2015年12月31日木曜日

拾いました

http://www.guoxuedashi.com/

これで例えば「米」を検索すると

http://www.guoxuedashi.com/zidian/7C73.html

表のページから飛ぶと、諸本の記述がみられるようです。

2015年11月25日水曜日

『漢方の臨床』11月号

『経穴彙解』にみられる「奇穴」について……
という論文が掲載されている。
たぶん,使った『経穴彙解』の刷りが悪いのであろう。
『醫學綱目』の省略表記が「醫網」に見えたり,「木腎」という病名が「水腎」と読めたり,意味からして「傳」であるはずが「傅」に翻字されていたり,「甚良。蓋是奪命穴也」とあるべきなのが,句点がなく,「甚良蓋之奪命穴也」となっていたりする。
翻字するに際して,意味が考慮の外にあるようだ。
『東医宝鑑』も立派な二種類を使っているのだから,『経穴彙解』も念を入れて,『鍼灸医学典籍大系』本も参照したら,もう少し正しく文字が入力できたのではないか,と思う。残念。

さて,この論文,漢字の選択が意味不明です。旧字と常用漢字が意図的と思えるほど,混在している。
場所によって「醫學」とあったり「医学」とあったり,「經」だったり「経」だったりする。
ひいき目に見ても,原文に近いかたちの漢字を選んだとも,思えない。

『漢方の臨床』の投稿規定には,文字遣いについての規定がない。
そのゆるさが,いいところなのかも知れませんが,読みやすさの面からも,検討してほしいと思います。
編集長殿。

2015年11月7日土曜日

『内経』なんて読まなくたっていいのだけれど,

読んでみるのもいい。

2015/11/07 シンガポール・Shangri-Laホテル「習馬會」 台灣總統馬英九講話 締めのことば:

北宋大儒張橫渠主張「為天地立心,為生民立命,為往聖繼絕學,為萬世開太平」。習先生,為了兩岸人民,讓我們一起努力,為生民立命,為萬世開太平,為中華民族開創更和平燦爛的未來。

日本内経医学会が「絕學を繼いでいる」のは,萬世の為に太平を開かんとするためである(のかもしれない)。

2015年11月5日木曜日

WEB支那漢 - 支那文を読む為の漢字典

青蛙亭漢語塾というWebサイトで公開されていたのですが,この塾自体が現在つながらないので,見ることができなくなりました。
一時的なものであれば,と願ってはおりますが……
中華民国の「重編国語辞典修訂本」も昨日からアクセスできず。

2015年11月2日月曜日

『漢典』異変?

『漢典』という,すごい古漢語辞典があります。
http://www.zdic.net/
これを毎日のように使わせていただいているのですが,
先月(2015年10月)になって,「異変」に気づきました。
台湾の国語辞典
http://dict.revised.moe.edu.tw/index.html
の語釈がそのまま貼り付けられてあるページが増えてきました。
もともと『漢典』にあった語釈の出どころは,『漢語大詞典』であったのではないかと思います。
それが,両書併記であれば,まことにありがたい増補ですが,
以前に掲載されていた『漢語大詞典』の解釈と用例の部分が削除されてしまったのでは,と危惧しています。
今後,この方向にどんどん進んでいくとすると,まことに残念です。
これからどうなるかは分かりませんが,現時点としての感想として記しておきます(2015年11月2日)。
*********************
2015年11月3日,「高氣」を引いて,以下の様な『漢典』の文にいきあたりました。
因版权限制,未能显示《汉语大词典》条目内容,请至以下各百科网站搜索该条目。
在百度百科中搜索“高气”
在好搜百科中搜索“高气”
在互动百科中搜索“高气”

2015年10月31日土曜日

『全訳 漢辞海』第三版 アプリ

http://www.monokakido.jp/

http://www.monokakido.jp/iphone/kanjikai.html

http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2015/10/1125-30001400-8.html

2015年10月28日水曜日

大韓韓医学原典学会国際学術大会

皆さんが伝統鍼灸で忙しくしている間に,韓国へ行ってきました。大韓韓医学原典学会国際学術大会というのが有って,それに参加する為です。最初に打診が有ったのは名指しだったけど,遅れて旧知からは実は日本内経医学会から参加をという話だったようです。でも,伝統鍼灸が有るし,期日が迫っているしということで,乗りかかった船で,わたしが行ってきました。というのは過去に二度参加してます。一度目は仁和寺本『太素』の日本的な誤りについて,二度目は『太素』の巻二十一と二十七の翻字について話してきたはずです。今回も,他に急に話せることも無いので,結局は『太素』の,その後に気づいた不可解な楊上善注についての話をまとめました。

今回はソウルに昼頃につくなり,中国からの発表者らと一緒に,スタッフの運転するワゴン車に乗せられて,全州まで移動。初めは二時間くらいと言われたはずだけど,実際に全州のホテルに着いたのは6時ころ。いや,むかしむかし最初の学術交流で天津を訪れたときの体験を思い出しました。
着くとすぐ旧知のメンバーなど何人かが加わって早速に酒宴です。マッコリ、焼酎、ビール,そして焼酎のビール割り(これが以外といけた)。
実は韓国ではまもなく『太素』の韓国語訳が出版される予定で,その代表者のうち二人(白祐相・丁彰炫)が旧知の,原典学会の主要メンバーなんで,まあ相も変わらぬ『太素』の落穂拾いでもいいかと思ったわけ。
次の日,開幕式に先だっての昼食の席に,前に参加したときに通訳してくれた女性(金恩瑕)が現れました。厄介なわたしの発表の打ち合わせのためだと思ったら,現在の会長だそうです。快活で剛胆で聡明で,しかも「まさかそこまで偉くなっているとは思わなかった」と冗談をいうと,「昔から偉かったわよ」と呵々と笑うといったユーモアも有る。でも,初めての女性の会長だと胸を張っていました。考えてみれば,会長にはなるべくしてなったオモニです。
国際学術大会といっても,今回は日本からのわたしと,中国遼寧からと天津からのそれぞれ一人づつでした。大会の主要テーマは温病だったようですが,遼寧からの鞠宝兆さんは和法,天津からの金軍さん(はじめて行ったときに世話になった中国籍の朝鮮族,少なくとも中国語と韓国語と日本語を流暢に話す)は瀉血のはなしで,特に制限は設けて無かったようです。
全体の印象は(韓国語が分からないから不確かだけど)実用的な発表が多かったようです。と言っても,治験発表というわけじゃない。臨床を指導する為に原典を研究する,その間の距離が短い。先ず校勘訓詁に手間、暇をかけるというような気分は薄いのではないか。だから,来春予定している南京とは大違いです。
その中に,朝鮮通信使の医学筆談について話した女性がいました。よくはわからないけれど,出来のいい発表として表彰されたんじゃないかと思う。食事のときに(中国語と日本語で)話したら,『太素』の翻訳にも加わっているそうです。それで,「わたしたちのほうが良い写真を持っているんだから絶対に負けないよ」とからかったら,くやしそうな顔をしていた。そういう意味でちょっとかわいい人でした。
かわいい人は内経にもいくらもいるけれど,彼ら彼女らは韓国語と英語は勿論,中国語も日本語も大なり小なり話す。ところが,『太素』の韓国語訳が成っても,我々の仲間内にはそれを読んで批評できる人はいないのではないか。前回も前々回も同じような感想だったけど,何も変わってないねえ。

もし,韓国語は読める,読めるから読んで見たい,という会員がいたら,資料は提供します。

2015年10月18日日曜日

『素問』の刊行で有名な顧從德

http://www.sealbank.net/m2MainFind.asp?LM=2&L1=2&L2=2&L3=0&LS=C&SRCHTXT=O2002&SK=MV

從德の生没年は,はっきりしないようですが,

弟も有名だったようです。

http://www.43577.com/show/1741429.shtml
顧從禮

http://tc.cccik.com/library8100shtml30422102761212.html
顧從義 (1523-1588)
『四庫全書』にも著録される。 

2015年10月14日水曜日

秦越人還虢太子結脈

『後漢書』文苑列傳第七十下/趙壹:秦越人還虢太子結脈,世著其神。
これによれば,後漢のひとは,虢の太子が尸蹷(仮死状態)になったのは,「結脈」が原因で,秦越人はそれを「還した」と認識したようです。

2015年9月27日日曜日

『霊枢』経水(の注釈)に対する渋江抽斎のコメント

『霊枢』経水(12)は,天人相関思想にもとづいて,大陸を流れる河川と,ひとのからだを流れる経脈との相関関係を論じています。
それで,楊上善・馬玄台・張介賓・張志聡などは,それぞれの河川がなぜ特定の経脈と対応関係にあるかを『水経注』などをもちいて論証しています。
渋江抽斎(全善)『霊枢講義』は,ひととおりかれらの注を引用したあと,つぎのように述べています。
〈善〉竊謂、以地之十二水、合人之十二經、固荒宕乖違、其義迂闊、雖經文所載、概讀而可耳、而注家一一以理推究、悉出臆揣、今姑存大略焉、夫恣誇己意不曾顧他者、西土人之常也、故妄以人身之經絡、強合其國之水脉、則天下各國之人亦可以各國之水脉合之乎、譬猶以天之二十八宿強配己國之分野、則舉天下諸國、可以何星配之乎、決無其理、可不待言而知矣、西土人之自古至今、褊見執強、自負忘他、不堪一笑者、比比而存、豈特此乎、
(私見を言えば,大地を流れる十二の河川を人体を流れる十二経脈と合致させることは,当然のことながら荒唐無稽であり,その意味も実態に即したものではない。経文に掲載されているとはいうものの,ざっと読んでおけばよい。ところが注釈者たちは一々理論的に追求している。みな臆測から出たものではあるが,いま暫定的にあらまし残しておく。そもそも好き勝手に自分の意見を自慢して一向に他者を顧慮しないのは,日本から見て西方にある大陸人の常態である。そのため無分別に人体の経絡を無理に自国の水脈に当てはめている。そうであれば,世界各国のひともそれぞれ自国の水脈に当てはめてもよいではないか。たとえば,天の星座である二十八宿を無理やり自国の地域に配分するとすれば,全世界の国々はどの星に配置すればいいことになるのだろうか。全く理屈が成り立たないことは,わざわざ言わなくとも分かりきったことである。西方に住むひとたちは,昔から今に至るまで,見識が狭くてそれに固執し,自慢ばかりで他者の存在を忘れている。一笑に付すにも値しない取るに足りないことがしばしば存在する。単にここだけに留まる話ではない。)

なお,渋江全善は,「臆揣」を正確には「肊揣」と書いています。
『説文解字』に「胷骨也。从肉乙聲。臆,肊或从意」とあって,「臆」字が見出し字になっていないから,「臆」ではなく「肊」を選択したのかも知れません。
また「褊見」は,いま通常もちいている「偏見」と同じ意味です。『説文解字』偏には「頗也」としかなく,「せまい・ちいさい」という意味が書いてありません。それでそういう意味を表わす,ほとんど使われない「褊」字をもちいたのでしょう(『説文』褊「衣小也」。『説文解字注』褊「衣小也。引伸爲凡小之偁」)。
これらを見ると,渋江全善はいわゆる清朝考証学の後継者といえそうです。
ただ,上文であげた「不曾顧他者」の「顧」を実際は「頋」字のように書いています。
この字は『説文』にはなく,『康煕字典』『大漢和辞典』には「『玉篇』俗顧字」とあります(「顧」は『説文』にあり)。
なお,渋江氏には「顧」より画数の少ないこの字にこだわりがあったわけではなく,他の箇所では「顧」ももちいています。
ちなみに「顧」の簡体字は「顾」です。

2015年9月21日月曜日

手書きの略字体で思い出したこと

国会図書館に,多紀元簡の『病名纂』があります。
文字が薄くなって消滅寸前でしたが,デジタルライブラリーに写真が掲載されました。
拡大すれば,なんとか判読できそうです。
これでは,「門」は「门」に近く書いてあり,「草」は「艸」を省略して「屮」と書いてあります。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536639

また,江戸時代の地図は,小さい字を書くために,画数の少ない字を使用することが多いです。
たとえば,東京都中央区に,霊巌寺に由来する霊巌島という地名がありました。
そこにかかる橋,霊巌橋は立之が『素問攷注』で用いたのと同じ「灵」を使って,「灵岸橋」と表記されていることが多いです。
もちろん「霊」字で書かれていることもありますが。これとて,「靈」の略字でしょう。
http://d.hatena.ne.jp/tokaidorekisi/20131024/1382603814

有と在

神麹斎先生は以前,『太素』での和習(和臭/倭臭/どれが正しいとか訊かないでください)=日本人が書いた漢文のあやまり/写し誤りの一つとして「有」と「在」を論じられました。
正格漢文では,「在」でなければならないところを,『太素』では「有」となっていると。
しかし,その後『鍼灸甲乙経』にも同じ問題があることを発見された。
また,未刊行の,鍼灸古典聚珍『新校正 黃帝三部針灸甲乙経』(おそらく黄龍祥による)でも,そういう誤りが見られるとして,日本人特有の問題ではないという認識にいたったようです。
http://chayu-jiuhou.blogspot.jp/
2015年8月14日 星期五。

参考までに,同様の「有」と「在」について,次の例を挙げておきます。

沈約の『宋書』謝靈運傳:
有晉中興(晋の中興にアリテ/西晋が滅んで,江南の地に東晋が興ると),玄風獨振,為學窮於柱下,博物止乎七篇,馳騁文辭,義單乎此。

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko11/bunko11_d0272/bunko11_d0272_0011/bunko11_d0272_0011.pdf
の65コマ左6行目(頭部に「『文選』左作右」とあるところの行)。
・ちなみに「江右:古代指長江下游以西的地區。東晉以後,稱西晉和北朝魏、齊、周統治下的地區為江右 。與“江左”相對而言」。

この冒頭の「有」ですが,『文選』卷50・沈休文(=沈約)宋書謝靈運傳論では「在」になっています。

六臣注本
http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=79276&page=34
4行目。

李善注本
http://ctext.org/library.pl?if=gb&file=94387&page=111
7行目。

2015年9月20日日曜日

規範意識

 以下,むだばなし。

はじめのよねやさんの問題提起にもどりますと,「板」と「版」とどちらが正しいかという発想自体が現代的なもので(あるいは原物・影印本を見る機会が少ないことに由来するのかも知れない),おおざっぱにいえば,むかしのひとには,どちらが正しい,どちからに統一しようというようなことを考えて,それを厳格に守ろうという意識はほとんどなかったと思います。特に原稿の段階では。
(戦前の作家も,略字を使って文章を書いていたと思う。編集者や植字工がそれに対応する正字?に代えたのだと思う。/個人的には,自分が「オナジ」を,「同じ」と漢字で書いたり,「おなじ」とひらがな書きしたり,時々で変わり,一定していないのと同レベルの事柄と,「板・版」に対しては,考えている。)

もちろん,これ(板・版問題)を追求して,大発見があるかも知れないので,よねやさんには研究をつづけてもらいたいです。

呉崑の『シン方六集』のシン字は,鍼と針の両方が混在しています。
序文などでは,意図的に本文とは異なる同意語・字を用いることがあります。たとえば,腧・兪・輸など。
証(證)と症を異なる概念と定義づけたのは,近代の漢方家で,西洋医学との対比のために苦し紛れ?に考え出したことで,版本の世界では,区別して使っているような例を寡聞にして知りません。

突飛な例かも知れませんが,伊藤博文の幼名は,利助で,その後,俊輔(吉田松陰によるという)・春輔と改め,号は春畝というそうです。「りすけ」と「しゅんぽ」では関連性は見いだせませんが,「としすけ」という読みを介在させれば,「利助」と「俊輔」でつながります。さらに「しゅんぽ」を異字で書き表わしています。これって,漢字にこだわりがあったから,いろいろ代えたのでしょうか,それともこだわりがなかったからでしょうか?

伊藤の例に限らず,江戸時代の古文書をみると,同一人物を別の漢字で表記されていることが少なくありません。多くは本人が書いたものではなく,名主などが「一筆啓上」しているので,そういうことになるのかも知れませんが,ともかく,漢字を厳格に使用しようという意識は,名前に限らず乏しかったといえると思います。

同意語を別の漢字で表記するのは,日本の古文書の通例であり,江戸時代のひとは,「よろしく」を「宜敷」が正しいか,「宜舗」が正しいかとか訊かれても,困ったと思います。
「幸せ」と書いたら,「仕合せ」と書くんだとなおしたかも知れませんが。

いささか脱線いたしました。あいすみません。

2015年9月18日金曜日

旁光

わたくしの認識では、(『淮南子』説林訓のように)「旁光」という用例があるからこそ、立之は「膀胱」を省画して書いたということです。
例として適切ではないというご指摘でしたら、次のものにかえましょう。

上古天真論(7a)の頭注。翻字本では、

案。所云「内經」今『素』『靈』。

としましたが、より稿本に近づけて表記すると、

案。所云「内経」今『素』『灵』。

となります。
『康煕字典』灵には「《正字通》俗靈字」
とあります。

同じ上古天真論(7a)、翻字は

案。「岐伯」蓋岐是國名。

としましたが、立之は「蓋」を実際には「盖」と書いています。
これも『康煕字典』盖には「《正字通》俗蓋字」
とあります。

これらから、清朝考証学云々と、立之が意識したということではなく、草稿だから、書く手間が少ない、灵・経・盖という字体で書いたと理解しています。その延長線上に「旁光」があると考えたということです。もちろん、神麹斎さんが例として示したところは、『淮南子』なのですから、「膀胱」としてはいけないところです。


※蛇足:当時のパソコンの環境では「灵」字が使えないので、外字作成の手抜きをするために「靈」にかえた、というわけではありません。「靈」ではなく「灵」で表記する必要性を感じなかったため、というか、今もそうかも知れませんが、「靈」は読めても「灵」は知らないひとが多いのでは、と危惧したからです。第一、立之が使い分けているとは、考えられませんでした。翻字本で「灵」字を使ったら、かえって著者の意向に背くことになったのではないでしょうか。
「盖・葢」も「蓋」に統一したのも、そういう意識によるものです。

2015年9月16日水曜日

雨水分流

鉄斎流「按腹獨稽古」を読んで考えた(1/X) (2/X)
の筆者は,「臨床実践鍼灸流儀書集成第8冊」(オリエント出版社)所収の<雨水分流> は,浪華一愚子(1793)「按腹獨稽古」からの写したものだと推測している。
http://zhenjiu.hatenablog.com/entry/2014/06/17/170437
http://zhenjiu.hatenablog.com/entry/2015/03/14/195609

*「按腹伝」内海辰之進(1791)
*「按腹獨稽古」浪華一愚子(1793)

★「按腹伝」(1791)の根拠未詳。「按腹獨稽古」も未見のため,(1793)も確かめられず。

一方,加納覚先生の調査によれば,〔雨水分流〕は,内海辰之進『按腹伝』の一部を写したものである(一部に,回数,右と左など文字の異同あり,不自然な形で写本は終わっている)。

・「按腹獨稽古」=「按腹傳」

拝見したところ,内海辰之進『按腹傳』は,寛政12年(=1800)刊。序文はその前年1799年であった。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/kichosearch/src/fuji59.html

以前に,加納覚先生の
浪華軒一愚子『(百病皆治)按摩独稽古』一冊(寛政5年刊) =宮脇仲策『導引口訣鈔』
という調査結果をこの談話室に書いた。

ということは,『按腹獨稽古』もパクリ本である可能性が考えられる。しかし,(1793)が正しいのなら,こちらの方が早いことになる。待考。

いずれにせよ,〔雨水分流〕は,鍼灸の流儀書ではなかった。

なお,『鍼灸按摩史論考: 長尾栄一教授退官記念論文集』をお持ちの方は,『按腹伝』に関する記事を補足していただければ,さいわいです。

2015年9月14日月曜日

「板」と「版」

懲りずに質問します。

現在、岩井氏著『素問疏証』を校正しております。その中で気づいたことなのですが、

『素問攷注』巻一冒頭(ガクエン出版ではP2lL2、オリエントではP5L9双行注)では、出版年代を表す「宋バン」「明バン」などの「バン」として、「板」(該当部分では「元板」)が使われています。しかし現代では「版」を使っているように思えます。

当時の用法としてどちらが正しいかは追求しえないと思います。しかし現代の版本学の用法としては「版」のみが正しいのか、「板」こそが正しいのか、どちらでもよいのか。はたまた「バン」を使うのは間違いで「刊」を使うべきなのか

岩井先生にもメールしましたが、当然お返事がありませんでした。皆様にお教えいただければ幸いです。よろしくお願いいたします

ヨネヤ

2015年9月11日金曜日

『太素経』

宋・張杲『醫説』卷九 養生修養調攝に
摩面:「太素經曰:一面之上、兩手常摩拭使熱、令人光澤、皺斑不生、先摩切兩掌令熱、以拭兩目、又順手摩髮理櫛之狀、兩臂更互以手摩之、髮不白、脈不浮外」。
http://www.theqi.com/cmed/oldbook/book197/b197_41.html
とあります。
これは、楊上善の『太素』のことでしょうか?

2015年9月1日火曜日

はるばる遠くへ来たもんだ

『内経』が,今年の秋号で200号になるのを記念して,会員諸氏から会との関わりについて書いてもらおう,となったらしい。「これは全員に強制的に書いてもらいましょう」だけど,はたしてどれくらい集まったんだろう。たしか,昨日が締め切りのはず。「多少の余裕はあります」だそうだけど。


記事が少なくとも,会員が少ない,ということではありません。たぶん。



2015年8月18日火曜日

入会しました。

はじめまして。宇都宮の富田といいます。

どうぞよろしくお願い致します

2015年8月10日月曜日

談話室なんて

なぜ当時の言い方で掲示板としなかったのか,なぜ現在のシステムどおりBLOGと呼ばないで,「談話室」などと言っているのか。まさしく,談論風発を期待しているからです。最初は全くオープンでした。でも,迷惑な,たぶん卑猥なところに通じる書き込みを防ぎようが無い。そこで,googleのBLOGを利用して,登録したものでなければ書き込めなくした。いささか敷居は高くなった。で,他の人の書き込みには,なるべくコメントしようとしたけれど,最近は怠惰になって,放置することが多くなった。(今回だって,早く気づいて,『素問紹識』にもいろいろ有るよ,と言えばそれでお仕舞いだった。それにしても,疏証とは穿鑿ということじゃないのかね。どんな『素問紹識』を見ているかくらいは,調べるべきだ!と指導している講座じゃ無いのか。『素問紹識』に無ければ,『素問識』あるいは『素問攷注』の間違いじゃないか,ひょっとして『素問講義』かも,まではよかった。おしい。)
楽をしたいと思って,ここに質問を投稿する。我が意を得たりです。それに対して,質問の仕方がなってないと小言をいう。これも,投稿者にはつらいところだろうが,まあ妥当な(あるいは,望ましい)応答だろう。『素問疏証』なんて知らない,というような書き込みをしちゃったのは,なんとも軽率だったけど,まあお笑いぐさで。最初のコメントをした直後に,あれ,ひょっとしたらと『季刊内経』を開いて確認はしている。で,次のコメントからは,わかっているようなわかってないような妙なものになった。まあ,照れ隠しでもある。ただ,それを咎められるほどの格式有る談話室ではない,とも思っている。
楽をしたいと思って,ここに質問を投稿する。咎めることはない。その質問が要領を得ないという辛口のコメントも,咎めることはない。しょうこりもなくまた不用意な質問をする。大いに奨励されるべきだ。
きちんとした発表だけというなら,『季刊内経』に投稿すればいい。事務局からの連絡をというのなら,全会員を対象にしてメーリングリストでも利用した方が確実だろう。談話室は,失言して,頭をコツンとやられて,照れ笑いをするところでいい。

2015年8月5日水曜日

質問というより

ちょっと楽をさせていただきたく投稿します

今、『素問疏証』の校正中なのです。その中で、

>『素問紹識』にいう
>『太平御覧』に此の一弾を挙げ、併せて注語の有るに…

とあったのですが、僕の手許の『素問紹識』にありません。『素問識』『素問攷注』にもありませんでした。
もしかしたら喜多村チョッカンの『素問講義』にないかともおもいましたが、手許にないのでお手上げです。

『素問』四気調神大論第二の、夏三月の蕃秀という言葉についての箇所です

鶯谷は遠いのでお助けください。

migu

2015年7月22日水曜日

鍼灸の辨証論治

鍼灸を学ぶ外国人学生の質問:
鍼灸治療学の授業では、先生は論理的に筋道立って説明しますが、鍼灸の臨床の実際では、辨症論治を使うことが少ないのは、なぜですか?

李鼎教授:鍼灸そのものの特徴によるのです。われわれは鍼灸臨床の規範を簡単に方薬のようにはできないのです。
李恒先生:鍼灸臨床上、辨症論治が核心でないとしたら、それに取って代わるものは、なんですか?
李鼎教授:鍼灸はすべて外治法に属します。内治法である方薬とはまったく異なります。鍼灸で辨症論治を講ずるのは、経絡臓腑・寒熱虚実の各証を辨ずることに重きがあります。鍼灸治療をおこなうにあたっては、気を調え、神を治するによってはじめて鍼灸治療の総則とします。

2015年5月28日木曜日

販売書籍の更新

先日、在庫の書籍を整理いたしまして、ようやく図書販売の案内の更新ができました。
希少本もありますので、お早めにお買い求めください。
購入希望やお問い合わせは事務局

2015年5月10日日曜日

小阪 修平『そうだったのか現代思想-ニーチェからフーコーまで』

47頁:みなさん,近代科学というのは複雑な考えかただと思っていらっしゃる方もいるかもしれませんが,じつは単純な考えかたなんです。よぶんなことをいっさい度外視してかんがえる。十九世紀というのは,近代科学でわかることだけが正しいとかんがえられてきたんです。でもじつは,近代科学でわかるというのは,あらかじめわかりにくいものを度外視して,近代科学のやりかたでわかるものだけをわかるとかんがえたやりかたなんですね。

390頁:これは新聞でこのあいだ読んだんですが,こういうことはみなさんはどう思われます?今(九〇年代半ば),針灸の学会で,針灸の一般的なマニュアルをつくろうという試みがあるらしいんです。西洋医学と針灸の東洋医学が協力してつくるんですが,マニュアルをつくって治療のスタンダードをつくるというのは,近代的な発想ですね。昔だったら秘伝になるところです。これは悪い試みだと思われますか,いい試みだと思われますか。たとえば,針灸だけでなく伝統的な医学のよさというのは,一人一人の相手の経験とか体の微妙なバランスに対応して治療していくことのなかにあるのであって,一般的なマニュアルをつくれば,そういうのがなくなるとかんがえることもできます。

ぼくはサウナが好きでときどき行くんですが,そのあとごくたまにマッサージを受けるといつも腹が立つんですね。マニュアルがあってみんな同じようにするんです。ぼくはパッと相手を見た瞬間,だいたいどのへんが凝っているなあというのがわかります。このへんからモアーとした感じが漂っているとか,ぼくは技術自体はうまくないですが,そういうふうなのに反応してやる。そういうカンとか,トータルに言えば相手の食生活から悩んでいることまでいろいろ含めて,相手の人間を一つの全体としてかんがえていくのが伝統医学だと思います。そうすると,マニュアルをつくるのは悪いことか。

ぼくはマニュアルの使いかただと思います。いろんな経験によってわかるレベルがあって,ある程度の一般的な共通像をつくることができます。そうすると,ここがもんだいなんですが,必ずこの共通像からはじきだされてしまう,その人の個人的な特性なりいろんな雰囲気なりがあります。実際,ぼくがサウナに行ってマッサージを受けると,かなりレベルが低いんです。そういう人にとっては,こういうマニュアルは十分役に立つだろうと思います。ところが,マニュアルをつくることによって,ここからはじきだされてしまうものへの目配りというものがなくなってしまうと,このマニュアルというのはかえって悪影響をおよぼす。こういうことにも近代の特徴が表れていて,近代を批判することの難しさがあると思うのです。

2015年5月8日金曜日

『 銅人腧穴鍼灸圖經』序に出てくる「式」

『 銅人腧穴鍼灸圖經』序:「復令創鑄銅人爲式」。
また銅人を鋳造して,模範とさせた。
式:式樣(樣子、形狀)。範式。
模範:もとの意味は木製の模型。

『後漢書』馬援列傳:
援……乃鑄為馬式(李賢注:式,法也。)法:範式。
馬援は……そこで鋳造して「馬式」を製作した。

……孝武皇帝時,善相馬者東門京鑄作銅馬法獻之(注:東門,姓也;京,名也)。
……孝武皇帝(武帝)の時,善く馬を相する(鑑別する)者で東門京というひとが,鋳造して「銅馬法」を作り,献上した。

……有詔置於宣德殿下,以為名馬式焉。
……詔勅により宣德殿下にその模型を設置し,「名馬式」といった。

2015年5月5日火曜日

丸山先生を顕彰するつもりなら

この日本内経医学会のインターネットホームページへもどって,「沿革と出版物」へ入ると,
●『黄帝素問・黄帝鍼経の栞』『黄帝鍼経講』(丸山昌朗先生没後20年遺徳顕彰会編、日本内経医学会刊、1995年)?
というのが目に入ると思います。で「?」というのが何だかわかりませんが,他のものと対比させると,「絶版かも?」という意味になりそうです。そんなことはありません,少なくとも亜東書店の棚には並んでました。ひょっとすると最後の早い者勝ちかもしれないけれど,少なくとも2~3人は今なら入手できます。

遺徳の顕彰は,墓参りからでなく,遺著を読むことからはじめましょうよ。

2015年4月30日木曜日

李建民「中国明代の縫合手術」

近代ポーランドの医学史家Ludwik Fleck(1896-1961)によれば、医学という学問が自然科学の他の分野(物理学等)と大きく異なる点は、その体系化の困難さにある。医学的現象に対する合理的理解は結局のところ不可能である。Fleckは特に医学的現象における「非典型的」(atypical)な事例の存在に注意を促す。その種の事例は全体のうちに整合的に位置づけることができず、そのつど個別に対処するしかない。

中国医学の「例外」であった外科事例は、最後まで「科学」としての外科を生み出すことはなく、一つの技芸の域にとどまったのである。

中医手術は内科(方脈)とはその文化資源(cultural fund)を截然と異にする。後者〔念のため引用者注:内科〕においては、その技術や理論は、政治体制や主流の哲学思想と密接に結びついている。あたかも主流の哲学思想が自らを正統視するのと同様に、手術は内科史の正統から逸脱したものと看做される。

汪機の考えでは、「針」はただ不足の病(虚病)を治療しうるにすぎない。古の人は外より病を得たので針灸が用をなすが、今の人は内より病を得るので湯液を用いることが多い。また情志にかかわる病も「針では治療することができない」。汪氏によれば、当時の針医は脈診を重視しなかった―「脈を取り顔色を観察することは医の根本だが、今の針医は重視しない。そのため治療技術が古に及ばず、完治する者が十に一二もないのである」。汪機には他に『外科理例』(1537)の著があり、670例の病案を収集する。うち179例は針灸治療、残りはすべて湯薬治療である(李磊校注『針灸問対』、山西科学技術出版社、2012、p.1、p.43-45、p105等、および「汪機研究」、pp.315-357)。

内山直樹訳,千葉大学人文社会科学研究 no.28 page.278-294 (2014-03-30)
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/AA12170670/18834744_28_23.pdf

2015年4月28日火曜日

張效霞

山東中医薬大学の先生。中国医学史が専門。
該博な知識にもとづき,中国医学の公式見解に異議を唱えている。

たとえば,中国医学は科学ではない,と自信を持って言っている。
なぜなら,中国古代には真の意味での「科学」は存在しなかったし,そもそも医学は本当の意味での「科学」ではないのだ。したがって,中医学が「科学」でないのは当然ではないか,と。

中医学を制約する最大の桎梏は,中医学を「科学」とみなし,それによって「科学」の観念から伝統的な中医学を解釈・改造していることだ。それによって,中医の理論は邪魔され,ねじ曲げられ,去勢され,排斥されている。

中医学は科学ではないのだから,中医学に対して「現代科学の視点から見れば,巫術のようなもので,最大の偽科学だ」などというのは,まったくのお門違いだ。

また,よくいわれているのに,「中医理論は臨床実践をまとめて導き出されたものだ」というのがあるが,これもよくよく検討してみる必要がある。
穴と経絡について,昔は「点から線へ」と臨床実践にもとづき経絡は発見されたと解釈されていたが,穴に関する記述のない『馬王堆』帛書の発見で,びんたを食らった。

臓腑開竅理論にしても,長期の臨床観察から解釈されたものだというが,『内経』の中でも,口が心にむすびつけられたり,脾にむすびつけられたり,当時でさえ異説があったが,これも五行説が臓腑理論に入って,帰納されたひとつの見方にすぎない。

ニュートンの万有引力の法則,アインシュタインの相対性理論にしても,理論が先で,それが実験や観測によって,あとから裏付けられたのではないか。

中医理論は,経験の直接的な結晶なのか?「理論は実践にもとづく」というのは,みんながはまっている落とし穴なのではないか?

以上,「口に開竅するのは,心なのか脾なのか」,その理由はなにか,と『甲乙経』の読者から聞かれたのを機に,以前読んだ本を読み返した。

2015年4月21日火曜日

唐の太宗に避諱について

池田昌広先生がまとめていらっしゃるので、引用します。

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唐初の「民」の避諱規定の推移を略説しておこう。「民」のあつかいは三転した(「関連事項年表」参看)〔略す(引用者)〕。「唐初不避二名」(南宋・陸游『老学庵筆記』巻十)といわれるように、じつは太宗在世中をふくめ早い時期には「世民」と連続するばあいのみ避け、「世」「民」単字は避けなかった。各単字を避けるようになったのは、高宗朝の顕慶二年(六五七)十二月からである。これが一転。その後、武周が成立した天授元年(六九〇)から「民」など唐諱を避けなくなる(注)。これが二転。しかし神龍元年(七〇五)に中宗が復位し国号が唐に復せられると「民」単字を避ける規定も復活する。これが三転。以後、唐末にいたる。

(注)武周下で唐諱が避けられなかったことはほぼ確実であるが、それが六九〇年から始まったか、いまひとつ明確ではない。六九〇年はおおよその数字と諒解されたい。
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『万葉集研究』【第35集】(塙書房 2014年10月発行)所収
『日本書紀』と唐の文章

なお、この論文には万葉集に関する言及は一切ない、と思う。

2015年4月16日木曜日

『難経集注』三十難 校勘

丁徳用注:衛者衛訣之義也
『医家千字文註』3~4句目
「陽営陰衛、右強左聡」の引用する『八十一難経』は
「衛者衛護之義也」に作る。

楊(玄操)注:營行作榮
『医家千字文註』「營亦作榮」。

こちらの方が、わかりやすい。

参照:
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ya09/ya09_00890/index.html
=⇒
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ya09/ya09_00890/
1ウラ

http://hari9.net/koten.html
=⇒鍼灸古典=⇒難経集注(一難~八十一難) 127頁

2015年4月2日木曜日

『霊枢講義』五閲五使

〈蔣示吉〉『望色啓微』云、人將死、則鼻柱曲縮、故孔則張大上向、又云、周禮疾醫、以五色五氣、眡其死生、兩之以九竅之變、其斯之謂乎、又云、顴赤、神將去也、又云、土邪乘干、故色黒黄色現顴顏、腎水將絶、反乘心火也、
〈桂山先生〉曰、〈蔣氏〉以黄帝之黄字、接上句釋之、誤、

 ※渋江抽斎の引用する『望色啓微』には、誤脱、句読の誤りがある。
『望色啓微』巻三・望官主病法(五閲五使篇)は「顴赤色、神將去也」。「(腎……病則)土邪來干故色。黒黄……」(土邪來たりて故色(もとの色=黒)を干(おか)す。黒黄、顴顏に現はるるは、……)

多紀先生のいうことは、
 ※蒋示吉『望色啓微』巻三・望官主病法(五閲五使篇)の引用文は、「腎病者、顴與顏黒黄」となっている。本来「腎病者、顴與顏黒。黄帝曰:……」と切らなければならない、という意味である。
※なお、つづく文は「帝曰」ではなく、「黄帝曰」となっている。「黄」が一字多いことになる。

※『周禮』天官冢宰・疾醫:「以五味五穀五藥養其病。以五氣五聲五色眡其死生。兩之以九竅之變、參之以九藏之動〔五味・五穀・五藥を以て其の病を養う。五氣・五聲・五色を以て其の死生を眡(み)る。之を兩するに九竅の變を以てし、之を參するに九藏の動を以てす〕。」本田二郎『周禮通釋』「五味・五穀・五藥でもって疾病を療養する。先ず第一に五氣・五聲・五色を以て病人の病勢を觀察し、治癒の希望があるかどうかを測知する。第二には九竅の開閉が正常かどうかを觀察する必要があるし、第三には脈を診(み)て九藏の活動の狀況を測知して、病狀を斷定する。」

2015年4月1日水曜日

『四庫全書』画像

医書
http://ourartnet.com/Siku_03/0733.htm
書名をクリックする。

版心に丁数がないので,実際の『四庫全書』ではなく,数百万円で売られていた(今も売られている?),一字検索できるデータの画像のようです。

大元は,
http://ourartnet.com/index.htm

たぶん,『四庫全書』全部の画像があるのでしょう。

2015年3月9日月曜日

按摩独稽古

京大[富士川文庫] 浪華軒一愚子『(百病皆治)按摩独稽古』一冊(寛政5年刊)

加納覚先生が、コピーを取り寄せてみたところ、中身は宮脇仲策『導引口訣鈔』だったそうです。

とすると、浪華軒一愚子『導引秘伝指南鈔』一冊(寛政5年刊)も、なにかのパクリかも?

2015年2月19日木曜日

『中国針灸』2015年1月第35巻第1期91頁~93頁

成都老官山出土経穴髹漆人像初探
 梁繁栄・曾芳・周興蘭・感濤・盧引科・王毅・江章華
[摘要]2012年成都市金牛区天回鎮で出土した西漢〔前漢〕経穴髹漆人像〔漆塗り人形〕は、我が国で発見された、いままでで最もはやく、最も完全な経穴人体模型である。それには数十本の縦横に交錯する経絡線があり、さらにははっきり見える腧穴が百余りあり、陰刻された銘文が多数箇所にあって、重要な学術価値を有している。筆者は経絡腧穴の分布概況と特徴の両面から、老官山の経脈漆彫り〔(人形)〕を紹介し、あとにつづく研究のために参考になることを提供したい。
[キーワード]経絡・髹漆人像・成都老官山・西漢

○本文
1 前漢経穴漆塗り人形の経絡腧穴の分布概況
1.1 経絡の数と分布
1.2 腧穴の数と分布
1.3 銘文の内容
2 前漢経穴漆塗り人形の特徴初探
 (1)制作と保存
 (2)経脈の数  赤線22本、白線29本。
 (3)経脈の走行 3本が横に走る。
 (4)腧穴の数と分布 はっきりわかるのは119穴。

※高さ約14cmという小ささにおどろく。