2013年12月30日月曜日

黃帝内經太素九卷經纂録序

黃帝内經太素九卷經纂録序
漢蓺文志黃帝内經十八卷今所傳素問九卷靈樞九卷即其
書也素問唐寶應中啓玄子王氷為之次注宋儒臣校正以傳
之如靈樞則林億曰其文不全葢五代至宋初失傳而哲宗朝
高麗獻其全帙事見江少虞宋朝類苑故世所傳僅宋人刻本
而已然楊上善太素全收二經則唐代巋然存于世者可知也
我邦昔時嘗傳上善太素其後久屬絶響而近復顯于世雖有
遺佚卷帙頗存劉茝庭先生嘗就其書校鈔素問且嘱針科侍
醫山崎次圭琦令謄録靈樞次圭書將全藁而乍罹于火遂歸
  ウラ
烏有次圭更欲纘其緒而未果也頃先生令寛為紹續寛惟素
問既有王注靈樞乃唐代至宋除上善未有注本囙録太素原
文校諸今本為舉同異併上善注別為一書仍附目録以存其
舊矣攷靈樞名葢出于道家者流楊氏注中稱九卷又稱九卷
經今囙題曰黃帝内經太素九卷經纂録當與素問王注并傳
而可也嗚呼世之以馬張諸家為兎圍(まま)冊子者視之庶幾可以
少省而已若夫上善宋臣稱隋人而其實為唐初人先生既有
詳考茲不復衍焉
嘉永戊戌中秋後二日喜多村直寛士栗誌于學訓堂中

  【訓讀】
黃帝内經太素九卷經纂録序
漢の蓺文志に、黃帝内經十八卷と。今、傳うる所の素問九卷、靈樞九卷、即ち其の
書なり。素問は、唐の寶應中、啓玄子王氷、之が次注を為し、宋の儒臣、校正して以て
之を傳う。靈樞の如きは、則ち林億曰く、其の文全からず、と。蓋し五代より宋初に至って失傳せん。而して哲宗の朝、
高麗、其の全帙を獻(たてまつ)る。事、江少虞の宋朝類苑に見ゆ。故に世に傳うる所、僅かに宋人の刻本
のみ。然して楊上善の太素、全く二經を收むれば、則ち唐代に巋然として世に存せし者(こと)、知る可きなり。
我が邦、昔時嘗て上善の太素を傳う。其の後久しく絶響に屬す。而して近ごろ復た世に顯わる。
遺佚有りと雖も、卷帙頗る存す。劉茝庭先生嘗て其に書に就きて、校して素問を鈔す。且つ針科侍
醫山崎次圭琦に嘱して、靈樞を謄録せしむ。次圭の書、將に藁を全うせんとして、而して乍ち火に罹り、遂に
  ウラ
烏有に歸す。次圭、更に其の緒を纘(つ)がんと欲すれども、而して未だ果せざるなり。頃(このご)ろ先生、寛をして紹續を為さしむ。寛惟(おもんみ)るに、素
問に既に王注有り、靈樞は乃ち唐代より宋に至るまで、上善を除きて、未だ注本有らず、と。因りて太素の原
文を録し、諸(これ)を今本と校し、同異を舉ぐるを為し、上善の注と併せて、別に一書と為す。仍りて目録を附して、以て其の
舊を存す。靈樞の名を攷うれば、蓋し道家者の流れに出でん。楊氏に注中に、九卷と稱し、又た九卷
經と稱す。今因りて題して黃帝内經太素九卷經纂録と曰う。當に素問王注と并(あわ)せて傳うべく
して可なり。嗚呼(ああ)、世の馬張の諸家を以て、兎園冊子と為す者は、之を視て、庶幾(こいねが)わくは以て
少しく省る可きのみ。夫(か)の上善の若きは、宋臣、隋人と稱す。而して其の實、唐初の人為(た)り。先生に既に
詳考有れば、茲に復た衍せず。
嘉永戊戌中秋後二日、喜多村直寛士栗、學訓堂中に誌(しる)す。

  【注釋】
○漢蓺文志:『漢書』藝文志。「蓺」は「藝」に同じ。「蓺」字は、『甲乙経』序に見える。 ○黃帝内經十八卷:『漢書』藝文志第十/方技略/醫經に「黃帝內經十八卷」とある。 ○今所傳素問九卷靈樞九卷即其書也:『黃帝三部鍼灸甲乙經』序:「按七略·蓺文志、黃帝内經十八卷、今有鍼經九卷、素問九卷、二九十八卷、即内經也」。 ○唐寶應:肅宗の年号。王氷『素問』には宝応元年(762)の序がある。 ○啓玄子王氷:新校正云:「按唐『人物志』、冰仕唐爲太僕令、年八十餘以壽終」。 ○次注:林億等『重廣補注黃帝内經素問』序:「迄唐寳應中、太僕王冰篤好之、得先師所藏之卷、大爲次註」。『重廣補注黃帝内經素問』卷二のはじめには「啓玄子次注」とある。 ○宋儒臣:林億·孫竒·髙保衡ら。 ○其文不全:『素問』調經論 新校正:「按今素問注中引鍼經者多靈樞之文、但以靈樞今不全、故未得盡知也(按ずるに、今『素問』注中に引ける『鍼經』なる者は『靈樞』の文多し。但だ『靈樞』、今ま全からざるを以ての故に未だ盡くは知るを得ざるなり)」。 ○葢:「蓋」の異体。 ○五代:907~960年。唐滅亡後、宋の建国以前。唐·晉·漢·周·梁。 ○哲宗:神宗の子。名は煦。在位1085~1100年。 ○高麗:918~1392年。 ○獻:献上する。 ○全帙:全書。欠けてない書冊。 ○江少虞宋朝類苑:『宋朝事実類苑』七十八巻。もとの名は、『事実類苑』。『皇朝類苑』ともいう。北宋の太祖から神宗までの百二十年あまりの史実を記録する。江少虞、字は、虞仲。常山(いま浙江省)のひと。/『(新雕)皇朝類苑』(武進董康本)卷三十一詞翰書籍・藏書之府・二十「哲宗時、臣寮言、竊見高麗獻到書內、有黃帝鍼經九卷。據素問序、稱漢書藝文志、黃帝內經十八篇、素問與此書各九卷、乃合本數。此書久經兵火、亡失幾盡、偶存於東夷、今此來獻、篇秩具存、不可不宣布海內、使學者誦習、伏望朝廷詳酌、下尚書工部、雕刻印板、送國子監、依例摹印施行。所貴濟衆之功、溥及天下。有旨令祕書省、選奏通曉醫書官三兩員校對、及令本省詳定訖、依所申施行」。 ○楊上善:初唐のひと。官は太子文学にいたる。近年出土した墓誌によれば、名が上、字が善という。詳細は、張固也と張世磊『楊上善生平考据新証』(『中医文献雑誌』2008年5期)を参照。 ○太素:『黄帝内経太素』三十巻。『黄帝内経』の古い伝本のひとつ。 ○二經:『素問』と『霊枢』。 ○巋然:高く独立したさま。そびえたつさま。 ○絶響:失伝した技芸などの比喩。『晉書』卷四十九˙阮籍等傳˙史臣曰:「嵇琴絕響、阮氣徒存」。 ○顯于世:文政三年(1820)、京都の福井氏が家蔵の卷二十七を模刻した。その後、仁和寺本が模写され、ひろまる。 ○雖有遺佚卷帙頗存:二十三巻残存す。 ○劉茝庭先生:多紀元堅(もとかた)。元堅の字は亦柔(えきじゅう)、号は茝庭(さいてい)、三松(さんしょう)。幼名は鋼之進、のち安叔(あんしゅく)。元簡(もとやす)の第5子で、元簡の家督は兄元胤(もとつぐ)が継ぎ、元堅は別に一家を興した。天保7(1836)年奥医師、法眼。同11年法印。弘化2(1845)年将軍家慶(いえよし)の御匙(おさじ)(侍医)。父の考証学の学風を継いで善本(ぜんぽん)医籍の収集、校訂、復刻に務め、渋江抽斎(しぶえちゅうさい)、森立之(もりたつゆき)、小島宝素(こじまほうそ)らの考証医学者を育てた(『日本漢方典籍辞典』)。 ○校:校勘する。 ○鈔:抄写する。 ○針科侍醫山崎次圭琦:山崎菁園の嗣子(生没年未調査)。山崎菁園、五代目次善、諱は元方。多紀元簡の弟(藍溪の第四子)。次圭は、菁園が亡くなったとき(天保十三年/1842)、西の丸の奥医師。法眼。 ○謄録:謄写抄録する。 ○全藁:文書を書き終える。 ○罹于火:火災発生時期、未詳。 
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○烏有:まったく無くなる。 ○纘:継承する。継続する。 ○緒:事業。 ○未果也:理由、未詳。亡くなったか。 ○頃:近頃。 ○寛:本書の撰者、喜多村直寛。 ○紹續:うけつぐ。 ○囙:「因」の異体。 ○今本:いまに伝わる『霊枢』。具体的には、どの版本によるか、未調査。 ○同異:異同。文字の異なるところ。 ○附目録以存其舊矣:『黃帝内經太素九卷經纂録』の目録と『黃帝内經太素』原目あり。現在知られている仁和寺本と比較すると、卷十六の記載なく、卷二十一「缺」。したがって本書は九針十二原を欠く。(卷二十一は、福井家が所蔵していた。) ○道家者流:『漢書』藝文志:「道家者流、蓋出於史官、歷記成敗存亡禍福古今之道、然後知秉要執本、清虛以自守、卑弱以自持、此君人南面之術也」。 ○纂:編輯する。集める。 ○馬:馬蒔『黃帝内經靈樞註證發微』。 ○張:張介賓『類經』。張志聰『靈樞集注』は、「諸家」に含まれるであろう。 ○兎圍册子:「兎」は「兔」の異体。なお最後の画の点は書かれていない。「免」でもなかろう。「圍」字は、おそらく「園」の誤字か記憶違いであろう。「兔園册子」は、もと民間、村の塾ではやっている読本。のちに、平易な、わかりやすい本。『新五代史』卷五十五˙劉岳傳:「兔園冊者、鄉校俚儒教田夫牧子之所誦也」。 ○若夫上善:楊上善については。 ○宋臣稱隋人:重廣補注黃帝内經素問序:「及隋楊上善纂而爲『太素』」。 ○先生既有詳考:先生とは元堅のことであろうが、その詳考に関しては未詳。あるいは、多紀元胤『醫籍考』卷六を指すか。 ○衍:くわしく展開する。おしひろげる。 ○嘉永戊戌:嘉永に「戊戌」なし。「戊申」であれば嘉永元年(1848)、「庚戌」であれば嘉永三年(1850)。十二支の方が間違えにくいと思うので、嘉永三年か。 ○中秋:旧暦八月十五日。 ○喜多村直寛士栗:喜多村直寛(きたむらただひろ)は幕府医官喜多村槐園(かいえん)の長子で江戸生まれ。字は士栗(しりつ)、通称安斎(あんさい)のち安正(あんせい)、号は栲窓(ごうそう)のち香城(こうじょう)。儒を安積艮斎(あさかごんさい)に学び、江戸医学館の重職に就き、法眼(ほうげん)の位に進んだが、安政4(1857)年故あって辞し、以後、古医籍を研究し、数々の校訂出版と著述活動を行った。明治時代に活躍した栗本鋤雲(くりもとじょうん)はその実弟(『日本漢方典籍辞典』)。 ○學訓堂:直寛の堂号。

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