楊上善の生涯に関する新たな証拠(楊上善生平考据新证)
吉林大学古籍研究所 張固也 張世磊 著 『中医文献雑誌』2008年第5期
〔〕内は訳注。長くなる場合は、番号を附して段落の後ろに置いた。
原文の参考文献[1]~[3]は、段落末に移動した。
要旨:近年発表された楊上の墓誌は、実は唐代の医家、楊上善の墓誌である。考察により、楊氏の生没年は589年~681年であり、70歳以前に隠居して学問に専念したが、後に詔を受けて入朝し、長期にわたって太子李賢の府に勤めていたことが判明した。『太素』は675年ごろに撰注された。
キーワード:太素 楊上善 生涯 考証
19世紀に日本で楊上善注『太素』の古鈔本が発見されて以来、中日両国の学者は宋・明時代の医史の著作でいわれていた、楊上善は隋代の人であるという説に疑問を呈し、唐・高宗時代の太子文学であった、とひろく認められるようになった。しかしながら今にいたるまで楊氏の他の生涯の事績についてはほとんど知られておらず、基本的に清代の人の出した結論より先にすすんでいない。最近、『唐代墓誌彙編続集』を読んで、その中に「垂拱007」という番号がついた楊上の墓誌があることに気づいたが、これは楊上善の墓誌である可能性が高い。まず墓誌の主な内容を以下に抄録する。
大唐子洗馬楊府君及夫人宗氏墓誌銘並序
〔原本未見のため、代用として一部に中國哲學書電子化計劃データとの異同を一部記す。なお「計劃」は難字を表現できていないようである。〕
君諱上,字善。其先弘農華陰人,後代從官,遂家於燕州之遼西縣,故今為縣人也。若夫洪源析胤,泛稷澤之波瀾;曾構分華,肇歧山之峻嶷。赤泉疏祉,即西漢之羽儀;白瓌〔=瑰。/計劃作「環」〕貽貺,實東京之紱冕。並以詳〔計劃に「諸」字あり〕史牒,可略言焉。祖明,後魏滄州刺史;祖相,北齊朔州刺史。並褰帷布政,人知禮義之方;案部班條,俗有忠貞之節。父暉,隋幷州大都督。郊通虜鄣,地接寶符,細侯竹馬之鄉,唐帝遺風之國,戎商混雜,必佇高才。以公剖符,綽有餘裕,雨灑傳車之米,仁生別扇之前。惟公景宿摛靈,賢雲集貺,鳳毛馳譽,早映於髫辰;羊車表德,先奇乎廿歲。志尚弘遠,心識貞明,慕巢、許之為人,煙霞綴想,企尚、禽之為事,歲〔計劃作「風」〕月纏懷。年十有一,虛襟遠岫,玩王孫之芳草,對隱士之長松。於是博綜奇文,多該異說,紫臺丹篋之記,三清八會之書,莫不得自天然,非由學至。又復留情彼岸,翹首淨居,耽玩眾經,不離朝暮,天親天著之旨,睹奧義若冰銷;龍宮鹿野之文,辯妙理如河瀉。俄而翹弓遠騖,賁帛遐徵,丘壑不足自令,松桂由其褫色。遂乃天茲林躅,赴波〔計劃作「彼」〕金門。爰降絲綸,式旌嘉秩,解褐除弘文館學士。詞庭振藻,縟潘錦以飛華;名苑雕章,絢張池而動色。寮寀欽矚,是曰得人。又除沛王〔計劃作「府」〕文學,綠車動軔,朱邸開扉,必佇高明,用充良選,以公而處,僉議攸歸。累遷左威衛長史、太子文學及洗馬等,贊務兵鈐,彯纓銀牓〔計劃作「榜」〕。搖山之下,聽風樂之餘音;過水之前,奉體物之洪作。既而歲侵〔計劃作「浸」〕蒲柳,景迫崦嵫,言訪田園,或符知止。不謂三芝宜術,龜鶴之歲無期;乾月奄終,石火之悲俄及。以永隆二年八月十三日,終於里第〔計劃の句讀:不謂三芝,宜術龜鶴之歲;無期幹(まま)月,奄終石火之悲。俄及以永隆二年八月十三日終於里第〕,春秋九十有三。惟君仁義忠信,是曰平生之資;溫良恭儉,實作立身之德。學包四徹,識綜九流,題目冠於子將,風景凌於叔夜。仙鶴未托,門蟻延災,曲池忽平,大暮難曙[1]。(以下の夫人に関する記事と銘文は省略。)
[1]周绍良,赵超. 唐代墓志汇编续集[M].上海:上海古籍出版社,2001.284.
★中國哲學書電子化計劃の『唐代墓志匯編續集』№垂拱007 大唐故太子洗馬楊府君及夫人宗氏墓誌銘並序によれば、省略された部分は以下のごとし。・*サは、表示のまま。おそらく難字。
夫人南陽宗氏,隋清池縣令之女也。虔誠蘋藻,中饋之禮無虧,銳想組釧,內則之儀允備。昔年晝哭,切鳳梧之半死;今日歸泉,睹龍匣之雙掩。以永淳元年九月卅日終於長壽里第。粵以今垂拱元年八月十七日遷窆於長安縣承平鄉龍首原,禮也。傍分石柱,即為三輔之郊;近通璜渭,是曰八川之壤。佳城鬱鬱,松柏蒼蒼,丹・人素而愁雲飛,白驥鳴而斜日落。嗣子神機等,情深屺岵,痛結穹蒼,既營馬鬣之墳,思樹龍文之碣,林宗有道,伯喈無・鬼。
其詞曰:
分源稷澤,命氏諸楊,赤帛標祉,白環表祥。
乃父乃祖,為龍為光,褰帷作訓,露冕垂芳。
高情雲聳,逸韻瓊鏘,惟君誕秀,大昴垂芒。
幼而歧嶷,長自・璋,孤標藝府,獨擅文房。
琴台鳳集,筆抄鸞翔,娛情澗戶,朗嘯山莊。
爰逢賁帛,乃應明*,升簪詞苑,奉笏春坊。
謀猷獻替,令問昭彰,隙前逝馬,水上遷サ。
池台霜落,風月淒涼,龜謀襲吉,馬鬣開場。
雙棺是掩,二・齊揚,仙禽來吊,服馬悲傷,
宿草將列,新松未行。百年兮已盡,萬古兮茫茫。
この墓誌の撰者は不詳である。編者の注には、「西安阿房宮付近の農家が石を蔵し、張鎔がこれを録した」とある。碑石の発見年代はよく分からないが、文章の風格からすると、確かに唐代の人の言辞であり、後世の人が偽撰できるものではない。序文にはまた「今垂拱元年八月十七日、長安県承平郷龍首原に窆(はか)を遷す」とあり、この時に作られた碑文であろう。唐初の墓誌は四六駢儷体で、典故も多く用いられ、その生涯の事績を述べるのは往々にしてそれほど詳しくなく、その著述書を載せることはさらに稀である。楊上の墓誌にも形式的な美辞麗句が多く、記載された事績は簡略にすぎるきらいがある。とはいえ、楊上善の生涯の学術と完全に一致している。以下、墓誌に書かれた文章の順に沿って、10の方面から考証と解釈をおこなう。
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