2022年12月8日木曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その6

参考文献


[1]黄帝内经素问[M]. 明顾从德刊本影印本. 北京:人民卫生出版社,1956.

[2]程士德. 内经:第2版[M]. 北京人民卫生出版社,2006.

[3]许慎,等. 汉小学四种:下册:[M]. 成都:巴蜀书社,2001:1553.

[4]皇甫谧. 针灸甲乙经[M]. 周琦,校注,北京:中国医药科技出版社,2019(第2版).

[5]梁繁荣,王毅.揭秘敝昔遗书与漆人一一老官山汉墓医学文物文献初识[M]. 成都:四川科学技术出版社,2016.

[6]何任. 金匮要略校注[M]. 北京:人民卫生出版社,2013:166.

[7]李景荣,苏礼,任娟莉,等. 备急千金要方校释[M]. 北京:人民卫生出版社,2014:1069.

[8]张从正. 子和医集[M]. 邓铁涛,等编校. 北京:人民卫生出版社,1994:87.

[9]皇甫中. 明医指掌[M]. 北京:人民卫生出版社,1982:170.

[10]余云岫. 古代疾病名候疏义[M]. 北京:学苑出版社,2012:239.

[11]灵经经[M]. 明赵府居敬堂刊本影印本.北京:人民卫生出版社,1956.

[12]马莳. 黄帝内经灵枢注证发微[M]. 田代华,主校. 北京:人民卫生出版社,1994:45.

[13]柳长华,顾漫,周琦,等. 四川成都天回汉墓医简的命名与学术源流考[J]. 文物,2017(12),58-69.

[14]司马迁. 史记[M]. 北京:中华局、1982.

[15]黄怀信. 鹖冠子校注[M]. 北京:中华书局,2014:323.

[16]李克光,郑孝昌. 黄帝内经太素校注[M]. 北京:人民生出版社,2005.

[17]裘锡圭.长沙马工堆汉墓简帛集成[M](伍). 北京:中华书局,2014.

[18]裘锡圭. 长沙马工堆汉墓简帛集成[M](陆). 北京:中华书局,2014:11.

[19]张家山二四七号汉墓竹简整理小组. 张家山汉墓竹简〔二四七号墓〕[M] 释文修订本. 北京:文物出版社,2006.

[20]周波. 战国时代各系文字间的用字差异现象研究[M]. 北京:线装书局,2012:283-324.

[21]郭霭春.黄帝内经灵枢校注语译[M]. 天津:天津科学技术出版社,1999:484.

[22]黄龙祥. 中国古典针灸学大纲[M]. 北京:人民卫生出版社,2019:259-261. 

    〔訳注:260頁:「去瓜」は「五節」の一つである。㿗疝の特徴は「囊腫 瓜の如し」である。すなわちいわゆる「形 匿す可からず,常(裳) 蔽うことを得ず」であり,鈹鍼を使用して水腫を瀉して解消する。「故に命(な)づけて去瓜と曰う」。〕

[23]何宁. 淮南子集释[M]. 北京:中华书局,1998:756-757.

[24]森立之. 神农本草经[M]. 北京:北京科学技术出版社,2016:66.

[25]顾漫,周琦,柳长华. 天回汉墓医简中的刺法[J]. 中国针灸,2018,38(10):1073-1079.

[26]丁光迪. 诸病源候论校注[M]. 北京:人民卫生出版社,2013:605.

[27]段玉裁. 说文解字注[M]. 上海:上海古籍出版社,1981:349.

[28]黄龙祥. 老官山出土西汉针灸木人考[J]. 中华医史杂志,2017,47(3):131-144.

[29]裘锡圭. 老了今研[M]. 上海:中西书局,2021.

[30]钱超尘. 《成都天回汉墓竹简》可正《内经》《伤寒》文字之失[J]. 中医文献杂志,2020,38(1):1-2.

[31]朱鹏举. 浅淡出土古文献材料在研读《黄帝内经》中的重要价值[J]. 中医教育,2018、37(2):78-80.

****************************************

おまけ:

重磅!老官山汉墓出土罕见经络漆人以及神医扁鹊失传2000多年的医典《成都老官山汉墓》(下)| 中华国宝

https://www.youtube.com/watch?v=ZdKxyz1ALhQ


《天回医简》扁鹊医学辨治体系(老官山汉墓医简)

https://www.bilibili.com/video/BV12L4y1w73H/?spm_id_from=333.788.recommend_more_video.7


成都挖出扁鵲墓,失傳千年的上古扁鵲醫書重見天日?

https://www.youtube.com/watch?v=R_snLe_9D4c&t=701s





2022年12月6日火曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その5

 五則:馬刀

『霊枢』癰疽(81):

發於腋下,赤堅者,名曰米疽。治之以砭石,欲細而長,疏砭之,塗以豕膏,六日已,勿裹之。其癰堅而不潰者,為馬刀挾癭,急治之〔腋の下に發して,赤く堅き者は,名づけて米疽と曰う。之を治するに砭石を以てし,細くして長からんことを欲す。疏(まば)らに之を砭す。塗るに豕の膏(あぶら)を以てし,六日にして已(や)む。之を裹(つつ)むこと勿かれ。其の癰の堅くして潰(つぶ)れざる者は,馬刀挾癭と為す。急(すみ)やかに之を治せ〕[11]135。


 馬刀:『内経』の教師用参考書は,「俠癭」と一つにして解釈し,「病名。瘰癧の類に属す。常に連なって出現し,堅い。其の形が長いものを馬刀という。耳の下と頸項に生じて,欠盆から腋の下まで続いたり,あるいは肩の上に生じて下ったりする」[2]462と注釈している。この注は,諸説を取り合わせようと努力して,かえって意味不明なものになってしまっている。『霊枢』の原文にしたがえば,この病はすでに「腋の下に発する」と分類されていて,「其の癰 堅くして潰(つぶ)れざる者」は,「赤く堅き者」と対になって挙げられていることは明白である。したがって「馬刀」は部位を言っているのであって,腋の下にある癰疽の名に属するとすべきである。これは『諸病源候論』〔巻32・癰疽病〕疽候によっても裏付けられる。「發於掖下,赤堅者,名曰米疽也;堅而不潰者,為馬刀也〔掖(わき)の下に發して,赤く堅き者は,名づけて米疽と曰うなり。堅くして潰れざる者は,馬刀と為すなり〕」[26]。


 『霊枢』経脈(10)に「膽足少陽之脈,……是主骨所生病者……腋下腫,馬刀俠癭」とある。「馬刀」は足少陽脈の「所生病」に属する。かつまた『甲乙経』に収録された「馬刀」を治療する穴の多くは,足臨泣・陽輔・淵腋・章門などの足少陽の穴を取り,その発病部位が足少陽脈がめぐるルート上にあることがわかる。また『甲乙経』巻八・五藏傳病發寒熱第一下で引用される『明堂』の三つの条文で,「腋下腫」が「馬刀瘻」と一緒に挙げられている[4]271-272。これもその部位が腋の下に近いことを示している。「馬刀」と並んで見えるものには「馬瘍」という病名もある。『甲乙経』巻三・腋脇下凡八穴第十八に引用される『明堂』に「淵腋,在腋下三寸宛宛中,舉臂取之,刺入三分,不可灸,灸之不幸,生腫蝕馬刀傷,內潰者死,寒熱生馬瘍可治〔淵腋は,腋の下三寸宛宛たる中に在り,臂を舉げて之を取る。刺入すること三分,灸す可からず。之を灸すれば幸いあらず,腫蝕馬刀を生じて傷(やぶ)れ,內に潰(つぶ)るる者は死す。寒熱して馬瘍を生ずれば治す可し〕」とあり,注文で『素問』気穴論(58)の淵腋〔淵掖〕穴の注「足少陽脈氣所發〔足少陽脈氣 發する所〕」[4]106を示している。これは馬刀と馬瘍の発病部位が淵腋穴周辺の腋下部に位置することを示している。そして同時に淵腋穴は馬刀を治療する主穴である。『甲乙経』巻九の第四に「胸滿馬刀,臂不得舉,淵腋主之〔胸滿馬刀,臂 舉ぐること得ざるは,淵腋 之を主る〕」[4]295とあり,巻十一の第九下に「馬刀腫瘻,淵腋・章門・支溝主之」[4]353とある。


 出土医書では,以下のものに「馬」という病名があらわれる。『足臂十一脈灸経』7-8:「足少陽脈……其病……脇痛,□痛,產馬」[17]189。『脈書』簡四:「在夜(腋)下,為馬」[19]115。天回医簡では「𦟐」あるいは「㾺」と書かれている。天回医簡303に「少陽產瘻產㾺,脇外穜(腫)」,簡594に「(足少陽脈)腋𦟐痛」(図3)とある。


図3 天回医簡 簡303と594〔省略〕


その発病部位が腋の下であること,および少陽脈の所産病に属するなどの記述から,われわれはそれを『霊枢』『甲乙経』に見られる「馬刀」と結びつけることは容易である。すなわち,「馬」と「馬刀」は同じものを指しており,癰疽の形状を描写しているのではないことは明らかである。天回医簡の文字をみれば,「𦟐」は肉(月)部に従っていて,人体のある部位を指すとするべきである。「㾺」は病部に従っているので,これはこの部位と関連する病の名前である。『説文解字』病部に「㾺,目病。一曰惡氣箸身也。一曰蝕創〔㾺は,目の病。一に曰わく,惡氣 身に箸(つ)くなり,と。一に曰わく,蝕(くさ)れ創(かさ),と〕」[27]とある。「目の病」という意味は,明らかにこれとは合致しない。『五十二病方』の目録に「治㾺」があり,その治方に「㾺者,癕痛而潰〔㾺なる者は,癕(=癰)痛みて潰(つぶ)る〕」[17]297とある。これも癰疽に類する疾病であり,『霊枢』と同じで,『説文解字』にいう「蝕創」の意味に近い。天回の漆塗り経脈人形の銘文にも「腋淵」(筆者は,もともとの字形は「夾淵」に作ると考えている)という名称があらわれ,腋の下の部位にしるされていて,『霊枢』『明堂』がいう「淵腋」に相当する[27]。


 以上の文献の整理を通して,われわれは『霊枢』の癰疽篇と経脈篇に見える「馬刀」という病名は,出土医書に見える「馬」病に由来する可能性が高いと考える。逆に伝世医籍にある関連記述も,出土医書にあらわれる「𦟐」「㾺」などの字を考証して解釈する助けとなる。その病の特徴は,発病部位が腋の下であり,足少陽脈がめぐるところであり,癰疽の病証に属し,治療に常用されるのはそこに近い淵腋穴である。したがって頸項部に発症する瘰癧とは異なる病であるので,混同してはならない。


 裘錫圭先生は次のように指摘している。「出土文献は古書の真偽と時代,古書の体例およびその源とその発展,古書の校勘と解読などの古典学の問題を研究する上で,極めて際立った重要な役割を発揮することができる」[29]19。さらに「中国古典学の再建」を展望して,「大量の出土文献が発見され,その整理と研究は,中国古典学の再建に前例のない好条件をもたらした。古典学研究と密接に関連する出土文献は将来もひきつづきあらわれるだろうし,すでに発表された出土文献には新たに整理し,研究を続ける必要があるものがある」[29]24という。天回医簡は,新たに発掘された早期の医学文献として,中国医学経典を校読〔校勘解読〕する上で,伝世文献では代えがたい重要なはたらきを果たすことができ,すでに学界の注目を集め議論を引き起こしている。


2022年12月5日月曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その4

 四則:去爪


『霊枢』刺節真邪(75):

黃帝曰:刺節言去爪,夫子乃言刺關節肢絡,願卒聞之。岐伯曰:腰脊者,身之大關節也;肢(股)脛者,人之管(所)以趨翔也;莖垂者,身中之機,陰精之候,津液之道也。故飲食不節,喜怒不時,津液內溢,乃下留於睾,血(水)道不通,日大不休,俛仰不便,趨翔不能。此病榮(滎)然有水,不上不下,鈹石所取,形不可匿,常不得蔽,故命曰去爪。帝曰:善〔黃帝曰わく,「刺節に去爪〔水を去る〕と言う。夫子は乃ち關節の肢絡を刺すと言う。願わくは卒〔詳〕らかに之を聞かん」。岐伯曰わく,「腰脊は,身の大關節なり。股脛は,人の趨翔する所以(ゆえん)なり。莖垂は,身中の機,陰精の候,津液の道なり。故に飲食 節ならず,喜怒 時ならざれば,津液 內に溢れ,乃ち下(くだ)って睾に留まり,水道 通ぜず,日々に大きくなりて休(や)まず,俛仰 便ならず,趨翔すること能わず。此の病 滎然として水有り,上(のぼ)らず下(くだ)らず,鈹か石の取る所,形 匿(かく)す可からず,常(もすそ)蔽(おお)うことを得ず,故に命(な)づけて去爪〔水を去る〕と曰う」。帝曰わく,「善し」/郭靄春の語訳に基本的にしたがい,著者の説明に合わせて訓読した〕。[21]487


 爪:『甲乙経』巻九・足厥陰脈動喜怒不時發㿗疝遺溺癃第十一は,「衣」に作る[4]309。『太素』〔巻22〕五節刺の楊上善注は,「或水字錯為爪字耳〔或いは「水」字を錯(あやま)って「爪」字と為すのみ〕」[16]705という。郭靄春先生は楊注に賛同する[21]484。黄龍祥先生は「去爪」は「去瓜」に作るべきだと考えている[22]。按ずるに,「爪」と「衣」はともに形が近いので「水」字を書き誤ったのであり,楊上善の説に従うべきである。後の文に詳しいように,「去爪」が刺す病において,水が滞留するのは腰脊・股脛・茎垂〔陰茎と睾丸〕のところであり,「水道が通じなくなり,日ましに大きくなり休(と)まらず」,身体の腫れが大きくなって,いつも着ている衣服では体に合わなくなる。これが「裳不得蔽〔裳(も) 蔽(おお)うことを得ず〕」である(『霊枢』の原文は「常」字に誤る。『甲乙経』に従って「裳」字に作るべきである)。

 〔訳注:上半身を覆うころもを「衣」といい,下半身を覆うころもを「裳」という。『説文解字』に「常,下帬(=裙=スカート)也」とあり,「裳」字は未掲載である。「常」は誤字とするのではなく,郭靄春が引用する恵棟『読説文記』にあるように,「裳」の古字とするべきであろう。〕

そのため,このような治法を「去水」というのである。このような呼称は,漢代では決してまれなものではない。たとえば,『淮南子』繆稱訓に「大戟去水,亭曆愈張,用之不節,乃反為病〔大戟(薬草名)は水を去り,亭曆(薬草名)は張れを愈せども,之を用いること節ならざれば,乃ち反(かえ)って病を為す〕」[23]とある。峻下逐水〔峻烈な瀉水作用〕を代表する別の薬である芫花の『本経』における別名は,「去水」である[24]。天回医簡『刺数』に「㓨(刺)水,〓4〔艸+咸〕(針)大如履〓4〔艸+咸〕(針),囗三寸〔水を刺す,箴(はり)の大いさ履箴の如し,囗三寸〕」(簡653)[25]とある。その中の「水」の字形は〓5〔画像〕に作り,やや劣化して読みづらいが,「衣」「爪」字の古隸ときわめて混淆しやすい。それに使用する鍼具もかなり大きく,『霊枢』にある「大鍼」に相当する。『霊枢』九針十二原(01)に「大針者,尖如梃,其鋒微員,以寫機關之水也〔大針なる者は,尖(さき)は梃(つえ)の如く,其の鋒(ほこさき)は微(かす)かに員(まる)し,以て機關の水を寫するなり〕」[11]6とある。まぎれもなく「去水〔水を去る〕」に用いるものである。そして『霊枢』刺節真邪篇の「去水」が対象としているのは,「腰脊」「股脛」などの関節の肢絡〔四肢の絡脈〕と「身中の機」と称される「茎垂」であり,まさに大鍼が主治する「機関の水」である。したがって『刺数』にある古い刺法の一つである「刺水」は,「五節刺」〔『霊枢』刺節真邪「刺有五節」。また『太素』の篇名〕中の「去水」の濫觴とするべきであり,刺節真邪篇の「去爪」は「去水」を伝承過程で書き誤ったものとする証拠ともなる。


2022年12月3日土曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その3

 三則:快然


〔図1:天回医簡 簡421「後與氣則律然」あり。省略す。〕


 『霊枢』経脈(10):

脾足太陰之脈,……是動則病舌本強,食則嘔,胃脘痛,腹脹善噫,得後與氣則快然如衰,身體皆重〔是れ動ずれば則ち病み舌本 強(こわ)ばり,食らえば則ち嘔(は)き,胃脘 痛み,腹 脹(ふく)れ善く噫(おくび)し,後と氣とを得れば則ち快然として衰うるが如し,身體 皆な重し〕[11]31。


 「得與氣則快然如衰」:『太素』の楊上善注:「穀入胃已,其氣上為營衛及膻中氣,後有下行與糟粕俱下者,名曰餘氣。餘氣不與糟粕俱下,壅而為脹,今得之泄之,故快然腹減也〔穀 胃に入り已(お)わり,其の氣上(のぼ)って營衛及び膻中の氣と為り,後に下行して糟粕と俱に下る者有り,名づけて餘氣と曰う。餘氣 糟粕と俱に下(くだ)らざれば,壅(ふさ)がって脹と為る。今 之を得て之を泄らす。故に快然として腹 減ずるなり〕」[16]190 。


 「快然如衰」:馬王堆帛書『陰陽十一脈灸経』甲本21は「怢然衰」[17]200に作る。乙本20は「逢然衰」[18]に作る。張家山竹簡『脈書』簡三四は「怢然衰」の三字が残欠していて,帛書の甲本から補う[19]121。


 『長沙馬王堆漢墓簡帛集成』の注釈:

    魏啓鵬・胡翔驊(1992:29):怢は「佚」「逸」に通じ,安逸,心地よい。いま按ずるに,「逢」と「怢」は書き方がまったく異なる。形の構成から見れば,「怢」字は,「心」に従い「失」の声である。戦国の楚の文字では通常「失」字は,〓1〔辶+方+𠂉+羊〕と書かれ,あるいは隸定〔隸書の字形〕では〓2〔辶+止+羊〕となり,……「逸」と「失」は「失」の声に従い,往々にして通仮し……「逢」字は秦漢の文字では〓3〔辶+夂+羊〕とも書かれ,「羊」が誤って「丰」の形に変わる。帛書乙本の「逢」は〓1〔辶+方+𠂉+羊〕(〓2〔辶+止+羊〕)の形が誤ったものにちがいないことがわかる。そして『霊枢』経脈などの医籍に見える甲本の「怢」に相当するところにある「快」はあきらかに「怢」字の形が誤ったものである[17]200。


 馬王堆簡帛には楚文字のなごりが多く残されており,主に楚系の写本の影響を受けているとの指摘がすでにある[20]。馬王堆帛書乙本を書いた人は,おそらく〓2〔辶+止+羊〕字の楚文字の形をあまりわかっていなかったため,字形の近い「逢」に誤って書いたのだろう。天回医簡『脈書』下経は「快然」を「律然」に作る(簡421,図1)。見たところ,〓1〔辶+方+𠂉+羊〕(〓2〔辶+止+羊〕)から来た字形の誤りは,帛書乙本が「逢」字に作る情況と似ている。この字形の違いから,われわれはこのいくつかの経脈文献が異なる伝承に由来し,底本には異なる文字が書いてあったと推測できる。帛書乙本と天回医簡はともに戦国文字で書かれた底本を写したものであるが,『霊枢』経脈篇が基づいた底本は帛書甲本に近い秦漢文字に転写された写本である(その字形の変遷関係は図2を参照)。


 図2 字形字形の変遷関係表


〓1(〓2) →字形を誤る→逢(秦漢の際・馬王堆『陰陽』乙本)

 (戦国) →字形を誤る→律(西漢初・天回医簡『脈書』下経)

      →通仮字→怢(秦漢の際・馬王堆『陰陽』甲本)→字形を誤る→快(伝世医籍『霊枢』)


2022年12月2日金曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その2

 二則:不表不裏,其形不久 


 『霊枢』寿夭剛柔(06):

病有形而不痛者,陽之類也;無形而痛者,陰之類也。無形而痛者,其陽完而陰傷之也,急治其陰,無攻其陽;有形而不痛者,其陰完而陽傷之也,急治其陽,無攻其陰。陰陽俱動,乍有形,乍無形,加以煩心,命曰陰勝其陽,此謂不表不裏,其形不久〔病 形有って痛まざる者は,陽の類なり。形無くして痛む者は,陰の類なり。形無くして痛む者は,其の陽 完(まつた)くして陰 之を傷(やぶ)るなり。急(すみ)やかに其の陰を治し,其の陽を攻むること無かれ。形有って痛まざる者は,其の陰 完(まつた)くして陽 之を傷るなり。急(すみ)やかに其の陽を治し,其の陰を攻むること無かれ。陰陽 俱に動ずれば,乍(たちま)ち形有り,乍(たちま)ち形無く,加うるに煩心を以てし,命(なづ)けて陰 其の陽に勝つ,と曰い,此れを表ならず裏ならず,其の形 久しからず,と謂う〕[11]20。


 「此謂不表不裏,其形不久」。馬蒔の注:「病有陰陽俱病,形似有無而心為之煩,此乃陰經陽經各受其傷,而陰為尤甚,欲治其表,陰亦為病,欲治其裏,陽亦為病,治之固難,形當不久矣〔病に陰陽 俱に病む有り,形 有無に似て心 之が煩を為す,此れ乃ち陰經・陽經 各々其の傷を受くるも,陰 尤も甚だしと為す。其の表を治せんと欲するも,陰も亦た病を為し,其の裏を治せんと欲するも,陽も亦た病を為す。之を治すること固(まこと)に難く,形 當に久しからざるべし〕」[12]。


 天回医簡『逆順五色脈蔵験精神』の「病不表,不【可以鑱】石。病不裹〈裏〉,不可以每(毒)藥。不表不【裏者】,〈死〉 〼〔病 表ならざれば,鑱石を以てす可からず,病 裏ならざれば,毒藥を以てす可からず。表ならず裏ならざる者は,〈死〉〼〕」(簡707)[13]は,「不表不裏」を死証とみなした古い証拠を提供してくれた。『素問』移精変気論(13)は祝由を論じて,「今世治病,毒藥治其內,鍼石治其外,或愈或不愈,何也……故毒藥不能治其內,鍼石不能治其外,故可移精祝由而已〔今の世の治病は,毒藥 其の內を治し,鍼石 其の外を治す。或いは愈え或いは愈ざるは,何ゆえか……故に毒藥は其の內を治すこと能わず,鍼石は其の外を治すこと能わず。故に精を移し由を祝す可きのみ〕」[1]31-32とある。『素間』湯液醪醴論(14)には,「當今之世,必齊毒藥攻其中,鑱石鍼艾治其外也〔今の世に當たっては,必齊・毒藥もて其の中を攻め,鑱石・鍼艾もて其の外を治するなり〕」[1]33とある。ともに「鑱石」(あるいは鍼石)と「毒薬」が対になって文ができていて,天回医簡の文と意味は同じであり,当時の医家の治療法として一般的な方法であった。また『素問』奇病論(47)にある「所謂無損不足者,身羸瘦,無用鑱石也〔謂う所の不足を損すること無かれとは,身 羸瘦するは,鑱石を用いること無かれとなり〕」[1]94は,『史記』で倉公が述べている「尸奪者,形弊;形弊者,不當關灸鑱石及飲毒藥也〔尸奪する者は,形弊(つか)る。形弊(つか)るる者は,當に灸鑱石及び毒藥を飲ましむるに關すべからざるなり〕」[14]2802と一致する。また『史記』倉公伝において,倉公は「論曰:陽疾處內,陰形應外者,不加悍藥及鑱石〔論に曰わく,「陽疾 內に處(お)り,陰形 外に應ずる者は,悍藥及び鑱石を加えず」と〕」[14]2811という。「悍薬」と「毒薬」とは同じ意味である。「論に曰わく」の文例によれば,これはまさに倉公が扁鵲の医論を援用しているにちがいない。『鶡冠子』世賢に「若扁鵲者,鑱血脈,投毒藥,副肌膚閒,而名出聞於諸侯〔扁鵲の若き者は,血脈を鑱し,毒藥を投じ,肌膚の閒を副し,而して名 出でて諸侯に聞こゆ〕」とある。治療の方法としては,扁鵲が鑱石と毒薬の使用にたけ,当時の医学の主流を代表していて,当時の人はみなこのことを熟知していたことがわかる。治療の原則としては,扁鵲は表裏を陰陽に分け,「鑱石」と「毒薬」という二種類の治療法を臨床に用いた。病が表にあり陽に属すれば,鑱石・鍼艾をもちいて攻め,病が裏にあり陰に属すれば,毒薬・湯液をもちいて達するようにした。もしその病が表でもなく裏でもない場合は,これを攻めても可ならず,これに達しても及ばず,治療方法はないので,死証である〔著者は,「病 膏肓に入る」の出典「在肓之上,膏之下,攻之不可,達之不及,藥不至焉」を踏まえて記述していると思われる〕。『霊枢』寿夭剛柔や『素問』奇病論などの篇にみえる「不表不裏」に関する論述が発掘された医経で裏付けられ,今本『黄帝内経』が扁鵲医経の理念を継承していることが明らかにされた。


2022年12月1日木曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則 その1

 一則:疹筋


  『素問』奇病論(47):

    帝曰:人有尺脈數甚,筋急而見,此為何病?岐伯曰:此所謂疹筋,是人腹必急,白色黑色見,則病甚〔帝曰わく:「人に尺脈數なること甚だしく,筋急(ひきつ)れて見(あら)わるること有り。此れを何の病と為す?」岐伯曰わく:「此れ所謂(いわゆる)疹筋なり,是の人の腹 必ず急(ひきつ)れて,白色黑色見(あら)わるれば,則ち病甚だし」〕[1]94。


  疹筋:『内経』の教師用参考書には「疹は,病なり。疹筋は,筋の病変」と注釈があり,張介賓『類経』の注:「疹筋者、病在筋也」[2]439を根拠としている。『釈名』釈疾病には,「疹,診也,有結聚可得診見也〔疹は,診なり,結聚有って診見を得る可し〕」[3]とある。『釈名』の訓によれば,「疹筋」を「筋有結聚〔筋に結聚有り〕」と解釈できそうで,単に「筋の病」と解釈するよりも経義に合っている。しかし『釈名』がここで解釈している「結聚」は,『史記』扁鵲倉公列伝にある「以此視病,盡見五藏癥結〔此れを以て病を視るに,盡(ことごと)く五藏の癥結を見る〕」の「癥結」と同じ意味である〔訳注:「癥結」には比喩として病根,問題の原因という意味もある〕。つまり具体的な形を持っていた病がしだいに抽象化,一般化されて「疾病」概念そのものの比喩となったものである。これは後世の注家が「疹」をそのまま「病也」と訓じた理由でもある。


 「疹筋」を『甲乙経』巻4「病形脈胗」第2上は「狐筋」[4]152に作る。「狐」と「疹」の古い字形は容易に混同が起こりやすい〔http://www.sfds.cn/,http://sf.zdic.net/などで古い字形を参照〕が,この異文については,『内経』の注釈者には重視されていない。天回医簡『脈書』下経には「孤」という病名が登場し,しかも疾病の大分類として記述され,関連する医簡は12本[5]183,186あり,その重要性が十分見てとれる。あわせて「直狐,堅,直少腹」[5]187(簡384)と「孤之陽癉……腹、少腹盡痛,倀(脹)而陰筋痛」(簡616)という症状の描写もあり,狐病の症状は少腹部と腹部の硬満〔脹満して硬く緊張している〕疼痛を主とすることを示し,奇病論に見える「疹筋」が腹部の緊張および拘急症状をあらわすのと対応している。


 「狐」を病名とするものは,『金匱要略』趺蹶手指臂腫轉筋陰狐疝蚘蟲病證治第19に見え,つぎのようにいう。「陰狐疝氣者,偏有小大,時時上下,蜘蛛散主之〔陰狐疝氣なる者は,偏(かたよ)って小大有り,時時上下す。蜘蛛散 之を主る〕」[6]。『千金要方』巻31・鍼灸下の「孔穴主対法」〔㿗疝〕の商丘穴の主治に「狐疝走上下引小腹痛,不可以俛仰〔狐疝は上下に走って小腹に引きつれ痛み,以て俛仰(=俯仰)す可からず〕」[7]とある。『儒門事親』巻2の「疝本肝經宜通勿塞狀19」は,寒疝・水疝・筋疝・血疝・気疝・狐疝・㿗疝という「七つの疝」の名前を立て,狐疝の証候をつぎのように詳述している。「狐疝,其狀如瓦,臥則入小腹,行立則出小腹入囊中。狐則晝出穴而溺,夜則入穴而不溺。此疝出入,上下往來,正與狐相類也〔狐疝は,其の狀 瓦の如く,臥せば則ち小腹に入り,行き立てば則ち小腹を出でて囊中に入る。狐は則ち晝(ひる)に穴を出でて溺(ニョウ)し,夜は則ち穴に入って溺せず。此の疝の出入,上下往來すること,正に狐と相い類するなり〕」[8]。『明医指掌』巻6にある「疝証8」の歌に「寒水㿗血氣孤筋,先哲空留七疝名。蓋是肝經原有熱,外邊卻被濕實侵〔寒・水・㿗・血・氣・孤・筋,先哲空しく留む七疝の名。蓋し是れ肝經原(もと)より熱有り,外邊卻(かえ)って被る濕實の侵〕」[9]とある。余雲岫は「疝病の名は,古今で趣を異にする」[10]とすでに指摘しているが,天回医簡の『脈書』下経にある諸病の名や症状の記述からも,これを証明することができる。その中で「疝病」の多くは心腹痛証を指している。これに対して,「狐病」は体腔に突起物があって時々あらわれたり隠れたりして,少腹と陰筋の疼痛,排尿障害などの症状を伴い,現代の鼠径ヘルニアに似ている。鼠径ヘルニアに嵌頓が発生すると,激しい痛みがおこり,局部で疝の内容物が形成した塊に触れることができ,緊張して硬くなっていることが分かっている。これは,「筋急而見〔筋急(ひきつ)れて見(あら)わる〕」という形容とかなり一致する。これから『甲乙経』が「狐疝」に作るのは伝本に根拠があることがわかり,「狐疝」という病証の描写のように思えるが,一方,『素問』『太素』にある「疹筋」には,他の書にはほとんど照合できる証拠がないので,伝写の誤りである可能性が高い。

2022年11月28日月曜日

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則

『中医薬文化』17卷第2期 据天回医简校读《内经》 五则 顾漫,周琦

天回医簡にもとづく『黄帝内経』校読 五則


要旨:天回医簡には,伝世書と相互に参照できる内容が少なくない。われわれはそれを根拠として,関連のある伝世医書の源と形成過程をより具体的に検討し,後者の流伝の過程で形成されたいくつかの誤りを訂正し,疑問を解明することができる。天回医簡と互いに校勘することによって,『黄帝内経』中の「疹筋」「不表不裏」「快然」「去爪」「馬刀」という五項目の理解を妨げ,論争のある語句に重点的に校勘訓詁をくわえ,新たな意見を提起することによって,学界が出土古文献材料を『内経』を校読する際に重視し,中国医学の「古典学の再建」を共同で推進することを期待する。


  キーワード:天回医簡;『黄帝内経』;出土文献;校読

 

2022年11月16日水曜日

『難経』五輸穴の主治病症とその五行観念に関する分析 05

   結び

 以上の分析から以下のことが明らかになった。『難経』が提出した五輸穴の主治病症は,井滎輸経合をすべて網羅していて,病症は具体的で,形式は規範にのっとっているように見えるが,実際には型どおりに五行学説の理論から導き出されたものであり,構想上,観念に迎合したのみで,鍼灸の実践から離れていて,腧穴の実際の治療法則を反映できていない。したがって,その内容は実践に応用する価値を欠いている。この腧穴「理論」の内容について,もし区別せず,そのまま取り入れてこじつけし,ひいてはそのまま臨床マニュアルとして用いるならば,まったくの無定見である。

 中医鍼灸の理論構築において,五行学説は理論を説明する道具の一つとして,人体生命活動現象と原理および診療経験と法則の理論的説明の中で,幅広く運用され重要な作用を持っているが,もし五行学説のみから医学の理論と診療の理法〔筋道組み立ての方法〕を演繹するならば,それは机上の空論であり,実践を誤った方向に導くことになる。現代の鍼灸研究の目的から見ると,古代の学術理論の様相を客観的に表現することは歴史的な要求であり,それと同時に,その理論の本質・構築の理念・進化の過程・学術的価値・実践的指導性に対して,理性的に判断し,明確に述べる必要がある。あるべき態度としては,百年近く前に有識者が叫んだように,『難経』のような「空論五行〔いたずらに(役に立たない)五行を論じ〕」「空言生克〔むだに(根拠のない)相生相克を言い〕」「理の必ず通ぜざる所の者」に対しては,まさに「荆棘を除いて康衢を辟(ひら)く〔いばら=困難・混乱を除いて大道を開通させる〕」べきであり,「固(もと)より学者 実事もて是(ぜ)を求むるは,当務の急なり〔当然,学ぶ者は事実に即して問題を処理するのが,当面の急務である〕」[8]152。



 参考文献

[1] 灵枢经[M],北京:人民卫生出版社,1994.

[2] 钱超尘,李云. 黄帝内经太素新校正[M].北京:学苑出版社,2006.

[3] 南京中医学院.难经校释[M]. 2版.北京:人民卫生出版社,2009.

[4] 黄竹斋. 难经会通[R]. 西安:中华全国中医学会陕西分会,陕西省中医研究所,1981重印:121.

[5] 滑寿. 难经本义[M].傅贞亮,张崇孝点校. 北京:人民卫生出版社,1995.

[6] 秦越人.难经集注[M]. 北京:人民卫生出版社,1984.

[7] 徐大椿. 难经经释[M].北京:人民卫生出版社,1985.

[8] 张山雷.难经汇注笺正[M]//浙江省中医管理局《张山雷医集》编委会编校.张山雷医集(上),北京:人民卫生出版社,1995.

[9] 孙国杰. 针灸学[M]. 上海:上海科学技术出版社,1997:221. 

[10] 杨甲三. 针灸腧穴学[M].上海:上海科学技术出版社,1989:34.

[11] 杨上善.黄帝内经明堂新校正[M]//钱超尘,李云.黄帝内经太素新校正.北京:学苑出版社,2006:718.

[12] 王冰.重广补注黄帝内经素问[M]. 北京:人民卫生出版社,1994.

[13] 张介宾.类经(上下)[M].北京:人民卫生出版社,1994:247,672.

[14] 高文柱.《外台秘要方》校注[M].北京:学苑出版社,2011:1425-1476.

[15] 张双棣,张万彬,殷国光,等.吕氏春秋译注[M].长春:吉林文史出版社,1987:259-260.

[16] 李学勤.十三经注疏・礼记正义(上中下)[M].北京:北京大学出版社,1999.

[17] 陈立. 吴则虞点校,新编诸子集成(第一辑)白虎通疏证[M]. 北京:中华书局,1994.

[18] 陈奇猷.吕氏春秋新校释(上下)[M].上海:上海古籍出版社,2002:525.

[19] 中国文物研究所,甘肃省文物考古研究所.敦煌悬泉月令诏条[M]. 北京:中华书局,2001.

[20] 甘肃省文物考古研究所. 甘肃敦煌汉代悬泉置遗址发掘简报[J].文物,2000(5):4-20.

[21] 丹波元简.灵枢识[M]//丹波元简等编. 聿修堂医书选:素问识,素问绍识,灵枢识,难经疏证.北京:人民卫生出版社,1984:770.


『難経』五輸穴の主治病症とその五行観念に関する分析 04

   4 『黄帝内経』の五輸穴が季節に応じることの着想


  4.1 「出づる所を井と為す」

 「五輸穴」の最初の穴は「井」と呼ばれ,経脈が求心性に循行する理論に基づいている。この理論モデルによれば,経脈は四肢末端に起こり,手足部から肘膝にかけて五つの腧穴が分布し,所在する形体部位の組織は小さく薄いところから大きく厚いところまであり,その気血は指端から肘膝に注ぎ流れる。それはあたかも水が泉から出て,渓流が川となり,合流して海に入るがごとくであり,「井・滎・腧・経・合」と呼ばれている。これがすなわち,『霊枢』九鍼十二原にいう「經脈十二,絡脈十五,凡二十七氣,以上下所出為井,所溜為滎,所注為腧,所行為經,所入為合。二十七氣所行,皆在五腧也〔經脈十二,絡脈十五,凡(すべ)て二十七氣,以て上下の出づる所を井と為し,溜する所を滎と為し,注ぐ所を腧と為し,行く所を經と為し,入る所を合と為す。二十七氣の行く所,皆な五腧に在り〕」[1]3である。「井」とは,もともと地下に隠れていた水が地表に出ている状態を指して,ここでは手足の末端にある穴の名称として用いられている。つまり体内の気が体表外部に行くところが,すなわち「出づる所を井と為す」である。したがって,五輸穴の中では井穴の「気」の源が最も深い。楊上善はこれについてはっきりと説明している。「井者,古者以泉源出水之處為井也,掘地得水之後,仍以本為名,故曰井也。人之血氣出於四肢,故脈出處以為井也〔井とは,古者(いにしえ)泉源 水を出だすの處を以て井と為(い)う。地を掘って水を得たるの後も,仍(な)お本を以て名と為す。故に井と曰うなり。人の血氣は四肢に出づ。故に脈出づる處 以て井と為すなり〕」[2] 189〔『太素』卷11本輸〕。 「太古人家未有井時,泉源出水之處,則稱為井〔尊経閣文庫所蔵本に「故井」二字あり〕者,出水之處也。五藏六府十二經脈,以上下行,出於四朱(末)〔尊経閣文庫本は「末」〕,故第一穴所出之處譬之為井〔太古の人家 未だ井有らざる時,泉源 水を出だすの處を,則ち稱して井と為(い)う。故に井とは,水を出だすの處なり。五藏六府十二經脈,以て上下に行き,四末に出づ。故に第一穴の出づる所の處 之を譬えて井と為(い)う〕」[11]。


  4.2 「井」と冬の気

 「井」穴が冬に対応するのも,深浅説と関連している。その起源は天人相応の観念であり,人の気は天地の気に対応し,季節が変われば,人の気の深さも変わる。すなわち『霊枢』本輸にいう「四時の出入する所」[1] 4である。楊上善は「秋冬,陽氣從皮外入至骨髓,陰氣出至皮外;春夏,陰氣從皮外入至骨髓,陽氣出至皮外〔秋冬,陽氣は皮外從(よ)り入りて骨髓に至り,陰氣は出でて皮外に至る。春夏,陰氣は皮外從り入りて骨髓に至り,陽氣は出でて皮外に至る〕」[2] 188という。鍼治療の深さは,これと対応しなければならない。『霊枢』終始にいう,「春氣在毛,夏氣在皮膚,秋氣在分肉,冬氣在筋骨,刺此病者,各以其時為齊〔春氣は毛に在り,夏氣は皮膚に在り,秋氣は分肉に在り,冬氣は筋骨に在り。此の病を刺す者は,各々其の時を以て齊と為す〕」[l]27である。この中で最も深い層は「冬の気は筋骨に在り」である。冬の気は閉蔵し,五行は水に属し,腎気はこれに応ずる。そのため,四時に刺す場所や層も最も深い。『霊枢』寒熱病は,つぎのようにいう。「春取絡脈,夏取分腠,秋取氣口,冬取經輸,凡此四時,各以時為齊。絡脈治皮膚,分腠治肌肉,氣口治筋脈,經輸治骨髓、五藏〔春は絡脈に取り,夏は分腠に取り,秋は氣口に取り,冬は經輸に取る。凡そ此の四時は,各々時を以て齊と為す。絡脈は皮膚を治し,分腠は肌肉を治し,氣口は筋脈を治し,經輸は骨髓と五藏を治す〕」[1]57。文中にいう「経輸」とは,四肢部にある類穴であり,主に蔵府に対して遠隔的な主治作用を有する肘膝以下にある五輸穴を指す。皮膚・筋肉・筋脈・骨髄五蔵の各層では,骨髄と五蔵が最も深い。治療箇所の絡脈・分腠・気口・経輸などの各所では,経輸で治療するところが最も深い。『素問』診要経終論に,「春刺散俞……夏刺絡俞……秋刺皮膚……冬刺俞竅〔春は散俞を刺し……夏は絡俞を刺し……秋は皮膚を刺し……冬は俞竅を刺す〕」[12] 92とあるのもこの意味である。経輸を各季節に割り当てる具体的な方法では,井穴を冬に対応させ(表3),井穴がここでは「内部の深い源」に取るという意味を示唆している。これについて,『黄帝内経』は異なる角度から繰り返し述べ,また解釈している。たとえば,五輸穴を詳しく載せている『霊枢』本輸には「冬取諸井諸腧之分,欲深而留之〔冬は諸井諸腧の分に取るは,深くして之を留めんと欲すればなり〕」[1]8とあり,『素問』水熱穴論には,「帝曰:冬取井滎何也?岐伯曰:冬者水始治,腎方閉,陽氣衰少,陰氣堅盛,巨陽伏沈,陽脈乃去,故取井以下陰逆,取滎以實陽氣〔帝曰わく:「冬は井滎に取るとは何ぞや?」岐伯曰わく:「冬は水始めて治し,腎方(まさ)に閉じ,陽氣は衰少し,陰氣は堅く盛ん,巨陽は伏沈し,陽脈は乃ち去る。故に井に取って以て陰逆を下し,滎に取って以て陽氣を實す」〕」[12] 330とある。楊上善と張介賓らの注家は,腎蔵と井穴が冬の気の閉蔵をつかさどるという角度から解釈している。〔『太素』卷11・本輸〕「冬時足少陰氣急緊……故取諸井以下陰氣〔冬の時は足少陰の氣 急緊……故に諸井に取って以て陰氣を下す〕」[2]201,〔『類經』卷8・井滎俞經合數14〕「脈氣由此而出,如井泉之發,其氣正深也〔脈氣 此れに由って出づること,井泉の發するが如し。其の氣 正に深し〕」〔『類經』卷20・四時之刺18〕「諸井諸藏皆主冬氣〔諸井諸藏は皆な冬の氣を主る〕」[13]。唐代の『外台秘要方』(巻三十九)は十二脈の腧穴を掲載し,井穴の後ろには「冬三月宜灸之〔冬の三月は宜しく之を灸すべし〕」という句がいずれにもある。すなわちこれは『黄帝内経』を源として発展させたものである。


  4.3 古代の時令観の影響

〔時令とは,季節,時節に応じて頒布される政令。それにしたがい,為政者が各季節に合致した政治をおこなわないと(春に夏令をおこなったりすると),自然と人間の調和が狂って災害が生じるとする天人相関にもとづく思想・観念を時令観(念)という。〕

 古代の時令観念から生まれた風習の中には,四季十二ヶ月の行事制令にしたがう儀礼のシステムがある。『黄帝内経』の「井」が冬に応ずるという説は,それと無関係ではないようである。

 先秦両漢の典籍の記載には,冬令閉蔵の気に順応することに関する行事の要求があり,冬は水に属するため,祭祀用の五蔵の祭祀品は腎蔵を先にして,四海・大川・名源・淵沢・井泉を祭り,水泉・池沢の賦税を徴収するなど,みなその時の気に従う。たとえば『呂氏春秋』孟冬紀には,「孟冬之月……其祀行,祭先腎〔孟冬の月……其の祀は行,祭るに腎を先にす〕」「是月也,乃命水虞・漁師,收水泉・池澤之賦〔是の月や,乃ち水虞・漁師に命じて,水泉・池澤の賦を收めしむ〕」[15]とあり,『禮記』月令には,「孟冬之月……其祀行,祭先腎〔孟冬の月……其の祀は行,祭るに腎を先にす〕」「盛德在水〔盛德は水に在り〕」「閉塞而成冬〔閉塞して冬を成す〕」「仲冬之月……天子命有司祈祀四海・大川・名源・淵澤・井泉〔仲冬の月……天子は有司に命じて四海・大川・名源・淵澤・井泉を祈祀せしむ〕」[16]541-55とある。その方法観念について,鄭玄は「順其德盛之時祭之也〔其の德の盛んなる時に順って之を祭るなり〕」 [16] 555,すなわち「順五行〔五行に順う〕」[17]79 と注する。その中の「祀行」を,漢代の文献の多くは「祀井」に作る。例を挙げれば,『淮南子』,後漢の『白虎通義』と『論衡』などである。班固〔『白虎通義』卷2・五祀〕は「冬祭井。井者,水之生藏在地中。冬亦水王,萬物伏藏〔冬は井を祭る。井なる者は,水の生 藏して地中に在り。冬も亦た水 王じ,萬物 伏藏す〕」[17] 80という。清代の陳立『白虎通疏證』の按語に,「高誘注『呂氏春秋』云:〈行,門內地也,冬守在內,故祀之。行或作井,水給人,冬水王,故祀之也。〉……然則祀行即所以祀水,與祀井之義合也。兩漢・魏晉之立五祀,皆祀井……其實〈井〉・〈行〉一也〔高誘 『呂氏春秋』に注して,〈行は,門內の地なり,冬の守りは內に在り,故に之を祀る。行或いは井に作る。水は人に給し,冬に水は王す。故に之を祀るなり〉と云う。……然らば則ち祀行とは即ち水を祀る所以にして,祀井の義と合するなり。兩漢・魏晉の五祀を立つる,皆な祀井……其の實〈井〉と〈行〉は一なり〕」[17] 78とある。陳奇猷『呂氏春秋新校釋』が引用する楊昭儁〔1881-1947後〕の語に,「商・周の彜器の文中の〈行〉字は〈〓〉に作り,正に十字の道の形に象る。高氏は行を解して門內の地と為す。即ち道路の字に從って引申するの說なり。〈井〉に作る者は,即ち〈〓〉の偽なり」[18]とある。要するに,先秦両漢が四時十二ヶ月に政令を割り当てた時,冬には腎を祭る。五祀の「祀行」を,漢以降は「祀井」に多く作る。祈祀・徴税などの儀礼と時政〔時令〕は水と関連する。その中には井泉と水泉が明確に含まれていた。「井」はあるいは「行」の誤りで,その影響は久しい。

 上述した関連内容は,伝世文献のほかにも,出土文献の実物で証明された。20世紀90年代初めに甘粛省敦煌の漢代県泉置遺跡で出土した『使者和中所督察詔書四時月令五十条』(以下『月令詔書』と略称する)である。原文は墨書で建物の泥壁の上にあり,出土時にはすでに砕けていたが,関連する学者が断片を集めて補修し,考証解読をへて,陸続と釈文が公表された。その中の「孟冬月令四条」の部分の釈文は以下の通りである。

 〔https://zh.m.wikipedia.org/zh-hans/%E6%82%AC%E6%B3%89%E7%BD%AE%E9%81%97%E5%9D%80〕


    ·命百官,謹蓋藏; ·謂百官及民囗(六七行)

    ·毋治溝渠,決行水泉,……,盡冬。(七一行)[19 ]7

 (七一行を)「ここで規定されているのは,時の気に応ずる〈水徳〉と関係がある」と研究者は考えている[19] 30。『月令詔条』は前漢の平帝元始五年(西暦5年)に公布され,「県泉置は河西要道に設立された郵便物の収集中継・命令の伝達・賓客の接待が一体となった総合機関,すなわち伝置〔駅〕であり」,「敦煌郡と効谷県の二つの行政機関から管轄を受けていた」[20]。『月令詔書』はこの機関の(「当時の掲示板・宣伝欄であった」[19]53)壁に書かれていて,四時月令理論に関する内容が漢代に与えた影響の反映であり,これは当時の行政機関が社会生産と民事活動などの管理において遵守を求めていた実際の規定である。

 井滎輸経合の五輸は,すべて(地表の内外の状態の)水を比喩としているが,五穴がそれぞれ一つの季節に配当された時,『黄帝内経』の中で「井」は冬と腎に対応し,名称と特性にかかわらず,みな月令行事制令の儀礼と明らかに関連し,合致するところがある。時令行事に応じた社会性と儀礼性は,知らず知らずのうちにその観念と方法に普遍的な影響があり,『黄帝内経』が天時と疾病の関係を認識した時代思想の背景でもある。具体的な五輸穴が四時に配当された方法とその源を探究する際には,このような関連を無視したり排除すべきではない。


  4.4 五輸穴が五時に応ずる論

 ふたたび『黄帝内経』の中で唯一四時に長夏を加えて五輸穴に配当した内容,すなわち『霊枢』順気一日分為四時篇を見てみると,穴と時の関係が論じられ,五輸穴の順に展開されているが,これは他篇の四季の順序とは異なる(『難経』は四季の順序に従って五輸穴を言う)。その具体的な論述と方法は,非常に複雑で入り組んでいる。五蔵にはそれぞれ「色・時・音・味・日」という五つの特性があり,「五変」といわれる。たとえば,「肝為牡藏,其色青,其時春,其音角,其味酸,其日甲乙。心為牡藏,其色赤,其時夏,其日丙丁,其音徵,其味苦……」[1] 86とある。五輸穴はそれぞれ五変をつかさどり,その対応は,「蔵・色・時(この「時」は前文の「時」とは指すところが異なる)・音・味」である。篇の二箇所で論じられているものには,実は二つの論理構造がある:

 その一,五変には「(五)時」が含まれる。すなわち五蔵がそれぞれ一時に対応し,五時に分かれて五輸穴を刺す。すなわち,冬は井を刺し,春は滎を刺し,夏は輸を刺し,長夏は経を刺し,秋は合を刺す。このような方法は,おもに季節と五輸穴の抽象的な特性に基づく。

 その二,「五変」そのものはまた五時に応じてそれぞれ対応する。すなわち一つの「変」は一つの季節に対応し,それによって各々五輸穴の一つに対応する。このように形成された方法は,各類ごとの(病)「変」に五輸穴の一つをもちいて治す。すなわち凡そ「蔵」の病変(病が蔵にあるもの)は井穴をもちいて治し,「色」の病変(病が色にあるもの)は滎穴をもちいて治し,「時」に軽重の病変がある(病が時によって軽重する)ものは輸穴をもちいて治し,「音」の病変は経穴をもちいて治し,「味」の病変は合穴をもちいて治す,などである。この部分こそ本篇が提案した五輸穴の主治病症であり,主に病症の性質特徴と五輸穴の主治の特徴に基づいている。その中の「病在胃,及以飲食不節得病者,取之於合。故命曰味主合〔病 胃に在るもの,及び飲食不節を以て病を得る者は,之を合に取る。故に命(なづ)けて味は合を主ると曰う〕」[1]86は,すなわち「合治內府〔合は內府を治す〕」〔『霊枢』邪気蔵府病形〕[1] 14の応用である。

 『黄帝内経』での五輸穴の主治原則に関する論述には,さらに以下のものがある。

    「明於五輸,徐疾所在〔五輸を明らかにす,徐疾の在る所〕」[1] 131。(『靈樞』官能)

    「本腧者,皆因其氣之虛實疾徐以取之,是謂因衝而瀉,因衰而補〔本腧は,皆に其の氣の虛實疾徐に因って以て之を取る。是れを衝に因って瀉し,衰に因って補すと謂う〕」 [1] 128 。(『靈樞』邪客)

    「有餘不足,補瀉於榮輸〔有餘不足は,榮輸を補瀉す〕」[12] 169。(『素問』離合真邪論)

    「病在脈,氣少當補之者,取以鍉針于井滎分輸……病在五藏固居者,取以鋒針,瀉于井滎分輸,取以四時〔病 脈に在り,氣少なく當に之を補すべき者は,取るに鍉針を以て井滎分輸に于(お)いてし……病 五藏に在って固く居する者は,取るに鋒針を以てし,井滎分輸を瀉し,取るに四時を以てす〕」[1] 21。(『靈樞』官針)

    「各補其滎而通其俞,調其虛實〔各々其の滎を補して其の俞を通じ,其の虛實を調う〕……」[12] 249。(『素問』痿論)

    「病在陰之陰者,刺陰之滎輸;病在陽之陽者,刺陽之合〔病 陰の陰に在る者は,陰の滎輸を刺す。病 陽の陽に在る者は,陽の合を刺す〕」[1] 18。(『靈樞』壽夭剛柔)(按ずるに,「陽之陽」は,上下の文義によって「陰之陽」とすべきである。)

    「治藏者治其俞,治府者治其合,浮腫者治其經〔藏を治する者は其の俞を治し,府を治する者は其の合を治し,浮腫は其の經を治す〕」[12] 217。(『素問』欬論)

    「滎輸治外經,合治內府〔滎輸は外經を治し,合は內府を治す〕」[1] 14。(『靈樞』邪氣藏府病形)

 これらの内容は,形式的には「井滎輸経合」全体を網羅するのはごく一部(「五輸」「本腧」など)であり,ほとんどは五輸の一部にしか言及しておらず,しかも「井滎」「滎輸」が主である。虚実の補瀉に用いるというのは,実際には脈動の盛虚が反映された病が内部にある蔵府を指していて,「井滎」「滎輸」という言葉は,実際は常に五輸穴を指している。主治の内容は具体的な病症の表現であり,かつ五輸穴全体に言及しているのは,上述したの『霊枢』順気一日分為四時が論じていることである。

 五輸穴と季節の配当関係が『難経』と『黄帝内経』とでは全く異なることについて,先人の徐大椿や日本の丹波元簡などはすでに気づいていた。しかし徐氏はそれを指摘して,「越人之說,不知何所本也〔越人の說,何れの本づく所かを知らざるなり〕」[7]94-95というだけであり,丹波氏は「必『難經』之誤〔必ず『難經』の誤りならん〕」[21]と率直に述べている。いずれも『黄帝内経』をおおもととして比べていて,『難経』の説の本質を分析し,指摘してはいない。

 以上の分析によって以下のことが分かった。五輸穴と四時を関連づけるにあたり,『黄帝内経』は,五輸穴が反映する蔵府経脈の気と四時の気の活動特徴の一致を考慮した。理論の構築において時代の思想観念の影響があるとはいえ,腧穴の作用の法則性を逸脱していない。『難経』が『黄帝内経』と異なるところは,その後の鍼灸実践経験に基づいた法則性の発見と理論的解釈ではなく,五行学説の理論から導き出されたものであり,井滎輸経合と春夏秋冬の両者を機械的対応させたものある。このような医学理論構築の観念と方法は,ここだけにとどまらず,『難経』に終始一貫している。『難経』の五輸穴の主治病症は具体的であるだけでなく,五行の属性特徴を含んでおり,それによって五蔵に関連する明示的であれ暗示的であれ特定の病変などの要素は,それを伝授され学習する者がその説に実践的経験に源があると思い込んで,機械的理論を臨床実践に用いる方向に誤って導かれやすい。


2022年11月15日火曜日

『難経』五輸穴の主治病症とその五行観念に関する分析 03

   3 『内経』『難経』における五輸穴が季節に応じる根本的な差異


 五輸穴の特性に対する認識は,五輸穴と季節の対応関係にも反映されているが,このような関係の理論構築には,治法という形式で天人相応の観念を反映させ,強調する意図もある。『黄帝内経』と『難経』には,いずれもこれについての専門の論述があり,それぞれの五輸穴に対する認識の重要な研究面を明らかにしている。

 『難経』は五輸穴と季節関係を論じているが,これも陰脈にある五輸穴の五行属性に基づいいて,(四季に長夏を加えた)五時は井滎輸経合に対応する。第七十四難:

     經言春刺井,夏刺滎,季夏刺俞,秋刺經,冬刺合者,何謂也?然。春刺井者,邪在肝;夏刺滎者,邪在心;季夏刺俞者,邪在脾;秋刺經者,邪在肺;冬刺合者,邪在腎〔經に言う,春は井に刺し,夏は滎に刺し,季夏は俞に刺し,秋は經に刺し,冬は合に刺すとは,何の謂(いい)ぞや?然(こた)う。春は井に刺すとは,邪 肝に在ればなり。夏は滎に刺すとは,邪 心に在ればなり。季夏は俞に刺すとは,邪 脾に在ればなり。秋は經に刺すとは,邪 肺に在ればなり。冬は合に刺すとは,邪 腎に在ればなり〕[3]133。

 その論法は五輸穴の主病と同じく,依然として五蔵の陰脈に限られている。その内容の欠陥について,張山雷は次のように明言している。「然陽經井金滎火,豈亦屬肝屬心耶?以此推之,則空言欺人,蓋亦不辯自明〔然れども陽經の井金・滎火,豈に亦た肝に屬し心に屬せんや?此れを以て之を推せば,則ち空言 人を欺く,蓋し亦た辯ぜずして自(おのずか)ら明らかなり〕」[8]158。

 『黄帝内経』には五輸穴と季節の関係が多くの篇ですでに述べられていたが,五輸穴と五行の配属に基づいているわけではなく,長夏に言及するものも,『霊枢』の順気一日分為四時篇の一篇のみである。そのため,五輸穴と季節の対応は,両書はほとんど全く異なっている。簡単に言えば,『黄帝内経』は井穴で冬に対応するが,『難経』は井穴で春に対応し,合穴で冬に対応する。両書では,五輸穴の最初の穴と歳時〔季節〕の順序が正反対である(表3)。


表3 『黄帝内経』と『難経』の五輸穴が対応する季節の比較

   文献            季節

書名   篇目    春 夏 長夏   秋     冬

『黄帝内経』本輸     滎 腧  ―   合    井腧

     四時氣   ― ―  ―        経腧,合  井滎

    水熱穴論  ― ―  ― 経腧,合  井滎

    順氣一日分 滎 輸  經   合     井

    為四時

『難経』第七十四難 井 滎  俞   経     合


 『黄帝内経』で冬に井穴を取るのは,「深」「陰」(四時気篇と水熱穴論篇)からの着想で,「病は蔵に在り」(順気一日分為四時篇)を用いている。『難経』はこれと異なり,五輸穴を五行に配した基礎の上で,春に井穴を取るのは,「始生」からの着想で,冬に合穴を取るのは,「入蔵」からの着想である。第六十五難はつぎのようにいう。「所出為井,井者,東方春也,萬物之始生,故言所出為井也。所入為合,合者,北方冬也,陽氣入藏,故言所入為合也〔「出づる所を井と為す」とは,井なる者は,東方春なり,萬物之れ始めて生ず,故に「出づる所を井と為す」と言うなり。「入る所を合と為す」とは,合なる者は,北方冬なり,陽氣入藏す,故に「入る所を合と為す」と言うなり〕」[3]120。

 したがって,両書のこのような大きな違いは,「変通の義〔原則に拘泥せず状況の変化に対応した柔軟な処置という意味〕」[6]93(楊注)〔七十四難注〕なのではなく,根本的な原因は当初からの着想が異なることにある。


2022年11月13日日曜日

『難経』五輸穴の主治病症とその五行観念に関する分析 02

 

  2 『難経』五輸穴の主病と実践との間の距離


 『難経』が提起した五輸穴の主治病症に関する原文は以下のごとし。

    六十八難曰:五藏六府各有井滎俞經合,皆何所主?然。經言:所出為井,所流為榮,所注為俞,所行為經,所入為合。井主心下滿,滎主身熱,俞主體重節痛,經主喘咳寒熱,合主逆氣而泄。此五藏六府其井滎俞經合所主病也〔六十八の難に曰わく:五藏六府各々(おのおの)井滎俞經合有り,皆な何の主る所ぞ?然(こた)う。經に言う:出づる所を井と為し,流るる所を滎と為し,注ぐ所を俞と為し,行く所を經と為し,入る所を合と為す,と。井は心下滿を主り,滎は身熱を主り,俞は體重節痛を主り,經は喘咳寒熱を主り,合は逆氣して泄するを主る。此れ五藏六府 其の井滎俞經合の主る所の病なり。〕[3] 124-125。

 「主病〔病を主る〕」とは,すなわち病症を主治することである。元代の滑伯仁『難経本義』は「主,主治也〔主は,主治なり〕」[5]87と注する。上記の原文にいう「此五藏六府其井滎俞經合所主病」とは,すべての五輸穴を意味する。果たしてそうなのか。また一体何者の病を主治するのか。その内包を正確に理解し,主治の内容の由来を明確にするために,ここでは主に2点を分析する:

 (1)実際には陰脈の五輸穴の主病にすぎない。この点は,少なくとも宋代にはすでに明確に指摘されていた。たとえば,明代の王九思等編の『難経集注』は,宋の丁徳用の「此是五藏井滎俞經合也……〔此れは是れ五藏の井滎俞經合なり……〕」と,虞庶の「以上井滎俞經合,法五行,應五藏,邪湊其中,故主病如是〔以上の井滎俞經合は,五行に法(のっと)って,五藏に應じ,邪 其の中に湊(あつ)まる。故に病を主ること是(か)くの如し〕」[6]90を引用している。しかしながら,その後の認識はかえって以前に及ばず、例えば滑伯仁の『難経本義』も五蔵病から解釈したが,また謝堅白の注,「此舉五藏之病各一端為例……不言六府者,舉藏足以該之〔此れ五藏の病の各々一端を舉げて例と為す……六府を言わざる者は,藏を舉げて以て之を該(かぬ)るに足ればなり〕」[5]88を引用している。清代の徐大椿の『難経経釈』はその主病を「由六十四難五行所屬推之〔六十四難の五行の屬する所に由って之を推す〕」と指摘し,(そして五蔵において)さらに「然此亦論其一端耳,兩經辨病取穴之法,實不如此,不可執一說而不知變通也〔然れども此れも亦た其の一端を論ずるのみ。兩經の辨病取穴の法は,實は此(か)くの如きにあらず。一說に執(とらわ)れて變通を知らざる可からざるなり〕」 [7]90と指摘した。唯一,中華民国の張山雷は『難経注釈箋正』において問題の所在を明確にし,「然於陽經之井滎等五行,則又何如〔然れども陽經の井滎等の五行に於いては,則ち又た何如(いかん)せん〕?」[8]150という。しかしながら,謝堅白の曖昧な認識は今でもきわめて一般的である。例えば中医大学の本科の統一編集教材では,普通高等教育中医薬類計画教材の第6版『針灸学』[9]が「陰脈の五輸穴は五臓の病を主治する」と明言している以外,その他の書は,みなほとんど判断分析をしていない。さらに鍼灸の著作では,これを「五腧穴の主治総綱」と見なしているものさえある[10]。

 (2)五輸主病は,陰脈の五輸穴の五行が五蔵に応ずることに基づいて得られたもので,その具体的な内容は『難経』中から推し量ることができる。著者が『難経』のテキストを整理して見つけたことは,これらの具体的な主治病症は本書の中で論じられている五蔵の病と内在的な関連があり,第十六難で詳しく述べられている五蔵の病の診断に集中していることである。たとえば,「假令得肝脈,其外證:善潔,面青,善怒。其內證:齊左有動氣,按之牢若痛。其病:四肢滿,閉癃,溲便難,轉筋〔假令(たと)えば肝脈を得れば,其の外證は,潔きを善(この)み,面青く,善く怒る。其の內證は,齊(へそ)の左に動氣有り,之を按(お)せば牢(かた)く若(も)しくは痛し。其の病は,四肢滿し,閉癃し,溲便難く,轉筋す〕」[3] 33-34。五輸穴の主治病症とこれらの五蔵の病の表現を照合すると,五輸主病はこれらの五蔵の病の主な表現と特性から抽出したものであることが見いだせる(表2)。


*****************************************************

  第十六難                      第六十八難

*****************************************************

  肝脈……其病:四肢滿,閉癃,溲便難、轉筋。  井主心下滿

  心脈,其外證:面赤、口乾、喜笑……  

五 其病:煩心,心痛,掌中熱而啘。        滎主身熱

  脾脈……其病:腹脹滿、食不消,體重        俞主體董節痛

與 節痛,怠墮嗜臥,四肢不收。

  

陰 肺脈……其病:喘咳,灑淅寒熱         經主喘咳寒熱

脈 

  腎脈……其病:逆氣,少腹急痛,泄如下重,   合主逆氣而泄

  足脛寒而逆。

                        此五藏六府其

性                       井滎俞經合所

  是其病,有內外證。             主病也

*****************************************************


 五輸穴理論を提起した『黄帝内経』において,五輸穴の主病はそれぞれの類穴が所在する部位と関連している。例えば,五蔵の病を主治するのは五輸穴中の「輸」穴,すなわち五蔵の原穴である。六府の病を主治するのは五輸穴中の「合」穴であり,実際には主に六府の下合穴である。腧穴の所在する部位は主治と関係があるため,五蔵の「輸(原)」穴であれ,六府の「(下)合」穴であれ,いずれも同じ種類の穴では所在する部位が似ている特徴を持つ。『難経』が提起した五輸穴の主病は,この法則を全く反映しておらず,五行の属性を内在的根拠とした推論の結果であって,「人体で検証した」術では全くない。そのため,『難経』とその理論が持っている大きな影響,また五輸穴が臨床で常用される類穴でもあることに鑑みて,さらにその根本的な欠陥に対して本質的な分析と価値判別を行う必要がある。


2022年11月12日土曜日

錢 超塵先生 逝去

 2022年11月11日。享年87歳。

ご冥福をお祈りいたします。


超逸絕塵:超然物外,不滯塵俗。

超軼絕塵:謂駿馬奔馳,出群超眾,不着塵埃。比喻出類拔萃,不同凡俗。

《莊子‧徐無鬼》:「天下馬有成材,若卹若失,若喪其一,若是者,超軼絕塵,不知其所」。

『難経』五輸穴の主治病症とその五行観念に関する分析 01

   1 五輸穴を五行に配した経緯


 最初に五輸穴に関する系統的な記述が見えるのは『霊枢』本輸である。各経脈では井穴のみに五行の属性を示す文字がある。たとえば,「肺出於少商,少商者,手大指端內側也,為井木〔肺は少商に出づ。少商なる者は,手の大指端の內側なり,井木と為す〕」「膀胱出於至陰,至陰者,足小指之端也,為井金〔膀胱は至陰に出づ。至陰なる者は,足の小指の端なり,井金と為す〕」[1]4-5である。しかし,現存する最古の『黄帝内経』のテキストである日本の仁和寺古鈔本『黄帝内経太素』[2]189-198巻十一「本輸」の原文には,このような五行の属性に関する文字はない。『黄帝内経』中の五輸穴と四時の関係に関する論述では,井穴はすべて冬(水)に対応する。これは(陰脈の)井穴が木に配属されることにも明らかに合致しない。

 五輸穴と五行の組み合わせたがすべて揃っている内容は『難経』に初めて見え,第六十四難に詳しく述べられている。すなわち:

    陰井木,陽井金,陰滎火,陽滎水,陰俞土,陽俞木,陰經金,陽經火,陰合水,陽合土,陰陽皆不同,其意何也?然。是剛柔之事也〔陰井は木,陽井は金,陰滎は火,陽滎は水,陰俞は土,陽俞は木,陰經は金,陽經は火,陰合は水,陽合は土,陰陽皆な同じからず,其の意は何ぞや?然(こた)う。是れ剛柔の事なり〕 [3] 117。 


 五輸穴は最も常用される十二経脈の要穴であり,分類された腧穴の中で最も数が多く,理論化の程度も最も高く,数の上でも五行と一致している。これも『難経』が五行理論によって五輸穴を集中的に論じた成因かもしれない。五行化された五輸穴の新しい理法はすべてこれを基礎としている。この配当によれば,五輸穴の間は二つのレベルの関係からなる。一つは本経の五輸穴間の五行(生克)関係であり,もう一つは陰脈と陽脈間の五輸穴で,ここでも五行(生克)関係を構成している。陰陽の属性を両立させるのと同時に,五輸穴の五行属性と所属する経脈の陰陽属性を背馳しないようにする。このようにして,同一経脈および身体の内外側に対称的に分布する経脈の五輸穴の特性と関係をはじめて五行理論で表現することができる(表1)。


  表1 『難経』五輸穴の五行配当

五輸     井 滎 俞 経 合

   陰脈  木 火 土 金 水

五行

   陽脈  金 水 木 火 土

関係  陰陽皆不同,……剛柔之事也


 五輸穴と五行の組み合わせは,どのような順序をなすのが非常に重要であるかに基づいて,五輸穴の具体的な五行属性を決定している。五行の間の関係は、隣り合う行は相生,ひとつ隔てた行は相克で,全体は閉じた循環往復関係である。長い期間で言えば,自然界のあらゆる活動は循環しているが,短い期間内または一周期内の活動の特徴としては,盛衰のリズム,つまり始まりがあり終わりがある。たとえば動植物の個体の生命活動の自然は,常に始まりと終わりを繰り返している。四季のはっきりした地域では,一年のうち,自然界の活動は春に発生するため,四時の気は春を初めとする。五行を四時に配するときは,木を春に配する。『難経』が五輸穴を五行に配するのも同様で,井滎輸経合の順にしたがい井穴から始まるが,陰脈と陽脈はそれぞれ異なる。すなわち,「陰井は木,陽井は金」である。その方法はつぎの三点にまとめることができる。1.井穴から始まる。2.木から始まる。3.まず陰脈(の穴)を確定する。

 (1)「井」穴から始まる。五輸穴の順序では,最初の穴は「井」である。これは『黄帝内経』の理論である,経脈が求心性に走行する理論モデルに基づいている。各脈の五輸穴の順序は手足からはじまり肘膝にいたる。その気血の流れは水が水源から出て合流して海に入ることになぞらえられ,「井・滎・輸・経・合」という。つまり「所出為井,……所入為合〔出づる所を井と為す,……入る所を合と為す〕」[1]3である。『難経』には「五藏六府滎合,皆以井為始〔五藏六府の滎合は,皆な井を以て始めと為す〕」[3]116と表現されている。

 (2)木から始まるのは,一年の季節の始まりと終わりの順序に基づいている。すなわち,木から始まって五行の相生の順序で季節の特性と変化に対応する。一年は春から始まり冬に終わり,天地自然の活動の恒常的な循環法則に一致し,またそれを反映している。

 (3)まず陰脈を定める。陰脈は蔵に属し,五蔵を中心とする観念に基づく。そのため,陰陽経脈の井滎輸経合の五輸穴は,井穴から始まり,五行に配当され,またそれを順序とする。

 上述した方法の原理について,『難経』は「井者,東方春也,萬物之始生……當生之物,莫不以春而生。故歲數始於春,日數始於甲,故以井為始也〔井なる者は,東方春なり,萬物之れ始めて生ず……當に生ずべきの物,春を以てして生ぜざるは莫し。故に歲數は春に始まり,日數は甲に始まる,故に井を以て始めと為すなり〕」[3] 116という。黄竹斎の『難経会通』は直截に解釈して,「東為四方之始,春乃四時之始,井乃井滎輸經合之始,故曰井者東方春也,萬物當春而始生,經水始出,所以謂之井也〔東は四方の始め為(た)り。春は乃ち四時の始まり,井は乃ち井滎輸經合の始まり,故に曰わく,井なる者は東方春なり,と。萬物は春に當たって始めて生じ,經水始めて出づ。所以(ゆえ)に之を井と謂うなり〕……」[4]といい,井穴を脈気の始源とすることに注目している。しかし,『難経』の原文はこの難では明確ではないが,四十一難の「肝者東方木也,木者春也,萬物始生〔肝なる者は東方の木なり,木なる者は春なり,萬物始めて生ず〕」[3]82から知ることができる。ここでいう「井なる者は東方の春なり」は,事前に規定された五輸穴の五行属性に依然として基づいているのは明らかであり,しかも陰脈のみである。

 五蔵陰脈の五輸穴の五行配当が確定すると,陽脈の基礎となる。すなわち相克関係に基づいて,六府陽脈の五輸穴の五行属性が確定し,陰と陽,蔵と府の相反する特性と関係に一致する。すなわち「陰井は木,陽井は金,陰滎は火,陽滎は水……陰陽皆な同じからず……是れ剛柔の事なり」である。

 そのため,五輸穴の五行属性が定められた過程から逆に推論すれば,多くは理論観念から導き出されたものであることが分かり,陰陽・蔵府・経脈などの理論に関連しているように表面上は見えるが,五輸穴を類穴【同じ性質を持つとして分類される穴,すなわちここでは五種類の穴の意か?】とする真の根拠と法則については,構成中に考慮されていない。つまり,『難経』における五輸穴と五行の関係は,鍼灸の実践経験を反映したものではない。

 『難経』における陰陽経脈の五輸穴の五行配当は,五輸穴の主治病症,補瀉の刺法,井滎の用穴,四時の用穴,および類穴の意味,『黄帝内経』における補瀉刺法の意図,「迎随」補瀉の解釈などを含む一連の特殊な理論と方法を進化させた。その中でも五輸穴の主病は,直接臨床上の治療用穴に関係して,特に影響が広大で,その明瞭な原因と結果の過程をはっきりさせなければ,実践に役立たない。


2022年11月11日金曜日

『難経』五輸穴の主治病症とその五行観念に関する分析 00

   趙京生 姜姗

                                            〔中国針灸2022年8月第42卷第8期〕

                                                                                

    【要旨】『難経』は『黄帝内経』に続くもう一つの中国医学理論を著わした典籍であり,主に『黄帝内経』に由来する理論を解釈し発展させたものである。五輸穴は常用される重要な腧穴であり,『難経』が提出した「五輸主病〔五輸穴の主治病症〕」は,鍼灸の腧穴の理論と運用に対して,いずれも後世に重要な影響を与えたが,考証した結果,実際には五行学説から推論された虚構にすぎなかった。その理論構築の源流と方法を深く分析することによって,具体的に主治病症の源を考査して発見し,この理論の誤謬の所在を明確にした。そして『内経』『難経』に見える五輸穴が五季に応ずる根本的な差異を比較し,『黄帝内経』における五輸穴と季節の関係の社会観念的背景を深く探り,さらに理論的演繹法から『難経』五輸穴の主治病症の問題点を検証することによって,その意義と価値に対して理性的な判断をおこない,盲目的な実践を避ける。


 【キーワード】難経;五行学説;内経;鍼灸思想史


 『黄帝八十一難経』(『難経』と略称する)は古くは戦国時代の秦越人(扁鵲)が著わしたものとして伝えられたが,現在では多くの人は成書したのは『黄帝内経』以降で,後漢時代よりは遅くないと考えている。『難経』全体は問題を提起し,それを解析する形式で貫かれており,『黄帝内経』を主とする中国医学の理論をさらに解釈し発展させ,系統化している。中国医学と鍼灸理論,およびその運用に深い影響を与えていて,それは今でもかわりなく,中国医学の経典の一つと見なされている。『難経』は鍼灸の多方面の重要な内容を論述し,現在使用されている主要な理論範疇におよぶ。それには経脈・腧穴・刺法・治則・選穴などが含まれていて,いずれも経典鍼灸理論の核心成分に属する。その中で,理論構築方法の大きな特徴は,五行学説の影響が深く浸透していることである。これによって形成されたいくつかの鍼灸の理法〔筋道と構成ルール〕は,『黄帝内経』と比較して非常に異なる。これについて,一般には『黄帝内経』以降の充実や発展とみなしたり,流派の違いに帰したり,内容自体の限界や欠陥を指摘したりするのみで,深く研究されたことは少ない。

 これらの理論で,「五輸主病」は今日の実践になお普遍的な影響を与えている。五輸穴とは「井穴」「滎穴」「輸穴」「経穴」「合穴」と命名された五種類の穴であり,四肢の肘膝以下に位置し,常用されるる重要な腧穴である。いわゆる「五輸主病」とは,五輸穴が主治する病症に対する理論の総称である。『黄帝内経』のこの部分に関連する論述と比べると,『難経』の「五輸主病」理論は,井・滎・輸・経・合の五類穴を完全に網羅し,主治病症は具体的で形式が整い,後世において五輸穴の臨床運用を指導する重要な原則として尊重されている。また、その理論方法は『難経』における井滎穴の使用法,五輸穴と四時(五季)選穴の対応,および五輸穴の補瀉刺法など多くの内容に関連し,あるいは決定づけた。

 しかしながら,筆者の考証では,立論の方法には問題があるため,『難経』が提出した五輸穴主病は実際には偽の命題であり,その根源は五種類の穴と五行の組み合わせがすべて五行学説から出発していることにあり,満たしているのは五行理論であって,用穴の経験法則ではない。そのため,『難経』の鍼灸の理法の理解認識の角度からも,臨床における実用的な意味の理論的分析の前提からも,その理論構築の方法を分析し,さらにその理論の本質と価値を明確に評価することがいずれも肝要である。


2022年7月18日月曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 10

  (10)墓誌には楊上の卒年について、「永隆二年八月十日,年九十三」と記載されている。上述した考証にもとづいて推算される楊上善の年齢と職歴はおおよそ次の通り。

 隋・文帝開皇9年(589年)生まれ。開皇19年(599年)11歳、出家して道士となる。唐・高宗顕慶5年(660年)72歳以前、詔を受けて入朝し、弘文館直学士に除せらる。龍朔元年(661年)73歳、また沛王文学に除せられ、同年左武衛長史に遷る。麟徳2年(665年)77歳、左衛長史に遷る。上元2年(675年)87歳、太子文学に遷る。儀鳳元年から調露元年(676~679年)の間、90歳前後、前後して太子司議郎・太子洗馬に遷る。調露2年(680年)92歳、辞職して家に帰る。永隆2年(681年)93歳、里第〔官僚の私宅〕に卒す。

楊上善の生涯に関する新たな証拠 09

  (9)墓誌に「歲侵蒲柳,景迫崦嵫,言訪田園,或符知止〔歲は蒲柳(水楊。衰弱した体)を侵し,景(ひかり)は崦嵫(日が落ちる山の名。晩年)に迫り,言(ここ)に田園を訪れ,或いは止まるを知るに符す〕」とある。ここにはおおやけにはできない事情が隠されているのではないか。唐・高宗の後期、権力は武氏に帰した。李賢が注釈した『後漢書』は、武則天〔則天武后〕に外戚の専制を暗に風刺しているとの疑いを抱かせた。〔武則天の信頼を得ていた〕方士の明崇厳もまた、李賢は〔実際は武則天の第2子であるが〕武則天の姉である韓国夫人が産んだ子で、命相〔命運と容貌〕は帝位を継承するにはふさわしくないと宮中で噂を流し、李賢はそれを聞いて疑いや不安におそわれたという。調露2年に李賢は皇太子を廃され、のちに巴州に監禁され、自殺を余儀なくされた。楊上善は六品の官位から昇任すること20年、従五品官に昇進したばかりで、通常の状況ではすぐに辞職を望むことはありそうにない。したがってその官を辞して老を養うというのは、太子が廃位されたためか、少なくとも太子の地位が不安定であることを察知したからこそ、辞職して帰郷したのであろう。時は調露2年である。


2022年7月17日日曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 08

  (8) 墓誌に記載される楊上の最後の官職は太子洗馬であり、杜光庭の説と参照しあえる。杜光庭『道徳真経広聖義』の序に、「太子司議郎楊上善は、高宗の時の人、『道徳集中真言』二十巻を作る」とある。『六典』や『通典』などの記載によれば、司議郎は正六品上階であり、ちょうど太子文学の正六品下階と、太子洗馬の従五品下階の間にある。墓誌に記載されている楊上の官職が不完全であることは、その「等」字から知ることができるし、通直郎と左衛長史が記載されていないことからも証明できる。その省略の方法は、おおよそ以下のように推測できる。通直郎は散官であるため、職事官は記したが散官は省略した。左衛長史と左威長史は品階の属性が同じなので、前官を記したが後官は省略した。司議郎に任ぜられたのは、他の二種類の太子府の官職の間なので、前後を記して中間を省略した。これらはみな極めて正常である。楊上善の任官履歴によれば、太子司議郎であったのは儀鳳年間に違いない。『唐会要』巻67に、司議郎は「掌侍從規諫,駁正啟奏,並錄東宮記注,分判坊事,職擬給事中〔侍從の規諫を掌り,啓奏を駁正し,並びに東宮を錄して記注し,坊事を分判し,職として給事中に擬せらる〕」とある。杜光庭はその本を見たことがあり、その署名に基づいて忠実に記載したのに違いない。楊上善が太子洗馬に遷ったのは、調露元年(679年)ごろか、あるいは少し早い時である。洗馬は太子司経局の長官であり、『六典』巻26に、「洗馬掌經史子集四庫圖書刊緝之事,立正本、副本、貯本,以備供進。凡天下之圖書上於東宮者,皆受而藏之。文學掌分知經籍,侍奉文章,總緝經籍,繕寫裝染之功〔洗馬は經史子集四庫圖書刊緝の事を掌り,正本・副本・貯本を立て,以て供進に備う。凡そ天下の圖書 東宮に上(たてまつ)る者は,皆な受けて之を藏す。文學は經籍を分知し,文章を侍奉し,經籍を總緝し,繕寫裝染の功を掌る〕」とある。楊上善は先に太子文学と太子司議郎に任ぜられ、多数の図書の撰注を主宰したのだから、この職に昇進したのは、自然な流れであった。


2022年7月13日水曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 07

  (7)楊上と楊上善は、ともに太子文学である。日本の古鈔本『黄帝内経明堂』の巻頭と『太素』の各巻頭には「通直郎守太子文学臣楊上善撰」と題されており、晩清の楊守敬はもっとも早く、隋代に太子文学の官がなかったことを理由に、楊上善は唐・高宗の時期の太子文学であると指摘した。しかし北周の武帝の建徳3年(574年)にも太子文学が置かれていたことから、張均衡『適園蔵書志』は「周・隋相い接し、上善 此の書を撰するは、尚お周の時に在り」と述べて、伝統的な隋太医侍御説と折り合いを計った。現代の学者がより全面的に深く研究した結果、この説は信用できないことが証明された。北周には太子文学があったが、通直郎の官はなく、隋には通直郎があったが、太子文学はなかったし、守官の制もなかった。隋・唐時代には実職の肩書きは職事官と呼ばれ、職務を定めるために用いられた。栄誉としての虚銜〔名誉職〕は散官と呼ばれ、班位を定めたが、恩寵はされない。散官と職事官の品級は必ずしも一致していないが、唐代はこれに対して異なる呼称法を定めた。『旧唐書』職官志につぎのようにいう。「凡九品已上職事,皆帶散位,謂之本品。職事則隨才錄用,或從閑入劇,或去高就卑,遷徙出入,參差不定。散位則一切以門蔭結品,然後勞考進敘。《武德令》職事解散官,欠一階不至為兼,職事卑者不解散官。《貞觀令》以職事高者為守,職事卑者為行,仍各帶散位,其欠一階依舊為兼,與當階者皆解散官。永徽以來,欠一階者或為兼,或帶散官,或為守,參而用之,其兩職事者亦為兼,頗相錯亂。咸亨二年,始一切為守〔凡そ九品已上の職事,皆な散位を帶ぶ。之を本品と謂う。職事は則ち才に隨って錄用(任用)し,或いは閑從り劇に入り,或いは高きを去って卑きに就き,遷徙出入,參差して定まらず。散位は則ち一切 門蔭(先祖の功績による仕官)を以て品を結し,然る後に勞考進敘す(功績を考査して昇進させたり奨励したりする)。《武德令》は職事(『通典』巻34に「高者」2字あり)散官を解して,一階を欠して至らざるを兼と為し,職事卑き者は散官を解せず。《貞觀令》は職事の高き者を以て守と為し,職事卑き者を行と為し,仍って各々散位を帶び,其の一階を欠して舊に依るを兼と為し,當階に與る者は皆な散官を解す。永徽以來,一階を欠する者或いは兼と為し,或いは散官を帶び,或いは守と為し,參して之を用ゆ。其の兩職事の者も亦た兼と為し,頗る相い錯亂す。咸亨二年(671),始めて一切を守と為す〕」。楊上善の職事官は太子文学で、正六品の下である。散官は通直郎で、従六品の下で、両階を欠す。『武徳令』〔武徳:618年~ 626年〕によって散官を解かれたはずであり、そのため「太子文学」とだけ呼ばれた。貞観十一年〔637〕の新令が公布されてから「通直郎守太子文学」と呼ばれるようになった。また、唐が太子文学を置いた時については、『六典』巻29は、「皇朝顕慶〔656年~661年〕中に始めて置く」という。『通典』巻30は、「龍朔二年〔662〕、太子文学を置く」という。唐・高宗の顕慶の次の年号が龍朔であり、この二説は最少で2年の差しかなく、楊上善の生涯を考証する上でそれほど大きな関係はない。

 先人はすでに楊上善が唐・高宗の時代の太子文学であると考察したが、その根拠は日本の古鈔本に書かれた署銜〔肩書き〕が唯一の証拠であって、その在任期間を確定することはできず、誰が太子の時であったかさえも、より正確な判断を下せなかった。現在は釈道世が「左衛長史兼弘文館学士陽尚善」と称したことと結びつけて、特に墓誌に述べられている楊上の履歴が、楊上と楊上善はたしかに同一人物であることを証明するに十分なだけでなく、その職務経歴をかなりはっきりと考証できる。

 楊上が朝廷に出仕していた20年間の太子は、『旧唐書』巻86『高宗諸子伝』によれば、二人いる。すなわち高宗の第5子李弘は、顕慶元年に皇太子に立てられ、上元2年(675年)に薨じた。第6子の李賢は、上元2年6月に皇太子に立てられ、調露2年(680年)に廃された。墓誌に書かれた楊上の経歴は、李弘とは何の関係もなく、章懐太子李賢の伝記とは相互に裏付けができる。伝に次のようにある。李賢は「龍朔元年 沛王に徙封され,揚州都督を加え,左武衛大將軍を兼ね,雍州牧は故(もと)の如し。二年,揚州大都督を加う。麟德二年(665年),右衛大將軍を加う」。『旧唐書』高宗紀は「左武衛」を「左武侯」に作る。先に引用した李賢の墓誌は「右衛」を「左衛」に作る。楊上の墓誌の記載には、「沛王文学に除せられ、左威衛長史に遷る」とあり、道世はまた楊上善は左衛長史であったという。当時彼は70歳を過ぎていて、王府で文学の職を務めるのはもちろん適職だとしても、なぜ幕府の武官に職を変えられたのかという不可解な問題がもともとあった。李賢の墓誌と伝記を調べていて、突然気づいた。「左威衛」は実は「左武衛」の誤りであり、李賢が任じられた「右衛大将軍」は「左衛大将軍」の誤りとすべきである。楊上は沛王文学に除せられた後、ずっと李賢王府の職にあり、その官名は李賢の加官に従って変遷した。つまり龍朔元年に沛王文学に除せられ、同年に左武衛長史に転じ、麟徳2年に左衛長史に転じた。太子文学に遷ったのは、李弘が太子であった時は不可能であるので、かならず上元2年〔675〕6月に李賢が太子になった後である。楊氏がその後の5年間のうちに2度官を遷っているから、平均すると太子文学の任期は約2年と推算されるので、彼が『太素』に注を施したのは暫定的にこの年とすることができる。


2022年7月12日火曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 06

  (6)楊上が左威衛長史に遷ったことは、楊上善と同一人物である最も有力な証拠の一つとすることができる。唐の釈道世『法苑珠林』巻100に、「『六道論』十巻、皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善撰」とある。古代の楊姓はよく「陽」と書かれる。最も有名な例は戦国初期の道家の人物、楊朱があげられ、陽朱あるいは陽居と書かれる。「尚」と「上」は、音も意味も同じで、人名ではよく混用される。また唐初の李師政『法門名義集』は、「六道とは、地獄道・畜生道・餓鬼道・阿修羅道・人道・天道、是れを六道衆生と為(い)い、亦た六趣と名づく」という。これは、陽尚善『六道論』10巻が、新旧の『唐書』の志に著録されている楊上善『六趣論』10巻であるとするのに十分な証拠である。国家図書館所蔵稿本『新唐書芸文志注』(撰者名なし、晩清の繆荃孫の注か)の巻3は引用する際、注をつけることなく〔楊上善を〕楊尚善に改めている。残念ながら、近現代の楊氏の生涯を考証した論文は、みなこの資料に気づかなかった。ここで最も重視すべきことは、道世が「皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善」と呼んでいるのに対し、墓誌に載せられた楊上は解褐〔出仕〕して弘文館学士に除せられ、左威衛長史に遷ったことであり、同一人物であることは間違いない。左衛長史と左威衛長史の職掌は近く、沛王文学と同じ従六品上階であり、所属する衛名がやや異なるにすぎない。唐代の官制によれば、楊上は沛王文学から左威衛長史となり、まもなく左衛長史となったはずである。道世は陽尚善が左衛長史に在任していた時に弘文館学士を兼ねていたという〔皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善〕。その官階を見ると、墓誌と同じく直学士とすべきであるので、およそ唐代の人は美称として「直」字を省いていたのである。これは、表面上墓誌が解褐して弘文館学士に除せられたというのと完全には一致しないが、唐代の官制にもとづけば、この矛盾は十分に説明できる。弘文館はもともと兼任すべき官であり、楊上は沛王文学に除せられた後も、当然そのまま兼任することができる。『法苑珠林』は、唐の高宗の総章元年(668年)3月に成書しているので、楊上が沛王文学、左威衛長史、左衛長史に任ぜられたのはすべて龍朔から総章〔661~668〕までの7年間で、その間、楊上の官階は昇進していないことの証拠とするに十分である。したがって墓誌にいう「累遷〔累(かさ)ねて遷る〕」は、以下の諸職を指して言っているはずであり、沛王文学から左威衛長史に「累遷〔昇進〕」したのではなく、職務はかわったが、左威衛長史、左衛長史に着任しているあいだ、ずっと弘文館直学士を兼任していたのである。


2022年7月11日月曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 05

 (5)楊上が沛王文学に除せられたことは、その官職の履歴を考証するための基本的な時間座標を提供するし、楊上善が太子文学の任にあったことを考証するのにも新たな証拠を提供する。『大唐故雍王贈章懷太子墓誌銘並序』には、李賢が「龍朔元年〔661〕に沛王に徙封され」、「咸亨二年〔671〕に雍王に徙封された」という記載がある〔1〕。『旧唐書』高宗紀によれば、雍王に徙封されたのは、咸亨3年9月である。ということは、楊上が沛王文学に除せられたのは、龍朔元年から咸亨3年の間(661~673年)〔2〕に限られる。彼の以後の履歴を参考にすると、沛王文学に除せられたのは龍朔の初めである可能性が極めて高い。それ以前には、弘文館直学士として仕え、例によれば兼職して、それ自体には定まった品〔官制中の階級〕はなかった。沛王文学に除せらたことにより官品〔官の分類と階級〕が定まったので、直学士になってからそれほど時間はたっていない。したがって召されて出仕したのは、顕慶(656~660)〔3〕の末年にあたり、その時はすでに70歳を過ぎていたのではないか。楊上は、これ以前の生涯の大半を隠居して道を修め学問に専念していたのに、晩年にいたって召されて出仕したのは朝命には逆らえなかったためであり、盧蔵用の「終南捷径」とは大いに趣を異にする。「賁帛遐徵,丘壑不足自令〔賁帛(帝王が下賜した束帛)もて遐(はる)かに徵し、丘壑(山と谷。隠居)自ら令するに足らず〕」というのは、決して単なる美辞麗句ではない。楊上善には沛王文学に任ぜられた記載はないが、太子文学の職務はこれと関係がある。詳しくは以下の(7)を参照。


    [3]苏盈·唐章怀太子墓志铭文[J].陕西档案,1994,(3):43.

    〔1〕徙封:百度百科:指古代有爵位者,從原封地改封為其他地區。

    〔2〕咸亨3年は、672年。

    〔3〕顕慶は6年まである。顕慶6年(661)は、龍朔元年でもある。


2022年7月9日土曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 04

  (4)楊上と楊上善は、いずれも弘文館直学士である。墓誌は、「楊上が解褐〔平民から仕官〕して弘文館学士に除せられた」というが、「学士」ではなく「直学士」とすべきだと疑う。唐代の官制では、弘文館はみな他の官と兼任であり、五品以上は学士であり、六品以下を直学士という。五品以上は高級官僚であり、唐代では「具員〔1〕」という。楊上が道士あるいは隠士から、直接学士に除せられるのは不可能で、直学士とすべきである。楊上は出仕した後、長期にわたって六品官を務めたことから見ると、その解褐して除せられたのは直学士とすべきで、学士ではない。楊上善にも弘文館学士に任ぜられた記載があるが、同じく直学士とすべきである。詳しくは、以下の(6)を参照。


    〔1〕具員:百度百科:五品以上官及京常參官的名冊。唐制,六品以下官皆由吏部註擬,五品以上官則由君相選授。自貞觀以後,除拜五品以上官,中書門下必立簿記其課績、歷任、官諱等,以供遷轉依憑。開元四年(公元716年),員外郎及御史等京常參官亦改由君相任命,故其名亦列入具員簿中。安史亂後,其制久廢。德宗、憲宗時復置。五代後唐因之。


2022年7月8日金曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 03

  (3)楊上の学風は楊上善と同じである。墓誌は楊上に隠士の風が少ないことを述べるのに多くの筆墨を費やしている。特に「年十有一,虛襟遠岫,玩王孫之芳草,對隱士之長松〔年十有一,虛襟(虚心)遠岫(遠き峰),王孫の芳草を玩(もてあそ)び,隱士の長松に對す〕」という。もし彼が在家の隠居にすぎなかったなら、この年のことを記録する必要はない。したがってこれは彼が出家して道観に入った年にちがいない。唐代の人である盧蔵用〔664ごろ~713ごろ?〕は終南山に隠居して道を修め、『芳草賦』を著わしたが、後に出仕し、「終南捷径〔終南山は仕官の近道〕」とそしられた〔1〕。この墓誌にいう「王孫の芳草を玩(もてあそ)ぶ」は、楊上が若い頃道士であったことを指しているのかも知れない。しかし「隠士〔隠居して官に仕えないひと〕」には道士が含まれるし、当然のことながら楊上がのちに還俗して隠士になったことも排除できない。中国古代の医学と道教には密接で複雑な関係があり、道士の多くは医学に通じていた。墓誌には、楊上は「於是博綜奇文,多該異說,紫臺丹篋之記,三清八會之書,莫不得自天然,非由學至〔是こに於いて博く奇文を綜(あつ)め,多く異說を該(か)ね,紫臺丹篋の記,三清八會の書,天然に自(よ)るを得ざる莫く,學に由って至るに非ず〕」とある。これは彼が道教の書に精通していたことを言っているが、「異說」と「八會」の書には医書が含まれているはずである。『漢武帝内伝』には、「上元夫人語帝曰:阿母今以瓊笈秘韞,發紫臺之文,賜汝八會之書,五嶽真形,可謂至珍且寶〔上元夫人 帝に語って曰わく:「阿母 今ま瓊笈の秘韞(玉飾りの書箱の中の道書)を紫臺〔道家のいう神仙の居所〕の文を發(ひら)き,汝に八會の書,五嶽の真形を賜う。至って珍且つ寶と謂っつ可し」〕」とある。中国医学はまた人体内の八つの気血が会合するツボを八会と称する。『史記』扁鵲倉公伝に、「會氣閉而不通〔會氣 閉じて通ぜず〕」とあり、張守節の『正義』は『八十一難』を引用して、「府會太倉,藏會季脅,筋會陽陵泉,髓會絕骨,血會膈俞,骨會大杼,脈會太淵,氣會三焦,此謂八會也〔府會は太倉,藏會は季脅,筋會は陽陵泉,髓會は絕骨,血會は膈俞,骨會は大杼,脈會は太淵,氣會は三焦,此れを八會と謂うなり〕」という。墓誌の下文、「又復留情彼岸〔又た復た情を彼岸に留む〕〔2〕」以下の文は、楊上が仏典にも通暁していたことを言っている。「學包四徹〔學は四徹を包(か)ね〕〔3〕、識綜九流〔識は九流を綜(あつ)む〕〔4〕」は、その学風の概括である。簡単に言えば、楊上は、基本的に道教の学者であり、同時に医学・仏学にも通暁していた。残念なことに、墓誌にはその著述の情況の記載がない。楊上善には道家の著作が6種40巻、医学の著作が3種43巻、仏学の著作が2種16巻、全部で10〔ママ〕種99巻がある。墓誌に述べられている楊上の学風は、楊上善の著述状況と完全に一致しているため、彼らは事実上同一人物であると推定するのが合理的である。


    〔1〕『新唐書』盧藏用傳:司馬承禎嘗召至闕下,將還山,藏用指終南曰:「此中大有嘉處」。承禎徐曰:「以僕視之,仕宦之捷徑耳」。藏用慚。

    〔2〕彼岸:佛教用語。指解脫後的境界,為涅槃的異稱。

    〔3〕四徹:未詳。仏典に用例が多い。あるいは四境と同じで、四方國境のことか。

    〔4〕九流:先秦至漢初的九大學術流派。包括儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縱橫家、雜家、農家。


2022年7月7日木曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 02

  (2)楊上の籍貫〔本籍〕。墓誌は「其の先は弘農華陰の人」〔1〕という。これは楊氏が郡望〔郡の名門〕であることを示している。〔墓誌にある〕「稷澤」と「岐山」は、楊氏が周代の姫姓に出ることをいう。『新唐書』巻71下・宰相世系表1下に「楊氏出自姫姓,周宣王子尚父封為楊侯〔楊氏は姫姓自り出づ。周の宣王の子尚父封ぜられて楊侯と為る〕」、「叔向生伯石,字食我,以邑為氏,號曰楊石。黨於祁盈,盈得罪於晉,幷滅羊舌氏,叔向子孫逃于華山仙谷,遂居華陰〔叔向 伯石を生む。字は食我,邑を以て氏と為し,號して楊石と曰う。祁盈に黨し,盈は罪を晉に得,幷びに羊舌氏〔=食我〕を滅す。叔向の子孫 華山の仙谷に逃げ,遂に華陰に居す〕」とある。前漢の楊敞〔2〕と後漢の楊震〔3〕は、ともに弘農華陰を住居として、丞相の官にいたった。墓誌にいう「西漢の羽儀」「東京の紱冕」とは、この二人を指して言っている。墓誌はまた「後代從官,遂家於燕州之遼西縣,故今為縣人也〔後代 官に從い,遂に燕州の遼西縣に家す。故に今は縣人為(た)り〕」という。楊氏が幽燕〔唐代以前では幽州、戦国時代では燕国に属した地域〕の官職についたのは、楊震の末裔の楊鉉〔楊震の八世孫〕に始まり、〔五胡十六国時代の〕燕国時代では北平の郡守であった。隋の文帝楊堅はこの系統の出である〔楊鉉は楊堅の六世祖〕。楊上の系統も楊鉉に出るかもしれないが、その(曽)祖である楊明と祖である楊相は、後魏・北斉時代にともに刺史であった。父の楊暉は、隋の幷州〔いま太原〕の大都督であった。後に唐の高祖李淵は幷州に決起したので、〔墓誌に〕「唐帝遺風の国」という。かれらは正史に見えず、その後裔も唐代での官位は高くないので、隋の皇帝と同族でも遠縁なのかもしれない。残念ながら楊上善の籍貫〔本籍〕は、古い書では言及されておらず、楊上と比較することができない。


    〔1〕維基百科:弘農楊氏,是中國中古時代以弘農郡為郡望的楊姓士族。據《通志·氏族略》記載弘農楊氏或源於春秋羊舌氏後裔,是叔向之後。其始祖為西漢時人楊敞,為漢昭帝時丞相,史學家司馬遷女婿,後代楊寶是西漢末、東漢初,傳習歐陽派《尚書》的經學學者。楊寶之子楊震,人稱“關西孔子”,東漢太尉。其後裔楊秉,楊賜,楊彪皆為東漢太尉,時人稱其“四世太尉”。

    〔2〕維基百科:楊敞(?-前74年),西漢大臣,華陰人。祖先為漢朝赤泉侯楊喜。

    〔3〕維基百科:楊震(54年-124年),字伯起,隱士楊寶之子。中國東漢時期弘農華陰(今陜西省華陰縣東)人。/『後漢書』楊震列傳第44を参照。

    


2022年7月6日水曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 01

  (1)「楊上、字は善」なる者は楊上善と同一人物でありうる。唐代人の名字には、後世の人を大いに困惑させる現象がある。例えば、2文字の名は常に1字が省かれて1文字の名で呼ばれる、名と字(あざな)が混在する、子孫の名が父祖の名と同じであるなどである。2文字の名でありながら、また1文字の名であり、1文字の字(あざな)とするのも、唐代人の名字の不思議な現象のひとつだろう。たとえば、『房山石經題記彙編』の咸亨五年龐懷伯等造像記の中には、「維大唐咸亨五年五月八日龐懷伯」とあるが、同書にはまた故上柱國龐府君金剛經頌〔賛美文〕があって、そこには「公の諱は懷、字は伯」という[2]。つまり造像記の中で、この人はみずからを龐懷伯と名乗っているが、世俗的な墓誌銘に非常に似ている後人が彼の死後に書いたこの頌には、意外にも「諱は懷、字は伯」とある。楊氏が書を著わした時、「楊上善」と自署し、後人がその墓誌を撰したときに「諱は上、字は善」としたのは、これとまったく同じである。当然のことながら、古代には同姓同名のひとは非常に多く、同姓同名の別人がいても不思議ではない。この楊上が楊上善であるかどうかは、主に以下に述べられている彼の生涯の事跡が楊上善と一致しているかどうかをみなければならない。


    [2]北京图书馆金石组.房山石经题记汇编[M].北京:书目文献出版社,1987.3,4.


2022年7月5日火曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 00

楊上善の生涯に関する新たな証拠(楊上善生平考据新证)


        吉林大学古籍研究所  張固也 張世磊 著  『中医文献雑誌』2008年第5期

                                                                                

    〔〕内は訳注。長くなる場合は、番号を附して段落の後ろに置いた。

    原文の参考文献[1]~[3]は、段落末に移動した。

 

    要旨:近年発表された楊上の墓誌は、実は唐代の医家、楊上善の墓誌である。考察により、楊氏の生没年は589年~681年であり、70歳以前に隠居して学問に専念したが、後に詔を受けて入朝し、長期にわたって太子李賢の府に勤めていたことが判明した。『太素』は675年ごろに撰注された。

 

 キーワード:太素 楊上善 生涯 考証


 19世紀に日本で楊上善注『太素』の古鈔本が発見されて以来、中日両国の学者は宋・明時代の医史の著作でいわれていた、楊上善は隋代の人であるという説に疑問を呈し、唐・高宗時代の太子文学であった、とひろく認められるようになった。しかしながら今にいたるまで楊氏の他の生涯の事績についてはほとんど知られておらず、基本的に清代の人の出した結論より先にすすんでいない。最近、『唐代墓誌彙編続集』を読んで、その中に「垂拱007」という番号がついた楊上の墓誌があることに気づいたが、これは楊上善の墓誌である可能性が高い。まず墓誌の主な内容を以下に抄録する。


  大唐子洗馬楊府君及夫人宗氏墓誌銘並序

  〔原本未見のため、代用として一部に中國哲學書電子化計劃データとの異同を一部記す。なお「計劃」は難字を表現できていないようである。〕

  君諱上,字善。其先弘農華陰人,後代從官,遂家於燕州之遼西縣,故今為縣人也。若夫洪源析胤,泛稷澤之波瀾;曾構分華,肇歧山之峻嶷。赤泉疏祉,即西漢之羽儀;白瓌〔=瑰。/計劃作「環」〕貽貺,實東京之紱冕。並以詳〔計劃に「諸」字あり〕史牒,可略言焉。祖明,後魏滄州刺史;祖相,北齊朔州刺史。並褰帷布政,人知禮義之方;案部班條,俗有忠貞之節。父暉,隋幷州大都督。郊通虜鄣,地接寶符,細侯竹馬之鄉,唐帝遺風之國,戎商混雜,必佇高才。以公剖符,綽有餘裕,雨灑傳車之米,仁生別扇之前。惟公景宿摛靈,賢雲集貺,鳳毛馳譽,早映於髫辰;羊車表德,先奇乎廿歲。志尚弘遠,心識貞明,慕巢、許之為人,煙霞綴想,企尚、禽之為事,歲〔計劃作「風」〕月纏懷。年十有一,虛襟遠岫,玩王孫之芳草,對隱士之長松。於是博綜奇文,多該異說,紫臺丹篋之記,三清八會之書,莫不得自天然,非由學至。又復留情彼岸,翹首淨居,耽玩眾經,不離朝暮,天親天著之旨,睹奧義若冰銷;龍宮鹿野之文,辯妙理如河瀉。俄而翹弓遠騖,賁帛遐徵,丘壑不足自令,松桂由其褫色。遂乃天茲林躅,赴波〔計劃作「彼」〕金門。爰降絲綸,式旌嘉秩,解褐除弘文館學士。詞庭振藻,縟潘錦以飛華;名苑雕章,絢張池而動色。寮寀欽矚,是曰得人。又除沛王〔計劃作「府」〕文學,綠車動軔,朱邸開扉,必佇高明,用充良選,以公而處,僉議攸歸。累遷左威衛長史、太子文學及洗馬等,贊務兵鈐,彯纓銀牓〔計劃作「榜」〕。搖山之下,聽風樂之餘音;過水之前,奉體物之洪作。既而歲侵〔計劃作「浸」〕蒲柳,景迫崦嵫,言訪田園,或符知止。不謂三芝宜術,龜鶴之歲無期;乾月奄終,石火之悲俄及。以永隆二年八月十三日,終於里第〔計劃の句讀:不謂三芝,宜術龜鶴之歲;無期幹(まま)月,奄終石火之悲。俄及以永隆二年八月十三日終於里第〕,春秋九十有三。惟君仁義忠信,是曰平生之資;溫良恭儉,實作立身之德。學包四徹,識綜九流,題目冠於子將,風景凌於叔夜。仙鶴未托,門蟻延災,曲池忽平,大暮難曙[1]。(以下の夫人に関する記事と銘文は省略。)


    [1]周绍良,赵超. 唐代墓志汇编续集[M].上海:上海古籍出版社,2001.284.

    ★中國哲學書電子化計劃の『唐代墓志匯編續集』№垂拱007 大唐故太子洗馬楊府君及夫人宗氏墓誌銘並序によれば、省略された部分は以下のごとし。・*サは、表示のまま。おそらく難字。

    夫人南陽宗氏,隋清池縣令之女也。虔誠蘋藻,中饋之禮無虧,銳想組釧,內則之儀允備。昔年晝哭,切鳳梧之半死;今日歸泉,睹龍匣之雙掩。以永淳元年九月卅日終於長壽里第。粵以今垂拱元年八月十七日遷窆於長安縣承平鄉龍首原,禮也。傍分石柱,即為三輔之郊;近通璜渭,是曰八川之壤。佳城鬱鬱,松柏蒼蒼,丹・人素而愁雲飛,白驥鳴而斜日落。嗣子神機等,情深屺岵,痛結穹蒼,既營馬鬣之墳,思樹龍文之碣,林宗有道,伯喈無・鬼。

    其詞曰:

    分源稷澤,命氏諸楊,赤帛標祉,白環表祥。

    乃父乃祖,為龍為光,褰帷作訓,露冕垂芳。

    高情雲聳,逸韻瓊鏘,惟君誕秀,大昴垂芒。

    幼而歧嶷,長自・璋,孤標藝府,獨擅文房。

    琴台鳳集,筆抄鸞翔,娛情澗戶,朗嘯山莊。

    爰逢賁帛,乃應明*,升簪詞苑,奉笏春坊。

    謀猷獻替,令問昭彰,隙前逝馬,水上遷サ。

    池台霜落,風月淒涼,龜謀襲吉,馬鬣開場。

    雙棺是掩,二・齊揚,仙禽來吊,服馬悲傷,

    宿草將列,新松未行。百年兮已盡,萬古兮茫茫。

    


 この墓誌の撰者は不詳である。編者の注には、「西安阿房宮付近の農家が石を蔵し、張鎔がこれを録した」とある。碑石の発見年代はよく分からないが、文章の風格からすると、確かに唐代の人の言辞であり、後世の人が偽撰できるものではない。序文にはまた「今垂拱元年八月十七日、長安県承平郷龍首原に窆(はか)を遷す」とあり、この時に作られた碑文であろう。唐初の墓誌は四六駢儷体で、典故も多く用いられ、その生涯の事績を述べるのは往々にしてそれほど詳しくなく、その著述書を載せることはさらに稀である。楊上の墓誌にも形式的な美辞麗句が多く、記載された事績は簡略にすぎるきらいがある。とはいえ、楊上善の生涯の学術と完全に一致している。以下、墓誌に書かれた文章の順に沿って、10の方面から考証と解釈をおこなう。


 

2022年5月23日月曜日

成都中医薬大学中国出土医学文献与文物研究院編『天回医簡書迹留真』

 https://www.cdutcm.edu.cn/zgctyxwxywwyjy/xsyj/xmycg/content_78693

成都:巴蜀书社,2021.11  定価 100.00

以下,

「前言」(まえがき)をwww.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳してもらい,その上で固有名詞を原文に戻し,若干語調を調えた。

 2012年末、成都文物考古研究院が成都市金牛区天回鎮の前漢墓を発掘し、医学を中心とした竹簡を多数出土した。 2014年末、中国伝統医学院中医歴史文献研究所、成都文物考古研究院、成都中医薬大学、荊州文物保存センターがチームを立ち上げ、これらの竹簡を照合する作業を開始した。 この6年間で、出土したすべての竹簡について、その形状、積み重ね方、編み方、書き方、文字内容などを体系的に研究してきた。

その作業は、第一に竹簡の形態、積み方、書き方などの外見的特徴の研究であり、主に本の分割や世代の確定などの問題を扱う。第二に竹簡の内容の研究であり、文章の解釈、言葉の学術的意味合い、釈義などに焦点を当てると同時に、形式、プロフィール、書き方などの関連で整理し、基本的に明らかにしたものである これらの医学書の出典を明らかにし、その名称を決定した。 天回医書の形式、内容、命名法、文体については、「四川成都天回汉墓医简整理简报」と「四川成都天回汉墓医简的命名与学术源流考」という2つの論文が、『文物』第12号(2017)に掲載されている。 この2つの論文と異なるのは、先日の専門家検討会での議論を経て、照合チームが、当初「医马书」「法令」と名付けた竹書を、「疗马书」「律令遗文」と改名したことである。

この二千年以上前の本格的な医学書コレクションを、より多くの専門家や学者、書道愛好家にいち早く知っていただくために、このたび巴蜀书社の依頼により、天回医学書の中から、保存状態がよく、その中でも書風の異なるものを数冊選び、一冊にまとめ、読者に提供することにした。 また、竹簡の細部を最大限に表現し、古筆の筆遣いを読者に明確に伝えるため、オリジナルのカラー写真に加え、拡大した赤外線スキャンを提供した。 付属の解説書は、括弧や現代的な句読点を加えず、繰り返しの文章や文の読み方記号を残しながら、できる限り原文の形に忠実に再現している。 説明文の前の数字は、竹票をリンクさせた後の照合番号である。 なお、一部の竹簡は脱水して成都博物館に展示しているため、他の竹簡とは色調がかなり異なることを了承されたい。

天回医譜の筆法は概ね、『疗马书』の篆書、『脉书·上经』『犮理』『脉书·下经』『治六十病和剂汤法』の古隸、『逆顺五色脉藏验精神』『刺数』の八分書に近い隸書で構成されている。 出土したテキストの現状を見ると、天回医書のように、同じ墓に篆書、古隸、八分の3種の字体の竹簡があるのは比較的まれである。 天回医書における文字の変化は、秦漢時代の漢字の変化の縮図であると言え、秦漢時代の文字の変遷を研究する上で貴重な初公開情報を提供してくれている。


2022年5月20日金曜日

古代中国の名医・扁鵲と倉公の医学書「天回医簡」が今年出版へ

 https://www.msn.com/ja-jp/news/world/古代中国の名医-扁鵲と倉公の医学書-天回医簡-が今年出版へ/ar-AAXvA7t?ocid=msedgntp&cvid=4de48e3ff0ea4f2ed7bb1f504022111f


【新華社成都5月20日】中国四川省にある成都中医薬大学は19日、10年近くにわたる整理・研究を経て、前漢時代の歴史家、司馬遷(しば・せん)が著した「史記・扁鵲倉公列伝」に記載された名医・扁鵲(へんじゃく)と倉公(そうこう)による医学書「天回医簡」を今年出版すると明らかにした。

*いわゆる老官山漢墓医書。

重磅!老官山汉墓出土罕见经络漆人以及神医扁鹊失传2000多年的医典《成都老官山汉墓》(下)| 中华国宝

https://www.youtube.com/watch?v=ZdKxyz1ALhQ


2022年3月8日火曜日

漢籍リポジトリの双行注の文字の並び順について

 京都大学人文研が運営している「漢籍リポジトリ」

https://www.kanripo.org/

の双行注の一部に文字列の逆転がある問題について。

****************************************

例:

『孔子家語』の本文「馬四十駟」。王肅注「馬也/駟四」。

この注の正しい並び順を句読点をつけて表示すれば,「駟,四馬也」である。

****************************************


2022年3月7日におこなわれた「第17回京都大学人文科学研究所TOKYO漢籍SEMINAR『デジタル漢籍』」における,

http://www.kita.zinbun.kyoto-u.ac.jp/2022_kanseki_tokyo

クリスティアン・ウィッテルン先生の説明によると,以下のごとし。


【四部叢刊】の部分にこの問題がある。

検索結果で切り替えられる【四庫全書・文淵閣】では,正しい並び順になっている。

現在はデータに対応する景印(京都なので。一般には「影印」。菉竹)画像を見ることができないが,ゆくゆくは見られるようにしたい。

誤りを見つけたら,連絡してほしい。

「質問や意見などはメールでkrp2015gg (at) gmail.comまでお願いします。」


2022年2月25日金曜日

心虛?

汪文斌中国共産党外交部報道官,ウクライナ東部の独立と臺灣の関連性についての質問に答えをはぐらかす。

 https://news.ltn.com.tw/news/world/breakingnews/3838172

2022年2月24日木曜日

『近世藩立医育施設の研究』(2021年)

 本書の中に、23の藩立医育施設において教科書として使用されたベスト5が挙げられている。1位からならべると、『傷寒論』『内経』『金匱要略』『瘟疫論』『難経』であるという。

著者は、これらの書籍に以下のような驚くべき説明を加えている。
・内経:……本書は隋代に『素問』と『霊枢』に分かれた。
・難経:……『難経本義』は八一の難病に分けて夫々について五臓六腑虚実の関係で説いている。李朱医学の朱丹湲(ママ)は難経に基いて学説を発展させた。

著者(現役時代は、内科学・臨床遺伝学を専攻)は、どこからこのような理解を得たのだろうか。非常に興味深い。

2022年1月15日土曜日

中国医学のキャラクター「灸童」がお目見え

 【1月14日 CGTN Japanese】

https://www.afpbb.com/articles/-/3385221 

中医药动漫形象“灸童”正式亮相〔亮相:(役者が)見得を切る.初めてお目見えする〕

中国医薬のアニメ・漫画のイメージキャラクター「お灸坊主」が正式デビュー

https://www.sohu.com/a/516328569_267106


中医药动漫形象“灸童”

  中医药学的哲学体系、思维模式、价值观念与中华优秀传统文化一脉相承。如何利用现代、时尚、创新的表现形式,让更多人了解和喜爱中医药文化?


12日,中医药动漫形象“灸童”在中华中医药学会举办的媒体见面会上亮相。

中華中医薬学会が12日に催した記者会見で、中国伝統医学のキャラクターの「灸童」が披露されました。

这位中医药“小学徒”身着传统服饰,梳着发髻,看起来憨厚可爱。

この「見習い小僧」は、伝統的な服を着て頭にはまげを結っており、実直そうで愛嬌もたっぷりです。 

“‘灸童’的设计灵感来自北宋时期的针灸铜人。

「灸童」のデザインは北宋時代(960~1127年)に使われた鍼灸用の銅製人体モデル「針灸銅人」にアイデアを得たものです。

”中华中医药学会信息部主任厍宇说,2017年,中医针灸铜人曾被作为“国礼”赠送给世界卫生组织。针灸铜人已然成为新时代中外文化交流的使者和中医药走向世界的名片。

この「針灸銅人」は2017年に、国家贈呈物として世界保健機関(WHO)に贈られたことで、中国内外の文化交流の使者、さらには中国伝統医学のシンボルになりました。 

据设计团队介绍,在“灸童”形象身上能够找到很多中医药元素,

「灸童」のデザインチームによりますと、「灸童」には多くの中国医学の要素が込められています。

例如,身体上针灸穴位的标记、医家常穿的服饰等。

たとえば、灸を据えるツボの位置が示されており、治療者が常用する服を着ています。

“灸童”携带的道具葫芦,彰显着中医药有机天然的特点,体现中医药文化天人合一的内在精髓。

また、持ち歩いているヒョウタンは、中国医学の有機天然といった特徴や、天人合一といった神髄が表されています。 

受国家中医药管理局委托,2020年7月,中华中医药学会启动中医药健康文化精品(动漫)遴选活动,共征集到作品500余件。经过网络投票、专家评审等环节,最终,由深圳融创千万间文化传播有限公司设计的“灸童”成为中医药动漫形象中标作品。


据悉,“灸童”形象已在2022年北京冬奥会主媒体中心亮相,向世界展示中医药文化。

「灸童」はすでに北京冬季オリンピックのメインメディアセンターに飾られており、世界に中国医学の文化を発信することになります。

后续,围绕“灸童”形象还将不断推出更多动漫内容产品和衍生产品,让中医药文化可视化、通俗化、生活化,更加深入群众。

今後は関連するアニメや周辺グッズが次々に生み出され、中国医学の文化の可視化や日常化が実現することになります。


见面会同步发布了中医药动画短片《手指的魔法》。受国家中医药管理局委托由中国动漫集团、中华中医药学会、腾讯视频联合出品的这部短片,讲述了主人公晓龙子承父业成为一名中医师,用中医按摩理疗的手法帮助运动健儿迅速从伤病中康复,取得世界大赛冠军的故事。短片创造性地运用新技术、新理念、新表达,助力传播中医药文化。

****************************************

https://www.sohu.com/a/516374128_243614

中国教育报-中国教育新闻网讯(见习记者 张欣)为推动中医药文化传播,让中医药文化更加可视化、通俗化、生活化, 1月12日,国家中医药管理局在京举办中医药动漫形象“灸童”和动画片《手指的魔法》见面会。

发布会揭晓了中医药动漫形象“灸童”。“灸童”的设计灵感来源于北宋时期的针灸铜人,动漫将针灸铜人孩童化、可爱化, 赋予其中医药小使者的身份以及熟识中医药、擅讲中医药故事的特长。在“灸童”身上可以找到很多中医药元素,比如身体上重要穴位的标记、医家常穿戴的服饰等,葫芦、背篓等道具也彰显了中医药有机天然感,体现出中医药文化中天人合一的内在精髓。


宋朝針灸銅人流落日本?專家得知前去調查,看完說:白高興一場

https://twgreatdaily.com/-jymWXQBLq-Ct6CZbl9Z.html


2022年1月11日火曜日

《针灸铜人谜踪》

 http://www.cctv.com/geography/20050523/101598.shtml

http://www.cctv.com/geography/20050524/100798.shtml

探索·发现2005_铜人谜踪3集(全)

https://www.bilibili.com/video/BV1LW411g7xN?p=1
https://www.bilibili.com/video/BV1LW411g7xN?p=2
https://www.bilibili.com/video/BV1LW411g7xN?p=3

2022年1月10日月曜日

黄龍祥 『鍼灸甲乙経』の構成 05

  五 腧穴と処方の判定


 面白いことがある。中国医学を学ぶ人は,処方の本である『傷寒論』と本草の本である『神農本草経』を混同することはないのに,鍼灸を学ぶ人は今でも,鍼灸の処方と腧穴の主治をはっきり区別しない。これは本来問題になるべきではない問題なのに,依然として今日でも『甲乙経』を読んで答えなければならない基本的な問題である。

 ここでは鍼灸の方症と腧穴の主治の定義を詳しく議論する必要はないが,さしあたって『甲乙経』巻七から十二の腧穴主対条文が鍼灸の処方であると仮定すると,『甲乙経』が用いた『明堂経』は鍼灸の処方書である,という結論が自然に出るが,このような結論は誰も受け入れないことは,反駁にもおよばない。もう一つの結論は,『甲乙経』の腧穴は二つ書に由来する,というものである。巻三の腧穴は『明堂孔穴』に由来し,巻七から十二の腧穴の主対条文は『鍼灸治要』(鍼灸処方と仮定する)に由来する。一万歩譲って,『甲乙経』の前に本当にこの二つ書があったと仮定すると,必然的にすでに知られている他のすべての『明堂経』伝本の腧穴の主治は『鍼灸治要』(もし本当に存在したなら)から直接に,あるいは『甲乙経』から間接的に集成されたという,別の結論が導き出される。しかし,多くの確実な証拠はこの推測を支持していない。つまり,『甲乙経』の巻七から十二に集められた腧穴の主治は『明堂経』の原型であるはずはなく,六朝・隋唐間の『明堂経』伝本は『甲乙経』から収録することは根本的にできない。その反対に,『甲乙経』巻三の腧穴と巻七から十二の腧穴主治条文は,いずれも『明堂経』から出ている。

 鍼灸の腧穴に関する最初の経典として,『明堂経』にある腧穴主治は当然のことながら,大量の鍼灸処方から精錬抽出され,まとめられることによって,鍼灸処方から腧穴主治へと形を変えた。しかし,鍼灸処方を元として生まれ変わった痕跡が残っており,鍼灸処方の旧態のままであるものさえ一部ある。だからといって,これをもって『甲乙経』巻七から十二の腧穴主対条文を鍼灸処方書と見なすことは全く的外れである。

 この紛争を解決するのに試されるのは,おもに文献の素養ではなく,論理の力である。


2022年1月9日日曜日

黄龍祥 『鍼灸甲乙経』の構成 04

  四 腧穴症治の接合 


 古医籍の症状に関する記述には主に二つの種類がある。第一は,内在的な関連のある症状の集合であり,その典型的な代表は『傷寒論』である。第二は,独立した症状の羅列であり,その典型的な代表は『神農本草経』である。形式的にはこの二つの文章に違いはないが,両者の意味は本質的に異なるので,二つの異なる性質の症状の記述を区別することは,臨床はもちろん,理論学習においても,非常に重要な意義がある。

 『甲乙経』に収録された『明堂経』の腧穴主治病証の多くは第一類に属する。例:

  膝內廉痛引髕,不可屈伸,連腹引咽喉痛,膝關主之。(『甲乙経』巻十第一下)

 個別に見るならば,上記の「膝関」穴の主治は,「膝内廉痛」「少腹痛」「咽頭痛」という三つの独立した病症を治療すると理解されることが多い。しかし,足の厥陰の「是動」病は,陰疝〔鼠蹊ヘルニア〕の典型的な症状の説明であり,なおかつ「膝関」穴以外の『明堂経』に掲載されている下肢部にある足の厥陰経穴が,明確に「陰疝」を主治としていることを知っていたら,上記の膝関穴の主治は,実際には陰疝の一連の症状であると判断することは容易である。そのうえ,「曲泉」穴の主治と結びつければ,この判断を確実にすることができるし,同時にこの判断に基づいて『明堂経』の膝関穴の主治原文に対して以下のような更に正確な理解をすることができる。


    [陰疝]少腹痛,上引咽喉痛,下引股膝內側痛不可屈伸,膝關主之〔[陰疝]少腹痛み,上は咽喉に引きて痛み,下は股膝內側に引きて痛み屈伸す可からず,膝關之を主る〕。

    

このように表現すれば,膝関穴の主治の意味が一目瞭然になる。「膝内廉痛」「少腹痛」「咽喉痛」は三つの独立した病証ではなく,同じ病,つまり陰疝の一連の症候群なのである。この点を認識することは臨床診療にとって非常に重要である。なぜなら前の情況では三つの症状が同じ病証の一連の症候群に属しているため,それはあたかも一つのスイッチで制御されているかのようである。しかし後ろの情況では三つの症状が独立した三つの病証となり,それぞれ三つのスイッチによって制御されることとなって,臨床上,治療の考えかたが大いに異なることになる。

 経穴主治における症候群を鑑別する重要な意義はここにある。内在的に関連する一連の症候群を識別できずに,その中から任意に一つの症状を切り取ることには,意味がない。なぜならこの穴の主治の特徴を反映できないためである。これは一穴の持つ「単一目標点」の作用を「多目標点」の作用と誤解するようなもので,このようなことをしては,経穴主治の客観的な法則をまとめることはできない。残念なことに,現代人は長い間『甲乙経』や『明堂経』に記載されている腧穴は,個々の孤立した病証を主治するものと理解してきた。おなじく残念なことは,『明堂経』の原本が早くに失われたために,『甲乙経』から『明堂経』原本の腧穴主治病証の配列順序が復元できず,症状群の鑑別がさらに難しくなっていることである。


2022年1月8日土曜日

黄龍祥 『鍼灸甲乙経』の構成 03

  三 「明堂」の宝庫を開く鍵


    問曰:取之奈何?對曰:取之三里者,低跗取之。巨虛者,舉足取之。委陽者,屈伸而取之。委中者,屈膝而取之。陽陵泉者,正立豎膝予之齊下至委陽之陽取之。諸外經者,揄伸而取之。(『甲乙経』巻四第二下)


 これは現存する中国医学の経典の中で最も早い鍼灸取穴に関する文で,原文の出自は『霊枢』邪気蔵府病形であり,『素問』針解に,この文に対する解説を見ることもできる。


  所謂三里者,下膝三寸也。所謂跗之者,舉膝分易見也。巨虛者,蹺足胻獨陷者。下廉者,陷下者也。


 これらの文は,秦漢時代の鍼灸の腧穴定位,部位の説明だけでなく,取穴のテクニックも含まれていて,王冰が『素問』に注をほどしこた時でも,このような取穴テクニックを掲載した文献を見ることができたことを示している。しかし,何千年もの間,多かれ少なかれ注釈家は,『霊枢』の経文であれ,『素問』の注文であれ,その言っている意味を理解できなかった。これは,テキストそのものの障害ではなく,技術伝承の断絶による。

 この断ち切れた鎖をつなぎ合わせることができなければ,『甲乙経』巻三の「明堂孔穴」の部位に関する記述を理解できないだけでなく,古人の取穴テクニックを再現して正確な位置を決めすることもできない。


  髀關,在膝上,伏兎後交分中。(『甲乙経』巻三)


 この位置付けの説明は簡単で,具体的な位置の定め方は,「伏兎後交分中」の六字しかなく,原書の附図が伝えられなかったため,取穴テクニックも伝承されなかった。この簡単な六字は,後世の無数の医家が知恵を絞ってもその解を得られず,折量法によって取穴せざるを得なかった。単に文献の角度から分析するとすると,たとえ二千年来のすべての古医籍をあまねく調べてみても,結局,最も幸運な結末は,「伏兎」が太ももの前部に隆起した筋肉であり,「交分」はこの筋肉の後ろの二つの筋肉が交差していることを意味するにすぎない。具体的には,三つの筋肉〔大腿直筋・縫工筋・大腿筋膜張筋〕のどこを指すのか,生体上でこの三つの筋肉をどのように明確に示すことができるのか,文献の分析ではどうすることもできない*。

〔*訳注:著者による具体的な取穴法は,黄龍祥ら編著『実験針灸表面解剖学』(人民衛生出版社,207年)303頁以下を参照。〕


 非常に簡単に見える実例をもう一つ挙げる。


  曲泉,在膝內輔骨下,大筋上,小筋下陷者中,屈膝得之。(『甲乙経』巻三第三十一)

  陰谷在膝內輔骨後,大筋之下小筋之上,按之應手,屈膝得之。(『甲乙経』巻三第三十二)


 曲泉穴の部位の説明は簡単で,「陰谷」との位置関係は,一つの「筋」で隔てられているにすぎない。この「筋」こそが,非常に長い間,古今の医家の悩みの種であった。『甲乙経』巻三にある「明堂」のページを開くと,「明堂」という宮殿に入って,千年の間封印されていた秘宝を発掘するのを妨げる陥穽のように,ほとんどの場所でこのような極めて簡単ではあるものの,何をいっているかさっぱり分からない専門用語に出会うことになる。

 〔*曲泉と陰谷の取穴については,『実験針灸表面解剖学』275頁以下を参照。〕

 これらの暗号を解く鍵は表面解剖学にある。かつて古今の無数の学者が数え切れないほど読んだ『甲乙経』を表面解剖学の角度から読み直すと,我々は理解度が深まって,簡単にその殿堂の内部に入ることができ,二千年前の中国古典表面解剖学の輝きを驚嘆しながら鑑賞することができる。二千年もの間,埋もれていた中国医学鍼灸表面解剖学の宝が今,ことごとく人々の面前にある。例を挙げれば,「闊肩骨開〔肩の骨を闊(ひろ)げ開いて*〕」膈関を取る。「口を開いて上関を取り」,「口を閉じて下関を取る」。「斜めに臂を挙げて」肩髃と肩髎を取るなど。経験がどれほど古代人の表面解剖学の智慧として凝集していることか。これに関する最新の系統的研究成果は,筆者の新作『実験針灸表面解剖学――針灸学与表面解剖学映像学的結合』に詳しい。

〔*『甲乙経』は「正坐開肩取之」,著者の『明堂経輯校』は「闊肩取之」に作る。〕


2022年1月6日木曜日

黄龍祥 『鍼灸甲乙経』の構成 02

   二 腧穴の疑問点を解読するパスワード


 『甲乙経』巻の七から十二にある腧穴の条文を読む際には,まず四つの永遠の難問を解読しなければならない。第一に,同名穴の識別。第二に,穴名の誤りと漏れ。第三に,多穴の「之を主る」病証条文の帰属。第四に,腧穴条文の錯簡。「永遠の難問」と呼ばれる理由は,古くは唐代の孫思邈や王燾がこれを理解するのに苦しみ,その後,『甲乙経』を読んだ人でこの四つの難問を解いた人はだれもいないからである。

 四つの難問を解くためのコードは一つだけ,――「序例」には言及されていない重要な体例――それは腧穴主治条文の配列規則である。

 『甲乙経』巻七から巻十二に記載された腧穴の主治条文はいずれも『明堂経』から集められているが,各篇の腧穴主治条文の順番配列は決して無秩序なわけではない。その順序は,巻三の腧穴排列順序ときっかり同じである。ある病証の後に,「之を主る」穴が二穴以上ある場合は,その腧穴が排列される順序は,巻三と同じである。たとえば,巻七第一中篇のすべての病証主治条文の後の「主之〔之を主る〕」穴は,次のような順序で並んでいる。


 神庭 曲差 本神 上星 承光 通天 玉枕 臨泣 承靈 腦空 率谷 瘖門 天柱 風池 大椎 陶道 神道 命門 大杼 風門 膈腧 上髎 魄戸 神堂 譩譆 膈兪(關) 懸顱 魂門 頷厭 懸釐 陽白 攢竹 承漿 顱息 天牖 巨闕 上脘 陰都 少商 魚際 太淵 列缺


 以上の42穴のうち,「譩譆」の後ろにある「膈兪」と「懸顱」の二穴が,巻三の腧穴配列順序と一致しない。「膈兪」は「膈関」の誤りであり,「懸顱主之」の条文はもともと注文であることが,校勘によって見つかった。したがって,本篇のすべての腧穴配列順序は巻三と全く同じである.

 また巻七第五に,「痃瘧,取完骨及風池・大杼・心兪・上髎・陰都・太淵・三間・合谷・陽池・少澤・前谷・後谿・腕骨・陽谷・俠谿・至陰・通谷・京骨皆主之」という。この病証にあるすべての腧穴の排列順序は,巻三とまったく同じである。


 『甲乙経』のこの規則(以下,「腧穴配列規則」と略称する)を理解することは,『甲乙経』の腧穴の難問を解く万能の鍵であり,『甲乙経』中の「明堂孔穴」部分を読解し校勘するうえで,極めて重要な意義を持っている。


 1.同名異穴〔原文は「同穴異名」に誤る〕を識別する


 『甲乙経』には同じ名前でも実際には異なる穴が5組ある。すなわち,(頭)臨泣と(足)臨泣。(腹)通谷と(足)通谷。(頭)竅陰と(足)竅陰。(手)三里と(足)三里。(手)五里と(足)五里である。これらの同名穴は巻七から巻十二に39回出現する。この39の穴名については,昔から今まで誰も見分けられず,『甲乙経』を読む人の前にたちはだかっている。


 例1:頭臨泣と足臨泣の識別


  『甲乙経』巻七第五:「瘧,日西発,臨泣主之」。


この文の前後にあるのは,いずれも足にある穴が「主之〔之を主る〕」条文なので,「腧穴配列規則」にもとづけば,この「臨泣」が足にある穴であることは一目瞭然である。しかし『千金要方』巻十は,この穴に「穴在目眥上入髮際五分陷者」と注をつけている。明らかにこの穴を頭部の穴と誤認している。このことは,初唐の大医である孫思邈は,『甲乙経』の同名穴を識別できなかったことを物語っている。


 例2:腹通谷と足通谷の識別


 『甲乙経』巻十一第二:「癲疾嘔沫,神庭及兌端・承漿主之;其不嘔沫……尺澤・陽谿・外丘・當上脘旁五分通谷・金門・承筋・合陽主之」。


「腧穴配列規則」にもとづけば,この条の「通谷」が足の太陽経穴であることは一目でわかるが,古人は気づかず,腹部穴と誤認し,この穴の前に「當上脘傍五分」という六字の注記を加えた。『医学綱目』が宋本のこの条を引いた時には,この六字もすでに〔注を示す小字ではなく〕大字で書かれていた。つまりこの注は宋以前の人によるもので,この誤りは宋以前からということになる。


 2.穴名の誤脱を識別する


 その古さゆえに,『甲乙経』の巻七から巻十二には,字形が近いために写し間違われた穴名が少なくない(例えば「小海」は「少海」に,「天渓」は「太渓」に,「箕門」は「期門」に,「中注」は「中渚」に誤る,などである)。あるいは文の脱落のために,二つの腧穴主治の文が,一つになってしまっている。このような誤り,特に『外台秘要方』が引用している早期の伝本に見えるいくつかの誤りは,見つけて訂正することは難しいし,できないことさえある。


    風眩頭痛,少海主之;(巻七第一下)

    瘧背振寒,項痛引肘腋,腰痛引少腹,四肢不舉,少海主之;(巻七第五)

    寒熱取五處及天柱・風池・腰俞……合谷・陽谿・關衝・中渚・陽池・消濼・少澤・前谷・腕骨・陽谷・少海・然谷・至陰・崑崙主之;(巻八第一下)

    狂易,魚際及合谷・腕骨・支正・少海〔原文は「小海」に誤る〕・崑崙主之;(巻十一第二)

    齒齲痛,少海主之。(巻十二第六)


 「少」と「小」は古籍でよく混用されている。『明堂経』の原本であれば,「小海」が「少海」と誤記されても,明確な部位が記載されているため識別が難しくないが,『甲乙経』の巻七から巻十二の中で,「小海」と「少海」の二つの穴名が混ざれば,その主治の内容は全く区別できなくなる。以上の『甲乙経』に記載されている五つの「少海主之」条文は,各篇ではいずれも手太陽経穴「支正」「陽谷」の穴の後にあるので,「腧穴配列規則」に照らせば,この五つの主治症が「少海主之」であるはずはなく,「小海主之」とするほかない。

 一方,『甲乙経』は唐代ですでに誤字・脱字があった。宋代になると「簡編脱落する者已に多し」〔新校正『甲乙経』序〕という状態であり,これらの脱文には当然『明堂経』の文も含まれている。この問題がよく現われているのは,現存する明刊本『甲乙経』で,この本には主治の文がない腧穴が19穴ある。以下の穴である。天谿・箕門・屋翳・小海・膈関・中注・腹結・周栄・食竇・極泉・霊道・少府・通里・少衝・大腸兪・白環兪・附分・瞳子髎・居髎。実はこの19穴中の7穴は,穴名の写し間違いによるもので,この難題を解決する最も簡単で,最も有効な方法はやはり「腧穴配列規則」である。穴名を写し間違えると,『甲乙経』の主治条文の配列規則に乱れが生じるため,さしあたって,ここの穴名が間違っていると判断することができ,更に他の資料と組み合わせて確認することが可能だからである。


 3.多穴主治の帰属を識別する


 『甲乙経』に収録された『明堂経』の腧穴主治には,元の形から生まれ変わった鍼灸処方の原型もいくつか残っていて,その中には多穴主治の鍼灸処方がいくつかある。例:

  痿厥,身體不仁,手足偏小,先取京骨,後取中封・絕骨,皆瀉之。(『甲乙経』巻十第四)


 このような多穴鍼灸処方の主治は『明堂経』の中でいずれもその中の一穴の下に属していて,各穴の中に分けては入れられない。『甲乙経』と『明堂経』を比較して読む場合(具体的な方法の詳細は「『甲乙経』の読み方」*を参照),上記のどの穴と比較するかをどのように決めるのだろうか。あるいはさらに『甲乙経』にもとづき『明堂経』を復元したとしたら,上述した条文の主治条文はいったいどの穴に属するのだろうか。この問題の難易度は最初の問題と同様で,王燾が当時『甲乙経』にもとづいて『明堂経』の文を収録した時は,この問題を解決されなかったので,このような条文をそれぞれ各穴の下に入れるしかなかった。たとえば,上述した文は中封と京骨の二穴の両方に帰属させた。実はこの難題を解決法も前の問題と同じように簡単で,やはり「腧穴配列規則」にもとづく。上にあげた主治条文の前には足の太陰穴「太白主之」の条文があり,後ろには足の少陽穴「丘墟主之」の条文があるのだから,この条文の主治は足厥陰経穴「中封」に帰すしかなく,足太陽経穴「京骨」には入れられない。

 〔*「『甲乙経』の読み方」(《甲乙经》的读法)は,『中医药文化』の次号,2008年第6期に掲載。〕 


 4.腧穴条文の錯簡を識別する


 通行本『甲乙経』の錯簡はかなり深刻で,特に巻七から巻十二にある篇の腧穴主治条文の順序には,全体の通例と符合しないところがあって,必ず錯簡がある。その中のいくつかは,明らかに宋以後に生じたものである。たとえば,巻十二第七の「水溝主之」は,「齦交主之」の後ろにあり,『甲乙経』の腧穴配列序例に一致しないが,『聖済総録』巻一九三が引用する本篇では,「水溝主之」は「齦交主之」の前にある。すなわち,現行本『甲乙経』のこの条文の錯簡が宋以降の伝抄過程で生じたことがわかる。

 現存する「六経本」以外の『甲乙経』伝本は明抄本一本しかないため,信頼性があり,比較的完全な他校資料は極めて少ない。「腧穴配列規則」を知らなければ,通行本に大量に存在する錯簡を発見し訂正を加えることはほぼ不可能である。

 このように一本の鍵で四つの錠前が開けられるのだから,「其の要を知る者は,一言にして終わる。其の要を知らざれば,流散して窮まり無し」〔『霊枢』九針十二原および『素問』運気論〕というのは,真実である。したがって,『甲乙経』を読むには,必ず「腧穴配列規則」という万能の鍵を握ることが重要である。


2022年1月5日水曜日

黄龍祥 『鍼灸甲乙経』の構成 01

   一 『甲乙経』の識別コード


 『甲乙経』の理解には二つの側面,あるいは二つのレベルが含まれている。表面的なレベルでは,まず『甲乙経』の文字を認識しなければならない。これは校勘にかかわる。より深いレベルでは,『甲乙経』の構造を整理すること,イメージ的に言えば,皇甫谧が当時『甲乙経』を編纂した設計の全体図を発掘しなければならない。これは『甲乙経』に対するより深い理解と再構築にかかわることである。


  1.文章の識別


 身分証で個人を特定することができるが,『甲乙経』にも身分証がある。人々がずっと発見できなかっただけである。以下では,典型的な例を通して『甲乙経』を素早く識別するためのIDを探し出す。


 敦煌巻子に残簡がある。番号は,P.3481。原文は,以下のごとし。


    問曰:脈之緩急小大滑澀之形病何如?對曰:心脈急甚者為瘛,微急為心痛引背,食不下,上下行,時唾血;大甚為喉階,微大為心痹引背,善淚出;小甚為善噦,微小為消癉;滑甚為善渴,微滑為心疝引臍,少腹嗚;澀甚為厥,微澀為血溢維厥,耳嗚癲疾。肺脈急甚為癲疾……

 

 この残簡の内容は『霊枢』巻一第四,『甲乙経』巻四第二,『太素』巻十五・五蔵脈診,『脈経』巻三第一にそれぞれ見られることが知られているが,結局何の本から出たものなのか?誰も不用意に結論を下す勇気がない。もし『甲乙経』のはじめにある「序例」に誰かが注目したら,国内外の学者を悩ませる難題は一目で解決できる。


    諸問,黃帝及雷公皆曰「問」:其對也,黃帝曰「答」,岐伯之徒皆曰「對」。上章問及對己有名字者,則下章但言「問」,言「對」,亦不更說名字也:若人異則重複更名字,此則其例也〔諸々の問い,黃帝及び雷公は皆な「問」と曰う。其の對(こた)うるや,黃帝は「答」と曰い,岐伯の徒は皆な「對」と曰う。上の章の問い及び對えに已に名字有る者は,則ち下の章は但だ「問」と言い,「對」と言い,亦た更に名字を說かざるなり。若し人異なれれば則ち重ね複(かさ)ねて更に名字あり。此れ則ち其の例なり〕。


 これが『甲乙経』にある序例の最初のものであり,『甲乙経』の身分証である。この『甲乙経』特有のIDによって,上述した敦煌の残簡のテキストが『霊枢』『脈経』あるいは『太素』ではなく,『甲乙経』に由来することが一目でわかる。このことは,文字を比較することで,さらに証明することができる。

 このIDカードによって,誰もが古医籍から『甲乙経』から引用した文を,原書に引用文の出所が明記されているか,完全な名称で表記されているか,略称で表記されているかどうかにかかわらず,簡単に特定することができる。特に『千金要方』『医学綱目』のような『甲乙経』からの引用がかなり多く,かつ基づく版本が唐代の伝本あるいは宋代の版本であるものは,『甲乙経』の文であることが正確に特定できれば,伝世本『甲乙経』を校勘する上で,重要な価値がある。


  2.構造の解読


 大規模なスポーツ競技の背景班に参加して絵や人文字を作ったことがある人はきっとわかると思うが,列ごとの一人一人が持っている模様紙を近くで見るならば,一枚一枚色が異なるページにしか見えない。しかし一定の距離にさがって見ると,美しい図案と文字を見ることができる。同じように,万里の長城の雄大な威容も空から見下ろしてはじめて実感できる。従来,人々は『甲乙経』の研究に対して文章の文字面ばかりにこだわることが多く,異なる距離,異なる視点からその構造の精妙さと勢いの壮美さを評価する人は少なかった。

 宋以前の『甲乙経』伝本の全体構造はもう考証することができない。現存する二種類の伝本『甲乙経』はいずれも宋人校注本に由来し,両書の目録構成は同じである。以下は通行本に基づいてこの本の構造を分析する。


    巻一 蔵象

    巻二 経絡

    巻三 腧穴

    巻四 診法

    巻五 針法

    巻六 辨証

    巻七 傷寒熱病

    巻八 積聚腫脹

    巻九 身体各部病証

    巻十 風・痺・痿

    巻十一 雑病

    巻十二 五官與婦児病証


 これはあたかも現代の『鍼灸学』の教科書の骨格である。『甲乙経』と現代鍼灸学教科書の最も大きな違いは,巻七から十二の病証治療にある。この部分はおおむね最初に病証,次に病機,さらに取穴の原則,最後に具体的な辨証選穴がある。段階的に進んでいるが,最も鮮明な特徴は篇名で辨証の要点を明らかにしたことである。これらの篇題から,鍼灸診療の応用が最も多い診法は三部九候の経脈上下診脈法であり,最もよく使われる辨証方法は経脈弁証,次いで臓腑辨証,さらに陰陽気血辨証であることがわかる。このように臨床診療とその前の理論はよく統一されている。

 このような構造(大類の下の細目区分とその順序を含む)を構築することは,皇甫謐が何度繰り返したのか,何度実験したのか,心血を注いで,そこから多くの啓示を得ることができたことは想像に難くない。一つ一つ具体的に分析していくと,この「読書案内」の範囲をはるかに超えてしまう。しかし,上記の通行本に基づいてまとめられた構造から見ると,論理的にも医理的にも厳密ではないところがあり,その中の多くは,楊上善が『太素』を編纂したときに調整したのかもしれない。あるいは,楊上善が当時見た『甲乙経』の構造自体が伝世本とは異なるのかもしれない。

 優秀な役者が,演じる役に最大限に近づくためには,役の生活を体験しなければならない。同様に,『甲乙経』を理解し,その構造美を鑑賞するには,まず生活を体験すること,つまりまず『素問』『霊枢』『明堂経』の三冊をそれぞれ研究し,組み立てて合成してみる必要がある。


2022年1月4日火曜日

黄龍祥 『鍼灸甲乙経』の構成 00 

  「中医薬文化」2008年第5期

  

    摘要:『鍼灸甲乙経』を文字と構造の二つの面から深く考察することを通じ,例を挙げて『鍼灸甲乙経』の文字・構造・腧穴・表面解剖・腧穴症治などの面での特色を分析検討し,細部・全体・論理推理などの多くの角度から『鍼灸甲乙経』の含んでいる意味を発掘することには,一定の啓発的意義がある。


  キーワード:鍼灸甲乙経;文字;構造;腧穴

 

 『鍼灸甲乙経』が世に問われてから1,800年来,数え切れないほどの碩学大学者が研究に取り組んできた。長期にわたり,人々はひたすら拡大鏡や顕微鏡を用いて観察し,この大樹の一葉一葉,一つ一つの筋目を研究してきたが,異なる距離,異なる角度からこの大樹そのものを考え,土と根,幹と枝を研究した人はいなかったので,全体からその本質を見極めることができなかった。薬王と呼ばれた孫真人はこの木を見て歎息を漏らし,盛唐の医書に通暁していた王燾もこの木には躓いた。

 『甲乙経』には鍼灸診療システムを構築する各部品はすべて揃っているが,統一的なモデルで組み立てられていないため,今日でも人々はそれ見つけられず茫然としている。

 長い間,『甲乙経』に苦しめられていた人々は,どうしようもなく一つ一つ質問を発した。

・『甲乙経』には5対の同名の穴があって,全部で39回現われるが,ずっと昔から知る人がいない。誰か慧眼で見分けられるひとはいますか?

・『甲乙経』に述べられている取穴の技法の多くは,いままで読み解いた人がいない。誰かその謎を解き明かせますか?

・『甲乙経』で同じ区域にあるのに,腧穴の位置を定める尺寸に大きな違いがあるが,誰か理由を知っていますか?

・『甲乙経』は非常に長い間転写を重ねてきて,多くの錯簡と脱文を生じているが,誰かその破綻を見抜けますか?

・『甲乙経』巻七から巻十二までの病証条文は,処方か,腧穴か?誰か是非を判断決定できますか?

・『甲乙経』が後世の医書に引用された時,往々にして出典が示されないが,誰か一目で〔『甲乙経』からだと〕由来を知ることができますか?

 この一つ一つの問題は極めて困難で,解釈することすらできないさそうである。だが意外にも『甲乙経』の正門を開ける鍵が門前の一番目立つところにずっとぶら下がっていたとは,思ってもみませんでした。あなたがしなければならないのは,「平身低頭する」思考習慣から顔を上げ,立ち上がって,手を伸ばすことだけ。幾重もの密室を開くためのパスワードもこの巻の中に隠されていますが,必要なのは表面の向こう側を見通す慧眼だけです。

 この読書案内は,単に門を開けて,門の中にあなたを連れて入るのではなく,門を開ける考え方と門の中に入るコツを教えます。それからその幾重もの門を開け,その関門を突破して,あちこちの美しい風景を楽しめるかどうかは,あなた次第です。