2016年9月25日日曜日

前野直彬『漢文入門』 (ちくま学芸文庫)

185頁:「湖-西」とあるのは,この二字をまとめて「こせい」と音で読めという印である。もしも「みづうみのにし」と訓で読ませたければ「湖」の下に「ノ」と送りがなを入れ,さらに「湖_西」と,左側に寄せたハイフンをつける。すべて-が中央ないし右側にあれば音,左側ならば訓で読むことを示す。
 送りがなも「知ヌ」は現在ならば「知ンヌ」となるところだが,「ン」を省略してもわかるのだから,省略してある。また「〆」は「シテ」,「˥」は「コト」である。昔の送りがなには,このようにカタカナ二字を一字であらわした符号が多い。たとえば「然レドモ」の「ドモ」は「| モ」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%82),「するとき」の「トキ」は「寸」と書く。
186頁 訓読法の改革
 「言へば」は,平安朝では「言ふからには」の意味であったが,江戸時代となるとしだいに仮定を示すときも使われるようになった。……そこで,平安朝ならば当然「言はば」となるべきところにも,「言へば」と送りがなをつけることが多くなった。……日本語に「霧」の動詞はない。そこで古い訓読では「霧フル」などとして動詞化したが,江戸時代となると送りがなをなるべく減らして簡潔にしようとする意識がはたらき,「霧ス」に変わっていった。「霧(きり)す」では日本語として意味が通じないが,訓読特有の語法として通用するようになったのである。
 この類推が動詞にも及んで,「死」は古くは「死にき」「みまかりぬ」などと読んでいたが,一様に「死す」と読むようになった。
 また,原文の漢字をなるべく多く読もうとするのも,有力な傾向となった。……「学而時習之」の「之」は,平安朝では読まなかった。ここの「之」は特に何をさすという代名詞ではないのだから,読まないほうがむしろすっきりする。しかし江戸時代になると,「学びて時に之(これ)を習ふ」と「之」まで読むのが一般化してきた。同時に「吾不関焉」は「吾関せず」(私は関係がない)でさしつかえがないのだが,「吾関せず焉(えん)」と助字まで読む読み方も生じた。
 このようにして……訓読のしかたに変化がおこると,それを整理して新しい訓読法の原則を作ろうという動きがおこる。……【佐藤一斎の】一斎点などの訓読には,「謂(おも)へらく」などという奈良朝時代の言葉から「君,これを為(な)せば如何(いかん)」などという江戸時代の言葉を含んだ表現まで,日本語の歴史を一つにつきまぜたような,妙な日本文ができあがった。
 平安朝では「猛虎は已(すで)に死にき」と読んだはずだが,新訓読では「猛虎已に死す」と現在形にしてしまう。したがって一度訓読しておいてから,ここの「死す」は過去のことなのだと説明しなおさなくてはならない。
 こう書くと,江戸時代の新訓読はいかにも不合理なように見えるかもしれないが,それが成立するには,やはりそれだけの歴史的必然性があった。新訓読法はなるべく訓読を簡便にして誰にでも漢文が読めるように留意してあるとともに,漢作文をするときにも便利なようになっている。
 新訓読法が行きわたったころは,もう明治維新になっていた。……明治四十五年三月二十九日,「漢文教授に関する文部省調査報告」(http://snob.s1.xrea.com/fumikura/19120329_kanbun/)として発表された。……これは調査報告であって強制力は持たないが,以後の漢文教科書はみなこの訓点法に従うようになった。……
 われわれが漢文を訓読して,これが昔から伝わった読み方だと言っても,実は江戸時代からの,場合によっては江戸末期からの百年あまりの期間に伝えられた読み方なのである。漢文訓読の長い歴史の中では,ごく短期間にすぎない。

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