2015年4月28日火曜日

張效霞

山東中医薬大学の先生。中国医学史が専門。
該博な知識にもとづき,中国医学の公式見解に異議を唱えている。

たとえば,中国医学は科学ではない,と自信を持って言っている。
なぜなら,中国古代には真の意味での「科学」は存在しなかったし,そもそも医学は本当の意味での「科学」ではないのだ。したがって,中医学が「科学」でないのは当然ではないか,と。

中医学を制約する最大の桎梏は,中医学を「科学」とみなし,それによって「科学」の観念から伝統的な中医学を解釈・改造していることだ。それによって,中医の理論は邪魔され,ねじ曲げられ,去勢され,排斥されている。

中医学は科学ではないのだから,中医学に対して「現代科学の視点から見れば,巫術のようなもので,最大の偽科学だ」などというのは,まったくのお門違いだ。

また,よくいわれているのに,「中医理論は臨床実践をまとめて導き出されたものだ」というのがあるが,これもよくよく検討してみる必要がある。
穴と経絡について,昔は「点から線へ」と臨床実践にもとづき経絡は発見されたと解釈されていたが,穴に関する記述のない『馬王堆』帛書の発見で,びんたを食らった。

臓腑開竅理論にしても,長期の臨床観察から解釈されたものだというが,『内経』の中でも,口が心にむすびつけられたり,脾にむすびつけられたり,当時でさえ異説があったが,これも五行説が臓腑理論に入って,帰納されたひとつの見方にすぎない。

ニュートンの万有引力の法則,アインシュタインの相対性理論にしても,理論が先で,それが実験や観測によって,あとから裏付けられたのではないか。

中医理論は,経験の直接的な結晶なのか?「理論は実践にもとづく」というのは,みんながはまっている落とし穴なのではないか?

以上,「口に開竅するのは,心なのか脾なのか」,その理由はなにか,と『甲乙経』の読者から聞かれたのを機に,以前読んだ本を読み返した。

2 件のコメント:

  1. 「中国医学は科学ではない」と自信を持って言うのなら,どうして「現代科学の視点から見れば,巫術のようなもので,最大の偽科学だ」と言われるのを,「まったくのお門違いだ」などと反発するのだろう。開き直って,「貴方方から見れば,まさしく巫術です」と言えば良いのに。

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  2. 現代科学から見て,古代科学を偽科学と決めつけ,自分こそ真実の科学であると嘯く。古代科学は,巫術に過ぎない,と。
    中医学は,現代科学と,偽科学と貶められる古代科学を,うって一つとなして否定し,われわれは「科学ではない」と開き直る,……ということか?。
    では,いったい何なのか。昨日できなかったことが今日「学んで」明日はできるようになる。そうでなかったら,中医「学」とはいわれまい。無論,実は中医「術」でもかまわない。しかし,それにだって修行は要るだろう。その道筋を科学と呼ばれるのがいやだったら,何と呼ばれたいんだろう。
    そもそも,科学ではない!という人は,巫術をどう評価するんだろう。単なるこじつけは,やはり阿呆だ。「だって,そういうことになってるんだもの……。」
    口に脾と心が開竅する。五蔵なのに,視覚、聴覚、嗅覚、味覚では一つ足りない。だからでっちあげたに過ぎないのと違うか。甘いか酸いかと,いま口中に在るのは牡丹餅なのか梅干なのかと。でっちあげてから今日までに,それを価値ある理屈に仕立て上げた努力を,「科学」と呼ばれて,何んで気にくわないだろう。
    五蔵に相応しく五つを配当した誰か知恵者を,ただ盲目的に信じることが,科学以外のより崇高なもの,などとは思わない。

    故宮博物院の司書に,『太素』の専家にして針医と紹介されて,彼女から「厲害!」といわれた。一応,感心されたんだろうけど,西洋医にむかって「厲害」(スッゴイ)とはいわんだろう。つまり,廟の巫に対するのと,同様な性格の評価をいただいたんだろう,と思う。喜ぶべきことなのか。
    わたしは苦笑する。

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