2023年4月30日日曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 05

   5 討論

 この半世紀,簡帛医学文献の出土が次第に増えてきたが,その中の大きな分野を経脈文献が占めていて,学者のそれに対する認識も日増しに明晰になっている。最初に注目されたのは,伝世医籍である『黄帝内経』,特に『霊枢』経脈との関係であった。例えば,裘錫圭先生は「簡帛古籍から分かることは,数術・方技の本には継承性が特に強いことである。伝承されたこのような著作は,かなり古い同類の著作を基礎として,徐々に修改増補をかさねて定本となったものが多い。張家山竹書と馬王堆帛書の『脈書』が,『霊枢』経脈篇の祖本であることは明らかである」[14]と指摘している。

 しかし,これらの出土した経脈文献を整理した当初は,学界ではこういった文献をどのように命名し,区分するか,意見が分かれることが多く,意見が統一されなかった。その後,張家山から『脈書』が出土し,竹簡の背面から「脈書」という題名が発見されたので,張家山漢簡整理小組は,張家山の竹簡『脈書』の内容は,帛書の『陰陽十一脈灸経』『脈法』『陰陽脈死候』の3種に相当すると考えた。帛書に欠けていた文字は,竹簡が発見されたことにより,基本的にほとんど補うことができる。〔竹簡の文字も〕帛書の釈文と対照すれば,一部を除いて,やはり誤りなく釈文できる。このように,帛書『五十二病方』の巻前にあって失われた部分は,実際は『足臂十一脈灸経』と『脈書』の二種類であると考えられる。このことは,いわゆる『足臂十一脈灸経』が『陰陽十一脈灸経』とは確実に異なる別の本であることを証明している[15]。韓健民[16]は,馬王堆帛書の経脈文献を研究した専門書を著わしたが,その題名を『馬王堆古脈書研究』とした。張燦岬[17]は文献の名称についても論じていて,張家山の『脈書』はもともとあった題目であり,これは『史記』倉公伝が称する『脈書』と同義であるはずであると主張した。「脈書」は経脈の書であり,脈診を言う書ではない。したがって馬王堆に二つの「灸経」本には,もともと題名はなかったが,この例に照らせば,これも「灸経」ではなく「脈書」ではないかと疑われる。『霊枢』経脈という篇は,『脈書』などの各本の基礎の上に発展して成立した可能性がきわめて高い。李海峰[18]は,出土した経脈類文献の主要な内容は近く,体例は類似していることを根拠に,いずれも経脈の脈名,循行ルート,主治病症を述べていて,いずれも生死を判断する診断学的内容を含んでおり,張家山漢簡『脈書』には明確な題名簡があるという。その上,『史記』扁鵲倉公列伝の記載された『脈書』の伝承体系が存在し,これに類する経脈文献は,『脈書』と統一して命名すべきであり,その後にその出土した土地と書写された書写材料〔帛書か竹簡かなど〕の違いにもとづき注を加えて区別すべきであると考えている。趙争[19]は,古脈書の『足臂十一脈灸経』と『陰陽十一脈灸経』の両者の内容と構造を分析することにより以下のように指摘している。すなわち,その形成はいずれもかなり複雑な過程をへていて,そのテキストの構造と成書過程は相対的な年代問題と密接に関連しているため,『足臂』と『陰陽』の相対的な年代関係をおおまかにまとめて論定するのは難しく,テキストの内部に深く入り込んで,古書そのもののテキストの階層に基づき,より小さな単位――段落ごと,さらには各文ごとに――を基礎として分析をおこなうべきである,と。

 上に述べてきたことをまとめると,秦漢時代には多くの地域に普遍的に「脈書」文献が流布しており,その内容と体例はすでに比較的固定的なパターンを形成している。とはいえ,各伝本にはそれぞれ違いがある。馬王堆からは『足臂』と『陰陽』が出土し,今回,天回医簡にも『脈書』下経と『経脈』があり,同じ墓から異なる伝本の経脈文献が出土したのは,当時のこのような文献の流布が複雑で,分離統合が定まっておらず,まさに発展変化の活発な時期にあたることを示している。伝世経典としての『霊枢』経脈篇は,まさにこのような「脈書」が集大成された後に定型化した産物で,体例と構造は,出土「脈書」の基本的な構造を継承していて,そこには経脈の名称・循行・主病・診治法・脈死候等の部分が含まれている。経脈循行の主体と経脈病候という核心となる内容からみると,天回『経脈』に類似する「直系」文献とすべきである。その改造され増加された部分は,おもに以下の面である[20]。第一に,「営衛学説」の成果を吸収し、経脈の循行方式を四肢末端から起こる「求心性」流注を,十二経脈が首尾相い貫く循環する流注に改造した。第二に,『霊枢』禁服の「人迎―寸口」脈法と「盛則瀉之,虛則補之,熱則疾之,寒則留之,陷下則灸之,不盛不虛,以經取之」という鍼灸治療の大法を移植し,次第に衰微していた「有過之脈」の診察法と砭・灸の治療法に取り替えた。第三に,「十五別絡」の内容を増やした。この部分は天回『経脈』と張家山・馬王堆諸脈書には見られないが,天回『脈書』下経の「間別脈」の一部の体例に近い。このことから,『霊枢』経脈の文献の由来が非常に複雑であることがわかる。

 天回医簡が埋葬されたのは,前漢の景帝と武帝の際のころである〔BC140年前後〕[4]。そこに保存されていた二つの経脈文献を見ると,『脈書』下経はこれ以前の『脈書』(BC186年)[6]および馬王堆『足臂』(BC168年)[21]を総合したものであるが,わずかに残っている『経脈』の方は伝世の経典『霊枢』経脈の原始的な様相に近い。江陵〔張家山〕・長沙〔馬王堆〕・成都〔天回〕の三箇所から出土した六つの経脈文献は,前漢初期の五六十年間に,すでに「分散から集合」の傾向を示していた。これに対して『霊枢』経脈が形成された時期は,学界での定説とみなされている成帝の侍医であった李柱国が天下の医書の校正を始めたとき(BC26年)とは限らず,後漢の和帝(88~105年)時代に,太医丞の郭玉が涪翁から伝えられた『鍼経』の時まで時代が下る可能性があるかも知れない。天回『経脈』が『霊枢』経脈に発展するにいたる二百年以上の間に,各種の「伝承された異本」の経脈文献がどれほど相互に浸透融合をへているか分からないが,最終的に「学は官府に在り」という影響の下に,次第に統一を見た。

 『霊枢』経脈篇に「經脈者,所以能決死生,處百病,調虛實,不可不通」[5]とある。この数十年来,陸続と出土した経脈文献は,われわれにこの経文についてより真意に近い理解をもたらし,それによって学者のまなざしは経脈の循行ルートという枝葉の部分から経脈の病候と診療という主要な項目に移った。注目点が移行した背景には,実はいわゆる「経絡の本質」という問題に対する新たな認知,すなわち経絡は「生理システム」であるという認識から「疾病分類システム」であるという認識へのパラダイムシフトがある。『霊枢』経脈の原始形態により近い天回医簡『経脈』の発見は,まさにこのタイミングである。これは間違いなくわれわれに秦漢時代の経脈文献が「百舸争流〔多数の船が流れに競いあう〕」から「百川匯海〔多数の川の水が海に集まる〕」までの伝承の流れというパノラマを見せていて,「鍵となる部分」の新史料を提供している。またわれわれに天回漆塗り経脈木人の体にある赤と白の経脈系統を解釈する新しいアイディアを思いつかせ,それによって必ず中国医学の経脈学説の幾重にも重なって形成された歴史的なプロセスを探索するための新たな弾みとなることもまた間違いない。


天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 04

   4 脈死候

 本篇の簡一四「人有病平臍,死」に似ている文は,『鍼灸甲乙経』巻八第四の「水腫大臍平,灸臍中,腹無理不治」[11]に見える。「唇反人盈,肉死」は,『脈書』51と馬王堆『陰陽脈死候』2に見え,「肉死」を「肉先死」に作る。『霊枢』経脈は「人中滿則唇反,唇反者肉先死」[5]に作る。『甲乙経』でも巻八第四に見えるが,並びの順序は上に挙げた文の前にあり,「水腫,人中盡滿,唇反者死」[11]に作る。この簡の内容は,「脈死候」に属する。この部分の内容は出土と伝世の経脈文献の中で,いずれも比較的安定した形式で存在する。上述した『脈書』『陰陽脈死候』以外でも,天回医簡『脈書』上下経の両方から見つかった。ただ『霊枢』経脈篇には説明的な言葉としてあらわれ,「伝注」の体例に近い。このことから,「脈死候」は文章としては長くはないが,秦漢時代の「脈書」類の文献にあっては,欠くべからざる重要な内容であり,伝世の経脈文献と対照して読むことで,経脈文献の伝承が変遷発展する流れを理解する上で有益であることがわかる。

 このほか,本篇の一五と一六には治療器具(鍼具か?)の形状のような内容が記載されているようだが,破損がひどく,ここでは論じない。

2023年4月29日土曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 03

   3 治法

 本篇で述べられている経脈病の治法は,簡の六・八・十に,「啟〔啓〕」と「灸」の治法が見られる。たとえば簡六には,「凡十一病,啟郄,灸骭上踝三寸,必廉大陰之際」とあり,簡十には「凡七病,啟肘,灸去腕三寸」とある。簡の一一と一二には,「除」の治法が述べられている。

 啟〔啓〕とは,砭石を使用して脈を刺して血を出すことを指す。『脈書』58に「氣壹上壹下,當郄與跗之脈而砭之。用砭啟脈者必如式」[6] とある。

 郄は,本篇では「【𠯌+卩⿰】」と書かれていて,意味は「隙」と同じで,ここでは膕窩〔膝裏のくぼみ〕を指す。『脈書』および『陰陽』『足臂』では,この字は字形が月と𠯌に従っていて,異体字に属す。「郄中」という語は,『素問』の蔵気法時論・刺瘧論〔「論」は原文のまま〕・刺腰痛篇・刺禁論などの篇にしばしば見られ,王冰の注にはなはだ詳しい。たとえば『素問』刺腰痛に「足太陽脈令人腰痛,引項脊尻背如重狀,刺其郄中太陽正經出血,春無見血」とあり,王注に「郄中,委中也,在膝後屈處膕中央約文中動脈,足太陽脈之所入也」[10]という。また,「解脈令人腰痛……刺解脈,在膝筋肉分間郄外廉之橫脈出血,血變而止」に,王注は「膝後兩傍,大筋雙上,股之後,兩筋之間,橫文之處,努肉高起,則郄中之分也。古『中誥』以膕中為太陽之郄,當取郄外廉有血絡橫見,迢然紫黑而盛滿者,乃刺之,當見黑血,必候其血色變赤乃止,血不變赤,極而寫之必行,血色變赤乃止。此太陽中經之為腰痛也」[10]という。『足臂』『陰陽』で「郄」字が用いられているところは,『霊枢』経脈ではみな「膕」字に作る。啟肘は馬王堆の『脈法』3にも「氣出郄與肘之脈而【砭之】」と見える。「肘」を『脈書』は「胕」に作るが,おそらくは誤りであろう。按ずるに,肘と膝は,みな『素問』にいうところの「四肢八谿」の部に属す。『素問』五蔵生成に「此四支八谿之朝夕也」といい,王冰の注に「谿者,肉之小會名也。八谿,謂肘・膝・腕也」[10]とある。

 久は,「灸」と読む。本篇には全部で四回見える。その法はまた『脈書』57-58:「治病者取有餘而益不足,故氣上而不下,則視有過之脈,當環而灸之。病甚而上于環二寸益為一灸」[6] にも見える。本篇で言及される施灸部位として,「骭上踝三寸」と「去腕三寸」がある。按ずるに,「骭上踝三寸」は三陰交穴の位置に当たる。『鍼灸甲乙経』巻三第三十に「三陰交,在內踝上三寸骨下陷者中,足太陰・厥陰・少陰之會。刺入三分,留七呼,灸三壯」[11]とある。足厥陰脈の循行が足太陰脈と交叉することは,各種の経脈文献に掲載されている。たとえば『陰陽乙』14には「厥陰脈……上踝五寸【而】出於太陰【之】後」[7](『霊枢』経脈は「上踝八寸」に作る)とある。按ずるにこの場所は,まさに『脈書』『脈法』の「診有過之脈」と『素問』三部九候論「知病之所在」の部位であり,この竹簡にいう「必廉大陰之際」に当たる。「去捾(腕)三寸」は,支溝穴の位置に当たる。『甲乙経』巻三第二十八には「支溝者,火也。在腕後三寸兩骨之間陷者中,手少陽脈之所行也,為經。刺入二分,留七呼,灸三壯」[11]とある。

 足少陰脈に灸して「強食生肉」する説は,多くの経脈文献中に見られ,「生きた化石」のように経脈文献に伝承されている。たとえば『脈書』43には「少陰之脈,灸則強食產肉,緩帶,被髮,大杖,重屨而步,灸幾息則病已矣」[6]とある。『霊枢』経脈はこの文を依然としてとどめていて,「腎足少陰之脈……灸則強食生肉,緩帶被髮,大杖重履而步」[5]に作り,わずかに最後の一文を省略しているにすぎない。

 除もまた,脈を刺して血を出す法を指す。『韓非子』説林下に,「巫咸雖善祝,不能自祓也;秦醫雖善除,不能自彈也」とある。「祝」と「祓」,「除」と「彈」は互文である。また『韓非子』外儲説右上には,「夫痤疽之痛也,非刺骨髓,則煩心不可支也;非如是,不能使人以半寸砥石彈之」[12]とある。『淮南子』説山訓には,「病者寢席,醫之用針石,巫之用糈藉,所救鈞也」とあり,高誘は,「石針所砥,彈人雍痤,出其惡血」と注する。鍼石と砥石は,ともに砭石の異名である。『霊枢』九針十二原にいう「宛陳則除之」とは,まさにこの法のことを言っている。宛陳も,悪血を指す。「啟」と「除」はともに砭刺の術ではあるが,名称を異にする。筆者はその治療器具や操作の術式に違いがあると推測しているが,証拠が足りないため,なお定論とはしがたい。

 簡の一二と一三は,「除法」の使用を記述していて,同じ病であるが,「咳」または「腹盈」という随伴症状の違いによって異なる経脈に治療をおこなっている。このような「分経論治」の治法は,『霊枢』の寒熱病・癲狂・厥病・雑病などの篇にも見られる。たとえば,『霊枢』雑病には,「齒痛,不惡清飲,取足陽明;惡清飲,取手陽明。聾而不痛者,取足少陽;聾而痛者,取手陽明」。「腰痛,痛上寒,取足太陽・陽明;痛上熱,取足厥陰;不可以俯仰,取足少陽。中熱而喘,取足少陰、膕中血絡」[5]とある。これが現在,古本『経脈』篇に見られるということは,由来するところがあるということである。

 以上に述べたことを,天回医簡『経脈』,『脈書』(とその異なる伝本である『陰陽』),『足臂』,『霊枢』経脈,および同墓から出土した『脈書』下経における主要な相違点として表1にまとめ,比較参照に資する。

                    表1 出土した六種類の経脈文献対照表

  張家山『脈書』/ 馬王堆『陰陽』

数  十一

命名

    足:三陰三陽(「足」字が冒頭にない)

    臂:鉅陰,少陰

    肩・耳・歯脈

経脈の順序

鉅陽之脈―少陽之脈―陽明之脈―肩脈―耳脈―歯脈―泰陰之脈―厥陰之脈―少陰之脈―臂鉅陰之脈―臂少陰之脈(陽脈が先にあり,陰脈が後にある)

循行の方向 

    足三陽:踝から頭足の三陰に走る:踝・足から腹に走る(泰陰脈は胃から踝に走る)

    耳・歯:手から頭に走る;肩:頭から手臂の二陰に走る:手・臂から心に走る

循行の起点 

    足三陽:踝部 

    足三陰:少陰,踝;泰陰,胃;厥陰,足大指

    耳、歯:手;肩:耳後

    臂二陰:鉅陰,手掌;少陰,臂

循行の止点 

    足三陽:目,耳 

    足三陰:少陰,腎、舌本;泰陰,踝;厥陰,陰器

    肩・耳・歯:手背,耳,歯 

    臂二陰:心

経脈の病候 

    「是動」「所産」に分かち,病候数の合計がある

病証の治法 

    啟,灸

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  馬王堆『足臂』

数  十一

命名 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にある)臂:二陰三陽

経脈の順序

足太陽脈―足少陽脈―足陽明脈―足少陰脈―足泰陰脈―足厥陰脈―臂泰陰脈―臂少陰脈―臂太陽脈―臂少陽脈―臂陽明脈(足脈が先にあり,臂脈が後にある)

循行の方向 

    足三陽:踝から頭に走る 

    足三陰:踝と足から腹に走る

    臂三陽:手から頭に走る

    臂二陰:臂から心と脇に走る

循行の起点 

    足三陽:踝部

    足三陰:少陰,踝

    泰陰と厥陰:足大指

    臂三陽:手指

    臂二陰:臂

循行の止点 

    足三陽:目,鼻

    足三陰:少陰,舌本

     泰陰:股内;厥陰,陰器?

    臂三陽:目,耳,口

    臂二陰:心,脇

経脈の病候 

    「其病」で概括し,足脈の病候は循行の順序に排列する

病証の治法 

    灸

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  天回『脈書』下経

数  十二

命名

 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にある)

 臂:二陰;手:三陽;別に「心主之脈」がある

経脈の順序

足大陽脈―足少陽脈―足陽明脈―足大陰脈―足少陰脈―足厥陰脈―手太陽脈―手少陽脈―手陽明脈―臂大陰脈―臂少陰脈―心主之脈(足が先で臂が後,陽が先で陰が後,陰陽内では「太と少が先にあり,厥陰と陽明が後にある」順序で排列)

循行の方向 

    足三陽:足から頭に走る

    足三陰:足から腹に走る

    手三陽:手から頭に走る

    臂二陰および心主:手から心に走る

循行の起点 

    足三陽:足指

    足三陰:少陰,足心;泰陰と厥陰,足大指

    手三陽:手指 

    臂二陰および心主:手掌

循行の止点 

    足三陽:目,耳,鼻

    足三陰:少陰,舌本;泰陰,腸胃,嗌;厥陰,陰器?

    手三陽:目,耳?,口

    臂二陰および心主:心

経脈の病候 

「其病」で概括するが,病候の排列にははっきりとした法則性は見られない

病証の治法 

    ――

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  天回『経脈』

数  十一

命名

 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にない)

 臂:二陰三陽

経脈の順序

本来の順序は不明。暫定的に「大陽脈―少陽脈―陽明脈―太陰脈―厥陰脈―少陰脈―臂陰脈(大、少未詳)―臂太陽脈(闕)―臂少陽脈―臂陽明脈」とする。

 (足脈は『脈書』の順序に,臂脈は『足臂』の順序による)

循行の方向 

    足三陽:足から頭に走る

    足三陰:足から腹に走る

    臂三陽:手から頭に走る

    臂二陰:(未詳)

循行の起点 

    足三陽:足指

    足三陰:未詳,『下経』と同じか。

    手三陽:手指 

    臂二陰:(未詳)

循行の止点 

    陽明脈:鼻に属す(他はみな未詳)

経脈の病候 

    「是動」「所生」に分かち,病候数の合計がある

病証の治法 

    啟,灸,除

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  『霊枢』経脈

数  十二

命名

 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にある)

 臂:三陰三陽(「心主手厥陰心包絡之脈」が多い)

経脈の順序

 肺手太陰之脈―大腸手陽明之脈―胃足陽明之脈―脾足太陰之脈―心手少陰之脈―小腸手太陽之脈―膀胱足太陽之脈―腎足少陰之脈―心主手厥陰心包絡之脈―三焦手少陽之脈―胆足少陽之脈―肝足厥陰之脈 (循環流注)

循行の方向 

    足三陽:頭から足に走る

    足三陰:足から腹に走る

    手三陽:手から頭に走る

    手三陰:胸から手に走る

  陰陽相貫,如環無端

経脈の病候 

    「是動」「所生」に分かち,病候数の合計はない

病証の治法 

 盛則瀉之,虛則補之,熱則疾之,寒則留之,陷下則灸之,不盛不虛,以經取之

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 表1から分かるように,天回医簡『経脈』は他の出土した「古脈書」と比べると,以下の特徴を持っている。第一に,経脈の数は,依然として「十―脈」系統に属し,まだ「心主之脈」がない。第二に,経脈の命名の原則は,いずれも「三陰三陽」で命名され,『足臂』と基本的に一致し,『陰陽』が部位によって命名された「肩」「耳」「歯」の脈は見えなくなった。しかし足脈はすべて「足」の字を冠しておらず,臂脈は「臂」で名付けられ,「手」では名付けられていないようだ。第三に,経脈の循行方向は,いずれも四肢の末端から始まり,下から上への求心性を呈し,『足臂』と『脈書』下経に一致しているが,『霊枢』経脈の「環の端無きが如き」経脈相貫の形式はいまだに形成されていない。第四に,経脈循行の起点は,『足臂』と『陰陽』の十一脈の多くが,四肢のくるぶし・手首の部位から起こり,四肢の指・趾端の下に移動するのと比べると,『脈書』下経および『霊枢』経脈とかなり一致する。第五に,経脈循行の止点は大部分未詳であるとはいえ,『霊枢』経脈のような十二経脈と五蔵六府の属絡関係はなお未形成であるとほぼ断定できよう。第六に,経脈の病候は,みな明確に「是動病」と「所生病」に分かたれ,病候の数が数えられているが,『足臂』と『脈書』下経が「其病」を混同している体例は採用されていない。特に病候の表わし方は,『霊枢』経脈と一致度が非常に高く,同じ墓から出土した『脈書』下経とは明らかな違いがある。『脈書』下経にある病候の内容は,『足臂』と『陰陽』両書の特徴を同時に参考して吸収している特徴があり,『霊枢』経脈篇の数よりも多くさえある。まさに黄龍祥は,「老官山『脈書』の中の〈十二脈〉のテキストがもとづく底本は張家山漢簡『脈書』本『陰陽十一脈』(『丙本』)と『足臂十一脈』であり,編纂方式は両書の合抄改編である」[3]と指摘している。これと比べて,天回医簡の『経脈』は『霊枢』経脈の早期の原型のようである。

2023年4月27日木曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 02

   2 主病

 大陽脈:簡二の残文に「腨皆痛」があり,『霊枢』経脈の「膀胱足太陽之脈……項背腰尻膕踹脚皆痛」[5]と文が近い。『陰陽乙』2の「鉅陽脈……其所產病:頭痛,耳聾,項痛,耳疆,瘧,背痛,腰〖痛〗,尻【痛】,痔,郄痛,腨痛,足小指【痹】」[7],『足臂』3-4の「其病:病足小指廢,腨痛,郄攣,𦞠痛,產痔,腰痛,挾脊痛,【頭】痛,項痛,手痛,顏寒,產聾,目痛,鼽衄,數癲疾」[8]とは,ともにこれとは対応しがたい。

 少陽脈:竹簡は主病の文を欠く。『霊枢』経脈は「膽足少陽之脈……胸脇肋髀膝外至脛絕骨外踝前及諸節皆痛」[5]であり,『足臂』8は「足少陽脈……其病……脇外腫」[8]である。ただ,その循行は「脇外廉」を通過するので,上述の病候とそれほどかけ離れてはいないと推測される。

 陽明脈:簡四の残文は「是動則病,洒洒」であり,『霊枢』経脈・足陽明脈の「是動則病洒洒振寒,善呻數欠顏黑……」[5]と前の六字が一致する。

 太陰脈:簡五の残文は「煩心,心痛,□□洩,水閉,黃癉,股……腫蹷,不臥,強欠,大指不用」であり,『霊枢』経脈の「脾足太陰之脈……煩心,心下急痛,溏瘕泄,水閉,黃疸,不能臥,強立股膝內腫厥,足大指不用」[5]と文が高い割合で一致する。しかし『脈書』『陰陽』『足臂』等とは内容から体例までいずれもかなり違いがある。『霊枢』経脈は「強立」に作るが,『太素』経脈連環は「強欠」[9]に作る。按ずるに『脈書』33-35は「泰陰之脈……不能食,耆臥,強吹(欠),此三者同則死」[6]に作り,『太素』が「強欠」に作るのが正しいことを証しているし,この簡ともまた符合する。

 厥陰脈:簡六の残文は「癃,遺溺。凡十一病」であり,『霊枢』経脈の「肝足厥陰之脈……狐疝遺溺閉癃」[5]と病証が一致する。『脈書』38は「熱中,癃,㿗,偏山(疝),為五病」[6]に作り,『足臂』20は「病脞瘦,多溺,嗜飲,足跗腫,疾痹」[8]に作り,どちらも一致しない。また「病有煩心,死,毋治」を,『陰陽乙』16は「五病有〖而〗煩心,死,勿治也」[7]に作り,『足臂』21は「偏有此五病者,又煩心,死」[8]に作る。本篇とは病候数の合計が異なるが,「病」の前の「五」を除けば,文の意味はほぼ同じである。

 少陰脈:簡七から簡八の残文は「上氣,嗌乾痛,煩心心痛,……內廉痛,厥痿,嗜臥,足下熱」であり,『霊枢』経脈の「腎足少陰之脈……口熱舌乾,咽腫上氣,嗌乾及痛,煩心心痛,黃疸腸澼,脊股內後廉痛,痿厥嗜臥,足下熱而痛」[5]と文が高い割合で一致する。しかし『脈書』『陰陽』『足臂』等とは,文の表現や列挙される順序の違いが大きい。

 臂少陽脈:簡一〇の残文は「……腫。所生病,目外顏腫,耳後、肩、後廉痛,汗出,中指不用,喉痹」であり,『霊枢』経脈の「三焦手少陽之脈……是動則病耳聾渾渾焞焞,嗌腫喉痹。是主氣所生病者,汗出,目銳眥痛,頰痛,耳後肩臑肘臂外皆痛,小指次指不用」[5]と文の多くが一致する。唯一,「中指不用」と「小指次指不用」は明らかに異文である。按ずるに,『霊枢』経脈の手少陽脈は「小指次指之端に起こる」ので,所生病には「小指次指不用」が見える。しかし『足臂』の臂少陽脈は「出中指,循臂上骨下廉,奏耳」(31)[8]であり,循行と主病はともにこの竹簡と一致する。この循行と主病の変化が生じた理由は,『霊枢』経脈では「中指」は「心主手厥陰心包絡之脈」の循行が経過する部位であるからである。しかし『足臂』にはまだこの脈はなかったので,中指は「臂少陽脈」の循行部位であった。『霊枢』経脈では「手厥陰脈」が増えて,「十一脈」が「十二脈」になると同時に,「手少陽脈」の循行にも調整がくわえられ,主病についてもこれに応じて変更がおこなわれた。このことから,われわれは本篇の経脈は依然として「十一脈」系統であり,「手厥陰脈」は収載されていなかったと推測できる。これは同じ墓から出土した『脈書』下経が「十二脈」系統であるのとは,大きな違いであり(『脈書』下経で増えたものは「手心主之脈」と称する),両者は異なる伝承系統に属するようである。

 このほか,用語の細部を見ると,足と手の指の病を表現する場合,『脈書』では「○○指痺」,『足臂』では「○○指廃」,本篇と『霊枢』経脈では「○指不用」がそれぞれよく使われ,本篇と『霊枢』経脈は「所生病」を,『脈書』『陰陽』は「所産病」を用いていて,特徴的な違いが見られる。記述の体例を見ると,本篇と『脈書』『陰陽』等はみな「所生(産)病」の病候を数に入れているが,『足臂』は「足帣(厥)陰脈」をのぞいて,みな数に入れていない。『足臂』では足脈の病候は循行の前後にしたがい順番に排列されているので,「○○指廃」はみな一番最初にある。これに対して本篇と『霊枢』経脈中の「○指不用」は一律に最後に並べられている。注目に値することは,『霊枢』経脈における経脈の循行順序は,この竹簡とくらべると大幅に変更されているが,病候の排列順序,特に「○指不用」を最後に並べる体例は,依然として本篇との一致を保っていることである。


天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 01

   1 循行

 大陽脈:簡一「大陽脈,起足小指外廉,循外踝後,以上膝」。

『霊枢』経脈の「膀胱足太陽之脈……出外踝之後,循京骨,至小指外側」[5]と膝以下の循行が一致する。ただし方向は反対である。これと比べて『脈書』17は「鉅陽之脈,繫於踵外踝中」 [6]で,『陰陽乙』1は「踵外踝婁中」に作り[7],『足臂』1は「出外踝婁中」[8]に作る。足の小指には起こらず,外踝であって,かなり差が大きい。

 少陽脈:簡三「少陽脈,起小指之次,循外踝前廉」。

『霊枢』経脈の「膽足少陽之脈……下出外踝之前,循足跗上,出小指次指之端」[5]と外踝以下の循行と一致するが,方向が反対である。『脈書』20は「少陽之脈,繫於外踝之前廉」 [6]に作り,『足臂』5は「出於踝前,枝於骨間」[8]に作る。

 陽明脈:簡四の上端は破損しているが,残っている文は「上□貫乳,夾喉,回口,屬鼻」である。

『霊枢』経脈の「胃足陽明之脈,起於鼻之交頞中……還出挾口環唇,下交承漿,却循頤後下廉,出大迎……其支者,從大迎前下人迎,循喉嚨,入缺盆……其直者,從缺盆下乳內廉」[5]と対比してみると,乳・喉・口・鼻という鍵となる循行部位が高度に一致する。しかし『脈書』23は,「陽明之脈……上穿乳,穿頰,出目外廉,環顏」[6]であり,喉と鼻への言及がない。『足臂』10は,「足陽明脈……上出乳內廉,出嗌,挾口以上,之鼻」[8]であり,乳・口・鼻が含まれるが,「出嗌」は「夾喉」とはやはり循行が異なるし,具体的な用語にも違いがある。

 臂鉅陰/少陰脈:簡九の残余の文は「臂內陰兩骨之間」に見える。

按ずるに,「臂內陰兩骨之間」を循行する者には,臂大陰と臂少陰の二つの脈がある。『陰陽甲』33は,「臂鉅陰脈:在於手掌中,出內陰兩骨之間,上骨下廉,筋之上」であり,『陰陽甲』36は,「臂少陰脈:起於臂兩骨之間,之下骨上廉,筋之下」[8]である。下文が欠損しているため,どちらであるか詳らかではない。

 臂陽明脈:簡一一「臂陽明脈起手大指與次指」。

『脈書』31は「齒脈,起於次指與大指上」[6]。『足臂』は「出中指間」[8]。『霊枢』経脈は「大腸手陽明之脈,起於大指次指之端」[5]。按ずるに『霊枢』には「與」字がない。そうするとこの脈の起点は「大指」と「次指」という二本の指から「大指の次指」(すなわち示指)という一本の指に変じたことになる。


2023年4月26日水曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 00

   顧漫,周琦,柳長華,武家璧  『中国針灸』2019年10月/第39卷第10期


 【要 旨】

 成都から出土した天回医簡には,欠落部分がほとんどない経脈文献『脈書』下経のほかに損傷のはげしい経脈文献が『医馬書』とともに同じ箱の中に入れられていた。本篇を記した竹簡には題名がいまのところ見つかっていない。その文の内容は,馬王堆帛書『陰陽十一脈灸経』『足臂十一脈灸経』,張家山漢簡『脈書』,および天回医簡中の『脈書』下経などとはいずれも異なっているが,『霊枢』経脈の文とは類似していることが多いので,整理者は『経脈』という名称を提案した。本篇と出土した経脈文献および『霊枢』経脈との比較を通じて,秦漢時代の中国医学の経脈学説の起源とその変遷を示し,あわせてこれを例に中国医学の経典理論の構築過程を検討した。

 【キーワード】

 天回医簡『経脈』;脈書;陰陽十一脈灸経;足臂十一脈灸経;『霊枢』経脈


 成都天回鎮の前漢墓葬出土医簡(以下「天回医簡」と略称する)の中には,M3:121に欠落部分がほとんどない経脈文献(整理者は『脈書』下経と命名した)が含まれていたが,それ以外にも,M3:137の中に損傷のはげしい経脈文献が,『医馬書』と混じって発見された。最初の『考古』簡報〔概要報告〕には報告されなかったが[1],研究が進むにつれて,この部分の内容の性質が日増しに明らかになってきた。たとえば楊華森は,『医馬書』には多くの竹簡があり,その中には経脈の循行状況と一部の疾病の表現あるいは予後が記述されていること,さらに竹簡の中の語句を詳しく調査してみると,その内容は人体の病変や人体の経脈循行に関する状況を記述しているようなので,それは『医馬書』そのものに属するものではなく,医簡の他の部分に入れるべきではないかと疑問を呈していた[2]。黄龍祥もこの部分に注目し,M3:121の「十二経脈」の関連条文と対照して引用した[3]。竹簡整理簡報は次のように明確に指摘している。M 3:137には『医馬書』以外に,「『医馬書』とは全く異なる27本の簡があり,その内容は人体経脈の循行と病候であるが,損傷がはげしい(完全なものは4本のみ)。その書風(丙号字)はM3:121の肆号字に近く,M 3:121の簡五に類する独立した経脈書とすべきである」。[4]

 同類に属するが内容に欠けている部分がないM3:121『脈書』下経とくらべて,本篇は竹簡の損傷がはげしく釈読が難しいため,已発表の関連研究論文の著作の中では言及されることがより少ない。筆者は天回医簡の整理作業において,テキストの細かい調査を通じて,M 3:137の経脈文献は,馬王堆帛書『陰陽十一脈灸経』『足臂十一脈灸経』,張家山漢簡『脈書』,および同墓から出土したM3:121『脈書』下経などとは,内容から体例までいずれも一定の違いがあり,伝世経脈文献である『霊枢』経脈篇と最も近いことに気づいたため,『経脈』と命名した。研究者が比較研究しやすいように,本篇の釈文を以下のように収録する。

  【釈文】 

  {・}{大}{陽}{脈},{起}足小{指}外廉,循{外}踝後,以上{厀}(膝)〼 一050 

   〼□腨皆{痛}□〼 二054

  ・{少}{陽}{脈},{起}{小}指之次,循外踝前廉,上循〼/〼□脅外廉,{支}者至□〼 三114+218

  ……□{上}□{貫}{乳},夾矦(喉),回口,屬鼻。是動則病,洒=(洒洒) 四003

{煩}也=(心,心),{痛},□□{洩},水閉,黃{癉},股□〼〼□□□穜(腫){蹷},不臥,強欠,大指{不}{用}□〼 五113+195+196

   □〼(癃),{遺}弱(溺)。・凡十一病,啟【𠯌+卩⿰】(郄),久(灸){骭}上踝三寸,必廉大陰之祭(際)。病有煩也〈心〉,死,毋治。 六051〼上氣,嗌干痛,煩心=(心,心){痛},□〼 七057内廉痛,瘚(厥)痿,耆(嗜)臥,足下熱。・凡□□{病},{啟}{【𠯌+卩⿰】}(郄)□□肉□□。久(灸)則{強}食生肉,{緩}帶被{髮},大丈(杖)重{履}步,久(灸)幾息則病已矣。 八004

  〼臂內{陰}兩骨之閒(間),□□□□□□〼 九128

  穜(腫)。所生病,目外顏朣(腫),耳後、肩、{腝}(臑)後廉痛,汗出,中指不用,矦(喉)痹。・凡十〈七〉病,啟肘,久(灸)去捾(腕)三寸。 一〇052

  ・臂陽明{脈},起手大指與次指,上循{臂}〼 一一112

  〼□則除臂大□。・欬上氣,匈脅盈,則除臂陽明;頸項痛,則除臂太陽。・欬上氣而窮詘 一二066

  國(膕)中{大}{陽}。・{腹}{盈}而渴,則除國(膕)中大陰。{・}□除足太{陰}。〼 一三063 

  〼□□□□□□{不}□。人{有}{病}平齊(臍),死L。唇反人盈,肉死。 一四043

  ・□□□□{末}三分寸{一}□□□□□□□{大}□□ 一五065

  〼□□□□皆四寸半□〼 一六047 

  □{則}{能}□〼 一七056

  〼{大}陰 一八118

  {國}(膕)中大陽〼 一九139

  □□{頭}{頸}□□□□〼 二〇058 

(注:釈文記号の説明:□は,識別できない文字,および竹簡の断裂によって欠落した文字を表わす。〼は,この部分で竹簡が断裂しているため文字が脱落し,文字数が不詳であることを表わす。釈文を外枠で囲ったところは,簡の文字の筆画に欠落があるが,残筆または上下の文例によって弁釈できた文字を表わす〔訳注:ブログの表示の都合上,訳文では外枠を{}記号で代替した〕。=は,竹簡にもともとあるもので,重文または合文〔「重文」とは一般に異体字のことをいうが,ここでは繰り返し記号のこと〕を表わす。釈文は直接省略された文字を書いて,括弧をつけて表記する。Lは,竹簡にもともとあるもので,句読を表わす。・は,竹簡にもともとあるもので,項目分けや段落を表わす。各簡の後についている漢数字は整理小組が竹簡の内容から並べ替えた後の整理番号であり,アラビア数字は竹簡が出土したときにつけられた番号である。)


 本論は経脈の循行・主病・治法などの面から,本篇の内容と馬王堆帛書『陰陽十一脈灸経』甲本・乙本(以下,それぞれ『陰陽甲』『陰陽乙』と略称する),『足臂十一脈灸経』(以下,『足臂』と略称する),張家山漢簡『脈書』(以下,『脈書』と略称する),および『霊枢』経脈篇について比較分析をおこない,異同を確認した。書面表示の煩雑さを避けるために,すべての釈文で正字を表示した者は,引用文では一般にただちに正字を使用し,括弧をもちいた注はつけない。『陰陽甲』『陰陽乙』『脈書』の三部は源を同じくし,文の内容は大同小異であるため,引用する時は最善のものを選んでそれに従い,例証としての重複は避けた。


2023年4月15日土曜日

2023年4月14日金曜日

天回漢墓医簡中の刺法 06

 6 結び

 総合的に考察すると,『史記』倉公伝や『素問』繆刺論などの篇に掲載されている灸刺の方法は『㓨(刺)数』にかなり近い。その腧穴理論はまだ形成されておらず,固定された位置と名称のある穴はまだ現れていない。倉公が故(もと)の濟北王の阿母の熱蹶を治療して,「其の足心各三所を刺し」,本篇では「女子腹中如捲,兩胻蹷陰、足大指讚(攢)毛上各五」(632)を治療しているように,当時はまだ涌泉・大敦などの穴名はなかったのだから,「腧穴帰経」などの理論構築などがなかったことは言うまでもないことがわかる。したがってその鍼刺の部位は,今日われわれがよく理解している「腧穴」ではなく,主なものは「血脈」と「分肉」であり,両者はまたそれぞれ「脈刺」と「分刺」の法に対応している。脈刺の部位は,みな診察して脈に異常があるところ(すなわち「切病所在」「診有過之脈」)に取る。同時にそこは経脈が体表から出て,脈息を診察しやすい部位,すなわち「脈口」であり,「気口」とも呼ばれる。天回医簡に反映されている「経脈医学」の核心理論は「通天」であり,同時に出土した『脈書』上経と照らし合わせてみると,脈刺を施術する脈口部位は,まさにいわゆる「十二節通天」の場所である。「脈刺」と「分刺」の法を深く読み込むことによって,天回の経脈人に刻まれた丸い点や文字を解明するための新しい考え方と視野が提供されるだろう。本篇に保存されていた古い刺法は,まさに『霊枢』官鍼などの篇に記されているものと相互に裏付けとすることができるが,その法は長い間埋没して伝わっていなかった。この文献が出土したことによって,われわれは二千年前の先賢を直にたどることができるようになった。これは非常に貴重なことである。中国の学問の伝承は,しばしば薪を積み重ねることにたとえられるが,その結果として出てくるものは,決して前からあるものに取って代わることはできない。これはまさに中国の学問の特質である。


 (謝辞:簡662と簡667中の「切」字は,『文物』誌に発表した際は「扑(拊)」と釈字していたが,復旦大学の陳剣教授の指摘を受けて改めた。また簡667中の「循」字もまた陳剣教授の釈字による。簡667中の「審」字は「害(会)」と釈字していたが,中国社会科学院歴史研究所の鄔文玲研究員の指摘を受けて改めた。特に感謝の意を表す。)


参考文献

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[31] 马元.《灵枢·官针》刺法探析[J].山东中医学院学报,2009(5):404-407.


2023年4月13日木曜日

天回漢墓医簡中の刺法 05

 5 本篇に見える古い刺法の検討


 整理者がすでに指摘しているように,本篇に述べられている刺法の多くは,『史記』所載の倉公の法と一致する(例:簡666,630)。同様に,本篇と倉公伝にあらわれる灸・刺部位は,いずれも三陰三陽の経脈部位をいうのみで,後世の穴名はいまだ出現していない。これと例を同じくするものとして,『素問』の繆刺論・長刺節論・通評虚実論・刺熱論・刺瘧篇・刺腰痛篇,『霊枢』の寒熱病・癲狂・雑病,および馬王堆『足臂十一脈灸経』などの篇がある(張家山『脈書』と馬王堆『陰陽十一脈灸経』には「足少陰」に一灸法があるにすぎない)。梁繁栄等がすでに指摘しているように,本篇にみえる数,「各五」「三」などは『史記』扁鵲倉公列伝にある鍼灸医案の「各三所」や『素問』繆刺論の「各二痏」などと記述されているものと含意が一致する。「所」の意味は「処」であり,痏は鍼孔である。『太素』巻十五・五蔵脈診「已發鍼,疾按其痏」の楊上善注に「于軌反,謂瘡瘢之也」とある[7]305。『太素』巻二十一・九鍼要道「外門已閉,中氣乃實」の楊上善注に「痏孔為外門也」とある[23]。

 倉公伝と『内経』に見られるこれらと同じような例である灸・刺部位はつまるところ経脈なのか腧穴なのかについて,中国医学界では20世紀八十~九十年代に論争があった。何愛華は『千金要方』と敦煌から出土した『灸法図』の残巻に見られる「灸××(脈)」という例から,『史記』倉公伝中の「灸・刺××脈」は,みな経脈名にもとづいて命名された腧穴を指すと考えた。馬継興先生は敦煌の『灸法図』を考釈し,「手陽明」は「古経穴名」,「足陽明」は「古経穴名。具体的な位置は不詳だが,ほぼ足の甲にある」,「足太陽」は「古経穴名」と注解している。黄龍祥はこのような経脈名と同じ名称の腧穴を「経脈穴」と称し,『脈経』等の記載にもとづき,「その部位はみな手首・くるぶしの部位をこえず,多くは対応する脈口部位に相当する」[26]とし,また特に倉公伝の鍼灸方に見られる「足厥陰之脈」「足陽明脈」「手陽明脈」などは脈口名であって経脈名ではなく,これらの脈口は脈を診る部位であり,鍼灸治療部位でもある[27],と指摘している。

 『史記』倉公伝に見られる古刺法は,山東省の漢代画像石「扁鵲行鍼図」がちょうどその裏付けとなる。山東省の美術史家劉敦願[28]と葉又新[29]の両先生は,漢代の画像石に見られる扁鵲の形象にかなり早くから関心を注いでいた。葉氏は山東省微山県両城山から発見された後漢中葉の『神医画象石』乙(曲阜の孔子廟に現存する)とともに,当時の刺法の取穴を検討し,それぞれの箇所の鍼刺数痏の特徴を次のように指摘している。「しかしやや後の和帝時代の『乙石』の上には,かえって一穴多鍼の画象が現われた。右側〔訳注:原文「右边」。画像では左側の婦人のことか〕に坐っている病気の婦人には鍼が三ヶ所に留められており,各所にそれぞれ三痏(一つの穴に三鍼を刺す)ある。中間に坐っている病気の婦人は四ヶ所に鍼を留め,剥落している頭頂部を除き,その他はみな四痏であり,腧穴を一つの面あるいは一つの線とみなしている」。『霊枢』官鍼に記されている刺法を参照すると,葉氏の考えでは,図中の二痏を刺すものは,官鍼中の「直刺傍刺各一」の「傍鍼刺」に近く,三痏を刺すものは,「直入一,傍入二」の「齊刺」(或曰三刺」)に近く,五痏を刺すものは,「正内一,傍内四,而浮之」の「陽(揚)刺」[30]に近い(図3〔省略〕)。

 図:山東省漢代画像石「扁鵲行鍼図」

 注:図は,「叶又新.试释东汉画象石上刻的医针 ――兼探九针形成过程.山东中医学院学报,1981(8):60-68」から引用。〔省略〕

https://zhuanlan.zhihu.com/p/85304388

 葉又新はすでに画像石に表わされていた刺法について「腧穴を一つの面あるいは一つの線とみなしている」と注目していたが,『㓨(刺)数』簡が出土したことによって,画像石に表わされていたのはまさに本篇中の刺法の描写であることがわかった。本篇の刺法によく見られる数,「各五」は「脈刺」であり,その刺鍼部位は経脈あるいは絡脈である。『霊枢』官鍼篇と対照するならば,「豹文刺」に近い。「豹文刺者,左右前後鍼之,中脈為故,以取經絡之血者,此心之應也」[4] 24。馬元の解釈によれば,「賛刺と豹文刺は多鍼散刺放血法に属す。その中で前者は浅表の血絡を散刺し,出血量は比較的に少ない。後者は深層の経脈を散刺し,出血量はかなり多く,形状はまだらの豹文に似る」[31]。本篇の脈刺「間相去七分寸一」という論述と結びつけると,刺鍼顎の五箇所の鍼孔の配列は十字状であり,左右前後各所の鍼孔と中央との距離は,まさに本篇にいう0.33cmであることがわかる。

 三痏を刺すのは本篇にある「分刺」であり,『霊枢』官鍼の「合谷刺」に対応する。「合谷刺者,左右雞足,鍼於分肉之間,以取肌痹,此脾之應也」[4]24。『太素』巻二十二・五刺の楊上善は,「刺身左右分肉之間,痏如雞足之跡,以合分肉間之氣,故曰合刺也」と注している[7] 359。馬元の解釈によれば,「谷とは,肉の大会である。痺痛が肌肉の厚いところに生じたときは,ここで〈左右雞足〉刺法(すなわち鍼を筋層に直刺したのち,浅い層に引き上げ,さらに順次両わきに斜刺して,鍼刺痕をニワトリの爪の形にさせる)をおこなうとよい[31]。本篇の分刺「間相去少半寸」の論述と結びつけると,刺鍼後の三ヶ所の鍼孔の配列はまさにニワトリの足の形状になり,左右二ヶ所の鍼孔と中央との距離はまさに本篇にいう0.77cmになることがわかる。

 『霊枢』官鍼に記されている刺法には,「九刺」「十二刺」「五刺」の違いがあるが,実際は異なる基準に基づいて分類されているため,それぞれの分類のもとにある刺法は互いに重複していて,はっきりと分けることはできない。したがって上文で述べた,「病在脈,取以鍉鍼」の刺法と「中脈為故……此心之應也」の豹文刺は対応し,「病在分肉間,取以員鍼」の刺法は,「鍼於分肉之間……此脾之應也」の合谷刺と対応する。これはちょうど『㓨(刺)数』簡の「脈刺」と「分刺」にそれぞれ対応させることができ,さらに『史記』倉公伝と漢代画像石「扁鵲行鍼図」に描かれた刺法で確認することができる。けだしこれが前漢初期の鍼刺の古法なのであろう。


天回漢墓医簡中の刺法 04

 4 各類の病症に関する刺法を論ずる

 竹簡の文例:

 【蹷】,兩胻陽明各五,有(又)因所在。(666)𥢢=(㿗,㿗)山(疝),暴L,侖,𤵸(癃),轉胞,蹷(厥)陰各五。(630)

  脛(痙),北(背)巨陽落各五。(643)

  身盈,在肌分㓨(刺),在胻=(胻胻)㓨(刺)。(657)

  水,巨陽落(絡)與腹陽明落(絡)會者各八。(637)

  厀(膝)攣痛,因痛所,以劇昜(易)為數。(664)


 本篇の各論部分には42条があり,風・脛(痙)・水・單(癉)・顛疾・𥢢山(疝)・痿・蹷・狂・膚張(脹)・肘(疛)・欬上気などの病証におよぶ。各条はおおむね「病名-鍼刺部位-(数)」という規範的な体例に従って書かれている。鍼刺の数には五・十・三・八・四があり,「五」とするものが最も多く,全部で29箇所ある。「八」と「十」はそれぞれ2箇所,「三」「四」はともに1箇所のみである。ほかに6条には数は記載されておらず,1条は数の部分が闕文となっている。

  鍼灸部位で分けるならば,「巨陽」「少陽」「陽明」「大陰」「少陰」「厥陰」という三陰三陽の名称はすべて経脈(あるいは絡脈)を指している。その刺法がすなわちいわゆる「脈刺」であり,全部で32条ある。本篇の特徴は,言及されている経脈の前には,足・辟(臂)・胻・肩・北(背)・項・頭・頰・耳前など,具体的な部位がみな冒頭にあることである。これ以外では,竹簡の文に督・心落(絡)・陽明落(絡)・巨陽落(絡)・兩辟(臂)內筋間・足大指讚(攢)毛上などの部位も現われることである。注目に値することは,本篇には『脈書』下経に見られるような「手心主脈」がないことである。鍼刺部位に「兩辟(臂)內筋間」(633)という呼称があることから,おそらく当時はまだ「手心主脈」という概念に進展していなかったのであろう。くわえて,本篇では「×落」「××落」とされ,「落」字がみな用いられており,「絡」字ではない。『漢書』芸文志の「医経」の小序でも「醫經者,原人血脈・經落・骨髓・陰陽・表裏」と,「經落」が用いられていて,これには必ず基づくところがあることがわかる。

 「分刺」はこの部分に「身盈,在肌分㓨(刺)」(657)の一条が見えるだけで,「水」に言及するところも,「水,巨陽落(絡)與腹陽明落(絡)會者各八」(637)の一条だけである。しかしこの一条は刺絡法を用いていて,脈刺の条文に属すると思われるが,本篇にいう「刺水」のであるかどうかは,つまびらかではない。

 このほか,本篇には刺鍼部位について,「因(病)所在」の刺法もある。全部で11条(「脈刺」と3条重なる),その刺鍼数は3条では,「以劇易為數」(644),すなわち症状の軽重によって刺鍼数が決定される。これも後世の「以痛為腧」および「阿是穴」の取穴方法への道を開いた。本篇にある刺法と刺鍼数の対応関係を表にしてに示し(表1),参考に供する。


表 1 『㓨(刺)數』篇に見られる刺法と刺鍼数の対応関係

 刺鍼数 五  十 三  八  四 数なし 数闕

 脈刺  28  2  0   1   0    0          1

   分刺     0   0  0   0   0    1          0

 因所在    3   1  1   1   1    4          0

   不刺     0   0  0   0   0    1          0


 注:表にある数字「五」「十」などは,本篇に出現する鍼刺の数である。「なし」とは明確な鍼刺数の記載がないもの,「闕」とは文字の記載はあるものの筆跡がはっきりせず,判読が困難なもの。アラビア数字の28・3・1などは,その数が記載されている竹簡でそれぞれ見える頻度を示す。


2023年4月11日火曜日

天回漢墓医簡中の刺法 03

 3 鍼刺時の診法の運用を論ずる


【切】病所在,【脈】熱,勭(動)不與它【脈】 等,【其應】手也疾,【盛則】勭(動),其應手疾,其虛則徐。病不已,間日覆之;病(652)已,止。所胃(謂)分㓨〓(刺,刺)分肉間也。(669)


 【切】字は,実際は「扌」と「七」にしたがう字形であり,現在の「切診」の「切」字である。『霊枢』刺節真邪に「用鍼者,必先察其經絡之實虛,切而循之,按而彈之,視其應動者,乃後取之而下之」[4]122とあり,『素問』挙痛論に「黃帝曰:捫而可得奈何?岐伯曰:視其主病之脈,堅而血及陷下者,皆可捫而得也」[5]80とあるのが,この「切病所在」の法である。

 張家山『脈書』簡63~64に「它脈盈,此獨虛,則主病。它脈滑,此獨{氵𧗿}(澀),則主病。它脈靜,此獨勭(動),則主病。夫脈固有勭(動)者,骭之少陰,臂之巨陰、少陰,是主勭(動),疾則病。此所以論有過之脈殹"」 [21]とある。按ずるに,『㓨(刺)数』篇にある診脈法は,『脈書』と同じく「比較診脈法」である。趙京生[15]74-75がまとめたものにもとづけば,この方法は経脈の体表搏動点を診察部位とし,脈動が他の経脈と異なることをもって経脈の病変を診察する基準とし,診察時に人体の多くの経脈とその脈動点をまんべんなく診察する必要がある。『内経』にある「三部九候脈法」と「人迎寸口脈法」はいずれもこの診脈法を継承したものである。

 『霊枢』経脈は,この診脈法をさらに発展させている。「脈之卒然動者,皆邪氣居之,留于本末。不動則熱,不堅則陷且空,不與眾同,是以知其何脈之動也」[4]36。その「邪氣居之,留于本末」とは,この竹簡にいう「病所在」である。「不動則熱」は,この簡の「脈靜,此獨動」に対応し,「不動則熱」はこの簡の「脈熱……盛則動」に対応し,「不堅則陷且空」は「其虛則徐」に対応していている。すなわち脈の虚実である。「不與眾同」は「動不與它脈等」に対応している。すなわちいわゆる「有過之脈」である。たがいに裏付ける関係にあって,同一の源から出ているにちがいない。


㓨(刺)數,必見病者狀,切視病所,乃可【循察】。病多相類而非,其名眾,審察診病而〓6〔艸+咸〕(鍼)之,病可俞(愈)也;不審(667)其診,〓6〔艸+咸〕(鍼)之不可俞(愈)。治貴賤各有理。(670)


 按ずるに,この竹簡の文章は,『素問』繆刺論にある「凡刺之數,必(「必」字は『太素』により補う)先視其經脈,切而順之,審其虛實而調之」[5]127を参照すると,鍼刺治療はまず患者を詳細に診察し,病気の所在を知り,病名を明らかにする必要があり,そうしてはじめて鍼をして病を回復するができることを強調している。「切視病所,乃可循察」は,「視其經脈,切而順之」と対応し,竹簡にいう「病所」は『素問』では「經脈」と明示されている。「循察」の二字ははっきりとは判読できないが,残筆と証拠資料から釈読したもので,「順察」の意味である。「病多相類而非,其名眾」は,『史記』倉公伝に記載された皇帝に対して述べた「病名多相類,不可知,故古聖人為之脈法」[20] 2813とたがいに裏付ける関係にある。「審察診病而鍼之」とは,「審其虛實而調之」である。「治貴賤各有理」については,『霊枢』根結の「刺布衣者,深以留之;刺大人者,微以徐之」[4]19,『霊枢』寿夭剛柔の「刺布衣者,以火焠之;刺大人者,以藥熨之」[4]21が,その実例にあたる。


2023年4月10日月曜日

天回漢墓医簡中の刺法 02

   2 鍼刺による出血の処理および刺法の禁忌を論ずる


 㓨(刺)血不當出,㓨(刺)輒以【指案】,【有】(又) 以【脂肪】寒(塞)之,勿令得囗,【已】。(650)

 手指で圧を加えて止血する方法は,『霊枢』邪気蔵府病形に見える。「刺澀者,必中其脈,隨其逆順而久留之,必先按而循之,已發針,疾按其痏,無令其血出,以和其脈」[4]16。「又以脂肪塞之」については,『霊枢』癰疽に見える「豕膏方」もこの類に属する傷のあとの処理法である。「發於腋下赤堅者,名曰米疽。治之以砭石,欲細而長,疏砭之,塗以豕膏,六日已,勿裹之」[4]135。このほか,『五十二病方』諸傷にもまた動物性脂肪を用いた外用による傷の治療処方が多く見られる。たとえば,「令傷毋(無)般(瘢),取彘膏、囗衍並冶,傅之」(14)[19]がある。

  短氣,不【㓨】(刺)。(663) 

 この竹簡は各論部分で,刺法の禁忌が述べられている。早期の鍼刺治法は,虚証には適さなかった。『史記』扁鵲倉公列伝には「形獘者,不當關灸鑱石及飲毒藥也」とある。『素問』奇病論には「所謂無損不足者,身羸瘦,無用鑱石也」[5]94とある。これらは虚証のことを言っていて,からだが痩せ細っていることに着目している。『霊枢』邪気蔵府病形はさらに進んで,脈を診ることで虚実を判断している。「諸小者,陰陽形氣俱不足,勿取以針,而調以甘藥也」 [4]16。『霊枢』終始は明確に「少気証」の診断根拠と治療の原則を提出している。「少氣者,脈口、人迎俱少而不稱尺寸也,如是則陰陽俱不足。補陽則陰竭,瀉陰則陽脫。如是者,可將以甘藥,不愈(「愈」字は『太素』により補う),可飲以至齊」[4]25-26。これは,この竹簡についての詳しい説明,すなわち「伝〔=解釈〕訓詁」であるとみなせる。


2023年4月9日日曜日

天回漢墓医簡中の刺法 01

   1 刺法には「脈刺」「分刺」「刺水」の区別がある

【脈】㓨(刺),深四分寸一,間相去七分寸一。【脈】㓨(刺),箴(鍼)大如緣〓1〔艸+咸〕(鍼)。分㓨(刺),囗【大】囗,間相去少半寸。㓨(刺)水,〓1〔艸+咸〕(鍼)大如【履】〓1〔艸+咸〕(鍼),囗三寸。(簡653,図1)

 ★図1 『㓨数』簡中の「脈」字 簡652と簡653 〔省略〕

 簡653の内容は「脈刺」「分刺」「刺水」という諸種の異なる刺法の操作要領,およびその使用する鍼具の形状を概説していて,全篇の綱領である。整理者はその簡の背部にある刻み目上下2本と,その番号の断面図中の位置に基づいて,この簡を本篇の最初の簡とした[8]。

  1.1脈刺

  「脈刺」は,簡653に二カ所出現する。「刺」の前の一字は不完全であるが,整理者は残存する筆画からその字形を「〓2〔画像〕」,「月(肉)」と「永」に従う文字で,本篇の簡652(図1)にみえる「脈熱」「它脈」の「脈」字と形に違いがないので,「脈」字と解することができる(張家山『脈書』中の「脈」字の書法はこれと異なり,字形は「肉」と「𠂢」に従う。裘錫圭先生によれば,古文字の正写と反写には往々にして差がなく,「永」と「𠂢」はもともと二つの字ではない。金文の「永」字が「〓3〔画像〕」となっている例はしばしば見られる。「〓4〔画像〕」または「〓5〔画像〕」は川の支流を象っていて,おおむね後に字義を明確にするために,字形が左向きを「永」字,右向きを「𠂢」字と規定している[9])。『霊枢』官針に「病在脈,氣少當補之者,取以鍉針於井滎分輸」とある。すなわち「脈刺」の法に属する。また「経刺」「絡刺」の区別がある。「凡刺有九,以應九變……三曰經刺,經刺者,刺大經之結絡經分也。四曰絡刺,絡刺者,刺小絡之血脈也」[4] 22。〔簡653の〕「深四分寸一」とは,鍼刺の深さが四分の一寸のことを指す。すなわち張驥先生がいう「浅深出内」の法度である。「間相去七分寸一」とは,鍼刺部位間の距離が七分の一寸ということを指す。「少半寸」とは,三分の一寸のことを指す。秦漢時代の標準的な常用の尺度では,一尺は23.1cm[10],十寸が一尺である。したがって一寸は2.3cmである。よって「四分寸」は0.56cm, 「七分寸」は0.33cm,「少半寸」は0.77cmである。この数値からすると,脈刺の鍼刺の深さはかなり浅く,間隔はかなり近いが,分刺間の距離はやや遠い。

 脈刺に用いる鍼具は,簡の文によれば,「針大如緣針」,『説文解字』系部に「緣,純也」とある。段玉裁注:「此以古釋今也,古者曰衣純,見經典,今曰衣緣。緣其本字,純其叚(假)借字也。緣者,沿其邊而飾之也」[11] 654。縁とは衣服の縁どりを指し,縁針とは衣服の縁を縫うために用いる針であり,普通の縫い針よりもやや大きい。湖北省江陵鳳凰山第一六七号漢墓から出土した前漢初期(文景期)の縫い針は,長さ5.9 cm,最大径約0.05 cmで,針先はやや欠けていて,針体の太さは均一で,針孔は小さく,内部に黄色の絹糸を結んでいて[12],例証とできる。『霊枢』では「鍉鍼」に対応する。『霊枢』九針十二原:「鍉鍼者,鋒如黍粟之銳,主按脈勿陷,以致其氣」[4]6。『霊枢』九針論:「三者人也,人之所以成生者血脈也。故為之治針,必大其身而員其末,令可以按脈勿陷,以致其氣,令邪氣獨出」[4]128。河北省満城の前漢中山靖王劉勝墓から金・銀製の「九鍼」が出土した。その中の金の医療用鍼1:4446は鍉鍼にちがいない。その形状は上端を柄とし,断面を方形とし,下部を鍼身とする。断面は円形で,柄の上端には小さな穴があり,柄の長さは鍼身の長さの倍で,全体の長さは6.9 cm,柄の長さは4.6 cm,幅0.2 cm,鍼部分の長さは2.3 cmである(筆者按語:鍼の部分の長さはちょうど漢制の一寸に合致しているので,全体の長さは三寸であり,『霊枢』の鍉鍼の「長さ三寸半」の記載とは少し食い違う)[13]116。末端は鈍く,形状は半米粒と類似しており,『霊枢』九針十二原にいう鍉鍼の「鋒の黍粟の鋭の如し」という記述に合致している(図2参照)[14]。

 注:図は以下から引用:河北省博物館編.大漢絕唱 滿城漢墓.北京:文物出版社,2014:202。

 図2 劉勝墓出土金銀鍼(左から右に向かって:1:4366,1:4391,1:4447,1:4446,1:4390,1:4354 )

 〔図2 省略〕

 脈刺の具体的な操作方法についても,『霊枢』官針に次のように述べられている。「脈之所居深不見者,刺之微內針而久留之,以致其空脈氣也;脈淺者勿刺,按絕其脈乃刺之,無令精出,獨出其邪氣耳」[4]23。この刺法の要領は鍼をその脈に刺しても血を出さないことにあり[15],精気を回復させ,邪気だけを出すことにある(『霊枢』九針十二原の「針陷脈則邪氣出」もこのことを指している)。そのため下に「㓨(刺)血不當出〔血を㓨(刺)して當に出だすべからず〕」という処理法の文があり,ここにつなぐべきである。

   『霊枢』周痹:故刺痹者,必先切循其下之六經,視其虛實,及大絡之血結而不通,及虛而脈陷空者而調之,熨而通之[4]60。

   『素問』調経論:血有餘,則瀉其盛經,出其血;不足,則補(「補」原作「視」,『甲乙』『太素』により改む)其虛經,內鍼其脈中,久留血至(「血至」原作「而視」,『甲乙』『太素』により改む)脈大,疾出其鍼,毋令血泄[5]121。

引用文からわかることは,経絡を診察することによって,血の結留は実であり,脈が陥空であるのは虚であり,経脈の盛虚によって刺法は補瀉を使い分ける,ということである。瀉法は脈を刺して血を出す方法であり,補法は『霊枢』官針にいう「病在脈」の刺法に近い。『㓨(刺)数』篇では脈診が論じられて,盛虚を弁別する方法(下文の簡652に見える)があるとはいえ,その刺法には補瀉の区分はまだ見えない。したがって本篇中の「脈刺」は後世の経絡補瀉刺法の濫觴であると推測される。

1.2分刺

 分刺については,本篇内に注がある。「所胃(謂)分㓨=(刺,刺)分肉間也」(669)。『霊枢』官針に「病在分肉間,取以員針于病所」[4]22とあり,この「分刺」の法である。下文にある「五曰分刺,分刺者,刺分肉之間也」は,簡669が解釈するところと同じである。

 分刺に用いる鍼具は,『霊枢』では員鍼に対応する。『霊枢』九針十二原(01):「員針者,針如卵形,揩摩分間,不得傷肌肉,以瀉分氣」[4]6。『霊枢』九針論(78):「二者地也,人之所以應土者肉也。故為之治針,必筩其身而員其末,令無得傷肉分,則邪氣得竭(原作「傷則氣得竭」,『甲乙』卷五第二により改む)」[4]128。満城漢墓から出土した銀の医療用鍼1:4366の上端は欠損しているが,残存部分は細長い円筩形で,鍼尖は鈍い円形をしており,『霊枢』九針論(78)に描かれている「筩其身而卵其鋒」のようである。そのため九鍼中の員鍼である可能性がある[13]118。(図2)

 分肉とは,筋肉を指す。赤と白の境がはっきりしているので,その名前がある。『素問』診要経終論の「春刺散俞,及與分理」について,『素問攷注』で森立之は「凡肌表白肉刺而不見血之處,謂之肌膚,又曰肌肉。見血之處,謂之分肉,又曰分理,言榮衛血氣之相分之處也」[16]と注している。分肉の間とは,筋肉の間隙を指す。『霊枢』経脈では,十二経脈はみな「伏行分肉之間」に出る。『太素』巻五の「人有幕筋」に楊上善は「幕,當為膜,亦幕覆也。膜筋,十二經筋及十二筋之外裹膜分肉者,名膜筋也」[7]54と注している。「分肉之間」とは,各筋肉間にある筋膜の間隙[17]を指していて,分刺で刺す部位がこの場所であることがわかる。

1.3刺水

 刺水とは,『霊枢』官針に「病水腫不能通關節者,取以大針」[4]22とあるのが,この法である。用いる鍼具は,竹簡にみえる「針大如履針」によれば,古代人が履(くつ)を編むときに用いた針の大きさぐらいである。『霊枢』では「大針」である。『霊枢』九針十二原(01)に,「大針者,尖如梃,其鋒微員,以瀉機關之水也」4]6とあり,『霊枢』九針論に「九者野也,野者人之節解皮膚之間也。淫邪流溢於身,如風水之狀,而溜不能過於機關大節者也。故為之治針,令尖如挺,其鋒微員,以瀉機關內外(「瀉機關內外」の五字は『鍼灸甲乙経』から補った。原文は「取」に作る)大氣之不能過於關節者也」[4]129とある。筆跡が劣化して不鮮明になっているため,竹簡にある「□三寸」が鍼具の長さであるかどうか詳細は不明であるが,もし鍼具の長さであるとすると,『霊枢』にいう大鍼の「長四寸」とはやや異なる。

 天回医簡が墓主とともに埋葬されたのは,前漢の景帝から武帝の時代(紀元前157年~紀元前141年)[18]である。中山靖王劉勝は,漢の景帝劉啓の子で,武帝劉徹の庶出の兄であり,武帝の元鼎四年(紀元前113年)二月[13]336-33に亡くなっているので,天回墓の主人の死後,50年足らずである。竹簡『㓨(刺)数』の内容は,『霊枢』官針と満城漢墓から出土した医療用鍼と対応しているので,出土文献・伝世文献・出土文物が相互に実証する関係になっていて,前漢以来の鍼刺治療法の伝承と推移を研究するために多くの証拠を提供している。


2023年4月8日土曜日

  天回漢墓医簡中の刺法 00

 『中国針灸』2018.10.01

顧漫,周琦,柳長華(中国中医科学院中国医史文献研究所)


  【要旨】四川省成都天回鎮の漢墓から出土した医簡のうち,整理者が「㓨(刺)数」と命名した部分は鍼刺治療法に関する専論であり,中国医学鍼灸の伝承発展を研究する上で非常に貴重な新史料である。本論は出土文献と伝世文献および出土文物の相互確認の方法を用いて,そこに保存されている前漢初期の鍼刺古法について散逸した史料の収集探求をおこなった。これにより,論中の述べられている「脈刺」「分刺」「刺水」という異なる刺法操作の要領およびその使用する鍼具の形状は,『霊枢』の記載や考古学で発見された「九鍼」とたがいに裏付けられた。論中の多くの初期の鍼処方は,『史記』倉公伝や『素問』繆刺論などの篇および漢代の画像石「扁鵲行鍼図」に見える鍼刺方法を反映している。鍼刺と脈診との密接な結びつきは,古代における経脈医学の「通天」思想をあらわしている。


  【キーワード】㓨数;天回医簡;刺法;脈刺;分刺;『史記』扁鵲倉公列伝:『素問』繆刺論;『霊枢』官鍼


『漢書』藝文志[1]醫經の小序:「醫經者,原人血脈經落(絡)骨髓陰陽表裏,以起百病之本,死生之分。而用度箴(鍼)石湯火所施,調百藥齊和之所宜〔醫經なる者は,人の血脈・經落(絡)・骨髓・陰陽・表裏を原(たず)ね,以て百病の本,死生の分を起こす。而して用(も)って箴(鍼)石湯火の施す所を度(はか)り,百藥齊和の宜しき所を調う〕」。

 近代〔歴史学的にはアヘン戦争から五四運動までの時期〕成都の名医,張驥先生は「箴石湯火所施」を解釈して,「余按箴、石、湯、火是四法〔余(われ)按ずるに箴・石・湯・火は是れ四法〕」といい,あわせて『素問』『霊枢』諸書を引用して,箴は九鍼,石は砭石を指すと指摘する。「是鍼以取其經穴,淺深出內,補瀉迎隨,各有法度;石以刺其絡脈,去出其血,癰瘍多用之。後世瓷鋒刺血,即砭石之意〔是れ鍼は以て其の經穴を取り,淺深出內(=納),補瀉迎隨,各々法度有り。石は以て其の絡脈を刺し,去って其の血を出だし,癰瘍多く之を用ゆ。後世の瓷鋒(陶器片)刺血は,即ち砭石の意〕」。湯は蕩滌〔洗い流す〕を,火は蒸熨を指す,「是湯以蕩之,火以灸之也。故曰箴、石、湯、火是四法〔是れ湯は以て之を蕩(あら)い,火は以て之を灸するなり。故に曰わく,箴・石・湯・火は是れ四法,と〕」[2]という。四川省成都天回鎮漢墓出土医簡M 3:121(以下「天回医簡」と略称する)には,石・犮・灸・㓨(刺)・傅(敷)・尉(熨)・湯・醪・丸などの多種の治療方法に関連する名詞が見え,前賢の「箴・石・湯・火は四法である」というのには先見の明があることが十分に証明された。本論は天回医簡中の鍼刺方法に関する内容を討論し,その他の治療方法については稿を改めて述べる。

 天回医簡の簡六部分は,全部で48本の簡があり、そのうち25本は完全で,簡の長さの平均は30.2cm,秦漢尺の1尺3寸にほぼ合致する。3本の縄によって編まれ,簡の背部には刻みが入っている。この簡の字体はすでに隷定後の隷書に属し,字形は平たく長く,波磔がはっきり見られ,漢代前漢中期以降の碑刻の隷書とほとんど変わらない。本篇には題名は見えないが,整理者は簡の内容にある「㓨(刺)數,必見病者狀,切視病所」(簡670)に基づき,『㓨(刺)数』と命名した[3]。

 『霊枢』邪客:「黃帝問於岐伯曰:余願聞持針之數,內針之理,縱舍之意」[4]113。

 『素問』湯液醪醴論:「今良工皆得其法,守其數」[5]33。

 『素問』疏五過論:「聖人之術,為萬民式,論裁志意,必有法則,循經守數,按循醫事,為萬民副」,「守數據治,無失俞理,能行此術,終身不殆」[5]195-96。

 以上の『内経』の文例では,「数」は常に「法」「理」と互文〔同義語の重複を避ける修辞法〕である。李伯聡氏[6]はすでにこの現象を指摘し,「ここから分かるように,いわゆる〈守数〉は〈得法〉(法則を掌握する)の意味であると互いにあきらかにしている」と論断した。また『太素』巻二十三・量繆刺の「凡刺之數」の一節の楊上善注には「數,法也」[7]381とあり,特に「㓨数」とは「刺法」の意味であることの証明とすることができる。

 本篇は内容と体例によって,総論と各論の二つに分けることができる。総論は刺法の原則を論述し,全部で6本あり,文は連続して書かれている。各論では,40種類以上の病症の具体的な鍼刺治療法を記載し,全部で42本あり,1本の簡にはそれぞれ一つの病症の刺法しか記されていない。ここでは本篇の記載に基づき,前漢の初期鍼刺治療法のいくつかの特徴を探求することをこころみる。以下に分けて論述する。