2016年8月15日月曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第一篇 第4章 「経脈連環」——聯繋する脈がつなぐ血脈の環 【訳注:経脈連環は,『霊枢』経脈篇に相応する部分の,『太素』での篇名】


  結語 連結をほどく
 木型隠喩【血脈学説を水型隠喩と著者は称する】にもとづいて構築された聯繋する脈についての理論仮説,すなわち経脈学説は,その循行方向は必然的に下から上へ——根本から末梢へである。これは経脈学説立論の根本であり,経脈学説を識別する「IDコード」である。しかし十二経脈がつながれて周(めぐ)って復た始まる環となったのちは,経脈の「標本」には,立脚点がなくなった。換言すれば,経脈学説の「根」が引っこ抜かれたのである。経脈篇の編者は十一の「鏈環【チェーン・リング】」で構築された「経脈連環」の中にまた環をつなぐことによって,「十二脈連環」と「十四脈連環」というふたつの環をふくめ,かつ「十二脈連環」の中にさらに複雑な「側枝循環」——「経別」と「絡脈」という「側枝」を隠し入れるという,複雑な理論体系を現実に構築した。
 現代人の古典経脈理論に対する理解と評価に,当初から今日までつねにきわめて大きな不一致が存在し,攻撃者が情け容赦なくその理論を地獄に突き落とし,崇拝者がそれを雲の上に祭り上げるのはなぜかといえば,論争している双方が経脈の真の姿をはっきりと見きわめることができなったことが一切の原因である。長きにわたって経脈の真の姿を識別するひとがいなかったのは,おもに世に伝わる経脈理論が別の異なる理論——血脈理論の中に整理再編されていたためである。二人の美女の写真が一枚の写真に合成され,あるひとにはA女に見え,あるひとはB女だと考えていたが,ある日突然,これが合成写真だとあるひとが気づき,謎がやっと解け,あらゆる論争が理性的に終結したようなものである。
  まとめ
1. 「経脈連環」が構築されたのは,扁鵲医学中の血脈理論が漢代に「気血循環」学説を提出して,「気血運行潮汐説」の理論より優位に立とうとしたためである。そのためには,「ルートを循行する」という理論の失われた環【ミッシング・リンク】を補わなければならなかった。これが「経脈連環」が誕生した大きな背景である。
2. 「経脈連環」が手の太陰に始まるのは,当時の人々が「胸中宗気説」を気血運行の動力源として選択したためである。気血は胃で生成されて肺に行くので,十二経脈の循行は手の太陰肺の脈に始まる。手の太陰脈がはじめに大きく折り返して,「胃口に循環する」必要があるのも,胃が気血の生化の源であるという意義が突出しているからである。
3. 「経脈連環」に十二経別が組み入れられたのは,陽経と六腑のつながりを実現し,それによって十二経脈と五臓六腑の間に,欠落のない「属絡」聯繋を構築するためである。
4. 「二十八連環」が最終的には構築されなかったのは,最終的に確定した二十八脈は,三陰三陽の十二脈に任脈・督脈・陰蹻・陽蹻を加えると,脈の総数は三十となり,「二十八」を超えてしまい,経数に合わないためである。しかし当時の学術的背景ではこの難問を解決するすべがなかったので,二十八脈の循行はついに構築できず,ひとつの「理想の脈」となり,「経脈」の名があるのみである。ひとびとが「経脈」を読むときは,経数の脈の角度から,多くは暗黙的に「十二経脈」と理解するのであって,「二十八脈」ではない。【第一篇第1章第4節:「天人相応」の観念の影響下にあって,古代人は人体の脈を天地の数に合わせた。いわゆる「上は星宿に応じ,下は経数に応ず」(『霊枢』癰疽(81))である。まず天には「十二月」があり,人は「十二脈」をもって応じた。後にまた天には「二十八宿」があり,人は「二十八脈」をもって応じた。この時,「十二」と「二十八」は「経数」とみなされ,経数内の脈を「経脈」と称し,いわゆる「数に当たる者を経と為し,其の数に当たらざる者を絡と為すなり」(『霊枢』脈度(17))である。】
5. 血脈理論と経脈理論という二つの異なる理論は交錯していて,後代の人には経脈理論を正確に理解するには幾重にも重なり合う障壁が設けられているため,実験研究者は何十年にもわたり「経絡とはなにか」を追求せざるをえず,半世紀以上にわたり現代の鍼灸学教材も,今に到ってもなお「経脈」および「経脈学説」に対して,科学的定義を出すことができないでいる。

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