2016年8月29日月曜日

デカルト『省察』

岩波文庫『省察』、中公クラシックス『省察/情念論』、白水社『方法叙説/省察』には、『大綱』掲載の図はなかったので、調べてみた。

この図は、マルゴッタ『図説 医学の歴史』(岩本淳訳)によれば、デカルトの『人間について』(たぶん、Traité de l'homme)の挿絵。熱さと痛みを知覚する図(脳の中にその中心がある)。

白水社『方法叙説/省察』にある解題=訳者あとがきに、

 『省察』は、『哲学の原理』と並んで、デカルト哲学(そしてデカルト形而上学)の中核的な著作である。……『哲学の原理』のフランス語訳本の……のなかで、デカルトは、一本の樹に譬えつつ、その根を形而上学に、その幹を自然学に、幹から岐れる三つの主要な枝を医学と機械学と道徳(倫理学)とに配しているが……『省察』と『哲学の原理(第一部)』……の主題はまさしく、<一本の樹>なる学問全体の<根>たるべき<形而上学>……であった。

とある。こうしてみると、黄龍祥氏の『大綱』を構想する上で、勿論『内経』の「標本」「根結」が基礎としてあるが、デカルトの考え方も、その下地・下支えとなったのではないかと、想像する。

ちなみに、『大綱』での『省察』引用部分
※青空文庫 三木清訳:
私が足の苦痛を感覚する場合、自然学は私に、この感覚は足を通じて拡がっている神経の助けによって生ずるのであって、この神経は、そこから脳髄へ連続的に綱のごとくに延びていて、足のところで引かれるときには、その延びている先の脳髄の内部の部分をまた引き、このうちにおいて、精神をして苦痛をばあたかもそれが足に存在するものであるかのごとくに感覚せしめるように自然によって定められているところの或る一定の運動を惹き起すのである、ということを教えるのである。しかるにこれらの神経は、足から脳髄に達するためには、脛、腿、腰、脊及び頸を経由しなくてはならぬゆえに、たといこれらの神経の足のうちにある部分が触れられなくて、ただ中間の部分の或るものが触れられても、脳髄においては足が傷を受けたときに生ずるのとまったく同じ運動が生じ、そこから必然的に精神は足においてそれが傷を受けたときのと同じ苦痛を感覚するということが起り得るのである。そして同じことが他のどのような感覚についても考えられねばならない。

2016年8月26日金曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第二篇 理論の再構築:構造から内容へ 引言 経脈学説はどのように説明するのか――事を明らかにして理を求める

第1節 「理論」は処方の解説のごとし,「事実」は処方のごとし

 いわゆる「手の太陰肺経」とは,手の太陰五輸穴がもつ肺病を治す作用メカニズムに対して古代人が提出した一種の仮説である。簡単に言えば,「本輸の主治の及ぶ所は,則ち経脈循行の至る所である」。

第2節 事実には確かな証拠があるが,理論には定まった形はない

 ここで特に注意してほしいのは,異なる時期,異なる学派が構築した経脈学説には異なる特徴があるが,たとえ同一学派の経脈学説であったとしても異なる発展段階にあっては異なる特色が表現される。われわれが今日熟知しているのは,標準化処理をへた経脈理論の定型テキスト,経脈理論にもとづいたフォーマットにすぎない。

 もし今日の経脈理論に対する実験研究が,相変わらず古代人が同様の関連の法則から出した異なる経脈解釈である一本一本の異なる循行線に固執し,実験室でこれらのたえず更新されつづけた定まった形のない線に対して,対応する実体構造を意固地に探せば,おそらくは古代人にさえみな笑われるであろう。

 「有線」と「無線」,古代人が伝えた意味は,まったく同じである。しかし,なぜこのような異なる表現の仕方は,現代人の理解に大きな相違を生じさせたのだろうか。

 理論の束縛がなければ,経験は伝承しがたいこともある。まさに酒瓶がなければ,酒はとうになくなっているようなものである。一旦経験が継承できれば,なすべきことはそれを緩めることで,瓶の蓋を開けて瓶の中にある酒を注ぎだし,そうした後で新たな時代に科学技術の発展した新たな高みに立ち,新品の酒を重視して酒を鑑定し,経験が構築する新たな理論の容れ物とする。

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第9章 理論構造と科学的概念内容――「鏡」に照らすと「ふるい」にかける

  第2節 概念と仮説
 鍼灸診療の経験がたえず蓄積されるのにつれて発見された人体の遠隔部位間の連係が多くなればなるほど、血脈の直接的なつながりを使って解釈することが難しくなった。こうして一種の純粋に連係機能をあらわす「脈」「絡」という抽象概念が生長してきた。まさにこのような抽象概念を基礎として、手足の三陰脈の四肢の近位端における循行は、体表解剖学で実証された三脈が一つになった実線から発展変化して、はじめて経脈篇での三脈が並行する虚偽の線となることができた。「絡」の一種である「経別」は完全に抽象的な概念であり、その機能は六陽脈とそれに対応する六腑との連係を説明することである。

 デカルトの『第一哲学についての省察』で、神経は血管につきしたがう、中空の管であり、体表から途切れることのない直線のかたちで直接大脳とつながって、感覚を生じているとし、「これらの神経は縄のように足からまっすぐに大脳内にいたる……かならず腿部・臀部・腰部・背部・頸部を通過する」という。
 【『省察』中の図あり】もし中国人が図の注の助けをかりずにこの図をみたら、經脈図にある足の太陽経の図だときっと理解する――体表の循行路線は完全といっていいほど重なっている。

 これからわかるように、いかなる時代の科学理論も、その時代の特徴を深くとどめていいないものはなく、科学者はその身を置くその時代を超越した科学仮説を提出することはできない。

 すでに発見された古典経脈理論中の論理的な弱点や理論と経験的事実のあいだにある矛盾は、当時のメンデレーエフの元素周期律理論とくらべて見ると、多い。これは、理論仮説に人体の「体表―体表―内臓関連律」の本質が反映されていないことを示している。われわれの今日の理論と実験研究の目標は、よりよい仮説を探求し、解釈する力がより強い、論理性のより高い理論を再構築することであって、数千年前に古代人が提出した、今日からみて明らかな弱点のある仮説を証明しようとすることでは、絶対にない。

2016年8月25日木曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第8章 経絡学説の発展――内外の要素の力を合わせた作用  結語:木と支柱

  まとめ
1. 経脈の標の延長あるいは増加は,経脈循行路線に変化をもたらした主要な内的駆動力である。たとえば,足の太陽は,かつては「天柱の脈」で終わっていたので,「項に中(あ)たる者は太陽を下る」【『霊枢』邪気蔵府病形(04)】や,「項の太陽」【『霊枢』寒熱病(21)】「項の大経」【『霊枢』癲狂(22)】という説があったが,「頭の太陽」「目の太陽」という説はなかった。のちに天柱で目を治療できることが発見され,解剖的にも目系が項に出ることが発見されたので,太陽脈の循行は延伸して「脳に入り,目に至」った。ついには「気の頭に在る者は,之を天柱と大杼に取る。知(い)えざれば,足の太陽の滎輸を取る【『霊枢』五乱(34)】。故に気の頭に在る者は,之を脳に止(い)やす【『霊枢』衛気(52)】」という処方ができた。
2. もし経脈の標に変化がないのに――新たな関連部位の発見がないのに,経脈の循行に明らかな変化が生じたとすれば,これは経脈理論に変化が生じたことを意味しているのではなく,単に経脈の循行を描写する新たな方法があらわれたのにすぎない。
3. 同じ脈の循行路線についての描写には,二つの異なる様式がある。第一は,主幹と分枝の形式で関連する各点をつなぐやり方である。第二は,単に一本の線でそれぞれの関連点をつなぐやり方である。この二つの様式,特に第二の様式では,それぞれの関連する点が直線上にない場合,多くの異なる描写様式が存在し,陰陽が相反する道筋にしたがってさえもかまわないし,異なる方式で関連する各点をつないでも,みな許されるし,また正常であり,どの説がよくて,どの説がよくないかを判断する基準はない。なぜなら同じ様式の下では,異なる様式で描写してもその意味は同じこと――関連する部位を指示すること――だからである。これも経脈循行線の本来の意味である。「三陰三陽分部」の確立にともない,十二脈も統一されて三陰三陽で命名され,経脈循行の描き方にもよるべき法ができ,したがうべき規則ができた。それらの「陰陽の法則」に合致する経脈の循行の案は普遍的に受け入れられて規範となった。その他の案は,きわめて少数のテキストが幸いに残って伝わっている以外は,大多数はみな早くに散佚した。しかしながら,どうしても指摘しておかなければならないことがある。経脈理論が定型化したテキストである『霊枢』経脈篇が伝承しているのは,決してすべてがすべて「規範」に合致したテキストであるわけではない。少なくとも,その「手太陽脈」と「手少陽脈」の頸項部以上の循行のテキストは,歴史上にあらわれたあらゆるこの二脈の循行に関する描写の中で最も「陰陽の法則」に合致しているわけではない。これからわかるように,選択されたのは必ずしもすべてが「本物」ばかりではないし,棄てられたものも必ずしもすべてが「偽物」であるわけでもない。
4. 今日見られる経脈の「木」の形態は,どれほどの人,どれほどの回数の「剪定」をへているのかわからないが,自然に成長したものではない。その「剪定」の過程には,自覚的,意図的なものと,意識しない,偶然による誤りがある。陰経が内に五臟とつらなるのは,陽経は上って頭面に達し,体幹部には陰経の分布はないからである。「面に中たれば則ち陽明を下り,項に中たれば則ち太陽を下り,頰に中たれば則ち少陽を下り,其の膺背両脇に中たるも,亦た其の経に中たる」(『霊枢』邪気蔵府病形(04))。十二経脈のなかで,手足の陽明脈のみが左右に交叉して「顔を環り」「面熱する者は足の陽明病む」(『霊枢』邪気蔵府病形(04))。「五七,陽明脈衰え,面始めて焦(やつ)れる」(『素問』上古天真論(01))。「熱上がれば則ち陽明を熏(くす)ぶる」(『史記』扁鵲倉公列伝)。衝脈と少陰脈との複雑な連係など,背後にはみな「陰陽の法則」の三陰三陽分部という見えざる手による操作がある。
5. 古代人は陰陽の法則にある負の影響を超えようとして,異なる方式をこころみたが,その中でもっとも有効で,かつ応用がもっとも多い方式は,「絡」の概念の設定であった。聯繋する脈の枠組みでは,三陰三陽で命名された「経脈」は厳格に「陰陽の法則」にそって延長されたが,「絡」はまったくその制限を受けなかった。診療経験ではどこへ向かうかを示し,理論の解釈ではどこに出現するかが必要で,絡はどこへも通じることができた。陰脈と陽脈には人体を走行するうえで,それぞれ進入できない「禁止区域」がある。たとえば陽脈は表から入って内臓に属そうとするには「絡」――経別を通過しなければならないのである。

経脈=点線説

『大綱』の著者は,経脈において重要なのは,標と本であるという。それをつなぐ線は実線である必要はなく,点線でいい。
実験研究者は経脈を実線(実態のあるもの)だと思い込んでいるから,長い時間をついやしても,その本質にせまることができず,徒労に終わっている。
この考えを推し進めると,『経絡の研究』にはじまる経絡敏感人についても,当然疑義が生じることになる。

2016年8月22日月曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第7章 奇経の奇――八脈の謎は,衝脈に網をかけて綱となす  結語:謎を解く

  まとめ
1.  十二経脈のテキストとくらべて,奇経八脈はまだ厳格な意味での確定されたテキストではなく,定稿以前の草稿のようであり,その上,それぞれの脈の成熟度も異なり,いくつかのテキストの破片を留めているにすぎないものさえある。
2. 八脈中の衝脈は,漢代に生まれたひとつの気血理論革命の系統的な成果――原気説にもとづいて再構築された血脈理論——を継承している。「臍下腎間の動気」「三焦」「原気」という三つの鍵となる概念を採用し,衝脈をその運び手として全体をあらわしている。衝脈は「腎間の動気」「三焦」「原気」の代名詞といえるかもしれない。そのため,気の源,血の海であり,十二経脈はみなこれによって発動する。衝脈が担ったこの一連の新概念に十分な時間と土壌があたえられたとしても,それは最終的には旧説に取って代わり,新たな規範となることはできなかった,と誰がいえようか。【蔵象学説の「脾が太陰を主る」は,「脾胃が共に主る」という過渡期をへて,最終的に「胃が太陰を主る」に取って代わった。】
3. 衝脈の本体は,「伏膂の脈」にすぎなかった。それが「腎間の動気」と関連が生じた後,一歩一歩「命門学説」への道をつくり橋を架ける役割を構築した。この過程で「腎命」のために事をおこなうことによって,種々の「肩書き」を賦与され,異なる顔が生まれたが,衝脈の病候は依然として我々が今日知っている,本体の「胎生期の記憶」にすぎない。【衝脈の循行と病候との間には,おおきな落差がある。】
4. 蹻脈の循行が反映しているのは,「人体三陰三陽分部」説が確立する以前のものである。脈の循行については,同一の脈でありながら異なる道筋をめぐってもよいように描かれている。対立する方向に向かっても,始めと終わりがつながっていさえすればよいのである。これは,経脈循行の意味をさらに明確にしている。つまり,重要なのは具体的な循行路線ではなく,起始と停止,「出る」ところである。

2016年8月19日金曜日

「二十七」という術数について

黄龍祥先生は,「二十七」という数字について,単に「術数」としか述べていないので,以下補足してみる。
12+15=27であるが,これはまた3×9でもある。
九は,『素問』三部九候論(20)に「天地之至数,始於一,終於九焉。……因而三之,三三者九,以応九野」とあるように,至数である。
したがって,鍼の数は九でなければならない(『霊枢』九針十二原)。
『黄帝内経』の巻数は18巻(2×9)。
『素問』も『鍼経』も理論上,81篇(9×9)ずつあることになっている。
それで,二十七気であるが,『霊枢』九針十二原:「六府六腧,六六三十六腧。経脈十二,絡脈十五,凡二十七気。以上下……二十七気所行,皆在五腧也」。
『国語』周語には「天六地五,数之常也」,『易』繋辞上には「天五地六」とあり,六も重要な数字で,6×6=36であるが,36=4×9でもある。
ということで,九針十二原の編者は,九という術数にあわせて,二十七という数字が設定されたのであろう。

2016年8月18日木曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第6章  十五絡脈の脈絡――整理統合と再生

 結語:覆われていたものを解きはなつ  まとめ
1. 「二十七」という数にあわせて揃えるために,古代人は当時では主流ではない,あるいはすでに旬を過ぎた古い「十一脈」の経脈学説バージョンを基礎として,四本の絡脈を加え,あわせてふさわしいように改編したのち,「十五別」と名づけ,十二経脈とともに「二十七気」を構成した。『霊枢』経脈(10)篇の十五絡には,手少陽・任脈・督脈・脾の大絡とその他の十一絡というまったく相容れない特徴が見られ,後人が編輯を続け改編した痕跡があきらかである。【『霊枢』九針十二原(01):「経脈十二,絡脈十五,凡二十七気,以上下,……二十七気所行,皆在五腧也」。著者は「二十七」(12脈+15絡)という数について,単に術数であると述べるのみである。】
2. 経脈篇の十五絡は,その性質にもとづけば,少なくとも二つの部分に分けられる。任脈と督脈の別,および脾の大絡は,手足の十二絡とは性質が異なる。特に脾の大絡は臓腑に属する絡である。十五絡に入れられたのは,おもに十二経脈と一緒にして「二十七」という特殊な意義を持つ数字にあわせ揃えるためである。このほか,テキストの内容にもとづいても二つの部分に分けることができる。第一の部分は,古い旧テキスト――脈の循行と病候であり,第二の部分は,後人が加えた,あるいは改編した部分――絡穴と絡の「別走」である。『内経』で腧穴を記載する専門の篇である「気府論」「気穴論」,および「熱兪」「水兪」「灸寒熱病兪」などの穴には,みな絡穴の影は見えず,その出現もかなりおそいことを示していて,「経数の脈」という概念が形成された以後の産物であるとすべきで,経脈篇の編者の手によるのかもしれない。そのため腧穴の専門篇にその穴は掲載されず,診療篇にその脈は引かれず,臨床応用は何も記されていない。
3. 経脈篇にある手足三陰三陽の十二絡と接合するのは,経脈篇バージョンの「十二経脈」ではなく,非常に古いある種の経脈学説にある「経脈」である。したがってその表現は経脈篇より早いだけでなく,経筋篇よりも早いし,馬王堆帛書『十一脈』と比べてもより古い経脈循行の特徴をあらわしてさえいる。テキストに見えるいくつかの部分は晩期になってはじめてあらわれる内容の特徴を呈している。これは異なる時期に異なる人が編輯をつづけ改編した結果である。

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第一篇 理論体系:還元と解釈 第5章 標本と根結は似て非なるものである——誤解が習い性となれば正解にまさり,最後まで悟らない

  結語:惑いを解く まとめ

1. 脈口は経脈の虚実盛衰を診察する窓口であり,本輸と標輸は経脈病候を治療する「経兪」である。『内経』の時代では,経脈で分類された穴は,本輸と標輸しかなかったし,経脈の循行をあきらかに体現しているのも本輸と標輸の位置であった。その他の穴は,循行路線上には示されることはほとんどなかった。経脈循行の描写は,あいまいなものから具体的なものへの途上にあるが,これは主に本輸と標輸の拡張と増加によるものである。
2. 伝世本『内経』の「本輸」には二つの異なる概念の内容が含まれている。一つは一穴の本輸である「経脈穴」であり,もう一つは五穴の本輸である「五輸穴」である。年代が本輸篇成立以前である『霊枢』『素問』の各篇では早期の「経脈穴」の本輸の概念が用いられ,年代が本輸篇以後の各篇では「五輸穴」の本輸概念が用いられていて,これらが文集としてまとめられているのである。【本輸篇以前のものとしては,『霊枢』五乱(34)・『太素』卷三十・衄血・『素問』通評虚実論(28)が,本文ではあげられている。】
3. 『内経』刺法の規範的専門篇である『霊枢』官針(07)での腧穴に関連する刺法は,みな本輸にあり,臨床では経脈および臓腑病の治療に用いられる。「循経取穴【経に循〔したが〕って穴を取る】」とは,すなわち経脈の病を辨して本輸の穴を取ることである。現代人は,「循経取穴」を「経に循って,宋以後に経に帰属したあらゆる361穴を取る」と理解している。現代人の「循行取穴」についての誤解は,「寧ろ其の穴を失するとも,其の経を失すること勿れ」【標幽賦に対する『鍼灸大成』楊氏注解に見える】という古訓の曲解をもたらし,認識上きわめて大きな混乱を引き起こした。【たとえば照海はもともと陰蹻穴に属していたが,宋以後,足の少陰経に帰属することになった。足の少陰経に循って照海穴を取って目の病を治療するときに,足の少陰経は目に達していないのに,現代人は「循経取穴」をどのように理解し,どのように説明するのか。どのように臨床実践を指導するのか。】
4. 標本は『十一脈』に芽生えた。根結は経脈篇の「経脈連環」の基礎である。「根結説」が構築した手足同名経脈の「根づくことろは対応し,結ぶところは同じか近い」という理論構造は,後の経脈篇が構築した十二の「経脈連環」への道をひらいた。ここに最大の意義がある。伝世本『霊枢』根結(05)には脱簡がなく,それに述べられている「三陰三陽」の根結には,すでに手足の六経がふくまれている。【根結篇には,手足の陽経のみが述べられて,陰経についての記述はない。】
5. 「根溜注入」【根結篇を参照】が反映しているのは,血脈循環理論の内容であり,標本根結の「木型」モデルの意味とはまったく異なる。これは,異なる時代の異なる問題に対する論述である。
6. 早期の経脈命名法には,おもに二種類ある。第一に,「手太陰」「手陽明」「足太陰」「足陽明」のように,「本」を名とするもの。第二に,「歯脈」「耳脈」「肩脈」のように「標」を脈の名とするもの。そのうち,第一の,三陰三陽で命名された経脈名称は,同時に相応ずる脈口と本輸の名称でもある。たとえば,「手太陰」は手から胸にいたる手太陰経脈全体の名称であるが,また手太陰の脈口の名称――寸口脈――でもあり,また早期の手太陰本輸の名称――すなわち脈口のところで,のちの太淵と経渠に相当する場所――でもある。
1. それぞれの脈あるいは絡にはただ一穴のみの段階があった。十一脈あるいは十二脈について言えば,それはすなわち脈口の「経脈穴」である。経脈と対応する十一あるいは十二の絡脈について言えば,これは「別れる所」にある絡穴である。陰蹻と陽蹻の脈について言えば,脈と名前が同じである「陰蹻」「陽蹻」穴である。まさにこれらの穴は,関連する脈あるいは絡が生成し延伸していった方向と路線を決定している。これらは脈あるいは絡が発生し発展していった原点であり,この意味からこれを「原」あるいは「源」穴と称するのは,非常に妥当である。

2016年8月17日水曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第一篇 理論体系:還元と解釈  第2章 脈と絡——「経脈」理論の術語 結語:脈を解く まとめ

1. 聯繋する脈の主な,あるいは唯一と言える働きは,二つの遠く離れた関連部位を聯繋することである。気血を運行する必要もないし,決まった数や固定された道にも拘束されない。「経数の脈」が確立する以前は,それらの数は随時増やすことができたし,路線も随時改めることができた。その性格は,関連部位とそれが相互に関係することを示す概略的な線である。聯繋する脈の最も典型的な例は,「経別」――気・血・営・衛がなく,いわゆる「通」「不通」もない――であり,単にめぐって聯繋する働きをし,その循行する路線の確定も,「視て見る可く,捫(なで)て得る可し」【『素問』挙痛論(39)】という制限を受けず,みな血脈の形態と機能とはあきらかに異なる。
2. 古典経脈理論を研究して遭遇する第一の際だった問題は,同じ術語が異なるコンテキストにおいて,多種多様の概念をあらわすことができるということである。たとえば,「脈」についていえば,「聯繋の脈」と「気血の脈」の意味がある。聯繋する脈の枠組みにおいては,「脈」は,直接の,確定した,通常の聯繋をあらわすし,「絡」は,間接の,不確定の,臨時の関連をあらわす。「経数」の概念がでてきた後では,あらゆる経数に入らない脈はすべて「絡」に入れられる。血脈理論の枠組みにおいては,脈の大きなものが「経」であって,脈の小さなものが「絡」である。これから分かるように,「経脈」という語は,異なる理論の枠組みの中では,まったく異なった概念内容をあらわしている。
3. 経数の脈は,「十一」「十二」であれ,「二十八」であれ,結局のところきわめて限定された数であるうえに,陰陽学説の「支柱」となるという制限を受けている。体表には大きな「経脈進入禁止」の区域があるので,十数本の脈を用いるのみでは人体の複雑な生理の連係と千変万化する病変を解釈することは,ほとんど不可能であり,経脈学説がいろいろな学説があるなかで突出し,迅速にその解釈域をひろげ,理論上の絶対的な指導的地位を獲得できた鍵は,「絡」という概念を導入したことにある。どの経脈でも解釈できないところは,「絡」によってみな一貫して理解することができる。いかなる解釈が必要とされる遠隔部の関連も,「絡」によってみな自在に対応できる。「絡」には,「脈」を聯繋する働きがあるが,いかなるルートを聯繋する理論の支柱が必要である時であっても,いかなる「脈」に関する種々の制限がない。陰陽の法則の「支柱」となるという制限もなければ,脈口の「座標」という位置づけも必要なく,あらゆるところに至ることができる。【経脈には進入できない禁止区域がある。陰陽の法則の規定を受けるので,体表をめぐる陽脈は,内臓に入ることはできない。体幹内をめぐる陰脈は体表に出ることはできない。このため,陽脈が表から入って内臓に属そうとし,陰脈が腹の内から腹の表面に出る必要があるときは,みな「絡」を通してのみ実現可能である。古代人の見方では,「絡」はどこにでも至ることができて,陰陽の法則の制限を受けない。】
4. 経脈の重点は「出る」ところにある。この「出る」ところをつなぐ方式や前後の順序などは重要ではない。たとえば,手の太陽脈では,重要なのは手の外側・肩・眼のあいだの関係であって,その中間のルートは,「前面から面部をへて眼に至」ろうが,「後面から頭部に上って目に至」ろうが,古代人の見方では,その意味はまったく同じものである。その全体的な意味は,何カ所かの部位の間に診療上の関連が存在しているをひとびとに知らせることにあるのである。現代の実験研究者がもしこの点をはっきりと認識できなければ,古代人が同一の脈を異なる方式で表現したものを二本の異なる脈とみなし,実験室においてしつこく異なる実体構造をさがしもとめることになり,あらゆる努力は徒労におわる。
5. 古代人は脈を診て脈を刺すという診療実践を通して,「鍼灸の遠隔診療作用」を発見し,「聯繋する脈」を通して「作用の仕組み」を論述した。換言すれば,いわゆる「聯繋する脈」の真意は,ツボの遠隔治療作用ルートに関する一種の概略,一種の仮説,一種の理論解釈である。これは,古代人が以前のあらゆる哲学的解釈に満足できずに提出した新たな解釈である。ただ気血の脈と源を同じくして生まれたので,気血の脈の構造と機能がその上に重ねられているため,その本来の面目が次第におおわれて,識別しがたくなった。
6. 早期のツボは,それが経穴であれ奇穴であれ,遠隔治療作用を有するのであれば,その診療作用はみな「脈」を通して実現する。単穴での遠隔診治作用についての理論的説明は,聯繋する脈を構築するのがおもな目的であり,その構築方式は簡単である。つまり,その循行路線はツボのあるところに起こり,そのツボの主治が及ぶところに終わる。伝世文献では,陰蹻脈は陰蹻穴(照海)に起こり,このツボが作用する部位――目に終わる。同様に陽蹻脈は陽蹻穴(申脈)に起こり,このツボが作用する部位――目に終わる。絡脈と絡穴の関係については一層一目瞭然である。
7. だれでもみな,そのひと本人あるいは他人の診療経験によって,いかなる「脈」あるいは「絡」でも増やすことができる。つまり,この経験を当時すでにあった常規の脈では解釈できないものに用いるだけである。すべてのこれらの脈は,まさに聯繋する脈であって,「経脈」成立以前に存在した方式であり,「脈」と「絡」は解釈の必要性に応じて生まれたものである。診療経験は,どこに向かい通じてどこに至るかを指摘し,解釈はどこに至り,脈絡は通じてどこに至るのかを求める。これは,古代人の見方ではすこしも神秘的なことではない。

2016年8月16日火曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第一篇 理論体系:還元と解釈  第1章 経脈・絡脈と営・衛——古代の血脈理論の新概念 まとめ

1. 「経脈」とは,もともと古代人が構築した血脈循環という核心的概念である。血脈の大きなものを「経脈」と命名した。いわゆる「経脈」「絡脈」「孫脈」(毛脈)は,脈の大きさの分類であり,「血脈運行潮汐論」の産物である。しかし「十二経脈」での「経脈」とは,常の脈を指し,「経数の脈」の略称である。同じ術語がまったく異なる意義を持っていて,人々の思考にきわめて大きな混乱をもたらした。後代の人,とりわけ現代人は,しばしば識別できず,血脈理論と経脈理論の異なる「経脈」概念を混淆している。誤って「血を行らす」ことを血脈の作用とみなし,「血気を行らす」「気を行らす」ことを経脈の作用に帰属させている。これにより,血脈以外に「経脈」という実体構造の根本となるよりどころを求めて,根本的な誤りを犯している。
2. 『内経』では「経脈」という語は全部で82回あらわれるが,「十二」「二十八」を伴ってはじめて「経数の脈」として理解できる。その他の状況,特に「経脈」が「絡脈」「孫脈」を伴うときは,みな血脈理論の枠組みの下での血脈の分類を示す術語である。「経数の脈」という概念が形成される以前では,「経脈」はみな血脈を指したが,「聯繋する脈」をいうときは,往々にして単に「脈」あるいは「絡」というだけであった。このほか,脈診を論じるときに使われる「経脈」は,「常脈」,つまり正常な脈象をあらわす。また動詞としても用いられ,「脈を診る」という意味をあらわす。婦人の病症を論じるときの「経脈」は,つねに婦人の月経の脈を指している。「経脈」という用語が持つ多義性は,現代人が古典文献を正確に理解するうえで,きわめて大きな障碍となった。
3. 経絡と気血以外に,さらに「営衛」を設定したのは,気血の循環に理論的支柱を提供するためである。「衛」は循環する気であり,一般的な血気ではなく,気血の循環を構築し,気血の定速運行を保証する不可欠の概念である。『内経』の「営衛」の論を通覧すれば,ひとつの明らかな特徴——「周(めぐ)りて復た始まる」「環の端無きが如し」——がわかる。もし「営衛」の循環という特定の意味を除いてしまったら,その機能は実際のところ,「血気」と異なるところがなくなる。

2016年8月15日月曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第一篇 第4章 「経脈連環」——聯繋する脈がつなぐ血脈の環 【訳注:経脈連環は,『霊枢』経脈篇に相応する部分の,『太素』での篇名】


  結語 連結をほどく
 木型隠喩【血脈学説を水型隠喩と著者は称する】にもとづいて構築された聯繋する脈についての理論仮説,すなわち経脈学説は,その循行方向は必然的に下から上へ——根本から末梢へである。これは経脈学説立論の根本であり,経脈学説を識別する「IDコード」である。しかし十二経脈がつながれて周(めぐ)って復た始まる環となったのちは,経脈の「標本」には,立脚点がなくなった。換言すれば,経脈学説の「根」が引っこ抜かれたのである。経脈篇の編者は十一の「鏈環【チェーン・リング】」で構築された「経脈連環」の中にまた環をつなぐことによって,「十二脈連環」と「十四脈連環」というふたつの環をふくめ,かつ「十二脈連環」の中にさらに複雑な「側枝循環」——「経別」と「絡脈」という「側枝」を隠し入れるという,複雑な理論体系を現実に構築した。
 現代人の古典経脈理論に対する理解と評価に,当初から今日までつねにきわめて大きな不一致が存在し,攻撃者が情け容赦なくその理論を地獄に突き落とし,崇拝者がそれを雲の上に祭り上げるのはなぜかといえば,論争している双方が経脈の真の姿をはっきりと見きわめることができなったことが一切の原因である。長きにわたって経脈の真の姿を識別するひとがいなかったのは,おもに世に伝わる経脈理論が別の異なる理論——血脈理論の中に整理再編されていたためである。二人の美女の写真が一枚の写真に合成され,あるひとにはA女に見え,あるひとはB女だと考えていたが,ある日突然,これが合成写真だとあるひとが気づき,謎がやっと解け,あらゆる論争が理性的に終結したようなものである。
  まとめ
1. 「経脈連環」が構築されたのは,扁鵲医学中の血脈理論が漢代に「気血循環」学説を提出して,「気血運行潮汐説」の理論より優位に立とうとしたためである。そのためには,「ルートを循行する」という理論の失われた環【ミッシング・リンク】を補わなければならなかった。これが「経脈連環」が誕生した大きな背景である。
2. 「経脈連環」が手の太陰に始まるのは,当時の人々が「胸中宗気説」を気血運行の動力源として選択したためである。気血は胃で生成されて肺に行くので,十二経脈の循行は手の太陰肺の脈に始まる。手の太陰脈がはじめに大きく折り返して,「胃口に循環する」必要があるのも,胃が気血の生化の源であるという意義が突出しているからである。
3. 「経脈連環」に十二経別が組み入れられたのは,陽経と六腑のつながりを実現し,それによって十二経脈と五臓六腑の間に,欠落のない「属絡」聯繋を構築するためである。
4. 「二十八連環」が最終的には構築されなかったのは,最終的に確定した二十八脈は,三陰三陽の十二脈に任脈・督脈・陰蹻・陽蹻を加えると,脈の総数は三十となり,「二十八」を超えてしまい,経数に合わないためである。しかし当時の学術的背景ではこの難問を解決するすべがなかったので,二十八脈の循行はついに構築できず,ひとつの「理想の脈」となり,「経脈」の名があるのみである。ひとびとが「経脈」を読むときは,経数の脈の角度から,多くは暗黙的に「十二経脈」と理解するのであって,「二十八脈」ではない。【第一篇第1章第4節:「天人相応」の観念の影響下にあって,古代人は人体の脈を天地の数に合わせた。いわゆる「上は星宿に応じ,下は経数に応ず」(『霊枢』癰疽(81))である。まず天には「十二月」があり,人は「十二脈」をもって応じた。後にまた天には「二十八宿」があり,人は「二十八脈」をもって応じた。この時,「十二」と「二十八」は「経数」とみなされ,経数内の脈を「経脈」と称し,いわゆる「数に当たる者を経と為し,其の数に当たらざる者を絡と為すなり」(『霊枢』脈度(17))である。】
5. 血脈理論と経脈理論という二つの異なる理論は交錯していて,後代の人には経脈理論を正確に理解するには幾重にも重なり合う障壁が設けられているため,実験研究者は何十年にもわたり「経絡とはなにか」を追求せざるをえず,半世紀以上にわたり現代の鍼灸学教材も,今に到ってもなお「経脈」および「経脈学説」に対して,科学的定義を出すことができないでいる。

2016年8月14日日曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第3章 扁鵲医学と脈の離合——診脈から血脈・経脈に至る理論の創設

  【まとめ】
1. 脈診,およびこれらから派生した血脈理論と経脈理論は,すべて扁鵲学派を出自とする。その基本となる思想と診療の経験は,いまなお『脈経』や『素問』などの書物によって伝えられている。
2. 足の陽明胃経の「是動」病が心神病症としてあらわされる理由は,扁鵲脈法では陽明脈が心臓に対応しているためである。足の太陰脾経の病候が胃の症状としてあらわされる理由は,早期の扁鵲医学では太陰は胃に属し,胃は「臓」に属して「腑」には属さないためである。これも扁鵲脈法が胃の脈を診ることを重視するという考え方と対応している。
3. 各伝本【訳注:張家山『脈書』馬王堆『陰陽十一脈』『霊枢』など】の経脈の下にみな脈死候がある理由は,扁鵲脈法が「病の生ずる所を診る」と「死生を決して治す可きを定める」という二項目を含んでいるためである。「是動」病は,扁鵲の標本脈法の「病の生ずる所を知る」という経験の総括である。脈死候は,扁鵲脈法の異なる段階での「死生を決する」経験の総括である。すなわち【『脈書』の】「五死」が反映しているのは,中期の扁鵲脈法中の「脈死候」であるが,【『霊枢』】経脈篇に収録されているものは最晩期の内容である。『陰陽十一脈』の足太陰脈および『陰陽十一脈』と『足臂十一脈』の足厥陰脈の下にある「脈死候」は依然として経験を描写したものであって,理論に昇格する以前の産物であり,早期の扁鵲脈法の内容である。
4. 【ここだけ読んでも理解できないと思われるので省略します。】
5. 扁鵲医学の文献をもっとも欠落なく保存している『脈経』で,診るところの脈・刺すところの脈・聯繋する脈はみなまったく同じ三陰三陽によって命名されているのはなぜか?十二経脈も,十五絡脈中の手足三陰三陽の絡と同様に,ただ一箇所の脈診部=脈口・一穴=経脈穴があるだけなので,それによって三陰三陽の名で,脈口とその対応する穴および経脈名を命名しても識別上の困難を生じることはないからである。
6. 扁鵲医学に宿っていた経脈学説はおもに三段階をへて誕生した。第一段階:手足の脈口部で,ある遠隔部の病を診ることができることを偶然発見した。第二段階:その脈口部でさらに多くの遠隔部の病症を診ることを自覚的にためし,長い時間をかけて繰り返し調べて,その脈口で診られる通常の病症,つまり脈候を確定した。すなわち脈候が確立した。第三段階:種々の異なる学説をもちいて脈候についての解釈をこころみた。すなわち脈解があらわれた。いろいろな「脈解」が次々とあらわれた。突出して主流となる学説はなかったが,古代人は脈候の解釈について哲学の範疇をこえて,経脈学説をもちいてより直接的により実用的な解釈をはじめたのちは,この理論は迅速に広範囲に応用されるようになり,脈候の解釈に用いられるのみならず,五色の関連の解釈にも用いられるようになった。「絡」は経脈学説の中で最も活躍するようになったが,同時に最も不安定な要素である。要するに,解釈の必要に応じて生まれ,解釈の変化にしたがって変わった。【突然「絡」がでてきますが,これも前にある文章を読まないと,わかりづらいと思います。要するに,経脈が固定・確定されると,それと離れたところで発生する病症などを関連した事柄としてあつかい,説明するために,「絡」というツールが(安易に)使い回される,ということだと思います。】
7. 『内経』の中で,「経脈穴」で組み立てられる鍼灸処方の源は扁鵲であり,とりわけ処方には分量を数値化してあきらかにし,鍼具には砭鍼を用いた。

2016年8月10日水曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』43頁下から2行目

経脈,就注定与其掰不清,……
ここに「掰」という見たこともなかった文字が使われていますが,調べてみると,ここの意味にあわないように思えます。
これは「辨」字の誤字と考えていいでしょうか?

2016年8月3日水曜日

原穴診

原穴診は可能かについて,そもそも例えば太白あたりには脈動なんて無いじゃないかと言われたけど,なんでだか忘れたけど,たぶん見るからに「愁憂而不解」という感じの女性だったから,太白穴に触れてみたら,異常な,なんと表現すれば良いのか,とにかく長くは触れていたくない異常な感じが有った。あれも原穴診の内じゃ無いか。自分の患者じゃ無くて,偉い先生の臨床を見学していたときだから,わたし自身は何もしてないが,例えば鍉鍼か何かで,あの異常な感覚を解消できれば,「愁憂而不解」も好転するのではあるまいか。