2021年11月30日火曜日

西川如見『町人嚢』(ちょうにんぶくろ)享保4年と『素問』上古天真論(01)

 『町人嚢』巻4:

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100179990/viewer/67

又或人の云,男子は少陰の数をもつて形を成(なす)ゆへに,八歳より気血定まり,十六歳にて精通じ,かくの如く八年づつにて気血変じ,五八四十歳にて気血満(みち)て,四十一歳よりそろそろ気血おとろへ行(ゆく)ゆへに,四十歳を初(はじめ)の老(おひ)といへり。夫(それ)より漸々血気衰して,八々六十四にて血気おとろへ,精つくるとなり。女人は少陽の数にて形を成(なす)ゆへに,七歳より血気定り,十四歳にて経水いたり,五七三十五歳にて,気血満。それより漸々おとろへて七々四十九歳にて経水絶(たえ),血気おとろへ,懐胎なし。是又医書の説なり。人によつて少々の不同ありといへども,大概かくの如し。兎角(とかく)人は四十已後(いご)より陽気衰へ行時分なれば,身の養生の時節なり。……

 ★易では,少陰は八,少陽は七(老陰は六,老陽は九)。


『素問』上古天真論(01):

歧伯曰:

女子七歲,腎氣盛,齒更髮長;二七而天癸至,任脈通,太衝脈盛,月事以時下,故有子;……五七,陽明脈衰,面始焦,髮始墮;……七七,任脈虛,太衝脈衰少,天癸竭,地道不通,故形壞而無子也。

丈夫八歲,腎氣實,髮長齒更;二八,腎氣盛,天癸至,精氣溢寫,陰陽和,故能有子……五八,腎氣衰,髮墮齒槁……八八,則齒髮去,腎者主水,受五藏六府之精而藏之,故五藏盛,乃能寫。今五藏皆衰,筋骨解墮,天癸盡矣。故髮鬢白,身體重,行步不正,而無子耳。


他に,医学に関連するところは,次のようなものあり。

 『町人嚢底払』巻上:


『軒岐救正論』

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100179990/viewer/132

『類経』『素問』

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100179990/viewer/133

『素問』

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100179990/viewer/135


なお,明治31年に活字版『町人嚢』も出ています。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991287

巻4の該当箇所:

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991287/57



2021年11月26日金曜日

長友千代治先生の御著書に導かれて,つづき

 『(増補/改正)難波丸綱目』(『日本国花万葉記』巻5の4・摂津)延享五刊(1748) 

お茶の水女子大学図書館蔵(291TT71/343/5(1)‐(4))

諸師芸術之部に,以下のような職業が見える。

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100260241/viewer/157


医学者として,石原道徳,向井道順,都賀六蔵の3名。

本草者として,山田正因,木村兼葭堂の2名。

後者は有名な,木村蒹葭堂(1736年~1802年)。

https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/018.html


医学講師として,『金匱要略存皮』の撰者である高宮環中。

医師,たくさん。

以下,同産後方・同小児方・小児癇療・目医師・外科・鍼医師(11名)・口中医師・乳医師・導引医師(5名)・灸師・骨継・汐薬湯治・産婆(ひとりだけ)。


鍼医師に「(中野村)一本針吉右衛門」が見える。


・針中野の地名の由来となった「中野鍼」

http://728net.wpblog.jp/nakano-hari/

には,「平安時代から続くと伝えられている鍼灸院です。弘法大師が道中、この地の中野家に宿泊し、そのお礼として同家に、鍼灸のツボを示す木像と金鍼を贈ったことが始まりだとされています。」とある。


導引医師は,あんまとは,異なるのだろう。

灸師については,姓名だけでなく,町名+何丁目のみだったり,寺院名(無量寺)だったりして,最後には「此外所々に有」。


楽器の演奏者のあいだに,検校・勾当がある。

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100260241/viewer/163

・検校:室町時代以降、盲人に与えられた最高の官名。専用の頭巾・衣服・杖などの所持が許された。建業。

・勾当:盲人の官名の一。検校(けんぎょう)・別当の下位、座頭の上位。

「あんま」の項目はないようだ。


https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100260241/viewer/164

丸散煉煎薬之分

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100260241/viewer/174

入歯師

諸職人商人所附 いろは分

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以下,『日本国花万葉記』の山城(京都)編。

    早稲田大学蔵書『国花万葉記』 巻第1-14 / 菊本賀保 [著]

     請求記号 Call No. ル03 03671

    角書付書名:日本国花万葉記 巻第1之下,2之下の巻頭書名:日本国花山城名所諸羽二重 元禄10年刊の改正補刻 巻第6の奥記に「天保十年己亥十月改正」とあり

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_03671/ru03_03671_0001/ru03_03671_0001.pdf

の京洛諸師諸芸には,

医師(42/76),

小児医師,産前産後医師,目医師,口中医師,外科,針師(43/76)

医書講説(44/76):味岡三伯・浅井周伯・松下見林・井原道悦。

経胳按摩(46/76),耳垢取(唐人也),検校,四度勾当。


「針師」とは,江戸時代においては一般に鍼道具製造業者のことだが,この並びにあるということは,治療家も,国によってはこう呼ばれていたのだろうか。他の諸国も見てみる必要があろう。

「経胳按摩」が独立して項目立てされている。

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この「医書講説」者と重複する記載としては,以下のものがある。

『(元禄)大平記』元禄一五刊

(立教大学池袋図書館 乱歩文庫デジタル 52071145~52071152)

巻7「○今の学者を指折てみる」に,

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100289245/viewer/142

「医学には,浅井周伯,岡本為竹,小川朔庵,松下見林,これらは百人の中にて十人,十人勝(すぐつ)て五人,三人と指折(ゆびおり)する人々なり。」

とある。

『(元禄)大平記』巻5「○初学の為によい事をいふ」では,

https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100289245/viewer/99

「さてかな抄のときやうは,手近く一すぢに,岡本為竹の述べられし,『大成論』,『格致論』の諺解のごとく,さらさらときこへやすきやうにあみ候はば,初学のまよひもあるまじく候。」

と,他の「諺解詳解など,山のごとくに候へども,是みな義理をみるには益なし」と対比して,優れていることが述べられている。

『格致論』の諺解は,『格致余論諺解』のこと。


岡本一抱については,以下を参照。

  浅田宗伯『皇国名医伝』(後編)上巻

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100229685/viewer/53

    『万病回春病因指南』序(9/255左)

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000349


長友千代治『近世上方作家・書肆研究』(94頁)に,岡本為竹著作年表あり。


2021年11月25日木曜日

むかしの本屋(出版業者)の呼称

 長友千代治『江戸庶民の読書と学び』(2017年,勉誠出版)39頁~

 江戸初期の出版物から。

・書堂:『難経本義』,元和9年(書堂/洛下六条坊門/道以板開板之)

・書舎:『黄帝内経霊枢註証発微』,寛永5年(書舎道伴梓行)。

    道伴=中野道伴(中野市右衛門)。

・書肆:『黄帝内経霊枢註証発微』,寛永5年(二条通松屋町/書肆 武村市兵衛板行)

・書林:『医方考・脈語』寛永6年(書林 猪子梅寿新刊)


 同じ本屋のものであっても,上記のように名乗らない本もある。


 なお,長友千代治先生の『(近世上方)作家・書肆研究』(1994年,東京堂出版)には,「近松弟岡本為竹」が収められている。


2021年11月24日水曜日

板木のデータベース

 ARC板木ポータルデータベース

https://www.dh-jac.net/db/hangi/


板木の画像は,見やすい「鏡面」になっていて,「正像画像」も見ることができる。


たとえば「鍼灸」で検索すると,「鍼灸重宝記綱目」, 「鍼灸仮名読十四経治方」が見つかる。

その本と対応する,実際に刷られた画像も一部,リンクされている。


「鍼灸重宝記綱目」は,すぐ実物に飛べるが,

「鍼灸仮名読十四経治方」は,他機関検索を使って,検索しなければならない。


「鍼灸仮名読十四経治方」は,国会図書館デジタルで画像を見ることができる。

https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E9%8D%BC%E7%81%B8%E4%BB%AE%E5%90%8D%E8%AA%AD%E5%8D%81%E5%9B%9B&fulltext=1&viewRestricted=0


本書は,かつて https://daikei.blogspot.com/2017/07/

で翻字したことがある。


キーワードを「灸」のみにすると,

「改正/図解灸法口訣指南 (かいせい/ずかいきゅうほうくけつしなん)」がヒットする。


板木は,版画の印象からか,漠然と1枚の板の裏表に2面ずつ彫られていたのだろうと想像してしまうが,実際はそうとは限らない。

『灸法口訣指南』の版木を見ると,1枚板に6丁(裏表3丁ずつ)が彫られていたことが確認できる(専門用語では「六丁張り」という)。当たり前だが,版本からは,こんなことは想像できない。

今風にかぞえれば,1枚板に12ページが彫られているのである。


また,「鍼灸」では検索できなかった,「針灸」という版木が見つかった。


書名が特定できないので,版心(柱)にある「針灸」を資料名として取ったのだろう。


板木番号: F0310  板木Group番号: F0310。(丁付 三十七・四十、三十九・三十八)

画像を見ると,

https://www.dh-jac.net/db/hangi/results-big5-hangi.php?f1a=F0310&-max=1

正面と背面の腧穴図(37丁)など。


板木番号: F追加0001 板木Group番号: F0037 (丁付 三十三・三十四、三十六・三十五)

https://www.dh-jac.net/db/hangi/results-big5-hangi.php?f1a=Ftuika0001&-max=1


これは,摂生堂人(おそらく岡本一抱)撰『広益鍼灸抜萃』(元禄乙亥)である。

オリエント出版社『臨床鍼灸古典全書』67所収。

 (連絡先が見つかったので,メールを出しておいた。)

2021年11月21日日曜日

古代の印刷術 活字版,整版のできるまで

 今年は,塙保己一(1746年~1821年)の没後200年。東京渋谷にある塙保己一史料館では,

かつては夏に「続群書類従の版木を刷る」イベントを開催していましたが,現在は,どうなのでしょうか。


倍速で,いろいろ見ています。活字の作り方,整版の工程,

一つの映像ではわからない作業や手順が,他のものをみることによってわかることもあります。


雕版刻印步驟解說 2016/01/22

https://www.youtube.com/watch?v=Rd6DV6DTAqc


印刷術演進1112 2014/11/26

https://www.youtube.com/watch?v=TBDMLmOBMo0


【了不起的匠人】 THE GREAT SHOKUNIN 第12集 东源村的木活字修谱师Wooden Movable Type(Eng-Sub)2017/03/17

https://www.youtube.com/watch?v=yL42BswKWug


中國古代科技-雕版印刷術 2012/03/13

https://www.youtube.com/watch?v=G_9n9L2O0KI


非遗扬州系列宣传片——《墨香·雕版印刷》2020/11/06

https://www.youtube.com/watch?v=tk6udqZmzwo


Block Printing 雕版之缘 2017/11/29

https://www.youtube.com/watch?v=kGIX78dz7wU


韩国抢先申遗雕版印刷术?中国匠人:雕版印刷是中国传承至今的技艺,一般人学都学不会!【传奇中国】 2021/03/10

https://www.youtube.com/watch?v=fH_Xt-rgqDo


雕版印刷在何時發明? 2021/07/14

https://www.youtube.com/watch?v=6kK4tkg0dQk


国宝档案 中国古代雕版版片(上) 国宝档案 20101111 2013/06/03

https://www.youtube.com/watch?v=qOlgLf7M1aQ


(木活字)Woodblock printing, engraved with the essence of the ancient Chinese culture |Liziqi Channel 2018/08/20

https://www.youtube.com/watch?v=SG0MdDS2WI0


《中华百工》— 木活字印刷 反字(裏返し文字) 2017/08/09

https://www.youtube.com/watch?v=fRpE4-peuSQ


[传承第二季]木活字印刷术  2018/04/29

https://www.youtube.com/watch?v=ctvu6Ilfo0g


走近木活字印刷术 重温光阴的故事 2019/04/16 長い

https://www.youtube.com/watch?v=Gfr_19KBf6o


扬州中国雕版印刷流程.MPG 2011/09/13  雕版=整版(一枚板彫り)のできるまで

https://www.youtube.com/watch?v=-ZKSQ1mexyI


时光穿越!近距离看雕版印刷古法印书 2019/01/22  

https://www.youtube.com/watch?v=SrJPmhwaTuc


雕版印刷的雕與印 2016/01/22

https://www.youtube.com/watch?v=IOLiR8y5AFc


刻经 Buddhist scripture carvings on 江苏国际 雕版印刷术 2014/03/04

https://www.youtube.com/watch?v=9jBO02-asZ4


2 2 臺灣雕版與活版印刷的故事 完整 臺灣の活字印刷の歴史 2017/08/15

https://www.youtube.com/watch?v=dSuqhGesMXw


設計 |活印盒 : 讓你把中國最偉大的發明隨身攜帶 金属活字 2017/03/28

https://www.youtube.com/watch?v=RIfy-gJq4l8


リベラルアーツフォーラム  長い

整版印刷・活字印刷 日本と朝鮮の比較 2016/12/04

https://www.youtube.com/watch?v=RgsPU0yIF5E


第1回 絵入り版本の歴史と装訂

https://www.youtube.com/watch?v=9RnftE9LYxo


The Ukiyo-e Technique: Traditional Japanese Printmaking 2014/04/22

https://www.youtube.com/watch?v=yfqsTy3Yx24&t=0s


2021年11月20日土曜日

『鍼経指南』の撰者,竇漢卿(1196年-1280年)の伝と墓碑

 『元史』列傳第四十五

https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=974213

竇默,字子聲,初名傑,字漢卿,廣平肥鄉人……


昭文館大學正議大夫竇公神道碑

https://baike.baidu.com/item/%E7%AA%A6%E9%BB%98%E5%A2%93%E7%A2%91/5530904

至元十七年秋七月十有二日,昭文館大學士、正議大夫竇公,以疾薨於京師。訃聞,上深悼惜,賻恤其家甚厚;皇太子送楮幣二千緡以供葬事。……


医術に関する記載は少ない。

『元史』列傳:

「醫者王翁妻以女,使業醫。轉客蔡州,遇名醫李浩,授以銅人針法。」


神道碑:

「有清流河醫者王氏,妻以其女,且授公以方脈之術。……疾病者來求醫藥,率皆欣然應答,人無貧富貴賤,視之如一。針石所加,醫藥所施,病輒痊安,而未嘗有一毫責報之心。」


世祖(元朝の初代皇帝/フビライ モンゴル帝国第5代皇帝)の寵愛を受けたひとであるから,医学に関することなど,取るに足りなったのかも知れない。


『鍼經指南』の朱良能序は,元・元貞元年(1295)。竇漢卿没後15年。


2021年11月19日金曜日

竹田秀慶『月海雑録』五 鍼灸門

 http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100247831/viewer/1

 82コマより

http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100247831/viewer/82


 宮内庁宮内庁書陵部蔵 竹田秀慶『月海雑録』(558 ・ 32)

 竹田秀慶(一四六〇~一五二八。名は定祐。字は月海。竹田昭慶の子。朝廷医。)

 多紀元簡 寛政三年 写


            (〆=シテ) 

      七十八オモテ

    五 鍼灸門

 五月廿四日鍼灸略抄口傳左ニ記

一肩井ハ中風〆手不叶ニ灸セヨ

一未口傳ハ針灸六(穴)ト法度壯ニノセタルハ三里膏肓の叓ナルベシ一大叓也鍼灸資

  生經足ノ陽明經ニ出之則書之臏骨ハアチコチヘアリク物ソ

  又跗陽ノ脉ニ指ヲ置テ三里ノ穴ヲ按バ跗陽ノ脉絶スルフ(ソ)犢鼻ヨリ

  三寸下也骨ニ指ヲ一ツリバタテヨ

一絶骨ハ外クロブシヨリ骨アツテ三寸バカリ上テ絶スル也其骨ノハヅレ也若骨ナキ

  人ニハ外クロブシノ上ヨリ三寸上ヲ灸セヨ三里ノ灸ハ犢鼻ノ中央ニ墨點ス此

  絶骨ハ踝ノ上ヨリ取之中央ニハアリス

      七十八ウラ

一瘖門ハ不能言鍼之明日吉日也美濃■ガ中風ニ刺ベシ一ノ骨ノ上ノハシヨ

  リ身寸三寸五分也針入八分 針ニ墨ニテシルシヲセヨ

一問曰難産ノ針ハナシ哉 荅三隂交也故ニ畧抄ニモ姙娠不可刺ト書之

  灸ハナシ針ハ是也度〻得効 鍼灸資生經ニハ足ノ大隂脾經ニ出之

  徐文伯宋ノ太子アラソツテ鍼之得効則書之医学源流ニモアルゾ

  是ツブ■シノ上ヨリ取之具畧抄見タリ          【ツブシ=踝・腿・膝】

一四花患門ノ灸ハ午ノ日ヨリセヨ午未申酉戌十五日灸〆亥ヨリ巳ニ至テ

  七日ヤスミテ又今度ノ午ヨリ灸セヨ初日ハ七壯也一倍ツヽ増シ二日ニハ

  十四三日廿八四日五十六五日ニ百十二也十二ヲハ捨テ百壯灸セヨ

  一日ニ二ツ灸スル故ニ灸スル日ハ十五日也灸數ハ六百

      七十九オモテ

一患門ヲ灸シ了テ四花ヲセヨ

一脉六動ニ至テハ四花ノ灸ヲスベシ

一四花灸ハ動數ノアルニモ不苦

一日腫物ノ灸ハ中脂(【指】)ノ本ノフシヨリ取之手クヒニアテヽ大拇指ノトヲリ

  ヲ灸セヨ   【日腫物:ニッシュノモノ。皮膚の一部がうみをもってはれあがるもの】

一咳逆ノ灸 醫書大全 師曰度〻得効

 灸法治咳逆其法婦人屈乳頭向下盡處骨間是穴丈夫及乳小者以一指為

 率正男左女右与乳相直間陷中動脉處是穴艾炷如小豆許灸三壯   【許:ばかり】

一師曰四花灸ハ濟生方ニ離日〔午ノ日也〕ヨリ灸セヨトアリ

一首ト足ト冷ル病者灸ヲトア(カ)ニ百會ヲ出シ給フ

     七十九ウラ

一一病人胸ニ氣ツカヘタリトヤ(カ)ニ膈兪ヲヲロシ玉フ

一癲癇ノ病人ニ百會ト身柱ト五ノ腧ヲヲロシタマウソ

一手ノ横文ヨリ三寸後ハ心痛ニヨシ【左手の図あり】兩筋ノ間也

一淋病ニハ十九腧ヲ灸スベシ

一腹雷鳴也ハ十二腧ト中管トヲ灸セヨ

一癸亥ノ灸ハ八專ノアキ癸亥ニ亥ノ時灸ス世ニ腰眼ト云灸也一灸

  七壯兩方ニ十四骨ノ上也腰(コヘ)タル者腰ヲノバセバクボムゾ下腹ニ妙也

    【『醫說』卷2・灸瘵疾:「……當以癸亥夜二更六神皆聚之時,解去下體衣服,於腰上兩旁微陷處,鍼灸家謂之腰眼」。】

一腫氣ニハ水分ニ灸シ玉フゾ

一淋ニハ十九極骨関元カヨキソ

一肩髃ノ穴ハ肩ノ疼ムニ妙也肩ノ廉■■後ヘヨルソ

     八十オモテ

一疝氣ノ秘灸 痛ム方ノ筋 隂莖ノトウリヲヤケ

一小兒肝疳雀目ニハ九腧ヲヲロシ玉フ 目ニハ手ノ陽明ノ穴ヲロシ玉フ妙也

  兩手或男左女右【右手の図あり。/是陽明穴也兩骨ノ極処也】

一巨闕 上脘 中脘 建里 下脘 水分 臍中 陰交 氣海 石門 關元

  中極マテハ男ノ灸穴也土用ニ不可灸 十一十二ヨシ

一隂交 氣海 石門 關元 中極マテハ尿數ヲ灸〆止ルソ

一極骨ヲ灸スルハ小便ノナキニ小便ヲサスヘキトテ灸スルソ

一腫物ノ筋ハツテ行先ニ針ヲタツルニハ〔腫――○針〕如此タツルソ當流ノ口傳ニハ

    針 如此タツルソ筋ノ先ヲ針スレハ猶筋ヲヒクゾ其勢力ニナヲ

  ハルソ アトヲ針〆アトヘシクガヨキソ

     八十ウラ

一淋病小便不通ニハ臍中ニ塩ヲ一ハイコミテ其上ヲ灸セヨ

一卒死ニハ手横文ヨリ三寸後ヲ灸セヨ心痛ノ灸ニ同シ

一治熱眼針【左手の図あり】

     此穴尺澤ヨリモ外ナリ二ツ分タル内ノ筋ノ二ニタヨリ二分ヲイテ

     サセ針ノ入叓一分ナワニテウデユウテ見之

  此針狂氣ニ妙也度〻得効

一絶子ノ針

  石門ヲ刺コト八分瀉スル叓八吸也度〻得効トノ玉フ此針ニテ

  胎墜ルソ 石門ハ臍中ヨリ二寸

一世上ニ乳ヨリ上ニ物ノ出キタル灸是ヲヒキヤイトヽ云也四花ノ灸ノ如ク大骨ニカケ

     八十一オモテ

  テ鳩尾ニテ切断〆後ヘ引テ尽ル処ニ墨点〆兩傍各一寸半是他流也當

  流ニハ竹馬ノ灸ヲ用ユ妙也

【左手の図あり】

  此灸捴〆デキ物ノ秘灸也中指ヲ伸テ本節ノ高キ処ヨリ

  アテヽ指頭セ(マ)テ至テ切テ横文ニアテヨ少シウデノ外ニヨレ指ニデキ

  タル物ナンドニ妙

一中風七ケ灸 百會 聽會〔耳前動脉〕肩井 曲池 風市 三里 絶骨

  中風頸以上煩ハ百會聽會ヲ灸スベシ手ヲ患ハ肩井曲池ナルベシ足ヲ

  患ハ風市三里絶骨タルヘシ

一腰氣ハ章門或ハ大腸腧又ハ腰眼ノ通リ一処ヲ可灸

     八十一ウラ

一婦人腰氣ノ秘灸 龜ノ尾ヲ指ニテノセテ下ヨリ上ヘヲシアケテ同身ノ三寸上ヲ

  灸セヨ         【龜ノ尾:尾骨】

2021年11月18日木曜日

趙京生 臓腑背兪と十二経脈との関係の再認識 03

 3 臓腑背兪経脈関係の選択


 上述した文献では兪募穴がつねに一緒に取り上げられていて,体幹部にある腧穴には共通性があることを示している。募穴であれ背兪穴であれ,みな対応する臓腑(形臓)に隣接し,近接部位を主治とする腧穴であり,腧穴がある場所は臓腑に基づいており,経脈に基づいているのではないので,多くの穴は対応する臓腑の経脈上にはない。すなわち兪募穴の経脈帰属は,経脈と臓腑の対応関係に一致しないことが多い。この腧穴帰経は,経脈と臓腑との関係の命題〔提示〕に,理論的欠陥をもたらし,臨床の指針としての経脈理論の価値を弱めることになる。たとえば臓腑病に対する原穴と背兪穴を取穴する治法の説明は,一般に兪原配穴〔訳注〕の観点からなされ[10],経脈の観点からなされることは少ない。四肢は体幹にある臓腑から遠く離れた部位にあり,五兪穴を代表とする肘膝関節以下の穴が所属する経脈は,みなそれぞれ対応する臓腑に直接つながっていて,臓腑と特定の関係がある。言い換えれば,経脈と臓腑との関係の命題〔提示〕は,おもに四肢部の経脈と腧穴の関連理論に体現される。

  [10] 王宛彭,纪青山. 谈脏腑背俞穴[J]. 山东中医学院学报,1988,12(1):12-13.

 〔兪原配穴:背兪穴と原穴の配穴。 “合募配穴治疗腑病”与“俞原配穴治疗脏病”

  http://www.360doc.com/content/15/1002/07/7499176_502791454.shtml などを参照。〕


 鍼灸理論の発展過程をみれば,手足の経脈が最初に出現し,四肢の穴で内臓の病を治療し,方法としては遠隔病位取穴であり,四肢はこのような経脈理論認識を形成する基礎となる部分である。このような鍼灸治療経験から昇華された経脈理論は,四肢に基づいている。類穴〔訳注〕の中で大多数を占めるのは四肢にある穴であり,かなり早い時期の鍼灸の実践と理論上のこのような偏った特徴を反映している。しかし体幹にある穴は内臓病を主治し,方法としては近部取穴であり,所在する部位の多くは対応する臓腑の位置に相当し,前者とは基礎が異なる。四肢にある経脈の循行分布で(つながりを)説明する場合は,つじつまを合わせるのは困難である。したがって,腧穴と臓腑との関係に関する経脈理論の構築は,四肢穴の内容は相対的に完備しているが,体幹穴の内容にはかなり問題が多い。

 〔類穴:特定穴ともいう。十四経穴の中で,いくつかの特殊な性質と作用を有する腧穴を他と組み合わせたもの。類穴の組み合わせ方には,主に以下の2つがある。1. 腧穴と五臓六腑に密接な関係(生理・病理・診断・治療などを含む)があるもの。例:背兪穴・募穴・原穴・下合穴。2. 腧穴と経脈・気血などに密接な関係があるもの。例:五兪穴・郄穴・交会穴・絡穴・八脈交会穴。〕


 『内経』にある体幹穴に関する理論のいくつか,たとえば経脈標本や四街〔訳注〕などは,上述した背景の中で形成されたもので,経脈循行や腧穴分類とは異なる形式で表わされており,まさに上述した特徴を反映していて,腧穴主治の法則に符合し,理論構築において完璧な学術的価値を有する。とりわけ経脈標本が示した背兪と陰経のつながり,ひいては体幹穴と四肢穴の(経脈の)関係は,唐代の孫思邈にいたるまでずっと重視されていて,なおかつ内容的にも形式的にも発展があった。今日に到っても,現実的に理論的な意義をそなえている。しかしながら,臓腑背兪を足の太陽経に帰属させる形式が宋代官修の『銅人腧穴鍼灸図経』に取り入れられて正統となって以後,経脈標本のような理論とそれを発展させた内容は,正統外の「その他」の形式とされ,その影響は今日におよんでいる。その上,腧穴とそれに対応する経脈の関係については,後世次第に両者間の具体的な連係路として認識するのが習慣となった。特にそれは『十四経発揮』の大きな影響を受けた,経脈が体表をめぐって本経の腧穴をつなぐ形式である。腧穴主治と経脈のつながりの観点からみれば,十四経脈の多くは胸腹部をめぐり,かつ半数以上の募穴は複数の経脈の会となっている。背腰部には足の太陽経と督脈しかないので,対比すれば,臓腑背兪の経脈とのつながりは,もっとも乏しいと言える。『千金翼方』に代表される臓腑背兪と十二経脈の関係は,より合理的であるものの,経脈の「循行」によっては,つながりが示されない。このことが現代人がこの理論とその意義についての認識に影響を与えているのかもしれない。では,臓腑背兪と経脈との関係は,どのように示せばよいのか。現在の足の太陽経に帰属しているが変わらない情況の下では,経脈標本理論を基礎とし,『千金翼方』の形式を採用し,楊上善のいう背兪と対応する内臓間の絡脈のつながりと結びつけて,臓腑背兪と十二経脈との対応関係を説明するのには,価値がある。

 〔四街:上文原注[3]の下にある訳注「気街」を参照。頭・胸・腹・脛部にある四気街。『霊枢』動輸(62):「四街者,氣之径路也。故絡絶則径通,四末解則氣従合,相輸如環〔四街なる者は,気の径路なり。故に絡絶ゆれば則ち径通じ,四末解くれば則ち気従い合し,相輸すること環の如し〕」。〕


 経脈標本などは,経脈と腧穴の理論が初期の発展段階における活発な思考と正確な方法であることをはっきり示しており,後世の理論認識上の硬直化とは対照的でもある。現代人にとって,背兪穴が経脈とどのような関係にあるかは,既存の理論をいかに選択するかにかなりの程度かかっており,言うまでもなく認識の問題を解決することが前提であることは,容易に理解できる。臓腑背兪と十二経脈とのつながりには,かなりの堅固な実践の基礎と理論の構築がなされている。その意義を具体化し発揮するためには,学術的価値を発掘し回復させ,その科学的で合理的な要素を継承発展させることが求められる。理論が臨床を指導するというの実際の要求からはじまり,臓腑背兪とそれぞれ対応する経脈とのつながりを確立し,適切な理論形式と理論体系中の位置構造〔組み合わせと配置〕を与え,現代鍼灸理論をたえず改善してこそ,臨床に対する指導性を高めることができる。

2021年11月17日水曜日

趙京生 臓腑背兪と十二経脈との関係の再認識 02

 2 臓腑背兪と経脈関係における別の理論形式


2.1 臓腑背兪と十二経脈の関連


 (1)五臓の背兪と経脈の関係には,一般的な意味の腧穴帰経を除いて,実際にはさらに別の理論形式,すなわち経脈標本がある。その基本的な内容は,経脈は四肢部を本〔ねもと〕とし,頭・身部を標〔こずえ〕として,標と本によって頭・身と四肢の間にある,ある種の上下の関連をたとえており,経脈はこの連係の基礎であり,説明である。その中で,陰経脈と陽経脈では標の部位が異なる。陽経の標はみな頭頸にあり,陰経の標は主に体幹にある。足の三陰経と手の少陰経の標はみな「背兪」(足の太陰経と少陰経の標は舌)に,手の太陰経と厥陰経の標は腋脇にある。これを他の(たとえば根結などの)鍼灸理論と比較して,経脈標本が有する独特な内容は,五臓の背兪と陰脈との関係,すなわち標と本で上下に関連する形式であり,(肺を除く)五臓の背兪がそれぞれ五臓の経脈と対応し,五臓の背兪の主治作用に,対応する経脈が連絡する基礎を提供している。

 四気街〔訳注〕の理論では,胸の気街と腹の気街の気は背部ではみな背兪にとどまり,腹部の腧穴とともに「腹痛中満暴脹,及び新積有るもの」〔『霊枢』衛気(52)〕を主治する。背兪について言えば,経脈標本と四気街は,それぞれ経脈と部位という異なる観点からその主治原理を説明している[3]。経脈標本と四気街は,(五臓の)背兪をもっぱら論じているわけではないが,両者はおなじ(『霊枢』衛気〔52〕)篇内にまとめられ,『霊枢』背腧〔51〕の直後にあり,内容の関連や篇の配置から,いずれも編者がこれらの理論を構成する要素として背兪を理解していたこと,もしくはこれらの理論と背兪には密接な関連があると認識していたことを示している。

  [3] 赵京生. 气街理论研究[J]. 针刺研究,2013,38(6):502-505. 

    〔気街:4つあり,「四街」「四気街」ともいう。脈気がめぐる道であり,経脈の気が集まり流れる共通の通路である。『霊枢』衛気(52)に,「胸気に街有り,腹気に街有り,頭気に街有り,脛気に街有り」,『霊枢』動輸(62)に「四街は,気の径路なり」とあり,頭・胸・腹・脛の各部にはみな気の経路があることを説明している。『霊枢』衛気は,「故に気の頭に在る者は,之を脳に止(とど)む。気の胸に在る者は,これを膺と背兪に止む。気の腹に在る者は,之を背腧と衝脈の臍の左右の動脈に于(お)ける者とに止む。気の脛に在る者は,之を気街と承山、踝の上と以下とに止む」という。つまり,経気の頭部にあるものはみな脳につながり,経気の胸部に到るものはみな胸と背兪につながり,経気の腹部にあるものはみな背兪と腹部の衝脈とつながり,経気の下肢に到るものはみな気衝の部につながっている。したがって,これらの部位にあるツボは,その局所と関連する内臓の病変を主治できる以外に,さらに四肢の部分にある疾病も治療できる。(百度百科)〕


 したがって,『内経』にはすでに背兪に関する理論形式があり,その中で経脈標本によって確立された背兪穴と諸陰脈との関係は,『甲乙経』『千金方』などの晋唐文献の中に反映され,さらに理論と応用の両方が展開されている。

 (2)孫思邈は経脈標本に内包された関係について,標の背兪は本の「応」であり,「応」は四肢と頭・身の上下の部位にある対応する関係を表わしている,と明確に述べている。たとえば『千金要方』に,「厥陰之本在行間上五寸,応在背兪〔宋版:厥陰の本は行間の上伍寸に在り,応は背輸に在り〕」(巻11第1),足の太陰脈は「其脈本在中封前上四寸之中,応在背兪与舌本〔宋版:其の脈の本は中封の前上四寸の中に在り,応は背輸と舌本に在り〕」(巻15第1)とある。さらに進んで,『千金翼方』の「三陰三陽流注法」が十二経脈の要穴を論じて,さらに兪募穴と五兪穴を同列に論じている。たとえば,「肺手太陰:少商・魚際・大泉・列欠・経渠・尺沢,募中府・兪三椎。大腸手陽明:商陽・二間・三間・合谷・陽渓・曲池,募天枢・兪十六椎……」。また「五蔵六腑三陰三陽十二経脈,蔵腑出井・流滎・注兪・過原・行経・入合,募(兪)前後法〔五蔵六腑三陰三陽十二経脈,蔵腑は井に出で,滎に流れ,兪に注ぎ,原を過ぎ,経に行き,合に入る,募(兪)前後法〕」(巻26)という概括的な理論も述べられている。明らかに孫氏は,十二経脈各経の最重要兪穴として,四肢部の五兪穴以外に,さらに体幹部の兪募穴があると考えている。したがって,十二経脈の概念のもとでは,兪募穴はそれぞれ対応する経脈に直接関連づけられ,背兪の本である「応」の形式を経脈帰属性の方式に変換させている。

 孫氏にこのような認識が形成されたのは,『内経』の経脈標本に基づくものであり,『脈経』『甲乙経』などの影響もあるはずである(詳細は後述)。その認識過程は,『千金要方』から『千金翼方』へいたる表現の変化から推察することができる。『千金要方』巻29・五臓六腑変化傍通訣〔第4〕の一節は,臓腑に関連する散らばっている内容を,「五蔵経」「六腑経」「五腑輸」「六腑輸」「五蔵募」「六腑募」「五蔵脈出」(=五兪穴)「六腑脈出」(=五兪穴)という名称で(現在の表に類似する形式にして)「纂集して相附」していて,関連する腧穴の内容はすなわち五兪穴と兪募穴である。同巻の三陰三陽流注〔手三陰三陽穴流注法第2上と足三陰三陽穴流注法第2下〕の一節に列記されている十二経脈の腧穴は五兪穴しかない。これを基礎として,『千金要方』を補うために編撰された『千金翼方』の「三陰三陽流注法」〔巻26・取孔穴法第1末〕では,兪募穴を組み入れ,さらに理論化された表現になっている。提示されている背兪と経脈の関係は,本質的な意味において腧穴帰経と同じであり,違うのは形式だけである。後世の医家の多くは孫氏の意図をしっかり理解しておらず,一般に『千金要方』の経脈流注の内容は引用しても,『千金翼方』のこれよりさらに価値がある認識は顕彰されていない。


2.2 関連する経験的根拠と理論的認識


 孫氏の上述したような認識と方法の源は,『内経』にあるはずである。

 (1)『霊枢』九針十二原〔01〕の「十二原」は,その代表である。これらの穴は手関節・足関節付近にある五臓陰脈の原穴と胸腹部にある鬲の原〔訳注〕および肓の原からなり,みな臓病を主治する。『千金翼方』での十二経の五兪穴に兪募穴を加えた分類法は,これと類似する。病証,とりわけ臓腑病の治療に四肢と体幹部の2つの穴を取る方法は,『内経』にも見える。たとえば腑病の治療には,下肢穴(下合穴等)と腹部穴(肓の原)を取る。「邪在大腸,刺肓之原・巨虚上廉・三里〔邪 大腸に在れば,肓の原と巨虚上廉と三里を刺す〕」。「邪在小腸者……取之肓原以散之,刺太陰以予之,取厥陰以下之,取巨虚下廉以去之〔邪 小腸に在る者は……之を肓の原に取って以て之を散じ,太陰を刺して以て之に予(あた)え,厥陰に取って以て之を下し,巨虚下廉に取って以て之を去る〕」(『霊枢』四時気〔19〕)。腹満と霍乱の治療には,四肢穴と背兪・募穴を取り,「腹暴満,按之不下,取手太陽経絡者,胃之募也,少陰兪去脊椎三寸傍五,用員利鍼。霍乱,刺兪傍五,足陽明及上傍三〔腹暴(にわ)かに満ち,之を按ずるも下らざるは,手の太陽経の絡なる者,胃の募なると,少陰の兪 脊椎を去ること三寸の傍らを五たび取り,員利鍼を用う。霍乱は,兪の傍らを五たび,足の陽明及び上傍を三たび刺す〕」(『素問』通評虚実論〔28〕)。『内経』時代の,このような治療のための用穴基準を理論的にまとめたものは,五臓の陰経からはじまり,おもに2つの形式がある。1つは臓病を治療する四肢の穴と腹部の穴を一緒にまとめる,すなわち「十二原」である。もう1つは経脈標本の陰経の標本である(体幹部の腧穴では,両者には軽重があり,1つは前で1つは後。その中の鬲の原と肓の原は胸腹臓腑の主治穴として,精錬して分類され,募穴が生み出された始まりとしての意義を有する可能性がある)。

 〔鬲の原:『太素』巻21 九鍼之一・諸原所生に「鬲之原出于鳩尾,鳩尾一,肓之原出于脖胦,脖胦一」(『霊枢』九針十二原(01)は「鬲」を「膏」に作る)とある。趙京生主編『针灸学基本概念术语通典』(人民衛生出版社,2014年,276頁)「鬲肓」を参照。また「何以“膏肓”一误再误?」(http://www.360doc.com/content/16/1210/16/7288840_613561457.shtml),李鼎『鍼灸学釈難』(浅野周訳)問76:「膏肓」という名の変遷と,この経穴の名前の意味は何か? を参照。〕


 (2)『難経』が論じている3種類の腧穴においてすら,五兪穴と兪募穴はその2つを占めている(もう1つは八会穴)。

 (3)その後,漢代の著作と考えられている『黄帝蝦蟆経』は,五臓の「募輸」及び陰脈の四肢穴の鍼刺禁忌日を論述して,「四時五蔵王日,禁之無治〔四時五蔵の王日(=旺日)は,之を禁じて治すること無かれ〕」としている。たとえば,本書の第5には,「五蔵属五神日:春肝,王甲乙日,無治肝募輸及足厥陰。夏心,王丙丁日,無治心募輸及心主、手小陰。四季脾,王戊己日,無治脾募輸及足太陰。秋肺,王庚辛日,無治肺募輸及手太陰。冬腎,王壬癸日,無治腎募輸及足小陰〔五蔵属五神日:春は肝,甲乙の日に王ず,肝の募輸及び足の厥陰を治すること無かれ。夏は心,丙丁の日に王ず,心の募輸及び心主と手の小陰を治すること無かれ。四季は脾,戊己【原文は「已」に誤る】の日に王ず,脾の募輸及び足の太陰を治すること無かれ。秋は肺,庚辛の日に王ず,肺の募輸及び手の太陰を治すること無かれ。冬は腎,壬癸の日に王ず,腎の募輸及び足の小陰を治すること無かれ〕」とある。その「肝の募輸」などの五臓の名前に募輸を加えた表現の仕方は『素問』奇病論〔47〕に見える。曰わく:「胆虚気上溢而口為之苦,治之以胆募兪,治在『陰陽十二官相使』中〔胆虚して気は上溢して,口 之が為に苦し,之を治するに胆の募兪を以てす。治は『陰陽十二官相使』中に在り〕」(注:「胆の募兪」について,楊上善は胆の募穴 日月と考え,王冰は胆の募穴と背兪と考えている。按ずるに『内経』では六腑に背兪穴がないことは,前述したとおりであるので,楊注に従うべきである。『陰陽十二官相使』について,王冰は注して「今経已に亡ぶ」という。『甲乙経』巻3〔第19〕にある胃の募 中脘穴の注に「呂広撰『募腧経』」とある。呂広は三国時代の呉の人である。また,「募輸」は募穴と背兪穴を意味するというのは,『内経』の注釈書以外では,主に明清の医書に見られる)。『黄帝蝦蟆経』が論じているもの(体幹穴と四肢穴にある運用上の関連性)は,兪募穴とそれに対応する臓腑経脈の内在的〔=本来備わっている,固有の〕関係を示している。

 (4)『脈経』は臓腑の基本的な内容と脈法を論じているが,そこで言及されている唯一の腧穴は兪募穴である。たとえば巻3〔第1〕に「肝象木,与胆合為府。其経足厥陰,与足少陽為表裏……肝兪在背第九椎,募在期門;胆兪在背第十椎,募在日月〔肝は木を象(かたど)る,胆と合して府と為す。其の経は足の厥陰,足の少陽と表裏を為す……肝兪は背の第九椎に在り,募は期門に在り。胆兪は背の第十椎に在り,募は日月に在り〕」とある。臓腑経脈病症を論じて,五臓の病の治療では,対応する経脈の五兪穴と兪募穴を取穴する。たとえば巻6〔第1〕には,「肝病,其色青,手足拘急,脇下苦満,或時眩冒,其脈弦長,此為可治。宜服防風竹瀝湯,秦艽散。春当刺大敦,夏刺行間,冬刺曲泉,皆補之。季夏刺太衝,秋刺中郄,皆瀉之。又当灸期門百壮,背第九椎五十壮〔肝の病,其の色は青,手足拘急し,脇下苦満し,或いは時に眩冒す,其の脈 弦長なれば,此れ治す可しと為す。宜しく防風竹瀝湯,秦艽散を服すべし。春は当(まさ)に大敦を刺し,夏は行間を刺し,冬は曲泉を刺して,皆な之を補うべし。季夏は太衝を刺し,秋は中郄を刺し,皆な之を瀉す。又た当に期門に百壮,背の第九椎に五十壮灸すべし〕」(注:六腑の病は,『霊枢』によって,主に下合穴を取る)とあり,提示されている五臓病に対する選穴には,一定の規範と原則が含意されている。

 (5)『甲乙経』は臓腑の脹を治療するために用いる腧穴を掲載している。五臓の脹はみな対応する背兪穴と原穴(心臓を除く),すなわち背兪穴に四肢穴を加えたものである(六腑の脹にはやや乱れがあるが,多くは募穴である)。たとえば巻8第3の五臟六府脹には,「心脹者,心兪主之,亦取列欠。肺脹者,肺兪主之,亦取太淵。肝脹者,肝兪主之,亦取太衝。脾脹者,脾兪主之,亦取太白。腎脹者,腎兪主之,亦取太渓……〔心脹は,心兪之を主(つかさど)り,亦た列欠を取る。肺脹は,肺兪之を主り,亦た太淵を取る。肝脹は,肝兪之を主り,亦た太衝を取る。脾脹は,脾兪之を主り,亦た太白を取る。腎脹は,腎兪之を主り,亦た太渓を取る……〕」とある。五臓の原穴の多くは手関節・足関節の付近に位置し,これらの部位は経脈の本が所在する範囲でもある。したがって,五臓の脹に背兪穴と原穴を取穴する方法は,陰経の標と本を具体的に運用したものと見なすことができる。

 (6)南北朝時代の『産経』[4]の逐月養胎の中には,このような十二経脈にしたがって兪募穴と四肢穴を記述する形式もある。「夫婦人妊身,十二経脈主胎,養胎当月不可針灸其脈也〔夫(そ)れ婦人 妊身すれば,十二経脈 胎を主る,胎を養うに月に当たれば其の脈に針灸す可からず〕」(『医心方』巻22・妊婦脈図月禁法に見える)。言及されている10本の経脈(手の少陰と太陽の経はない)の穴は,みな該当する経の四肢部の穴に兪募穴を加えたもので(兪募穴の前に「又」字があり,四肢の穴とは区別されている),全体としては兪募穴をそれぞれ対応する臓腑の経脈に組み込む形式になっている。たとえば,「肝脈穴,自大敦上至陰廉,各十二穴。又募二穴,名期門;又輸二穴,在脊第九椎節下両旁,各一寸半〔肝脈の穴は,大敦自(よ)り上りて陰廉に至るまで,各十二穴。又た募二穴,期門と名づく。又た輸二穴,脊の第九椎節下の両旁,各一寸半に在り〕」とある。その表現の仕方は『脈経』に似ているが,言及されている四肢部の腧穴は,五兪穴だけでなく,すべての腧穴である。内容的にも形式的にも,兪募穴が十二経に帰属するという意味は明確であるが,経脈腧穴の発展過程においては,めったに見られないものである。

  [4] 张志斌.古代中医妇产科疾病史[M].北京:中医古籍出版社,2000:40.


 (7)十二経脈と臓腑背兪の間にある関係の基礎について,楊上善は経脈の循行連係として理解している。たとえば足の厥陰の根結を,「厥陰先出大敦為根,行至行間上五寸所為本,行至玉英・膻中為結,後至肝輸為標〔厥陰は先ず大敦に出でて根を為し,行(めぐ)りて行間の上五寸所(の所(ところ)/所(ばかり))に至りて本を為し,行りて玉英と膻中に至りて結を為し,後に肝輸に至りて標を為す〕」(『太素』巻10・経脈根結)と解釈している。

 これらの応用と理論は,のちの『千金翼方』に見られる十二経の五兪穴に兪募穴を加えた分類方法の基礎であったはずで,孫思邈が実際に応用することから始めて,精錬して腧穴と経脈との関係を一種の革新的な理論形式でまとめたものである。


2.3 断続的な認識


 臓腑背兪とそれに対応する十二経脈を直接関連づけた形式は,経脈標本に基づいて発展した腧穴理論の一つであり,足の太陽経に臓腑背兪を関連づけただけのものよりも,臨床の指針として勝(まさ)っている。しかしながら,この極めて価値のある認識に,唐以後しかるべき反応はほとんどなかった。たとえば,宋代の『銅人腧穴鍼灸図経』巻下にある「傍通十二経絡流注孔穴図」は,五兪穴に触れるだけであり,『鍼灸資生経』が掲載する体幹部の腧穴は,数穴(乳中・府舍・関元など)を除いて,経脈との関連には言及がない。明代の『鍼方六集』巻1〔神照集〕・手足三陰三陽流注総論一は,各経脈の起止穴である。唯一『経穴指掌図書』〔施沛編纂。封面には「経穴指掌図書」とあるが,叙は「経穴図書」,凡例・目録・巻頭はみな「経穴指掌図」に作る。なおこの書と対になる『蔵府指掌図書』は,凡例・目録・巻頭はみな「図書」に作る〕には,「十二経背兪腹募図」があるが,「十二経井滎腧原経合及動脈別絡根結図」と2つの表に分かれていて,『千金翼方』では経脈に帰属する意味が明確であったのには,形式としてはるかに及ばない。つまり,『内経』での陰経の標という認識構想は,唐代まで継続して発展したが、その後はほぼ中断したのである。

 近代になって,背兪穴と十二経脈の関係は,また次第に注目されるようになった。代表的なものをあげれば,20世紀の20~30年代の日本の鍼灸家は,臓腑背兪と対応する十二経脈は通じていると考えて,主穴として用いて各種の病症を治療している。代田文誌が著わした『沢田流見聞録:鍼灸真髄』には,代田の師である澤田健の経験が記述されている[5]。小腸兪に灸すると上腕の神経痛が即座に止まり,「小腸兪と手の太陽小腸経には密接なつながりがある」と考え,「経絡と経穴」の関係では,肺兪・厥陰兪・心兪などの穴をそれぞれ肺経・心包経・心経などに記入し,「兪と募と経のつながり」として説明している。その後,長濱善夫らは,感覚の敏感な患者に対する鍼刺反応について,かなり系統的な観察をおこない,兪募穴には「それぞれ,その本来の経絡と相当な関係があるらしい」と考えた。臓腑背兪に刺鍼したときに生ずる感覚は,局部以外では,対応する臓腑の経脈の四肢末端部にも現われた[6]。この影響を受けて,我が国の孟昭威ら[7]は,13例の経絡敏感人をあいついで観察し,程度に違いがあるものの,臓腑背兪が「背兪と同名の経に達する」「感伝」があらわれた。たとえば,「肺兪に刺鍼すると感伝線が肺経に沿って母指に達し,心兪に刺鍼すると感伝線が心経に沿って小指に達した」。郭原[8]にも類似の報告がある。陳連芝ら[9]の報告では,指/趾痛(拇指/趾と小指/趾痛が最も多い)に対して,まず「痛む指(趾)が所属する経絡に対応する背兪穴を主穴として取り,所属する経絡の他の一端,すなわち起止穴を配合穴とする。たとえば,拇指痛には肺兪を主穴として取り,中府を配合穴とする」と,良好な効果が得られ,「背兪穴と四肢の関節には内在的な〔=本来備わっている,固有の〕つながりがあるので,指趾痛ではしばしば背兪穴に陽性反応がある」と考えた。

  [5] 代田文志,泽田派见闻录:针灸真髓[M] ·承淡安,承为奋译. 南京:江苏人民出版社,1958;43,79-80.

  [6] 长滨善夫,丸山昌朗. 经络之研究[M]. 承淡安译. 上海:千顷堂书局,1955:30-31.

  [7] 孟昭威,李人明,孙东. 背部俞穴和十二经的关系-膀胱经是十二经的核心[J]. 针灸学报,1985(1 ):16-20.

  [8] 郭原. 背俞穴感传的临床研究[J]. 辽宁中医杂志,1990 (4):35-37.

  [9] 陈连芝,王振林. 针刺背俞穴为主治疗指趾痛[J]. 中国针灸,1999,19(12):754.


 これらの臨床治験と関連研究は,前人の認識の再発見に属し,唐以前にあった背兪穴に関する理論的価値に一定程度,証拠を提供するものである。


2021年11月16日火曜日

趙京生 臓腑背兪と十二経脈との関係の再認識 01

 1 臓腑背兪と足太陽経関係との構築


 臓腑背兪が足太陽膀胱経に帰属することが最初に見える伝世文献は『外台秘要方』(以下『外台』と略す)である。これ以前は臓腑背兪と足太陽経との間に明確な関係は基本的になかった。


1.1 『内経』の背兪に対する認識


 『霊枢』背腧〔51〕は背兪を専門に論じた篇であるが,「五蔵之腧,出于背〔五蔵の腧は,背に出づ〕」と言うのみで,内外間の経脈のつながりについての言及はない。『霊枢』衛気〔52〕は,(五臓の)背兪と経脈の関係を明示している。すなわち経脈標本理論にいう,足の三陰経と手の少陰経の「標は背腧に在り」である。この点とその意義は,従来の研究では十分に重要視されていなかった。

 このほか,腧穴の帰経〔=各腧穴がどの経脈に帰属するか〕を記している『素問』気府論〔59〕では,足の太陽脈気が発する所の諸穴の中で,背兪と関連する内容としては,「俠背以下至尻尾二十一節十五間各一,五蔵之兪各五,六府之兪各六〔背を俠(はさ)んで以て下り尻尾に至る二十一節十五間に各々一,五蔵の兪各々五,六府の兪各々六〕」がある。この中の「五蔵之兪各五,六府之兪各六」の12字は『黄帝内経太素』(以下『太素』と略す)には見えないので,あとから追加されたのかも知れない。日本の注釈家である森立之の『素問攷注』は「此十二字,恐是王冰所朱書〔此の十二字,恐らくは是れ王冰の朱書する所〕」と考えている。

 『素問』刺瘧〔36〕には,「風瘧,瘧発則汗出悪風,刺三陽経背兪之血者〔風瘧,瘧発すれば則ち汗出(い)で風を悪(にく)む,三陽経の背兪の血ある者を刺す〕」とある。「三陽経」を『鍼灸甲乙経』(以下『甲乙経』と略す)は「足三陽経」に作り,楊上善は「手足の三陽経」と解釈し,馬蒔と張介賓は「足の三陽経」を指すと考えるが,王冰と張志聡のみは,「足の太陽経」と解釈している。

 『素問』挙痛論〔39〕では,「心与背相引而痛者〔心と背と相い引きて痛む者〕」の機序について,「寒気客於背兪之脈,則脈泣,脈泣則血虚,血虚則痛,其兪注於心,故相引而痛〔寒気 背兪の脈に客すれば,則ち脈泣(しぶ)り,脈泣れば則ち血虚し,血虚せば則ち痛み,其の兪は心に注ぐ,故に相い引きて痛む〕」と解釈している。楊上善は「背兪之脈」とは「足の太陽脈」を指し,心兪には絡脈があって心に至ると考え,「背輸之脈,足太陽脈也。太陽心輸之胳注於心中,故寒客太陽,引心而痛〔背輸の脈は,足の太陽脈なり。太陽の心輸の胳は心中に注ぐ,故に寒 太陽に客すれば,心を引きて痛む〕」(『太素』巻27・邪客)と注する。

 『素問』気穴論〔58〕:「中𦛗両傍各五,凡十穴〔中𦛗の両傍各々五,凡(すべ)て十穴〕」。原文は,具体的な腧穴名と帰経を明らかにしていない。王冰は,「謂五蔵之背兪也……此五蔵兪者,各俠脊相去同身寸之一寸半,並足太陽脈之会〔五蔵の背兪を謂うなり。(肺兪は,第三椎下の両傍に在り。心兪は,第五椎下の両傍に在り。肝兪は,第九椎下の両傍に在り。脾兪は,第十一椎下の両傍に在り。腎兪は,第十四椎下の両傍に在り。)此の五蔵の兪は,各々脊を俠んで相い去ること同身寸の一寸半,並びに足の太陽脈の会〕」と注している。

 以上からわかるように,背兪と経脈の関係について,『内経』は経脈の標本という形で五臓の背兪と五臓の陰経との関係を明示しているが,臓腑背兪と足の太陽経との関係については,『内経』ではまだ確定できておらず,明言しているのは注釈家である。


1.2 後世の医家の背兪に対する認識


 『甲乙経』巻3の内容は,腧穴の部位と所属の経脈である。臓腑背兪では,胆兪と三焦兪を除いて,みな「足の太陽脈気が発する所」という言及はない。しかし背部の脊柱をはさんでそれぞれ3寸(第2行)にある諸穴では,みな「足太陽脈気が発する所」とはっきり述べられている。王冰が注した『素問』気府論〔59〕にある諸穴もこれと同じで,「十五間各一者,今『中誥孔穴図経』所存者十三穴,左右共二十六穴,謂附分・魄戸・神堂・譩譆・膈関・魂門・陽綱・意舎・胃倉・肓門・志室・胞肓・秩辺十三也〔「十五間各々一なる者」,今『中誥孔穴図経』に存する所の者は十三穴,左右共に二十六穴【王冰注本には「穴」字なし】,附分・魄戸・神堂・譩譆・膈関・魂門・陽綱・意舎・胃倉・肓門・志室・胞肓・秩辺の十三を謂うなり〕」とある。

 『外台秘要』〔原文のまま〕巻39の内容は腧穴であり,主に『甲乙経』から集められている。しかし王燾の整理方法は,十二経によって諸穴をまとめ,一経一図(図はすでに失われている)であり,「今因十二経而画図人十二身也〔(諸家は並びに三人を以て図と為すが,)今ま十二経に因って画いて人の十二身に図とするなり〕」(巻首の「明堂序」)。そのため名称もやや変わっていて,「某臓(あるいは某腑)人」という。任脈の腧穴は足の少陰腎経に入れ,督脈の腧穴は足の太陽膀胱経に入れている。背部の腧穴はみな足の太陽膀胱経に入れて,「膀胱腑人」という(「十二身流注五臓六腑明堂」に見える)。「足太陽脈気が発する所」と明記された穴も,『甲乙経』と同じである。したがって,臓腑背兪と足の太陽経の直接的な関係は,現在目にする文献では,唐中期にはじめて現われた。しかし,「王燾は,ただ,『甲乙経』の部位別で行〔列〕に従い配列された腧穴を新たに組み合わせただけで」,「その改められた編成の原則は,行〔列〕に従って経には従わないことであり,もともと『甲乙経』で同一の行〔列〕にある穴は,みな一つの組に帰属させた。たとえば,同一の行〔列〕上にある中府・雲門・期門・日月穴は,みな〈脾人〉に帰属させた」[2]。この方法はあまりに粗雑すぎて,腧穴にかかわる経脈帰属が主治の法則を完全には反映できないことは明らかである。それにも関わらず,『外台』のこの背兪の帰経方法が後世にあたえた影響は大きい。宋代の『銅人腧穴鍼灸図経』(巻上)がその例である。

  [2] 黄龙祥. 针灸名著集成[M]. 北京:华夏出版社, 1996:1218.


2021年11月15日月曜日

趙京生 臓腑背兪と十二経脈との関係の再認識 00

 

  赵京生 脏腑背俞穴与十二经脉关系再识  中国针灸2015年8月第35卷第8期

 ()内は,原注。〔〕内は訳注。
 〔臓腑背兪:背部脊柱の両側体表に位置し,五臓六腑の生理・病理反応と密切な関係を有するいくつかの反応点(ツボ)。それらはみな臓腑の経気が輸注する場所である。すなわち,心兪・心包兪・肺兪・肝兪・脾兪・腎兪・胆兪・胃兪・膀胱兪・三焦兪・大腸兪・小腸兪。(百度百科) 教科書『新版経絡経穴概論』では「背部兪穴」という。〕

 【要約】現行の理論では,臓腑背兪はすべて太陽膀胱経に帰属する。これは理論的に通じがたいだけでなく,鍼灸の臨床を効果的に指導することもできない。鍼灸理論の形成過程は、経脈の標本が五臓の背兪とそれに対応する経脈との関係を基本的に確立し,『千金翼方』によって豊かに発展したが,『外台秘要方』において太陽経に変えられて今に至る,ということを明らかに示している。この学術の変遷の過程と認識の基礎を分析し,背兪と経脈の関係を認識し,今日大切なことは,いかに既存の理論を選択するかであると考え,臓腑背兪十二経脈連係理論の学術的価値を掘り起こし,発揚し,その理論形式とそれに対応する構造関係を確立し,理論構築を完備し,臨床に対する指導性を高める。

 【英文要約からの翻訳】論文名:背兪と十二経脈の関係についての再議論
現在の理論では,背兪は足太陰の膀胱経に分類されているため,解釈が難しく,臨床鍼灸の手引きとしては有効ではない。鍼灸理論の発展が示すところでは,背兪と対応する経脈との関係は,経脈のmanifestation〔標〕とroot cause〔本〕によって確立され,『千金翼方』(千金に値する処方の増補)ではさらに充実した内容になっているが,『外台秘要方』(帝国図書館の秘密の必需品)以来,背兪は足太陰の膀胱経に分類され,その影響は現在も残っている。このような学問的展開と理解の基礎を分析したのち,背兪と十二経脈の問題は,既存の理論をどのように選択するかという問題が提示されていると考えられる。背兪と十二経脈との関係という学問的価値を探究し,理論形式と構造関係を確立することを提案している。結果として,臨床治療の指針となる理論を完成させることができる。

【キーワード】臓腑背兪;足の太陽経;経脈標本;四街;内経;千金翼方;外台秘要方

 臓腑背兪と経脈との関係は,変遷をへて現在では,背兪はみな足太陽膀胱経に帰経するようになった。その理論の欠陥は明らかであるが,それをはっきり認識して解決策を求めることは容易ではない。筆者は,多くの伝統的な鍼灸理論と同様に,学術の変遷を精しく分析することから始めなければならないと考えている。この論文は,この観点と方法をもちいて,先行研究[1]を踏まえた上で,さらに以下の様に検討する。
  [1]贾杰,赵京生. 脏腑背俞主治与足太阳膀胱经之关系[J]. 中国针灸,2005,25(6):414-416. 
 〔趙京生主編『针灸关键概念术语考论』(人民衛生出版社,2012年,208頁)背兪も参照。〕

2021年11月1日月曜日

臺灣の《重編國語辭典修訂本》がリニューアル

 https://dict.revised.moe.edu.tw/index.jsp



ここ数年、30分ぐらい使っていないと、再度はじめから入り直さなければならず、不便だった。

そのため、この辞書を取り込んでいる中国など別の辞書サイトを代用するすることも多かった。

まだ、十分に使いこなしていないが、この問題は、解消されたと思う。

当たり前だが、臺灣の繁体字で検索する。

日本で使用されている「黄」「内」「経」ではなく、「黃」「內」「經」で検索する。
日本漢字から繁体字・簡体字に変換してくれるサイトは、たくさんあるので、そちらを利用する。

進階検索で、キーワードの位置を選んで、
たとえば「山」ではじまる、「山」でおわるという選択もできるが、
基本検索で、
「山」ではじまる語彙を調べるときには「^山」、
「山」でおわる語彙を調べるときには「山$」と入力する方が
覚えれば便利であろう。

追記:★検索して,まったく異なる字詞が提示されることがある。ソフトウェアの不具合か?不可解。(2021/11/03)