2016年8月25日木曜日

経脈=点線説

『大綱』の著者は,経脈において重要なのは,標と本であるという。それをつなぐ線は実線である必要はなく,点線でいい。
実験研究者は経脈を実線(実態のあるもの)だと思い込んでいるから,長い時間をついやしても,その本質にせまることができず,徒労に終わっている。
この考えを推し進めると,『経絡の研究』にはじまる経絡敏感人についても,当然疑義が生じることになる。

2 件のコメント:

  1. 本に術を施すと,標に何かが起こる。ただし,本と標をつなぐ物が,常在しているわけではないらしい。とはいえ,関係が成立した時には,両者を繋ぐ何物かは存在する。こちらでお祈りすると,向こうでかなうというものではない。黄氏も,血管か,神経か,あるいは血管神経か,それとも我々がまだ想像することもできない道筋か,というような表現をしている。経絡敏感人の存在は,ある特種な情況のもとでは,確かに不可思議な連絡が生じる,常識に無いつながりが生じている,ということを視覚的に示してくれた,という価値は有るだろう。

    黄氏がやっきになって否定しているのは,『霊枢・経脈』に描写されるとおりの物体を探し求めようとする態度だろう。現象は確かに発生する(経絡敏感人もその一つの証拠ではありうる)。その現象は何故に発生しうるのか,については解明を期待していると思う。黄氏自身は,古書にはどういう現象が起こったと書かれているのか,の解読に勤めていて,その成果を実験研究者に提供しようとしている。


    実線か点線か。
    降った雨が野に流れたときに川となるのであって,土管が設置されているわけではない。試みに散水すれば,広場にもときには筋状のものは流れるだろう。何故,そんなものが現れるのか。さてね。

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  2. 言い換えれば,循経感伝現象の発見の価値は,経脈現象が実際に存在する可能性を示したことに在るのであって,これを以て経絡発見の拠り所,手段であるとは考えない。したがって,常識とは異なる方向へ感伝したとすれば,現在の常識とされる経脈循行が,単なる標準に過ぎないことを意味するのであって,新たな感伝によって新たな経脈が発見されたなどと喜ぶべきではない。もっとも,最初には異なる感伝,もしくは治療効果によって,日々に新たな経脈が成立していたのであろう。しかし,今,十一脈とか十二脈とかであるのは,そのように整理して,標準としたのである。標準は尊重すべきである。また,標準に固執すべきではない。

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