2022年7月18日月曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 10

  (10)墓誌には楊上の卒年について、「永隆二年八月十日,年九十三」と記載されている。上述した考証にもとづいて推算される楊上善の年齢と職歴はおおよそ次の通り。

 隋・文帝開皇9年(589年)生まれ。開皇19年(599年)11歳、出家して道士となる。唐・高宗顕慶5年(660年)72歳以前、詔を受けて入朝し、弘文館直学士に除せらる。龍朔元年(661年)73歳、また沛王文学に除せられ、同年左武衛長史に遷る。麟徳2年(665年)77歳、左衛長史に遷る。上元2年(675年)87歳、太子文学に遷る。儀鳳元年から調露元年(676~679年)の間、90歳前後、前後して太子司議郎・太子洗馬に遷る。調露2年(680年)92歳、辞職して家に帰る。永隆2年(681年)93歳、里第〔官僚の私宅〕に卒す。

楊上善の生涯に関する新たな証拠 09

  (9)墓誌に「歲侵蒲柳,景迫崦嵫,言訪田園,或符知止〔歲は蒲柳(水楊。衰弱した体)を侵し,景(ひかり)は崦嵫(日が落ちる山の名。晩年)に迫り,言(ここ)に田園を訪れ,或いは止まるを知るに符す〕」とある。ここにはおおやけにはできない事情が隠されているのではないか。唐・高宗の後期、権力は武氏に帰した。李賢が注釈した『後漢書』は、武則天〔則天武后〕に外戚の専制を暗に風刺しているとの疑いを抱かせた。〔武則天の信頼を得ていた〕方士の明崇厳もまた、李賢は〔実際は武則天の第2子であるが〕武則天の姉である韓国夫人が産んだ子で、命相〔命運と容貌〕は帝位を継承するにはふさわしくないと宮中で噂を流し、李賢はそれを聞いて疑いや不安におそわれたという。調露2年に李賢は皇太子を廃され、のちに巴州に監禁され、自殺を余儀なくされた。楊上善は六品の官位から昇任すること20年、従五品官に昇進したばかりで、通常の状況ではすぐに辞職を望むことはありそうにない。したがってその官を辞して老を養うというのは、太子が廃位されたためか、少なくとも太子の地位が不安定であることを察知したからこそ、辞職して帰郷したのであろう。時は調露2年である。


2022年7月17日日曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 08

  (8) 墓誌に記載される楊上の最後の官職は太子洗馬であり、杜光庭の説と参照しあえる。杜光庭『道徳真経広聖義』の序に、「太子司議郎楊上善は、高宗の時の人、『道徳集中真言』二十巻を作る」とある。『六典』や『通典』などの記載によれば、司議郎は正六品上階であり、ちょうど太子文学の正六品下階と、太子洗馬の従五品下階の間にある。墓誌に記載されている楊上の官職が不完全であることは、その「等」字から知ることができるし、通直郎と左衛長史が記載されていないことからも証明できる。その省略の方法は、おおよそ以下のように推測できる。通直郎は散官であるため、職事官は記したが散官は省略した。左衛長史と左威長史は品階の属性が同じなので、前官を記したが後官は省略した。司議郎に任ぜられたのは、他の二種類の太子府の官職の間なので、前後を記して中間を省略した。これらはみな極めて正常である。楊上善の任官履歴によれば、太子司議郎であったのは儀鳳年間に違いない。『唐会要』巻67に、司議郎は「掌侍從規諫,駁正啟奏,並錄東宮記注,分判坊事,職擬給事中〔侍從の規諫を掌り,啓奏を駁正し,並びに東宮を錄して記注し,坊事を分判し,職として給事中に擬せらる〕」とある。杜光庭はその本を見たことがあり、その署名に基づいて忠実に記載したのに違いない。楊上善が太子洗馬に遷ったのは、調露元年(679年)ごろか、あるいは少し早い時である。洗馬は太子司経局の長官であり、『六典』巻26に、「洗馬掌經史子集四庫圖書刊緝之事,立正本、副本、貯本,以備供進。凡天下之圖書上於東宮者,皆受而藏之。文學掌分知經籍,侍奉文章,總緝經籍,繕寫裝染之功〔洗馬は經史子集四庫圖書刊緝の事を掌り,正本・副本・貯本を立て,以て供進に備う。凡そ天下の圖書 東宮に上(たてまつ)る者は,皆な受けて之を藏す。文學は經籍を分知し,文章を侍奉し,經籍を總緝し,繕寫裝染の功を掌る〕」とある。楊上善は先に太子文学と太子司議郎に任ぜられ、多数の図書の撰注を主宰したのだから、この職に昇進したのは、自然な流れであった。


2022年7月13日水曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 07

  (7)楊上と楊上善は、ともに太子文学である。日本の古鈔本『黄帝内経明堂』の巻頭と『太素』の各巻頭には「通直郎守太子文学臣楊上善撰」と題されており、晩清の楊守敬はもっとも早く、隋代に太子文学の官がなかったことを理由に、楊上善は唐・高宗の時期の太子文学であると指摘した。しかし北周の武帝の建徳3年(574年)にも太子文学が置かれていたことから、張均衡『適園蔵書志』は「周・隋相い接し、上善 此の書を撰するは、尚お周の時に在り」と述べて、伝統的な隋太医侍御説と折り合いを計った。現代の学者がより全面的に深く研究した結果、この説は信用できないことが証明された。北周には太子文学があったが、通直郎の官はなく、隋には通直郎があったが、太子文学はなかったし、守官の制もなかった。隋・唐時代には実職の肩書きは職事官と呼ばれ、職務を定めるために用いられた。栄誉としての虚銜〔名誉職〕は散官と呼ばれ、班位を定めたが、恩寵はされない。散官と職事官の品級は必ずしも一致していないが、唐代はこれに対して異なる呼称法を定めた。『旧唐書』職官志につぎのようにいう。「凡九品已上職事,皆帶散位,謂之本品。職事則隨才錄用,或從閑入劇,或去高就卑,遷徙出入,參差不定。散位則一切以門蔭結品,然後勞考進敘。《武德令》職事解散官,欠一階不至為兼,職事卑者不解散官。《貞觀令》以職事高者為守,職事卑者為行,仍各帶散位,其欠一階依舊為兼,與當階者皆解散官。永徽以來,欠一階者或為兼,或帶散官,或為守,參而用之,其兩職事者亦為兼,頗相錯亂。咸亨二年,始一切為守〔凡そ九品已上の職事,皆な散位を帶ぶ。之を本品と謂う。職事は則ち才に隨って錄用(任用)し,或いは閑從り劇に入り,或いは高きを去って卑きに就き,遷徙出入,參差して定まらず。散位は則ち一切 門蔭(先祖の功績による仕官)を以て品を結し,然る後に勞考進敘す(功績を考査して昇進させたり奨励したりする)。《武德令》は職事(『通典』巻34に「高者」2字あり)散官を解して,一階を欠して至らざるを兼と為し,職事卑き者は散官を解せず。《貞觀令》は職事の高き者を以て守と為し,職事卑き者を行と為し,仍って各々散位を帶び,其の一階を欠して舊に依るを兼と為し,當階に與る者は皆な散官を解す。永徽以來,一階を欠する者或いは兼と為し,或いは散官を帶び,或いは守と為し,參して之を用ゆ。其の兩職事の者も亦た兼と為し,頗る相い錯亂す。咸亨二年(671),始めて一切を守と為す〕」。楊上善の職事官は太子文学で、正六品の下である。散官は通直郎で、従六品の下で、両階を欠す。『武徳令』〔武徳:618年~ 626年〕によって散官を解かれたはずであり、そのため「太子文学」とだけ呼ばれた。貞観十一年〔637〕の新令が公布されてから「通直郎守太子文学」と呼ばれるようになった。また、唐が太子文学を置いた時については、『六典』巻29は、「皇朝顕慶〔656年~661年〕中に始めて置く」という。『通典』巻30は、「龍朔二年〔662〕、太子文学を置く」という。唐・高宗の顕慶の次の年号が龍朔であり、この二説は最少で2年の差しかなく、楊上善の生涯を考証する上でそれほど大きな関係はない。

 先人はすでに楊上善が唐・高宗の時代の太子文学であると考察したが、その根拠は日本の古鈔本に書かれた署銜〔肩書き〕が唯一の証拠であって、その在任期間を確定することはできず、誰が太子の時であったかさえも、より正確な判断を下せなかった。現在は釈道世が「左衛長史兼弘文館学士陽尚善」と称したことと結びつけて、特に墓誌に述べられている楊上の履歴が、楊上と楊上善はたしかに同一人物であることを証明するに十分なだけでなく、その職務経歴をかなりはっきりと考証できる。

 楊上が朝廷に出仕していた20年間の太子は、『旧唐書』巻86『高宗諸子伝』によれば、二人いる。すなわち高宗の第5子李弘は、顕慶元年に皇太子に立てられ、上元2年(675年)に薨じた。第6子の李賢は、上元2年6月に皇太子に立てられ、調露2年(680年)に廃された。墓誌に書かれた楊上の経歴は、李弘とは何の関係もなく、章懐太子李賢の伝記とは相互に裏付けができる。伝に次のようにある。李賢は「龍朔元年 沛王に徙封され,揚州都督を加え,左武衛大將軍を兼ね,雍州牧は故(もと)の如し。二年,揚州大都督を加う。麟德二年(665年),右衛大將軍を加う」。『旧唐書』高宗紀は「左武衛」を「左武侯」に作る。先に引用した李賢の墓誌は「右衛」を「左衛」に作る。楊上の墓誌の記載には、「沛王文学に除せられ、左威衛長史に遷る」とあり、道世はまた楊上善は左衛長史であったという。当時彼は70歳を過ぎていて、王府で文学の職を務めるのはもちろん適職だとしても、なぜ幕府の武官に職を変えられたのかという不可解な問題がもともとあった。李賢の墓誌と伝記を調べていて、突然気づいた。「左威衛」は実は「左武衛」の誤りであり、李賢が任じられた「右衛大将軍」は「左衛大将軍」の誤りとすべきである。楊上は沛王文学に除せられた後、ずっと李賢王府の職にあり、その官名は李賢の加官に従って変遷した。つまり龍朔元年に沛王文学に除せられ、同年に左武衛長史に転じ、麟徳2年に左衛長史に転じた。太子文学に遷ったのは、李弘が太子であった時は不可能であるので、かならず上元2年〔675〕6月に李賢が太子になった後である。楊氏がその後の5年間のうちに2度官を遷っているから、平均すると太子文学の任期は約2年と推算されるので、彼が『太素』に注を施したのは暫定的にこの年とすることができる。


2022年7月12日火曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 06

  (6)楊上が左威衛長史に遷ったことは、楊上善と同一人物である最も有力な証拠の一つとすることができる。唐の釈道世『法苑珠林』巻100に、「『六道論』十巻、皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善撰」とある。古代の楊姓はよく「陽」と書かれる。最も有名な例は戦国初期の道家の人物、楊朱があげられ、陽朱あるいは陽居と書かれる。「尚」と「上」は、音も意味も同じで、人名ではよく混用される。また唐初の李師政『法門名義集』は、「六道とは、地獄道・畜生道・餓鬼道・阿修羅道・人道・天道、是れを六道衆生と為(い)い、亦た六趣と名づく」という。これは、陽尚善『六道論』10巻が、新旧の『唐書』の志に著録されている楊上善『六趣論』10巻であるとするのに十分な証拠である。国家図書館所蔵稿本『新唐書芸文志注』(撰者名なし、晩清の繆荃孫の注か)の巻3は引用する際、注をつけることなく〔楊上善を〕楊尚善に改めている。残念ながら、近現代の楊氏の生涯を考証した論文は、みなこの資料に気づかなかった。ここで最も重視すべきことは、道世が「皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善」と呼んでいるのに対し、墓誌に載せられた楊上は解褐〔出仕〕して弘文館学士に除せられ、左威衛長史に遷ったことであり、同一人物であることは間違いない。左衛長史と左威衛長史の職掌は近く、沛王文学と同じ従六品上階であり、所属する衛名がやや異なるにすぎない。唐代の官制によれば、楊上は沛王文学から左威衛長史となり、まもなく左衛長史となったはずである。道世は陽尚善が左衛長史に在任していた時に弘文館学士を兼ねていたという〔皇朝左衛長史兼弘文館学士陽尚善〕。その官階を見ると、墓誌と同じく直学士とすべきであるので、およそ唐代の人は美称として「直」字を省いていたのである。これは、表面上墓誌が解褐して弘文館学士に除せられたというのと完全には一致しないが、唐代の官制にもとづけば、この矛盾は十分に説明できる。弘文館はもともと兼任すべき官であり、楊上は沛王文学に除せられた後も、当然そのまま兼任することができる。『法苑珠林』は、唐の高宗の総章元年(668年)3月に成書しているので、楊上が沛王文学、左威衛長史、左衛長史に任ぜられたのはすべて龍朔から総章〔661~668〕までの7年間で、その間、楊上の官階は昇進していないことの証拠とするに十分である。したがって墓誌にいう「累遷〔累(かさ)ねて遷る〕」は、以下の諸職を指して言っているはずであり、沛王文学から左威衛長史に「累遷〔昇進〕」したのではなく、職務はかわったが、左威衛長史、左衛長史に着任しているあいだ、ずっと弘文館直学士を兼任していたのである。


2022年7月11日月曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 05

 (5)楊上が沛王文学に除せられたことは、その官職の履歴を考証するための基本的な時間座標を提供するし、楊上善が太子文学の任にあったことを考証するのにも新たな証拠を提供する。『大唐故雍王贈章懷太子墓誌銘並序』には、李賢が「龍朔元年〔661〕に沛王に徙封され」、「咸亨二年〔671〕に雍王に徙封された」という記載がある〔1〕。『旧唐書』高宗紀によれば、雍王に徙封されたのは、咸亨3年9月である。ということは、楊上が沛王文学に除せられたのは、龍朔元年から咸亨3年の間(661~673年)〔2〕に限られる。彼の以後の履歴を参考にすると、沛王文学に除せられたのは龍朔の初めである可能性が極めて高い。それ以前には、弘文館直学士として仕え、例によれば兼職して、それ自体には定まった品〔官制中の階級〕はなかった。沛王文学に除せらたことにより官品〔官の分類と階級〕が定まったので、直学士になってからそれほど時間はたっていない。したがって召されて出仕したのは、顕慶(656~660)〔3〕の末年にあたり、その時はすでに70歳を過ぎていたのではないか。楊上は、これ以前の生涯の大半を隠居して道を修め学問に専念していたのに、晩年にいたって召されて出仕したのは朝命には逆らえなかったためであり、盧蔵用の「終南捷径」とは大いに趣を異にする。「賁帛遐徵,丘壑不足自令〔賁帛(帝王が下賜した束帛)もて遐(はる)かに徵し、丘壑(山と谷。隠居)自ら令するに足らず〕」というのは、決して単なる美辞麗句ではない。楊上善には沛王文学に任ぜられた記載はないが、太子文学の職務はこれと関係がある。詳しくは以下の(7)を参照。


    [3]苏盈·唐章怀太子墓志铭文[J].陕西档案,1994,(3):43.

    〔1〕徙封:百度百科:指古代有爵位者,從原封地改封為其他地區。

    〔2〕咸亨3年は、672年。

    〔3〕顕慶は6年まである。顕慶6年(661)は、龍朔元年でもある。


2022年7月9日土曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 04

  (4)楊上と楊上善は、いずれも弘文館直学士である。墓誌は、「楊上が解褐〔平民から仕官〕して弘文館学士に除せられた」というが、「学士」ではなく「直学士」とすべきだと疑う。唐代の官制では、弘文館はみな他の官と兼任であり、五品以上は学士であり、六品以下を直学士という。五品以上は高級官僚であり、唐代では「具員〔1〕」という。楊上が道士あるいは隠士から、直接学士に除せられるのは不可能で、直学士とすべきである。楊上は出仕した後、長期にわたって六品官を務めたことから見ると、その解褐して除せられたのは直学士とすべきで、学士ではない。楊上善にも弘文館学士に任ぜられた記載があるが、同じく直学士とすべきである。詳しくは、以下の(6)を参照。


    〔1〕具員:百度百科:五品以上官及京常參官的名冊。唐制,六品以下官皆由吏部註擬,五品以上官則由君相選授。自貞觀以後,除拜五品以上官,中書門下必立簿記其課績、歷任、官諱等,以供遷轉依憑。開元四年(公元716年),員外郎及御史等京常參官亦改由君相任命,故其名亦列入具員簿中。安史亂後,其制久廢。德宗、憲宗時復置。五代後唐因之。


2022年7月8日金曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 03

  (3)楊上の学風は楊上善と同じである。墓誌は楊上に隠士の風が少ないことを述べるのに多くの筆墨を費やしている。特に「年十有一,虛襟遠岫,玩王孫之芳草,對隱士之長松〔年十有一,虛襟(虚心)遠岫(遠き峰),王孫の芳草を玩(もてあそ)び,隱士の長松に對す〕」という。もし彼が在家の隠居にすぎなかったなら、この年のことを記録する必要はない。したがってこれは彼が出家して道観に入った年にちがいない。唐代の人である盧蔵用〔664ごろ~713ごろ?〕は終南山に隠居して道を修め、『芳草賦』を著わしたが、後に出仕し、「終南捷径〔終南山は仕官の近道〕」とそしられた〔1〕。この墓誌にいう「王孫の芳草を玩(もてあそ)ぶ」は、楊上が若い頃道士であったことを指しているのかも知れない。しかし「隠士〔隠居して官に仕えないひと〕」には道士が含まれるし、当然のことながら楊上がのちに還俗して隠士になったことも排除できない。中国古代の医学と道教には密接で複雑な関係があり、道士の多くは医学に通じていた。墓誌には、楊上は「於是博綜奇文,多該異說,紫臺丹篋之記,三清八會之書,莫不得自天然,非由學至〔是こに於いて博く奇文を綜(あつ)め,多く異說を該(か)ね,紫臺丹篋の記,三清八會の書,天然に自(よ)るを得ざる莫く,學に由って至るに非ず〕」とある。これは彼が道教の書に精通していたことを言っているが、「異說」と「八會」の書には医書が含まれているはずである。『漢武帝内伝』には、「上元夫人語帝曰:阿母今以瓊笈秘韞,發紫臺之文,賜汝八會之書,五嶽真形,可謂至珍且寶〔上元夫人 帝に語って曰わく:「阿母 今ま瓊笈の秘韞(玉飾りの書箱の中の道書)を紫臺〔道家のいう神仙の居所〕の文を發(ひら)き,汝に八會の書,五嶽の真形を賜う。至って珍且つ寶と謂っつ可し」〕」とある。中国医学はまた人体内の八つの気血が会合するツボを八会と称する。『史記』扁鵲倉公伝に、「會氣閉而不通〔會氣 閉じて通ぜず〕」とあり、張守節の『正義』は『八十一難』を引用して、「府會太倉,藏會季脅,筋會陽陵泉,髓會絕骨,血會膈俞,骨會大杼,脈會太淵,氣會三焦,此謂八會也〔府會は太倉,藏會は季脅,筋會は陽陵泉,髓會は絕骨,血會は膈俞,骨會は大杼,脈會は太淵,氣會は三焦,此れを八會と謂うなり〕」という。墓誌の下文、「又復留情彼岸〔又た復た情を彼岸に留む〕〔2〕」以下の文は、楊上が仏典にも通暁していたことを言っている。「學包四徹〔學は四徹を包(か)ね〕〔3〕、識綜九流〔識は九流を綜(あつ)む〕〔4〕」は、その学風の概括である。簡単に言えば、楊上は、基本的に道教の学者であり、同時に医学・仏学にも通暁していた。残念なことに、墓誌にはその著述の情況の記載がない。楊上善には道家の著作が6種40巻、医学の著作が3種43巻、仏学の著作が2種16巻、全部で10〔ママ〕種99巻がある。墓誌に述べられている楊上の学風は、楊上善の著述状況と完全に一致しているため、彼らは事実上同一人物であると推定するのが合理的である。


    〔1〕『新唐書』盧藏用傳:司馬承禎嘗召至闕下,將還山,藏用指終南曰:「此中大有嘉處」。承禎徐曰:「以僕視之,仕宦之捷徑耳」。藏用慚。

    〔2〕彼岸:佛教用語。指解脫後的境界,為涅槃的異稱。

    〔3〕四徹:未詳。仏典に用例が多い。あるいは四境と同じで、四方國境のことか。

    〔4〕九流:先秦至漢初的九大學術流派。包括儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縱橫家、雜家、農家。


2022年7月7日木曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 02

  (2)楊上の籍貫〔本籍〕。墓誌は「其の先は弘農華陰の人」〔1〕という。これは楊氏が郡望〔郡の名門〕であることを示している。〔墓誌にある〕「稷澤」と「岐山」は、楊氏が周代の姫姓に出ることをいう。『新唐書』巻71下・宰相世系表1下に「楊氏出自姫姓,周宣王子尚父封為楊侯〔楊氏は姫姓自り出づ。周の宣王の子尚父封ぜられて楊侯と為る〕」、「叔向生伯石,字食我,以邑為氏,號曰楊石。黨於祁盈,盈得罪於晉,幷滅羊舌氏,叔向子孫逃于華山仙谷,遂居華陰〔叔向 伯石を生む。字は食我,邑を以て氏と為し,號して楊石と曰う。祁盈に黨し,盈は罪を晉に得,幷びに羊舌氏〔=食我〕を滅す。叔向の子孫 華山の仙谷に逃げ,遂に華陰に居す〕」とある。前漢の楊敞〔2〕と後漢の楊震〔3〕は、ともに弘農華陰を住居として、丞相の官にいたった。墓誌にいう「西漢の羽儀」「東京の紱冕」とは、この二人を指して言っている。墓誌はまた「後代從官,遂家於燕州之遼西縣,故今為縣人也〔後代 官に從い,遂に燕州の遼西縣に家す。故に今は縣人為(た)り〕」という。楊氏が幽燕〔唐代以前では幽州、戦国時代では燕国に属した地域〕の官職についたのは、楊震の末裔の楊鉉〔楊震の八世孫〕に始まり、〔五胡十六国時代の〕燕国時代では北平の郡守であった。隋の文帝楊堅はこの系統の出である〔楊鉉は楊堅の六世祖〕。楊上の系統も楊鉉に出るかもしれないが、その(曽)祖である楊明と祖である楊相は、後魏・北斉時代にともに刺史であった。父の楊暉は、隋の幷州〔いま太原〕の大都督であった。後に唐の高祖李淵は幷州に決起したので、〔墓誌に〕「唐帝遺風の国」という。かれらは正史に見えず、その後裔も唐代での官位は高くないので、隋の皇帝と同族でも遠縁なのかもしれない。残念ながら楊上善の籍貫〔本籍〕は、古い書では言及されておらず、楊上と比較することができない。


    〔1〕維基百科:弘農楊氏,是中國中古時代以弘農郡為郡望的楊姓士族。據《通志·氏族略》記載弘農楊氏或源於春秋羊舌氏後裔,是叔向之後。其始祖為西漢時人楊敞,為漢昭帝時丞相,史學家司馬遷女婿,後代楊寶是西漢末、東漢初,傳習歐陽派《尚書》的經學學者。楊寶之子楊震,人稱“關西孔子”,東漢太尉。其後裔楊秉,楊賜,楊彪皆為東漢太尉,時人稱其“四世太尉”。

    〔2〕維基百科:楊敞(?-前74年),西漢大臣,華陰人。祖先為漢朝赤泉侯楊喜。

    〔3〕維基百科:楊震(54年-124年),字伯起,隱士楊寶之子。中國東漢時期弘農華陰(今陜西省華陰縣東)人。/『後漢書』楊震列傳第44を参照。

    


2022年7月6日水曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 01

  (1)「楊上、字は善」なる者は楊上善と同一人物でありうる。唐代人の名字には、後世の人を大いに困惑させる現象がある。例えば、2文字の名は常に1字が省かれて1文字の名で呼ばれる、名と字(あざな)が混在する、子孫の名が父祖の名と同じであるなどである。2文字の名でありながら、また1文字の名であり、1文字の字(あざな)とするのも、唐代人の名字の不思議な現象のひとつだろう。たとえば、『房山石經題記彙編』の咸亨五年龐懷伯等造像記の中には、「維大唐咸亨五年五月八日龐懷伯」とあるが、同書にはまた故上柱國龐府君金剛經頌〔賛美文〕があって、そこには「公の諱は懷、字は伯」という[2]。つまり造像記の中で、この人はみずからを龐懷伯と名乗っているが、世俗的な墓誌銘に非常に似ている後人が彼の死後に書いたこの頌には、意外にも「諱は懷、字は伯」とある。楊氏が書を著わした時、「楊上善」と自署し、後人がその墓誌を撰したときに「諱は上、字は善」としたのは、これとまったく同じである。当然のことながら、古代には同姓同名のひとは非常に多く、同姓同名の別人がいても不思議ではない。この楊上が楊上善であるかどうかは、主に以下に述べられている彼の生涯の事跡が楊上善と一致しているかどうかをみなければならない。


    [2]北京图书馆金石组.房山石经题记汇编[M].北京:书目文献出版社,1987.3,4.


2022年7月5日火曜日

楊上善の生涯に関する新たな証拠 00

楊上善の生涯に関する新たな証拠(楊上善生平考据新证)


        吉林大学古籍研究所  張固也 張世磊 著  『中医文献雑誌』2008年第5期

                                                                                

    〔〕内は訳注。長くなる場合は、番号を附して段落の後ろに置いた。

    原文の参考文献[1]~[3]は、段落末に移動した。

 

    要旨:近年発表された楊上の墓誌は、実は唐代の医家、楊上善の墓誌である。考察により、楊氏の生没年は589年~681年であり、70歳以前に隠居して学問に専念したが、後に詔を受けて入朝し、長期にわたって太子李賢の府に勤めていたことが判明した。『太素』は675年ごろに撰注された。

 

 キーワード:太素 楊上善 生涯 考証


 19世紀に日本で楊上善注『太素』の古鈔本が発見されて以来、中日両国の学者は宋・明時代の医史の著作でいわれていた、楊上善は隋代の人であるという説に疑問を呈し、唐・高宗時代の太子文学であった、とひろく認められるようになった。しかしながら今にいたるまで楊氏の他の生涯の事績についてはほとんど知られておらず、基本的に清代の人の出した結論より先にすすんでいない。最近、『唐代墓誌彙編続集』を読んで、その中に「垂拱007」という番号がついた楊上の墓誌があることに気づいたが、これは楊上善の墓誌である可能性が高い。まず墓誌の主な内容を以下に抄録する。


  大唐子洗馬楊府君及夫人宗氏墓誌銘並序

  〔原本未見のため、代用として一部に中國哲學書電子化計劃データとの異同を一部記す。なお「計劃」は難字を表現できていないようである。〕

  君諱上,字善。其先弘農華陰人,後代從官,遂家於燕州之遼西縣,故今為縣人也。若夫洪源析胤,泛稷澤之波瀾;曾構分華,肇歧山之峻嶷。赤泉疏祉,即西漢之羽儀;白瓌〔=瑰。/計劃作「環」〕貽貺,實東京之紱冕。並以詳〔計劃に「諸」字あり〕史牒,可略言焉。祖明,後魏滄州刺史;祖相,北齊朔州刺史。並褰帷布政,人知禮義之方;案部班條,俗有忠貞之節。父暉,隋幷州大都督。郊通虜鄣,地接寶符,細侯竹馬之鄉,唐帝遺風之國,戎商混雜,必佇高才。以公剖符,綽有餘裕,雨灑傳車之米,仁生別扇之前。惟公景宿摛靈,賢雲集貺,鳳毛馳譽,早映於髫辰;羊車表德,先奇乎廿歲。志尚弘遠,心識貞明,慕巢、許之為人,煙霞綴想,企尚、禽之為事,歲〔計劃作「風」〕月纏懷。年十有一,虛襟遠岫,玩王孫之芳草,對隱士之長松。於是博綜奇文,多該異說,紫臺丹篋之記,三清八會之書,莫不得自天然,非由學至。又復留情彼岸,翹首淨居,耽玩眾經,不離朝暮,天親天著之旨,睹奧義若冰銷;龍宮鹿野之文,辯妙理如河瀉。俄而翹弓遠騖,賁帛遐徵,丘壑不足自令,松桂由其褫色。遂乃天茲林躅,赴波〔計劃作「彼」〕金門。爰降絲綸,式旌嘉秩,解褐除弘文館學士。詞庭振藻,縟潘錦以飛華;名苑雕章,絢張池而動色。寮寀欽矚,是曰得人。又除沛王〔計劃作「府」〕文學,綠車動軔,朱邸開扉,必佇高明,用充良選,以公而處,僉議攸歸。累遷左威衛長史、太子文學及洗馬等,贊務兵鈐,彯纓銀牓〔計劃作「榜」〕。搖山之下,聽風樂之餘音;過水之前,奉體物之洪作。既而歲侵〔計劃作「浸」〕蒲柳,景迫崦嵫,言訪田園,或符知止。不謂三芝宜術,龜鶴之歲無期;乾月奄終,石火之悲俄及。以永隆二年八月十三日,終於里第〔計劃の句讀:不謂三芝,宜術龜鶴之歲;無期幹(まま)月,奄終石火之悲。俄及以永隆二年八月十三日終於里第〕,春秋九十有三。惟君仁義忠信,是曰平生之資;溫良恭儉,實作立身之德。學包四徹,識綜九流,題目冠於子將,風景凌於叔夜。仙鶴未托,門蟻延災,曲池忽平,大暮難曙[1]。(以下の夫人に関する記事と銘文は省略。)


    [1]周绍良,赵超. 唐代墓志汇编续集[M].上海:上海古籍出版社,2001.284.

    ★中國哲學書電子化計劃の『唐代墓志匯編續集』№垂拱007 大唐故太子洗馬楊府君及夫人宗氏墓誌銘並序によれば、省略された部分は以下のごとし。・*サは、表示のまま。おそらく難字。

    夫人南陽宗氏,隋清池縣令之女也。虔誠蘋藻,中饋之禮無虧,銳想組釧,內則之儀允備。昔年晝哭,切鳳梧之半死;今日歸泉,睹龍匣之雙掩。以永淳元年九月卅日終於長壽里第。粵以今垂拱元年八月十七日遷窆於長安縣承平鄉龍首原,禮也。傍分石柱,即為三輔之郊;近通璜渭,是曰八川之壤。佳城鬱鬱,松柏蒼蒼,丹・人素而愁雲飛,白驥鳴而斜日落。嗣子神機等,情深屺岵,痛結穹蒼,既營馬鬣之墳,思樹龍文之碣,林宗有道,伯喈無・鬼。

    其詞曰:

    分源稷澤,命氏諸楊,赤帛標祉,白環表祥。

    乃父乃祖,為龍為光,褰帷作訓,露冕垂芳。

    高情雲聳,逸韻瓊鏘,惟君誕秀,大昴垂芒。

    幼而歧嶷,長自・璋,孤標藝府,獨擅文房。

    琴台鳳集,筆抄鸞翔,娛情澗戶,朗嘯山莊。

    爰逢賁帛,乃應明*,升簪詞苑,奉笏春坊。

    謀猷獻替,令問昭彰,隙前逝馬,水上遷サ。

    池台霜落,風月淒涼,龜謀襲吉,馬鬣開場。

    雙棺是掩,二・齊揚,仙禽來吊,服馬悲傷,

    宿草將列,新松未行。百年兮已盡,萬古兮茫茫。

    


 この墓誌の撰者は不詳である。編者の注には、「西安阿房宮付近の農家が石を蔵し、張鎔がこれを録した」とある。碑石の発見年代はよく分からないが、文章の風格からすると、確かに唐代の人の言辞であり、後世の人が偽撰できるものではない。序文にはまた「今垂拱元年八月十七日、長安県承平郷龍首原に窆(はか)を遷す」とあり、この時に作られた碑文であろう。唐初の墓誌は四六駢儷体で、典故も多く用いられ、その生涯の事績を述べるのは往々にしてそれほど詳しくなく、その著述書を載せることはさらに稀である。楊上の墓誌にも形式的な美辞麗句が多く、記載された事績は簡略にすぎるきらいがある。とはいえ、楊上善の生涯の学術と完全に一致している。以下、墓誌に書かれた文章の順に沿って、10の方面から考証と解釈をおこなう。