2010年7月15日木曜日

徐文伯

『鍼灸資生經』卷一・足太陰脾經左右二十二穴の三陰交に:
昔宋太子善醫術,出苑逢一妊婦,太子診曰女。令徐文伯診,曰一男一女。鍼之,瀉三陰交,補合谷,應鍼而落,果如文伯言。故妊娠不可刺。
これだけだと,徐文伯が腕前をひけらかすために,不仁の行いをしたと読まれかねない。
ところが,『南史』卷三十二・列傳第二十二には:
宋後廢帝出樂遊苑門,逢一婦人有娠,帝亦善診,診之曰:「此腹是女也。」問文伯,曰:「腹有兩子,一男一女,男左邊,青黑,形小於女。」帝性急,便欲使剖。文伯惻然曰:「若刀斧恐其變異,請針之立落。」便寫足太陰,補手陽明,胎便應針而落。兩兒相續出,如其言。
これだって,もうちょっと何とかできなかったのかと思われそうだけど,南朝宋の後廢帝・劉昱というのは,とんでもない暴君で,本紀において「天性好殺,一日無事,輒慘慘不樂」とまで書かれています。まあ,限界だったんでしょう。
もっとも『通玄指要賦』では,「文伯瀉死胎於陰交,應針而殞」になっています。これだと死んだ胎児が腹中に留まっているのを処理したという印象ですよね。体裁良く整えられています。

2010年7月11日日曜日

膏肓 BL43の取穴法

清 呉亦鼎『神灸經綸』[卷之二 十二经脉起止] 膀胱經六十三穴分寸

膏肓:
從魄戶下行第四椎下五椎上,此穴居中,去脊中各三寸半,正坐曲脊取之。
『千金翼』云:先令病患正坐曲脊,伸兩手,以臂著膝,前令正直,手大指與膝頭齊,以物支肘,勿令臂動,乃從胛骨上角摸索至胛骨下頭,其間當有四肋三間,依胛骨之際相去骨際如容側指許,按其中一間空處,自覺牽引肩中是其穴也。左右各灸至百壯,或三五百壯,多至千壯,當氣下襲襲然如流水之降,若停痰宿疾亦必下也,若病患已困不能正坐,當令側臥,挽上臂令前,索孔穴灸之。
又取法,以右手搭左肩上,中指稍所不及處是穴,左取亦然 。

ちなみに『千金翼方』卷第二十七 肝病第一
膏肓兪兩穴主無病不療方
先令病人正坐曲脊,伸兩手,以臂著膝前令正直,手大指與膝頭齊,以物支肘,勿令臂得動也,從甲骨上角莫索至甲骨下頭,其間當有四肋三間,灸中間依甲骨之裏去甲骨容側指許,摩��〔=月+呂〕去表肋間空處,按之自覺牽引肩中,灸兩甲内各一處至六百壯,多至千壯,數百壯當氣下,礱礱然如流水當有所下,若停淡宿疾亦必下也。此灸無所不治,主諸羸弱瘦損虚勞,夢中失精,上氣欬逆,及狂惑妄誤,皆有大驗。若病人已困不能正坐,當令側臥,挽上臂令前索孔穴灸之。求穴大較,以右手從左肩上住指頭表所不及者是也,左手亦然,及以前法灸。若不能久正坐,伸兩臂者,亦可伏衣襆上伸兩臂,令人挽兩甲骨使相遠,不爾甲骨覆,穴不可得也。所伏衣樸當令大小有常,不爾則前却失其穴也。此穴灸訖後,令人陽氣盛,當消息自養令得平復。其穴近第五椎相準望求索。

2010年7月7日水曜日

東漢鍼灸陶人

1993年、四川省綿陽市で発掘された「経脈漆木製人形」は、たぶん有名だが、河南省南陽にある、張仲景を祀った医聖祠を修復した際,発見された「東漢鍼灸陶人」は話題にのぼることもすくない,と思うので紹介する。

高さ24cm、胸の巾は7cm。陶製で、ミロのビーナスを彷彿とさせる。
体幹部に、陽明胃経にも見える点が縦にならんでいる。
国家一級文物(国宝)。
『中国美術全集』にも収載される。
レプリカは、中国歴史博物館に陳列してあるらしいので,こちらでご覧になった方もいらっしゃるかもしれない。上から13番目の「东汉 针灸陶人」。

2010年7月6日火曜日

中国のネット辞書・論文

中国には,「本库收录近 4000 余部工具书、1500万词条。」
というようなすごいネット辞書が,限定的ではあるが,すぐ利用できる。
中国工具书网络出版总库

たとえば,楊上善について,あらましを知りたいと思えば,
「楊上善」と入力するだけ。簡体字を入力する必要はない。

楊上善に関連する論文を探したければ,
グーグル学術捜索
などがある。

こちらは,漢字変換道具で,変換してもらったほうがいいかも知れない。

靈蘭之室 茶餘酒後に出ている「楊上善生平考据新証」も,
「杨上善 张固也」のキーワードを入れて,たどっていけば,
その初めの1ページ分は読める。

Google学术搜索に「杨上善 张固也」を入力 〔搜索〕をクリック
=⇒ 「杨上善生平考据新证」をクリック
=⇒ 〔在线阅读〕をクリック

ものによっては,無料で全文が読めるものもあるが,
だいたいはビジネスになっている。

2010年7月5日月曜日

凌雲の子孫

凌雲から十一代目のひとが凌奐(日本の文字では9画。中国の文字では7画)。字は曉五(1822-1893年)。このひとが鍼灸に限らず,有名らしい。

魏稼『針灸流派概論』(人民衛生出版社,2010年5月)13頁と94頁に,「道光二十九年,他(凌雲)的十三代孫凌奐」とあるが,上文に「光緒年間,傳十三代」とあるから,「十三代孫」は「十一代孫」の誤りだと思う。

また『浙北医学史略』という本には,次のような記載があるそうです(何時希『中国歴代医家伝録』引)。
孫,宣(號は雙湖)。
七世孫,宸世,字は蘭亭,康煕年間。
八世孫,應發,字は南臣。
九世孫,玉樵。
十世孫,邦從。
十一世孫,振華。
十二世孫,小圃。
十三世孫,鞠廷。
十四世孫,文潮、文濤、文湛。