2017年4月26日水曜日

李今庸《古代医事編注》 あてにならない注(もある)

該書由李今庸教授選錄唐、宋、元、明、清朝等著名的典籍筆記中有關中醫藥醫事史料予以製卡,並據卡內容分類,對原文加以較詳細註釋。


李琳というひと(おそらく李今庸先生のむすめ)の注がついている。
うるさいくらい注がついている。
ありがたくはあるが,理解できないながら注をつけたところがある。
例:
26頁:明 王世貞撰『弇山堂別集』卷九十四・中官考五:弘治十八年五月,上崩,司設監,太監張瑜,掌太醫院事右通政施10欽,院判劉文泰,御醫高廷和下獄。初,上以禱雨齋戒,偶感風寒,命瑜與太醫院議方藥,瑜私與文泰,廷和不請診視,輒12用藥以進,繼與欽及院判方叔和、醫士徐吴等進藥,皆與症乖,先帝遂彌留,中外痛恨。……
注10通政施:通政司。
○「欽」という字は,基本的に皇帝に関することばにつかわれる。ここでは意味をなさないであろう。後文からすれば,「通政」は「通政司」の略で,「施」は姓で,「施欽」というひと。
「司設監,太監張瑜」は「司設監の太監張瑜」で「,」は不要ではなかろうか。
「瑜私與文泰,廷和不請診視」の「(劉)文泰」と「(高)廷和」は同格で,「瑜私與文泰、廷和不請診視」とすべきではないか。

注12輒:①総是。②立即,就。③専擅,独断専行。
○辞書を引き写すのではなく,ここではどの意味か,ひとつ書けばすむことではないか。
・なお,「徐吴」を『明實錄』は「徐昊」,『文淵閣四庫全書』は「徐旻」に作る。姓が「徐」で,「吴」という名はありそうもない。

55頁:宋 洪邁《夷堅志補》食挂:……醫莫能愈,乃趨01郡謁史載之。吏曰「俗醫不讀醫經,而妄欲療人,可歎也」。……史君名堪10,最善醫,……
注01趨:①趕快,快走。②趨向,奔向。③小歩快走。
○ここも意味を三つならべる必要はなかろう。
注10名堪:名声更顕。
○史載之の名が「堪」であるのを知らなかったのだろう。
・なお,意味から考えると,「吏曰」は「史曰」のあやまりだとおもう。

67頁:『夷堅三志辛・興教寺僧』:臨安11西湖12上興13教寺14,一僧15年方16四十餘歲,得頭頼之疾17……。
注:13興:時興,興盛。/14教寺:宗教寺院。/17:頭頼之疾:發生在頭皮上的癬頼,表現……。
・タイトルからして,西湖のほとりにある「興教寺」でしょう。どういうつもりで,「興」と「教寺」字をわけて注をつけているのでしょうか?
・「頭頼之疾」とは,頭部にできる皮膚病だとして,症状を説明していますが,下文(扶之則仰,按之則俯,擁之左則左,移之右則右,若非他人運轉,輒終日不動。 ……若積之五臟,硝毒發作,能令人骨軟)から考えれば,「頼」は「軟」字の誤字でしょう。
82頁:『夢溪筆談・技藝』:天章12閣13待制14……
注:12天章:①章,文采,……。②𦾔稱帝王所作的詩文。……/13閣:樓臺亭閣。
・天章閣:宋代の宮中にあった藏書閣の名。宋の真宗天禧四年に建築がはじめられ,翌年に完成した。

79頁:《夷堅志・張小娘子》……又轉以教厥01夫。
注01厥:代詞。他的,那個。
・張小娘子が夫に教えたのだから,漢語としては,「他的=かれの」ではなく,「她的=彼女の」ですむはず。

91頁:《庚已編》
・正しくは《庚巳編》

97頁:『清稗類鈔・蒙古醫療周尚白傷』:……上馬鞭山,弔孤竹07少君之冢08。……經長城,墜車,車輪轉股上,股斷。遇蒙古醫,置股於冰,令僵09徐剖肉,視骨,粉碎,為聯綴,緝桑皮紉之,飲以藥,五日而能行矣。
注07孤竹:①竹の一種。……②古代の一種の管楽器。③古国名,墨胎氏。在今河北盧龍南。
08冢:墳墓。
09僵:硬。
・以下,孫引き:清顧祖禹《讀史方輿紀要》記載:“孤竹城:府西十五里。……《水經注》:孤竹祠,在山上,城在山側。今山陰,即古孤竹城。《志》云:孤竹山在城西北二十里,其相近有雙子山,孤竹長君墓在焉,一名長君山。又西有馬鞭山,孤竹少君墓在焉,一名少君山。……”
孤竹君与商王同為子姓,墨胎氏,又作“墨台氏”、“墨夷氏”、“默夷氏”或“目夷氏”,炎帝之后。公元前1600年,商湯滅夏桀。成湯十八年(公元前1582年)三月丙寅,分封有功之臣,封孤竹等諸侯國。
なお,この上にある文の「、」三つは,「,」とすべきではないか。
・「令僵徐剖肉」は「令僵,徐剖肉」で「僵」は「かたい」ではなく「倒す」で,周尚白を寝かせて,ゆっくり肉を裂いたのだろう。

99頁:『清稗類鈔・潘龍田精於醫』:楔05齒,少注藥……。
注05楔:①一種似松而有刺的喬木。②填充空隙的木橛、木片等。
・「楔」は,動詞で,口齒をこじあけるためにくさびをいれることだろう。《儀禮‧士喪禮》:“楔齒用角柶。”鄭玄 注:“為將含,恐其口閉急也。”

2017年4月21日金曜日

柳長華先生のお話を聞く 2017/04/21

 (注意:以下のMEMOは、先生が話されなかったことも含む。)
・内容は、英国で発表されたことの大意。
 未発表の情報もふくむので、撮影なし、ペーパーなし。
 来日は、家族とともに観光が目的。
・通訳:真柳誠先生・郭秀梅先生。
・柳長華先生は、山東省出身、中国中医科学院教授で、成都天回漢墓医簡整理小組の負責人。
*キーワード:老官山漢墓(天回漢墓)・医簡・『黄帝内経』・扁鵲倉公列伝
 (点と線がある漆塗りの人形については、猪飼祥夫先生の研究を参照)

・いわゆる「成都老官山漢墓医簡」に関する報告であったが、「老官山」とはあの地域を指す俗称であり、漢墓は成都市金牛区天回鎮にあるので、中国中医科学院では「老官山漢墓」ではなく、「天回漢墓」と呼んでいる。
http://www.kaogu.cn/cn/xueshuhuodongzixun/kaoguxueluntan__2013nianzhongguokaoguxinfaxian/2013/1227/44855.html
・出土した医簡を成都と中国中医科学院で共同研究となっているものの、医簡についての名称もそれぞれ別々につけているようだ。
・当初、成都文物考古研究所がつけた暫定的な名称:敝昔医論・脈死候・六十病方・病源論・経脈書・帰脈数。
・成都中医薬大学の任玉蘭ら「成都老官山漢墓出土医簡『十二脈』『別脈』内容与価値初探」(中華医史雑誌2017年第1期)は、第三漢墓にあったものを整理して、『医馬書』『十二脈』『別脈』『刺数』(暫定名「帰脈数」)などとしている。
・中国中医科学院が付与した名称:脈書上経/脈書下経/治六十病和斉湯法/刺数/逆順五色脈蔵験精神。
・「逆順五色脈蔵験精神」が本文に由来する以外は、内容から扁鵲倉公列伝と『黄帝内経』に見える文章との関連から命名した。
・「敝昔」は、(扁鵲の通仮字ではなく、)鷩䧿の省写(省略書き)である。意味は「頭戴鷩冕的雉鵲」で、漢代の画像石がまさにその姿をあらわしている。(「敝昔曰:人有九徼(竅)五臧(臟)十二節,皆[鼂(朝)於氣」。「敝昔曰:所胃(謂)五色者,脈之…」。)
 鷩冕:鷩,繡有雉鳥的禮服。冕,冠冕。鷩冕指古時天子祭祀先祖及饗射時所穿戴的冕服。
・この医簡を通して、扁鵲倉公列伝や『黄帝内経』の再解釈・読み直しをおこなっている。
・この脈書上下経こそが医経であり、『素問』などはその注釈書である。
・上経は医学理論、下経は疾病の変化を論ずる。
・脈書上下経には、経脈(を砭石でなおす)病と湯液(でなおす)病が書かれている。
・この経脈病と湯液病の一体化をはかったのが、張仲景『傷寒雑病論』である。
・脈書上下経のスタイルに沿って編集された本が、王叔和『脈経』である。
・『漢書』藝文志にある内経と外経は、上経と下経に対応する。
・『藝文志』にいう:「醫經者,原人血脈經絡骨髓陰陽表裏,以起百病之本,死生之分,而用度箴石湯火所施,調百藥齊和之所宜」は、
天回漢墓医簡の内容と対応している。
・逆順五色脈蔵験精神は、通俗的な文で、脈書上経の訓詁であり、倉公(淳于意)の弟子の著作である。
・倉公の診籍は、カルテではなく、治療の根拠=医経を書いたものである。
・頻出する「数」という語は、『黄帝内経』では一部「法」という語に置き換えられた。
・漆塗りの人形についている点の意味は、医簡を読んではじめて理解できる。
・漆塗り人形にある点は、『黄帝内経』にいう十二節であり、天に通ずるものである。
(『素問』六節蔵象論:自古通天者.生之本.本於陰陽.其気九州九竅.皆通乎天気.)
・鍼灸は、漢代以降、衰退した。原因は、『霊枢』経脈(10)が脈をつないで循環させるようにしたためである。
穴=十二節は、天(気)と通じていたのに、それを体内に閉じ込めてしまった。
・砭石は、鳥のくちばしの形に啓発されて作られた。
・斉の三字刀(貨幣)は、馬を刺すために用いられた。
  余録:
・山東省出身のためでしょう、扁鵲・倉公(淳于意)への思い入れも強いようです。
・研究風景:プロジェクタに赤外線写真を写しだして、研究員が集団でその読解をしていた。研究発表会かも知れないが。
・漆塗りの人形のレプリカも作っていた。それをパソコンで処理して3D研究。
・竹簡の作り方:まず、丸竹の表面にらせん状に筋目を入れる。それを割って札(簡)を作る。16枚ぐらい。
簡それぞれに糸(韋/「緯」の省写で、たぶん皮ひもではない)でつづりやすいように切れ目を入れる。
竹簡を竹の表面を上にして置く。その際、その竹簡がどの位置にあったか、正しい位置にあるかは、刀で入れた斜線(筋目)でわかる。
こうすることによって、長さも等しく、隣りの簡ともうまく接合するようになる。糸でつづる。
できあがった竹簡冊(巻物)に文字を書く。文字を後から書くので、韋(つづり糸)で文字が隠れることはない。
・今回発掘された竹簡には、もちろん韋は朽ちて残っていなかったが、文字が書かれていない面に、この斜線が残っていた。
そのため、多くの保存状態のよいものでは、本来の竹簡の順序を正しく復元できた。

2017年4月14日金曜日

訓読で悩んだら

四月から漢文訓読による医古文読解をはじめた方もいらっしゃると思います。
訓読についてまわる,返り点・送り仮名について疑問を持たれた場合,
以下の本を読んでみると,疑問点がすこし整理できるかも知れません。

古田島洋介、湯城吉信【著】漢文訓読入門
古田島洋介【著】これならわかる返り点 入門から応用まで
古田島洋介【著】これならわかる漢文の送り仮名

2017年4月13日木曜日

如何 何如

新訂 中国古典選『論語』公冶長に:
原文:子貢問曰、賜也何如、……
訓読:子貢問いて曰わく、賜や如何。……
そして解説の初めに現代語訳として:子貢問うて曰わく、賜や何如。……

さらに解説の終わりに:
 なお何如を、日本の写本は、如何に作るものがある。いずれにしても、意味は同じ、あるいは之の字を中に加えて、如之何といってもおなじ。

まえがきに:
 本文の訓読は、もっとも普通に行われているものとして、江戸中期の儒者、後藤芝山の点によったところが、もっとも多い。……ただし、それは、訓読の一つの標準を示すだけであり、必ずこうよまねばならぬというわけのものではない。私自身も、解説の中に引くものを、前に標出した訓読と、わざとちがえているところがある。

2017年4月10日月曜日

文部省 漢文に関する文部省調査報告

今日の中級講座で,話題になったのは次のものではないでしょうか?


文部省 漢文に関する文部省調査報告

『官報』明治45年3月29日 第8630号 p.703-707.
「国立国会図書館デジタル化資料(官報)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951987