2016年8月25日木曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第8章 経絡学説の発展――内外の要素の力を合わせた作用  結語:木と支柱

  まとめ
1. 経脈の標の延長あるいは増加は,経脈循行路線に変化をもたらした主要な内的駆動力である。たとえば,足の太陽は,かつては「天柱の脈」で終わっていたので,「項に中(あ)たる者は太陽を下る」【『霊枢』邪気蔵府病形(04)】や,「項の太陽」【『霊枢』寒熱病(21)】「項の大経」【『霊枢』癲狂(22)】という説があったが,「頭の太陽」「目の太陽」という説はなかった。のちに天柱で目を治療できることが発見され,解剖的にも目系が項に出ることが発見されたので,太陽脈の循行は延伸して「脳に入り,目に至」った。ついには「気の頭に在る者は,之を天柱と大杼に取る。知(い)えざれば,足の太陽の滎輸を取る【『霊枢』五乱(34)】。故に気の頭に在る者は,之を脳に止(い)やす【『霊枢』衛気(52)】」という処方ができた。
2. もし経脈の標に変化がないのに――新たな関連部位の発見がないのに,経脈の循行に明らかな変化が生じたとすれば,これは経脈理論に変化が生じたことを意味しているのではなく,単に経脈の循行を描写する新たな方法があらわれたのにすぎない。
3. 同じ脈の循行路線についての描写には,二つの異なる様式がある。第一は,主幹と分枝の形式で関連する各点をつなぐやり方である。第二は,単に一本の線でそれぞれの関連点をつなぐやり方である。この二つの様式,特に第二の様式では,それぞれの関連する点が直線上にない場合,多くの異なる描写様式が存在し,陰陽が相反する道筋にしたがってさえもかまわないし,異なる方式で関連する各点をつないでも,みな許されるし,また正常であり,どの説がよくて,どの説がよくないかを判断する基準はない。なぜなら同じ様式の下では,異なる様式で描写してもその意味は同じこと――関連する部位を指示すること――だからである。これも経脈循行線の本来の意味である。「三陰三陽分部」の確立にともない,十二脈も統一されて三陰三陽で命名され,経脈循行の描き方にもよるべき法ができ,したがうべき規則ができた。それらの「陰陽の法則」に合致する経脈の循行の案は普遍的に受け入れられて規範となった。その他の案は,きわめて少数のテキストが幸いに残って伝わっている以外は,大多数はみな早くに散佚した。しかしながら,どうしても指摘しておかなければならないことがある。経脈理論が定型化したテキストである『霊枢』経脈篇が伝承しているのは,決してすべてがすべて「規範」に合致したテキストであるわけではない。少なくとも,その「手太陽脈」と「手少陽脈」の頸項部以上の循行のテキストは,歴史上にあらわれたあらゆるこの二脈の循行に関する描写の中で最も「陰陽の法則」に合致しているわけではない。これからわかるように,選択されたのは必ずしもすべてが「本物」ばかりではないし,棄てられたものも必ずしもすべてが「偽物」であるわけでもない。
4. 今日見られる経脈の「木」の形態は,どれほどの人,どれほどの回数の「剪定」をへているのかわからないが,自然に成長したものではない。その「剪定」の過程には,自覚的,意図的なものと,意識しない,偶然による誤りがある。陰経が内に五臟とつらなるのは,陽経は上って頭面に達し,体幹部には陰経の分布はないからである。「面に中たれば則ち陽明を下り,項に中たれば則ち太陽を下り,頰に中たれば則ち少陽を下り,其の膺背両脇に中たるも,亦た其の経に中たる」(『霊枢』邪気蔵府病形(04))。十二経脈のなかで,手足の陽明脈のみが左右に交叉して「顔を環り」「面熱する者は足の陽明病む」(『霊枢』邪気蔵府病形(04))。「五七,陽明脈衰え,面始めて焦(やつ)れる」(『素問』上古天真論(01))。「熱上がれば則ち陽明を熏(くす)ぶる」(『史記』扁鵲倉公列伝)。衝脈と少陰脈との複雑な連係など,背後にはみな「陰陽の法則」の三陰三陽分部という見えざる手による操作がある。
5. 古代人は陰陽の法則にある負の影響を超えようとして,異なる方式をこころみたが,その中でもっとも有効で,かつ応用がもっとも多い方式は,「絡」の概念の設定であった。聯繋する脈の枠組みでは,三陰三陽で命名された「経脈」は厳格に「陰陽の法則」にそって延長されたが,「絡」はまったくその制限を受けなかった。診療経験ではどこへ向かうかを示し,理論の解釈ではどこに出現するかが必要で,絡はどこへも通じることができた。陰脈と陽脈には人体を走行するうえで,それぞれ進入できない「禁止区域」がある。たとえば陽脈は表から入って内臓に属そうとするには「絡」――経別を通過しなければならないのである。

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