2023年10月9日月曜日

張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁05

  以上,本論は出土文献と伝世文献を結びつけ,『靈樞』九針十二原にみえる個々の語句に対して校詁をおこない,以下のように考える。「余子萬民」の「子」は,「字」の通仮字とすべきで,意味は「養」である。「令各有形,先立針經」の「形」は「鍼灸の実践から帰納された理論著作」を指す。「粗守關,上守機」の「關」の本義は「引き金を保護する部品」であり,「機」の本義は「引き金」であり,文中では比喩的として用いられている。「掛以髮」の「掛」は「掛ける」の意味であり,「髮」は「頭髪」を指し,「掛以髮」は「頭髪を使って引っ掛ける」ことを指している。

 また,中国医学文献の語句を校詁する際には,さまざまな方面の資料に適切な注意を払いながらそれを引用することで議論に十分な根拠を持たせることが必要であるとも考える。


  参考文献


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張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁04

 4 「掛以髮」の校詁


 『靈樞』九針十二原:「知機之道者,不可掛以髮。不知機道,扣之不發」。

 この文にも歴代解釈がある。『靈樞』小針解は「不可掛以髮者,言氣易失也,叩之不發者,言不知補瀉之意也。血氣已盡而氣不下也〔〈不可掛以髮〉とは,氣は失い易きを言い,〈叩之不發〉とは,補瀉の意を知らざるを言うなり。血氣 已に盡きて氣 下らざればなり〕」と解釈している。『素問』離合真邪論は「不可挂以髮者,待邪之至時而發針寫矣,若先若後者,血氣已盡,其病不可下,故曰知其可取如發機,不知其取如扣椎,故曰知機道者不可挂以髮,不知機者扣之不發,此之謂也〔〈不可挂以髮〉とは,邪の至る時を待って針を發して寫す,若しくは先んじ若しくは後るる者は,血氣 已に盡き,其の病 下す可からず,故に曰わく,〈其の取る可きを知れば機を發するが如し,其の取るを知らざれば椎を扣(たた)くが如し〉と。故に曰わく,〈機の道を知る者は挂(か)くるに髮を以てす可からず,機を知らざる者は之を扣くも發せず〉とは,此れ之を謂うなり〕」と解釈している。『內經』の解釈に問題はないはずだが,明清医家の見方は大きく異なっている。たとえば馬蒔は,「知機之道者,唯此一氣而已,猶不可掛一髮以間之。故守此氣而勿失也。不知機之道者,雖叩之亦不能發,以其不知虛實,不能補寫,則血氣已盡,而氣故不下耳〔機の道を知る者は,唯だ此れ一氣のみ,猶お一髮以て之を間して掛くる可からず。故に此の氣を守って失うこと勿かれ。機の道を知らざる者は,之を叩くと雖も亦た發すること能わず,其の虛實を知らざるを以て,補寫すること能わず,則ち血氣 已に盡きて,氣 故に下らざるのみ〕」[35]と考えた。張景岳の見方もこれに似ている[36]。張志聰は,つぎのように言う。「靜守於來往之間而補寫之,稍差毫髮之間則失矣。粗工不知機道,叩之不發,補寫失時,則血氣盡傷,而邪氣不下〔靜かに來往の間を守って之を補寫し,稍(すこ)しも毫髮の間を差(たが)えば則ち失す。粗工は機道を知らず,之を叩いて發せず,補寫 時を失すれば,則ち血氣 盡く傷(やぶ)れて,邪氣 下らず〕」[37]。

   明清人の見方は『鍼灸医籍選』の教材に吸収された。例えば呉富東主編『鍼灸医籍選』は 「掛は差である。毫髮の間も差(たが)うべからず,適時に鍼刺の補瀉を行なうべきであることを指している」[24]。常小榮主編『鍼灸医籍選』[25]もこれに従っている。高希言主編の第3版の『鍼灸医籍選』は多少の違いがあるとはいえ,実質的には同じである。第2版の『鍼灸医籍選』では,「掛は,差錯〔間違い,過ち〕。毛ほどの差錯もあってはならない。適時に補瀉を行なうべきことを指す」[42]。第1版[43]と第3版[26] の『鍼灸医籍選』の注釈は同じで,「掛は差である。毫髮の間も差(たが)うべからず,適時に鍼刺の補瀉を行なうべきであることを指している」とある。呉富東の教材に比べて 「補瀉」〔「鍼刺」の誤りか〕の二字が減っている。

 王洪圖・郭靄春・孫國中などの学者も,前人の注解を基礎として,「不可掛以髮」を「不可差之毫髮〔之を毫髮も差(たが)う可からず〕」と解釈し,「叩之不發」を「弩機をかけ止めて発射しない」と解釈し,この句の「發」を「発射する」 [44]と解釈している。しかし,この「掛」を「差」と解する意見については,古今の学者はみな字書や文献による証拠を提出していないので,ひとを納得させるのは難しい。

 姚春鵬は,「不可掛以髮〔簡体字表記:不可挂以发〕」を「矢を弦に強く掛けすぎなければ,かなり容易に矢を発出することができる」[45]の意だとしているが,これは「发」の字の違いに気づかず両者を混同していて,実際上,誤解である。〔繁体字の「髮」と「發」は,簡体字ではともに「发」と書かれる。〕

 人民衛生出版社の明代趙府居敬堂影印本『靈樞』[46]は,二つの「发」字をそれぞれ「髮」と「發」に作る。

 ある学者は「髮」と「發」の違いを認識したうえで,「髮」は「發」の書き誤りであると考え,さらにつぎのように力説している。「もし〈不可掛以髮〉とは,間 髪をいれずという意味だとしたら,いささか牽強付会である」,〈以〉は接続詞であり,その意味は〈而〉と同じである。「掛」字は鏃をかける,矢を弦にかける動作であり,「掛而發」とは,弓を引いて矢を射る準備をし,満を持して発するという意味である[47]。

 本論は,この説には議論の余地があると考える。その原因は『靈樞』の原義を理解していないことである。ここの「掛」は頭髪を使って引き金すなわち懸刀を引っかけることを指しているにちがいない。その後の第一の「发(髪)」は頭髪である。「不可掛以髮」は「不可以髮掛之」,すなわち頭髪を用いて懸刀を引っかけることはできない,と読むべきである。これはなぜか。

 弩は強度がかなり強いので,しばしば「石」で表現された。漢代では1石の弩を引くためには,1石(約30kg)の重さの力が必要であり,常用されたのは4石の弩であり,40石(約1200 kg)の力が必要な弩さえあった,と孫機は指摘している[48]。

 想像すればわかるように,頭髪を使って弩の発射を制御しようとするのは非現実的である。そのため『靈樞』が強調しているのは,鍼刺補瀉の法則を知るのは,弩で矢を発射するのとおなじで,頭髪で懸刀を制御するべきではなく,そんなことをすれば容易に経気が失われる,ということである。

 第二の「发(發)」はまさに「発射」である。『呂氏春秋』察微に「夫弩機差以米則不發〔夫れ弩機 差するに米を以てすれば則ち發せず〕」[49]とある。

 『靈樞』小針解には「扣之」とあり,『素問』離合真邪論には具体的に「錐」となっている。この「錐」字について,ある学者は「楗」が正しく,形が近いための誤字であると考えている[50]。この説にはしたがうべきであるが,補うべきところがある。この字は「鍵」の誤字とすべきである。なぜなら弩は,鍵を用いて弩牙・鉤心・懸刀〔みな弩の部品名〕を内部に組み合わせたものであり,鍵は弁でもある[51]。経文は,経気運行の法則を知らなければ,鍵を扣(たた)いても,弩の発射をつかさどる機関ではないので,発射できない,そのため経気の運行もあやまつことになる。『素問』離合真邪論の「待邪之至時而發鍼寫矣,若先若後者,血氣已盡,其病不可下〔邪の至る時を待って鍼を發して寫す,若しくは先んじ若しくは後るる者は,血氣 已に盡き,其の病 下す可からず〕」は,まさしくこのような二つの情況を高度に要約したものである。一つは「先」である。すなわち「挂以髮」はもともと頭髪を用いて弩を制御することを指し,経気も血気が到来する前に補瀉すれば,先走って時機を失することになる。一つは「後」であり,「扣之不發」を指している。弩を扣いても鍵となる部位である「懸刀」ではないので,たとえとしては,補瀉の時期がすでに来ているのにとらえられず,時機を失することを指している。


2023年10月8日日曜日

張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁03

 3 「關」「機」の校詁


 『靈樞』九針十二原:「粗守關,上守機」。

 ここの「關」について,吳富東主編『針灸醫籍選』の注は,「關:四肢関節の腧穴を指す」,「機:弓弩の機で守気の機を比喩している」[24]という。常小榮主編『針灸醫籍選』[25]はこれに従う。高布言主編の第3版『針灸醫籍選』の「關」字の解釈は,上記の教材を継承している。たとえば,2018年版は「機」字を「経気が至る動静の時機」[26]としている。各版の教材の説明は異なるとはいえ,実際のところ古人によるものである。たとえば,明代の馬蒔は「粗工は則ち徒(いたず)らに四肢の關節を守れども,血氣正邪の往來を知らず。上工は則ち能く其の機を守る,即ち此の氣の往來を知るなり」[35]と解釈している。張介賓は,「〈粗は關を守る〉とは,四肢の關節を守るなり。〈上は機を守る〉とは,氣 至るの動靜を察するなり」[36]という。張志聰は,「〈粗は關を守る〉とは,四肢の關節を守る。〈上は機を守る〉とは,其の空を守って刺すの時に當たって,弩機を發するの速きが如きなり」[37]という。本論は,古代の注釈であれ,今日の教材の説明であれ,いずれも厳密さを欠くと考える。たとえば,「機」字の使用については,古い注釈も現代の説明もみな比喩の一種だと考えているが,「關」字が比喩的用法であるかどうかは指摘していない。黃龍祥はつぎのように指摘している。「『黃帝內經』の経文に描かれている〈機〉と〈關〉の構造的関係から,秦代の弩特有の特徴がはっきりと見いだされる。秦代の弩は非常に巧妙に設計されていた。すなわち「機」 の周りに「關」(また「闌」とも書く)という竹製の囲いが設けられていて,「機」を保護する役割があり,誤発射を防ぐことができた」といい,あわせて「秦兵馬俑1号坑から出土した秦弩復元模式図」を載せていて,図には「機」と「關(闌)」の位置が示されている[38]。本論は,黃氏がいう「機」「關」に対する解釈に同意するが,黃氏は「關」字の語義に関連する文献による根拠を挙げていない。また秦代の弩の絵が挙げられているので,秦弩にのみ「關」という部品があるのだと読者が誤認しやすい。

 「機」を比喩用法とするのは,さかのぼれば,最も早いのは楊上善からだろう。楊上善は『靈樞』小針解を基礎として,さらにその注に対する疏として,小針解篇の「粗守關者,守四支而不知血氣正邪之往來也〔〈粗は關を守る〉とは,四支を守って血氣正邪の往來を知らざるなり〕」に「五藏六府出於四支,粗守四支藏府之輸,不知營衛、正之與邪、往來虛實,故為粗也〔五藏六府は四肢に出づ,粗は四支藏府の輸を守り,營衛と,正の邪と,往來する虛實を知らず,故に粗と為すなり〕」という。「上守機」は『黃帝內經太素』では「工守機」と書かれていて,小針解篇の「工守機者,知守氣也〔〈工は機を守る〉とは,氣を守るを知るなり〕」について,「機,弩牙也,主射之者,守於機也。知司補瀉者,守神氣也〔機とは,弩牙なり,之を射るを主る者は,機を守るなり。補瀉を司る者は,神氣を守るを知るなり〕」[39]という。楊氏の「機」に関する解釈には議論の余地がある。かれは「弩牙〔弦を引っかける爪〕」を「神氣」の比喩として用いているが,「關」が比喩的用法であるかどうかは指摘していない。

 小針解篇の注釈から,この篇の作者は「關」を「四肢」を指していると考えたことがわかる。明清代のひとはさらに進めて,「四肢の関節」と特定した。この篇の作者は「機」は「氣」を指すと考えたが,楊上善はこれを「神氣」,明清のひとは「氣之往來」「氣至之動靜」と考えた。実際のところ,これらの説明はいずれも議論の余地がある。なぜなら「關」と「機」を対として併用する現象は,他の文献にも見られるからである。たとえば,『說苑』談叢に「口者關也,舌者機也。出言不當,四馬不能追也〔口は關なり,舌は機なり。出言 不當なれば,四馬も追うこと能わざるなり〕」 [41]とある。『說苑』と同じ表現は,出土文献にも見られる。たとえば成書がより早い睡虎地秦簡『為吏之道』の簡295・305・315に,「口,關也;舌,幾(機)也。一堵(曙)失言,四馬弗能追也〔口は,關なり。舌は,幾(機)なり。一堵(曙)失言すれば,四馬も追うこと能わざるなり〕」とある。整理小組は「關と機はともに弩の部品の名称である。機は引き金であり,その外側にあって機を保護する部分を關という」 [41]と注する。整理小組の意見は「關」と「機」の意味について確乎たる訓詁であると本論は考える。伝世文献である『說苑』と出土秦簡『為吏之道』は,いずれも「口」は「關」にたとえられ,「舌」は「機」にたとえられていて,不適切な発言をすれば,取り返しのつかない損失をもたらす可能性があることを指摘している。九針十二原篇の「粗守關」の「關」も弩の上にある「機を保護する部分」を指していて,四肢の腧穴をたとえていて,「上守機」の「機」は弩の引き金であって,弩牙〔弦を引っかける爪〕ではなく,神氣を指してたとえている。


張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁02

 2 「形」字の校詁

 『靈樞』九針十二原:「令各有形,先立針經」。

 この中の「形」字について,吳富東主編『鍼灸醫籍選』は,「形は,鍼具の形状を指す」[24]と注している。常小榮主編『鍼灸醫籍選』[25]はこれに従っている。高希言主編の第3版『鍼灸醫籍選』(ここでは2018年版を例とする)もこれに従っている。本論は,これらはみな誤読であると考える。各版の教材では,この箇所の意味を後文の「九針之名,各不同形」の「形」字の影響を受けて,両方の「形」字とも「鍼具の形状」を指していると考えたのかも知れない。実際は「令各有形」の「形」字は,「鍼具の形状」ではなく,この前にある「必明為之法」の「法」と「為之經紀」の「經紀」を指している。「法」と「經紀」が指しているのは,みな「以微針通其經脈,調其血氣,營其逆順出入之會〔微針を以て其の經脈を通じ,其の血氣を調え,其の逆順出入の會を營す〕」という鍼灸臨床実践を総括し,さらに進んで理論にまで高め,形,すなわち文章に形づくることであり,この文ではまず『針經』を編纂することを指している。〔訳注:「文章」,原文は「文字」。単に「もじ」という意味だけではなく,「文章・書籍」の意味でも用いられる。〕

 「形」には「形象」の意味があり,『周易』繫辭に「在天成象,在地成形,變化見矣〔天に在っては象を成し,地に在っては形を成して,變化見(あら)わる〕」[27]とある。『莊子』天地に「泰初有無,無有無名;一之所起,有一而未形。物得以生,謂之德;未形者有分,且然無間,謂之命;留動而生物,物成生理謂之形〔泰初に無有り,有無く名無し。一の起こる所にして,一有れども未だ形あらず。物得て以て生ず,之を德と謂う。未だ形あらざる者に分有り,且つ然も間無し,之を命と謂う。留動して物を生ず,物成って理を生ず,之を形と謂う〕」[28]とある。『靈樞』のこの箇所の「形」は「形象」の意味からさらに引伸して「文章」の意味となった。これは後面の「針經」の成立と一致する。「形」と「針經」とは,実際上,ひとつの論理上の関係がある。すなわち「形」には「針經」が含まれ,「針經」は「形」一部分である。

 これは実際には古代の重要な哲学の思弁問題,すなわち「形名」の弁[29]に関連している。『管子』心術上に「物固有形,形固有名,……故曰聖人〔物に固(もと)より形有り,形に固より名有り,……故に聖人と曰う〕」[30]とある。『淮南子』說山訓に「凡得道者,形不可得而見,名不可得而揚,今汝已有形名矣,何道之所能乎?〔凡そ道を得る者は,形 得て見る可からず,名 得て揚ぐ可からず,今ま汝已に形名 有り,何の道をか之れ能くする所あらんや?〕」[31]とある。先秦時代から漢代にいたる形名の弁の最大となる成果は『釋名』の編纂である。『釋名』の自序に「名號雅俗,各方名殊,……夫名之於實,各有義類,百姓日稱而不知其所以之意,故撰天地、陰陽、四時、邦國、都鄙、車服、喪紀,下及民庶應用之器,論敘指歸,謂之《釋名》,凡二十七篇〔名號の雅俗,各方に名 殊にす,……夫れ名の實に於いて,各々義類有り,百姓 日々に稱えて其の所以(ゆえん)の意を知らず,故に天地・陰陽・四時・邦國・都鄙・車服・喪紀を撰び,下は民庶應用の器に及び,論じて指歸を敘す,之を『釋名』と謂う,凡(すべ)て二十七篇〕」とある。「名」は最終的には「字」「語」の形式で表現される。すなわち鍼灸医学の実践は,文字で構成された理論的な作品として形づくられるのである。

 『靈樞』のここでの 「形」 の使用は,『荘子』の言意の弁と共通するものがあり,抽象的な思考をどのように表現するかという問題にも及んでいる。『莊子』外物に「筌者所以在魚,得魚而忘筌;蹄者所以在兔,得兔而忘蹄;言者所以在意,得意而忘言〔筌なる者は魚に在る所以,魚を得て筌を忘る。蹄なる者は兔に在る所以,兔を得て蹄を忘る。言なる者は意に在る所以,意を得て言を忘る〕」 [28]とある。言語は思考を表現する道具ではあるが,完全に表現することはできず,比喩や象徴や暗示などの方法の助けを借りて,人々の想像や連想を引き出し,人々の生活の中で経験したある種の認識や印象の回想から,多くのさらに豊富で複雑な思考内容を結びつけ,形づくることによって,「言外の意」 [33]を獲得すると荘子は考えている。唐代になって,「言」は「字」に変わり,「意を得て言を忘る」説は,洗練されて司空圖の『二十四詩品』含蓄の「不著一字,盡得風流〔一字も著わさずして,盡(ことごと)く風流を得〕」[34]となった。『靈樞』のここは,まさに『莊子』の「意を得て言を忘れる」過程とは反対に,『靈樞』は普段にまとめられた抽象的思考,すなわち臨床経験(「法」と「經紀」)が形象つまり文字に変えられ,「令各有形〔各々形有らしむ〕」,「針經」は「形」の一部分であるので,「先ず立てる」ことが必要だった。


張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁01

 1 「子」字の校詁


 『靈樞』九針十二原:「黃帝問於岐伯曰:余子萬民,養百姓,而收其租稅」。[1]

『靈樞』九針十二原は中医学の各版企画教材『鍼灸医籍選(読)』にも収録されているが,「子萬民」に対する注解は一つもなく,この語句は理解が容易で,議論も何もないようである。『黄帝內經集解』は「歴代医学家の『內經』論著に関する精華を広く引用」(張孝騫の語)した集大成の著作である[2]が,この本を読んでも古人の論述は見られなかった。古人は論述していないが,現代の学者は多く言及していて,見解はおおかた同じである。「子」は名詞を意動詞〔訳注:名詞・形容詞が賓語(目的語)を取って他動詞として用いられ,主観的な判断・評価をしめす〕として用いられていて,「萬民」は「子」の賓語であり[3],「子萬民」は「万民を以て子と為す」[4-5],「一般大衆を自分の子と同様にみなす」[6],「万民を子とみなす」[7-8]と考えており,各家の説はほぼ一致している。しかし,本論ではこのような「子」を意動詞と見なす説には議論の余地があり,また「子」を「愛」[9]と解釈するのも十分には厳密ではないと考える。

 「子萬民」は『戰國策』齊策の「趙威後問齊使」篇にも見られ,文章は高校の教材に採用され,一部の古文選読の専門書にも収録されている。これらの資料を通覧したところ,「子萬民」に対する解釈は,前述の意見と一致していた。しかしこれに対して異を唱える学者もいる。かれはその他の古籍に見える「子」の用法を整理し,「趙威後問齊使」にある「子萬民」中の「子」は,「慈」の通仮字であって,その意味は「愛する,かわいがる」であり,「子萬民」とはすなわち「愛萬民」であると考えている[10]。本論は,この説には従うべきだと考えるが,依然として議論の余地がある。

 「子」と「字」は通用する。伝世文献では『尚書』益稷に「予弗子〔予 子とせず/わたしは父として可愛がってやりもせず〕」,『列子』說符〔楊朱の誤りか〕に「子產弗字〔子 產れども字(いつくし)まず〕」が見える[11]。出土文献では,『張家山漢簡』二年律令・雜律に「吏六百石以上及宦皇帝,而敢字貸錢財者,免之」とある。張家山漢簡研読班は「字」を「子」と読んでいる[12]〔吏六百石以上及び宦皇帝,敢えて錢財を字貸する(利子をつけて貸す)者,之を免ず〕。「字」には「養」の意味もある。『玉篇』子部に「字,養也」[13]とある。『左傳』昭公十一年の「〔僖子〕宿於薳氏,生懿子及南宮敬叔於泉丘人。其僚無子,使字敬叔〔薳氏に宿り,懿子と南宮敬叔とを泉丘の人に生ませしむ。其の僚 子無かりければ,敬叔を字(やしな)わしむ〕」の杜預注に「字,養也」[14]とある。『漢語大字典』は,この文を引用して,「字」の語釈として「撫育,養育」[15]と注している。黄帝が万民を撫育する例はさらに多い。たとえば,司馬遷『史記』五帝本紀に「軒轅乃修德振兵,治五氣,蓺五種,撫萬民,度四方,教熊羆貔貅貙虎,以與炎帝戰於阪泉之野〔軒轅乃ち德を修め兵を振(ととの)え,五氣を治め,五種を蓺(う)え,萬民を撫で,四方を度(わた)り,熊羆貔貅貙虎を教え,以て炎帝と阪泉の野に戰う〕」 [16]とある。関連する文献としては,皇甫謐『帝王世紀』自皇古至五帝に「及神農氏衰,黃帝修德撫民〔神農氏の衰うるに及んで,黃帝 德を修め民を撫づ〕」(『藝文類聚』卷11と『群書治要』卷11の注の引用では,いずれも「撫」字となっているが,『太平御覽』卷79のみは,「化」に作る [17])。「子」と「撫」はいずれも黄帝の作法を形容していて,『史記』『內經』『帝王世紀』に歴史的な一致がある。

 「子萬民」は後文の「養百姓」 と互いに関連させて理解すべきであると本論は考える。すなわち互文の修辞法である。「撫」と「養」はまた意味も近い。たとえば,『華陽國志』漢中志に「撫其民以致賢人〔其の民を撫で以て賢人を致す〕」とあるが,任乃強は校注で「『漢書』は〈養〉に作る」と指摘している。「互文」とは,「前後の言語単位間で互いに省略されたり補完されたりして,その両者を綜合してはじめて完全な意味を表現できる言語現象」[19]〔精選版 日本国語大辞典:対をなしているような表現で,一方に説くことと他方に説くことが,互いに相通じ,補いあって文意を完成する表現法〕を指す。

 指摘しておく必要があることは,「萬民」とは一般庶民のことではなく,諸侯を指す。李今庸は『孝經』天子章と『禮記』內則の鄭玄注の「天子を兆民と曰い,諸侯を萬民と曰う」にもとづき,ここの「百姓」と「萬民」は対句の関係にある[20]と指摘しているが,まさにその通りである。『靈樞』九針十二原でいう「百姓」とは「百官」を指していて,一般人民大衆のことではない。丹波元簡〔『靈樞識』〕は,「『國語』周語注:〈百姓,百官有世功者〉。又『書』堯典・孔傳:〈百姓,百官〉。」[2]を引用し,「百姓」とはすなわち「百官」であることを指摘している。

 ここでは「百姓」と「萬民」が対となってあげられていて,「子」は「字」として読むべきであり,「字」には「養」の意味がある。本文は「互文」中の「語義が近似する互文」に属す。この二つの文は,「萬民と百姓を撫育する」ことを示している。この言語構造と表現方式は,伝世文献にも類似した記載がある。たとえば,『淮南子』俶眞訓の「今夫積惠重厚,累愛襲恩,以聲華嘔符嫗掩萬民百姓〔今夫(そ)れ惠を積み厚を重ね,愛を累ね恩を襲ねて,聲華(=聲譽榮耀)嘔符(=撫愛)を以て,萬民百姓を嫗掩す〕」に,陳廣中は「嫗掩は,撫育」[21]と訳注をつけている。この「嫗掩」は「子」「養」と意味は同じであり,この例も前文にある「子」字の校詁意見の証拠とすることができる。

 「互文」は『內經』においても常用される手法である。たとえば『素問』上古天真論の「提挈天地,把握陰陽」[22]に,李中梓は「提挈は,把握なり」[23]と注している。『素問』痺論の「五藏有俞,六府有合」 [23]に,高世栻は「但だ六府に俞有るのみならず,五藏にも也(また)俞有り。但だ五藏に合有るのみならず,六府にも也(また)合有り」[23]と指摘している。『內經』のその他の箇所にも互文の手法は多く使われているが,ここでは省略する。

 本論は,『靈樞』九針十二原:「子萬民」の「子」は動詞であるべきで,「撫育」の意味があり,後面の「養百姓」とともに,互文の修辞手法として用いられていると考える。


張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁00

    【要旨】 出土文献と伝世文献を結びつけることによって,『靈樞』九針十二原中の語句について校詁〔訓詁研究〕をおこなった。「余子万民」の中の「子」は,「字」の通仮字であり,「養」の意味であると解釈すべきであると考える。「令各有形,先立針経」の「形」は,「鍼灸実践を帰納した理論著作」を指す。「粗守關,上守機」の中の「關」の本義は「引き金を保護する部品」であり,「機」の本義は「引き金」であって,文中では比喩として用いられている。「掛以髮」中の「掛」は「かける」の意味であり,「髮」は「髪の毛」を指し,「掛以髮」は「髪の毛で引っ掛ける」ことを指している。


    【キーワード】 『靈樞』;簡牘;校詁


 九針十二原篇は,『黃帝內經靈樞』巻1の第一篇の文章であり,文中の語句の解釈については,『靈樞』巻1の「小針解」篇から現代にいたるまで,豊富な成果がある。しかしながら,依然として深く検討するに値するところが数多く残されている。本論はこの篇にある語句の解釈について意見を提出し,専門家の批判に供する。