2022年7月18日月曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 09

  (9)墓誌に「歲侵蒲柳,景迫崦嵫,言訪田園,或符知止〔歲は蒲柳(水楊。衰弱した体)を侵し,景(ひかり)は崦嵫(日が落ちる山の名。晩年)に迫り,言(ここ)に田園を訪れ,或いは止まるを知るに符す〕」とある。ここにはおおやけにはできない事情が隠されているのではないか。唐・高宗の後期、権力は武氏に帰した。李賢が注釈した『後漢書』は、武則天〔則天武后〕に外戚の専制を暗に風刺しているとの疑いを抱かせた。〔武則天の信頼を得ていた〕方士の明崇厳もまた、李賢は〔実際は武則天の第2子であるが〕武則天の姉である韓国夫人が産んだ子で、命相〔命運と容貌〕は帝位を継承するにはふさわしくないと宮中で噂を流し、李賢はそれを聞いて疑いや不安におそわれたという。調露2年に李賢は皇太子を廃され、のちに巴州に監禁され、自殺を余儀なくされた。楊上善は六品の官位から昇任すること20年、従五品官に昇進したばかりで、通常の状況ではすぐに辞職を望むことはありそうにない。したがってその官を辞して老を養うというのは、太子が廃位されたためか、少なくとも太子の地位が不安定であることを察知したからこそ、辞職して帰郷したのであろう。時は調露2年である。


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