2023年10月9日月曜日

張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁04

 4 「掛以髮」の校詁


 『靈樞』九針十二原:「知機之道者,不可掛以髮。不知機道,扣之不發」。

 この文にも歴代解釈がある。『靈樞』小針解は「不可掛以髮者,言氣易失也,叩之不發者,言不知補瀉之意也。血氣已盡而氣不下也〔〈不可掛以髮〉とは,氣は失い易きを言い,〈叩之不發〉とは,補瀉の意を知らざるを言うなり。血氣 已に盡きて氣 下らざればなり〕」と解釈している。『素問』離合真邪論は「不可挂以髮者,待邪之至時而發針寫矣,若先若後者,血氣已盡,其病不可下,故曰知其可取如發機,不知其取如扣椎,故曰知機道者不可挂以髮,不知機者扣之不發,此之謂也〔〈不可挂以髮〉とは,邪の至る時を待って針を發して寫す,若しくは先んじ若しくは後るる者は,血氣 已に盡き,其の病 下す可からず,故に曰わく,〈其の取る可きを知れば機を發するが如し,其の取るを知らざれば椎を扣(たた)くが如し〉と。故に曰わく,〈機の道を知る者は挂(か)くるに髮を以てす可からず,機を知らざる者は之を扣くも發せず〉とは,此れ之を謂うなり〕」と解釈している。『內經』の解釈に問題はないはずだが,明清医家の見方は大きく異なっている。たとえば馬蒔は,「知機之道者,唯此一氣而已,猶不可掛一髮以間之。故守此氣而勿失也。不知機之道者,雖叩之亦不能發,以其不知虛實,不能補寫,則血氣已盡,而氣故不下耳〔機の道を知る者は,唯だ此れ一氣のみ,猶お一髮以て之を間して掛くる可からず。故に此の氣を守って失うこと勿かれ。機の道を知らざる者は,之を叩くと雖も亦た發すること能わず,其の虛實を知らざるを以て,補寫すること能わず,則ち血氣 已に盡きて,氣 故に下らざるのみ〕」[35]と考えた。張景岳の見方もこれに似ている[36]。張志聰は,つぎのように言う。「靜守於來往之間而補寫之,稍差毫髮之間則失矣。粗工不知機道,叩之不發,補寫失時,則血氣盡傷,而邪氣不下〔靜かに來往の間を守って之を補寫し,稍(すこ)しも毫髮の間を差(たが)えば則ち失す。粗工は機道を知らず,之を叩いて發せず,補寫 時を失すれば,則ち血氣 盡く傷(やぶ)れて,邪氣 下らず〕」[37]。

   明清人の見方は『鍼灸医籍選』の教材に吸収された。例えば呉富東主編『鍼灸医籍選』は 「掛は差である。毫髮の間も差(たが)うべからず,適時に鍼刺の補瀉を行なうべきであることを指している」[24]。常小榮主編『鍼灸医籍選』[25]もこれに従っている。高希言主編の第3版の『鍼灸医籍選』は多少の違いがあるとはいえ,実質的には同じである。第2版の『鍼灸医籍選』では,「掛は,差錯〔間違い,過ち〕。毛ほどの差錯もあってはならない。適時に補瀉を行なうべきことを指す」[42]。第1版[43]と第3版[26] の『鍼灸医籍選』の注釈は同じで,「掛は差である。毫髮の間も差(たが)うべからず,適時に鍼刺の補瀉を行なうべきであることを指している」とある。呉富東の教材に比べて 「補瀉」〔「鍼刺」の誤りか〕の二字が減っている。

 王洪圖・郭靄春・孫國中などの学者も,前人の注解を基礎として,「不可掛以髮」を「不可差之毫髮〔之を毫髮も差(たが)う可からず〕」と解釈し,「叩之不發」を「弩機をかけ止めて発射しない」と解釈し,この句の「發」を「発射する」 [44]と解釈している。しかし,この「掛」を「差」と解する意見については,古今の学者はみな字書や文献による証拠を提出していないので,ひとを納得させるのは難しい。

 姚春鵬は,「不可掛以髮〔簡体字表記:不可挂以发〕」を「矢を弦に強く掛けすぎなければ,かなり容易に矢を発出することができる」[45]の意だとしているが,これは「发」の字の違いに気づかず両者を混同していて,実際上,誤解である。〔繁体字の「髮」と「發」は,簡体字ではともに「发」と書かれる。〕

 人民衛生出版社の明代趙府居敬堂影印本『靈樞』[46]は,二つの「发」字をそれぞれ「髮」と「發」に作る。

 ある学者は「髮」と「發」の違いを認識したうえで,「髮」は「發」の書き誤りであると考え,さらにつぎのように力説している。「もし〈不可掛以髮〉とは,間 髪をいれずという意味だとしたら,いささか牽強付会である」,〈以〉は接続詞であり,その意味は〈而〉と同じである。「掛」字は鏃をかける,矢を弦にかける動作であり,「掛而發」とは,弓を引いて矢を射る準備をし,満を持して発するという意味である[47]。

 本論は,この説には議論の余地があると考える。その原因は『靈樞』の原義を理解していないことである。ここの「掛」は頭髪を使って引き金すなわち懸刀を引っかけることを指しているにちがいない。その後の第一の「发(髪)」は頭髪である。「不可掛以髮」は「不可以髮掛之」,すなわち頭髪を用いて懸刀を引っかけることはできない,と読むべきである。これはなぜか。

 弩は強度がかなり強いので,しばしば「石」で表現された。漢代では1石の弩を引くためには,1石(約30kg)の重さの力が必要であり,常用されたのは4石の弩であり,40石(約1200 kg)の力が必要な弩さえあった,と孫機は指摘している[48]。

 想像すればわかるように,頭髪を使って弩の発射を制御しようとするのは非現実的である。そのため『靈樞』が強調しているのは,鍼刺補瀉の法則を知るのは,弩で矢を発射するのとおなじで,頭髪で懸刀を制御するべきではなく,そんなことをすれば容易に経気が失われる,ということである。

 第二の「发(發)」はまさに「発射」である。『呂氏春秋』察微に「夫弩機差以米則不發〔夫れ弩機 差するに米を以てすれば則ち發せず〕」[49]とある。

 『靈樞』小針解には「扣之」とあり,『素問』離合真邪論には具体的に「錐」となっている。この「錐」字について,ある学者は「楗」が正しく,形が近いための誤字であると考えている[50]。この説にはしたがうべきであるが,補うべきところがある。この字は「鍵」の誤字とすべきである。なぜなら弩は,鍵を用いて弩牙・鉤心・懸刀〔みな弩の部品名〕を内部に組み合わせたものであり,鍵は弁でもある[51]。経文は,経気運行の法則を知らなければ,鍵を扣(たた)いても,弩の発射をつかさどる機関ではないので,発射できない,そのため経気の運行もあやまつことになる。『素問』離合真邪論の「待邪之至時而發鍼寫矣,若先若後者,血氣已盡,其病不可下〔邪の至る時を待って鍼を發して寫す,若しくは先んじ若しくは後るる者は,血氣 已に盡き,其の病 下す可からず〕」は,まさしくこのような二つの情況を高度に要約したものである。一つは「先」である。すなわち「挂以髮」はもともと頭髪を用いて弩を制御することを指し,経気も血気が到来する前に補瀉すれば,先走って時機を失することになる。一つは「後」であり,「扣之不發」を指している。弩を扣いても鍵となる部位である「懸刀」ではないので,たとえとしては,補瀉の時期がすでに来ているのにとらえられず,時機を失することを指している。


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