないから,そのことをしない。

空しク年月ヲ經タリ。

 【意訳】(そうして)無駄に年月を過ごしてきた。

去年六月、中神右内、江戸ニ出で脚氣ヲ刺絡シ、足舉げガタク沈重スルモノモ、即時ニカル(軽)カラシムルナドアリト傳聞ス。

 【意訳】昨年の六月に中神琴渓が江戸に出てきて,脚気に対して刺絡をおこなったところ,足が挙がらず重篤だったひとも,すぐに軽くなった,などという話を聞いた。

秋ニ至リ、山脇家法ヲ得テ讀むニ、刺絡ノことヲ詳らかニス。

 【意訳】秋になって,山脇家の医書を手に入れて読むと,刺絡について詳細に記されていた。

冬ニ至リ、數年患ふル所ノ痔漏ヲ治セント、江戸ニ来たリ、京橋因幡町、畑中分中子ニ治ヲ請ふ。

 【意訳】冬になって,数年患っていた痔漏を治療しようと,江戸に来て,京橋因幡町の畑中分中子に治療を頼んだ。

其の間、加賀医官吉田長俶子ノ著セル泰西熱病論ヲ見ルニ、熱病ニモ刺絡シ、痘瘡ニモ刺絡スルことヲ載ス。

 【意訳】その間に,加賀藩医の吉田長俶子が著わした『泰西熱病論』を読んでみると,熱病にも刺絡をおこない,痘瘡にも刺絡をおこなうことが記載されていた。

余始めハ思ふ、山脇・中神ノ兩家ヲ訪ね、其の術ヲ学ばント志し、又た吉田氏ノ著書ヲ見テ、其の人ニ学ばントス。

 【意訳】わたくしは,はじめ,山脇・中神の両家を訪ねて,その術を学ぼうと志し,また吉田氏の著書を読んで,吉田氏に学ぼうと考えた。

時ナルカナ、小網町三丁目、加田屋長右衞門ニ寓居シテ在りシガ、總州銚子ノ人、羽戸七右衞門、余ガ医学ヲ好むことヲ聞き、其の身刺絡シテ危急ヲ救ひタルこと、其の他竒効ヲ奏セシヨシヲカタ(語)ル。

 【意訳】まさにその時がきたのだ。わたくしは小網町三丁目の加田屋長右衛門の家に仮住まいをしていたが,総州銚子の羽戸七右衛門という人が,わたくしが医学に関心があることを聞きつけて,みずから刺絡をして危険な状態を救ったこと,そのほか,奇跡的な効果を奏したことを語ってくれた。

  ○『論語』郷党:「時哉時哉」。

初夜ヨリ中夜ニ及ぶ故ニ、其の術ヲ何所(いづく)ニ受けシヤト問はバ、三輪東朔ト云ふ人ニ学ぶト云ふ。

 【意訳】話が夕方から夜半までおよんで,その刺絡術をどこで習ったのかと尋ねたところ,三輪東朔という人から学んだという。

余、其の人ノ住居ヲ問はバ、云ふ、先ニ銚子ニ在り、今ま淺草ニ寓スト云ふ。

 【意訳】わたくしは,その人の住居を尋ねると,「以前は銚子に住んでいたが,今は浅草に仮住まいしている」と答えた。

我れ手ヲ拍(う)っテ曰く、數年学ばント欲スルノ術、イマダ其の人ニア(会)ハズシテ、空しク年月ヲ經タリ。

 【意訳】わたくしは,嬉しさのあまり手を打って,次のように言った。数年学びたいと思っていた治療法ですが,今までしかるべき人に会えず,無駄に年月を過ごしてきました。

又た他ト異ナル説ヲ建て、湯藥主トセズ、刺絡主トスルト云ふノ人ニ逢ふことヲ得ルオヤ。

 【意訳】また他の医者と異なる説を立てて,湯薬を主体とせず,刺絡を主体とするという人に巡り会うことができるとは。

實ニ天、我ニ幸ひヲ得セシムルノ時ナリ。

 【意訳】これはまさに天がわたくしに幸運を与えてくださった時なのだ。

時ヲバ失ふベカラズト、其の居ヲ訪ね、姓名ヲ通シ、門ニ入らント請フ。

 【意訳】決してこの機会を逃してはならないと,その住まいを訪ね,自分の姓名を名乗って,入門したいと願い出た。

先生コレヲ許ス。

 【意訳】先生は入門を許してくださった。

故ニ束脩シテ、其の門ニ入リ、其の大體ヲ聞くニ、古人未發ノ説ニして先哲未言ノ所ヲ述べテ、我ニ聞かシム。

 【意訳】そこで入門の謝礼をしてその門下に入りし,そのあらましを聞いたところ,古の人が明らかにしていない説や,先賢が述べなかった内容を聞かせてくれた。

我コレヲ聞き、歎ジテ曰く、仲景氏ハ医聖ナリ。

 【意訳】わたくしはそれを聞いて感嘆して言った。「張仲景先生は,医学の聖人である。

其の医聖ノ方法ヲ用ゐテモ應ゼザルアリ。

 【意訳】(しかし)その医学の聖人の治療法を用いても,対応しきれない病がある。

其の應ゼザルヲ應ゼシメントスルニハ、刺絡ノ術輔翼スルニアラザレバ、病、膏肓ニアルモノニ應ズルことアタハズト。

 【意訳】その治療効果が現われない病を治そうとするには,刺絡術の助けがないと,病が手の施しようのない深部にあるのだから,対応することができない」と。

爵躍シ、膝ノ進むことヲ知ラズ。

 【意訳】欣喜雀躍して,思わず身を乗り出してしまった。

又た其のスル所ヲ見レバ、瘀濁ノ惡血ヲサ(去)リ、澁滯ノ血ヲして運動活潑ノ用ヲナサシムルノ術タリ。

 【意訳】またその実際の施術を見ると,とどこおり濁った悪い血を取り除き,とどこおって流れが悪くなった血を活発にめぐらせる術であった。

余コレニヨリ、其の會得スル所ト、先生ノ論辨シ玉フ所トヲ記シテ二卷トシ、刺絡聞見録ト号シ、其の事ヲ詳審ニシ、其の經驗ヲモ併せ舉グ。

 【意訳】わたくしは,この体験から自分が会得したことと,先生が論じて説明していただいた内容を書き留めて二巻の書物として,『刺絡見聞録』と名付けた。その内容を詳細に記述し,その治験例についてもあわせて記載した。

コレ其の事ヲ親しク聞見セザルモノモ、恐怖ノ心ナク其の術ヲ施スベキ爲ニナス。

 【意訳】これは,刺絡を実際に見聞したことがない人であっても,恐怖心を抱かずに,刺絡術を施せるようにするためである。

實ニ此の術ハ、湯液ノ及ばザルヲ輔翼スルモノニシテ、医タルモノ知ラズンバアルベカラザルモノナリ。

 【意訳】まことにこの術は,湯液では達することができない病について補完するものであり,医者であるならば,知らなければならない必須の治療法である。

若し亦た事ヲ解スベキ病家アラバ、此の書ヲ讀まシメトキ(説)キカ(聞)サシメバ、血ヲ見ルトモ忌み嫌ふベキことモナク、恐怖ノ心モ生ゼザラシメン。

 【意訳】もしまたこの事情を理解すべき患者がいるならば,本書を読ませ,あるいは説明すれば,血を見てもひどく嫌がることもなく,恐怖心も生まれないだろう。

若し然らバ起きガタキ沈痾痼疾ハ勿論、鬼籍ニ載らントスルノ危急促迫ノモノモ平快ニ至らン。

 【意訳】もしそうなれば,起き上がれないような長患いの人はもちろん,臨終寸前の切迫した患者も快癒することになろう。

然れバ余ガ医学ヲ好スル志モ世ニ顕レ、先生ノ説モ廣ク四方ニ流布シ、海内ニ先生アルことヲ知らシメ、其の志、萬民ヲして骨ニ肉スルノ幸ひアラシメントスルノ主意モ達センナリ。

 【意訳】そうすれば,わたくしが医学を好む志も世に知られるようになり,先生の説も広く四方に伝わり,天下に先生のような優秀な人材があることを知らせることができる。先生の志である,すべての人々を骨と皮ばかりになった痩せ衰えたからだから肉のついたふくよかなからだにする幸せをもたらそうとする主旨も達せられよう。

故ニ事ヲ竒ニセズ、術ヲ隠サズ、唯だ濟世ヲ主トシ、如此(かくのごとく)其の本末ヲ序スルト云爾(しかいふ)

 【意訳】そのため,奇をてらったり,術を隠し立てせず,ただ世の人々を救済することを第一の目的として,このようにその経緯を述べて序とする。

文化十四年丁丑孟春  信濃 伊藤大助謹述

 【意訳】文化十四年(1817年)ひのとうしの正月 信濃の伊藤大助 つつしんで述べる