2023年4月13日木曜日

天回漢墓医簡中の刺法 05

 5 本篇に見える古い刺法の検討


 整理者がすでに指摘しているように,本篇に述べられている刺法の多くは,『史記』所載の倉公の法と一致する(例:簡666,630)。同様に,本篇と倉公伝にあらわれる灸・刺部位は,いずれも三陰三陽の経脈部位をいうのみで,後世の穴名はいまだ出現していない。これと例を同じくするものとして,『素問』の繆刺論・長刺節論・通評虚実論・刺熱論・刺瘧篇・刺腰痛篇,『霊枢』の寒熱病・癲狂・雑病,および馬王堆『足臂十一脈灸経』などの篇がある(張家山『脈書』と馬王堆『陰陽十一脈灸経』には「足少陰」に一灸法があるにすぎない)。梁繁栄等がすでに指摘しているように,本篇にみえる数,「各五」「三」などは『史記』扁鵲倉公列伝にある鍼灸医案の「各三所」や『素問』繆刺論の「各二痏」などと記述されているものと含意が一致する。「所」の意味は「処」であり,痏は鍼孔である。『太素』巻十五・五蔵脈診「已發鍼,疾按其痏」の楊上善注に「于軌反,謂瘡瘢之也」とある[7]305。『太素』巻二十一・九鍼要道「外門已閉,中氣乃實」の楊上善注に「痏孔為外門也」とある[23]。

 倉公伝と『内経』に見られるこれらと同じような例である灸・刺部位はつまるところ経脈なのか腧穴なのかについて,中国医学界では20世紀八十~九十年代に論争があった。何愛華は『千金要方』と敦煌から出土した『灸法図』の残巻に見られる「灸××(脈)」という例から,『史記』倉公伝中の「灸・刺××脈」は,みな経脈名にもとづいて命名された腧穴を指すと考えた。馬継興先生は敦煌の『灸法図』を考釈し,「手陽明」は「古経穴名」,「足陽明」は「古経穴名。具体的な位置は不詳だが,ほぼ足の甲にある」,「足太陽」は「古経穴名」と注解している。黄龍祥はこのような経脈名と同じ名称の腧穴を「経脈穴」と称し,『脈経』等の記載にもとづき,「その部位はみな手首・くるぶしの部位をこえず,多くは対応する脈口部位に相当する」[26]とし,また特に倉公伝の鍼灸方に見られる「足厥陰之脈」「足陽明脈」「手陽明脈」などは脈口名であって経脈名ではなく,これらの脈口は脈を診る部位であり,鍼灸治療部位でもある[27],と指摘している。

 『史記』倉公伝に見られる古刺法は,山東省の漢代画像石「扁鵲行鍼図」がちょうどその裏付けとなる。山東省の美術史家劉敦願[28]と葉又新[29]の両先生は,漢代の画像石に見られる扁鵲の形象にかなり早くから関心を注いでいた。葉氏は山東省微山県両城山から発見された後漢中葉の『神医画象石』乙(曲阜の孔子廟に現存する)とともに,当時の刺法の取穴を検討し,それぞれの箇所の鍼刺数痏の特徴を次のように指摘している。「しかしやや後の和帝時代の『乙石』の上には,かえって一穴多鍼の画象が現われた。右側〔訳注:原文「右边」。画像では左側の婦人のことか〕に坐っている病気の婦人には鍼が三ヶ所に留められており,各所にそれぞれ三痏(一つの穴に三鍼を刺す)ある。中間に坐っている病気の婦人は四ヶ所に鍼を留め,剥落している頭頂部を除き,その他はみな四痏であり,腧穴を一つの面あるいは一つの線とみなしている」。『霊枢』官鍼に記されている刺法を参照すると,葉氏の考えでは,図中の二痏を刺すものは,官鍼中の「直刺傍刺各一」の「傍鍼刺」に近く,三痏を刺すものは,「直入一,傍入二」の「齊刺」(或曰三刺」)に近く,五痏を刺すものは,「正内一,傍内四,而浮之」の「陽(揚)刺」[30]に近い(図3〔省略〕)。

 図:山東省漢代画像石「扁鵲行鍼図」

 注:図は,「叶又新.试释东汉画象石上刻的医针 ――兼探九针形成过程.山东中医学院学报,1981(8):60-68」から引用。〔省略〕

https://zhuanlan.zhihu.com/p/85304388

 葉又新はすでに画像石に表わされていた刺法について「腧穴を一つの面あるいは一つの線とみなしている」と注目していたが,『㓨(刺)数』簡が出土したことによって,画像石に表わされていたのはまさに本篇中の刺法の描写であることがわかった。本篇の刺法によく見られる数,「各五」は「脈刺」であり,その刺鍼部位は経脈あるいは絡脈である。『霊枢』官鍼篇と対照するならば,「豹文刺」に近い。「豹文刺者,左右前後鍼之,中脈為故,以取經絡之血者,此心之應也」[4] 24。馬元の解釈によれば,「賛刺と豹文刺は多鍼散刺放血法に属す。その中で前者は浅表の血絡を散刺し,出血量は比較的に少ない。後者は深層の経脈を散刺し,出血量はかなり多く,形状はまだらの豹文に似る」[31]。本篇の脈刺「間相去七分寸一」という論述と結びつけると,刺鍼顎の五箇所の鍼孔の配列は十字状であり,左右前後各所の鍼孔と中央との距離は,まさに本篇にいう0.33cmであることがわかる。

 三痏を刺すのは本篇にある「分刺」であり,『霊枢』官鍼の「合谷刺」に対応する。「合谷刺者,左右雞足,鍼於分肉之間,以取肌痹,此脾之應也」[4]24。『太素』巻二十二・五刺の楊上善は,「刺身左右分肉之間,痏如雞足之跡,以合分肉間之氣,故曰合刺也」と注している[7] 359。馬元の解釈によれば,「谷とは,肉の大会である。痺痛が肌肉の厚いところに生じたときは,ここで〈左右雞足〉刺法(すなわち鍼を筋層に直刺したのち,浅い層に引き上げ,さらに順次両わきに斜刺して,鍼刺痕をニワトリの爪の形にさせる)をおこなうとよい[31]。本篇の分刺「間相去少半寸」の論述と結びつけると,刺鍼後の三ヶ所の鍼孔の配列はまさにニワトリの足の形状になり,左右二ヶ所の鍼孔と中央との距離はまさに本篇にいう0.77cmになることがわかる。

 『霊枢』官鍼に記されている刺法には,「九刺」「十二刺」「五刺」の違いがあるが,実際は異なる基準に基づいて分類されているため,それぞれの分類のもとにある刺法は互いに重複していて,はっきりと分けることはできない。したがって上文で述べた,「病在脈,取以鍉鍼」の刺法と「中脈為故……此心之應也」の豹文刺は対応し,「病在分肉間,取以員鍼」の刺法は,「鍼於分肉之間……此脾之應也」の合谷刺と対応する。これはちょうど『㓨(刺)数』簡の「脈刺」と「分刺」にそれぞれ対応させることができ,さらに『史記』倉公伝と漢代画像石「扁鵲行鍼図」に描かれた刺法で確認することができる。けだしこれが前漢初期の鍼刺の古法なのであろう。


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