2016年10月31日月曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その6

「先病而後生寒者.治其本」――『霊枢』邪気蔵府病形(04):「大腸病者.腸中切痛.而鳴濯濯.冬曰重感于寒.即泄.当臍而痛.不能久立.与胃同候.取巨虚上廉」〔【現代語訳】大腸の病の時は、腸の中が切り刻まれるように痛み、じゃぶじゃぶと腹鳴りがします。冬に繰りかえし寒を受けますと、下痢をおこして臍のところが痛みます。そのために長く立っていることができず、うずくまってしまいます。その他、胃の病のときの症状と同様な点があります。この場合は、足の陽明胃経にある大腸の合穴の上巨虚を取穴いたします〕。「先病而後泄者.治其本」の治療方法もこれとおなじである。

「先熱而後生病者.治其本」〔この文についての解説なし〕

「先熱而後生中満者.治其標」――『霊枢』寒熱病(21):「陽逆頭痛.胸満不得息.取之人迎」〔「逆」。『霊枢』作「迎」。『太素』『甲乙経』作「逆」。【現代語訳】陽邪が陽経脈を逆上すると、頭が痛み、胸の中がいっぱいになって息苦しくなる。このときは人迎穴に取穴するとよい〕。陽気が上逆すると、頭痛発熱し、それにつづいて胸中が脹れ、呼吸困難となる。このときは衛気が胸膺頸部にあつまり、順に反して逆と為る〔『素問』四気調神大論(02)〕情勢があるので、標部である人迎穴を取って胸頸部の積気をゆるめる。他の例:『霊枢』熱病(23):「熱病先身濇.煩而熱.煩悗.乾唇口嗌.取之皮.以第一鍼」〔「煩」、『霊枢』作「倚」。『甲乙経』作「煩」。【現代語訳】熱病でまず身体がすっきりせず、無力感がある上に熱があり、煩悶し、口唇、喉が乾くなどしたら、脈に治療を施すべきである。九鍼中の第一鍼(鑱〔ざん〕鍼)を用い、(熱病を治療する五十九腧穴から穴位を選び治療する)/「穴位」は「穴道」とおなじで「ツボ(腧穴)」の意。「位」は、「位置・場所」の意ではない〕。熱病では先に身体にとどこおり、すっきりしない感じがあり、つづいて煩熱・煩悶する。頭が大きく尖端がとがった鑱鍼を使って、標部に位置する腧穴を刺す。あるいは胸腹頭面部にあらわれた瘀血を浅く刺して陽気を瀉す。

「先病而後泄者.治其本」〔前文を参照〕

2016年10月30日日曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その5

「先寒而後生病者.治其本」――『霊枢』五邪(20):「邪在肝.則両脇中痛.寒中.悪血在内.行善掣節.時脚腫.取之行間.以引脇下.補三里.以温胃中.取血脈以散悪血.取耳間青脈.以去其掣」〔【現代語訳】病邪が肝を侵すと、両脇の中が痛み、寒気が中に滞り、瘀血が体内に留まり、歩くときにいつも関節がひきつれて痛み、また時に脚が腫れることがある。治療は、行間穴に取り、脇肋のあたりに留滞した気を引いて下行させる。同時に足三里穴に取って胃中を温め、また瘀血のある絡脈を刺して悪血〔おけつ〕を散らす。さらに耳の後の青絡脈の上にある手の三焦経の瘛脈〔けいみゃく〕穴に取り、ひきつれる痛みを除く〕。先に寒気が肝脈に停滞することにより、悪血が内をふさぎ、気血がめぐらない。その後で肝経が通過する場所に抽掣〔抽搐。ひきつり、硬直〕腫痛を生ずる。この証は病が肝脈にあるとしても、実際は陽気の不振による。陰病は陽を治すべきであり、本部にある足三里穴を取って陽気をおぎない、陰翳〔陰寒の気〕を消す〔『素問』至真要大論(74):「熱之而寒者取之陽」。王注:「言益火之源,以消陰翳」〕。陽明は「両陽合明」(至真要大論)で、気盛血実であるので、陽気を補益することができる。

2016年10月28日金曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その4

「先逆而後病者.治其本」――例:『霊枢』四時気(19)」「腹中常鳴.気上衝胸.喘不能久立.邪在大腸.刺肓之原.巨虚上廉.三里」〔【現代語訳】しばしば腹鳴があり、気が胸部に向って衝〔つ〕き上げ、息苦しくて長くは立っていられないのは、病邪が大腸にあるからです。このときには、気海・巨虚上廉(上巨虚)・足三里に取穴し刺します〕。先に腹中の逆気があって上って胸部を衝き、後に喘息を病んで長くは立っていられない。これは邪気が大腸に留まっているためである。生理的な状態では、衛気は「胸腹に散」〔S.43〕するので、腹部に本来は分散すべきであるのに、いまは反対にあつまって上逆している。よって「肓の原」(気海穴)を鍼刺して腸道の気機〔気の機能活動〕をととのえ、同時に下肢の本部に位置する上巨虚と足三里などの腧穴を取って逆気をさげる。他の例:『霊枢』四時気(19):「小腹控睾.引腰脊.上衝心.邪在小腸者.連睾系.属于脊.貫肝肺.絡心系.気盛則厥逆.上衝腸胃.熏肝.散于肓.結于臍.故取之肓原以散之.刺太陰以予之.取厥陰以下之.取巨虚下廉以去之.按其所過之経以調之」〔【現代語訳】下腹部から睾丸にかけて引きつり、腰背部にも痛みが波及し、胸に衝〔つ〕きあげて心蔵部が痛むのは、病邪が小腸にあるからです。小腸の経絡は皐丸に連なり、脊椎に付き、上って肝と肺を貫いて、心系に絡んでいるからです。そこで病邪が盛んですと、逆乱した気が上逆し、胃腸に衝〔つ〕き上げ、肝蔵を熱し、肓膜に取り、臍部に集結します。したがってその治療は肓の原の気海穴に取穴して結集した邪気を散らし、さらに手の太陰肺経に取穴して補法を行い、足の厥陰肝経に取穴して瀉法を行います。小腸経の合穴の下巨虚に取穴してその邪気を除き、同時に症状が現れている経脈を勘案して調整します〕。疝気は小腸気痛〔小腸が腹腔内から陰嚢にさがり、引っ張られるような痛みの症状〕、あるいは寒気が肝脈に滞留したことによる。この証は先に厥逆があり、その後に気がへそに結ぼれる。鍼刺は、本部の腧穴、すなわち足厥陰と足太陽の滎穴と輸穴、それに小腸の下合穴を取るべきである。

2016年10月26日水曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その3

この方法がもっとも成功しているのは、先病後病を骨子としているところにある。「標本相移」とは、すなわち衛気の標本間での集散変化は、時間によっておこることである。「一を執る」は、「先病後病」という時間と関連する鍵となる情報をつかまえることである。これによって詳しく衛気の所在を観察し、「知其往来.要与之期」〔【現代語訳】気の往来の時期を理解してはじめて刺鍼の正確な時間を理解できるのです〕(『霊枢』九針十二原(01))、その環中を執って無窮に応じるのである。
〔『荘子』斉物論:「彼是莫得其偶,謂之道枢,枢始得其環中,以応無窮」。郭象 注:「夫是非反覆, 相尋無窮,故謂之環。環中,空矣;今以是非為環而得其中者,無是無非也。無是無非,故能応夫是非。是非無窮,故応亦無窮」。 環中は、なにもないリングの中心で、是非のない境地、超脱の境地〕

『素問』標本病伝論(65):「先病而後逆者.治其本.先逆而後病者.治其本.先寒而後生病者.治其本.先病而後生寒者.治其本.先熱而後生病者.治其本.先熱而後生中満者.治其標.先病而後泄者.治其本.先泄而後生他病者.治其本.必且調之.乃治其他病.先病而後生中満者.治其標.先中満而後煩心者.治其本.人有客気.有同気.小大不利.治其標.小大利.治其本.病発而有餘.本而標之.先治其本.後治其標.病発而不足.標而本之.先治其標.後治其本.謹察間甚.以意調之.間者并行.甚者独行.先小大不利而後生病者.治其本」〔【現代語訳】ある病を先に患っており、その後に気血が逆乱して不和となっているものに対しては、その本病を治療します。気血が逆乱して不和となったためにその後に病を患ったものに対しては、先ずその本を治療します。先に寒邪によって病を患い、その後に他の病変が起こった場合には、まずその本を治療しますし、先に病を患っておりその後に寒を生じた場合には、まずその本病を治療します。先に熱病を患っており、その後にその他の病変が生じた場合には、まず先にもとからある病を治療します。先に熱病を患い、その後に中満が生じた場合には、その中満という標病を先ず治療します。先にある病を患い、その後に下痢を生じた場合には、まずその本病を治療します。先に下痢を患い、その後にその他の病を生じた場合には、まず先の下痢を治療し、必ず下痢を治してからその他の病症の治療を行わなければなりません。先に病を患い、その後に中満を生じた場合には、まず中満という標病を治療しますが、先に中満症を患い、その後に煩心が起こった場合には先ずその本病を治療します。新邪を受けて病になる場合と、体内にもともとあった邪気によって病を生ずる場合とがあります。前者は客気といい、標に属するものであり、後者は固気といい、本に属するものです。また大小便が不通の場合には、まずその標病を治療します。大小便が通利している場合には、まずその本病を治療します。病が生じて有余である実証となっている場合には、これは邪気が盛んであるために生じたものですから、邪気が本となり、その他の病症が標となります。この場合にはまずその本を治療し、その後にその標を治療します。病が生じて不足である虚証となっている場合には、正気の虚弱が標であり、先病の邪気が本となります。この場合にはまずその標を治療し、その後にその本を治療します〕。

古代人が先病後病を標本刺法を掌握するための要点とあえてした背後には、大量の臨床例の支えがあったのにちがいない。これらの例の多くは『黄帝内経』にさがすことができるし、その中で衛気があらわす変化を見つけることができるとかんがえる。以下、上述した標本刺法を一つずつ取り出し、あわせてダッシュを用いて、『黄帝内経』が掲載する事例に説明をくわえる。

「先病而後逆者.治其本」――『霊枢』九針十二原(01):「五蔵之気.已絶於外.而用鍼者.反実其内.是謂逆厥.逆厥則必死.其死也躁.治之者.反取四末」〔【現代語訳】五蔵の病変により、正気が外に虚してしまったものを陽虚証といいますが、鍼を用いて内側にある陰経を補ってしまうと、陰はますます盛んになって陽気は内に衰え、四肢の冷えと萎えを引き起こします。これを逆厥と呼びます。逆厥もまた必ず死亡しますが、死ぬときは騒いで安定しないものです。これは医家が誤って四肢の末端の経穴を取って、陽気を尽きさせてしまったためにもたらされたものなのです/【現代語訳】は「反取四末」という誤治の結果と解する。以下、筆者卓廉士は、「反取四末」を誤治への対処法と解する〕。疾病の先後についていえば、先に臓腑の病があり、後に誤治によって内に気を実にさせると、手足が温かくならない「逆厥」証が発生する。重篤な場合は、虚陽が上にうかび、手足躁擾〔手足をばたつかせる〕の状態にさえなる。このようなときは、抜本的に治療方針をあらためて、「反して四末」にある本部の腧穴を「取って」鍼治する。四末〔四肢末端〕は陽気の本であり、衛気があつまるところであるので、陽気を恢復して逆厥を治療することができる。

2016年10月24日月曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その2

衛気には邪気に向かい、これと争う特性がある。この特性は病邪の拡散をふせぎ、邪気が深く侵入するのを阻止し、病因を除くことができる。邪気が本にあれば、衛気は本にあつまる。邪気が標にあれば、「衛気帰之」(『霊枢』癰疽(81))、向きを変えて、標にあつまる。この現象に焦点をあてた「治反為逆.治得為従」という方法がある。衛気が本部にあつまることを「得」といい、標部にあつまった相反する情況を「反」という。「逆」と「従」は「標本相移」に焦点をあてた鍼刺方法であり、標を刺すのが逆であり、本を刺すのが従である。具体的にいえば、「有取標而得者.有取本而得者.有逆取而得者.有従取而得者」〔標に取りて得る者あり、本に取りて得る者あり、逆取して得る者あり、従取して得る者あり〕である。衛気のゆくえを追っていえば、つぎのようにあらわせる。「有其(衛気)在標而求之於標.有其在本而求之於本.有其在本而求之於標.有其在標而求之於本」〔其(衛気)の標に在りてこれを標に求むるあり、其の本に在りてこれを本に求むるあり、其の本に在りてこれを標に求むるあり、其の標に在りてこれを本に求むるあり、と〕。

よって衛気の移動と集散をおえば、疾病の病機〔疾病にいたる機序〕をとらえることができ、気血の虚実と邪気の存亡などの情況を理解できる。それによって標を刺すか本を刺すかが決まる。考え方からすると、辨症論治のひな形をすでにそなえているようにみえる。しかし、秦漢時代の医者はそれを当時流行した思想である「執一」と結びつけて一連の刺法を形作った。この方法は、すこぶる複雑なものを簡潔にでき、理解応用を容易にした。

『老子』二十二章「聖人執一以為天下式」〔『老子』二十二章「是以聖人抱一為天下式」。出土『老子乙道經』「聖人執一以為天下牧」〕。いわゆる「執一」とは、鍵となる法則を自分のものとし、複雑な局面に対処することである。『素問』標本病伝論(65)は「夫陰陽逆従.標本之為道也.小而大.言一而知百病之害.少而多.浅而博.可以言一而知百也.以浅而知深.察近而知遠.言標与本.易而勿及」〔【現代語訳】 陰陽、逆従、標本の道理は、一見すると非常に簡単にみえますが、その応用価値はきわめて大きいのです。したがって標本逆従の道理を語るならば、多くの疾病による危害を知ることができるのです。少ないものから多くを知り、小から大を推しはかることができるので、一を語って百を知ることができるといっているのです。浅いところから深いところを知り、近くを調べて遠くを知ることができます。標本の道理というものは、非常に容易に理解はできますが、その臨床応用となりますと、けっしてそれほど容易に会得することはできません〕という。ここに二回も言われている「言一而知百」が、「一を執る」の意味を存分にあきらかにしていることがわかる。

『文子』微明は「見本而知末,執一而応万,謂之術」という。文子は標本(「本」「末」ともいう)を一つの不変によって万変に応じ、いろいろな複雑な変化に対処する方法とみなした。『漢書』芸文志は文子を「〔老子の弟子で〕孔子と時を並ぶ」という。よってこの思想は、『黄帝内経』以前か同時期にすでに存在し、秦漢時代にはすこぶる流行していた。『呂氏春秋』有度は「先王不能尽知,執一而万物治」といい、高誘は「執守一道,而万物治理矣」と注する。また後漢の王弼は『周易略例』で「物雖衆,則知可以執一御也;由本以観之,義雖博,則知可以一名挙也」〔《明彖》〕という。よって文化概念の継続性からみれば、『黄帝内経』が提唱する「標本の道」は「一を執って万に応ずる」という思想の伝承とすべきである。その目的は、医者に一つの有効な原則あるいは法則を身につけさせ、臨床上の複雑な病情に対処させることにある。筆者の考えでは、『素問』標本病伝論(65)が掲載するのは、このような方法の一つであり、簡便でおぼえやすく行ないやすい。「少而多.浅而博」であり、相当な実用性がある。

2016年10月23日日曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その1

卓廉士『営衛学説と鍼灸臨床』第三章第二節標本刺法

第二節 標本刺法、一を執るを式となす
〔執一:根本の道を掌握することをいう。《呂氏春秋‧有度》: “先王不能盡知, 執一而萬治。” 高誘 注: “執守一道,而萬物治理矣。” 〕

現代中医基礎の教材には、「標と本は、一つの相対的な概念であり、多くの意味を有し、病気が変化する過程での各種の矛盾する主従関係を説明するのにもちいられる。たとえば、邪正の双方でいえば、正気は本であり、邪気は標である。病因と症状でいえば、病因は本であり、症状は標である。疾病の前後でいえば、旧病・原発病は本であり、新病・続発病は標である」(印会河主編『中医基礎理論』上海科学技術出版社、2006年)とある。このような説明はたいへん流行し、大学の教材に掲載され、現代中医における治則ではすでに不易の論〔至精至当で、あらたむべからざる定論〕となっている。しかし、『素問』標本病伝論(65)の標本についての論述を仔細に考察してみると、治標・治本とは、衛気標本理論にもとづいて制定された鍼刺方法であることがわかる。その意味は、終始一貫しており、病因・正気・新病旧病の説は、後世の医家が発展させて生じたものとすべきであり、『黄帝内経』にある標本の原義とは一致しない。幾千百年、他人の言に定見なく従い、ついには標本学説の本来のすがたが覆い隠されてしまった。標本の原義があきらかにした古い鍼灸治病の重要な原則は、かえって埋没してひとびとに知られなくなった。そのためそれを整理して示す必要が非常にある。『素問』標本病伝論(65)にいわく、

黄帝問曰.病有標本.刺有逆従.奈何.岐伯対曰.凡刺之方.必別陰陽.前後相応.逆従得施.標本相移.故曰.有其在標而求之於標.有其在本而求之於本.有其在本而求之於標.有其在標而求之於本.故治有取標而得者.有取本而得者.有逆取而得者.有従取而得者.故知逆与従.正行無問.知標本者.万挙万当.不知標本.是謂妄行.夫陰陽逆従.標本之為道也.小而大.言一而知百病之害.少而多.浅而博.可以言一而知百也.以浅而知深.察近而知遠.言標与本.易而勿及.治反為逆.治得為従.
【現代語訳】黄帝が問う。「病には標病、本病の区別があり、刺法には逆治、従治の区別があるが、これはどうしてか」。 岐伯が答える。「刺鍼治療の準則は、必ずまず病状が陰に属するのか、陽に属するのかを区別し、どの病が先に患ったもので、どの病が後に患ったものであるのかを区別しなければなりません。そののちに治療を行えば、逆治、従治の運用は当を得るし、標本のどれを先に治療し、どれを後に治療するかということも臨機応変に対処することができるのです。したがってある場合には標の病に対して標を治し、本の病に対して本を治することもありますし、またある場合には本の病に対して標を治し、標の病に対して本を治することもあるといわれているのです。したがって治療にあたっては標を治療してよくなるものと、本を治療してよくなるものとがあります。また正治によってよくなるものと、反治によってよくなるものがあるのです。 そこで逆治と従治の原則を知れば、正しい治療を行うことができますし、治療に際して疑念が生ずることもないのです。標と本とにおける軽重と緩急との関係がわかると、すべてうまく治療することができるようになるのです。しかし標本を知らなければ盲目的な治療となってしまいます。陰陽、逆従、標本の道理は、一見すると非常に簡単にみえますが、その応用価値はきわめて大きいのです。したがって標本逆従の道理を語るならば、多くの疾病による危害を知ることができるのです。少ないものから多くを知り、小から大を推しはかることができるので、一を語って百を知ることができるといっているのです。浅いところから深いところを知り、近くを調べて遠くを知ることができます。標本の道理というものは、非常に容易に理解はできますが、その臨床応用となりますと、けっしてそれほど容易に会得することはできません。相い反して行う治療を逆といい、正治の治療を従といいます」。

「病有標本.刺有逆從」とは、標本がもともと鍼刺のためのものであることをあきらかにしている。「前後相應」とは、気街を通行する衛気が身体の前後に感応を発生させる連係をいう。「逆從」とは、「標本相移」に対して取る措置である。衛気には病患部へうごき、うつり、あつまって、邪気をのぞく能力がある。そのためその集散は疾病の変化にともなって変化する。古代人はこれを「標本相移」といった。これは標本の位置が変わることをいっているのではなく、もともと本部に集まっていた衛気が上に移動したり、もともと標部に散在していた衛気が下に移動することを指す。このような変位〔移動・動き〕は、衛気本来の生理的な情況を変え、それによって脹満・喘息・疼痛などの症状があらわれる。したがって、「標本相移」は、衛気の異常をあらわしている。『霊枢』衛気失常(59)にいう。

黄帝曰.衛気之留于腹中.搐積不行.苑蘊不得常所.使人肢脇胃中満.喘呼逆息者.何以去之.伯高曰.其気積于胸中者.上取之.積于腹中者.下取之.上下皆満者.傍取之.黄帝曰.取之奈何.伯高対曰.積於上.写大迎.天突.喉中.積于下者.写三里与気街.上下皆満者.上下取之.与季脇之下一寸.重者雞足取之.
【現代語訳】黄帝がいわれる。「衛気の巡りが異常をきたして、腹の中に停滞し、蓄積して正常な運行を失い、鬱積して病になると、胸脇と腎が腫れ、喘息して気が逆上するなどの症状となるが、どのようにして治療するのか」。 伯高がいう。「気が胸の中に蓄積して発病するものは、身体の上部の経穴を取って治療するべきです。腹の中に蓄積したものであれば、身体の下部の経穴を取って治療すべきです。もし、胸も腹も脹れたものであれば、上部下部と経脈付近の経穴を取って治療すべきです」。 黄帝がいわれる。「どの経穴をとるのか」。 伯高がいう。「胸に蓄積したものは、足の陽明胃経の人迎穴および任脈の天突穴と廉泉穴を取って瀉します。腹に蓄積したものは、足の陽明胃経の三里穴と気衝穴を取って瀉します。胸腹のどちらにも蓄積したものは、身体の上下の経穴をすべてと、季脇の下一寸にある章門穴を取るべきです。病が重いものは、鶏足の刺鍼法 (真っ直ぐに鍼を一本入れ、その左右に斜めに二本入れる) を用います。

衛気は十二経脈の本部に集積することが多く、胸腹と頭面などの標部に集積することは少ない。したがって生理上は本は重く標は軽くあらわれるが、衛気が失調するとその道理に反して、標は重く本は軽くなる。「標本相移」すると、多くの病理がもたらされる。たとえば、衛気は「留于腹中.搐積不行」し、胃脇に留まり、中焦は痞満し、胸中に留まり、「喘呼逆息」する。衛気はもともと「熏於肓膜.散於胸腹」(『素問』痺論(43))し、運行してやすまず、滞留しえず、留まれば病となる。衛気の失調によって引き起こされた病症について、鍼刺治療は、標本の上下の連係にもとづいて、それぞれ標を刺す・本を刺す・先に標、後に本・先に本、後に標・標本かねて施すなど、各種の方法を採用する。「積于腹中者.下取之」については、上の病は下に取り、四肢本部の腧穴である足三里・気衝などに鍼刺する。ただし気が胸部標証に鬱積して急なものは、「止之膺与背腧」〔『霊枢』衛気(52)〕することができ、標部の腧穴に鍼刺してその急迫をゆるめる。当然、標本ともに施術してよく、上下両方を鍼刺し、他に章門(LR13)を加えて気をめぐらす力をつよめる。「雞足」刺法は、『霊枢』官針(07)に記載されている。その操作方法は、「左右雞足.鍼于分肉之間.以取肌痺」〔【現代語訳】(第四は合谷刺という。合谷刺とは分肉の間にまで直刺したのち、一旦皮下まで引き上げ、さらに)左右にむけて分肉の間に鶏の足のように一カ所づつ斜刺し、肌痺を治療する〕である。その方法は、三本の鍼で、一本の鍼は直刺し、他の二本はその両側に刺入して、三本の鍼を交叉させて鶏の爪の形のようにする。肌肉のあいだにある邪気を同時に瀉す作用がある。肉の小会は谿であり、大会は谷であるので、「雞足」の刺法は、「合谷刺」ともいう。この刺法は、かなり強烈に衛気の感応を喚起することができる。

2016年10月17日月曜日

卓廉士『営衛学説与針灸臨床』 第八章 営衛学説の角度から見る その4 おわり

『黄帝内経』の記載によれば、衛気は「熏膚……沢毛」〔【現代語訳】皮膚に染み込み、……毛髪を潤し〕(『霊枢』決気(30))して、霧露のように体表にくまなくひろがり、経腧は「衛気之所留止」〔【現代語訳】衛気が行って留まる場所〕(『素問』五蔵生成)である。このため、皮膚表面の浅層と腧穴の中の深層は、どちらも「得気」を誘発することができる。数十年におよぶ経絡研究に関する資料を検索してわかったことは、多数の実験が示している「循経感伝」の特徴はみな衛気の特性と非常に一致するということである。ここにひとつ注目すべき現象がある。以下、李鼎主編『経絡学』(上海科学技術出版社、1999年、136頁)第七章「経絡之現代研究」にある、「循経感伝現象のおもな特徴」を項目ごとにとりだし、ダッシュのうしろに衛気の特徴で説明をくわえる。

(1)「循経感伝の路線。一般的にいえば、四肢では感伝線は古代の経絡線とほぼ一致する。胸腹部ではあまり一致しない。頭部では大部分一致しない」。――衛気は脈外をめぐり、四肢を本となし、胸腹頭面を標となす。気は本に集まり、経に分かれることははっきりしていて、標へは分散していき、融合にむかう。分散していく気は遠くなればなるほど経にわかれてますます曖昧模糊となる。実験の証明:古代人の衛気標本に関する理論には自身の物的基礎があった。

(2)「循経感伝の感覚性質。鍼刺では一般に酸・麻・脹・ひきつり・冷熱などの感伝が生じる」。――衛気は慓悍滑利であり、「一旦鍼灸の刺戟をうけると、迅速に体表にむかい、腧穴あるいは病所へ向かって動き集まる」(卓廉士「鍼刺『審察衛気』論」、中国針灸、2010年、30巻第9期)。酸・脹・気のめぐり・冷熱などの感覚はみな衛気の特性のあらわれである。

(3)「循経感伝の方向。双方向の伝導を呈する。身体(四肢末端をのぞく)上のいかなる穴に刺戟をあたえても、一般にその穴から二つの相反する方向に感伝が発生する」。――衛気は脈外にあり、また「浮気之不循経者」〔【現代語訳】浮いて外にある気は経脈の中を巡らず〕(『霊枢』衛気(52))なので、鍼刺の伝導方向は、経脈の気の流れる方向と一致してもしなくともよい。

(4)「循経感伝の幅。太いものもあり、細いものもある。四肢では細いものがおおく、約0.2~2.0cmの間である。多くの反応は琴弦状か電線状である。体幹に入ったあとは、10cm以上の幅に達することがある」。衛気の本は四肢にあり、経脈線路に沿って縦方向に分布し、「胸腹に散ずる」。胸腹部ではかなり分散するので、感伝は四肢では狭く、胸腹部では広い。

(5)「循経感伝の速度。感伝は速度は一定ではなく、停滞点があり、止まってはまた動く。このような停滞点の多くは穴があるところである」。――経気はリズムが一様で、気がめぐる速度は同じであり、「環周不休」であって、停滞しない。衛気には動静があり、動くときは、日中に陽を二十五度行き、夜間に陰を二十五度行く。静かなときは、腧穴の中にとどまったり、本部の中に集まっている。これは「感伝」が経気に由来するのではなく、衛気に由来することをうまく説明している。

(6)「循経感伝の逆流性。おおくの情況下では、刺戟が停止したあと、感伝はすぐには消えず、鍼刺穴の方向へ逆流し、その穴に達したのちに消失する」。――このような「鍼已出気独行」〔【現代語訳】ある人は鍼を抜いた後に反応が現れる〕(『霊枢』行針(67))という後遺感覚も衛気の反映とすべきである。衛気は鍼刺の刺戟をうけて、鍼を抜いたあともまだ刺戟をうけた状態にある。

(7)「循経感伝の病所へ向かう性質。病理状態では、感伝が四肢にあらわれたのち、体幹に入り、病所にむかう性質がある。すなわちいわゆる『気は病所に至る』である。たとえば心臓病の患者では、異なる経脈に感伝があらわれたのち、みな心臓に向かって集中する現象がある」。――「刺之要、気至而有効」〔【現代語訳】これは刺鍼の重要なポイントです。鍼をした時は、気を得て初めて効果が現れるのです〕(『霊枢』九針十二原(01))、「気至る」とは、衛気が「得気」したのちの病所に向かうはたらきであり、その気は誘導されて病所に達することができる。

このほか、近年かなり多くの「循経感伝阻滞実験」が広範囲におこなわれ、「機械による圧迫・局部冷凍による温度低下・生理食塩水やノボカインの局部注射により、いずれも感伝が阻滞させることができる」ことが発見された。――経気は動脈の搏動として表現され、左右相応じ、九候に変化はなく、その循環流注は圧迫・冷凍などの要素では妨害あるいは停止できない。衛気は「浮気」であり、脈外をめぐり、体表にゆきわたるので、上述の要素で阻滞を受ける。

衛気は鍼刺により「得気」して、古代人に認識された系統であり、防御・抗邪・止痛・病所組織の修復・病因の除去など、多くの機能が一体となって集められたものであり、「抜刺〔とげを抜く〕」「雪汚〔汚れをすすぐ〕」「解結〔むすぼれを解く〕」「決閉〔閉塞を通じさせる〕」(『霊枢』九針十二原(01))の方式をとおして疾病を治療する。しかし衛気は「慓悍滑利」であり、経脈との関係はつかず離れずであり、体表に散らばっていたり、腧穴に集まったり、四肢の本に集まったり、胸腹頭面、五官の竅の標に散在したり、脈と並行することもできるが、つねに経脈の道にしたがいもしない。これからわかるように、「循経感伝実験」の結果は、衛気の作用と特性をまぎれもなく説明していて、鍼刺感伝が衛気に由来し、経気に由来するのではないことを実証している。

『東洋医学概論』以前の教科書

 『東洋医学概論』(1993年,学校協会,医道の日本社)以前の,鍼灸学校で使用していた教科書を調べています。 
 東鍼校卒業の方に聞いたところ,特に教科書はなく先生自家製の本(プリント?)で授業が行われていたということです。
 その他の学校を卒業された方や別の情報をお持ちの方は,教えていただけませんでしょうか?
 また『漢方概論 全A.B』(あ・は・き・柔学校・養成施設教本,東京教育大学雑司ヶ谷分校 理療科教育研究会編,医道の日本社,1966)という本を使っていたという方はいませんでしょうか?

2016年10月16日日曜日

卓廉士『営衛学説与針灸臨床』 第八章 営衛学説の角度から見る その3

「血を営に取る」方法は、鋒鍼(近代では三稜鍼)をもちいて点刺して「血を取る」。邪が経脈あるいは営血にある病症を治療するのにもちいる。施術時は、邪気がまさに来るのをみて、「按而止之.止而取之」〔【現代語訳】:押し撫でてこれを止め、その発展を阻止して鍼で瀉すべきです〕(『素問』離合真邪論(27))、迅速に点刺して血を出し、邪を血とともに去る。刺して血を出すときは、血をみたら即座に止めることが必要で、その方法では「得気」することはできないし、経気あるいは営気を喚起する可能性もないことはあきらかである。

『素問』離合真邪論(27)に「真気者.経気也.経気太虚.故曰.其来不可逢.此之謂也」〔【現代語訳】:真気とは経脈の気のことですから、邪気が衝きあげて進めば経気は大いに虚するのであり、このときに瀉法を用いたのでは、かえって経気をひどく虚にしてしまうのです。そこで気が虚のときに瀉法を用いてはならぬ、というのは、こういう場合を指していうわけです〕とある。この語はつねに学者によって、鍼刺による「得気」が経気から来ている証拠として引用される。実際は、これは古代人が「邪気を候(うかが)う」方法であり、また刺血法の一つでもある。この方法は、邪が経脈に入って「波が涌き起こるように」〔『素問』離合真邪論「如涌波之起也」〕なり、搏動が異常になったときのためにもっぱら設けられ、点刺放血を主とする。そのため実証に活用される。虚証では「経気が太(はなは)だ虚している」ので、来たるや逢うべからず、往くや追うべからず〔離合真邪論「経気太虚……其来不可逢……其往不可追」〕であるので、それほど適用されない。これからわかるように、経脈あるいは営血の疾病に対しては、直接刺して血を出すべきで、絡脈の疾病も刺絡して血を出すべきである。そうでなければ、「諸刺絡脈者.必刺其結上」〔【現代語訳】それぞれの絡脈を刺鍼するときは、必ず絡脈に血液が鬱結しているところを刺さなければならない〕(『霊枢』経脈(10))で、専門的な注意点があるだけである。

「気を衛に取る」とは、毫鍼をつかって腧穴に刺し、「得気」をもって度となす鍼刺方法である。衛気は体表のいたるところにあり、腧穴にとどまり、毫鍼に喚起されて「見開而出」〔『霊枢』営衛生会(18)【現代語訳】どこかに弛緩して開いている部位があれば、そこから出て行こうと〕し、鍼刺部位に集結し、同時にすばやく鍼下に酸・脹・沈重という「得気」感を生じる。『霊枢』根結(05)に「(鍼が腧穴に入ると)気滑即出疾.其気濇則出遅.気悍則鍼小而入浅.気濇則鍼大而入深.深則欲留.浅則欲疾.……此皆因気慓悍滑利也」〔【現代語訳】一般的に気が滑らかであれば鍼を抜くのは速くし、渋っていればゆっくり抜き出しますし、気が軽く浮いていれば細い鍼を使って浅く刺入し、渋って滞っていれば太い鍼を使って深く刺し、深く刺せば鍼を留め、浅く刺せば鍼は速く抜かなければならないのです。……こうした違いは、人によって気の運行の滑らかさに違いがあるからです〕という。いわゆる「慓悍滑利」とは、まさに衛気の特性である。これが鍼刺によって衛気を喚起し、制御して病気を治療することについての『黄帝内経』でのもっとも直接的な描写である。また衛気は十二経脈の標本に沿って集散分布し、さらに脈外をめぐるので、毫鍼による刺戟のもとで容易に「経脈路線に沿った伝導」、いわゆる「循経感伝」現象が出現する。「得気」は衛気の「慓悍滑利」の特性がしからしめるのであり、「慓悍滑利」の説は、鍼刺によって治療効果を得た身近な体験に由来する。したがって、「得気」とそれが形成する感伝は、衛気の特性のあらわれである。

長浜善夫と丸山昌朗は、「鍼響はだいたい身体の浅層に発生したが、一定の深度がある」ことを発見した(『経絡之研究』承淡安訳、1955年120頁)。「得気」を「鍼響」といい、効果を得ること影響の如し〔影が人の姿にしたがい、響きが声にしたがうように、あることが発生すると、他の行動・作用が迅速に引き起こされること〕という意である。今日われわれはこれを感伝と称し、実際の情況により符合するようにおもえる。長浜善夫と丸山昌朗は現象を列挙するのみで、感伝が経気によるのではなく、衛気であることを知らなかった。

2016年10月15日土曜日

卓廉士『営衛学説与針灸臨床』 第八章 営衛学説の角度から見る その2

「循経感伝」のおもなよりどころは、鍼刺により「得気」が経気を喚起することにある。それによって感伝した線路が経脈の線路であり、経絡のはたらきのあらわれである。しかし筆者のかんがえでは、鍼刺によって「得気」が喚起するのは衛気であり、経気ではない。「循経感伝」の実質をあきらかにするためには、まず経気と営気と衛気というこれらの術語の意味をはっきりさせ、あわせて古代人がこのためにもうけた刺法を考察する必要がある。

経気は営気ともいい、経脈の気あるいは経絡の気を指す。『霊枢』経脈(10)に「経脈者常不可見也.其虚実也.以気口知之.脈之見者.皆絡脈也」とある。脈の大きなものは経脈であり、小さなものは絡脈であり、まとめて経絡という。経脈は「常不可見」〔つねに見ることができない〕とはいえ、脈搏を按じてその虚実を察することができ、呼吸をしらべてその動静を知ることができる。その気のめぐりは天の度数と同期していて、日に身を五十周する。「常営無已.終而復始」〔つねに営(めぐ)ってやむことがなく,終わりまできたと思ったらまた始まる〕(『霊枢』営気(16))ことによって、また営気ともいう。『霊枢』営気(16)に掲載されている営気の周流は、『霊枢』経脈(10)に掲載されている経気の循環と、名称・方向・順序においてまったく同じである。これから、営気と経気は同一の生理現象であるとすべきであり、経中の気を経気といい、循環周流するので営気という、と考えることができる。営は脈中を行き、網のように稠密な絡脈をとおして気血を臓腑と全身の組織に貫注させることができる。

衛気は生体を護衛する陽気である。日中に陽をめぐり、体表の陽経にあまねく分布し、腠理をあたためやしない、外邪をふせぐ。十二経脈に沿って集散分布し、標本の勢〔ながれ・いきおい〕を形成する。夜間は陰をめぐり、肓膜を熏じ、胸腹に散じ〔『素問』痺論(43)〕、臓腑をまもる。他に別のルートがあり経脈の外を運行し、脈と並行する。『霊枢』脹論(35)に「衛気之在身也.常然並脈循分肉.行有逆順.陰陽相随.乃得天和.五蔵更始.四時有序.五穀乃化〔【現代語訳】:衛気が人体を運行するときは、つねに経脈と一緒に循行し、肉の境目を循〔めぐ〕ります。運行するとき、上下には逆順がありますが、内外は相〔あい〕したが随っています。このようであってはじめて正常な機能を保持できるのです。五蔵の気は互いに伝え合い、四季の気候は一定の順序に従って推移するから、五穀は変化して精微を生ずることができるのです〕」とある。衛気は脈と並行して、規範をもって経脈は運行し、臓腑の新陳代謝を促進し、臓腑の生理と四時陰陽との同期性を維持し、気血の生化などの作用をうながすことを言っている。『素問』調経論(62)にいう「取血於営.取気於衛」は、営気と衛気の異なる生理的特徴にもとづいて制定した刺法である。

2016年10月14日金曜日

『素問存疑』が公開されました

京都大学が,百々綯撰『素問存疑』をネットで公開しました。

http://kuline.kulib.kyoto-u.ac.jp/

こちらで検索してみて下さい。

2016年10月13日木曜日

卓廉士『営衛学説与針灸臨床』 第八章 営衛学説の角度から見る その1

卓廉士先生は、術数と衛気などに焦点をあてて『黄帝内経』を研究している学者ですが、今回は、その衛気へのこだわりを紹介したいとおもいます。

第一節 「循経感伝実験」についての再考

二十世紀五十年代、長浜善夫と丸山昌朗の二人は、鍼を刺すとかならず酸〔だるい〕・麻・脹・痛などの反応があらわれ、これらの反応がつねに一定の方向に放散する感覚を観察し、「放散方向が屡々古医書に所謂経絡の走向と殆ど一致すること」〔『經絡の研究』杏林書院35頁〕を発見した。これにつづいて国内の学者も陸続として系統的に感伝現象の観察と研究をおこない、おなじように人体に鍼灸を施術したときに、つねに古代人が「得気」と称した感覚、すなわち鍼下に生じる酸・脹・沈重、あるいは「経脈路線に沿って伝導」(李鼎『経絡学』)して気がめぐる感覚が出現することを発見した。これ以降、「循経感伝現象」は経絡研究の重要な内容となり、数十年来、国家はおおくの人力と財力を投入した。これが経絡の物的基礎を獲得し、経絡の実質を発見する有効な手段だと考えたからである。そのためこの現象をめぐって展開された実験は多数にのぼり枚挙にいとまがないし、これによってたくさんの経絡の実質についての見解と仮説が生まれた。

「循経感伝」の実験研究では、学者たちはつぎのようにみなかたく信じていたようである。鍼刺が生み出す「一定方向に放散する感覚」は「経脈の路線に沿う」と。この現象は非常に直接的に観察できて、さながら証明しなくともわかりきったものなので、「感伝」があらわしているのは経脈のはたらきであり、経気の反応であると考えた。こうして感伝をとおして経絡を発見することが普遍的な方法となった。

「循経感伝」が経気から来ることは、経絡実験に基礎をあたえたし、各種の仮説や想定のよりどころでもある。しかしながら、「循経感伝」は本当に中医の経絡現象をあらわしているのかどうか、いったいどれほど経絡のはたらきをあらわすことができるのか、感伝と古医書に書いてある経絡との間にはどのような関係があるのか。これらの一連の問題は、数十年来納得させるような論証をしめしていない。十分な証拠もなく古医書に書いてある経絡は鍼刺感伝の線路であると説明するのなら、「循経感伝実験」の結果は、きわめて大きな疑いをまねくであろう。

2016年10月12日水曜日

李建民「作為方法的中醫出土文物」から その3

たとえば《脈經》巻三は五段あり、主に四時の脈を講じていて、肝・心・脾・肺・腎の五節に分かれる。本巻はすべて古書《四時經》を抄写したものである。たとえば春の脈は「其色青」であり、以下順を追って各時期の赤・黄・白・黒の五色の診がある。黃龍祥によれば扁鵲学派に入れられる《素問.移精變氣論篇》に「夫色之變化,以應四時之脈」とある。四時の脈は五色に相応じる。《隋書經籍志.醫方》には《三部四時五藏辨論色訣事脈》一巻が記録されている。《四時經》はこの類の色診の佚文にちがいない。森立之には1863年に著わした《四時經考注》がある。《四時經》佚文には、あいだに双行の小字注解があるが、作者は不詳である。この書の各篇の後には、みな「《素問》、《鍼經》、張仲景」というような形式で新たに付加された文がある。色脈学説が各家に派生し、仮託の方式も一様ではないことの証明になる。《四時經》も扁鵲学派が発展して変化した文章の断片なのだろうか?錢熙祚は〈脈經跋〉で、「西晉去古未遠,所據醫書皆與今本不同」〔王叔和の時代は、いにしえからいまだ遠くはなく、よりどころとなった医書はみな現代に通行している本とは異なる〕と考えたが、《脈經》が「引扁鵲脈法,並不見於難經,而書中引難經之文,又不稱扁鵲曰」〔引用している扁鵲脈法は『難經』には見えないし、『脉經』が引用している『難經』の文では、「扁鵲曰く」とは言っていない〕。扁鵲脈法という総称はいったい誰がはじめたのだろうか?

同じように五色診にふれる、《中藏經.五色脈論》も黃氏の扁鵲学派のリストにはない。《脈經》は《中藏經》を引用していた。《中藏經》の一部の内容は六朝人によると疑われている【李伯聰,〈關于扁鵲、扁鵲學派和中醫史研究的幾個問題〉,《醫學與哲學》1994年3期】。〈五色脈論〉が講じているのは死脈を診ることであり、その内容は、《中藏經》の中では非常にわずかな量しかない。

面青,無右關脈者,脾絕也;面赤,無右寸脈者,肺絕也;面白,無左關脈者,肝絕也;面黃,無左尺脈者,腎絕也;面黑,無左寸脈者,心絕也。五絕者死。夫五絕當時即死,非其時則半歲死。然五色雖見,而五脈不見,即非病者矣 。

  上文は色と脈が互いに見えるものと、色と脈が互いには見えないものを論じている。「関」、「寸」、「尺」の部位はどこか?その原理は五行(色)の相克である、木→土;火→金;金→木;土→水;水→火なのか?これは扁鵲の五色診のニセモノか?あるいはあまった無用のものか?以前に扁鵲に似たテキストはあるのか?誰がこのような五色診をおこなっていたのか?《中藏經.五色脈論》にかなり近いものに《素問.藏氣法時論》がある。残念ながら後者は黃氏が前に述べた扁鵲学派の「医籍」リストにはない。五色診の各種テキストにはあるいは矛盾するところがあるのか、まだわからないので、しばらく論じない。後漢以降、五色診は扁鵲学派の独占特許であるかどうかに論争はあるのか?六世紀の蕭吉《五行大義.論配五色》が引用する《黃帝素問》の「草性有五」は今本《黃帝內經》には見えない。蕭氏はさらに「五常之色,動于五藏而見于外」〔五常の色は五臓を動じて、外にあらわれる〕と展開している。黃帝に仮託しながら、さらに増補している。一書のように見えて、二種類あるようだ。

扁鵲はある時に書は残ったものの技術は滅んだのか?いつか?黃龍祥は、「扁鵲医学には『六絶』と『六極』の学説が知られている」と考える【『経脈理論……』391p】。関連する佚文の多くは、六朝の人、謝士泰《刪繁方》に見える。その中には「襄公問扁鵲曰」という長篇の問答があり、《靈樞.五色》の扁鵲の文章と合わせてみることができる【『経脈理論』386-389p】。「六極」学説は、《外台秘要》と《千金要方》の各巻では並び順が異なる。《外台》にある「扁鵲曰」の各文はみな16巻の〈虛勞〉の中に編入されている。しかし《千金要方》では巻11・巻13・巻15・巻17・巻19の各巻に分かれて編入されている。そのうち、蘇禮と王怡は〈《千金要方》所引扁鵲佚文及其學術價值〉において扁鵲の佚文、全部で121条という多くを分析したが、「《千金要方》巻11には扁鵲と襄公の対話があり、興味深い」という。ここの襄公は、《史記.扁鵲傳》中の虚構の人物である齊桓侯に類似する。このほか、黃龍祥は《千金》巻13の「襄公と扁鵲の問答」を引用するが、この書籍は襄公の問答の記述形式を明確に示しているわけではない【『経脈理論』396p】。黃氏はさらにすすめて《內經》の問答形式の経文に手を加え、たとえば「『黃帝』を『扁鵲』に改める」【『経脈理論』396p】ことさえする。もともと《內經》の問答形式での黃帝はみな扁鵲を指すのか?いくつかのテキストははっきり扁鵲医書として存在し、後代のひとが書き換えたのか?余嘉錫の考えでは、他書からの引用した文について、「援群書所引用,以分真偽之法,尚非其至也」【『古書通例』】〔多くの書物が引用していることを根拠に真偽を分かつ方法も、なお完全ではない〕という。正否は分かちがたく、佚文がいまの十倍百倍あったとしても、水増しした文もある。文字づらから分類して整理しようとしてもますます収拾がつかないのではないか?

2016年10月11日火曜日

李建民「作為方法的中醫出土文物」から その2

試みに一例を挙げる。《素問.大奇論》は《素問》の中ではもっとも古い篇だといわれている【小曽戸洋「『脈経』総説」】。内容は、「寒熱獨」など、各種の死脈におよぶ。曹東義などの考証によれば、「《素問.大奇論》の全文は《脈經》にある〈扁鵲診諸反逆死脈要訣第五〉に見える。なおかつ《素問》のこの篇にははじめから終わりまで、黃帝と岐伯の問答の文言が見えないのも、別にもとづくところがあることを示している」。《脈經》巻五では,冒頭から「扁鵲曰」を引き、最後に二度、「問曰」を引き、師が回答して終わる。実際は、大きな段落の文がみな《素問.大奇論》には見えない。《脈經》のこの篇には、なお〔末尾に〕「華佗倣此」とあるが、なにを意味するのか?四角い柄を丸い穴に入れようとするように全く相容れないのではないか?いわゆる「大奇」とは漢代の人の慣用語である。《說文》に「大㱦」に作るのがすなわちこれである。〔『說文解字』「㱦:棄也。从𣦵。奇聲。俗語謂死曰大㱦。」〕劉盼遂(1896-1966)【『文字音韻學論叢』】は医書を引用し、「大奇」を死証の語とする。「また通じて「奇」に作る。《黃帝素問》に〈大奇篇〉有り、皆な人の死証を言う」。 〈大奇論〉の「暴厥者,不知與人言」という句もまた《素問.厥論》の厥症に「令人暴不知人」と見える。

五色診法は扁鵲学派の唯一無二の技術である。黃龍祥は、「『五色診』は実際、扁鵲医学の『専売特許』である」という。《周禮.疾醫》は五色診法を掲載し、五気・五声とならべて挙げている。鄭玄(127-200)は五色診を「審用此者,莫若扁鵲、倉公」〔この法を周到に使えるのは、扁鵲と倉公(淳于意)が一番である〕と考えた。黃龍祥は《脈經》の巻一から巻六まで少なからぬ扁鵲五色診の遺文を探し出した。五色は中国医学ではおおく「五臓」と関連がある。《左傳.昭公二年》に、「五色比象,昭其物也」とある。五色はしばしばその他の事物、たとえば季節や方位などと配される。顔面部の五色で,臓腑や肢節に関連する病候が推測できる(下文に詳しい)。《靈樞.五色》と《千金翼方.色診》には「扁鵲曰」の佚文が大量に引用されている。たとえば、「四墓當兩眉坐直上至髮際,左為父墓,右為母墓,從口吻下極頤名為下墓,于此四墓上觀四時氣」などは、すべてみな扁鵲学派の異なる伝本なのであろうか?医学流派が異なっていても、術語は似る。黃龍祥がいうようにすべては同じ酒瓶なのか?彼は医書の手直しの過程について、「ラベルを替え、包装を改めるだけでなく、時には酒瓶さえ交換した」という。ビンが黃帝のラベルだとしたら、ビンの中はどれほどまだ扁鵲の酒なのか?

李建民「作為方法的中醫出土文物」から その1

扁鵲學派の特徴は、黃龍祥先生の説によれば、いわゆる「独」診の脈法である。第一に、単一の部位およびその他の脈を診るところを診察して比較する。第二に、脈象は単一(たとえば大・小)で、基本の複合した脈象であることが強調される。第三に、脈形と同時に人体部位である皮膚の寒熱の変化を診察する。黃氏は扁鵲の脈法を標本診法と名づけた。つまり人体の上下に相関する部位および浮絡・皮膚・脈動を診察する診法でもある。この特徴によれば、今本《黃帝內經》には黃氏が扁鵲学派としたテキストには、たとえばつぎのようなものがある。《素問》の〈大奇論〉、〈刺瘧〉、〈金匱真言論〉、〈五藏生成篇〉、〈移精變氣論篇〉、〈湯液醪醴論〉、〈脈要精微論〉、〈玉機真臟論〉、〈三部九候論〉、〈厥論〉、〈陰陽別論〉、〈五臟別論〉、〈經脈別論〉、〈玉版論要〉。《素問》の〈著至教論〉、〈示從容論〉、〈疏五過論〉、〈徵四失論〉、〈陰陽類論〉、〈方盛衰論〉、〈解精微論〉も含まれる。《靈樞》の〈五色〉、〈脹論〉、〈五十營〉、〈根結〉、〈癲狂〉、〈寒熱病〉、〈論疾診尺〉等も含まれる。《靈樞》を代表する名だたる篇の〈經脈〉、〈禁服〉、〈玉版〉などでさえも扁鵲学派の一部の断片をとどめている。これらの三十篇あまりの黃帝《內經》の内容が、扁鵲医学の一種の複写といえる。黃龍祥の考証は扁鵲学派を活性化させた。しかし、黃龍祥も「一つの脈法からいろいろな要素を抽出できるし、容易に古い方法から新しい方法を類推することができる」という。なにが扁鵲の古法であり、なにがその変化したものなのか?テキストは重複していて、要素も似ていれば、それらはすべて扁鵲学派なのか?失われた歴史の世界について、われわれは往々にして史料を補う(filling in)心理がある。歴史の空白は注意深く補うべきである。どのような歴史的事柄は無理に補うことができないのか?范行準(1906-1998)は扁鵲の技術は呪禁であって、脈診ではないと考えた。「おもうに、扁鵲が長桑君が授かったのは、禁方と上薬であり、いわゆる禁方とは禁呪の術である」【《范行準醫學論文集》】。前漢の各種の脈診は扁鵲の名に仮託したものである。莫枚士(1837-1907)は、「扁鵲脈法,具載《脈經》,果以診脈為名,豈其言皆虛節耶?」【《研經言》】という。つまり、扁鵲は診脈で名をなしたのではないという。《脈經》の扁鵲脈法も単なる虚文にすぎないのか?《素問.徵四失論》には、当時の医学の風潮を批判して、「受師不卒,妄作雜術,謬言為道,更名自功」(龍伯堅の翻訳:「師匠についてもその修行をおえずに、自分でいいかげんに治療方法をでっち上げ、それを正しい医道として病人をあざむき、功績を立てようとする」【《黃帝內經集解素問》】)という。上述した扁鵲のテキストにはこのような自ら功とする情況はないのか?

《內經》から大量の扁鵲学派の佚文を集めて出したとしても、論者【周海平、申洪硯,《黃帝內經書名與成書年代考証》】が指摘しているように、「『扁鵲』という称号は具体的な医学の学派を指すべきものではない。《左傳》および《史記.扁鵲倉公列傳》の記載にもとづけば、二つの医学学派にはたしかに指し示す内容がある。一つは秦国の医学学派であり、もう一つは後漢時の公乗陽慶と淳于意の医学学派である」。 この二つの東土と西土の医学流派【李零,《蘭台萬卷:讀漢書.藝文志》】は、みな「黃帝と扁鵲の脈書を伝えている」。早期の医学文献の篇巻は確定してなかったり、重複があったりする。淳于意は、みずからその師である公孫光から「方の《化陰陽》及び傳語の法を受く」と述べている。その内容は「陰陽」脈法と口説の書におよぶ。

黃氏の考証方法は、主に異なる医書あるいは文献にある似た文句(phrase)を対比させることである。例を挙げれば、《鹽鐵論.大論》に「聖人從事于未然,故亂原無由生」とあり、《靈樞.玉版》に類似の文、「聖人自治于未有形也;愚者遭其已成也」がある。両者はいずれも「聖人」に言及している。前者は扁鵲の言葉を引いている〔この前文に「扁鵲攻於腠理、絶邪氣、故癰疽不得成形」とある〕。このためこのような医書の似たような文句の由来は扁鵲の遺文から来た可能性がある。聖人とは一人の名医を特に指すのではない。朱維錚(1936-2012。〈歷史觀念史:國病與身病───司馬遷與扁鵲傳奇〉,收入《朱維錚史學史論集》)の考えでは、司馬遷が扁鵲を書いたのは、医術にすぐれていて不幸に遭遇したからであり、その中に引かれている聖人は「在位中の漢の武帝を指す」。《史記》にある文は上述した二つの文に似ている。〔『史記』扁鵲傳:「使聖人預知微、能使良醫得蚤從事、則疾可已、身可活也」。〕このような例は実に多く、似ている文句は時に価値がない(null)。

2016年10月9日日曜日

黄龍祥説に対する批判・支持

・山田慶児先生が『太素』は『素問』や『霊枢』より古い形態をとどめているという,どう考えても勇み足としか思えない説をかつて出されました。学会の方たちは,京都大学の教授の権威をおそれたのか,それを否定する論文を書いた人はいませんでしたが,それに真っ向から反論したのは島田隆司先生でした。
・どこの馬の骨ともわからない鍼灸師から論文を受け取って,岩波書店も困惑したようです。結局,反論は岩波書店の雑誌には掲載されませんでした。無視されたわけです。
・こういう昔話を思い出したのは,わたくしが中医薬大学の論文誌をまったく読んでいないからかもしれませんが,黄龍祥氏が提唱する「経脈穴」なる概念について,発表以来十年以上たつのに,それを批判する論文もそれを肯定する文章も,読んだ記憶がないからです。
・どなたか,黄龍祥「経脈穴」に言及した書籍・論文をご存知でしたら,ご教示下さい。
・最近は様相がかわってきましたが,かつては白川静先生の「字源研究」に言及する学者はほとんどいませんでした。無視されたといっていいでしょう。一般読者からは支持された。鍼灸師が書いた文章にはよく引用されていました。
・白川説を批判しようとすると,その思想体系を相手にしなければならない。非常に厄介です。敬して(いるかは別にして)遠ざける。それと事情は異なるのかも知れませんが,同調しようとすると,自分の先生を批判することになりかねないし,批判しようとすると,これも大仕事になるし,トップの研究所の偉い方だし,共産党員だし……ということで,中国ではやられていないのでしょうか。
・黄先生,今度は『黄帝内経』の中から扁鵲医籍の「遺物」をたくさん抽出して来ました。黄先生の勢い留まるところを知らず,です。
・大陸からの反論は期待薄です。

・ということで,李建民先生の新しい論文には,黄龍祥「扁鵲医学」に言及するところがありますので,一部紹介したいとおもいます。

2016年10月8日土曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』に出てくる「テキスト発生学(文本发生学)」

(法)德比亚齐 文本发生学 2005年

内容介绍编辑
尽管文本发生学是以数字来表示的,通常是超文本的,但它仍然是一种敏感和审美的文学方式。文学手稿的分析并不很规范:这不仅关注“重要文献”,也关注二流作品;它不仅关注符合规范的文本,也关注在档案中被挖掘出来久被遗忘的文本。文学手稿的分析原则要求尽可能多地关注作家的写作、行为、情感及犹豫的举动,主张的是要通过一系列的草稿和编写工作来发现作品的文本。是这些草稿和编写工作使文学手稿分析的目的呢?就是为了更好地理解作品:了解写作的内在情况,作家隐秘的意图、手段、创作方法,经过反复酝酿而最终又被删除掉的部分,作家保留的部分和发挥的地方;观察作家突然中断的中间,作家的笔误,作家对过去的回顾,猜想作家的工作方法和写作方式,了解作家是先写计划还是直接投入写作工作的,寻找作家所用过的资料是先写计划还是直接投入写作工作的,寻找作家所用过的资料和书籍的踪迹等等。

作品目录编辑
引言
一、问题的起源
1 从誉写到亲笔写:现代手稿
2 新价值的出现
3 现代手稿的传统方式
4 现代时期
二、写作过程与文本的发生阶段
1 术语简介
2 写作方式与文本发生阶段
3 前编辑阶段
4 编辑阶段
5 前出版阶段
6 出版阶段
三、手稿的分析:原则与方法
1 写作手稿的方式
2 杠子的范围
3 分析方法
4 科学鉴定的技术
四、起源的版本
1 目标与问题
2 起源版本的两个方向
3 横向版本
4 纵向版本
5 手稿的电子版本
五、发生校勘学:对作品的起源进行解释
1 发生学与文本的校勘:变动,冲突,补充性
2 目的论的问题
3 内起源与外起源:起源的文章间的相互联系性
4 起源与创作论
5 发生学与传记评论
6 发生学与自传
7 起源与精神分析法
8 发生学与主题评论
9 发生学与现象学
10 发生学与语言学
11 起源与历史
12 起源与文学社会分析学派
六、微观发生学的例子:《圣·朱丽叶修士的传说》中的第一句话
1 为什么要对手稿进行分析?
2 一个研究的例子
3 开头词的起源变化
结束语:发生学的前景
参考书目
原本は,Pierre-Marc de Biasiの
La Génétique des textes, coll. « 128», Nathan, Paris 2000, 128 p. ; réédition Hatier, 2005
であろうか?
http://www.universalis.fr/encyclopedie/manuscrits-la-critique-genetique/

2016年10月7日金曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第17章

この章は,『季刊 内経』No.203(2016)に岡田隆先生が訳された「散佚扁鵲医籍の識別・収集・連結」(の原文)とほとんど同文ですので,こちらを参照して下さい。

最近,臺灣・中央研究院の李建民先生からいただいた論文「作為方法的中醫出土文物」(方法としての中医出土文物/掲載誌未詳)では,「扁鵲醫學不因最近幾年新出土的醫書又重新發現」(扁鵲医学で最近出土した医書ではなくまた新たに見出されたもの)の引用文献として,『季刊 内経』岡田訳があげられていました。他の箇所では,本書『經脈理論還原與重構大綱』が引用されているのにもかかわらず。
考えられる理由としては,
この章のもととなった雑誌掲載文より,岡田訳を先に読んで原稿を書いた,
あるいは日本人も読者対象とするので,日本語訳の存在を知らせようとした,
からでしょうか。

ともかくこれにて,本書のメモ的翻訳,終了します。

2016年10月5日水曜日

第16章 続々

 第5節 「脈は気穴の発する所と為る」から「穴は脈気の発する所と為る」へ
 脈と穴との関係について、『千金要方』〔『千金翼方』巻26〕は「凡孔穴者.是経絡所行往来処.引気遠入抽病也」といい、楊上善は「気穴」に注して、「三百六十五穴、十二經脉之氣發會之處、故曰氣穴也」〔『太素』巻11・気穴〕という。これにより、かつてひとびとはみな「穴は脈気の発する所と為る」〔穴とは脈気が発せられる場所〕と考えていた。
 ここで提出する「脈は気穴の発する所と為る」〔脈とは気穴が発せられる場所〕には、二つの意味がある。第一、四肢本輸の遠隔診療作用は、経脈循行のよりどころである。第二、経脈概念が形成されたのち、あらたに発見された輸穴(おもに本輸と標輸)の遠隔治療作用が既存の経脈による解釈範囲をこえた場合は、随時あらたな分枝をくわえたが、新しい脈をつくることさえして、輸穴が主治する遠端部位に直接達するようにした――これも漢代以前の経脈循行が変遷したおもな形式である。

  一、脈は穴によって発せられた
 それぞれの穴は遠隔の診療作用をもってさえいれば、穴も脈である。あるいはどのような穴であってもはじめて発見されたときは、絡脈や陰蹻・陽蹻穴などとみな同様に、すべてに一本の専用の脈――有形あるいは無形の――があった。この理念は『素問』刺腰痛論(41)と『素問』気穴論(58)にすでにあらわれている。穴と脈との関係は、穴が脈を決定するのであって、脈が穴を決定するのではない、ということをはっきりと認識すべきである。まさに梅建寒先生の名言、「経脈の過ぐる所は、主治の及ぶ所」である。経脈がその場所をめぐるのは、本輸が主治する病症の部位がその場所に及ぶからである。もしさらにわかりやすくこの観点をあらわすとすると、「本輸主治の及ぶ所は、経脈絡脈の至る所」といえよう。
  二、一穴専用の脈から、多穴共用の脈へ
 早い時期、古代人が発見した遠隔治療作用を有する穴が少なかったときには、「一穴一脈」の段階があった――一本の脈が一穴専用に設けられた。脈の起点は穴の所在地となり、脈の終点が穴が主治する病症部位のもっとも遠い端となる。この段階では、脈と穴とは完全に同じ名称を用いて命名された。現在でも伝世本『内経』やその他の古い文献にこの時期の脈穴名の遺物が見られる。たとえば、「手太陰」あるいは「臂太陰」は脈名であり、穴名でもある。同様に、列欠は絡脈名であり、絡穴名でもある。陰蹻・陽蹻は脈名であり、穴名でもある。穴が増えるにしたがって、穴は分けるために異なる名称を用いて命名しなければならなくなった。
 ……絡穴はのちに相応の経脈に帰属することになったが、絡穴の作用は依然としてその元々所属していた絡脈が介在しているのであり、帰属している経脈によるのではない。足三焦の別である「委陽」は、足太陽経に入れられたが、その三焦病症に対する治療作用は、足三焦の別を通して実現するのであって、それが帰属している膀胱経によってその道筋が変更されたのでは決してない。照海と申脈は足少陰と足太陽に入れられたが、それが眼の疾患を治療する作用は、依然として陰蹻と陽蹻が介在する。
 もし『素問』気府論(59)の「脈気発する所」という概念がなかったら、腧穴は一穴一脈という形態が保持され、実際的な意味のうえでの三百六十五穴が三百六十五脈(あるいは三百六十五絡)に連なることになる。現在まで伝承されている別の鍼灸流派である「董氏鍼灸」は一穴一脈というモデルを保持していて、早い時期の古典鍼灸にあった「脈」「穴」関係の「生きた化石」とみなせる。唐代以後、『明堂』の穴は経に帰属したが、大多数は局部か近隣部に治療作用がある腧穴であって、「脈」の介在やつながりは必要なく、「脈気の発する所」の必要もない。これらの穴についていえば、経に帰属させる意味は、おもに腧穴の分類法を提供して、記憶して臨床で取穴するのに便利にすることにあるにすぎない。
 もし最初の一穴の脈という穴がそれ以上増えなかったら、穴名と脈名は依然として穴と脈が同じ名前である形式を保持し続けた〔原文:那麼穴名与脈名依然保持着脈、名同名的形式。//「脈、名同名」を「穴、脈同名」として訳した〕。たとえば、宋代になっても、陰蹻・陽蹻の脈と穴は依然としてまったく同じ名称をつかっている。
 もし穴がずっと一穴一脈の形態――今日の「董氏鍼灸」の脈-穴関係――を保持していたら、現代人の経脈の意味に対する理解はきっと大いに異なったにちがいない。少なくとも今日の実験研究者が「経絡とはなにか」という問題に執着せず、問題の出し方をかえるか、ちがう問題を提出することができただろう。
 経に帰属する穴がふえると同時に、対応する経脈の循行路線の描写もますます詳細なものにかわったので、参照すべき穴の座標点がさらに多くなった。一般に、本輸穴・六府合穴・気穴論の要穴・四海の輸、脈穴(特に標本脈と頸項にある十の脈穴)、さらに絡脈穴さえもみな『霊枢』経脈(10)の経脈循行路線の上にあらわすようになり、なおかつ経穴部位にもとづいて経脈の循行路線を修訂したり増補したりした。

 【まとめ】
1.2. 省略。
3.『内経』中の腧穴の多くは穴名がない。その中の「灸寒熱病兪」にはまったく穴名がない(唯一の穴名である「関元」は、テキストの誤りによる)。穴名があるおもなものは、以下の三種類に見られる。脈穴――脈と同名の穴(たとえば、大迎と天突、天府、天牖、扶突、天窓、委陽)。部位穴――解剖学的部位と同名の穴(たとえば、缺盆、上関、下関、犢鼻、完骨、肩解)。経脈穴――経脈と同名の穴(たとえば、手少陰、陰蹻、陽蹻)。厳密にいえば、みな腧穴の専用名とみなすことができない。ほかによく見られる命名の方式としては、経脈名+部位名がある。たとえば、「足少陰舌下」「厥陰毛中急脈」。
4.『内経』にある腧穴の専門篇は前後で呼応している。例:その一:「手少陰に五輸穴がない」ことは、各篇で一致している。特に説得力のあるいくつかの腧穴の誤りも一致していて、用語も同じである。これは、『内経』にある腧穴の専門篇と専門の論が同一の文献を出自としているか、あるいは同一人物によってまとめられたことを示している。その二:十一の脈穴しかない。気府論・気穴論・本輸篇はすべて十一脈のみである。

2016年10月4日火曜日

第16章 つづき

 第4節 『内経』時代の腧穴総覧
一、穴の概念
 『内経』の腧穴専門篇である気穴論は「気穴」と名づけるが、「三百六十五」の気穴以外に「孫絡」「谿谷」がそれぞれ「三百六十五」ある。『霊枢』の第一篇である九針十二原篇も「節の交、三百六十五会」という。もしこの四者が異なる概念だとすると、『内経』時代の穴数は1460もの大きい数字に達することを意味することになり、『素問』気穴論が掲載する穴の総数の十倍に相当する。しかし、『内経』にいう「節」「気穴」「孫脈」「谿谷」は多くの状況下では、類義語として使用されているとすべきで、いわゆる「節の交三百六十五会は、絡脈の諸節を滲灌する者なり」(『霊枢』小針解(03))、「夫(そ)れ十二経脈は、皆な三百六十五節に絡す」(『素問』調経論(62))、「孫絡三百六十五穴会は亦た以て一歳に応ず」(『素問』気穴論(58))である。実際のところ、これらの異なる言い方はそれぞれの異なる「出身」の一側面――異なる時期の異なる理論的枠組を反映している。いわゆる「孫絡」は、「刺脈」(および後の「刺皮部」)との関係がより密接である。「谿谷」は「刺肉」「刺骨」と関連がある――いわゆる「肉の大会を谷と為し、肉の小会を谿と為す」「谿谷は骨に属す」は、『素問』骨空論にいう「骨空」(孔)の概念にいたり、「刺骨」とより関係が密接となった。これらの起源は「皮肉脈筋骨」という五体刺法の産物である。実際、伝世本『内経』に掲載される鍼灸処方の鍼刺部位である穴には、経脈理論が誕生する以前の、このような「五体刺法」の腧穴概念が大量にある。『内経』刺法の専門篇である『霊枢』官針(07)が掲載する各種の鍼術では、「五体刺法」が圧倒的多数をしめていて、その当時、「気穴」の概念はやっと起こったばかりである。『内経』に多量に記載されている時期の異なる「四時刺法」には、このような「五体」の穴から「気穴」の穴への変化移行の過程がはっきりと見て取れる。これらの異なる時期の異なる理論的枠組の下にある「穴」の概念が、みな「気穴」という名を冠されて、腧穴の専門篇である気穴論に集められた。この篇が編まれたとき、「穴」の外延はおおいに拡張され、もともと異なっていた「穴」が融合しはじめた。いわゆる「谿谷三百六十五穴会」「孫絡三百六十五会」は、概念が融合したことをあらわしている。しかしわれわれは、気府論ないし漢代の腧穴経典である『黄帝明堂経』からこの整理統合の過程を比較的はっきりとなお感じ取ることができる。
二、分類体系
 『内経』では、腧穴の分類で主要なものは、部位・効能・臓腑・経脈によって、四つに分けられる。その中で、部位による、あるいは部位と効能を合わせた分類法の応用がもっとも広い。『素問』気穴論は典型的な実例である。
 【部位による分類】「背兪」と「膺輸」、「本輸」と「天牖五部」など。
 部分けは、体幹部位によるものを除いて、ほかに臓腑によるものがあるが、これも二つに分かれる。その一、後背部の臓腑の腧を指す。いわゆる「五臓の腧の背に出づる者」(『霊枢』背腧(51))である。その二、十二経脈が臓腑と関連ができたのち、経脈の本輸――五輸穴も「臓兪」と「腑兪」と見なされる。いわゆる「臓兪五十穴、腑兪七十二穴」(『素問』気穴論(58))である。もしさらに細かに分ければ、やはり二つに分けることができる。その一、五臓は「十二原」に出る。いわゆる「五臓に六腑有り、六腑に十二原有り、十二原は四関に出で、四関は五臓を主治す。五臓に疾有れば、当に十二原に取るべし」(『霊枢』九針十二原(01))。その二、六腑は「下合輸」に合する。いわゆる「胃の合は三里に、大腸の合は巨虚上廉に入り、小腸の合は巨虚下廉に入り、三焦の合は委陽に入り、膀胱の合は委中央に入り、胆の合は陽陵泉に入る」(『霊枢』邪気蔵府病形(04))。
 経脈による分類も実際上は、「部位による分類」の一つの特例とみなすべきである。指摘が必要なことは、『内経』の穴で経脈に属するものは、本輸と標輸のみであり、この両者のなかで特に重視されるのは本輸である。特に「経兪」という語は、本輸――五輸穴を指す。これが実際的に反映しているのが、経脈理論が構築された時期の脈-穴関係である。

  経脈十二、絡脈十五、凡そ二十七気、以て上下す。出づる所を井と為し、溜〔なが〕るる所を滎〔けい〕と為し、注ぐ所を腧〔しゅ〕と為し、行 〔めぐ〕る所を経と為し、入る所を合と為す。二十七気の行〔めぐ〕る所、皆五腧に在るなり。(『霊枢』九針十二原(01))
 

 絡脈によって分類する穴は簡単で、十五絡にはそれぞれ一穴――十五絡穴がある。特に注意が必要なことは、十五絡穴はおそく現われた概念である、ということである。『内経』の腧穴の専門篇などには「十五絡穴」は見得ない。『内経』にある「絡兪」という語は十五絡穴を指すものではない。

  故春刺散俞,及與分理,血出而止,甚者傳氣,閒者環也。夏刺絡俞,見血而止,盡氣閉環,痛病必下。秋刺皮膚,循理,上下同法,神變而止。冬刺俞竅於分理,甚者直下,閒者散下〈新校正云:按《四時刺逆從論》云:「夏氣在孫絡」、此「絡俞」即孫絡之俞也。〉。(『素問』四時刺逆従論(64))

 按ずるに、新校正の言うことはきわめて正しい。四時鍼法は、「皮肉脈筋骨」という五体刺法にもとづく古い刺法であり、伝世本『内経』にはたくさんの記載がある。そのうえ、篇章が異なれば、異なる時代の特徴も表現されている。五体刺の旧態を基本的に保持しているものもあれば、五体刺から五輸刺への過渡期のものもあるし、五体刺から五輸刺へ完全に変化したものもある。しかし総体的にはつぎのような変遷の特徴が見いだせる。春と夏には「五体」の刺法を引き続き用いているが、秋と冬では「五輸」の刺法に改める。夏に取るのは「孫絡」であり、いわゆる「夏気は孫絡に在り」であり、すなわち『素問』診要経終論にある「絡兪」の意味でもある。

  ・是故春気在経脈.夏気在孫絡.長夏気在肌肉.秋気在皮膚.冬気在骨髄中.(S.64四時刺逆従論)
  ・故春取経血脈分肉之間.甚者深刺之.間者浅刺之.夏取盛経孫絡.取分間.絶皮膚.秋取経腧.邪在府.取之合.冬取井滎.必深以留之.(L.19四時気)
  ・春取絡脈諸滎.大経分肉之間.甚者深取之.間者浅取之.夏取諸腧孫絡.肌肉皮膚之上.秋取諸合.餘如春法.冬取諸井諸腧之分.欲深而留之.此四時之序.気之所処.病之所舎.蔵之所宜.(L.02本輸)

 これからわかるように、『素問』診要経終論にいう「夏刺絡兪」とは、『内経』の他の篇で対応しているのは「夏刺絡脈」であり、『素問』気穴論(58)にいう「孫絡三百六十五穴会」の絡穴であり、林億がいう「孫絡之兪」でもある。対応しているのは、『霊枢』官針(07)の「絡刺」法――「絡刺は小絡の血脈を刺すなり」である。当然のことながらこの「絡兪」を十五絡穴と理解すべきはない。

 【効能による分類】「熱兪」二種類、水兪、寒熱病兪などがある。この中で「水兪」は実際上は「腎之兪」に相当する。

  帝曰.水兪五十七処者.是何主也.岐伯曰.腎兪五十七穴.積陰之所聚也.水所従出入也.尻上五行.行五者.此腎兪.故水病下為胕腫大腹.上為喘呼.不得臥者.標本倶病.故肺為喘呼.腎為水腫.肺為逆不得臥.分為相輸.倶受者.水気之所留也.伏菟上各二行.行五者.此腎之街也.三陰之所交結於脚也.踝上各一行.行六者.此腎脈之下行也.名曰太衝.凡五十七穴者.皆蔵之陰絡.水之所客也.(『素問』水熱穴論(61))

 これからわかるように、経文中の「水兪」と「腎兪」の意味はひとしく、「腎は水を主る」という観念と関連する。

2016年10月3日月曜日

第16章 気府と気穴――『内経』の穴図をあつめ、新たに解釈する

 第1節 気府論新解
 結論
1.『素問』気府論(59)の「脈気発する所」は、人体の三陰三陽によって分けられていて、『素問』陰陽離合論(06)と応じている。『黄帝明堂経』の腧穴は経脈によって分類されていて、文字は同じであるが、意味は大いに異なる。この点を見抜くことができないと、気府論を理解できない。このほか、気府論の手足三陽穴の排列には一カ所異なるところがあり、その中の手三陽の順序は陰陽離合論と一致し、太陽、陽明、少陽の順序で穴を論じている。足三陽は「太陽」「少陽」「陽明」とする。
2.王冰は気府論と陰陽離合論の関係を明らかにできなかったために、『明堂』『黄帝中誥孔穴図経』をつかって気府論のテキストに大胆な改編をおこなった。その中で後世の鍼灸学に対する大きな影響を生じたものが四つある。第一、足太陽脈に背兪穴を増やした。第二、陰経の五輸穴を削除した。第三、足陽明脈を削り改めた。第四、衝脈の脈気発する所の穴を加えた。この四つの改変は、気府論の様相をまったく変えてしまって、関連する篇章との間に多くの矛盾が生じることになった。
3.絡穴がないのは、脱文によるのではなく、当時がまだ「絡穴」は出現していなかった。
 第2節 気穴論新解
 結論
1.『素問』気府論(59)は、人体を三陰三陽でわけて全身の穴をまとめて述べているが、『素問』気穴論(58)は、効能によって臓兪・熱兪・水兪・寒熱病兪などに分類している。そのため楊上善は篇末に「以上九十九穴、通じて諸病を療するなり」と注している。その主旨を深く得ているといえる。本篇で述べられている穴には、『霊枢』本輸(02)の本輸・標輸(天容・人迎・天池の三穴を欠く)・熱兪の一、気街・水兪・下合穴・陰陽喬の四穴をふくむ。これからわかるように、本篇の腧穴は異なる理論の枠組みの下にある腧穴をあつめたもので、異なる枠組みの中で重なっている穴もそのまま残してある。〔表がある。省略〕
2.「関元一穴」「斉一穴・肓輸二穴」はみな、「灸寒熱法」の原文についての誤解である。臓兪十五穴〔「五十穴」か〕を除いて、本篇が述べているのはみな陽経の穴であり、上肢の穴を欠き、十五絡穴を欠き、いずれも灸寒熱法の特徴と同じである。『素問』水熱穴論(61)が載せる熱兪五十九穴も同様である。
 第3節 熱兪と灸寒熱病新解
 熱兪五十九穴には二説あり、一つは『霊枢』熱病(23)に見られ、もう一つは『素問』水熱穴論(61)に見られる。灸寒熱之法は、『素問』全元起本では『素問』刺斉論にあり、王冰注本では骨空論にある。楊上善『太素』では分けられ独立して「灸寒熱法」という篇になっている。
 二つの熱兪五十九穴の文は、本来のすがたが比較的失われておらず、後代のひとの理解に相違は少ない。しかし、灸寒熱之兪については、理解がたいへん困難で、灸処方全体がいくつの穴で構成されているさえ、確定しがたい。そのため唐代の楊上善のこの篇に対する注は少なく、王冰は、その大部分の腧穴に注解してはいるが、注をつけた穴もそれぞれ的確ではないので、明代の楼英が『医学綱目』で『素問』の灸寒熱之法の王冰注を引用する際は、疑問がある箇所には、「未詳是否」と注をつけている。「灸寒熱之法」のもともとの方には一つも穴名がなく、非常に古い灸処方であるので、伝世本『素問』が編集されたときには、このテキストにはすでにかなり多くの誤りがあって校正できなかった可能性がある。後世の伝承過程でもあらたな誤りがうまれ、この処方を解読がむずかしくなった。よって以下では、この灸寒熱病兪を重点的に考察する。
 この灸処方を考察してわかった、その腧穴の排列規則は以下の通り:第一、縦方向に上から下へ排列されている。第二、橫方向では行ごとに排列されている。
 同時に、やはりわかったことは、伝世本『内経』の腧穴専門篇あるいは専門論が相互に関連することである。具体的にはこの灸寒熱病処方は『素問』気府論(59)と密接に関連する。