2016年9月29日木曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第15章 経別——原型と影  つづき

 3.「六合」と「離合」
 『霊枢』経別は、経別の循行を論じるのに、明確に「六合」を用いているので、現代人も「六合」を経別の別称としている。また経別で述べられている経別の循行では「離合」するところが強調されているので、明代の張景岳『類経』は「離合」を経別の文の篇名としている。『素問』陰陽応象大論を調べてみると、「帝曰く、余聞くならく、 上古の聖人は人形を論理し、臓腑を列別し、経脈を端絡し、六合に通ず、と」とあり、王冰は、「六合は、十二経脈の合を謂うなり。『霊枢』に曰く、太陰陽明 一合を為し、少陰太陽 一合を為し、厥陰少陽 一合を為す、と。手足の脈各々三、則ち六合を為すなり」という。しかし、この一例だけでは、「六合」が当時流行していた六組の「経別」を指した規範的な術語であることを証明するには十分ではない。さらに、「六合」という語は伝世本『霊枢』『素問』には合計八回出現し、「経別」と解釈して通じることができるのはこの一箇所のみであり、他の七箇所はみな「経別」とは関わりない。同様に、「離合」は『内経』でもっぱら経別の循行の特徴を指しているわけでもなく、その他の概念内容もある。このように、「六合」と「離合」を経別の総称とすることは、術語の一義性の要求に合致しないことがわかる。
 4.「与別倶行」と「復属於」
 『霊枢』経別全体をみると、陽経の循行に「正」と「別」があるのみである。まず本経と別「離」して、四肢から心に近いところで相応ずる陰経に合する。その「別」は陰経の道を借りて「入って」胸・腹腔に行き、相応ずる臓腑に属絡し、頸項部にある陽経の標脈箇所に「出て」、本経に「復た属す」。いいかえれば、陽経は陰経に「合した」のち、頸項から表に「出る」前までのすべての行程をずっと陰経の道を借りて行く。対して陰経はその本経に沿って四肢から心に近いところに行き、経と離れてめぐる陽経の別とともに入って裏に行き、臓腑に属絡し、さらに陽経にしたがい、頸項部に出て止まる。いいかえれば、陰経は相応ずる陽経と「合する」「出」口があるだけである。したがって陰経の循行は簡略であり、「正」があるだけで、「別」はない。そのため「別と倶に行く」は陰経にみられるだけで、陽経には見られない。「別れて行」かないので、当然「復た属す」という説明もない。したがって、本経に「復た属す」という説明は陽経に見えるだけで、陰経には見えない。この点を意識さえすれば、経別篇の真意を正しく理解することができる。「陽脈の別は内に入り、腑に属する者なり」という理論を構築するための通り道だったのである!これからわかるように、経別篇冒頭のいわゆる十二経脈の「離合出入」は、実は陽経にのみ言っているだけで、陰経は含まれていない。現代人がいう「十二経別」は適切ではなく、錯誤や誤解を生じやすい。

2016年9月27日火曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第15章 経別——原型と影

第2節 術語と定義
 これまでずっと、「経別」という語についての理解は学術界で大きな相違があり、対応する英文翻訳も一致していない。問題の鍵は、経別篇テキストを正確に理解できないところにある。したがって「経別」概念には正確で明確な定義が欠けている。
 1.「正」と「別」
 『霊枢』経別に述べられている経脈の「正」は、経脈篇の経脈循行と同じであるので、「正」とはすなわち「正経」(あるいは「本経」)であることがわかる。経別篇に述べられている「別」は、陽経が本経から別れて、相表裏する陰経に合し、内に入って行き、腑に属する分枝のことを指している。ここには特に注意すべき点が二つある。第一に、経別篇が述べる経脈の「正」の文には、経脈篇で対応する経脈循行と完全には一致していないものもあるが、これは経別篇の定稿年代が経脈篇の定稿年代よりあきらかに早いためである。第二に、経別篇が述べる「別」は、経脈篇で対応する経脈循行の描写に欠けることなく見られる。以上の理解にもとづけば、経別篇にある十二脈の「正」は「脈」か「経」に完全に取り替えることができる。当然のことではあるが、このように交換したあとの、経別篇と経脈篇に述べられている十二経脈の関係は一目瞭然である。しかし、二つの篇に述べられている脈の方向は異なり、そのうえ経脈篇の作者は両篇の経文中の方向が異なる対応する文字について相応の調整をおこなうことができず、経別篇の脈を「植え込んだ」、はっきりとしたまとまった標識をとどめたので、後代の人や現代人はずっとこの両篇の相互間の関係を知らなかった。まさに経脈篇の作者のこの手抜かりが原因で、後世の経別篇に注をつけた者は、この二つの底本にある単純明解な術語「正」と「別」に多くの理解しがたい解説を書き表わした。
 2.「経別」と「正別」
 「経別」という語は、唐代の楊上善『黄帝内経太素』巻九・経脈正別は「経脈之別」とも「正経之別」とも解している。彼の注した『黄帝内経明堂』は「別なる者、正別の別有り、即ち経別なり。別に走る者有り、即ち十五絡なり。諸脈は此れに類するなり」という。1957年の江蘇新医学院編『針灸学』は「別行の正経」と解しているが、意味は同じである。このように「経別」と「正別」は同義語と見るべきである。ただし理解の上ではやや異なるところがあり、「経別」という語は一般に「経の別」とのみ理解され、「正別」は「正経の別」と理解できるので、さらに「正」と「別」とに理解できる。もし「経別」を「経脈の別れ」の略称と理解するとすると、経脈篇に述べられている経脈循行の支絡脈「其支者」と十五絡脈、さらには陰蹻脈(足少陰の別)、陽蹻脈(足太陽の別)などでさえ、みな「経別」と呼べるようになってしまう。実際、古い『黄帝内経』の注釈者はたしかにこの意味で「経別」という語を使用している。たとえば、明代の馬蒔は、「正なる者は、正経なり。宜しく経脈篇の其の直行なる者と相合すべし。別なる者は、絡なり。宜しく経脈篇の其の支なる者、其の別なる者と相合すべし」という。清代の張志聡は、あらゆる絡脈(十五絡脈・五蔵六腑の大絡・『素問』繆刺論の諸絡など)をみな「経別」といい、十二経脈の絡は、直接「十二経別」といっている。
 『内経』にある異なる経脈分枝を区別するために、王冰は経脈篇の「其支者」を「絡」といい、十二経脈の絡を「別絡」といい、経別篇の脈を「正別」という。たとえば、『素問』繆刺論の「故に絡病は、其の痛み、経脈と繆する処、故に命(なづ)けて繆刺と曰う」に、「絡は、正経の傍支を謂う。正別に非ざるなり。亦た公孫・飛揚等の別絡を兼ぬるなり」と注している。このような区別はぴったりではないが、経別篇の脈を「正別」という点では、楊上善の処理法をまったく同じであり、伝世本経別篇にあたる楊上善『黄帝内経太素』では、「経脈正別」という篇名となっている。しかしながら、この術語は具体的な脈の名前をあらわすときに用いると(楊上善と王冰がいう「手太陰正別」「手陽明正別」など)、やはり明らかな欠陥がある(詳細は下文)。『霊枢』の経文では、同様の概念を述べるときは、単に「正」か「別」というのみで、「正別」と連ねてはいわない。
 これからわかるように、「経別」あるいは「正別」は篇名として用いる場合は問題ないし、経別篇の脈の総称としても通用するが、具体的な脈の名前として用いることはできない。たとえばわれわれは「手太陰経別」あるいは「手太陰正別」ということはできない(一つには経脈篇の手太陰経脈そのものの「支絡」脈と「手太陰之別」と区別するすべがない。二つには、さらに重要なことは、経別篇の六陰経には「正」があるのみで、「別」はない)。術語の一義性と科学性、および英文翻訳の便を総合的に考慮すれば、「手陽明腑絡」「足陽明腑絡」などのように、経別篇の具体的な脈名には「陽経腑絡」を用いるのがよい。このようにすれば、『内経』のその他の絡脈と区別できるし、正確な定義と英文翻訳に便利である。つぎのように問うひともいるかもしれない。なぜ別に「陰経臓絡」を立てて、経別篇の六本の陰経をいわないのか、と。なぜなら陽経は「経別」という特殊な通道を借りなければ腑に入り絡すことができないが、陰経は自前の主幹となる道と相応ずる五臓との連係があり、道を借りなくとも行けるのである。楊上善や朱肱などが十二経脈の循行路線を述べる際、陽経で経別篇の文を引用しているのみで、陰経ではみな引用していないのは、まさにこういう理由である。
 「経別」を「経脈別論」の略称と理解するひともいるが、この説は根拠を欠く。文法上からいえば、「経脈別論」の四字のいかなる一字も省略できないし、このような略称の先例はさがしても見つからない。文献上からいえば、伝世本『素問』には「経脈別論」という篇名がすでにあり、一冊の本の上下巻にまったく同じ篇名があらわれるというのも通らない。

2016年9月26日月曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第14章 十五絡脈 疑いなきところに破綻をさがす

 第2節 術語と定義
 1.別・支と支別
およそ経脈と絡脈の分枝は、みな「別」という。『霊枢』経脈は十二経脈に関する分枝を「其支者」「其別者」に作る。『霊枢』営気は、つらねて「其支別者」に作り、王冰注『素問』が引用する十二経脈の分枝の循行の経文は、多く「其支別」に作る。『鍼灸甲乙経』には「支別」を篇名とするものさえある〔巻二・第一〕。絡の別は孫絡である。経の別は四つに分類される。第一、環の端なきがごとき「経脈連環」を形成する以前からあった経脈循行の分枝(病候と関連する)。第二、「経脈連環」を構築するために経脈篇の作者が新たに増やした分枝(病候とは無関係)。第三、陽経が内臓に入って属する分枝。第四、十五絡(厳格にいえば「十四絡」で、脾の大絡は含まない)。明以前、古代人はすでにこの四分類の「別」を認識していたが、この四分類の「別」に規範となる術語と明確な定義を出していなかった。その中で、王冰は第一の分枝を「絡」といい、滑寿は第二の分枝を「絡」という。第三の分枝を現在はまとめて「経別」といい、第四の分枝を「十五絡」あるいは「十五大絡」という。現代の鍼灸界は、前の二種類にあたる経脈の分枝を区別せず、経脈の分枝とまとめていう。実際のところ、この二つの分枝の意味には、本質的な相違があるので区別しないと、ひとびとがそれらを正確に理解し評価するさまたげとなる。事実、現代人の経脈学説についての誤読と誤解は、まさにこの二つの性質を異にする「別絡」を混淆していることによることが少なくない。
 2.別・絡と別絡
 上述のように、絡は「別」の一種に属す。『霊枢』経脈にある十五絡は、脾の大絡を除いて、みな「別」という。篇末に「凡そ此の十五絡、実するときは則ち必ず見(あら)われ、虚するときは則ち必ず下り、之を視れども見えず、之を上下に求む。人の経同じからざれば、絡脈の別かるる所を異にするなり」とある。三焦の下輸「委陽」は、『霊枢』本輸では「太陽絡也」にも「太陽之別也」にも作る。ここでの「別」と「絡」が等しいことが見てとれる。王冰は二つの術語を合併して「別絡」というが、『黄帝明堂経』は十五絡以外の絡脈を「別絡」という。王冰による「別絡」の用法は、後代のひとには受け入れられず、『黄帝明堂経』に掲載された「別絡」もまたひとびとに熟知されなかったので、この二つの「別絡」の用法はともに流行しなかった。ここで特に取り上げるべきことは、滑寿『十四経発揮』が上述の第二類にあたる「経之別」(「経脈連環」の統一を構築するために新たに増やされた分枝)をみな「絡」といっていることである。この命名法は、はやくも楼英によって疑義が提出されたが〔『醫學綱目』卷一・陰陽:「許昌滑壽著《十四經發揮》,釋經脈為曲,絡脈為直;經為榮氣,絡為衛氣,乃所以惑亂來學也。謹按經云……」〕、ひとびとからは、ほとんどすっかり忘れ去られた。しかし、忘れていけないことは、この不合理な命名法の背後にある貴いところ、つまり『霊枢』経脈にある十二経脈の循行には、性質と異にする二種類の分枝があることを認識することである。この点を積極的に意識することは、現代の鍼灸界にとって特別な意味がある。
 3.十五絡脈と十五大絡
 「十五絡脈」は、『内経』で明確に使用されている術語であり、「十二経脈」と相対するものである。しかし、楊上善・馬蒔・張志聡といった『内経』の注釈者は、十五絡脈を「十五大絡」ともいっている。現今の鍼灸学・経絡学教材も、この二つの術語を同義語としてしばしば使用している。実は、「十五大絡」という語の不合理性は、それと対応する「十二経脈」と照らし合わせれば、一目瞭然である。古代であれ現代であれ、「十二経脈」を「十二大絡」というひとはいない。さらに重要なのは、「大絡」という言葉は『内経』では、特定の概念内容を有することである。第一に、体表にある「小絡」に対する経脈を「大絡」といい、『霊枢』経脈が述べる「十五絡」に限定されない。たとえば、「三焦の病は、腹気満ち、小腹尤も堅く、小便するを得ず、窘急し、溢るるときは則ち水あり、留まるときは即ち脹と為る。候は足太陽の外大絡に在り。大絡は太陽少陽の間に在り。亦た脈に見(あら)わる。委陽を取る」(『霊枢』邪気蔵府病形)、「邪 三焦の約に在れば、之を太陽の大絡に取る。其の絡脈と厥陰の小絡の結ぼれて血ある者を視る」(『霊枢』四時気)。「十五大絡」の妨害によって、現代人は『内経』にある、こういった「大絡」を一見すると、「十五大絡」のことだと理解するのを当然だとおもう。第二に、特に内臓の絡脈を指す。たとえば、「胃の大絡、名づけて虚里と曰う。膈を貫き肺を絡(まと)い、左乳の下に出で、其の動は衣に応ず。脈の宗気なり」(『素問』平人気象論)、「胞絡は腎に繫る」(『素問』奇病論)、「夫(そ)れ衝脈は、五臓六腑の海なり。其の下る者は、少陰の大絡に注ぎ、気街に出づ」(『霊枢』逆順肥痩)。経脈篇に述べられている十五絡の文では、その術語である「別」と「絡」は同一視できるが、「大絡」とは同一視できない。臓腑の脈をあらわす「大絡」を「別」ということができないのは明らかであり、実際は「経隧」の概念に相当する。まさに『霊枢』玉版にいう「胃の気血を出だす所の者は、経隧なり。経隧は五臓六腑の大絡なり」である。
 以上の理由をかんがみて、以下のことを提案する。今後の鍼灸学教材と関連する標準テキストでは、「十五絡」を標準術語とすべきであり、「十五大絡」はもはや規範となる術語としては使用すべきではなく、現代人およびこれからのひとが『内経』の「大絡」概念の誤解と英文翻訳上の混乱を招かないようにすべきである。

2016年9月25日日曜日

前野直彬『漢文入門』 (ちくま学芸文庫)

185頁:「湖-西」とあるのは,この二字をまとめて「こせい」と音で読めという印である。もしも「みづうみのにし」と訓で読ませたければ「湖」の下に「ノ」と送りがなを入れ,さらに「湖_西」と,左側に寄せたハイフンをつける。すべて-が中央ないし右側にあれば音,左側ならば訓で読むことを示す。
 送りがなも「知ヌ」は現在ならば「知ンヌ」となるところだが,「ン」を省略してもわかるのだから,省略してある。また「〆」は「シテ」,「˥」は「コト」である。昔の送りがなには,このようにカタカナ二字を一字であらわした符号が多い。たとえば「然レドモ」の「ドモ」は「| モ」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%82),「するとき」の「トキ」は「寸」と書く。
186頁 訓読法の改革
 「言へば」は,平安朝では「言ふからには」の意味であったが,江戸時代となるとしだいに仮定を示すときも使われるようになった。……そこで,平安朝ならば当然「言はば」となるべきところにも,「言へば」と送りがなをつけることが多くなった。……日本語に「霧」の動詞はない。そこで古い訓読では「霧フル」などとして動詞化したが,江戸時代となると送りがなをなるべく減らして簡潔にしようとする意識がはたらき,「霧ス」に変わっていった。「霧(きり)す」では日本語として意味が通じないが,訓読特有の語法として通用するようになったのである。
 この類推が動詞にも及んで,「死」は古くは「死にき」「みまかりぬ」などと読んでいたが,一様に「死す」と読むようになった。
 また,原文の漢字をなるべく多く読もうとするのも,有力な傾向となった。……「学而時習之」の「之」は,平安朝では読まなかった。ここの「之」は特に何をさすという代名詞ではないのだから,読まないほうがむしろすっきりする。しかし江戸時代になると,「学びて時に之(これ)を習ふ」と「之」まで読むのが一般化してきた。同時に「吾不関焉」は「吾関せず」(私は関係がない)でさしつかえがないのだが,「吾関せず焉(えん)」と助字まで読む読み方も生じた。
 このようにして……訓読のしかたに変化がおこると,それを整理して新しい訓読法の原則を作ろうという動きがおこる。……【佐藤一斎の】一斎点などの訓読には,「謂(おも)へらく」などという奈良朝時代の言葉から「君,これを為(な)せば如何(いかん)」などという江戸時代の言葉を含んだ表現まで,日本語の歴史を一つにつきまぜたような,妙な日本文ができあがった。
 平安朝では「猛虎は已(すで)に死にき」と読んだはずだが,新訓読では「猛虎已に死す」と現在形にしてしまう。したがって一度訓読しておいてから,ここの「死す」は過去のことなのだと説明しなおさなくてはならない。
 こう書くと,江戸時代の新訓読はいかにも不合理なように見えるかもしれないが,それが成立するには,やはりそれだけの歴史的必然性があった。新訓読法はなるべく訓読を簡便にして誰にでも漢文が読めるように留意してあるとともに,漢作文をするときにも便利なようになっている。
 新訓読法が行きわたったころは,もう明治維新になっていた。……明治四十五年三月二十九日,「漢文教授に関する文部省調査報告」(http://snob.s1.xrea.com/fumikura/19120329_kanbun/)として発表された。……これは調査報告であって強制力は持たないが,以後の漢文教科書はみなこの訓点法に従うようになった。……
 われわれが漢文を訓読して,これが昔から伝わった読み方だと言っても,実は江戸時代からの,場合によっては江戸末期からの百年あまりの期間に伝えられた読み方なのである。漢文訓読の長い歴史の中では,ごく短期間にすぎない。

2016年9月23日金曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第13章 十二経脈の道筋――「直」「支」「別」「絡」の規則

 第2節 術語と定義
 1.胸中・膻中・心主・心包・心包絡・手厥陰・心主手厥陰心包絡之脈
 手厥陰経に対応する内臓の概念と術語は、非常に複雑な変遷過程をへている。経別篇では「胸中」に作り、営気篇では「膻中」に作り、経脈篇の手少陽の別では「心主」に作り、手少陽経脈と手厥陰絡脈と足少陰絡では「心包」に作り、経水篇も同じく「心包」に作り、邪客篇は「心之包絡」に作る。経脈篇にあるその他の十一経脈の命名方式に準ずれば、手厥陰脈のフルネームは「心包手厥陰之脈」とすべきである。しかしながら、「心包」と「心主」はまた、異なる時期の手厥陰脈が対応する内臓名であり、「絡脈」「経筋」「経別」「皮部」「標本」「経水」などはみな「手心主」あるいは「心主」に作る。経脈篇は手厥陰経では「手厥陰」に作るとはいえ、手太陰と手少陰経の循行するところではやはり「心主」に作る。「手厥陰脈」の名は伝世本『霊枢』では遅い時期にできた経脈篇にしか見えず、後出の『難経』や『黄帝明堂経』にすら見えない。このように「手厥陰」の三字は後代の人が加えた注文にかかるとすべきで、結果として「心主手厥陰心包絡之脈」という滅多にない非常に奇異な経脈名称となった。このような後代の人が加えた注文が混じって正文となった例はひとり経脈篇のみではなく、『鍼灸甲乙経』巻三にも見え、明抄本はもとは「手心主及臂凡一十六穴第二十五」に作るが、通行本では「手厥陰心主及臂凡一十六穴第二十五」に改められている。
 2.脈と経脈
 経脈篇の篇名は「経脈」に作る。これは経数の脈を指し、集合概念に属す。そのため「十二経脈」という。まとめて「経脈」というのはよいが、具体的なそれぞれの脈を、たとえば「手太陰経脈」とか「手陽明経脈」などと称することはできない。後代の人はこの慣例を理解できていないので、しばしば混用している。
 3.「其直者」と「其支者」
 「其の直なる者」は経脈が循行する主幹をあらわしている。「其の支なる者」は経脈の分枝をあらわしている。「支」と「別」の意味は同じである。しかし、経別篇では「別」に、「別れて六府に走る分枝」という特別な意味を付与している。

2016年9月22日木曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第12章 誤解から理解の道筋と境界を読む

第1節 経脈テキスト理解の例示
 第一に、発声器官の構造と機能について、「少師学派」の観察がこれほど細密で、これほど高い解剖学的水準に達して、『黄帝内経』中、その他の学派の文章と比して、このような目立って独特なのはなぜなのか?〔『鍼灸甲乙経』卷十二 寒氣客於厭發瘖不能言第二〕 『周礼』春官には「小師」という楽官名があり、『儀礼』大射では「少師」という。そのため、山田慶児は少師派の「少師」とは、この楽官であると考えた。
 〔第二、『霊枢』憂恚無言(69)の失音鍼処方、と『黄帝明堂経』天突の関係。〕
 第三に、……『黄帝内経』にある「少師曰」の文を通覧すると、おもなものは理論を述べることであり、具体的な治療案は見えない。『霊枢』の編者が治療処方を補ったのは、原文に脱文があったためではなく、「少師派」の理論に実践を呼応させ、読者により十全な情報を提供するためである。
 第四に、もしテキストにある鍼刺治療の内容が「少師派」から直接由来しているとしたら、われわれが現在見ている文章とどんな本質的なちがいはあるのか?前述のように、伝世本『霊枢』『素問』には「少師派」による具体的な鍼灸治療の内容は見えない。そのため、どのような鍼灸処方を提出できるのか判断はむずかしいが、一点だけ判定できることがある。それがどのような鍼灸処方であれ、経脈理論によっては解釈できないということである。なぜなら、『内経』でのあらゆる「少師曰」の文中には、経脈理論が見えないだけでなく、『内経』でひろく応用されている「三陰三陽」の陰陽理論すら見えないからである。大量に応用されているのは、「太少陰陽」の陰陽二分法での鍼灸治療原則の説明であって、「岐伯派」の学術思想とは完全に異なる。よって、たとえわれわれは今日、「岐伯曰」という文字を削除した『甲乙経』のテキスト形式しか見ることできないとしても、そこに存在する「陰と陽を取り違えた」ような誤りを見抜くことができるはずである。学術のバックグラウンドと学術思想がかなりかけ離れている二つの学派の文章をぎこちなくつないで一つにしているのは、「張冠李戴〔張氏が李氏の帽子をかぶる〕」というべきである。
 第五に、舌下の「両脈」は、何脈か、あるいは何穴か?漢代以後、足少陰の経穴に入れられなかったのはなぜなのか?舌下の両脈は『内経』では「廉泉」といい、任脈の「廉泉」穴と同名である。足少陰の標と結はみな「舌下の両脈」にある。『素問』気府論(59)が掲載している本輸を除くと、唯一ある足少陰の穴が「足少陰舌下」である。これは、足少陰経の「喉嚨を循って舌本を夾(はさ)む」という循行と完全に一致する。この穴が足少陰経に帰属することは、確実で疑いないことがわかる。任脈の同名穴「廉泉」の干渉を受けて、『黄帝明堂経』の編者はこの足少陰の「廉泉」穴を鑑別できず、『黄帝明堂経』に記載した。後世のひとは、『内経』にある「廉泉」をみな任脈の「廉泉」と誤解するようになってしまった。明代にいたって、足少陰の廉泉がやっと再発見されて、失音・失語の治療に用いられるようになったが、穴名が「金津玉液」にかえられた。
 〔第六:会厭の脈について。古代人にとっては非常に簡単で、だれもいつでも、一つの治療経験によって新しい一本の脈を構築できるし、もともとあった脈に新しい分枝を加えることができる。〕
 第七に、……『黄帝内経』時代の経脈に属する穴は、関連する経脈の本輸と標輸だけである。……今日いう「循経取穴」の穴概念は宋代以来のもので、十四経に帰属するあらゆる穴を指す。

2016年9月16日金曜日

経脈別論十九条 つづき

・第六条:扁鵲医学は、経脈理論誕生のゆりかごである。
 扁鵲医学は血脈理論と経脈理論を創造しただけでなく、両者の統一と分裂を直接操作した。経脈学説をはぐくんだだけでなく、その帰結も決定した。
・第七条:「経脈病候」が「経脈の循行」を決定し、本輸の主治が脈の終始を決定した。
 「病候」は、経脈学説理論の原点である。経脈は、遠隔関連部位の病症表現に対する解釈である。
・第八条:経脈辨症の重点は部位にあり、循経取穴〔経に循った取穴〕はおもに本輸を取る。
 経脈循行線の意義は、その脈の診療に関連する各点――節目となる点をつないだもので、経脈辨症を指導するこれらの節目となる点にあるのであって、循行線にあるのではない。
 現代人の「循経取穴」についての誤解は、「寧(むし)ろ其の穴を失うとも、其の経を失うことなかれ」という古訓の曲解をもたらし、認識上のきわめて大きな混乱を引き起こした。十二経脈には一経一穴の段階があった。この段階では、いわゆる「循経取穴」は該当する経脈にある唯一の穴を取ることである。補足すれば、十五絡脈・陰蹻脈・陽蹻脈は、ずっと一穴しかない段階にとどまっている。その穴を失えば、一切を失うことになる。穴を失ってよいのだろうか?
・第九条:「標本」は十一脈の母胎であり、「根結」は経脈連環の基盤である。
 「根結」は表面上、「標本」の部位と同じか近いところにあるが、実は本質的なちがいがある。両者が述べているのは同じ問題ではない。まず文字が意味するところが示しているのは、「本」には「根」が含まれるが、「根」は「本」を統括できない。つぎに、「標本」は、診法に用いられ、その部位が診病部位である。三番目に、「標本」には一定の範囲があり、ひろがる動的過程があるが、「根結」は多く限局的、固定的な位置があり、特に「根」は一つの限局点である。四番目に、もっとも根本的な区別は、「標本」概念は経脈理論・経脈の穴・診断・治療というそれぞれの部分に滲透しているが、「根結」概念は実践的な直接指導作用を示していない。
・第十条:「診-療一体〔診断即治療〕」は、人体各部の関係を研究する一石三鳥である。
 「診-療一体」観念の確立、病が見られるところがすなわち診察箇所で、そこを取って治療する。この病候の診療で表現される人体遠隔部位の縦方向の関連についての解釈が経脈であり、「本」の脈処から出発し、病症の診療が向かうもっとも遠い端の部位に向かってすすむ。これが「経脈学説」の懐妊から分娩までの全課程を凝縮した再現である。
・第十一条:「陰陽法則」は経脈循行の描写の規範化を促進したが、経脈理論を硬直化させもした。
 「三陰三陽分部」の出現は、三陰三陽の脈を明確な脈の道に区分した。それによって経脈循行をえがくための規範化によりどころを提供した。
 経脈の走行分布の決定は、「陰陽の法則」に従うべきではなく、脈口診病部位が及ぶところと本輸主治が及ぶところに従うべきである。
・第十二条:「経脈連環」が成立すると、「経脈の木」が倒れた。
 『霊枢』経脈が構築した「経脈連環」は、実際的には経脈理論の十二脈を借りて、血脈理論の周って復た始まる「循環説」をなしとげたものである。経脈理論が構築されるなかで、「木」型モデルは、重要なはたらきを啓発し生み出した。人体を樹木に類比させ、とりわけ標本と終始の概念を重視し、四肢末端を本とし根として、頭面体幹を標とし結とした。「経脈連環」が形成されると、いわゆる「標本」と「終始」はなくなり、十二経脈の独立性も消失した。十二脈は一脈となり、そこでは十二経遍診法や三部九候はあきらかに余分なものとなり、これにかわったのが「人迎寸口脈診」であり、最終的には「独り寸口を取る」脈法へと向かった。
・第十三条:「十五絡」は、ある種の早期バージョンである経脈学説を改編したものである。
 もし十五絡を経脈の別絡と理解すれば、経脈と異なる病候を診療できるのか?もし病候の診療が同じであるというのであれば、この十五本の絡脈をその所属する経脈から分離して、別に一説とするどんな必要性があるのか?
 最新の研究結果によれば、十五絡のうち、手足三陰三陽の絡は、実際は古い経脈学説のバージョンに手を加えたものである。
・第十四条:「経別」は「理論の継ぎ目貼り」として経脈の中に組み込まれた。
 「経別」の本来の意義は、「合で内府を治す」である。つまり、六腑の合輸で六腑の病を治療した経験が理論の支えとなった。『霊枢』邪気蔵府病形にいう「此れ陽脈の別、内に入り、府に属する者なり」のごとくである。
・第十五条:変化に富む衝脈は、血脈理論の第一次革命の記録である。
 衝脈がこのように〔複数の異名があること、少陰脈・陽明脈・任脈・督脈との間に分かち難い関係があること、「衝脈」の名の下に異なる概念内容と多くの属性・機能があること〕独自性が目立つのは、古代人がこれを借用して、漢代に生じた気血理論の革命の成果――原気説にもとづいて再構築した血脈理論を保存しているからである。
 「衝脈」概念が形成された過程をさかのぼることによって、衝脈の機能として重なり合っているものすべてが新たに発見された機能ではなく、既存の脈と臓腑の機能を、少しずつ「衝脈」の中に移したことがわかる。全過程の起点は、堅実な「経験」の上に立脚しており、少しずつ演繹していく過程で、意識してかあるいは無意識に「経験」の境界を越えた。これは実際、古典中医鍼灸理論が共有する特性――理論は経験の上に生長するが、その発展は経験の束縛を受けない――でもある。
 「衝脈」がどれほど多種多様であったとしても、その本態はかならず確認しなければないが、その本態は「伏膂の脈」であり、その特徴は、「之を揣せば、手に応じて動く」である。
・第十六条:「気府論」は、腧穴分部の産物である。
 『素問』気府論の腧穴は、三陰三陽によって分類されており、経脈によっては分類されておらず、『素問』離合真邪論と合わせて読んでみて、はじめて理解できる。
 唐代の王冰は『素問』に注をほどこしたが、この点を認識できなかったので、この篇を理解するすべがなかった。そこで経脈学説を準則として、『黄帝明堂経』の腧穴の「脈気発する所」を参照して、気府論に対して大胆な改編をおこなった。その中で後世の鍼灸学にもたらされた重大な影響は四つある。第一、足太陽脈の背兪穴が増えた。第二、陰経の五輸穴を削除した。第三、足陽明の脈気発する所の穴を削り改めた。第四、衝脈の脈気発する所の穴を加えた。
・第十七条:経脈篇がはなはだしく混乱している根源は、編者によるあってはならない三つの見落としのせいである。
 第一、六本の脈の循行方向を改変したのに、この六脈にあった循行方向を示す文字に相応の調整をおこなうことを忘れ、経脈循行方向の衝突をおこした。
 第二、経別の文を取り入れたときに、「其別者」という標識となる文字を添えることをいつも忘れて、二つの性質の異なる文章が混在し、理論の無矛盾性をおおいに下げた。
 第三、「経脈循環」を構築するために編者が新たに加えた11本の分枝は、原テキストにあった経脈分枝の意味とまったく異なる。それなのに、いかなる説明や注釈もないので、後世の人の意味も実りもない論争を引き起こした。
・第十八条:経脈理論の価値は、「経脈線」にあるのではなく、線上の関連点にある。
・第十九条:経脈の本質、鍼刺鎮痛、鍼灸作用メカニズムの研究、これらは実のところ一つのものが三つに分かれているにすぎない。 

2016年9月15日木曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』経脈別論十九条――書き終わった後に書いた提要

 本篇は実際のところ、全体(附篇を含む)の結語なのだが、各章ごとに結語がみなあるし、書末にも「結語」をさらに加えたので、読んできてそぐわないので、現在のタイトルにかえた。摘要のつもりで書いたので、全文を読む必要があるかどうかわからない読者と全文を通読する時間がない読者を想定して、できるかぎり圧縮して書いた。
・第一条:経脈とは常脈、すなわち経数の脈である。
 もっとも普遍的な意味を持ち、臨床でもっとも常用される「脈」が、常脈で、三陰三陽で命名され、手足あわせて十二脈、これを「経脈」という。経数の脈は、「十二」という天の大数に応じる。二種類〔血脈と血脈ではない経脈〕の理論の「経脈」概念の本質的な区別を認識できないと、「経脈」に明確で科学的な定義を与えることは根本的にできない。
 「経数」とは常数であり、術数でいう天地の数でもある。
 「経数」の枠組みに入れることができなかった大量の「脈」と「絡」は、あるものはすぐに消え去り、あるものは別の大きな分類である「絡」に繰り入れられた。
・第二条:経の数にもともと定数はなく、脈のめぐりにも定型はない。
 馬王堆『十一脈』、張家山『脈書』および『素問』『霊枢』の多くの篇では、記載されているのは十一脈にすぎず……これらの文献が共通して遵守しているのは「天六地五」という「経数」である。……たとえ当時、手心主あるいは手少陰脈の二脈がともにすでに流行していたとしても、片方は「絡脈」に組み入れられた。
・第三条:経脈学説とは、「人体遠隔部位縦方向関連律」についての解釈である。
 経脈理論とは、人体遠隔部位間の縦方向関連律についての解釈である。この関連には、体表と体表間の遠隔関係、および体表と内臓間の遠隔関係がふくまれる。古代人は特定部位間の連係は、特定の「脈」をとおして直接につながってなされていると認識した。この理論仮説は木型隠喩にもとづいて構築された。すなわち四肢末端を根本とし、頭面体幹を末梢とし、本末が相応じる。ゆえに脈はみな四肢末端から頭面体幹の方向へ循行する。四肢にある手首・足首の本部の脈で、上部標部および関連する内臓の疾患が診察できる。「本」部の穴に鍼灸する。本輸は「標」部および関連する内臓の疾患を治療できる。
・第四条:経脈学説は「人体遠隔部位縦方向関連律」を解釈した仮説の一つにすぎない。
 ひとびとは、「経脈理論」(または「経脈学説」)が「人体遠隔部位縦方向関連律」のすべての仮説、あるいは唯一の仮説であると、惰性的にずっと思い込んでいた。そしてまさにこのひとびとの完全に無意識で、かつ今にいたるまで真相を知らない誤った認識が、経脈理論研究に種々の誤り、困惑、混乱の根源となったのである。
 古典中国鍼灸学という林の中の「一本の木」を林全体とみなしていたのである。
 実験研究において、現代人が提出した「経脈」あるいは「経絡」という名の各種の仮説は、実際は明確な目標を欠いた――経脈理論が指向した問題の状況下で提出した――種々の仮説なのだが、研究者は、古代人が二千年以上前に提出した「経脈仮説」を証明している、とかたく信じている。
・第五条:経脈で脈候を解釈するのは、「陰陽脈解」という旧説に対する革命である。
 脈の本来の意味は、鍼灸の遠隔治療作用のルートについて提出された新しい仮説――旧来のあらゆる哲学的解釈に対する不満が提出した新しい仮説である。この解釈が普遍的に受け容れられ、新しい理論規範となったのは、古代人が新しい理論が提出されたのち、経験的に得、これを治療した経験から、理の中に事実を求めて、理論を武器として新しい事実を発見し、大量の新事実から条理あるいは法則を概括し、新しい学説の理論解釈力をたえず上昇させ、最終的には「脈」から「経脈」への遷移〔おそらく物理学を意識した用語〕をなしとげた。変化きわまりない関連病症を解釈した「所生病」の出現は、この遷移がなされた指標となった。

2016年9月14日水曜日

 第11章 確実に証明することと偽りを立証すること――目標と道筋の選択

270頁に引用される『アナトミー・トレイン』(第3版)に対応する箇所の日本語版の訳:
 この関連を自分で触診するには、両手掌を頭の両端、両母指を頭蓋後部の真下に置く。後頭骨隆起下の深部組織が実際に感じられるように、浅層筋を通り越すように母指をそっと動かす。目を閉じ、眼球を左右に動かすが、両手は原則として耳にかぶさるようにし、頭が動かないようにする。母指の下で筋の緊張が小さく変化したのが感じられるであろうか?頭は動いていなくても、大昔からある主要な筋は眼球運動に反応している。目を上下に動かすと、後頭骨稜下の筋系で異なる筋が同じように連動するのが感じられる。これらの筋を動かさずに目を動かそうとしても、およそ不可能である。眼球と後頭下筋とのつながりは椎骨が発生したときからあり、このつながりは極めて不可欠であり、眼球運動によって後頭下筋の緊張が変化する。この深部神経の「プログラミング」を変化させることは困難であるが、視覚障害や読字障害、頸部の特定の問題では変化が可能な場合もある。残りの棘筋はこれらの後頭下筋の言うことを「聞いており」、後頭下筋のリードに従って機能する傾向がある。(97頁)

・『重構大綱』の引用文にある、「它们是一种原始的连接(几乎经历我们整个脊椎发展的历史)……」は、日本語版では「眼球と後頭下筋とのつながりは椎骨が発生したときからあり」と訳されている。

2016年9月13日火曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第10章 視点と構想の再構築――三歩二段階  三、理論の再構築構想

 (一)足太陽之脈
 足太陽脈の背部での循行については、二つの異なる説がある。早期は一行であったが、『霊枢』経脈では明確に二行となっている。これ以前の経別篇にも二行説の影響が見いだせる。経脈病候と本輸主治で経脈循行を決定する法則からみて、足太陽脈の背部は一行説がより理にかなっている。
 表裏の経と臓腑が相合する説では、足太陽脈と足少陰脈が相表裏をなし、関連する臓腑は膀胱と腎である。腎は左右の二つがあるが、膀胱はひとつだけである。そのため古代人は別に「三焦」という一腑を設定してこれに応じるようにし、「腎は三焦膀胱に合する」という説がある。あわせて専門の合穴と専門の三焦腑と連接する脈があった。ここでの「三焦」は、実際は下焦であり、その作用は膀胱の影のようなもので、目的は一つの膀胱を両腎に応じさせることであった。よって関連する「足三焦」の内容を足太陽脈の中に整理統合する。

 (四)足太陰之脈
 足太陰脈はもともと胃と関連する。『霊枢』経脈は脾と足太陰脈を関連させているが、一番はじめに築かれた足太陰と胃の「臍帯」は断ち切れず、かつ足太陰と脾を関連させる新しい臍帯もずっと築くことができなかった。よって今回の再構築では、足太陰と関連する内臓は、胃の内容を留めておく。

 (六)足厥陰之脈
 早期の足厥陰脈は男性のみを対象としたものであり、それに対応する女性の病症があらわれたのは後のことである。しかし、経脈の循行はずっと女性に関する循行部分を補充してこなかった。今回の再構築では、『霊枢』五色にある男女の生殖器の対応関係にもとづき、対応する循行路線をおぎなった。男女の生殖器の対応関係について、古代人は「蓋し卵と乳とは、乃ち男女の根蒂、坎離の分属なり」〔『医学綱目』巻二十三・脾胃部・大便不通〕という認識があった。この認識にもとづけば、足厥陰脈は女性では分枝が「乳」に至るべきであるが、既存の足厥陰病候には、明確な女性の乳疾患に関する記載がない。よって今回はしばらく女性の乳房あるいは乳頭を支配する経脈の分枝は補わない。

 第5節 解決が待たれる問題
 一、皮・脈・筋病の診断と評価
 理論面からみて、「十二皮部」「十二経脈」「十二経筋」という三つの異なる説があるが、三者に共有される病症をいかに識別するかは、不可避の問題となっている。
 経筋学説があらわれたのは、十二脈をコピーしたというような単純なことでは決してなく、実際上古代人が同じ診療経験に対して異なる認識をしたことを反映している。

恥ずかしながら…

 高校の時の不勉強が祟りました。文語文法の「仮定条件」と「確定条件」というのを、全く知りませんでした。

順接の仮定条件(もし~なら)…未然形+ば
順接の確定条件(~なので)…已然形+ば

例えば、
血氣倶盛、而陰氣多者、其血滑、刺之則射。(『霊枢』血絡論第三十九)
は、「もしこれを刺したら」ということで仮定条件になり、「これをささばすなはち」となりませんか?
所謂少氣善怒者、陽氣不治。陽氣不治、則陽氣不得出…(『素問』脉解篇第四十九
は、「~ならば~、そして~」という論理的な流れの中にあるので確定条件となり、「やうきぢせざればすなはち」となりませんか?
それとも、「則」のときは必ず確定条件なのでしょうか?(僕は違うような気がします。「A則B」とした場合、仮定条件か確定条件かはA自信が仮定か確定かの問題だからです。「則」が表しているのはAとBとの関係です。
もちろん以上のことは、訓読なんかしなければ全く問題のないことなんですが。

質問を整理します。
①以上二つの例文に対する僕の訓読、妥当でしょうか?
②「則」と仮定条件・確定条件との関係、僕の認識で妥当でしょうか?
よろしくお願いいたします。

2016年9月12日月曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第10章 視点と構想の再構築――三歩二段階

 二、理論と経験が対応しない
 概念が厳密でなく、術語が規範的でないことよりさらに重大な問題は、理論と経験が対応していないことである。それが主に二つの面であらわれている。第一に、理論と経験のずれ。第二に、理論と経験の食い違いがあり、発展の歩調があっていない。特に後者の問題の存在は、経脈理論の再構築にきわめて大きな困難をもたらす。
 理論と経験のずれについては、以前に言及した「手心主脈」と「手少陰脈」の名実の争いが典型的な実例の一つである。先にはおもに概念術語の規範性の角度から論じたが、問題は概念の混乱といった簡単なものとはかけ離れている。もし『霊枢』経脈による術語の規範化の成果を正統なものとみなせば、「手厥陰之脈」は「心包絡」に属し、「手少陰之脈」は「心」に属することになるが、まずつぎのことを確定しなければならない。この二つの脈は「心」との関連の程度には差があるのか?もし差があるのなら、どちらの脈が「心」との関連度はより高いのか?われわれが見る『内経』の時代では、経脈病候からみても、本輸の主治病症からみても、いずれも、手少陰脈にくらべて手心主(手厥陰脈)の方が関連度がより高いのは、明白である。『内経』以後の文献であっても、たとえば『脈経』は、巻二では心病の診断と治療はどちらも「手心主之脈」を取っている。巻六の「心病症〔証〕」第三篇でも、手心主之脈しか述べられていない。六朝時代の『産経』の「十脈図」も「手心主心脈」と明言し、そのうえ心の兪募穴もともに手心主脈に属している。このような情況は、ずっと唐代の(宋人の校改を経ていない)『孫真人千金要方』〔新雕孫真人千金方〕まで依然としてそうであった。心は手厥陰脈を出し、心包絡は手少陰を出した。もし経脈篇の編者が新たに発見した経験的な事実にもとづいて、手少陰脈と心がより相関すると認定したのであれば、かれがすべきことは、経脈名とそれに関連する内臓の標準化作業だけでなく、二つの脈の経脈病症と五輸穴の主治病症にも相応の調整をおこなって、名実を合致させなければならなかった。もしなされた改変が根本的に臨床診療実践というよりどころがないのであれば、この改変はきわめて誤ったものである。同様の論理で、「心之原」と「手少陰之原」を交換することも、単にラベルを貼り替えるような簡単なものでは決してない。このような名実が乖離した誤りも、現代の経脈理論の実験研究のおおきな困惑をもたらしている。たとえば、現代の「経脈-臓腑相関」についての実験研究では、手厥陰脈の内関・大陵と心との相関を研究することが主であり、実験研究のデータも、手厥陰脈と心との相関をさらに支持しているようである。もし実験結果が信頼でき十全であるのなら、それが踏み込んで示しているのは、経脈篇の編者による手厥陰と手少陰の二つの脈の名称とそれと関連する内臓に関する改変は誤りであり、『霊枢』九針十二原と本輸篇の説明がより臨床に近く、より実験に符合するということである。
 理論と経験の食い違いについての典型的な実例は、手三陽経と内臓との関連が経験による支持を欠いていることに見られる。古代人は経脈と五臟との関連を発見したのにつづいて、陽経と六腑との関連という診療の法則、これは陰経と五臟との関連とは異なり、横隔膜より下に位置する六腑は足の六〔ママ/「三」の誤りではないと思う〕陽経と関連し、手の経とは関連しない、ということも発見した。しかしながら、『霊枢』経脈の編者は十二経脈の「内は臓腑に連なり、外は肢節に絡す」〔『霊枢』海論(33):「夫十二経脈者、内属于府蔵、外絡于肢節」〕という環の端無きが如き「経脈連環」を構築する必要があり、どうしても十二経脈と五臓六腑を一対一で対応させなければならず、ついには「大腸」と「小腸」を手陽明脈と手太陽脈に帰属させ、また上・中・下の位置をしめす「三焦」概念を手少陽脈と関連させた。こうなると、理論形式上は気血がリングのように切れ目なく運行する「経脈連環」が構築されたが、かえって経験的事実という支柱を完全にうしなってしまった。『霊枢』本輸の「六腑合輸」説に違背するだけでなく、『霊枢』邪気蔵府病形にある六腑病の診療での臨床応用にも違背する。『黄帝明堂経』の手三陽脈にある五輸穴の主治に合致しないだけでなく、背兪穴の腰背部での分布法則とも合致しない。つまり、腑兪の中の大腸兪・小腸兪・三焦兪はみなその表裏する臓兪である「肺兪」「心兪」「厥陰兪」とはなはだ遠く離れてしまって、まったく臓腑の表裏関係を示すことができない。同時に、古代人は人為的に手三陽脈と大腸・小腸・三焦の経脈循行上の連係を加えただけだが、この三本の経脈の病候には関連する腑病の症候が見られず、この三本の経脈循行と病候が対応しないという論理上の破綻をきたしてしまった。

2016年9月10日土曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第9章 理論構造と科学的概念内容――「鏡」に照らすと「ふるい」にかける

第9章 まとめ
1.経脈理論の「脈」と「絡」は、コンテキストに依存する概念である――異なるコンテキストにおいては異なる概念内容をあらわす。経脈理論の発展過程全体からみると、早期の文献中の「脈」と「絡」は、実体概念により重きを置いている。晩期の文献は、抽象概念をより多くあらわす傾向にある。まさにこのような抽象概念にもとづいて、手足の三陰脈は、四肢近位端の循行においてはじめて、体表解剖学で実証された三脈が一つに合わさった実線から発展変化して、『霊枢』経脈篇にある三脈が並行する虚偽の線にとなった。「絡」の一種である「経別」は、完全に抽象的な概念であり、その機能は、六陽脈と対応する六腑との連係を説明することにある。
2.「経脈理論」あるいは「経脈学説」は、古代人が「人体遠隔部位にある縦方向の関連律」を解釈する仮説の一つにすぎない。しかしずっとわれわれはこれを一つの関連律の「仮説集」とみなし、「仮説体系」全体とさえみなしていた。
3.生体の遠隔部位間にある連係の本質について、古代人は前後して多くの仮説を提出した。最初の陰陽五行の哲学面での解釈から、すすんで医学面での「脈」の解釈にいたった。経脈学説以後の諸学説はみな一つの共通した特徴をあらわしている。つまり、接続する実体構造をつかって直接に連接する解釈であるが、それぞれの学説はいずれもこの「定式」をこえてない。これからわかるように、いかなる時代の科学理論もその時代の特徴を深く留めざるを得なく、理論の構築者は、かれのいる時代を超越した科学的仮説を提出することは不可能である。
4.古典経脈理論の価値は、それが提出した問題にあり、それが問題をみる特殊な角度にあり、それが問題を解決した様式にあるのであって、それが出した具体的な答案にあるのではない。経脈理論は、四肢末端を本となし、頭面を標となす木型モデルにもとづいて構築され、数千年にわたって鍼灸臨床実践を指導している。有力な証拠によってこの理論をささえる経験事実が強固で信頼にたることを証明できさえすれば、中西の医師が異なる「生命の木」を発見したことを意味することになるし、あるいは同一の樹木が異なる条件下では異なる特徴を表わすといえるかも知れない。この意味は、鍼灸学そのものをはるかに超えているし、これは未来の生命科学を創り出すについての重大な啓発的意義があり、多くの高い評価をしてもしすぎることはないことは論ずるまでもない。
5.元素周期律理論という「鏡」に映すことによって読み取れる経脈理論に欠けている点は、事実に対する鑑別と検証、概念の明確な定義、基本仮説にもとづく推論である。したがって未来の研究は、経験を検証し、法則を明確にすることを重視すること――偽りを去り真実を残し、漏れているものを拾い集め、欠けているものを補うことをしなければならない。
6.現代医学という「鏡」に映すことによって、現代の鍼灸人が失った自信を取り戻させる。つまり、「関係」を研究して、法則を探り出し、そして関連法則を効果的に利用する。古典鍼灸学には非常にあきらかな強みがあり、特に経脈理論は非常に有効な研究道具と研究素材を提供する。