2022年7月13日水曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 07

  (7)楊上と楊上善は、ともに太子文学である。日本の古鈔本『黄帝内経明堂』の巻頭と『太素』の各巻頭には「通直郎守太子文学臣楊上善撰」と題されており、晩清の楊守敬はもっとも早く、隋代に太子文学の官がなかったことを理由に、楊上善は唐・高宗の時期の太子文学であると指摘した。しかし北周の武帝の建徳3年(574年)にも太子文学が置かれていたことから、張均衡『適園蔵書志』は「周・隋相い接し、上善 此の書を撰するは、尚お周の時に在り」と述べて、伝統的な隋太医侍御説と折り合いを計った。現代の学者がより全面的に深く研究した結果、この説は信用できないことが証明された。北周には太子文学があったが、通直郎の官はなく、隋には通直郎があったが、太子文学はなかったし、守官の制もなかった。隋・唐時代には実職の肩書きは職事官と呼ばれ、職務を定めるために用いられた。栄誉としての虚銜〔名誉職〕は散官と呼ばれ、班位を定めたが、恩寵はされない。散官と職事官の品級は必ずしも一致していないが、唐代はこれに対して異なる呼称法を定めた。『旧唐書』職官志につぎのようにいう。「凡九品已上職事,皆帶散位,謂之本品。職事則隨才錄用,或從閑入劇,或去高就卑,遷徙出入,參差不定。散位則一切以門蔭結品,然後勞考進敘。《武德令》職事解散官,欠一階不至為兼,職事卑者不解散官。《貞觀令》以職事高者為守,職事卑者為行,仍各帶散位,其欠一階依舊為兼,與當階者皆解散官。永徽以來,欠一階者或為兼,或帶散官,或為守,參而用之,其兩職事者亦為兼,頗相錯亂。咸亨二年,始一切為守〔凡そ九品已上の職事,皆な散位を帶ぶ。之を本品と謂う。職事は則ち才に隨って錄用(任用)し,或いは閑從り劇に入り,或いは高きを去って卑きに就き,遷徙出入,參差して定まらず。散位は則ち一切 門蔭(先祖の功績による仕官)を以て品を結し,然る後に勞考進敘す(功績を考査して昇進させたり奨励したりする)。《武德令》は職事(『通典』巻34に「高者」2字あり)散官を解して,一階を欠して至らざるを兼と為し,職事卑き者は散官を解せず。《貞觀令》は職事の高き者を以て守と為し,職事卑き者を行と為し,仍って各々散位を帶び,其の一階を欠して舊に依るを兼と為し,當階に與る者は皆な散官を解す。永徽以來,一階を欠する者或いは兼と為し,或いは散官を帶び,或いは守と為し,參して之を用ゆ。其の兩職事の者も亦た兼と為し,頗る相い錯亂す。咸亨二年(671),始めて一切を守と為す〕」。楊上善の職事官は太子文学で、正六品の下である。散官は通直郎で、従六品の下で、両階を欠す。『武徳令』〔武徳:618年~ 626年〕によって散官を解かれたはずであり、そのため「太子文学」とだけ呼ばれた。貞観十一年〔637〕の新令が公布されてから「通直郎守太子文学」と呼ばれるようになった。また、唐が太子文学を置いた時については、『六典』巻29は、「皇朝顕慶〔656年~661年〕中に始めて置く」という。『通典』巻30は、「龍朔二年〔662〕、太子文学を置く」という。唐・高宗の顕慶の次の年号が龍朔であり、この二説は最少で2年の差しかなく、楊上善の生涯を考証する上でそれほど大きな関係はない。

 先人はすでに楊上善が唐・高宗の時代の太子文学であると考察したが、その根拠は日本の古鈔本に書かれた署銜〔肩書き〕が唯一の証拠であって、その在任期間を確定することはできず、誰が太子の時であったかさえも、より正確な判断を下せなかった。現在は釈道世が「左衛長史兼弘文館学士陽尚善」と称したことと結びつけて、特に墓誌に述べられている楊上の履歴が、楊上と楊上善はたしかに同一人物であることを証明するに十分なだけでなく、その職務経歴をかなりはっきりと考証できる。

 楊上が朝廷に出仕していた20年間の太子は、『旧唐書』巻86『高宗諸子伝』によれば、二人いる。すなわち高宗の第5子李弘は、顕慶元年に皇太子に立てられ、上元2年(675年)に薨じた。第6子の李賢は、上元2年6月に皇太子に立てられ、調露2年(680年)に廃された。墓誌に書かれた楊上の経歴は、李弘とは何の関係もなく、章懐太子李賢の伝記とは相互に裏付けができる。伝に次のようにある。李賢は「龍朔元年 沛王に徙封され,揚州都督を加え,左武衛大將軍を兼ね,雍州牧は故(もと)の如し。二年,揚州大都督を加う。麟德二年(665年),右衛大將軍を加う」。『旧唐書』高宗紀は「左武衛」を「左武侯」に作る。先に引用した李賢の墓誌は「右衛」を「左衛」に作る。楊上の墓誌の記載には、「沛王文学に除せられ、左威衛長史に遷る」とあり、道世はまた楊上善は左衛長史であったという。当時彼は70歳を過ぎていて、王府で文学の職を務めるのはもちろん適職だとしても、なぜ幕府の武官に職を変えられたのかという不可解な問題がもともとあった。李賢の墓誌と伝記を調べていて、突然気づいた。「左威衛」は実は「左武衛」の誤りであり、李賢が任じられた「右衛大将軍」は「左衛大将軍」の誤りとすべきである。楊上は沛王文学に除せられた後、ずっと李賢王府の職にあり、その官名は李賢の加官に従って変遷した。つまり龍朔元年に沛王文学に除せられ、同年に左武衛長史に転じ、麟徳2年に左衛長史に転じた。太子文学に遷ったのは、李弘が太子であった時は不可能であるので、かならず上元2年〔675〕6月に李賢が太子になった後である。楊氏がその後の5年間のうちに2度官を遷っているから、平均すると太子文学の任期は約2年と推算されるので、彼が『太素』に注を施したのは暫定的にこの年とすることができる。


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