2016年9月26日月曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第14章 十五絡脈 疑いなきところに破綻をさがす

 第2節 術語と定義
 1.別・支と支別
およそ経脈と絡脈の分枝は、みな「別」という。『霊枢』経脈は十二経脈に関する分枝を「其支者」「其別者」に作る。『霊枢』営気は、つらねて「其支別者」に作り、王冰注『素問』が引用する十二経脈の分枝の循行の経文は、多く「其支別」に作る。『鍼灸甲乙経』には「支別」を篇名とするものさえある〔巻二・第一〕。絡の別は孫絡である。経の別は四つに分類される。第一、環の端なきがごとき「経脈連環」を形成する以前からあった経脈循行の分枝(病候と関連する)。第二、「経脈連環」を構築するために経脈篇の作者が新たに増やした分枝(病候とは無関係)。第三、陽経が内臓に入って属する分枝。第四、十五絡(厳格にいえば「十四絡」で、脾の大絡は含まない)。明以前、古代人はすでにこの四分類の「別」を認識していたが、この四分類の「別」に規範となる術語と明確な定義を出していなかった。その中で、王冰は第一の分枝を「絡」といい、滑寿は第二の分枝を「絡」という。第三の分枝を現在はまとめて「経別」といい、第四の分枝を「十五絡」あるいは「十五大絡」という。現代の鍼灸界は、前の二種類にあたる経脈の分枝を区別せず、経脈の分枝とまとめていう。実際のところ、この二つの分枝の意味には、本質的な相違があるので区別しないと、ひとびとがそれらを正確に理解し評価するさまたげとなる。事実、現代人の経脈学説についての誤読と誤解は、まさにこの二つの性質を異にする「別絡」を混淆していることによることが少なくない。
 2.別・絡と別絡
 上述のように、絡は「別」の一種に属す。『霊枢』経脈にある十五絡は、脾の大絡を除いて、みな「別」という。篇末に「凡そ此の十五絡、実するときは則ち必ず見(あら)われ、虚するときは則ち必ず下り、之を視れども見えず、之を上下に求む。人の経同じからざれば、絡脈の別かるる所を異にするなり」とある。三焦の下輸「委陽」は、『霊枢』本輸では「太陽絡也」にも「太陽之別也」にも作る。ここでの「別」と「絡」が等しいことが見てとれる。王冰は二つの術語を合併して「別絡」というが、『黄帝明堂経』は十五絡以外の絡脈を「別絡」という。王冰による「別絡」の用法は、後代のひとには受け入れられず、『黄帝明堂経』に掲載された「別絡」もまたひとびとに熟知されなかったので、この二つの「別絡」の用法はともに流行しなかった。ここで特に取り上げるべきことは、滑寿『十四経発揮』が上述の第二類にあたる「経之別」(「経脈連環」の統一を構築するために新たに増やされた分枝)をみな「絡」といっていることである。この命名法は、はやくも楼英によって疑義が提出されたが〔『醫學綱目』卷一・陰陽:「許昌滑壽著《十四經發揮》,釋經脈為曲,絡脈為直;經為榮氣,絡為衛氣,乃所以惑亂來學也。謹按經云……」〕、ひとびとからは、ほとんどすっかり忘れ去られた。しかし、忘れていけないことは、この不合理な命名法の背後にある貴いところ、つまり『霊枢』経脈にある十二経脈の循行には、性質と異にする二種類の分枝があることを認識することである。この点を積極的に意識することは、現代の鍼灸界にとって特別な意味がある。
 3.十五絡脈と十五大絡
 「十五絡脈」は、『内経』で明確に使用されている術語であり、「十二経脈」と相対するものである。しかし、楊上善・馬蒔・張志聡といった『内経』の注釈者は、十五絡脈を「十五大絡」ともいっている。現今の鍼灸学・経絡学教材も、この二つの術語を同義語としてしばしば使用している。実は、「十五大絡」という語の不合理性は、それと対応する「十二経脈」と照らし合わせれば、一目瞭然である。古代であれ現代であれ、「十二経脈」を「十二大絡」というひとはいない。さらに重要なのは、「大絡」という言葉は『内経』では、特定の概念内容を有することである。第一に、体表にある「小絡」に対する経脈を「大絡」といい、『霊枢』経脈が述べる「十五絡」に限定されない。たとえば、「三焦の病は、腹気満ち、小腹尤も堅く、小便するを得ず、窘急し、溢るるときは則ち水あり、留まるときは即ち脹と為る。候は足太陽の外大絡に在り。大絡は太陽少陽の間に在り。亦た脈に見(あら)わる。委陽を取る」(『霊枢』邪気蔵府病形)、「邪 三焦の約に在れば、之を太陽の大絡に取る。其の絡脈と厥陰の小絡の結ぼれて血ある者を視る」(『霊枢』四時気)。「十五大絡」の妨害によって、現代人は『内経』にある、こういった「大絡」を一見すると、「十五大絡」のことだと理解するのを当然だとおもう。第二に、特に内臓の絡脈を指す。たとえば、「胃の大絡、名づけて虚里と曰う。膈を貫き肺を絡(まと)い、左乳の下に出で、其の動は衣に応ず。脈の宗気なり」(『素問』平人気象論)、「胞絡は腎に繫る」(『素問』奇病論)、「夫(そ)れ衝脈は、五臓六腑の海なり。其の下る者は、少陰の大絡に注ぎ、気街に出づ」(『霊枢』逆順肥痩)。経脈篇に述べられている十五絡の文では、その術語である「別」と「絡」は同一視できるが、「大絡」とは同一視できない。臓腑の脈をあらわす「大絡」を「別」ということができないのは明らかであり、実際は「経隧」の概念に相当する。まさに『霊枢』玉版にいう「胃の気血を出だす所の者は、経隧なり。経隧は五臓六腑の大絡なり」である。
 以上の理由をかんがみて、以下のことを提案する。今後の鍼灸学教材と関連する標準テキストでは、「十五絡」を標準術語とすべきであり、「十五大絡」はもはや規範となる術語としては使用すべきではなく、現代人およびこれからのひとが『内経』の「大絡」概念の誤解と英文翻訳上の混乱を招かないようにすべきである。

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