2013年12月31日火曜日

素問箚記序

素問箚記序
注素問之家梁有全元起訓解唐有楊上善太素而
迨宋嘉祐閣臣校正此書則顓以王注為定本全楊
二家(書)遂廢是以金元而還諸家惟得見王本故注此
經者皆據王氏若甲乙脈經等文字間有同異然此
亦經宋人校訂者未可據以為引徵△
・欄上追加文:
「吾邦和氣氏奕世所傳真本千金方僅存序例一卷
未經宋人校訂者而其文與今本大異是以知甲乙脈
經已非二(皇)王之舊而元明人所刻則又非宋校之舊矣」
             △葢王氏於素問
究畢世之力故其訓義精暢該備殆非全楊二家可
及此乃宋臣之所以表章而傳于世歟近時我
國得仁和寺所藏古本楊氏太素三十卷其間雖有
  ウラ
遺缺(軼)而冠冕巋然(尚存十之七八)不如宋校正之僅可闖一斑也況其
書實係鈔李唐之舊帙者未經宋人校訂則王氏朱
墨亦或粲然足以識舊經面目矣寛嘗攻此經一以
王氏為本旁較楊註且就諸書毎有所攷記之餘紙
積久頗多釐為一書題曰素問剳記曩歳劉桂山先
生著素問識茝庭先生繼有紹識之作於元明諸家
及楊註并清人訓詁諸説輯羅宏富採掇菁英無復
餘蘊故愚此編二書所已載亦削藳(不録)或得同人啓示
必舉其姓氏葢郭象何法盛之事深愧之也嗚虖直
  2オモテ
寛管窺蠡測何曾有闡發唯一得之愚姑記所見以
就正有道若天幸假年白首講經亦將有潤削矣
嘉永四年辛亥孟春人日喜多村直寛士栗篹

  【訓讀】
素問箚記序
素問に注するの家、梁に全元起訓解有り、唐に楊上善太素有り。而して
宋の嘉祐に迨(およ)んで閣臣、此の書を校正するに、則ち顓(もつぱ)ら王注を以て定本と為し、全·楊
の二書、遂に廢す。是(ここ)を以て金元而還の諸家、惟だ王本を見るを得るのみ。故に此の
經に注する者は、皆な王氏に據る。甲乙·脈經等の若きは、文字間ま同異有り。然れども此れも
亦た宋人の校訂を經る者にして、未だ據りて以て引徵を為す可からず。△
・欄上追加文:
「吾が邦の和氣氏奕世傳うる所の真本千金方、僅かに序例一卷を存するのみなれども、
未だ宋人の校訂を經ざる者にして、而して其の文、今本と大いに異なる。是(ここ)を以て知る、甲乙·
脈經、已に皇·王の舊に非ざるを。而して元·明人の刻する所は、則ち又た宋校の舊に非ず。」
             △蓋し王氏、素問に於いて
畢世の力を究む。故に其の訓義、精暢該備して、殆ど全·楊二家の
及ぶ可きに非ず。此れ乃ち宋臣の表章して、而して世に傳うる所以か。近時、我が
國、仁和寺藏する所の古本楊氏太素三十卷を得たり。其の間、
  ウラ
遺缺(軼)有ると雖も、而して冠冕巋然たり(尚お十の七八を存す)。宋校正の僅かに一斑を闖す可きに如かざるなり。況んや其の
書、實に李唐の舊帙を鈔する者に係り、未だ宋人の校訂を經ざるをや。則ち王氏が朱
墨も亦た或いは粲然として、以て舊經の面目を識(し)るに足らん。寛、嘗て此の經を攻(おさ)め、一に
王氏を以て本と為し、旁(かたわ)ら楊註と較べ、且つ諸書に就きて、攷うる所有る毎に、之を餘紙に記し、
積久すること頗る多く、釐(おさ)めて一書と為す。題して素問剳記と曰う。曩歳、劉桂山先
生、素問識を著し、茝庭先生繼ぎて紹識の作有り。元·明の諸家
及び楊註、并(なら)びに清人の訓詁の諸説、輯羅すること宏富にして、菁英を採掇するに於いて、復た
餘蘊無し。故に愚が此の編、二書の已に載する所も、亦た削藳し(録せず)、或いは同人の啓示を得れば、
必ず其の姓氏を舉ぐ。蓋し郭象·何法盛の事は、深く之を愧づるなり。嗚虖(ああ)、直
  2オモテ
寛、管窺蠡測にして、何ぞ曾ち闡發有らん。唯だ一得の愚、姑く見る所を記し、以て
有道に就正し、若し天幸いにして年を假し、白首にして經を講ずれば、亦た將に潤削有らんとす。
嘉永四年辛亥孟春人日、喜多村直寛士栗篹す

  【注釋】
○箚記:「札記」に同じ。読書時に要点などをメモすること。「箚」は「札」に同じ。 ○嘉祐:宋仁宗の年号(1056~1063)。 ○閣臣:大学士の別称。入閣して職務をつかさどるため。嘉祐二年に宋は校正医書局を設立し、林億らが『素問』等の校正にたずさわった。 ○顓:「專」の異体。 ○家(書):「家」字に「書」と傍記す。 ○金:1115~1234。 ○元:1279~1368。 ○而還:以来。 ○引徵:「徵引」に同じ。文献から証拠として引用する。 ○奕世:累代。代代。 ○真本千金方:現在、宮内庁書陵部図書寮文庫所蔵。『経籍訪古志』醫部「千金方第一 一卷 舊鈔本 聿修堂藏/首行題千金方第一并序、下記處士孫思邈撰、序後一卷子目、及本文倶接書、卷末有和氣嗣成奕世以下題/跋/……其體式文字與宋人校本不同、而與醫心方所引合、即古時遣唐之使所齎歸者、恨所存僅一卷……」。「真本千金方」と呼称される。詳しくはオリエント出版社東洋医学善本叢書15「千金方研究資料集」所収の小曽戸洋先生の「『千金方』書誌概説」を参照。 ○二王:「二」字の傍記は判読しがたいが、おそらく「皇」であろう。『鍼灸甲乙経』の撰者である皇甫謐と『脈経』の撰者である王叔和。 ○元明人所刻則又非宋校之舊:特に明人は、程衍道本『外台秘要方』に見られるように、自分の理解できない部分をときに意のままに改めたといわれる。 ○葢:「蓋」の異体。 ○畢世:畢生。終生。一生。 ○訓義:文義(文章の意味)の解釈。 ○精暢:くわしく通りがよい。 ○該備:完備している。 ○表章:「表彰」に同じ。顕揚する。 ○仁和寺:真言宗御室派総本山。京都府京都市右京区御室にある。仁和四年開創。『黄帝内経太素』のほかに、『新修本草』など多くの国宝を所蔵する。 
  ウラ
○遺缺(軼):「缺」字に○がつき、右傍に「軼」字がある。原書を確認する必要があるが、「缺」字を残したか。「軼」は散失の意。「遺」は亡失の意。 ○冠冕:荘厳なさま。高い位置にあるさま。 ○巋然:高く単独で屹立したさま。/「冠冕巋然」四字の左側にそれぞれ「(」左丸括弧があり、右傍に「尚存十之七八」とある。 ○僅可:只可。只能。 ○闖一斑:宋 史彌寧『維則庵追涼題月湖屏間詩後』:「淋淳醉墨灑屏間、逃暑祇園闖一斑。小阮詩懷飽丘壑、可無只句餉江山」。/闖:出す。 ○鈔:書写する。「抄」に同じ。 ○李唐:唐代の皇室の姓が李であるため、唐朝を「李唐」という。 ○帙:書画がいたまないように保護するもの。引伸して書籍。 ○王氏朱墨:『素問』王冰序:「凡所加字、皆朱書其文、使今古必分、字不雜糅」。 ○面目:容貌。 ○寛:喜多村直寛。 ○攻:研鑽する。研究する。 ○一:もっぱら。 ○旁:「傍」に通ず。 ○攷:「考」の異体。 ○積久:長く積み重なる。長い時間の累積。趙翼『廿二史劄記』小引:「有所得、輒劄記別紙、積久遂多」。 ○釐:整理する。 ○曩歳:旧年。過去の年。 ○劉桂山先生:多紀元簡。 ○素問識:文化三(1806)年自序。没後の天保八(1837)年刊。 ○茝庭先生:多紀元堅。 ○紹識:『素問紹識』。弘化三(1846)年自序。 ○元:1279~1368年。 ○明:1368~1644年。 ○清:1644~1911年。 ○輯羅:蒐集網羅。あつめとらえる。 ○宏富:豊富。ゆたか。 ○採掇:拾い取る。選び取る。捜し集める。 ○菁英:精英。精華。最も傑出した優秀なもの。 ○餘蘊:不足の部分。余すところ。 ○愚:自称。謙遜語。 ○削藳:「削藳」の左側に「(」左丸括弧あり、右側に「不録」とある。/削藳:「削稿」に同じ。草稿を削ってなくす。草稿を廃棄する。 ○同人啓示必舉其姓氏:喜多村直寛は『黄帝黄帝内経素問講義』の跋において、『素問識』が日本人(芳邨恂益、稻葉良仙、目黒道琢)の注をたくさん掲載しながら、まったくそのことについての言及がないことを述べている。 ○葢:「蓋」の異体。 ○郭象何法盛之事深愧之也:錢大昕『廿二史考異』序:「偶有所得,寫於别紙。丁亥歲、乞似假歸里、稍編次之。歲有增益、卷帙滋多。……閒與前人闇合者、削而去之。或得於同學啟示、亦必標其姓名。郭象·何法盛之事、葢㴱(=深)恥之也」。/顧炎武『日知錄集釋』卷十八 竊書:「晉以下人則有以他人之書而竊為己作、郭象莊子注、何法盛晉中興書之類是也。若有明一代之人、其所著書無非竊盜而已」。王應麟『困學紀聞』卷十:「向秀注莊子、而郭象竊之。郗紹作晉中興書、而何法盛竊之。二事相類」。/『世説新語』文學第四:「初、注莊子者數十家、莫能究其旨要。向秀於舊注外為解義、妙析奇致、大暢玄風。唯秋水、至樂二篇未竟而秀卒。秀子幼、義遂零落、然猶有別本。郭象者、為人薄行、有儁才。見秀義不傳於世、遂竊以為己注。乃自注秋水、至樂二篇、又易馬蹄一篇、其餘眾篇、或定點文句而已。後秀義別本出、故今有向、郭二莊、其義一也(初め、『莊子』に注する者數十家あるも、能く其の旨要を究むるもの莫し。向秀、舊注の外に解義を為し、奇致を妙析して、大いに玄風を暢ぶ。唯だ秋水·至樂の二篇のみ未だ竟(お)えずして、而して秀卒す。秀の子幼くして、義、遂に零落す。然れども猶お別本有り。郭象なる者、為人(ひととなり)薄行なるも、儁才有り。秀の義、世に傳わざらるを見て、遂に竊かに以て己の注と為す。乃ち自ら秋水·至樂の二篇に注し、又た馬蹄一篇を易え、其の餘の眾篇、或いは文句を定點するのみ。後に秀の義の別本出づ。故に今に向と郭の二『莊』有るも、其の義一なり)。」/『南史』卷三十三 列傳第二十三/郗紹:「時有高平郗紹亦作晉中興書、數以示何法盛。法盛有意圖之、謂紹曰:「卿名位貴達、不復俟此延譽。我寒士、無聞於時、如袁宏、干寶之徒、賴有著述、流聲於後。宜以為惠。」紹不與。至書成、在齋內厨中、法盛詣紹、紹不在、直入竊書。紹還失之、無復兼本、於是遂行何書」。/山田業広『九折堂読書記』の中の『千金方札記(読書記)』についての喜多村直寛 明治六年序:「〔山田〕子勤嘗學於伊澤蘭軒先生、葢傚清人攷證之學、以移為醫家讀書之法者、自謂郭象·何法盛之事深耻之」。 ○嗚虖:「嗚呼」に同じ。
  2オモテ
○管窺蠡測:管を用いて天を窺い、蠡(ひさご)を以て海を測る。見る範囲の狭いこと、見識のあさいことの比喩。 ○何曾:反語。どうして。 ○闡發:あきらかにすること。闡明し発揮する。 ○一得之愚:愚者一得。愚か者でも、たまに名案を出すことがある。自己の見解をのべる際の謙遜のことば。 ○就正有道:『論語』學而:「就有道而正焉、可謂好學也已(有道に就きて正す、學を好むと謂う可きなり)」。人に教えを請い、正すことを求む。「有道」は、高い学問道徳を身につけたひと。 ○假年:寿命をのばす。年を貸し与える。 ○白首:頭髪が白くなる。老年になる。 ○潤削:文章を潤色したり、削除したりする。 ○嘉永四年辛亥:1851年。 ○孟春:陰暦の一月。 ○人日:正月初七日。 ○喜多村直寛士栗:『黄帝内経素問講義』序の注を参照。 ○篹:「撰」と同じ。著述。


  【識語】
此三笧栲囱先生之所自書草稿
原本也不可不最珎藏矣先生一旦廢
毉事而隱于俳家當是時雖箚
記抄録一小冊子悉皆沽却其為人
卓然清越不蒙世塵所汙可知耳
此際先生手澤書入我架中者亦
爲不尠皆是先生之心血膽汁也子
孫勿忽〃看過去云 枳園森立之

  【訓讀】
此の三册、栲窗先生の自ら書する所の草稿
原本なり。最も珍藏せざる可からず。先生、一旦
毉事を廢して俳家に隱る。是の時に當って、箚
記抄録の一小冊子と雖も、悉く皆な沽却す。其の為人(ひととなり)
卓然として清越し、世塵の汙(けが)す所を蒙らざること、知る可きのみ。
此の際、先生手澤の書、我が架中に入る者も亦た
尠からずと為す(/為に尠からず)。皆な是れ先生の心血膽汁なり。子
孫、忽忽として看過ごし去ること勿れと云う。 枳園森立之

  【注釋】
○此三笧:『素問箚記』、三巻、三冊。「笧」は「册」の異体。 ○栲囱先生:喜多村直寛。号は「栲窓」。「囱」は、「囪」の異体で、「窗」に同じ。「窗」は「窓」の異体。 ○珎:「珍」の異体。 ○毉:「醫」の異体。 ○俳家:墓碑銘に「同僚と協わざる有り、遂に退職し、城西大塚荘に老ゆ。……先生……西のかた京洛に遊び、東のかた筑波に登り、恒に俳人·歌人と風月を弄し、桑門緇流と心性を談論し、怡然として自ら楽しむ」(『近世漢方医学書集成88』長谷川弥人先生解説による。一部改変)とある。 ○沽却:売り払う。 ○為人:人間としての態度。身の処し方。 ○卓然:卓越したさま。高く抜きんでるさま。 ○清越:清らかに俗を超越している。 ○世塵:世俗。 ○汙:「汗(あせ)」字ではなく、「汚」の異体である「汙」字であろう。世俗の塵に汚されない。 ○手澤書:手垢の付いた書。先人の遺愛の品。ここでは自筆本。 ○架中:書架の中。 ○心血:心臓の血液。心血を注いだもの。精神気力を尽くしたもの。 ○膽汁:からだの一部、分身であることをあらわす比喩なのであろう。 ○忽忽:軽率なさま。 ○枳園森立之:1807~85。立之(たつゆき)は江戸の人で、字は立夫(りつぷ)、号は枳園(きえん)ほか別号多数。狩谷棭斎(かりやえきさい)・伊沢蘭軒(いざわらんけん)・小島宝素(こじまほうそ)などに学び、一時浪人生活を送ったが、弘化5(1848)年福山藩医に復し、江戸医学館の講師となり、幕末・明治初には先輩・同僚の業績を引き継いで考証学の第一人者となった。書誌学者としても知られる(『日本漢方典籍辞典』)。

2013年12月30日月曜日

黃帝内經太素九卷經纂録序

黃帝内經太素九卷經纂録序
漢蓺文志黃帝内經十八卷今所傳素問九卷靈樞九卷即其
書也素問唐寶應中啓玄子王氷為之次注宋儒臣校正以傳
之如靈樞則林億曰其文不全葢五代至宋初失傳而哲宗朝
高麗獻其全帙事見江少虞宋朝類苑故世所傳僅宋人刻本
而已然楊上善太素全收二經則唐代巋然存于世者可知也
我邦昔時嘗傳上善太素其後久屬絶響而近復顯于世雖有
遺佚卷帙頗存劉茝庭先生嘗就其書校鈔素問且嘱針科侍
醫山崎次圭琦令謄録靈樞次圭書將全藁而乍罹于火遂歸
  ウラ
烏有次圭更欲纘其緒而未果也頃先生令寛為紹續寛惟素
問既有王注靈樞乃唐代至宋除上善未有注本囙録太素原
文校諸今本為舉同異併上善注別為一書仍附目録以存其
舊矣攷靈樞名葢出于道家者流楊氏注中稱九卷又稱九卷
經今囙題曰黃帝内經太素九卷經纂録當與素問王注并傳
而可也嗚呼世之以馬張諸家為兎圍(まま)冊子者視之庶幾可以
少省而已若夫上善宋臣稱隋人而其實為唐初人先生既有
詳考茲不復衍焉
嘉永戊戌中秋後二日喜多村直寛士栗誌于學訓堂中

  【訓讀】
黃帝内經太素九卷經纂録序
漢の蓺文志に、黃帝内經十八卷と。今、傳うる所の素問九卷、靈樞九卷、即ち其の
書なり。素問は、唐の寶應中、啓玄子王氷、之が次注を為し、宋の儒臣、校正して以て
之を傳う。靈樞の如きは、則ち林億曰く、其の文全からず、と。蓋し五代より宋初に至って失傳せん。而して哲宗の朝、
高麗、其の全帙を獻(たてまつ)る。事、江少虞の宋朝類苑に見ゆ。故に世に傳うる所、僅かに宋人の刻本
のみ。然して楊上善の太素、全く二經を收むれば、則ち唐代に巋然として世に存せし者(こと)、知る可きなり。
我が邦、昔時嘗て上善の太素を傳う。其の後久しく絶響に屬す。而して近ごろ復た世に顯わる。
遺佚有りと雖も、卷帙頗る存す。劉茝庭先生嘗て其に書に就きて、校して素問を鈔す。且つ針科侍
醫山崎次圭琦に嘱して、靈樞を謄録せしむ。次圭の書、將に藁を全うせんとして、而して乍ち火に罹り、遂に
  ウラ
烏有に歸す。次圭、更に其の緒を纘(つ)がんと欲すれども、而して未だ果せざるなり。頃(このご)ろ先生、寛をして紹續を為さしむ。寛惟(おもんみ)るに、素
問に既に王注有り、靈樞は乃ち唐代より宋に至るまで、上善を除きて、未だ注本有らず、と。因りて太素の原
文を録し、諸(これ)を今本と校し、同異を舉ぐるを為し、上善の注と併せて、別に一書と為す。仍りて目録を附して、以て其の
舊を存す。靈樞の名を攷うれば、蓋し道家者の流れに出でん。楊氏に注中に、九卷と稱し、又た九卷
經と稱す。今因りて題して黃帝内經太素九卷經纂録と曰う。當に素問王注と并(あわ)せて傳うべく
して可なり。嗚呼(ああ)、世の馬張の諸家を以て、兎園冊子と為す者は、之を視て、庶幾(こいねが)わくは以て
少しく省る可きのみ。夫(か)の上善の若きは、宋臣、隋人と稱す。而して其の實、唐初の人為(た)り。先生に既に
詳考有れば、茲に復た衍せず。
嘉永戊戌中秋後二日、喜多村直寛士栗、學訓堂中に誌(しる)す。

  【注釋】
○漢蓺文志:『漢書』藝文志。「蓺」は「藝」に同じ。「蓺」字は、『甲乙経』序に見える。 ○黃帝内經十八卷:『漢書』藝文志第十/方技略/醫經に「黃帝內經十八卷」とある。 ○今所傳素問九卷靈樞九卷即其書也:『黃帝三部鍼灸甲乙經』序:「按七略·蓺文志、黃帝内經十八卷、今有鍼經九卷、素問九卷、二九十八卷、即内經也」。 ○唐寶應:肅宗の年号。王氷『素問』には宝応元年(762)の序がある。 ○啓玄子王氷:新校正云:「按唐『人物志』、冰仕唐爲太僕令、年八十餘以壽終」。 ○次注:林億等『重廣補注黃帝内經素問』序:「迄唐寳應中、太僕王冰篤好之、得先師所藏之卷、大爲次註」。『重廣補注黃帝内經素問』卷二のはじめには「啓玄子次注」とある。 ○宋儒臣:林億·孫竒·髙保衡ら。 ○其文不全:『素問』調經論 新校正:「按今素問注中引鍼經者多靈樞之文、但以靈樞今不全、故未得盡知也(按ずるに、今『素問』注中に引ける『鍼經』なる者は『靈樞』の文多し。但だ『靈樞』、今ま全からざるを以ての故に未だ盡くは知るを得ざるなり)」。 ○葢:「蓋」の異体。 ○五代:907~960年。唐滅亡後、宋の建国以前。唐·晉·漢·周·梁。 ○哲宗:神宗の子。名は煦。在位1085~1100年。 ○高麗:918~1392年。 ○獻:献上する。 ○全帙:全書。欠けてない書冊。 ○江少虞宋朝類苑:『宋朝事実類苑』七十八巻。もとの名は、『事実類苑』。『皇朝類苑』ともいう。北宋の太祖から神宗までの百二十年あまりの史実を記録する。江少虞、字は、虞仲。常山(いま浙江省)のひと。/『(新雕)皇朝類苑』(武進董康本)卷三十一詞翰書籍・藏書之府・二十「哲宗時、臣寮言、竊見高麗獻到書內、有黃帝鍼經九卷。據素問序、稱漢書藝文志、黃帝內經十八篇、素問與此書各九卷、乃合本數。此書久經兵火、亡失幾盡、偶存於東夷、今此來獻、篇秩具存、不可不宣布海內、使學者誦習、伏望朝廷詳酌、下尚書工部、雕刻印板、送國子監、依例摹印施行。所貴濟衆之功、溥及天下。有旨令祕書省、選奏通曉醫書官三兩員校對、及令本省詳定訖、依所申施行」。 ○楊上善:初唐のひと。官は太子文学にいたる。近年出土した墓誌によれば、名が上、字が善という。詳細は、張固也と張世磊『楊上善生平考据新証』(『中医文献雑誌』2008年5期)を参照。 ○太素:『黄帝内経太素』三十巻。『黄帝内経』の古い伝本のひとつ。 ○二經:『素問』と『霊枢』。 ○巋然:高く独立したさま。そびえたつさま。 ○絶響:失伝した技芸などの比喩。『晉書』卷四十九˙阮籍等傳˙史臣曰:「嵇琴絕響、阮氣徒存」。 ○顯于世:文政三年(1820)、京都の福井氏が家蔵の卷二十七を模刻した。その後、仁和寺本が模写され、ひろまる。 ○雖有遺佚卷帙頗存:二十三巻残存す。 ○劉茝庭先生:多紀元堅(もとかた)。元堅の字は亦柔(えきじゅう)、号は茝庭(さいてい)、三松(さんしょう)。幼名は鋼之進、のち安叔(あんしゅく)。元簡(もとやす)の第5子で、元簡の家督は兄元胤(もとつぐ)が継ぎ、元堅は別に一家を興した。天保7(1836)年奥医師、法眼。同11年法印。弘化2(1845)年将軍家慶(いえよし)の御匙(おさじ)(侍医)。父の考証学の学風を継いで善本(ぜんぽん)医籍の収集、校訂、復刻に務め、渋江抽斎(しぶえちゅうさい)、森立之(もりたつゆき)、小島宝素(こじまほうそ)らの考証医学者を育てた(『日本漢方典籍辞典』)。 ○校:校勘する。 ○鈔:抄写する。 ○針科侍醫山崎次圭琦:山崎菁園の嗣子(生没年未調査)。山崎菁園、五代目次善、諱は元方。多紀元簡の弟(藍溪の第四子)。次圭は、菁園が亡くなったとき(天保十三年/1842)、西の丸の奥医師。法眼。 ○謄録:謄写抄録する。 ○全藁:文書を書き終える。 ○罹于火:火災発生時期、未詳。 
  ウラ
○烏有:まったく無くなる。 ○纘:継承する。継続する。 ○緒:事業。 ○未果也:理由、未詳。亡くなったか。 ○頃:近頃。 ○寛:本書の撰者、喜多村直寛。 ○紹續:うけつぐ。 ○囙:「因」の異体。 ○今本:いまに伝わる『霊枢』。具体的には、どの版本によるか、未調査。 ○同異:異同。文字の異なるところ。 ○附目録以存其舊矣:『黃帝内經太素九卷經纂録』の目録と『黃帝内經太素』原目あり。現在知られている仁和寺本と比較すると、卷十六の記載なく、卷二十一「缺」。したがって本書は九針十二原を欠く。(卷二十一は、福井家が所蔵していた。) ○道家者流:『漢書』藝文志:「道家者流、蓋出於史官、歷記成敗存亡禍福古今之道、然後知秉要執本、清虛以自守、卑弱以自持、此君人南面之術也」。 ○纂:編輯する。集める。 ○馬:馬蒔『黃帝内經靈樞註證發微』。 ○張:張介賓『類經』。張志聰『靈樞集注』は、「諸家」に含まれるであろう。 ○兎圍册子:「兎」は「兔」の異体。なお最後の画の点は書かれていない。「免」でもなかろう。「圍」字は、おそらく「園」の誤字か記憶違いであろう。「兔園册子」は、もと民間、村の塾ではやっている読本。のちに、平易な、わかりやすい本。『新五代史』卷五十五˙劉岳傳:「兔園冊者、鄉校俚儒教田夫牧子之所誦也」。 ○若夫上善:楊上善については。 ○宋臣稱隋人:重廣補注黃帝内經素問序:「及隋楊上善纂而爲『太素』」。 ○先生既有詳考:先生とは元堅のことであろうが、その詳考に関しては未詳。あるいは、多紀元胤『醫籍考』卷六を指すか。 ○衍:くわしく展開する。おしひろげる。 ○嘉永戊戌:嘉永に「戊戌」なし。「戊申」であれば嘉永元年(1848)、「庚戌」であれば嘉永三年(1850)。十二支の方が間違えにくいと思うので、嘉永三年か。 ○中秋:旧暦八月十五日。 ○喜多村直寛士栗:喜多村直寛(きたむらただひろ)は幕府医官喜多村槐園(かいえん)の長子で江戸生まれ。字は士栗(しりつ)、通称安斎(あんさい)のち安正(あんせい)、号は栲窓(ごうそう)のち香城(こうじょう)。儒を安積艮斎(あさかごんさい)に学び、江戸医学館の重職に就き、法眼(ほうげん)の位に進んだが、安政4(1857)年故あって辞し、以後、古医籍を研究し、数々の校訂出版と著述活動を行った。明治時代に活躍した栗本鋤雲(くりもとじょうん)はその実弟(『日本漢方典籍辞典』)。 ○學訓堂:直寛の堂号。

2013年12月29日日曜日

素問次注集疏叙

素問次注集疏叙
素問載道之書也固非狹見短識之所可得而窺焉
是以庸下之徒為不可企及英邁之士亦或觀以為迂遠
古義之泯焉無聞未必不職由之可勝歎也乎哉愚
每讀王太僕次注茫乎不得其畔涯乃取玄臺馬氏
鶴臯呉氏景岳張氏注讀之稍得其端緒 皇朝近
世有劉君父子之二識然後素問似無復餘蘊殊不
知古義之所存以王氏為最於是乎擇馬呉張三家
及劉君二識所釋撰次注集疏其間亦有管蠡之攷
  ウラ
但以夏蟲之見固不足厠於前人率省而不載有客
謂曰子無啓發之識而欲列作者之林何其不知量
之甚也愚答曰短綆不可以汲深井不若假人之長
以補我短然而比之逞詞鋒弄舌尖以誇於世者其
是非得失果奈何客唯而去是為叙明治六年癸酉
九月十三日山田業廣識于東京小石川富坂町寓居

  【訓讀】
素問次注集疏叙
素問は道を載するの書なり。固(まこと)に狹見短識の得て窺う可き所に非ず。
是(ここ)を以て庸下の徒は為に企及す可からず、英邁の士も亦た或いは觀て以て迂遠と為す。
古義の泯(ほろ)びて聞くこと無きは、未だ必ずしも職として之に由らずんばあらずして、歎きに勝つ可けんや。愚
王太僕の次注を讀む每に、茫乎として其の畔涯を得ず。乃ち玄臺馬氏·
鶴臯呉氏·景岳張氏の注を取りて之を讀み、稍や其の端緒を得たり。 皇朝近
世に劉君父子の二識有り。然る後、素問復た餘蘊無きに似たるも、殊に
古義の存する所は、王氏を以て最と為すを知らず。是(ここ)に於いてか馬呉張三家
及び劉君二識の釋する所を擇び、次注集疏を撰す。其の間亦た管蠡の攷有るも、
  ウラ
但だ夏蟲の見を以てするのみにして、固(もと)より前人に厠(ま)じるに足らず。率ね省いて載せず。客有りて
謂いて曰く、子、啓發するの識無くして、而して作者の林に列せんと欲す。何ぞ其れ量ることを知らざる
の甚しきや、と。愚、答えて曰く、短綆、以て深井を汲む可からず。人の長を假りて、
以て我が短を補うに若(し)かず。然り而して之を詞鋒を逞しくし、舌尖を弄し、以て世に誇る者と比ぶれば、其の
是非得失、果して奈何(いかん)、と。客、唯して去る。是れを叙と為す。明治六年癸酉
九月十三日、山田業廣、東京小石川富坂町の寓居に識(しる)す。

  【注釋】
○素問載道之書也:朱震亨『格致余論』序の冒頭:「素問載道書也」。多紀元簡『素問識』序の冒頭で引用される。『素問識』に「之」字あり。『格致余論』序は次のようにつづく。「詞簡而義深、去古漸遠、衍文錯簡、仍或有之、故非吾儒不能讀」。 ○固:たしかに。当然。 ○狹見短識:見識がせまく浅い。 ○可得:可能をあらわす助動詞の役割をはたす。できる。 ○是以:このため。 ○庸下:凡庸下級。 ○為:そのために。 ○企及:つま先だってやっと達する。努力して到達しようと望む。 ○英邁:才智抜群。 ○以為:~と思う。 ○迂遠:直接役に立たないさま。実際的でない。 ○泯:消滅する。 ○職:もっぱら。主として。「もとより」とも訓む。 ○勝:打ち勝つ。抑制する。 ○愚:自称。謙遜していう。 ○王太僕次注:唐の王冰。その注を次注という。全元起の訓解を初めての注とすると、それに次ぐ。また「次」には、順序立てる、編集するという意味もある。王冰は、全元起本に大幅な順序の変更、編輯をおこなった。 ○茫乎:茫然。知ることがない。ぼやけて曖昧なさま。はっきりしないさま。 ○不得其畔涯:とりとめがない。注の意味している内容を理解できない。意義を確定できない。/畔涯:境界。境域。 ○乃:そこで。 ○玄臺馬氏:馬蒔。明代の医家。字は仲化、玄臺は号。会稽(いま浙江省紹興)のひと。王冰本『素問』は二十四巻本であるが、『漢書』藝文志にしたがって、『素問』『霊枢』とも九巻として、それぞれの『註証発微』を著わした。特に『霊枢註証発微』は、『霊枢』に対するはじめての注釈書として後世重んじられ、経絡経穴に関する注が詳しい。 ○鶴臯呉氏:明代の医家(1552-1620年?)。字は山甫,鶴臯(異体は「皋」)は号で、參黃子とも号した。歙県(いま安徽省)のひと。『素問』に対してすぐれた注も記しているが、経文を一部書き換えたり、篇名をかえたりしている。その注釈書は、『素問呉注』あるいは『呉注素問』などとよばれている。 ○景岳張氏:明代の医家(1563-1640年)。字は會卿、景岳は号。通一子とも号した。もと四川省綿竹のひとで、のちに浙江の會稽(いま紹興)に居をうつした。『素問』『霊枢』を内容によって分類し注をつけ、『類経』三十二巻を著わした。 ○端緒:糸口。 ○ 皇朝:一字空格(敬意をあらわすために文字を空けて書く)あり。 ○近世:ちかごろ。 ○劉君父子之二識:多紀元簡の『素問識』と多紀元堅の『素問紹識』。後漢の霊帝の末裔とされるので、劉姓を称す。 ○餘蘊:残ったところ。あますところ。 ○最:至極。最重要なもの、ひと。 ○於是乎:「於是」に同じ。 ○管蠡之攷:「管蠡」は、「管窺蠡測」の略。自分の見識が浅く狭いことをいう謙遜語。「攷」は「考」の異体。
  ウラ
○夏蟲:夏の虫。『莊子』秋水:「井蛙不可以語於海者、拘於虛也。夏蟲不可以語於冰者、篤於時也」。夏の虫は氷のことを語れないし、井の中の蛙は、海を語れない。知識が狭いこと。 ○厠:「廁」の異体。身をその中に置く。 ○子:あなた。 ○啓發之識:ひとびとを啓発する知識。 ○林:同類のものが集まるところ。司馬遷『報任安書』:「列於君子之林矣」。 ○不知量:身のほどを知らない。買いかぶる。 ○愚:自称。 ○短綆不可以汲深井:「綆」は、井戸の水を汲むつるべの縄。短い綆では、深い井戸の水を汲み出すことはできない。『荀子』榮辱:「短綆不可以汲深井之泉、知不幾者不可與及聖人之言」。能力が足りなければ、ものごとを成し遂げられないことの比喩。 ○逞:顕示する。ひけらかす。 ○詞鋒:文章語句が刃のように鋭い。 ○弄:もてあそぶ。たわむれる。 ○舌尖:舌先。口先。発語。 ○是非得失:正しいことと間違っていること、得るところと失うところ。 ○唯:応答の声。「唯唯」であれば、謹んで応諾する意。「唯而不諾」「唯而不對」とつづくことが多いが、そうだとすると、客は納得しなかったことになる。ひとまず、著者の言に納得して去ったと解しておく。 ○叙:「敘」の異体。「序」と同じ。 ○明治六年癸酉:1873年。政変の年。 ○山田業廣:やまだなりひろ(1808~81)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。 ○小石川富坂町:現文京区。江戸時代には、上・中・下の富坂町があった。明治五年には、もと火除地であった地域に、西富坂町が設置されたという。

2013年12月28日土曜日

醫經訓詁小引

醫經訓詁小引
余弱冠每讀醫經苦其訓詁之難通者嗣後讀
素靈二識及難經疏證得稍就其緒劉君家世
精於醫經初學者當以此數書為津梁但其說
散在各篇倉卒際或有(・)不便撿閲者(・)乃鈔訓詁
之可以通於漢唐以還醫籍者以輯醫經訓詁
若干卷旁採素問紹識及先友澁江全善所纂
靈樞講義以補原識未言及者若夫全經大義
精意自有各家注解在焉豈俟斯區々捷徑之
冊子乎哉明治二年己巳孟冬山田業廣識于
  ウラ
峯來書屋

  【訓讀】
醫經訓詁小引
余、弱冠にして醫經を讀む每に、其の訓詁の通じ難き者(こと)に苦しむ。嗣後、
素靈二識及び難經疏證を讀みて、稍や其の緒に就くを得。劉君が家、世々
醫經に精(くわ)し。初學の者、當に此の數書を以て津梁と為すべし。但だ其の說
各篇に散在す。倉卒の際、或いは撿閲に便ならず。乃ち訓詁
の以て漢唐以還の醫籍に通ず可き者を鈔して、以て醫經の訓詁
若干卷を輯す。旁ら素問紹識、及び先友澁江全善纂する所の
靈樞講義を採り、以て原識の未だ言及せざる者を補う。若し夫(そ)れ全經の大義
精意は、自ら各家の注解に在る有り。豈に斯の區々たる捷徑の
冊子を俟たんや。明治二年己巳孟冬、山田業廣
  ウラ
峯來書屋に識(しる)す。

  【注釋】
○小引:文章や書籍の前に置かれる簡単な説明。この書を起稿した縁起などを述べる。 ○弱冠:『禮記』曲禮上:「二十曰弱冠」。孔穎達˙正義:「二十成人、初加冠、體猶未壯、故曰弱也」。男子二十歲前後をいう。 ○醫經:『黄帝内経』(『素問』『霊枢』)『難経』など。 ○嗣後:こののち。以後。 ○素靈二識:多紀元簡の『素問識』と『霊枢識』。 ○難經疏證:多紀元胤(もとつぐ)(1789~1827)の著になる『難経』の注解書。全2巻2冊。文政2(1819)年成、同5(1822)年刊。漢文。考証医家の元胤が『難経集注』を底本とし、諸文献を引用し、父多紀元簡(もとやす)や弟元堅(もとかた)の説も取り入れて完成したわが国における『難経』研究の精華。巻首に「難経解題(なんぎょうかいだい)」1篇を付す。『皇漢医学叢書』に活字収録され、中国の『難経』研究にも少なからぬ影響を与えた。人民衛生出版社活字本(1957)もある。『難経古注集成』に影印収録されている(『日本漢方典籍辞典』)。 ○就緒:物事の見通しがついて、事を始める。着手する。『詩經』大雅˙常武:「不留不處、三事就緒」。 ○劉:多紀家の祖先は後漢の霊帝(劉氏)であるという。 ○津梁:渡し場と橋。人を導く手引きとなるものの比喩。 ○倉卒:突然なこと。急なこと。忙しく慌ただしいこと。あわてて事を行うこと。 ○或(・)有不便撿閲者(・):「或」と「者」字に消去記号あり。/撿閲:「撿」は「檢」に同じ。検閲。調べあらためる。 ○乃:そこで。 ○鈔:「抄」に同じ。書写する。書物などの一部分を抜き出して書く。 ○以還:以来。以後。 ○輯:蒐録して整理する。あつめてまとめる。 ○旁:別に。その他として。 ○素問紹識:多紀元堅(たきもとかた)(1795~1857)の著になる『素問』の注釈書。全4巻。弘化3(1846)年自序。「紹識」とは父多紀元簡(もとやす)の『素問識(そもんし)』を紹す(継ぐ・承ける)の意で、『素問識』の時点では未発見であった仁和寺本『太素』をはじめとする資料を用い、『素問識』を補翼する目的で執筆されたものである。未刊で写本として伝えられたが、その1写本が中国に渡って『皇漢医学叢書』に活字収録された。石原明(いしはらあきら)旧蔵本(小島宝素[こじまほうそ]手沢本)が『黄帝内経古注選集』に影印収録され、さらに自筆稿の最善本(大阪大学懐徳堂文庫本)の影印本(北里東医研医史研、1996)、またそれによる活字校訂本(日本内経学会、1996)が出版されている。なお、本書の前段階となった元堅の著書に『素問参楊(そもんさんよう)』(新発現の楊上善注を参ずるという意)なる書もある(『日本漢方典籍辞典』)。 ○先友:今は亡き友。 ○澁江全善:渋江抽斎(しぶえちゅうさい)(1805~58)。抽斎は森鷗外(もりおうがい)の歴史小説によって知られる考証医家で、弘前藩医。名は全善(かねよし)、字は道純(どうじゅん)また子良(しりょう)。狩谷棭斎(かりやえきさい)・市野迷庵(いちのめいあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ。多紀元堅(たきもとかた)に才を愛され、江戸医学館講師となり、古医籍の研究を行った(『日本漢方典籍辞典』)。 ○纂:編輯する。あつめる。 ○靈樞講義:『黄帝内経霊枢』の校注書。全25巻。弘化元(1844)年、江戸医学館で同書を講義することを契機に作成されたもので、その後の補訂も加えられている。抽斎の謹厳実直な性格を反映し、『太素』『甲乙経』などの典籍と詳細な校合がなされるが、私見は抑制してある。考証学的『霊枢』研究の最高峰に位置する書で、抽斎の代表作といえる。刊行されるには至らず、抽斎自筆本(京大富士川本)が『黄帝内経古注選集』に影印収録される。伊沢氏旧蔵本(静嘉堂本)や山田業広(やまだなりひろ)旧蔵本(東大鶚軒本)も伝えられる(『日本漢方典籍辞典』)。 ○原識:『素問識』と『霊枢識』。 ○若夫:~に関しては。 ○大義:経文中の要義。精要なところ。 ○精意:精しく深い意味。 ○區々:謙遜の語。小さな。わずかな言うに足りない。つまらない。 ○捷徑:近道。正道によらず簡便な方法。 ○明治二年己巳:1869年。この年十二月、高崎藩の医学校督学となる。明治四年に廃藩置県。 ○孟冬:陰暦十月。 ○山田業廣:(やまだなりひろ)(1808~1881)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。
  ウラ
○峯來書屋:山田業廣の書斎名であろう。


  【跋】
余於安政戊午草此書後明治己巳抄素靈二識顏曰
醫經訓詁分卷凡九抄冩卒業以挿架  業廣
     安政五年戊午七月廿八日校讀了 業廣

  【訓讀】
余、安政戊午に此の書を草す。後の明治己巳に素靈二識を抄す。顏して
醫經訓詁と曰う。卷に分かつこと凡(すべ)て九、抄冩、業を卒え、以て架に挿す。 業廣
     安政五年戊午七月廿八日、校讀了(おわ)んぬ。 業廣

  【注釋】
○安政戊午:安政5年(1858)。 ○草:起稿する。草稿を書く。 ○明治己巳:1869年。 ○抄:写す。抄写する。 ○素靈二識:『素問識』と『霊枢識』。 ○顏:題名を付ける。 ○凡九:全部で九巻。 ○卒業:完成する。 ○挿架:書架に並んだ本の間に差し入れる。「挿」は「插」の異体。  

2013年12月27日金曜日

新年の研究発表の案内

おおとり会館

醫經聲類跋

(醫經聲類再稿跋)
慶應三年丁卯十月再稿 四年戊辰三月十七/日卒業椿庭業廣

醫經聲類跋
余丙午罹災架藏烏有筆研無聊於是創意
輯傷寒雜病論類纂卅餘卷尋欲及素靈而
其書洪翰未遑因先以國字分其聲類但頭緒
甚夥取彼而遺此蠅頭抹摋殆不可讀終倦而廢
之又思年已逾耳順在今未就他日更增聾聵恐
無所成乃取素靈難經三書且鈔且校自冬至春
比舊稿雖稍改面目而遺漏不鮮漫裝為三卷
以達宿志此特便蒙云耳若夫類纂全書以期
大成則責在子弟也慶應戊辰三月山田業廣識
  ウラ
于江戸本郷椿庭樓上
 (時征討使入于江戸城門晝閉/人情匈〃余亦有移居于上毛之命
  酸鼻之餘筆于此)

  【訓讀】
醫經聲類跋
余、丙午に災に罹(かか)り、架藏烏有し、筆研無聊す。是(ここ)に於いて創意し、
傷寒雜病論類纂卅餘卷を輯す。尋(つ)いで素靈に及ばんと欲す。而れども
其の書洪翰にして未だ遑(いとま)あらず。因りて先ず國字を以て其の聲類に分かつ。但だ頭緒
甚だ夥しくして、彼を取りて此を遺(のこ)し、蠅頭抹摋して、殆ど讀む可からず。終(つい)に倦みて
之を廢す。又た思うに年已に耳順を逾ゆ。今に在りても未だ就(な)らず。他日は更に聾聵を增し、恐らくは
成す所無からん。乃ち素靈難經の三書を取り、且つ鈔し且かつ校し、冬自り春に至る。
舊稿に比して、稍や面目を改むと雖も、而して遺漏鮮(すくな)からず。漫(そぞ)ろに裝して三卷と為し、
以て宿志を達す。此れ特に蒙に便なりと云うのみ。若し夫れ全書を類纂し、以て
大成を期すは、則ち責は子弟に在るなり。慶應戊辰三月、山田業廣
  ウラ
江戸本郷椿庭樓上に識(しる)す。
 (時に征討使、江戸に入り、城門晝に閉づ。人情匈々たり。余も亦た居を上毛に移すの命有り。酸鼻の餘り、此に筆す。)

  【注釋】
○聲類:「聲類」とは、声韻学では声母を指し、形声字の声符をいうが、ここでは、音声順(いろは順)に医学用語を分類した、という意味。下文を参照。 ○丙午:弘化三年(1846)。 ○罹災:江戸本郷春木町の住居、火災に遭う。本郷弓町に居を移す。 ○架藏:棚に所蔵した書物。 ○烏有:全くなくなる。 ○筆研:ふでと硯。ひろく文具。筆をとってなにかを書き留める。 ○無聊:することがなくなる。 ○創意:新しいことをはじめる。 ○輯:あつめる。 ○傷寒雜病論類纂卅餘卷:嘉永二年(1849)、草稿。三十三巻。現在、京都大学所蔵。 ○尋:すぐに。まもなく。 ○素靈:『素問』と『霊枢』。 ○洪翰:「浩瀚」に同じ。広大多数。 ○國字:かな。 ○頭緒:端緒。 ○蠅頭:ハエの頭のように小さなもの(文字)の比喩。 ○抹摋:「抹殺」「抹煞」に同じ。消しさる。 ○耳順:『論語』為政:「六十而耳順」。六十歳。 ○未就:完成にいたらない。 ○他日:将来。 ○聾聵:耳が遠い。無知。 ○且鈔且校:筆写すると同時に校正もする。 ○改面目:面目を一新する。もとのものを改めて新しい形をなす。 ○漫:いい加減に。きままに。謙遜の辞。 ○裝:包裝する。装丁する。 ○宿志:宿願。もともとあったこころざし。 ○便蒙:初学者·こども(童蒙)·理解のおそいひと(蒙昧)に便利である。 ○若夫:~に関しては。 ○類纂:分類編纂する。 ○全書:書物全体。  ○期大成:大きな成就をなしとげる、待つ、期待する。 ○責:責務。 ○子弟:森枳園『椿庭山田先生墓碣』によれば、「門弟凡そ三百名」という。 ○慶應戊辰:慶応 四年(1868)。 ○山田業廣:やまだなりひろ(1808~81)。業広は高崎藩医で、字は子勤(しきん)、通称昌栄(しょうえい)、号は椿庭(ちんてい)。朝川善庵(あさかわぜんあん)に儒を、伊沢蘭軒(いざわらんけん)・多紀元堅(たきもとかた)、池田京水(いけだきょうすい)に医を学んだ(『日本漢方典籍辞典』)。
  ウラ
○江戸本郷椿庭樓:「椿」は、住まいの春木町の「春」と「木」の合字。 ○征討使:戊辰戦争時のいわゆる官軍。有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍。四月四日に江戸城明け渡しとなる。 ○匈〃:乱れて不安なさま。 ○上毛:上野国(こうづけのくに)。「上州」。高崎藩は上野国群馬郡にあった。 ○酸鼻:泣きたくなるとき、鼻が酸っぱいようなにおいを感じる。悲痛なさま。悲しくて泣きたくなる。

2013年12月7日土曜日

2013年12月8日日曜講座会場変更のご案内

日本内経医学会日曜講座参加者各位

いつも日本内経医学会日曜講座にご参加いただき、ありがとうございます。
すでに日曜講座等でご案内していますとおり、平成25年12月8日(第2日曜日)の日曜講座の会場を、以下の通り変更させて頂きます。

ご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、ご理解ご了承のほど、よろしくお願いいたします。

①中級クラス(宮川、岩井): 赤羽会館3階 第2集会室
               東京都北区赤羽南1-13-1 JR赤羽駅東口徒歩5分
【赤羽駅からの道順】
赤羽駅東口を出てすぐ右にある交番の角を右に曲がり
ミスタードーナツの前の横断歩道を渡って立ち食いそば屋の
角を右に50メートルほど線路沿いに進みます。左手に見えて
くる庄やとパチンコ屋の間を左に曲がり真っ直ぐ進むと
大通りのスクランブル交差点にでますので、横断したところ
にある消防署の左側の道を真っ直ぐ行った西友の向かいに
赤羽会館があります。

②初級クラス(荒川、林): 鶯谷書院 東京都台東区根岸1-1-35窪田国際特許ビル4階
  JR鶯谷駅南口から徒歩3~4分
【鶯谷駅からの道順】
鶯谷駅南口を降りてすぐ左に曲がり、跨線橋を渡ります。
階段を降りて、右手のトンネルをくぐり、右に曲がると、
左方向に線路沿いの細い道をたどります。広い道に出て
左後方に曲り、3軒目のビルの4階です。
隣には鰻屋の宮川、正面には上野郵便局があります。