5 討論
この半世紀,簡帛医学文献の出土が次第に増えてきたが,その中の大きな分野を経脈文献が占めていて,学者のそれに対する認識も日増しに明晰になっている。最初に注目されたのは,伝世医籍である『黄帝内経』,特に『霊枢』経脈との関係であった。例えば,裘錫圭先生は「簡帛古籍から分かることは,数術・方技の本には継承性が特に強いことである。伝承されたこのような著作は,かなり古い同類の著作を基礎として,徐々に修改増補をかさねて定本となったものが多い。張家山竹書と馬王堆帛書の『脈書』が,『霊枢』経脈篇の祖本であることは明らかである」[14]と指摘している。
しかし,これらの出土した経脈文献を整理した当初は,学界ではこういった文献をどのように命名し,区分するか,意見が分かれることが多く,意見が統一されなかった。その後,張家山から『脈書』が出土し,竹簡の背面から「脈書」という題名が発見されたので,張家山漢簡整理小組は,張家山の竹簡『脈書』の内容は,帛書の『陰陽十一脈灸経』『脈法』『陰陽脈死候』の3種に相当すると考えた。帛書に欠けていた文字は,竹簡が発見されたことにより,基本的にほとんど補うことができる。〔竹簡の文字も〕帛書の釈文と対照すれば,一部を除いて,やはり誤りなく釈文できる。このように,帛書『五十二病方』の巻前にあって失われた部分は,実際は『足臂十一脈灸経』と『脈書』の二種類であると考えられる。このことは,いわゆる『足臂十一脈灸経』が『陰陽十一脈灸経』とは確実に異なる別の本であることを証明している[15]。韓健民[16]は,馬王堆帛書の経脈文献を研究した専門書を著わしたが,その題名を『馬王堆古脈書研究』とした。張燦岬[17]は文献の名称についても論じていて,張家山の『脈書』はもともとあった題目であり,これは『史記』倉公伝が称する『脈書』と同義であるはずであると主張した。「脈書」は経脈の書であり,脈診を言う書ではない。したがって馬王堆に二つの「灸経」本には,もともと題名はなかったが,この例に照らせば,これも「灸経」ではなく「脈書」ではないかと疑われる。『霊枢』経脈という篇は,『脈書』などの各本の基礎の上に発展して成立した可能性がきわめて高い。李海峰[18]は,出土した経脈類文献の主要な内容は近く,体例は類似していることを根拠に,いずれも経脈の脈名,循行ルート,主治病症を述べていて,いずれも生死を判断する診断学的内容を含んでおり,張家山漢簡『脈書』には明確な題名簡があるという。その上,『史記』扁鵲倉公列伝の記載された『脈書』の伝承体系が存在し,これに類する経脈文献は,『脈書』と統一して命名すべきであり,その後にその出土した土地と書写された書写材料〔帛書か竹簡かなど〕の違いにもとづき注を加えて区別すべきであると考えている。趙争[19]は,古脈書の『足臂十一脈灸経』と『陰陽十一脈灸経』の両者の内容と構造を分析することにより以下のように指摘している。すなわち,その形成はいずれもかなり複雑な過程をへていて,そのテキストの構造と成書過程は相対的な年代問題と密接に関連しているため,『足臂』と『陰陽』の相対的な年代関係をおおまかにまとめて論定するのは難しく,テキストの内部に深く入り込んで,古書そのもののテキストの階層に基づき,より小さな単位――段落ごと,さらには各文ごとに――を基礎として分析をおこなうべきである,と。
上に述べてきたことをまとめると,秦漢時代には多くの地域に普遍的に「脈書」文献が流布しており,その内容と体例はすでに比較的固定的なパターンを形成している。とはいえ,各伝本にはそれぞれ違いがある。馬王堆からは『足臂』と『陰陽』が出土し,今回,天回医簡にも『脈書』下経と『経脈』があり,同じ墓から異なる伝本の経脈文献が出土したのは,当時のこのような文献の流布が複雑で,分離統合が定まっておらず,まさに発展変化の活発な時期にあたることを示している。伝世経典としての『霊枢』経脈篇は,まさにこのような「脈書」が集大成された後に定型化した産物で,体例と構造は,出土「脈書」の基本的な構造を継承していて,そこには経脈の名称・循行・主病・診治法・脈死候等の部分が含まれている。経脈循行の主体と経脈病候という核心となる内容からみると,天回『経脈』に類似する「直系」文献とすべきである。その改造され増加された部分は,おもに以下の面である[20]。第一に,「営衛学説」の成果を吸収し、経脈の循行方式を四肢末端から起こる「求心性」流注を,十二経脈が首尾相い貫く循環する流注に改造した。第二に,『霊枢』禁服の「人迎―寸口」脈法と「盛則瀉之,虛則補之,熱則疾之,寒則留之,陷下則灸之,不盛不虛,以經取之」という鍼灸治療の大法を移植し,次第に衰微していた「有過之脈」の診察法と砭・灸の治療法に取り替えた。第三に,「十五別絡」の内容を増やした。この部分は天回『経脈』と張家山・馬王堆諸脈書には見られないが,天回『脈書』下経の「間別脈」の一部の体例に近い。このことから,『霊枢』経脈の文献の由来が非常に複雑であることがわかる。
天回医簡が埋葬されたのは,前漢の景帝と武帝の際のころである〔BC140年前後〕[4]。そこに保存されていた二つの経脈文献を見ると,『脈書』下経はこれ以前の『脈書』(BC186年)[6]および馬王堆『足臂』(BC168年)[21]を総合したものであるが,わずかに残っている『経脈』の方は伝世の経典『霊枢』経脈の原始的な様相に近い。江陵〔張家山〕・長沙〔馬王堆〕・成都〔天回〕の三箇所から出土した六つの経脈文献は,前漢初期の五六十年間に,すでに「分散から集合」の傾向を示していた。これに対して『霊枢』経脈が形成された時期は,学界での定説とみなされている成帝の侍医であった李柱国が天下の医書の校正を始めたとき(BC26年)とは限らず,後漢の和帝(88~105年)時代に,太医丞の郭玉が涪翁から伝えられた『鍼経』の時まで時代が下る可能性があるかも知れない。天回『経脈』が『霊枢』経脈に発展するにいたる二百年以上の間に,各種の「伝承された異本」の経脈文献がどれほど相互に浸透融合をへているか分からないが,最終的に「学は官府に在り」という影響の下に,次第に統一を見た。
『霊枢』経脈篇に「經脈者,所以能決死生,處百病,調虛實,不可不通」[5]とある。この数十年来,陸続と出土した経脈文献は,われわれにこの経文についてより真意に近い理解をもたらし,それによって学者のまなざしは経脈の循行ルートという枝葉の部分から経脈の病候と診療という主要な項目に移った。注目点が移行した背景には,実はいわゆる「経絡の本質」という問題に対する新たな認知,すなわち経絡は「生理システム」であるという認識から「疾病分類システム」であるという認識へのパラダイムシフトがある。『霊枢』経脈の原始形態により近い天回医簡『経脈』の発見は,まさにこのタイミングである。これは間違いなくわれわれに秦漢時代の経脈文献が「百舸争流〔多数の船が流れに競いあう〕」から「百川匯海〔多数の川の水が海に集まる〕」までの伝承の流れというパノラマを見せていて,「鍵となる部分」の新史料を提供している。またわれわれに天回漆塗り経脈木人の体にある赤と白の経脈系統を解釈する新しいアイディアを思いつかせ,それによって必ず中国医学の経脈学説の幾重にも重なって形成された歴史的なプロセスを探索するための新たな弾みとなることもまた間違いない。
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