2015年4月21日火曜日

唐の太宗に避諱について

池田昌広先生がまとめていらっしゃるので、引用します。

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唐初の「民」の避諱規定の推移を略説しておこう。「民」のあつかいは三転した(「関連事項年表」参看)〔略す(引用者)〕。「唐初不避二名」(南宋・陸游『老学庵筆記』巻十)といわれるように、じつは太宗在世中をふくめ早い時期には「世民」と連続するばあいのみ避け、「世」「民」単字は避けなかった。各単字を避けるようになったのは、高宗朝の顕慶二年(六五七)十二月からである。これが一転。その後、武周が成立した天授元年(六九〇)から「民」など唐諱を避けなくなる(注)。これが二転。しかし神龍元年(七〇五)に中宗が復位し国号が唐に復せられると「民」単字を避ける規定も復活する。これが三転。以後、唐末にいたる。

(注)武周下で唐諱が避けられなかったことはほぼ確実であるが、それが六九〇年から始まったか、いまひとつ明確ではない。六九〇年はおおよその数字と諒解されたい。
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『万葉集研究』【第35集】(塙書房 2014年10月発行)所収
『日本書紀』と唐の文章

なお、この論文には万葉集に関する言及は一切ない、と思う。

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