2022年7月12日火曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 06

  (6)楊上が左威衛長史に遷ったことは、楊上善と同一人物である最も有力な証拠の一つとすることができる。唐の釈道世『法苑珠林』巻100に、「『六道論』十巻、皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善撰」とある。古代の楊姓はよく「陽」と書かれる。最も有名な例は戦国初期の道家の人物、楊朱があげられ、陽朱あるいは陽居と書かれる。「尚」と「上」は、音も意味も同じで、人名ではよく混用される。また唐初の李師政『法門名義集』は、「六道とは、地獄道・畜生道・餓鬼道・阿修羅道・人道・天道、是れを六道衆生と為(い)い、亦た六趣と名づく」という。これは、陽尚善『六道論』10巻が、新旧の『唐書』の志に著録されている楊上善『六趣論』10巻であるとするのに十分な証拠である。国家図書館所蔵稿本『新唐書芸文志注』(撰者名なし、晩清の繆荃孫の注か)の巻3は引用する際、注をつけることなく〔楊上善を〕楊尚善に改めている。残念ながら、近現代の楊氏の生涯を考証した論文は、みなこの資料に気づかなかった。ここで最も重視すべきことは、道世が「皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善」と呼んでいるのに対し、墓誌に載せられた楊上は解褐〔出仕〕して弘文館学士に除せられ、左威衛長史に遷ったことであり、同一人物であることは間違いない。左衛長史と左威衛長史の職掌は近く、沛王文学と同じ従六品上階であり、所属する衛名がやや異なるにすぎない。唐代の官制によれば、楊上は沛王文学から左威衛長史となり、まもなく左衛長史となったはずである。道世は陽尚善が左衛長史に在任していた時に弘文館学士を兼ねていたという〔皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善〕。その官階を見ると、墓誌と同じく直学士とすべきであるので、およそ唐代の人は美称として「直」字を省いていたのである。これは、表面上墓誌が解褐して弘文館学士に除せられたというのと完全には一致しないが、唐代の官制にもとづけば、この矛盾は十分に説明できる。弘文館はもともと兼任すべき官であり、楊上は沛王文学に除せられた後も、当然そのまま兼任することができる。『法苑珠林』は、唐の高宗の総章元年(668年)3月に成書しているので、楊上が沛王文学、左威衛長史、左衛長史に任ぜられたのはすべて龍朔から総章〔661~668〕までの7年間で、その間、楊上の官階は昇進していないことの証拠とするに十分である。したがって墓誌にいう「累遷〔累(かさ)ねて遷る〕」は、以下の諸職を指して言っているはずであり、沛王文学から左威衛長史に「累遷〔昇進〕」したのではなく、職務はかわったが、左威衛長史、左衛長史に着任しているあいだ、ずっと弘文館直学士を兼任していたのである。


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