(8) 墓誌に記載される楊上の最後の官職は太子洗馬であり、杜光庭の説と参照しあえる。杜光庭『道徳真経広聖義』の序に、「太子司議郎楊上善は、高宗の時の人、『道徳集中真言』二十巻を作る」とある。『六典』や『通典』などの記載によれば、司議郎は正六品上階であり、ちょうど太子文学の正六品下階と、太子洗馬の従五品下階の間にある。墓誌に記載されている楊上の官職が不完全であることは、その「等」字から知ることができるし、通直郎と左衛長史が記載されていないことからも証明できる。その省略の方法は、おおよそ以下のように推測できる。通直郎は散官であるため、職事官は記したが散官は省略した。左衛長史と左威長史は品階の属性が同じなので、前官を記したが後官は省略した。司議郎に任ぜられたのは、他の二種類の太子府の官職の間なので、前後を記して中間を省略した。これらはみな極めて正常である。楊上善の任官履歴によれば、太子司議郎であったのは儀鳳年間に違いない。『唐会要』巻67に、司議郎は「掌侍從規諫,駁正啟奏,並錄東宮記注,分判坊事,職擬給事中〔侍從の規諫を掌り,啓奏を駁正し,並びに東宮を錄して記注し,坊事を分判し,職として給事中に擬せらる〕」とある。杜光庭はその本を見たことがあり、その署名に基づいて忠実に記載したのに違いない。楊上善が太子洗馬に遷ったのは、調露元年(679年)ごろか、あるいは少し早い時である。洗馬は太子司経局の長官であり、『六典』巻26に、「洗馬掌經史子集四庫圖書刊緝之事,立正本、副本、貯本,以備供進。凡天下之圖書上於東宮者,皆受而藏之。文學掌分知經籍,侍奉文章,總緝經籍,繕寫裝染之功〔洗馬は經史子集四庫圖書刊緝の事を掌り,正本・副本・貯本を立て,以て供進に備う。凡そ天下の圖書 東宮に上(たてまつ)る者は,皆な受けて之を藏す。文學は經籍を分知し,文章を侍奉し,經籍を總緝し,繕寫裝染の功を掌る〕」とある。楊上善は先に太子文学と太子司議郎に任ぜられ、多数の図書の撰注を主宰したのだから、この職に昇進したのは、自然な流れであった。
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