2016年8月29日月曜日

デカルト『省察』

岩波文庫『省察』、中公クラシックス『省察/情念論』、白水社『方法叙説/省察』には、『大綱』掲載の図はなかったので、調べてみた。

この図は、マルゴッタ『図説 医学の歴史』(岩本淳訳)によれば、デカルトの『人間について』(たぶん、Traité de l'homme)の挿絵。熱さと痛みを知覚する図(脳の中にその中心がある)。

白水社『方法叙説/省察』にある解題=訳者あとがきに、

 『省察』は、『哲学の原理』と並んで、デカルト哲学(そしてデカルト形而上学)の中核的な著作である。……『哲学の原理』のフランス語訳本の……のなかで、デカルトは、一本の樹に譬えつつ、その根を形而上学に、その幹を自然学に、幹から岐れる三つの主要な枝を医学と機械学と道徳(倫理学)とに配しているが……『省察』と『哲学の原理(第一部)』……の主題はまさしく、<一本の樹>なる学問全体の<根>たるべき<形而上学>……であった。

とある。こうしてみると、黄龍祥氏の『大綱』を構想する上で、勿論『内経』の「標本」「根結」が基礎としてあるが、デカルトの考え方も、その下地・下支えとなったのではないかと、想像する。

ちなみに、『大綱』での『省察』引用部分
※青空文庫 三木清訳:
私が足の苦痛を感覚する場合、自然学は私に、この感覚は足を通じて拡がっている神経の助けによって生ずるのであって、この神経は、そこから脳髄へ連続的に綱のごとくに延びていて、足のところで引かれるときには、その延びている先の脳髄の内部の部分をまた引き、このうちにおいて、精神をして苦痛をばあたかもそれが足に存在するものであるかのごとくに感覚せしめるように自然によって定められているところの或る一定の運動を惹き起すのである、ということを教えるのである。しかるにこれらの神経は、足から脳髄に達するためには、脛、腿、腰、脊及び頸を経由しなくてはならぬゆえに、たといこれらの神経の足のうちにある部分が触れられなくて、ただ中間の部分の或るものが触れられても、脳髄においては足が傷を受けたときに生ずるのとまったく同じ運動が生じ、そこから必然的に精神は足においてそれが傷を受けたときのと同じ苦痛を感覚するということが起り得るのである。そして同じことが他のどのような感覚についても考えられねばならない。

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