2022年7月7日木曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 02

  (2)楊上の籍貫〔本籍〕。墓誌は「其の先は弘農華陰の人」〔1〕という。これは楊氏が郡望〔郡の名門〕であることを示している。〔墓誌にある〕「稷澤」と「岐山」は、楊氏が周代の姫姓に出ることをいう。『新唐書』巻71下・宰相世系表1下に「楊氏出自姫姓,周宣王子尚父封為楊侯〔楊氏は姫姓自り出づ。周の宣王の子尚父封ぜられて楊侯と為る〕」、「叔向生伯石,字食我,以邑為氏,號曰楊石。黨於祁盈,盈得罪於晉,幷滅羊舌氏,叔向子孫逃于華山仙谷,遂居華陰〔叔向 伯石を生む。字は食我,邑を以て氏と為し,號して楊石と曰う。祁盈に黨し,盈は罪を晉に得,幷びに羊舌氏〔=食我〕を滅す。叔向の子孫 華山の仙谷に逃げ,遂に華陰に居す〕」とある。前漢の楊敞〔2〕と後漢の楊震〔3〕は、ともに弘農華陰を住居として、丞相の官にいたった。墓誌にいう「西漢の羽儀」「東京の紱冕」とは、この二人を指して言っている。墓誌はまた「後代從官,遂家於燕州之遼西縣,故今為縣人也〔後代 官に從い,遂に燕州の遼西縣に家す。故に今は縣人為(た)り〕」という。楊氏が幽燕〔唐代以前では幽州、戦国時代では燕国に属した地域〕の官職についたのは、楊震の末裔の楊鉉〔楊震の八世孫〕に始まり、〔五胡十六国時代の〕燕国時代では北平の郡守であった。隋の文帝楊堅はこの系統の出である〔楊鉉は楊堅の六世祖〕。楊上の系統も楊鉉に出るかもしれないが、その(曽)祖である楊明と祖である楊相は、後魏・北斉時代にともに刺史であった。父の楊暉は、隋の幷州〔いま太原〕の大都督であった。後に唐の高祖李淵は幷州に決起したので、〔墓誌に〕「唐帝遺風の国」という。かれらは正史に見えず、その後裔も唐代での官位は高くないので、隋の皇帝と同族でも遠縁なのかもしれない。残念ながら楊上善の籍貫〔本籍〕は、古い書では言及されておらず、楊上と比較することができない。


    〔1〕維基百科:弘農楊氏,是中國中古時代以弘農郡為郡望的楊姓士族。據《通志·氏族略》記載弘農楊氏或源於春秋羊舌氏後裔,是叔向之後。其始祖為西漢時人楊敞,為漢昭帝時丞相,史學家司馬遷女婿,後代楊寶是西漢末、東漢初,傳習歐陽派《尚書》的經學學者。楊寶之子楊震,人稱“關西孔子”,東漢太尉。其後裔楊秉,楊賜,楊彪皆為東漢太尉,時人稱其“四世太尉”。

    〔2〕維基百科:楊敞(?-前74年),西漢大臣,華陰人。祖先為漢朝赤泉侯楊喜。

    〔3〕維基百科:楊震(54年-124年),字伯起,隱士楊寶之子。中國東漢時期弘農華陰(今陜西省華陰縣東)人。/『後漢書』楊震列傳第44を参照。

    


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