2015年9月27日日曜日

『霊枢』経水(の注釈)に対する渋江抽斎のコメント

『霊枢』経水(12)は,天人相関思想にもとづいて,大陸を流れる河川と,ひとのからだを流れる経脈との相関関係を論じています。
それで,楊上善・馬玄台・張介賓・張志聡などは,それぞれの河川がなぜ特定の経脈と対応関係にあるかを『水経注』などをもちいて論証しています。
渋江抽斎(全善)『霊枢講義』は,ひととおりかれらの注を引用したあと,つぎのように述べています。
〈善〉竊謂、以地之十二水、合人之十二經、固荒宕乖違、其義迂闊、雖經文所載、概讀而可耳、而注家一一以理推究、悉出臆揣、今姑存大略焉、夫恣誇己意不曾顧他者、西土人之常也、故妄以人身之經絡、強合其國之水脉、則天下各國之人亦可以各國之水脉合之乎、譬猶以天之二十八宿強配己國之分野、則舉天下諸國、可以何星配之乎、決無其理、可不待言而知矣、西土人之自古至今、褊見執強、自負忘他、不堪一笑者、比比而存、豈特此乎、
(私見を言えば,大地を流れる十二の河川を人体を流れる十二経脈と合致させることは,当然のことながら荒唐無稽であり,その意味も実態に即したものではない。経文に掲載されているとはいうものの,ざっと読んでおけばよい。ところが注釈者たちは一々理論的に追求している。みな臆測から出たものではあるが,いま暫定的にあらまし残しておく。そもそも好き勝手に自分の意見を自慢して一向に他者を顧慮しないのは,日本から見て西方にある大陸人の常態である。そのため無分別に人体の経絡を無理に自国の水脈に当てはめている。そうであれば,世界各国のひともそれぞれ自国の水脈に当てはめてもよいではないか。たとえば,天の星座である二十八宿を無理やり自国の地域に配分するとすれば,全世界の国々はどの星に配置すればいいことになるのだろうか。全く理屈が成り立たないことは,わざわざ言わなくとも分かりきったことである。西方に住むひとたちは,昔から今に至るまで,見識が狭くてそれに固執し,自慢ばかりで他者の存在を忘れている。一笑に付すにも値しない取るに足りないことがしばしば存在する。単にここだけに留まる話ではない。)

なお,渋江全善は,「臆揣」を正確には「肊揣」と書いています。
『説文解字』に「胷骨也。从肉乙聲。臆,肊或从意」とあって,「臆」字が見出し字になっていないから,「臆」ではなく「肊」を選択したのかも知れません。
また「褊見」は,いま通常もちいている「偏見」と同じ意味です。『説文解字』偏には「頗也」としかなく,「せまい・ちいさい」という意味が書いてありません。それでそういう意味を表わす,ほとんど使われない「褊」字をもちいたのでしょう(『説文』褊「衣小也」。『説文解字注』褊「衣小也。引伸爲凡小之偁」)。
これらを見ると,渋江全善はいわゆる清朝考証学の後継者といえそうです。
ただ,上文であげた「不曾顧他者」の「顧」を実際は「頋」字のように書いています。
この字は『説文』にはなく,『康煕字典』『大漢和辞典』には「『玉篇』俗顧字」とあります(「顧」は『説文』にあり)。
なお,渋江氏には「顧」より画数の少ないこの字にこだわりがあったわけではなく,他の箇所では「顧」ももちいています。
ちなみに「顧」の簡体字は「顾」です。

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