1 刺法には「脈刺」「分刺」「刺水」の区別がある
【脈】㓨(刺),深四分寸一,間相去七分寸一。【脈】㓨(刺),箴(鍼)大如緣〓1〔艸+咸〕(鍼)。分㓨(刺),囗【大】囗,間相去少半寸。㓨(刺)水,〓1〔艸+咸〕(鍼)大如【履】〓1〔艸+咸〕(鍼),囗三寸。(簡653,図1)
★図1 『㓨数』簡中の「脈」字 簡652と簡653 〔省略〕
簡653の内容は「脈刺」「分刺」「刺水」という諸種の異なる刺法の操作要領,およびその使用する鍼具の形状を概説していて,全篇の綱領である。整理者はその簡の背部にある刻み目上下2本と,その番号の断面図中の位置に基づいて,この簡を本篇の最初の簡とした[8]。
1.1脈刺
「脈刺」は,簡653に二カ所出現する。「刺」の前の一字は不完全であるが,整理者は残存する筆画からその字形を「〓2〔画像〕」,「月(肉)」と「永」に従う文字で,本篇の簡652(図1)にみえる「脈熱」「它脈」の「脈」字と形に違いがないので,「脈」字と解することができる(張家山『脈書』中の「脈」字の書法はこれと異なり,字形は「肉」と「𠂢」に従う。裘錫圭先生によれば,古文字の正写と反写には往々にして差がなく,「永」と「𠂢」はもともと二つの字ではない。金文の「永」字が「〓3〔画像〕」となっている例はしばしば見られる。「〓4〔画像〕」または「〓5〔画像〕」は川の支流を象っていて,おおむね後に字義を明確にするために,字形が左向きを「永」字,右向きを「𠂢」字と規定している[9])。『霊枢』官針に「病在脈,氣少當補之者,取以鍉針於井滎分輸」とある。すなわち「脈刺」の法に属する。また「経刺」「絡刺」の区別がある。「凡刺有九,以應九變……三曰經刺,經刺者,刺大經之結絡經分也。四曰絡刺,絡刺者,刺小絡之血脈也」[4] 22。〔簡653の〕「深四分寸一」とは,鍼刺の深さが四分の一寸のことを指す。すなわち張驥先生がいう「浅深出内」の法度である。「間相去七分寸一」とは,鍼刺部位間の距離が七分の一寸ということを指す。「少半寸」とは,三分の一寸のことを指す。秦漢時代の標準的な常用の尺度では,一尺は23.1cm[10],十寸が一尺である。したがって一寸は2.3cmである。よって「四分寸」は0.56cm, 「七分寸」は0.33cm,「少半寸」は0.77cmである。この数値からすると,脈刺の鍼刺の深さはかなり浅く,間隔はかなり近いが,分刺間の距離はやや遠い。
脈刺に用いる鍼具は,簡の文によれば,「針大如緣針」,『説文解字』系部に「緣,純也」とある。段玉裁注:「此以古釋今也,古者曰衣純,見經典,今曰衣緣。緣其本字,純其叚(假)借字也。緣者,沿其邊而飾之也」[11] 654。縁とは衣服の縁どりを指し,縁針とは衣服の縁を縫うために用いる針であり,普通の縫い針よりもやや大きい。湖北省江陵鳳凰山第一六七号漢墓から出土した前漢初期(文景期)の縫い針は,長さ5.9 cm,最大径約0.05 cmで,針先はやや欠けていて,針体の太さは均一で,針孔は小さく,内部に黄色の絹糸を結んでいて[12],例証とできる。『霊枢』では「鍉鍼」に対応する。『霊枢』九針十二原:「鍉鍼者,鋒如黍粟之銳,主按脈勿陷,以致其氣」[4]6。『霊枢』九針論:「三者人也,人之所以成生者血脈也。故為之治針,必大其身而員其末,令可以按脈勿陷,以致其氣,令邪氣獨出」[4]128。河北省満城の前漢中山靖王劉勝墓から金・銀製の「九鍼」が出土した。その中の金の医療用鍼1:4446は鍉鍼にちがいない。その形状は上端を柄とし,断面を方形とし,下部を鍼身とする。断面は円形で,柄の上端には小さな穴があり,柄の長さは鍼身の長さの倍で,全体の長さは6.9 cm,柄の長さは4.6 cm,幅0.2 cm,鍼部分の長さは2.3 cmである(筆者按語:鍼の部分の長さはちょうど漢制の一寸に合致しているので,全体の長さは三寸であり,『霊枢』の鍉鍼の「長さ三寸半」の記載とは少し食い違う)[13]116。末端は鈍く,形状は半米粒と類似しており,『霊枢』九針十二原にいう鍉鍼の「鋒の黍粟の鋭の如し」という記述に合致している(図2参照)[14]。
注:図は以下から引用:河北省博物館編.大漢絕唱 滿城漢墓.北京:文物出版社,2014:202。
図2 劉勝墓出土金銀鍼(左から右に向かって:1:4366,1:4391,1:4447,1:4446,1:4390,1:4354 )
〔図2 省略〕
脈刺の具体的な操作方法についても,『霊枢』官針に次のように述べられている。「脈之所居深不見者,刺之微內針而久留之,以致其空脈氣也;脈淺者勿刺,按絕其脈乃刺之,無令精出,獨出其邪氣耳」[4]23。この刺法の要領は鍼をその脈に刺しても血を出さないことにあり[15],精気を回復させ,邪気だけを出すことにある(『霊枢』九針十二原の「針陷脈則邪氣出」もこのことを指している)。そのため下に「㓨(刺)血不當出〔血を㓨(刺)して當に出だすべからず〕」という処理法の文があり,ここにつなぐべきである。
『霊枢』周痹:故刺痹者,必先切循其下之六經,視其虛實,及大絡之血結而不通,及虛而脈陷空者而調之,熨而通之[4]60。
『素問』調経論:血有餘,則瀉其盛經,出其血;不足,則補(「補」原作「視」,『甲乙』『太素』により改む)其虛經,內鍼其脈中,久留血至(「血至」原作「而視」,『甲乙』『太素』により改む)脈大,疾出其鍼,毋令血泄[5]121。
引用文からわかることは,経絡を診察することによって,血の結留は実であり,脈が陥空であるのは虚であり,経脈の盛虚によって刺法は補瀉を使い分ける,ということである。瀉法は脈を刺して血を出す方法であり,補法は『霊枢』官針にいう「病在脈」の刺法に近い。『㓨(刺)数』篇では脈診が論じられて,盛虚を弁別する方法(下文の簡652に見える)があるとはいえ,その刺法には補瀉の区分はまだ見えない。したがって本篇中の「脈刺」は後世の経絡補瀉刺法の濫觴であると推測される。
1.2分刺
分刺については,本篇内に注がある。「所胃(謂)分㓨=(刺,刺)分肉間也」(669)。『霊枢』官針に「病在分肉間,取以員針于病所」[4]22とあり,この「分刺」の法である。下文にある「五曰分刺,分刺者,刺分肉之間也」は,簡669が解釈するところと同じである。
分刺に用いる鍼具は,『霊枢』では員鍼に対応する。『霊枢』九針十二原(01):「員針者,針如卵形,揩摩分間,不得傷肌肉,以瀉分氣」[4]6。『霊枢』九針論(78):「二者地也,人之所以應土者肉也。故為之治針,必筩其身而員其末,令無得傷肉分,則邪氣得竭(原作「傷則氣得竭」,『甲乙』卷五第二により改む)」[4]128。満城漢墓から出土した銀の医療用鍼1:4366の上端は欠損しているが,残存部分は細長い円筩形で,鍼尖は鈍い円形をしており,『霊枢』九針論(78)に描かれている「筩其身而卵其鋒」のようである。そのため九鍼中の員鍼である可能性がある[13]118。(図2)
分肉とは,筋肉を指す。赤と白の境がはっきりしているので,その名前がある。『素問』診要経終論の「春刺散俞,及與分理」について,『素問攷注』で森立之は「凡肌表白肉刺而不見血之處,謂之肌膚,又曰肌肉。見血之處,謂之分肉,又曰分理,言榮衛血氣之相分之處也」[16]と注している。分肉の間とは,筋肉の間隙を指す。『霊枢』経脈では,十二経脈はみな「伏行分肉之間」に出る。『太素』巻五の「人有幕筋」に楊上善は「幕,當為膜,亦幕覆也。膜筋,十二經筋及十二筋之外裹膜分肉者,名膜筋也」[7]54と注している。「分肉之間」とは,各筋肉間にある筋膜の間隙[17]を指していて,分刺で刺す部位がこの場所であることがわかる。
1.3刺水
刺水とは,『霊枢』官針に「病水腫不能通關節者,取以大針」[4]22とあるのが,この法である。用いる鍼具は,竹簡にみえる「針大如履針」によれば,古代人が履(くつ)を編むときに用いた針の大きさぐらいである。『霊枢』では「大針」である。『霊枢』九針十二原(01)に,「大針者,尖如梃,其鋒微員,以瀉機關之水也」4]6とあり,『霊枢』九針論に「九者野也,野者人之節解皮膚之間也。淫邪流溢於身,如風水之狀,而溜不能過於機關大節者也。故為之治針,令尖如挺,其鋒微員,以瀉機關內外(「瀉機關內外」の五字は『鍼灸甲乙経』から補った。原文は「取」に作る)大氣之不能過於關節者也」[4]129とある。筆跡が劣化して不鮮明になっているため,竹簡にある「□三寸」が鍼具の長さであるかどうか詳細は不明であるが,もし鍼具の長さであるとすると,『霊枢』にいう大鍼の「長四寸」とはやや異なる。
天回医簡が墓主とともに埋葬されたのは,前漢の景帝から武帝の時代(紀元前157年~紀元前141年)[18]である。中山靖王劉勝は,漢の景帝劉啓の子で,武帝劉徹の庶出の兄であり,武帝の元鼎四年(紀元前113年)二月[13]336-33に亡くなっているので,天回墓の主人の死後,50年足らずである。竹簡『㓨(刺)数』の内容は,『霊枢』官針と満城漢墓から出土した医療用鍼と対応しているので,出土文献・伝世文献・出土文物が相互に実証する関係になっていて,前漢以来の鍼刺治療法の伝承と推移を研究するために多くの証拠を提供している。
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