2016年10月16日日曜日

卓廉士『営衛学説与針灸臨床』 第八章 営衛学説の角度から見る その3

「血を営に取る」方法は、鋒鍼(近代では三稜鍼)をもちいて点刺して「血を取る」。邪が経脈あるいは営血にある病症を治療するのにもちいる。施術時は、邪気がまさに来るのをみて、「按而止之.止而取之」〔【現代語訳】:押し撫でてこれを止め、その発展を阻止して鍼で瀉すべきです〕(『素問』離合真邪論(27))、迅速に点刺して血を出し、邪を血とともに去る。刺して血を出すときは、血をみたら即座に止めることが必要で、その方法では「得気」することはできないし、経気あるいは営気を喚起する可能性もないことはあきらかである。

『素問』離合真邪論(27)に「真気者.経気也.経気太虚.故曰.其来不可逢.此之謂也」〔【現代語訳】:真気とは経脈の気のことですから、邪気が衝きあげて進めば経気は大いに虚するのであり、このときに瀉法を用いたのでは、かえって経気をひどく虚にしてしまうのです。そこで気が虚のときに瀉法を用いてはならぬ、というのは、こういう場合を指していうわけです〕とある。この語はつねに学者によって、鍼刺による「得気」が経気から来ている証拠として引用される。実際は、これは古代人が「邪気を候(うかが)う」方法であり、また刺血法の一つでもある。この方法は、邪が経脈に入って「波が涌き起こるように」〔『素問』離合真邪論「如涌波之起也」〕なり、搏動が異常になったときのためにもっぱら設けられ、点刺放血を主とする。そのため実証に活用される。虚証では「経気が太(はなは)だ虚している」ので、来たるや逢うべからず、往くや追うべからず〔離合真邪論「経気太虚……其来不可逢……其往不可追」〕であるので、それほど適用されない。これからわかるように、経脈あるいは営血の疾病に対しては、直接刺して血を出すべきで、絡脈の疾病も刺絡して血を出すべきである。そうでなければ、「諸刺絡脈者.必刺其結上」〔【現代語訳】それぞれの絡脈を刺鍼するときは、必ず絡脈に血液が鬱結しているところを刺さなければならない〕(『霊枢』経脈(10))で、専門的な注意点があるだけである。

「気を衛に取る」とは、毫鍼をつかって腧穴に刺し、「得気」をもって度となす鍼刺方法である。衛気は体表のいたるところにあり、腧穴にとどまり、毫鍼に喚起されて「見開而出」〔『霊枢』営衛生会(18)【現代語訳】どこかに弛緩して開いている部位があれば、そこから出て行こうと〕し、鍼刺部位に集結し、同時にすばやく鍼下に酸・脹・沈重という「得気」感を生じる。『霊枢』根結(05)に「(鍼が腧穴に入ると)気滑即出疾.其気濇則出遅.気悍則鍼小而入浅.気濇則鍼大而入深.深則欲留.浅則欲疾.……此皆因気慓悍滑利也」〔【現代語訳】一般的に気が滑らかであれば鍼を抜くのは速くし、渋っていればゆっくり抜き出しますし、気が軽く浮いていれば細い鍼を使って浅く刺入し、渋って滞っていれば太い鍼を使って深く刺し、深く刺せば鍼を留め、浅く刺せば鍼は速く抜かなければならないのです。……こうした違いは、人によって気の運行の滑らかさに違いがあるからです〕という。いわゆる「慓悍滑利」とは、まさに衛気の特性である。これが鍼刺によって衛気を喚起し、制御して病気を治療することについての『黄帝内経』でのもっとも直接的な描写である。また衛気は十二経脈の標本に沿って集散分布し、さらに脈外をめぐるので、毫鍼による刺戟のもとで容易に「経脈路線に沿った伝導」、いわゆる「循経感伝」現象が出現する。「得気」は衛気の「慓悍滑利」の特性がしからしめるのであり、「慓悍滑利」の説は、鍼刺によって治療効果を得た身近な体験に由来する。したがって、「得気」とそれが形成する感伝は、衛気の特性のあらわれである。

長浜善夫と丸山昌朗は、「鍼響はだいたい身体の浅層に発生したが、一定の深度がある」ことを発見した(『経絡之研究』承淡安訳、1955年120頁)。「得気」を「鍼響」といい、効果を得ること影響の如し〔影が人の姿にしたがい、響きが声にしたがうように、あることが発生すると、他の行動・作用が迅速に引き起こされること〕という意である。今日われわれはこれを感伝と称し、実際の情況により符合するようにおもえる。長浜善夫と丸山昌朗は現象を列挙するのみで、感伝が経気によるのではなく、衛気であることを知らなかった。

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