2015年4月30日木曜日

李建民「中国明代の縫合手術」

近代ポーランドの医学史家Ludwik Fleck(1896-1961)によれば、医学という学問が自然科学の他の分野(物理学等)と大きく異なる点は、その体系化の困難さにある。医学的現象に対する合理的理解は結局のところ不可能である。Fleckは特に医学的現象における「非典型的」(atypical)な事例の存在に注意を促す。その種の事例は全体のうちに整合的に位置づけることができず、そのつど個別に対処するしかない。

中国医学の「例外」であった外科事例は、最後まで「科学」としての外科を生み出すことはなく、一つの技芸の域にとどまったのである。

中医手術は内科(方脈)とはその文化資源(cultural fund)を截然と異にする。後者〔念のため引用者注:内科〕においては、その技術や理論は、政治体制や主流の哲学思想と密接に結びついている。あたかも主流の哲学思想が自らを正統視するのと同様に、手術は内科史の正統から逸脱したものと看做される。

汪機の考えでは、「針」はただ不足の病(虚病)を治療しうるにすぎない。古の人は外より病を得たので針灸が用をなすが、今の人は内より病を得るので湯液を用いることが多い。また情志にかかわる病も「針では治療することができない」。汪氏によれば、当時の針医は脈診を重視しなかった―「脈を取り顔色を観察することは医の根本だが、今の針医は重視しない。そのため治療技術が古に及ばず、完治する者が十に一二もないのである」。汪機には他に『外科理例』(1537)の著があり、670例の病案を収集する。うち179例は針灸治療、残りはすべて湯薬治療である(李磊校注『針灸問対』、山西科学技術出版社、2012、p.1、p.43-45、p105等、および「汪機研究」、pp.315-357)。

内山直樹訳,千葉大学人文社会科学研究 no.28 page.278-294 (2014-03-30)
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/AA12170670/18834744_28_23.pdf

2015年4月28日火曜日

張效霞

山東中医薬大学の先生。中国医学史が専門。
該博な知識にもとづき,中国医学の公式見解に異議を唱えている。

たとえば,中国医学は科学ではない,と自信を持って言っている。
なぜなら,中国古代には真の意味での「科学」は存在しなかったし,そもそも医学は本当の意味での「科学」ではないのだ。したがって,中医学が「科学」でないのは当然ではないか,と。

中医学を制約する最大の桎梏は,中医学を「科学」とみなし,それによって「科学」の観念から伝統的な中医学を解釈・改造していることだ。それによって,中医の理論は邪魔され,ねじ曲げられ,去勢され,排斥されている。

中医学は科学ではないのだから,中医学に対して「現代科学の視点から見れば,巫術のようなもので,最大の偽科学だ」などというのは,まったくのお門違いだ。

また,よくいわれているのに,「中医理論は臨床実践をまとめて導き出されたものだ」というのがあるが,これもよくよく検討してみる必要がある。
穴と経絡について,昔は「点から線へ」と臨床実践にもとづき経絡は発見されたと解釈されていたが,穴に関する記述のない『馬王堆』帛書の発見で,びんたを食らった。

臓腑開竅理論にしても,長期の臨床観察から解釈されたものだというが,『内経』の中でも,口が心にむすびつけられたり,脾にむすびつけられたり,当時でさえ異説があったが,これも五行説が臓腑理論に入って,帰納されたひとつの見方にすぎない。

ニュートンの万有引力の法則,アインシュタインの相対性理論にしても,理論が先で,それが実験や観測によって,あとから裏付けられたのではないか。

中医理論は,経験の直接的な結晶なのか?「理論は実践にもとづく」というのは,みんながはまっている落とし穴なのではないか?

以上,「口に開竅するのは,心なのか脾なのか」,その理由はなにか,と『甲乙経』の読者から聞かれたのを機に,以前読んだ本を読み返した。

2015年4月21日火曜日

唐の太宗に避諱について

池田昌広先生がまとめていらっしゃるので、引用します。

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唐初の「民」の避諱規定の推移を略説しておこう。「民」のあつかいは三転した(「関連事項年表」参看)〔略す(引用者)〕。「唐初不避二名」(南宋・陸游『老学庵筆記』巻十)といわれるように、じつは太宗在世中をふくめ早い時期には「世民」と連続するばあいのみ避け、「世」「民」単字は避けなかった。各単字を避けるようになったのは、高宗朝の顕慶二年(六五七)十二月からである。これが一転。その後、武周が成立した天授元年(六九〇)から「民」など唐諱を避けなくなる(注)。これが二転。しかし神龍元年(七〇五)に中宗が復位し国号が唐に復せられると「民」単字を避ける規定も復活する。これが三転。以後、唐末にいたる。

(注)武周下で唐諱が避けられなかったことはほぼ確実であるが、それが六九〇年から始まったか、いまひとつ明確ではない。六九〇年はおおよその数字と諒解されたい。
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『万葉集研究』【第35集】(塙書房 2014年10月発行)所収
『日本書紀』と唐の文章

なお、この論文には万葉集に関する言及は一切ない、と思う。

2015年4月16日木曜日

『難経集注』三十難 校勘

丁徳用注:衛者衛訣之義也
『医家千字文註』3~4句目
「陽営陰衛、右強左聡」の引用する『八十一難経』は
「衛者衛護之義也」に作る。

楊(玄操)注:營行作榮
『医家千字文註』「營亦作榮」。

こちらの方が、わかりやすい。

参照:
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ya09/ya09_00890/index.html
=⇒
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ya09/ya09_00890/
1ウラ

http://hari9.net/koten.html
=⇒鍼灸古典=⇒難経集注(一難~八十一難) 127頁

2015年4月2日木曜日

『霊枢講義』五閲五使

〈蔣示吉〉『望色啓微』云、人將死、則鼻柱曲縮、故孔則張大上向、又云、周禮疾醫、以五色五氣、眡其死生、兩之以九竅之變、其斯之謂乎、又云、顴赤、神將去也、又云、土邪乘干、故色黒黄色現顴顏、腎水將絶、反乘心火也、
〈桂山先生〉曰、〈蔣氏〉以黄帝之黄字、接上句釋之、誤、

 ※渋江抽斎の引用する『望色啓微』には、誤脱、句読の誤りがある。
『望色啓微』巻三・望官主病法(五閲五使篇)は「顴赤色、神將去也」。「(腎……病則)土邪來干故色。黒黄……」(土邪來たりて故色(もとの色=黒)を干(おか)す。黒黄、顴顏に現はるるは、……)

多紀先生のいうことは、
 ※蒋示吉『望色啓微』巻三・望官主病法(五閲五使篇)の引用文は、「腎病者、顴與顏黒黄」となっている。本来「腎病者、顴與顏黒。黄帝曰:……」と切らなければならない、という意味である。
※なお、つづく文は「帝曰」ではなく、「黄帝曰」となっている。「黄」が一字多いことになる。

※『周禮』天官冢宰・疾醫:「以五味五穀五藥養其病。以五氣五聲五色眡其死生。兩之以九竅之變、參之以九藏之動〔五味・五穀・五藥を以て其の病を養う。五氣・五聲・五色を以て其の死生を眡(み)る。之を兩するに九竅の變を以てし、之を參するに九藏の動を以てす〕。」本田二郎『周禮通釋』「五味・五穀・五藥でもって疾病を療養する。先ず第一に五氣・五聲・五色を以て病人の病勢を觀察し、治癒の希望があるかどうかを測知する。第二には九竅の開閉が正常かどうかを觀察する必要があるし、第三には脈を診(み)て九藏の活動の狀況を測知して、病狀を斷定する。」

2015年4月1日水曜日

『四庫全書』画像

医書
http://ourartnet.com/Siku_03/0733.htm
書名をクリックする。

版心に丁数がないので,実際の『四庫全書』ではなく,数百万円で売られていた(今も売られている?),一字検索できるデータの画像のようです。

大元は,
http://ourartnet.com/index.htm

たぶん,『四庫全書』全部の画像があるのでしょう。