2016年12月31日土曜日

卓廉士先生の『黄帝内経』術数講義:経脈の長さと営気の流注について その6 終わり

  5 討論
 『漢書』芸文志に次のような記載がある。「哀帝(BC6―BC2)復使向子(劉向の子)侍中奉車都尉歆(劉歆)卒父業。歆於是總羣書而奏其『七略』、故有『輯略』、有『六藝略』、有『諸子略』、有『詩賦略』、有『兵書略』、有『術數略』、有『方技略』〔哀帝、復た向の子、侍中奉車都尉歆をして父の業を卒(お)えしむ。歆、是(ここ)に於いて群書を總べて而して其の『七略』を奏す。故に『輯略』有り。『六藝略』有り。『諸子略』有り。『詩賦略』有り。『兵書略』有り。『術數略』有り。『方技略』有り〕」。劉向と劉歆が輯録した『七略』は数術・方技学の最も古い目録であると考えられるが、早くに亡佚している。『漢書』芸文志に記載される「凡數術百九十家、二千五百二十八卷」という数字によれば、その巻数は非常に浩瀚であり、「『黄帝内経』十八卷」に比べれば、かつて一世を風靡した顕学〔著名な学問〕であったことは疑いない。数術の原理は秦漢各家の学説で共用されており、中国古代自然科学・社会科学・哲学の各方面に浸透していて、当然、医学もその例外ではなかった。『素問』針解は「夫一天、二地、三人、四時、五音、六律、七星、八風、九野、身形亦應之、鍼各有所宜、故曰九鍼。人皮應天、人肉應地、人脉應人、人筋應時、人聲應音、人陰陽合氣應律、人齒・面・目應星、人出入氣應風、人九竅・三百六十五絡應野。故一鍼皮、二鍼肉、三鍼脉、四鍼筋、五鍼骨、六鍼調陰陽、七鍼益精、八鍼除風、九鍼通九竅、除三百六十五節氣、此之謂各有所主也。人心意應八風、人氣應天、人髮・齒・耳・目・五聲應五音・六律、人陰陽脉・血氣應地、人肝・目應之九」という。数術と中医理論は密接に結びついており、分けることはできない。『霊枢』根結に「一日一夜五十營、以營五藏之精、不應數者、名曰狂生」とある。古代人の観念では、数術を放棄して臓腑経脈と営衛の流注を論ずることなど、想像もできなかったのである。

 しかしながら、漢代では、ひとびとは数術は「破碎して知り難し」(『漢書』芸文志)とすでに慨嘆していた。年代的にかなり古く、系統だった資料が欠乏しているため、『内経』に見られる数術の記述について完全な解釈を得ることは難しい。たとえば、前述の肝・心・脾・肺・腎の五臓は、五季・五方・五体・五音・五穀などと聯繋して、いずれも五数で応じているが、それぞれ、「八」「七」「五」「九」「六」という天地生成の数に属しており、その間の縦と横との関係はどうなっているのであろうか。また『霊枢』五音五味は「夫人之常數、太陽常多血少氣、少陽常多氣少血、陽明常多血多氣、厥陰常多氣少血、少陰常多氣少血、太陰常多血少氣、此天之常數也」という。これらの「常数」とはつまるところいくつなのか。すべてはさらなる研究が待たれる。

 とはいえ、経脈の長さと営気の流注は、ひと組の願いとして、天道が感応聯繋を生じる数術演繹であることには、疑いない。しかしながら、数術は数学ではないので、結論として証明するのは容易ではない。それは、九天の高さと九地の深さを測ることができないのと同じである。この考え方は、経脈の研究に非常に有益である。なぜなら、少なくともわれわれは、呼吸の回数、脈拍数、心拍数、心脈符号度〔*未詳〕、血流速度などの現代医学の指標から、経脈の長さと営気の流注を研究する糸口を見いだすのは困難であることを知っているから。現代科学の方法を採用し、営気の流注を「新たに評価し、あわせて慎重に検証する」ことを主張する学者[3]もいるが、着手するには困難がつきまとうと思われる。もし、数術には証明するすべがないことを理解するなら、おそらく現代実証科学の手段をもちいる、営衛流注研究の実行可能性について、反省するところがあるであろう。


[1]列維・布留尓『原始思維』、丁由訳。北京:商務印書館、2004。
[2]卓廉士「感応・治神与針刺守神」、『中国針灸』、2007、27(5):383-386。
[3]王鴻謨「営気流注分析評价」、『中国針灸』、2005、25(1):49-52。

訳注:
1:レヴィ・ブリュル著、山田吉彦訳『未開社会の思惟』(岩波文庫)の該当箇所の翻訳は、上巻263頁が相当すると思われる。以下、転載する。「各〃の數はこのようにその數に特有な個別的相貌、それに獨特な神秘的雰圍氣、勢力作用圏を持っている。」「原始人は數を、數として表象するときは毎回必ず、それと一緒に等しく神秘的な融卽によって、その數、しかもその數だけに屬する神秘的な作用力、價値を表象するのだ。數とその名稱は差別なく融卽の仲介物である。」
2:山田吉彦訳、上巻264頁「かく神秘的雰圍氣に包まれた數が、殆ど、十を越えることが大してないことは、注目すべきである。」
3:「日行二十分有奇」。著者は『鍼灸甲乙経』巻一第九によって校勘した河北医学院『靈樞經校釋』によっていると思われる。「奇」は端数、あまり。
4:『類経』巻8-26。「不盡」は数学用語「不尽小数」(無限に連続する小数)の略。無限小数。

みなさま,よいお年をお迎えください。

2016年12月30日金曜日

卓廉士先生の『黄帝内経』術数講義:経脈の長さと営気の流注について その5

  4 数術と営気の流注
 『内経』は営気の流注理論に関して、同じように「人生於地、懸命於天〔人は地に生まれ、命を天に懸く〕」(『素問』宝命全形論)という観点から、解釈と説明をする。『霊枢』五十営は「天周二十八宿、宿三十六分、人氣行一周、千八分。日行二十八宿、人經脉上下・左右・前後二十八脉、周身十六丈二尺、以應二十八宿。漏水下百刻、以分晝夜、故人一呼、脉再動、氣行三寸、一吸、脉亦再動、氣行三寸、呼吸定息、氣行六寸。十息、氣行六尺、日行二分。二百七十息、氣行十六丈二尺、氣行交通于中、一周于身、下水二刻、日行二十分有奇〔*3〕、五百四十息、氣行再周于身、下水四刻、日行四十分。二千七百息、氣行十周于身、下水二十刻、日行五宿二十分。一萬三千五百息、氣行五十營于身、水下百刻、日行二十八宿、漏水皆盡、脉終矣。所謂交通者、并行一數也、故五十營備、得盡天地之壽矣、凡行八百一十丈也」という。

 経脈の全長は十六丈二尺であり、上において二十八宿に応じるのは、『霊枢』脈度と同じである。天のめぐりは毎宿(星座)三十六分、六六の数をめぐる。人は九九の数をめぐってはじめて天体の運行と一致を保てる。九は三を源とする。三は生生の常数である。「人一呼、脉再動、氣行三寸、一吸、脉亦再動」、気のめぐりは三から始まり、その後は三の倍数として増加して、からだを五十回営(めぐ)り、三五の数に合う。気のめぐりは一周で二百七十息で、三九の数に合う。気は五十周して、「凡行八百一十丈」(16.2×50=810)、まさに九九の数に合う。八十一は、数術の極数であるので、「天地の寿を尽くすことを得る」。

 営気の流注には二つの部分がふくまれる。1.気のめぐりの長さと呼吸が数術に符合する。あわせて一万三千五百息で、気は八百一十丈めぐる。2.日(太陽)の分度と呼吸も数術に符合するはずである。あわせて一万三千五百息で、日は一〇〇八分めぐる。この二つの部分は相互に配合する。「いわゆる交通とは、并せて一つの数を行る」のであり、いずれもめぐるのは「九九制会」であり、つまり三三・六六・九九の数である。ここで一つ注意すべきことがある。数字の上では、第一の部分の計算にはあやまりがない。「呼吸定息、氣行六寸」の累計から来ている(810÷13500=0.06)。第二の部分は「日行二分」という見解とは大いにくい違う(1008÷13500=0.0746666)。張景岳はこの誤りを指摘して、次のように注した。「其日行之數、當以毎日千八分之數為實、以一萬三千五百息為法除之、則毎十息日行止七釐四毫六絲六忽不盡。此云日行二分者、傳久之誤也〔其の日行の數は、當に毎日千八分の數を以て實と為すべし。一萬三千五百息を以て法と為し之を除せば,則ち十息毎に日行ること止(た)だ七釐四毫六絲六忽不盡のみ。此に云う日に行ること二分なる者は,傳久しきの誤りなり〕」〔*4〕という。馬蒔も次のようにいう。「按正文云:『二分』、今細推之、其所謂二分者誤也。假如日二分、則百息當行二十分、千息當行二百分、萬息當行二千分、加三千五百息、又當行七百分、原數止得一千八分、今反多得一千六百九十二分。想此經向無明注、遂致誤傳未正〔按ずるに正文に『二分』と云う。今ま細かに之を推せば、其の謂う所の二分なる者は誤りなり。假如(もし)日に二分なれば、則ち百息に當に二十分行るべし。千息に當に二百分行るべし。萬息に當に二千分行るべし。三千五百息を加えれば、又た當に七百分を行るべし。原(もと)の數は止(た)だ一千八分を得るのみ。今ま反って多く一千六百九十二分を得。想うに此の經、向(さき)に明注無し。遂に誤傳を致して未だ正されず〕」。古代の医家は多く「日行二分」について、記述に誤りがあると考えた。筆者もこれに同意する。その理由は、「二」が「九九制会」の数術カテゴリーに属さないためである。

2016年12月29日木曜日

卓廉士先生の『黄帝内経』術数講義:経脈の長さと営気の流注について その4

  3 「三五之道」「九九制会」と経脈の長さ
 三と五は数術の基本数であり、古代人の尊崇を受けて、「三五の道」と称された。『史記』天官書には「爲天數者、必通三五〔天數を爲(おさ)むる者は、必ず三五に通ずべし〕」といわれ、「三五」は宇宙時空の至数を内包していて、きわめて神秘的なものと考えられた。『漢書』律暦志は「數者……始於一而三之……而五數備矣〔*焉〕……始〔*故〕三五相包……太極運三辰五星於上、而元氣轉三統五行於下〔數なる者は……一に始まりて而して之を三にす(三を乗じ)……而して五數備わる(五行の数が備わる)……故に三五相包み(三統と五行を相い包摂し)……太極は三辰五星を上に運び、而して元氣は三統五行を下に轉ず(太極は三辰・五星を上にめぐらし、元気は三統五行を下に転ずる)〕」という。「三五の道」とは、天人が「上」「下」に交通する道である。よって数術の演繹はつねに三五の形式による。古代人は、「以三應五(三を以て五に應じ)」(『淮南子』天文訓)、三五十五、四五二十、五五二十五、六五三十、七五三十五、八五四十、九五四十五の数を得る。これらの結果を固定してある種の常数として、天人聯繋の紐帯とみなす。

 三の二倍は六であり、三倍は九である。六と九はみな「十の数の範囲」の内にあり、またひとつは陽数であり、ひとつは陰数である。よってそれ自身の倍数である六六と九九も古代人の特別な重視を受けた。その推移変化は、天人関係の交通形式とみなされた。『素問』六節蔵象論は「天以六六之節、以成一歳;人以九九制會……夫六六之節、九九制會者、所以正天之度、氣之數也。天度者、所以制日月之行也;氣數者、所以紀化生之用也、……故其生五、其氣三。三而成天、三而成地、三而成人、三而三之、合則爲九、九分爲九野、九野爲九藏、故形藏四、神藏五、合爲九藏以應之也〔天は六六の節を以てし、以て一歳と成す。人は九九を以て制會し……夫れ六六の節、九九の制會なる者は、天の度、氣の數を正す所以なり。天度なる者は、日月の行を制する所以なり。氣の數なる者は、化生の用を紀する所以なり。……故に其の生は五、其の氣は三。三にして天を成し、三にして地を成し、三にして人を成し、三にして之を三にし、合して則ち九と爲る。九分かれて九野と爲り、九野は九藏と爲る。故に形藏四、神藏五、合して九藏と爲りて以て之に應ずるなり〕」という。ここの天の数が「六六」であり、人の数が「九九」であることに注意すれば、「三」は六六と九九の間、つまり天人の間を交流する。「三而三之」〔三の三倍〕という演繹を通して、人の九九をもって上は天の六六に応じ、天人間の数術が打ち建てられる。

 「三五之道」と「九九制会」を理解した後、『霊枢』脈度に記載された経脈の長さを見てみる。「手之六陽、從手至頭、長五尺、五六三丈;手之六陰、從手至胸中、三尺五寸、三六一丈八尺、五六三尺、合二丈一尺;足之六陽、從足上至頭、八尺、六八四丈八尺、足之六陰、從足至胸中、六尺五寸、六六三丈六尺、五六三尺、合三丈九尺。蹻脉、從足至目、七尺五寸、二七一丈四尺、二五一尺、合一丈五尺。督脉・任脉各四尺五寸、二四八尺、二五一尺、合九尺。凡都合一十六丈二尺、此氣之大經隧也。」論述の便のため、表とする〔*表1二十八脈長度表は、とりあえず省略。河北医学院『靈樞經校釋』人民衛生出版社・上冊351頁を参照されたし〕。

 『淮南子』天文訓は「古人〔*『新釈漢文大系』所収作「之」〕爲度量輕重、生乎天道〔古(いにしえ)の度量輕重を爲(つく)るは、天道より生ず〕」という。古代人は度量衡を制定して運用する際、まずそれが天道に符合するか否かを第一に考えた。それによって得られた結果は、往々にして天人の道に対する説明と証明であり、換言すれば、度量衡の「数」を用いてひとつの感応系統を打ち建て、天道との一致を保つ。このような理論は経脈の長さを説明する際に、はっきりと表されている。

 『霊枢』脈度はひとの身長を八尺とさだめるが、これは上古にならうものである。「周制以八寸爲尺、十尺爲丈、人長八尺、故曰丈夫〔周制は八寸を以て尺と爲し、十尺もて丈と爲す。人の長さは八尺、故に丈夫と曰う〕」(『説文』)。これによれば、「足の六陽、足上從り頭に至る、八尺」とは、足六陽の長さが実際上、身長であるということである。ここで注目すべき点がふたつある。1.八尺は数術として扱えば、八の数であるが、経脈は十進法を用いる。2.男女差、年齢差により身長差は大きいが、天人感応の数術では、異なるところはない。

 各経脈の長さをみると、足陽経が古代の八尺を取っている以外、その他はみな三五の倍数である。手三陽経はそれぞれ長さ三尺五寸、足三陰経はそれぞれ六尺五寸、蹻脉の長さは七尺五寸、任督二脈はそれぞれ四尺五寸である。これ以外に注意すべきは、手足陰陽経脈の差も三五およびその倍数であることである。足陽経と足陰経の差は、一尺五寸(8-6.5=1.5)であり、手陽経と手陰経の差も一尺五寸(5-3.5=1.5)であり、手足陽経の差は三尺(8-5=3)であり、手足陰経の差も三尺(6.5-3.5=3)である。数術は単位と小数は使わないので、上述の一尺五寸・三尺五寸・四尺五寸・五尺・七尺五寸は、それぞれ十五・三十五・四十五・五十・七十五と見るべきで、いずれも「三五之道」の数術に属す。
 経脈の総数は二十八本であり、上では二十八宿に応じる。二十八の数と合わせるために、『霊枢』脈度では衝脈・帯脈・維脈を捨てて論じない。『霊枢』五十営は「天周二十八宿、宿三十六分」という。これから分かるように、経脈の総数の実際は、六六の天数を隠し持っている。「天以六六之節、人以九九制會」とは、天数と相応ずるためであり、経脈は長さにおいては、九九の数を採用している。『霊枢』脈度によれば、経脈は左右に各一、あわせて長さ十六丈二尺(81×2=162)であり、人体の片側の経脈は八丈一尺で、九九の数である。任・督の二脈はあわせて九尺(4.5+4.5)であり、また「九九制会」の数に含まれる。「制会」には、制約・規範の意味があり、天人の交流を実現するために、臓腑の気化や経脈の長さなどの生理指標はかならず九九の数の制約と規範を受けているということである。

 数術を用いて、経脈の長さを整理してみると、興味深い現象に行き当たる。つまり、上肢が下肢より長いのである。手足の経脈の長さは人体の上肢と下肢の比例が倒置してあらわれる。手陰経は手から胸にいたり、長さ三尺五寸であり、上肢の長さを表している。しかし手陽経は手から頭にいたり、長さ五尺であり、上肢と頭部の長さを表している。そうすると、頭の長さは手陽経と手陰経の差となり、一尺五寸(5-3.5=1.5)である。任脈は会陰から咽喉にいたり、長さ四尺五寸であり、胸腹部の長さを表している。人体全長から頭部と胸腹部の長さを引けば、下肢の長さとなり、三尺である(8-1.5-4.5=3)。これは、あきらかに上肢の三尺五寸より短い(3.5-3=0.5)。明清の鍼灸書籍に描かれている経絡図譜は往々にして上肢が下肢より長く、形態も素朴で古拙であり、古法鍼灸の心を得て伝えているにちがいない。(図1・手少陽三焦図。清代劉清臣『医学集成』より)〔*省略〕

2016年12月28日水曜日

卓廉士先生の『黄帝内経』術数講義:経脈の長さと営気の流注について その3

  2 「数」により構成される感応系統
 レヴィ=ブリュールによれば、数術は「互いに浸透する媒介」である。中国古代のことばに換えれば、感応の媒介であり、森羅万象の間は、数あるいは「至数」を媒介として、感応の聯繋を発生する。董仲舒は「氣同則會;聲比則應。其驗曒然也。試調琴瑟而錯之。鼓其宮則他宮應之、鼓其商而他商應之、五音比而自鳴、非有神、其數然也。〔氣同じければ則ち會す。聲比すれば則ち應ず。其の驗、曒然なり。試みに琴瑟を調して之を錯せん。其の宮を鼓すれば則ち他宮し、之に應じ、其の商を鼓すれば而(すなわ)ち他商し、之に應じ、五音比して自ら鳴り、神有るに非ざず、其の數、然ればなり。(気が同じであれば会合する。音声が同じであれば相応ずる。そのしるしは明らかである。こころみに琴瑟を調節して演奏してみよう。宮音を奏でれば、その他の宮音もこれに呼応し、商音を奏でれば、その他の商音もこれに呼応し、五音は同じく自ら音を出す。これは神明があるのではない、その定数がそうなっているのである)〕」(『春秋繁露』同類相動)。感応の発生は、気類相召、同気相求〔人と物は互いに呼応し、同じ気のものは互いに求め合う〕による。いわゆる同気とは、事物の内部に同じ「数術」の規定性を有していることであり、もし事物を構成している「気」「数」が同じであれば、事物の間に、音声の間の振動周波数が同じか近い場合と同様に、共振あるいは共鳴がおこる[2]。

 『素問』金匱真言論には「東方青色、入通於肝、開竅於目、藏精於肝、其病發驚駭;其味酸、其類草木、其畜雞、其穀麥、其應四時、上爲歳星、是以春氣在頭也、其音角、其數八、是以知病之在筋也、其臭臊。南方赤色、入通於心……其類火……其應四時……其數七、……中央黄色、入通於脾……其類土……其應四時……其數五……西方白色、入通於肺……其類金……其應四時……其數九……北方黒色、入通於腎……其類水……其應四時……其數六……」とある。ここでの「八」「七」「五」「九」「六」は、河図洛書にある「天地生成数」であり、たとえば木の「数」は八であり、これは東方・青色・春季・酸味・五畜の鶏・五音の角・五臓の肝・五官の目・五体の筋などの事物が内包された「気」がいずれも八という数であることを意味している。ある朝、春気が来たれば、東風があたたかく吹き、木星がきらめき、草木は萌えいで、その病は驚駭を発する。「気」「数」が同じ系統は感応して相応した変化を発生する。

 数術は、天地間の「常数」あるいは「至数」であり、それと宇宙本体の間には不可知の天然の聯繋が存在している。およそ数術に合することは、天地陰陽の運動が保たれていることと一致し、道と合し、このため森羅万象がいかに千差万別であろうとも、数術を考察すれば、同じ気類の事物では、その数の多少によって、分類し説明することができる。『素問』陰陽離合論は「天爲陽、地爲陰、日爲陽、月爲陰、大小月三百六十日成一歳、人亦應之」という。「應之」とは、感応のことであり、天人間には、数術を同じくする事物として、相互浸透・相互資生・相互助長の傾向が存在し、このため数をもちいて天人陰陽の関係を説明し、天体運行と人体経脈気血運行の密接な関係、利害の一致を見ることができるのみならず、「陰陽之變、其在人者、亦數之可數〔陰陽の變、其れ人に在れば、亦た之を數えて數うべし〕」(『素問』陰陽離合論)である。数の多少によって、臓腑・陰陽・経脈・気血の間の複雑な関係を整理することができる。

2016年12月27日火曜日

卓廉士先生の『黄帝内経』術数講義:経脈の長さと営気の流注について その2

  1 古代数術
 古代人類の思惟にあっては、数字は現実に対する抽象といった簡単なものでは決してない。フランスの著名な人類学者である、レヴィ=ブリュール(1857-1939)は、「それぞれの数はみなそれ自身の個別の様相・ある種の神秘的な雰囲気・ある種の『力の場』に属しており」「つねに数として数えようとするとき、それは必然的にその数とこれの数に属し、かつまた同様の神秘的互いの浸透によって、まさにこの数字に属するなんとも神秘的な物の意味が同時に想像される。数とその名称はともにこれらの互いに浸透する媒介である。」[1]201と考えている〔*1〕。中国古代思想にもやはり類似した特徴がある。たとえば『易経』説卦は「參天兩地而倚數〔天を參にし地を兩にして數に倚(よ)す(天の数を三とし、地の数を二とし、それをよりどころとして易のすべての数が始まり定まる)〕」といい、天地宇宙に対する認識をひとつの数術に符合する大系内におさめている。レヴィ=ブリュールは、「このような神秘的雰囲気に包まれた数は、多くは十の範囲を超えない」[1]202としている〔*2〕。同様に、中医も「天地之至數、始於一、終於九焉〔天地の至數は、一に始まり、九に終わる〕」(『素問』三部九候論)としている。数術の原理は天人の原理を含み、一から九にいたる数字の上に成り立っている。

 われわれは、一・二・三・六・九という数字を先にみる。『説文解字』巻一上に「一、惟初太始、道立於一、造分天地、化成萬物〔一、惟(こ)れ初め太始、道 一に於いて立ち、天地を造分し、萬物を化成す〕」とある。古代人は、「一」を宇宙の本源とみなし、「道」の体現であるとした。そのため、「一」は「大一」「太一」(あるいは「泰一」)と認識され、祭られ、崇拝された。たとえば中医では、刺鍼時に神を守って、「治之極於一〔治の極は一に於いてす〕」(『素問』移精変気論)ることを強調している。医者と患者の神気が合一することが最も道に合ったことであり、最もよく治療効果を発揮できる[2]。
 『老子』第四十二章は「道生一、一生二、二生三、三生萬物〔道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生ず〕」という。道の一は分かれて二となり、陰陽に判別されるので、「二」は陰陽双方を代表する。「陰陽合和而萬物生〔陰陽が和合して万物が生じ〕」(『淮南子』天文訓)、雌雄が合して新たな生命を生み出すことができる。いわゆる「三は萬物を生ず」は、ここにおいて、三を三倍にして、生生として已まず、千変万化して繁栄する。よって古代人は、「物は三を以て生じ」、「三」は万物化生の基であり、非常に重要な数字であると考えた。三の倍数である六・九・十二・二十四などはいずれも三の延長と発展とみなされた。このほか、六と九は、三から生成されるのみならず、六は陰数であり、九は陽数であり、六と九の倍数である六六三十六と九九八十一は、みな特殊な意味を賦与された。

 つぎに四と五をみる。四は四季の数であり、五行と配するために特に一季を増やして、あわせて五季とする。春・夏・長夏・秋・冬は、生・長・化・収・蔵の数に符合する。五は五行の常数であり、『易経』繫辭上は「天數五、地數五、五位相得而各有合。天數二十有五、地數三十、凡天地之數、五十有五、此所以成變化而行鬼神也〔天の數は五、地の數は五、五位相得て各おの合有り。天の數二十有五、地の數三十、凡そ天地の數、五十有五、此れ變化を成して鬼神を行う所以なり〕」という。よって、五も重要な基本数のひとつであり、五の倍数である十・十五・二十・二十五・三十・三十五……と、三百六十五にいたるまで、「天地の数」とみなされる。まさにいわゆる「天地之間、六合之内、不離于五、人亦應之〔天地の間、六合の内、五を離れず、人も亦た之に應ず〕」(『霊枢』陰陽二十五人)である。

 最後に七・八をみる。女子の数は七、男子の数は八。これは古代人が男女の生理の自然な過程を観察した結果、発見したものである(『素問』上古天真論に見える)。男女の道には「七損八益」という型がある。七と八で体現された自然過程は、またある種の周期律もあらわしている。たとえば『傷寒論』辨太陽病脈証幷治に「七日以上自愈」、『霊枢』熱病に「熱病七日八日」といった言い回しがあり、常にある段階の日時を指すが、医学においては演繹的なものは少ない。

 以上のまとめを通して、三と五は、数術の重要な基本数であり、『黄帝内経』においては、出現頻度がきわめて高いことがわかった。たとえば、三は、三候・三部・三陰・三陽、その倍数では六気・六腑・病の六変・陰陽六経・情志の九気・形神の九蔵・頭部の九竅・鍼の九鍼・十二経脈・十二節・十二時・十二月である。五は、五臓・五官・五色・五音・五体・五志・五乱、その倍数では「二十五陽」(『素問』陰陽別論)、「二十五変」(『素問』玉機真蔵論)、「二十五穴」(『素問』気穴論)、「二十五腧」(『霊枢』本輸)、「陰陽二十五人」(『霊枢』陰陽二十五人)、「衞氣行于陰二十五度、行于陽二十五度」「營周不休、五十而復大會」(『霊枢』営衛生会)、三百六十五節(『素問』六節蔵象論)、「三百六十五絡」(『素問』針解)などである。このほか、『内経』では河図洛書にある天地の生成の数ももちいられている。

2016年12月26日月曜日

卓廉士先生の『黄帝内経』術数講義:経脈の長さと営気の流注について その1

  古代数術から見た経脈の長さと営気の流注
    卓廉士*1(重慶医科大学中医薬学院、重慶)
      『中国針灸』2008年8月第28巻第8期
                       〔 〕内は訳注。
               *1卓廉士(1952-)、男、教授。研究方向:鍼灸治病の理論。
         
[摘要]秦漢文献中にある数術理論について整理し、国外の学者の古代人類の思考方法についての論述を参考にして、あわせて中医典籍にある経脈の長さと営気の流注に関する記載を対照させ、数術とこれらの記載の間の関係を探究した。その結果、経脈の長さと営気の流注は、数術の原理と完全に符合することがわかった。つまり、経脈の長短寸尺と営気の流注度数は、いずれも数術から演繹されてできたものであり、その目的は天人間の密接にして不可分な感応聯繋を建立することであった。数術を証明するすべがない以上、営気の流注に関する研究についても、現代の実証科学の方法を採用するのはふさわしくない。
[キーワード]十二経脈;営気;子午流注;数学;経脈の長さ

 数術は、術数ともいう。数とは、一、二、三、四、五、六、七、八、九などの数字である。中国古代人の認識では、数の中に術があり、数字の背後は玄妙幽微であり、事物の法則と宇宙そのものの秘密がかくされている。『易経』繫辞上には「參伍以變、錯綜其數、通其變、遂成天下之文、極其數、遂定天下之象〔參伍して以て變じ、其の數を錯綜す。其の變を通じ、遂に天下の文を成す。其の數を極めて、遂に天下の象を定む。(易の変化は、陽爻と陰爻とをさまざまに組み合わせることによって変化する。筮竹の数を入り交じらせたり、それを一箇所にまとめたりする。その変化を推し進めると、天地の文=八卦を形成する。その数をさらに推し進めると、六十四卦ができる。)〕」とある。数字の大小奇偶を通して、さらにその異なる排列組み合わせによって、事物や現象の生成・変化およびそれに内在する原因と法則性を明らかにする。よって数術は、中国古代の哲学のカテゴリーに属すということができる。著名なイタリアの伝道師であるマルティン・マルティニウス(Martin Martinius、中国名は衛匡国、1614-1661)は、その漢学の名著である『中国上古史』の中で、「易学」原理は古代ギリシャのピタゴラス学派と同じであると考え、両者とも「数」を宇宙の本体であるとみなしているが、これはきわめて透徹した見解である。『素問』三部九候論に「天地之至數、合於人形血氣〔天地の至數は、人形の血氣に合す〕」とある。数術は、中医において人体の臓腑・経脈・気血の性状を明らかにし、生命の有機的聯繋を解釈する重要な一環である。しかしながら、この部分の内容はかえってこれまでずっと無視され、曲解されてきており、経脈研究の一大欠陥であるといわざるをえない。筆者の考えでは、中医理論における数術原理を研究し、明らかにすることは、経脈現象の研究に大いに裨益するので、学識不足をかえりみず、以下に述べる次第である。

2016年12月21日水曜日

季刊内経205号61頁~

61頁下段:胞脉閉也(ほうみゃくとづなり)
・「なり」は活用語の連体形につく。「閉づ」は上二段活用で、連体形は「とづる」→「とづるなり」。
・「胞」を歴史的仮名遣いであらわせば「ハウ」。
63頁上段:雷公侍坐(ざしてじす)
66頁上段:「ざしてじす」のままでよい。
・63頁で、「ジしてザす」ではなかろうかとおもったが,二度くりかえしているので、著者は「侍」を「ザ」と、「坐」を「ジ」と発音するとおぼえているのであろう。
63頁下段:項如抜、脊痛、腰似折(うなじぬくるがごとく、こしをるるにに」
・背骨の痛みは、どこへ行った?
63頁上段:其民不衣(そのたみきず)
・日本語として、「なにを」をぬかして、「着る」「着ない」と訓むのは、「衣」の意味を十分表出していないようにおもえる。
63頁下段:臑似折(だうをるるににる)(『霊枢』經脉第十)
・経穴「LI14(臂臑)」を「ヒジュ」と、鍼灸業界では言っている以上、「臑」を「ジュ」と読まないわけを付け加えてほしかった。
・書名と篇名ですが、『霊枢』経脈か、『靈樞』經脉か、文字遣いを常用漢字か、旧字体を使用するか、どちらか一方に統一した方がいいのではないでしょうか。
63頁下段:其血滑(そのちなめりて)
・著者は、おそらく(知っているかどうかは別にして)文部省が明治45年に出した『漢文に関する文部省調査報告』を基準として、「来る」や「死ぬ」は使わないといっているのだと思うが、「滑」を「なめる」と、『漢辞海』はもちろん、『大漢和辭典』も載せていない訓を使用しているのは、一方で従来の訓にとらわれる必要もないと主張しているようにも読める。
63頁下段:出づ=いづ(×でづ)
・著者は過去に「出」の終止形を「でづ」と認識していたのでしょう。普通のひとは、たぶん「でづ」と聞いたら、「出ない」という意味だと理解すると思いますが。わたくしなら「(×でる)」とするところです。
64頁上段:其民食魚而嗜鹹(……かむをたしなみ)
・ガムをかむのを不作法だから、つつしみなさい、ということか、それとも嚙むことを愛好しているということか、とまじめに思った。そうか、「鹹」の歴史的仮名遣いは「カム」なのか。
64頁下段:陽入之陰則靜.陰出出之陽則怒(すなはちしづけし……すなはちいかる)
・「出」字、一つ多い。「しづけし」は形容詞。「いかる」は動詞。これと対比すると、「靜」は動詞で、「しずかになる」という意味で、「しづまる」と訓んだほうがいいのではないか。
66頁下段:長面、大肩背、直身(ながきつら、なほきみ)
・大肩背は、どこへいった?
69頁下段:余意以為(よいにおもえらく)
・「以為」=「思」としてよんでいるのなら「おもへらく」

以上は、ついでです。
以下,情報提供。
65頁上段で、古田島さんが「うらむ」と「しのぶ」は、未然形は(奈良時代からの)上二段活用「うらみず」「しのびず」となり、その他は四段活用をするという活用の特殊なものをあげている。
そして著者は、他の未然形接続、たとえば使役の「使」(しむ)のときはどうなるか知りたいという。
・こたえ:上二段活用します。
『論語』微子に「君子不施其親,不使大臣怨乎不以」とある。「大臣ヲシテ怨ミしめず」と伝統的には読まれている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2599286?tocOpened=1
ここの35コマ目。
ただし,「うらましめず」と訓んでいる本もあります。

2016年12月16日金曜日

朝倉孝景 八十一難経版木[福井県指定有形文化財] 1536年

現在,印刷博物館で展示中。2017年1月15日まで。

http://www.printing-museum.org/index.html

http://www.printing-museum.org/exhibition/temporary/161022/index.html

2016年11月13日日曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その11 おわり

以上からわかるように、『黄帝内経』ができた時代には、医者は標を刺し本を刺すこと、すなわち四肢あるいは胸腹頭面の腧穴をえらんで取ることを、治療を成功させるための大事とみなしていた。標本刺法は衛気を基礎として、衛気の移動を追うことを目的とし、衛気の所在を詳細に観察し、四肢と胸腹頭面の関係を強調し、本部腧穴が起こるところの遠隔部に対する治療作用をとりわけ重視した。疾病の多くは証候情態が複雑で、病機をあきらかにするのはむつかしいので、衛気はみつけにくい。このような情況で、発病の先後というきわめて容易に理解しやすい事実にもとづいて、どの腧穴を取ればいいか決定できる。本を治し標を治す、標を先にし本を後にす、本を先にし標を後にす、あるいは標本あわせてほどこす。これを「一を執る」といい、これを保持することで、鍼刺の重要な道理大局を知り、「可以無惑于天下」〔『霊枢』衛気(52)。【現代語訳】複雑な病を治療する際に余裕をもって対処でき、戸惑うこともない〕。したがって、「知標本者.万挙万当.不知標本.是謂妄行」〔『素問』標本病伝論(65)。【現代語訳】標と本とにおける軽重と緩急との関係がわかると、すべてうまく治療することができるようになるのです。しかし標本を知らなければ盲目的な治療となってしまいます〕であり、この言葉はむなしいものではないし、鍼刺治療の経験談でもある。

このほか注意すべきことは、文子が「執一而応万」を「術」と称したが、「術」は「述」とも書く。『漢書』に注して顔師古は「術,道徑也,心之所由也」〔『漢書』禮樂志:「夫民有血氣心知之性,而無哀樂喜怒之常,應感而動,然後心術形焉」。師古曰:「言人之性感物則動也。術,道徑也。心術,心之所由也。形,見也」〕といった。中国古代哲学では、「執一」という原則は、つねに普遍としての「道」の高みにあげられる。「道通為一」(『荘子』斉物論)からである。術数からみると、道の数は一であり、「執一」はよく道と合し、道と合すれば、事業は成功する。同時に、標本の説も一つの心路であり、「心の由る所」である。この心路の上に診療過程における医者の実体験とそこで感じたことが十分重視されているので、「以意調之」〔【現代語訳】細心の注意をはらって標本、先後を区別してから適切に治療を行わなければなりません〕という措辞がある。「意」とは、証候病情を感じとることであり、一心に存し〔『宋史』岳飛伝:「陣而後戦,兵法之常,運用之妙,存乎一心」〕、心に区別を知り、気にしたがって巧みを用いる〔『後漢書』郭玉伝:「醫之為言意也。腠理至微,隨氣用巧,針石之閒,毫芒即乖」〕。もし先病後病がまだはっきりしない場合は、間甚で判断でき、「間者并行.甚者独行」〔『素問』標本病伝論(65)【現代語訳】間甚:浅深軽重を指す。間は軽く浅いことで、甚は深く重いことである。并行:その他の病症と同時に治療してもよいことであり、すなわち標本同治のことである。独行:単独で治療を進め他病と兼治してはならぬことで、とりもなおさず標を治すか本を治すかのどちらかであることである〕である。「間」とは、それほど重篤な病証情態にはないことであり、綿密に計画を立て、あわてずに準備し、標本あわせてほどこす。「甚」とは、病が重いことであり、病証情態が切迫しており、標を取るにしても本を取るにしても、一二穴の即効穴が不可欠である。たとえば、ショックに人中に鍼し、神闕に灸するのは、単独で標部を取ることであり、狭心痛に少衝と中衝に刺して血を出すのは、単独で本部を取ることである。

標本の上下の関連は、おもに衛気と経脈の生理の反映である。衛気は十二経脈に沿って手足頭面に分布し、部位があり、気化〔気の運動変化〕があり、集散があり、また移動をいい、具体的な刺法がある。また普遍的な原則をそなえ、心物一体で、「医は意なり」などの内容をふくんでいる。ゆえに古代人は「標本之為道也」〔『素問』標本病伝論(65)。【現代語訳】「夫陰陽逆従.標本之為道也」陰陽、逆従、標本の道理は、一見すると非常に簡単にみえますが、その応用価値はきわめて大きいのです。したがって標本逆従の道理を語るならば、多くの疾病による危害を知ることができるのです/筆者卓廉士は「標本これを道となすなり」と解していると思われる〕といい、標本と道とは相応じて、生命の気をみたし顕彰している。

2016年11月11日金曜日

全訳漢辞海 第四版

http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dicts/ja/kanjikai4/index.html

『漢辞海』第四版が掲げる「日葡辞書の読み」の注意点
http://d.hatena.ne.jp/consigliere/20161104/1478189729

2016年11月10日木曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その10

病伝の問題については、『霊枢』病伝(42)に類似した論述があり、これを「大気入蔵」という。すなわち大量の邪気が臓腑に侵入し、正気がささえきれず、危険な症状を発し、その伝変は一日・三日・五日・十日の間隔で心・肺・脾・胃・腎などの臓器に「以次相伝」〔【現代語訳】各蔵に疾病が発生しますと、それぞれ相剋の順序に従って転移〕し、五臓六腑十二経脈がみな邪気を受けるようになる。そのため、大気が臓に入ると、「皆有死期」〔【現代語訳】定まった死亡の時がありますから、鍼治療を施すことはできないのです〕、預後はおおかた不良である。これについては、学術界の研究は多くない。『素問』生気通天論(03)にいう「故病久則伝化.上下不并.良医弗為」〔【現代語訳】そこで病邪の留まっている時間が長くなると内に伝わって変化する。もし上下が互いに通じないような段階になると、良医であっても、どうしようもないのである〕とは、「病伝」した後は標本刺法では対処しがたい局面を指している。

これからわかるように、標本刺法の源は、『黄帝内経』成書以前、あるいは同時期の治療経験である。これは、多くの疾病の取穴部位についての経験をまとめたものであり、臨床上有効であった普遍的な刺法に手を加え、高め、磨きをかけたものでもある。標本刺法の誤読は唐代の王冰(約710-805)にはじまる。彼は『素問』標本病伝論(65)に注解したとき、「本,先病。標,後病。必謹察之」〔本は先の病である。標は、後の病である。かならず慎重にこれを診察しなければならない〕といい、「本而標之,謂有先病復有後病也。以其有餘,故先治其本,後治其標也。標而本之,謂先發輕微緩者,後發重大急者。以其不足,故先治其標,後治其本也」〔(経文にある)「本而標之」とは、先の病があって、また後の病があるという意味である。それは有餘であるので、先にその本を治療し、後にその標を治療する。「標而本之」とは、先に発したのは軽微でおだやかなもので、後に発したのは重大で急なものであるという意味である。それは不足であるので、先にその標を治療し、後にその本を治療する〕ともいっている。ここから、中医には、「先病為本、後病為標」〔張元素『医学啓源』引(長):「故経曰:先病為本、後病為標〕という説ができた。このような解釈は、『素問』標本病伝論(65)の冒頭にある「病有標本.刺有逆従」という精神をないがしろにしている。本篇の標本刺法は経脈という事実にもとづいていることをないがしろにしている。したがって標本と衛気との関係が見いだせず、衛気が疾病での集散変化が目に入らない。時間が「標本相移」中に起こる作用をないがしろにしている。したがってその説は、標本が経脈の上下にある部位であるという原義をこえている。なおかつ、王冰の説は、漏れがとても多く、たとえば彼の観点からすると、「先病而後泄者.治其本.先泄而後生他病者.治其本」〔【現代語訳】先にある病を患い、その後に下痢を生じた場合には、まずその本病を治療します。先に下痢を患い、その後にその他の病を生じた場合には、まず先の下痢を治療し、必ず下痢を治してからその他の病症の治療を行わなければなりません〕は、慢性喘息患者が腹瀉を発症したら、咳喘をとめるために、先病の本を治療すべきで、腹瀉はとめるべきではないことになる! ながく泄瀉している病人が風寒に感染した場合は、長い泄瀉の本を治療すべきで、風寒によって体中が痛むのはほったらかして無視する! 彼の説がつじつまが合わないのはわかるだろう。王冰の説には弱点がすくなくないが、それ自身がもっている論理性によって、後世の医家に受容され、中医の治病原則となった。今日では、「先病為本、後病為標」を不易の論と奉じて、中医治療理論の革新と発展だと考えられている。このほか、王冰は、彼が補った「運気七篇大論」で標本に言及しているが、五運六気の「標本中気」として述べており、その概念と標本刺法とはまったく別のものである。

2016年11月8日火曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その9

『素問』標本病伝論(65)は、この思想の基礎のうえに、衛気標本の理論を結びつけて発展させ、かなり具体的な治療案を形作った。標本刺法では、先病は先に治療するだけではなく、先病は本を治療し、本部の腧穴を鍼刺することが多い。これは四肢末端が衛気があつまるところであるからである。人体にある特定穴の多くは肘膝関節より下に位置する。たとえば、五輸穴・原穴・絡穴・郄穴などはかなり大きな範囲でその治療作用を発揮できる。かつまた古代人は、ずっと「從本引之,千枝萬葉,莫不隨也〔根っこから引き抜けば、あらゆる枝葉はみな従ってくる〕」(『淮南子』精神訓)と考えていて、本部の腧穴には疾病の根本を治療する作用がある。

しかし注意すべきことは、『素問』標本病伝論(65)の先病後病の治療に関しては、衛気が経脈の標本での位置の移動を生じる病症に適していることである。もし疾病の伝変〔発展変化。疾病がある経脈臓腑から他の経脈臓腑へ移ることと、ある症候が他の症候に変わること〕が、標本の限度とする範囲を超えた場合、しばしば危険な症候となり、この方法はふさわしくないようである。『素問』標本病伝論の篇末では、もっぱら「病伝」の証候を論じている。

「夫病伝者.心病.先心痛.一日而欬.三日脇支痛.五日閉塞不通.身痛体重.三日不已死.冬夜半.夏日中.〔疾病の伝変のしかたは以下のようになっております。心の病はまず心痛が起こりますが、一日すると病は肺に伝わり咳嗽が出ます。三日すると病は肝に伝わり脇に脹痛が起こります。五日すると病は脾に伝わり大便の通じがなくなり、身体が痛んで重く感じられるようになります。さらに三日すぎて治らなければ死亡します。冬であれば夜半に死亡し、夏であれば日中に死亡します。〕
肺病.喘欬.三日而脇支満痛.一日身重体痛.五日而脹.十日不已死.冬日入.夏日出.〔肺の病になると喘咳が起こりますが、三日すぎて治らなければ、病は肝に伝わり、肝脈は脇肋部を循っているので脇肋部の脹満、疼痛が起こります。さらに一日すると病は脾に伝わりますが、脾は肌肉を主っていますので、身重疼痛が起こるのです。さらに五日すると病邪は胃に伝わり、腹が脹るようになります。さらに十日すぎて治らなければ、死亡します。冬であれば日没時に、夏であれば日の出の時に死亡します。〕
……如是者.皆有死期.不可刺.間一蔵止.及至三四蔵者.乃可刺也.〔上述の順序で相伝すると、すべて一定の死期があり、この場合には刺法を用いてはなりません。もし病の伝わる順序が上述のような相伝ではなく、間蔵相伝あるいは隔三四蔵相伝であるならば、刺鍼治療を行うことができます。〕」

2016年11月7日月曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その8

「小大不利.治其標」――すなわち小便が癃閉〔排尿障害〕し、気が膀胱に結ぼれ、あるいは大便が秘結〔便秘〕し、気が大腸に結ぼれたときは〔気結=気のはたらきが鬱滞した状態〕、腹部にある募穴の天枢・関元および曲骨・中極・水道・腹結・気穴など標部に位置する腧穴を急いで取って二便を通利すべきである。「小大利.治其本」とは、すなわち大小便が通利〔阻滞なく流れる〕していれば、下肢の本部にあたる腧穴を取って、疾病の病機〔疾病の発生原因とその変化の機序〕に焦点をあてて治療をおこなうべきである。

「病発而有餘」の実証については、「先治其本.後治其標」すべきである。――先に四肢末端にある本部の腧穴を刺して抜本的な対策を講じ、ついで頭面胸腹などにある標部の腧穴をもちいて、兼症をとりのぞく。「病発而不足」という虚証については、「先治其標.後治其本」しなければならない。――先に標部にある慢性疾患の治療にすぐれた背兪穴と募穴を取って臓腑の気を補益し、さらに本部の腧穴を取り、四肢末端の陽気をたすけて経脈の気を恢復させる。

上述の先病と後病から判断すると、先病は原発性の病巣であることが多く、疾病の病機がある場所であることが多い。後病は、兼症あるいは続発性〔二次性〕病症であることが多い。そのため、おおくの情況下では、先病を先に治療する方法がとられる。とりわけ複雑な症状に遭遇したときは、なおさらこのようにしたほうがよい。たとえば、張家山漢簡『脈書』に「治病之法、視先発者而治之」〔病気の治療法は、先に発病したものを観察して、それを治療する〕とある。先病先治は、非常に古い思想のひとつである。この思想は、『霊枢』終始(09)にも「治病者.先刺其病所従生者也.……病先起于陰者.先治其陰.而後治其陽.病先起于陽者.先治其陽.而後治其陰」〔二「于」字、『霊枢』になし。筆者が補ったものか。【現代語訳】これらの病証の治療には、疾病の初発部位から刺鍼すべきです。……陰経から始まった疾病は、先に陰経を治療し、後に陽経を治療すべきです。陽経から始まった疾病は、先に陽経を治療し、後に陰経を治療すべきです〕と、示されている。

2016年11月1日火曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その7

「先泄而後生他病者.治其本.必且調之.乃治其他病」――『霊枢』四時気(19):「飧泄.補三陰之上.補陰陵泉.皆久留之.熱行乃止」〔【現代語訳】脾気の虚寒によって起った飧泄〔そんせつ〕病では、三陰交・陰陵泉を取穴し、補法を用い、患者が鍼下に熱感を覚えるまで、しばらく置鍼します〕。飧泄は一種の慢性腹瀉であり、つねに瀉痢腹痛をともない、食物が未消化のまま排泄される。またさらに多くの症状、たとえば少気懶言〔気が衰えて話す気力もない〕、面黄肌痩、脱肛、子宮下垂などをかねる。足太陰脾経で本部に位置する腧穴の陰陵泉を取るべきで、泄瀉が止まって気が恢復したのちに、さらに気血をととのえて、兼症〔主証につぐ病症〕を治療する。

「先病而後生中満者.治其標」――『霊枢』癲狂(22):「厥逆.腹脹満.腸鳴.胸満不得息.取之下胸二脇.欬而動手者.与背腧.以手按之立快者.是也」〔厥逆病で腹が脹り、腸が鳴り、胸中煩悶して呼吸困難となる症状があらわれたら、治療には両腋下の脇骨部にあり、咳をすると脈が手にふれる腧穴と、また背を手で按じてみて病人が気持ちよいと感じたところを取るのがよい。そこが刺すべき背の兪穴の穴位である〕。先に陽が虚して胃腸の気脹があり、つづいて胸満喘息、呼吸困難、気が胸膺部にあつまるなどを症状を生ずる。衛気は本来なら「胸腹に散ずる」べきなのに、いま散じないでかえってあつまっている。その症状は急であり、標部である背兪を急いで取って治療すべきである。背部腧穴および肺胃と関連する胃兪・脾兪・肺兪・風門・身柱などは、みな肺胃の気がそそぐ場所であり、病気になるとこれらの腧穴は敏感になり、そのところをおすと、つねに酸・脹・疼痛などが感じられる。衛気の街が体幹において「前後に相応ずる」という生理システムがあり、鍼刺によってよりよい治療効果をおさめることができることを示している。〔『霊枢』衛気(52):「胸気有街、腹有気街、頭有気街、脛有気街。故気在頭者、止之于脳。気在胸者、止之于膺与背兪。気在腹者、止之于背兪与衝脈于臍左右之動脈者。気在脛者、止之于気街与承山踝上以下」。〕

「先中満而後煩心者.治其本.人有客気.有同気.」〔解説なし〕

2016年10月31日月曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その6

「先病而後生寒者.治其本」――『霊枢』邪気蔵府病形(04):「大腸病者.腸中切痛.而鳴濯濯.冬曰重感于寒.即泄.当臍而痛.不能久立.与胃同候.取巨虚上廉」〔【現代語訳】大腸の病の時は、腸の中が切り刻まれるように痛み、じゃぶじゃぶと腹鳴りがします。冬に繰りかえし寒を受けますと、下痢をおこして臍のところが痛みます。そのために長く立っていることができず、うずくまってしまいます。その他、胃の病のときの症状と同様な点があります。この場合は、足の陽明胃経にある大腸の合穴の上巨虚を取穴いたします〕。「先病而後泄者.治其本」の治療方法もこれとおなじである。

「先熱而後生病者.治其本」〔この文についての解説なし〕

「先熱而後生中満者.治其標」――『霊枢』寒熱病(21):「陽逆頭痛.胸満不得息.取之人迎」〔「逆」。『霊枢』作「迎」。『太素』『甲乙経』作「逆」。【現代語訳】陽邪が陽経脈を逆上すると、頭が痛み、胸の中がいっぱいになって息苦しくなる。このときは人迎穴に取穴するとよい〕。陽気が上逆すると、頭痛発熱し、それにつづいて胸中が脹れ、呼吸困難となる。このときは衛気が胸膺頸部にあつまり、順に反して逆と為る〔『素問』四気調神大論(02)〕情勢があるので、標部である人迎穴を取って胸頸部の積気をゆるめる。他の例:『霊枢』熱病(23):「熱病先身濇.煩而熱.煩悗.乾唇口嗌.取之皮.以第一鍼」〔「煩」、『霊枢』作「倚」。『甲乙経』作「煩」。【現代語訳】熱病でまず身体がすっきりせず、無力感がある上に熱があり、煩悶し、口唇、喉が乾くなどしたら、脈に治療を施すべきである。九鍼中の第一鍼(鑱〔ざん〕鍼)を用い、(熱病を治療する五十九腧穴から穴位を選び治療する)/「穴位」は「穴道」とおなじで「ツボ(腧穴)」の意。「位」は、「位置・場所」の意ではない〕。熱病では先に身体にとどこおり、すっきりしない感じがあり、つづいて煩熱・煩悶する。頭が大きく尖端がとがった鑱鍼を使って、標部に位置する腧穴を刺す。あるいは胸腹頭面部にあらわれた瘀血を浅く刺して陽気を瀉す。

「先病而後泄者.治其本」〔前文を参照〕

2016年10月30日日曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その5

「先寒而後生病者.治其本」――『霊枢』五邪(20):「邪在肝.則両脇中痛.寒中.悪血在内.行善掣節.時脚腫.取之行間.以引脇下.補三里.以温胃中.取血脈以散悪血.取耳間青脈.以去其掣」〔【現代語訳】病邪が肝を侵すと、両脇の中が痛み、寒気が中に滞り、瘀血が体内に留まり、歩くときにいつも関節がひきつれて痛み、また時に脚が腫れることがある。治療は、行間穴に取り、脇肋のあたりに留滞した気を引いて下行させる。同時に足三里穴に取って胃中を温め、また瘀血のある絡脈を刺して悪血〔おけつ〕を散らす。さらに耳の後の青絡脈の上にある手の三焦経の瘛脈〔けいみゃく〕穴に取り、ひきつれる痛みを除く〕。先に寒気が肝脈に停滞することにより、悪血が内をふさぎ、気血がめぐらない。その後で肝経が通過する場所に抽掣〔抽搐。ひきつり、硬直〕腫痛を生ずる。この証は病が肝脈にあるとしても、実際は陽気の不振による。陰病は陽を治すべきであり、本部にある足三里穴を取って陽気をおぎない、陰翳〔陰寒の気〕を消す〔『素問』至真要大論(74):「熱之而寒者取之陽」。王注:「言益火之源,以消陰翳」〕。陽明は「両陽合明」(至真要大論)で、気盛血実であるので、陽気を補益することができる。

2016年10月28日金曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その4

「先逆而後病者.治其本」――例:『霊枢』四時気(19)」「腹中常鳴.気上衝胸.喘不能久立.邪在大腸.刺肓之原.巨虚上廉.三里」〔【現代語訳】しばしば腹鳴があり、気が胸部に向って衝〔つ〕き上げ、息苦しくて長くは立っていられないのは、病邪が大腸にあるからです。このときには、気海・巨虚上廉(上巨虚)・足三里に取穴し刺します〕。先に腹中の逆気があって上って胸部を衝き、後に喘息を病んで長くは立っていられない。これは邪気が大腸に留まっているためである。生理的な状態では、衛気は「胸腹に散」〔S.43〕するので、腹部に本来は分散すべきであるのに、いまは反対にあつまって上逆している。よって「肓の原」(気海穴)を鍼刺して腸道の気機〔気の機能活動〕をととのえ、同時に下肢の本部に位置する上巨虚と足三里などの腧穴を取って逆気をさげる。他の例:『霊枢』四時気(19):「小腹控睾.引腰脊.上衝心.邪在小腸者.連睾系.属于脊.貫肝肺.絡心系.気盛則厥逆.上衝腸胃.熏肝.散于肓.結于臍.故取之肓原以散之.刺太陰以予之.取厥陰以下之.取巨虚下廉以去之.按其所過之経以調之」〔【現代語訳】下腹部から睾丸にかけて引きつり、腰背部にも痛みが波及し、胸に衝〔つ〕きあげて心蔵部が痛むのは、病邪が小腸にあるからです。小腸の経絡は皐丸に連なり、脊椎に付き、上って肝と肺を貫いて、心系に絡んでいるからです。そこで病邪が盛んですと、逆乱した気が上逆し、胃腸に衝〔つ〕き上げ、肝蔵を熱し、肓膜に取り、臍部に集結します。したがってその治療は肓の原の気海穴に取穴して結集した邪気を散らし、さらに手の太陰肺経に取穴して補法を行い、足の厥陰肝経に取穴して瀉法を行います。小腸経の合穴の下巨虚に取穴してその邪気を除き、同時に症状が現れている経脈を勘案して調整します〕。疝気は小腸気痛〔小腸が腹腔内から陰嚢にさがり、引っ張られるような痛みの症状〕、あるいは寒気が肝脈に滞留したことによる。この証は先に厥逆があり、その後に気がへそに結ぼれる。鍼刺は、本部の腧穴、すなわち足厥陰と足太陽の滎穴と輸穴、それに小腸の下合穴を取るべきである。

2016年10月26日水曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その3

この方法がもっとも成功しているのは、先病後病を骨子としているところにある。「標本相移」とは、すなわち衛気の標本間での集散変化は、時間によっておこることである。「一を執る」は、「先病後病」という時間と関連する鍵となる情報をつかまえることである。これによって詳しく衛気の所在を観察し、「知其往来.要与之期」〔【現代語訳】気の往来の時期を理解してはじめて刺鍼の正確な時間を理解できるのです〕(『霊枢』九針十二原(01))、その環中を執って無窮に応じるのである。
〔『荘子』斉物論:「彼是莫得其偶,謂之道枢,枢始得其環中,以応無窮」。郭象 注:「夫是非反覆, 相尋無窮,故謂之環。環中,空矣;今以是非為環而得其中者,無是無非也。無是無非,故能応夫是非。是非無窮,故応亦無窮」。 環中は、なにもないリングの中心で、是非のない境地、超脱の境地〕

『素問』標本病伝論(65):「先病而後逆者.治其本.先逆而後病者.治其本.先寒而後生病者.治其本.先病而後生寒者.治其本.先熱而後生病者.治其本.先熱而後生中満者.治其標.先病而後泄者.治其本.先泄而後生他病者.治其本.必且調之.乃治其他病.先病而後生中満者.治其標.先中満而後煩心者.治其本.人有客気.有同気.小大不利.治其標.小大利.治其本.病発而有餘.本而標之.先治其本.後治其標.病発而不足.標而本之.先治其標.後治其本.謹察間甚.以意調之.間者并行.甚者独行.先小大不利而後生病者.治其本」〔【現代語訳】ある病を先に患っており、その後に気血が逆乱して不和となっているものに対しては、その本病を治療します。気血が逆乱して不和となったためにその後に病を患ったものに対しては、先ずその本を治療します。先に寒邪によって病を患い、その後に他の病変が起こった場合には、まずその本を治療しますし、先に病を患っておりその後に寒を生じた場合には、まずその本病を治療します。先に熱病を患っており、その後にその他の病変が生じた場合には、まず先にもとからある病を治療します。先に熱病を患い、その後に中満が生じた場合には、その中満という標病を先ず治療します。先にある病を患い、その後に下痢を生じた場合には、まずその本病を治療します。先に下痢を患い、その後にその他の病を生じた場合には、まず先の下痢を治療し、必ず下痢を治してからその他の病症の治療を行わなければなりません。先に病を患い、その後に中満を生じた場合には、まず中満という標病を治療しますが、先に中満症を患い、その後に煩心が起こった場合には先ずその本病を治療します。新邪を受けて病になる場合と、体内にもともとあった邪気によって病を生ずる場合とがあります。前者は客気といい、標に属するものであり、後者は固気といい、本に属するものです。また大小便が不通の場合には、まずその標病を治療します。大小便が通利している場合には、まずその本病を治療します。病が生じて有余である実証となっている場合には、これは邪気が盛んであるために生じたものですから、邪気が本となり、その他の病症が標となります。この場合にはまずその本を治療し、その後にその標を治療します。病が生じて不足である虚証となっている場合には、正気の虚弱が標であり、先病の邪気が本となります。この場合にはまずその標を治療し、その後にその本を治療します〕。

古代人が先病後病を標本刺法を掌握するための要点とあえてした背後には、大量の臨床例の支えがあったのにちがいない。これらの例の多くは『黄帝内経』にさがすことができるし、その中で衛気があらわす変化を見つけることができるとかんがえる。以下、上述した標本刺法を一つずつ取り出し、あわせてダッシュを用いて、『黄帝内経』が掲載する事例に説明をくわえる。

「先病而後逆者.治其本」――『霊枢』九針十二原(01):「五蔵之気.已絶於外.而用鍼者.反実其内.是謂逆厥.逆厥則必死.其死也躁.治之者.反取四末」〔【現代語訳】五蔵の病変により、正気が外に虚してしまったものを陽虚証といいますが、鍼を用いて内側にある陰経を補ってしまうと、陰はますます盛んになって陽気は内に衰え、四肢の冷えと萎えを引き起こします。これを逆厥と呼びます。逆厥もまた必ず死亡しますが、死ぬときは騒いで安定しないものです。これは医家が誤って四肢の末端の経穴を取って、陽気を尽きさせてしまったためにもたらされたものなのです/【現代語訳】は「反取四末」という誤治の結果と解する。以下、筆者卓廉士は、「反取四末」を誤治への対処法と解する〕。疾病の先後についていえば、先に臓腑の病があり、後に誤治によって内に気を実にさせると、手足が温かくならない「逆厥」証が発生する。重篤な場合は、虚陽が上にうかび、手足躁擾〔手足をばたつかせる〕の状態にさえなる。このようなときは、抜本的に治療方針をあらためて、「反して四末」にある本部の腧穴を「取って」鍼治する。四末〔四肢末端〕は陽気の本であり、衛気があつまるところであるので、陽気を恢復して逆厥を治療することができる。

2016年10月24日月曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その2

衛気には邪気に向かい、これと争う特性がある。この特性は病邪の拡散をふせぎ、邪気が深く侵入するのを阻止し、病因を除くことができる。邪気が本にあれば、衛気は本にあつまる。邪気が標にあれば、「衛気帰之」(『霊枢』癰疽(81))、向きを変えて、標にあつまる。この現象に焦点をあてた「治反為逆.治得為従」という方法がある。衛気が本部にあつまることを「得」といい、標部にあつまった相反する情況を「反」という。「逆」と「従」は「標本相移」に焦点をあてた鍼刺方法であり、標を刺すのが逆であり、本を刺すのが従である。具体的にいえば、「有取標而得者.有取本而得者.有逆取而得者.有従取而得者」〔標に取りて得る者あり、本に取りて得る者あり、逆取して得る者あり、従取して得る者あり〕である。衛気のゆくえを追っていえば、つぎのようにあらわせる。「有其(衛気)在標而求之於標.有其在本而求之於本.有其在本而求之於標.有其在標而求之於本」〔其(衛気)の標に在りてこれを標に求むるあり、其の本に在りてこれを本に求むるあり、其の本に在りてこれを標に求むるあり、其の標に在りてこれを本に求むるあり、と〕。

よって衛気の移動と集散をおえば、疾病の病機〔疾病にいたる機序〕をとらえることができ、気血の虚実と邪気の存亡などの情況を理解できる。それによって標を刺すか本を刺すかが決まる。考え方からすると、辨症論治のひな形をすでにそなえているようにみえる。しかし、秦漢時代の医者はそれを当時流行した思想である「執一」と結びつけて一連の刺法を形作った。この方法は、すこぶる複雑なものを簡潔にでき、理解応用を容易にした。

『老子』二十二章「聖人執一以為天下式」〔『老子』二十二章「是以聖人抱一為天下式」。出土『老子乙道經』「聖人執一以為天下牧」〕。いわゆる「執一」とは、鍵となる法則を自分のものとし、複雑な局面に対処することである。『素問』標本病伝論(65)は「夫陰陽逆従.標本之為道也.小而大.言一而知百病之害.少而多.浅而博.可以言一而知百也.以浅而知深.察近而知遠.言標与本.易而勿及」〔【現代語訳】 陰陽、逆従、標本の道理は、一見すると非常に簡単にみえますが、その応用価値はきわめて大きいのです。したがって標本逆従の道理を語るならば、多くの疾病による危害を知ることができるのです。少ないものから多くを知り、小から大を推しはかることができるので、一を語って百を知ることができるといっているのです。浅いところから深いところを知り、近くを調べて遠くを知ることができます。標本の道理というものは、非常に容易に理解はできますが、その臨床応用となりますと、けっしてそれほど容易に会得することはできません〕という。ここに二回も言われている「言一而知百」が、「一を執る」の意味を存分にあきらかにしていることがわかる。

『文子』微明は「見本而知末,執一而応万,謂之術」という。文子は標本(「本」「末」ともいう)を一つの不変によって万変に応じ、いろいろな複雑な変化に対処する方法とみなした。『漢書』芸文志は文子を「〔老子の弟子で〕孔子と時を並ぶ」という。よってこの思想は、『黄帝内経』以前か同時期にすでに存在し、秦漢時代にはすこぶる流行していた。『呂氏春秋』有度は「先王不能尽知,執一而万物治」といい、高誘は「執守一道,而万物治理矣」と注する。また後漢の王弼は『周易略例』で「物雖衆,則知可以執一御也;由本以観之,義雖博,則知可以一名挙也」〔《明彖》〕という。よって文化概念の継続性からみれば、『黄帝内経』が提唱する「標本の道」は「一を執って万に応ずる」という思想の伝承とすべきである。その目的は、医者に一つの有効な原則あるいは法則を身につけさせ、臨床上の複雑な病情に対処させることにある。筆者の考えでは、『素問』標本病伝論(65)が掲載するのは、このような方法の一つであり、簡便でおぼえやすく行ないやすい。「少而多.浅而博」であり、相当な実用性がある。

2016年10月23日日曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その1

卓廉士『営衛学説と鍼灸臨床』第三章第二節標本刺法

第二節 標本刺法、一を執るを式となす
〔執一:根本の道を掌握することをいう。《呂氏春秋‧有度》: “先王不能盡知, 執一而萬治。” 高誘 注: “執守一道,而萬物治理矣。” 〕

現代中医基礎の教材には、「標と本は、一つの相対的な概念であり、多くの意味を有し、病気が変化する過程での各種の矛盾する主従関係を説明するのにもちいられる。たとえば、邪正の双方でいえば、正気は本であり、邪気は標である。病因と症状でいえば、病因は本であり、症状は標である。疾病の前後でいえば、旧病・原発病は本であり、新病・続発病は標である」(印会河主編『中医基礎理論』上海科学技術出版社、2006年)とある。このような説明はたいへん流行し、大学の教材に掲載され、現代中医における治則ではすでに不易の論〔至精至当で、あらたむべからざる定論〕となっている。しかし、『素問』標本病伝論(65)の標本についての論述を仔細に考察してみると、治標・治本とは、衛気標本理論にもとづいて制定された鍼刺方法であることがわかる。その意味は、終始一貫しており、病因・正気・新病旧病の説は、後世の医家が発展させて生じたものとすべきであり、『黄帝内経』にある標本の原義とは一致しない。幾千百年、他人の言に定見なく従い、ついには標本学説の本来のすがたが覆い隠されてしまった。標本の原義があきらかにした古い鍼灸治病の重要な原則は、かえって埋没してひとびとに知られなくなった。そのためそれを整理して示す必要が非常にある。『素問』標本病伝論(65)にいわく、

黄帝問曰.病有標本.刺有逆従.奈何.岐伯対曰.凡刺之方.必別陰陽.前後相応.逆従得施.標本相移.故曰.有其在標而求之於標.有其在本而求之於本.有其在本而求之於標.有其在標而求之於本.故治有取標而得者.有取本而得者.有逆取而得者.有従取而得者.故知逆与従.正行無問.知標本者.万挙万当.不知標本.是謂妄行.夫陰陽逆従.標本之為道也.小而大.言一而知百病之害.少而多.浅而博.可以言一而知百也.以浅而知深.察近而知遠.言標与本.易而勿及.治反為逆.治得為従.
【現代語訳】黄帝が問う。「病には標病、本病の区別があり、刺法には逆治、従治の区別があるが、これはどうしてか」。 岐伯が答える。「刺鍼治療の準則は、必ずまず病状が陰に属するのか、陽に属するのかを区別し、どの病が先に患ったもので、どの病が後に患ったものであるのかを区別しなければなりません。そののちに治療を行えば、逆治、従治の運用は当を得るし、標本のどれを先に治療し、どれを後に治療するかということも臨機応変に対処することができるのです。したがってある場合には標の病に対して標を治し、本の病に対して本を治することもありますし、またある場合には本の病に対して標を治し、標の病に対して本を治することもあるといわれているのです。したがって治療にあたっては標を治療してよくなるものと、本を治療してよくなるものとがあります。また正治によってよくなるものと、反治によってよくなるものがあるのです。 そこで逆治と従治の原則を知れば、正しい治療を行うことができますし、治療に際して疑念が生ずることもないのです。標と本とにおける軽重と緩急との関係がわかると、すべてうまく治療することができるようになるのです。しかし標本を知らなければ盲目的な治療となってしまいます。陰陽、逆従、標本の道理は、一見すると非常に簡単にみえますが、その応用価値はきわめて大きいのです。したがって標本逆従の道理を語るならば、多くの疾病による危害を知ることができるのです。少ないものから多くを知り、小から大を推しはかることができるので、一を語って百を知ることができるといっているのです。浅いところから深いところを知り、近くを調べて遠くを知ることができます。標本の道理というものは、非常に容易に理解はできますが、その臨床応用となりますと、けっしてそれほど容易に会得することはできません。相い反して行う治療を逆といい、正治の治療を従といいます」。

「病有標本.刺有逆從」とは、標本がもともと鍼刺のためのものであることをあきらかにしている。「前後相應」とは、気街を通行する衛気が身体の前後に感応を発生させる連係をいう。「逆從」とは、「標本相移」に対して取る措置である。衛気には病患部へうごき、うつり、あつまって、邪気をのぞく能力がある。そのためその集散は疾病の変化にともなって変化する。古代人はこれを「標本相移」といった。これは標本の位置が変わることをいっているのではなく、もともと本部に集まっていた衛気が上に移動したり、もともと標部に散在していた衛気が下に移動することを指す。このような変位〔移動・動き〕は、衛気本来の生理的な情況を変え、それによって脹満・喘息・疼痛などの症状があらわれる。したがって、「標本相移」は、衛気の異常をあらわしている。『霊枢』衛気失常(59)にいう。

黄帝曰.衛気之留于腹中.搐積不行.苑蘊不得常所.使人肢脇胃中満.喘呼逆息者.何以去之.伯高曰.其気積于胸中者.上取之.積于腹中者.下取之.上下皆満者.傍取之.黄帝曰.取之奈何.伯高対曰.積於上.写大迎.天突.喉中.積于下者.写三里与気街.上下皆満者.上下取之.与季脇之下一寸.重者雞足取之.
【現代語訳】黄帝がいわれる。「衛気の巡りが異常をきたして、腹の中に停滞し、蓄積して正常な運行を失い、鬱積して病になると、胸脇と腎が腫れ、喘息して気が逆上するなどの症状となるが、どのようにして治療するのか」。 伯高がいう。「気が胸の中に蓄積して発病するものは、身体の上部の経穴を取って治療するべきです。腹の中に蓄積したものであれば、身体の下部の経穴を取って治療すべきです。もし、胸も腹も脹れたものであれば、上部下部と経脈付近の経穴を取って治療すべきです」。 黄帝がいわれる。「どの経穴をとるのか」。 伯高がいう。「胸に蓄積したものは、足の陽明胃経の人迎穴および任脈の天突穴と廉泉穴を取って瀉します。腹に蓄積したものは、足の陽明胃経の三里穴と気衝穴を取って瀉します。胸腹のどちらにも蓄積したものは、身体の上下の経穴をすべてと、季脇の下一寸にある章門穴を取るべきです。病が重いものは、鶏足の刺鍼法 (真っ直ぐに鍼を一本入れ、その左右に斜めに二本入れる) を用います。

衛気は十二経脈の本部に集積することが多く、胸腹と頭面などの標部に集積することは少ない。したがって生理上は本は重く標は軽くあらわれるが、衛気が失調するとその道理に反して、標は重く本は軽くなる。「標本相移」すると、多くの病理がもたらされる。たとえば、衛気は「留于腹中.搐積不行」し、胃脇に留まり、中焦は痞満し、胸中に留まり、「喘呼逆息」する。衛気はもともと「熏於肓膜.散於胸腹」(『素問』痺論(43))し、運行してやすまず、滞留しえず、留まれば病となる。衛気の失調によって引き起こされた病症について、鍼刺治療は、標本の上下の連係にもとづいて、それぞれ標を刺す・本を刺す・先に標、後に本・先に本、後に標・標本かねて施すなど、各種の方法を採用する。「積于腹中者.下取之」については、上の病は下に取り、四肢本部の腧穴である足三里・気衝などに鍼刺する。ただし気が胸部標証に鬱積して急なものは、「止之膺与背腧」〔『霊枢』衛気(52)〕することができ、標部の腧穴に鍼刺してその急迫をゆるめる。当然、標本ともに施術してよく、上下両方を鍼刺し、他に章門(LR13)を加えて気をめぐらす力をつよめる。「雞足」刺法は、『霊枢』官針(07)に記載されている。その操作方法は、「左右雞足.鍼于分肉之間.以取肌痺」〔【現代語訳】(第四は合谷刺という。合谷刺とは分肉の間にまで直刺したのち、一旦皮下まで引き上げ、さらに)左右にむけて分肉の間に鶏の足のように一カ所づつ斜刺し、肌痺を治療する〕である。その方法は、三本の鍼で、一本の鍼は直刺し、他の二本はその両側に刺入して、三本の鍼を交叉させて鶏の爪の形のようにする。肌肉のあいだにある邪気を同時に瀉す作用がある。肉の小会は谿であり、大会は谷であるので、「雞足」の刺法は、「合谷刺」ともいう。この刺法は、かなり強烈に衛気の感応を喚起することができる。

2016年10月17日月曜日

卓廉士『営衛学説与針灸臨床』 第八章 営衛学説の角度から見る その4 おわり

『黄帝内経』の記載によれば、衛気は「熏膚……沢毛」〔【現代語訳】皮膚に染み込み、……毛髪を潤し〕(『霊枢』決気(30))して、霧露のように体表にくまなくひろがり、経腧は「衛気之所留止」〔【現代語訳】衛気が行って留まる場所〕(『素問』五蔵生成)である。このため、皮膚表面の浅層と腧穴の中の深層は、どちらも「得気」を誘発することができる。数十年におよぶ経絡研究に関する資料を検索してわかったことは、多数の実験が示している「循経感伝」の特徴はみな衛気の特性と非常に一致するということである。ここにひとつ注目すべき現象がある。以下、李鼎主編『経絡学』(上海科学技術出版社、1999年、136頁)第七章「経絡之現代研究」にある、「循経感伝現象のおもな特徴」を項目ごとにとりだし、ダッシュのうしろに衛気の特徴で説明をくわえる。

(1)「循経感伝の路線。一般的にいえば、四肢では感伝線は古代の経絡線とほぼ一致する。胸腹部ではあまり一致しない。頭部では大部分一致しない」。――衛気は脈外をめぐり、四肢を本となし、胸腹頭面を標となす。気は本に集まり、経に分かれることははっきりしていて、標へは分散していき、融合にむかう。分散していく気は遠くなればなるほど経にわかれてますます曖昧模糊となる。実験の証明:古代人の衛気標本に関する理論には自身の物的基礎があった。

(2)「循経感伝の感覚性質。鍼刺では一般に酸・麻・脹・ひきつり・冷熱などの感伝が生じる」。――衛気は慓悍滑利であり、「一旦鍼灸の刺戟をうけると、迅速に体表にむかい、腧穴あるいは病所へ向かって動き集まる」(卓廉士「鍼刺『審察衛気』論」、中国針灸、2010年、30巻第9期)。酸・脹・気のめぐり・冷熱などの感覚はみな衛気の特性のあらわれである。

(3)「循経感伝の方向。双方向の伝導を呈する。身体(四肢末端をのぞく)上のいかなる穴に刺戟をあたえても、一般にその穴から二つの相反する方向に感伝が発生する」。――衛気は脈外にあり、また「浮気之不循経者」〔【現代語訳】浮いて外にある気は経脈の中を巡らず〕(『霊枢』衛気(52))なので、鍼刺の伝導方向は、経脈の気の流れる方向と一致してもしなくともよい。

(4)「循経感伝の幅。太いものもあり、細いものもある。四肢では細いものがおおく、約0.2~2.0cmの間である。多くの反応は琴弦状か電線状である。体幹に入ったあとは、10cm以上の幅に達することがある」。衛気の本は四肢にあり、経脈線路に沿って縦方向に分布し、「胸腹に散ずる」。胸腹部ではかなり分散するので、感伝は四肢では狭く、胸腹部では広い。

(5)「循経感伝の速度。感伝は速度は一定ではなく、停滞点があり、止まってはまた動く。このような停滞点の多くは穴があるところである」。――経気はリズムが一様で、気がめぐる速度は同じであり、「環周不休」であって、停滞しない。衛気には動静があり、動くときは、日中に陽を二十五度行き、夜間に陰を二十五度行く。静かなときは、腧穴の中にとどまったり、本部の中に集まっている。これは「感伝」が経気に由来するのではなく、衛気に由来することをうまく説明している。

(6)「循経感伝の逆流性。おおくの情況下では、刺戟が停止したあと、感伝はすぐには消えず、鍼刺穴の方向へ逆流し、その穴に達したのちに消失する」。――このような「鍼已出気独行」〔【現代語訳】ある人は鍼を抜いた後に反応が現れる〕(『霊枢』行針(67))という後遺感覚も衛気の反映とすべきである。衛気は鍼刺の刺戟をうけて、鍼を抜いたあともまだ刺戟をうけた状態にある。

(7)「循経感伝の病所へ向かう性質。病理状態では、感伝が四肢にあらわれたのち、体幹に入り、病所にむかう性質がある。すなわちいわゆる『気は病所に至る』である。たとえば心臓病の患者では、異なる経脈に感伝があらわれたのち、みな心臓に向かって集中する現象がある」。――「刺之要、気至而有効」〔【現代語訳】これは刺鍼の重要なポイントです。鍼をした時は、気を得て初めて効果が現れるのです〕(『霊枢』九針十二原(01))、「気至る」とは、衛気が「得気」したのちの病所に向かうはたらきであり、その気は誘導されて病所に達することができる。

このほか、近年かなり多くの「循経感伝阻滞実験」が広範囲におこなわれ、「機械による圧迫・局部冷凍による温度低下・生理食塩水やノボカインの局部注射により、いずれも感伝が阻滞させることができる」ことが発見された。――経気は動脈の搏動として表現され、左右相応じ、九候に変化はなく、その循環流注は圧迫・冷凍などの要素では妨害あるいは停止できない。衛気は「浮気」であり、脈外をめぐり、体表にゆきわたるので、上述の要素で阻滞を受ける。

衛気は鍼刺により「得気」して、古代人に認識された系統であり、防御・抗邪・止痛・病所組織の修復・病因の除去など、多くの機能が一体となって集められたものであり、「抜刺〔とげを抜く〕」「雪汚〔汚れをすすぐ〕」「解結〔むすぼれを解く〕」「決閉〔閉塞を通じさせる〕」(『霊枢』九針十二原(01))の方式をとおして疾病を治療する。しかし衛気は「慓悍滑利」であり、経脈との関係はつかず離れずであり、体表に散らばっていたり、腧穴に集まったり、四肢の本に集まったり、胸腹頭面、五官の竅の標に散在したり、脈と並行することもできるが、つねに経脈の道にしたがいもしない。これからわかるように、「循経感伝実験」の結果は、衛気の作用と特性をまぎれもなく説明していて、鍼刺感伝が衛気に由来し、経気に由来するのではないことを実証している。

『東洋医学概論』以前の教科書

 『東洋医学概論』(1993年,学校協会,医道の日本社)以前の,鍼灸学校で使用していた教科書を調べています。 
 東鍼校卒業の方に聞いたところ,特に教科書はなく先生自家製の本(プリント?)で授業が行われていたということです。
 その他の学校を卒業された方や別の情報をお持ちの方は,教えていただけませんでしょうか?
 また『漢方概論 全A.B』(あ・は・き・柔学校・養成施設教本,東京教育大学雑司ヶ谷分校 理療科教育研究会編,医道の日本社,1966)という本を使っていたという方はいませんでしょうか?

2016年10月16日日曜日

卓廉士『営衛学説与針灸臨床』 第八章 営衛学説の角度から見る その3

「血を営に取る」方法は、鋒鍼(近代では三稜鍼)をもちいて点刺して「血を取る」。邪が経脈あるいは営血にある病症を治療するのにもちいる。施術時は、邪気がまさに来るのをみて、「按而止之.止而取之」〔【現代語訳】:押し撫でてこれを止め、その発展を阻止して鍼で瀉すべきです〕(『素問』離合真邪論(27))、迅速に点刺して血を出し、邪を血とともに去る。刺して血を出すときは、血をみたら即座に止めることが必要で、その方法では「得気」することはできないし、経気あるいは営気を喚起する可能性もないことはあきらかである。

『素問』離合真邪論(27)に「真気者.経気也.経気太虚.故曰.其来不可逢.此之謂也」〔【現代語訳】:真気とは経脈の気のことですから、邪気が衝きあげて進めば経気は大いに虚するのであり、このときに瀉法を用いたのでは、かえって経気をひどく虚にしてしまうのです。そこで気が虚のときに瀉法を用いてはならぬ、というのは、こういう場合を指していうわけです〕とある。この語はつねに学者によって、鍼刺による「得気」が経気から来ている証拠として引用される。実際は、これは古代人が「邪気を候(うかが)う」方法であり、また刺血法の一つでもある。この方法は、邪が経脈に入って「波が涌き起こるように」〔『素問』離合真邪論「如涌波之起也」〕なり、搏動が異常になったときのためにもっぱら設けられ、点刺放血を主とする。そのため実証に活用される。虚証では「経気が太(はなは)だ虚している」ので、来たるや逢うべからず、往くや追うべからず〔離合真邪論「経気太虚……其来不可逢……其往不可追」〕であるので、それほど適用されない。これからわかるように、経脈あるいは営血の疾病に対しては、直接刺して血を出すべきで、絡脈の疾病も刺絡して血を出すべきである。そうでなければ、「諸刺絡脈者.必刺其結上」〔【現代語訳】それぞれの絡脈を刺鍼するときは、必ず絡脈に血液が鬱結しているところを刺さなければならない〕(『霊枢』経脈(10))で、専門的な注意点があるだけである。

「気を衛に取る」とは、毫鍼をつかって腧穴に刺し、「得気」をもって度となす鍼刺方法である。衛気は体表のいたるところにあり、腧穴にとどまり、毫鍼に喚起されて「見開而出」〔『霊枢』営衛生会(18)【現代語訳】どこかに弛緩して開いている部位があれば、そこから出て行こうと〕し、鍼刺部位に集結し、同時にすばやく鍼下に酸・脹・沈重という「得気」感を生じる。『霊枢』根結(05)に「(鍼が腧穴に入ると)気滑即出疾.其気濇則出遅.気悍則鍼小而入浅.気濇則鍼大而入深.深則欲留.浅則欲疾.……此皆因気慓悍滑利也」〔【現代語訳】一般的に気が滑らかであれば鍼を抜くのは速くし、渋っていればゆっくり抜き出しますし、気が軽く浮いていれば細い鍼を使って浅く刺入し、渋って滞っていれば太い鍼を使って深く刺し、深く刺せば鍼を留め、浅く刺せば鍼は速く抜かなければならないのです。……こうした違いは、人によって気の運行の滑らかさに違いがあるからです〕という。いわゆる「慓悍滑利」とは、まさに衛気の特性である。これが鍼刺によって衛気を喚起し、制御して病気を治療することについての『黄帝内経』でのもっとも直接的な描写である。また衛気は十二経脈の標本に沿って集散分布し、さらに脈外をめぐるので、毫鍼による刺戟のもとで容易に「経脈路線に沿った伝導」、いわゆる「循経感伝」現象が出現する。「得気」は衛気の「慓悍滑利」の特性がしからしめるのであり、「慓悍滑利」の説は、鍼刺によって治療効果を得た身近な体験に由来する。したがって、「得気」とそれが形成する感伝は、衛気の特性のあらわれである。

長浜善夫と丸山昌朗は、「鍼響はだいたい身体の浅層に発生したが、一定の深度がある」ことを発見した(『経絡之研究』承淡安訳、1955年120頁)。「得気」を「鍼響」といい、効果を得ること影響の如し〔影が人の姿にしたがい、響きが声にしたがうように、あることが発生すると、他の行動・作用が迅速に引き起こされること〕という意である。今日われわれはこれを感伝と称し、実際の情況により符合するようにおもえる。長浜善夫と丸山昌朗は現象を列挙するのみで、感伝が経気によるのではなく、衛気であることを知らなかった。

2016年10月15日土曜日

卓廉士『営衛学説与針灸臨床』 第八章 営衛学説の角度から見る その2

「循経感伝」のおもなよりどころは、鍼刺により「得気」が経気を喚起することにある。それによって感伝した線路が経脈の線路であり、経絡のはたらきのあらわれである。しかし筆者のかんがえでは、鍼刺によって「得気」が喚起するのは衛気であり、経気ではない。「循経感伝」の実質をあきらかにするためには、まず経気と営気と衛気というこれらの術語の意味をはっきりさせ、あわせて古代人がこのためにもうけた刺法を考察する必要がある。

経気は営気ともいい、経脈の気あるいは経絡の気を指す。『霊枢』経脈(10)に「経脈者常不可見也.其虚実也.以気口知之.脈之見者.皆絡脈也」とある。脈の大きなものは経脈であり、小さなものは絡脈であり、まとめて経絡という。経脈は「常不可見」〔つねに見ることができない〕とはいえ、脈搏を按じてその虚実を察することができ、呼吸をしらべてその動静を知ることができる。その気のめぐりは天の度数と同期していて、日に身を五十周する。「常営無已.終而復始」〔つねに営(めぐ)ってやむことがなく,終わりまできたと思ったらまた始まる〕(『霊枢』営気(16))ことによって、また営気ともいう。『霊枢』営気(16)に掲載されている営気の周流は、『霊枢』経脈(10)に掲載されている経気の循環と、名称・方向・順序においてまったく同じである。これから、営気と経気は同一の生理現象であるとすべきであり、経中の気を経気といい、循環周流するので営気という、と考えることができる。営は脈中を行き、網のように稠密な絡脈をとおして気血を臓腑と全身の組織に貫注させることができる。

衛気は生体を護衛する陽気である。日中に陽をめぐり、体表の陽経にあまねく分布し、腠理をあたためやしない、外邪をふせぐ。十二経脈に沿って集散分布し、標本の勢〔ながれ・いきおい〕を形成する。夜間は陰をめぐり、肓膜を熏じ、胸腹に散じ〔『素問』痺論(43)〕、臓腑をまもる。他に別のルートがあり経脈の外を運行し、脈と並行する。『霊枢』脹論(35)に「衛気之在身也.常然並脈循分肉.行有逆順.陰陽相随.乃得天和.五蔵更始.四時有序.五穀乃化〔【現代語訳】:衛気が人体を運行するときは、つねに経脈と一緒に循行し、肉の境目を循〔めぐ〕ります。運行するとき、上下には逆順がありますが、内外は相〔あい〕したが随っています。このようであってはじめて正常な機能を保持できるのです。五蔵の気は互いに伝え合い、四季の気候は一定の順序に従って推移するから、五穀は変化して精微を生ずることができるのです〕」とある。衛気は脈と並行して、規範をもって経脈は運行し、臓腑の新陳代謝を促進し、臓腑の生理と四時陰陽との同期性を維持し、気血の生化などの作用をうながすことを言っている。『素問』調経論(62)にいう「取血於営.取気於衛」は、営気と衛気の異なる生理的特徴にもとづいて制定した刺法である。

2016年10月14日金曜日

『素問存疑』が公開されました

京都大学が,百々綯撰『素問存疑』をネットで公開しました。

http://kuline.kulib.kyoto-u.ac.jp/

こちらで検索してみて下さい。

2016年10月13日木曜日

卓廉士『営衛学説与針灸臨床』 第八章 営衛学説の角度から見る その1

卓廉士先生は、術数と衛気などに焦点をあてて『黄帝内経』を研究している学者ですが、今回は、その衛気へのこだわりを紹介したいとおもいます。

第一節 「循経感伝実験」についての再考

二十世紀五十年代、長浜善夫と丸山昌朗の二人は、鍼を刺すとかならず酸〔だるい〕・麻・脹・痛などの反応があらわれ、これらの反応がつねに一定の方向に放散する感覚を観察し、「放散方向が屡々古医書に所謂経絡の走向と殆ど一致すること」〔『經絡の研究』杏林書院35頁〕を発見した。これにつづいて国内の学者も陸続として系統的に感伝現象の観察と研究をおこない、おなじように人体に鍼灸を施術したときに、つねに古代人が「得気」と称した感覚、すなわち鍼下に生じる酸・脹・沈重、あるいは「経脈路線に沿って伝導」(李鼎『経絡学』)して気がめぐる感覚が出現することを発見した。これ以降、「循経感伝現象」は経絡研究の重要な内容となり、数十年来、国家はおおくの人力と財力を投入した。これが経絡の物的基礎を獲得し、経絡の実質を発見する有効な手段だと考えたからである。そのためこの現象をめぐって展開された実験は多数にのぼり枚挙にいとまがないし、これによってたくさんの経絡の実質についての見解と仮説が生まれた。

「循経感伝」の実験研究では、学者たちはつぎのようにみなかたく信じていたようである。鍼刺が生み出す「一定方向に放散する感覚」は「経脈の路線に沿う」と。この現象は非常に直接的に観察できて、さながら証明しなくともわかりきったものなので、「感伝」があらわしているのは経脈のはたらきであり、経気の反応であると考えた。こうして感伝をとおして経絡を発見することが普遍的な方法となった。

「循経感伝」が経気から来ることは、経絡実験に基礎をあたえたし、各種の仮説や想定のよりどころでもある。しかしながら、「循経感伝」は本当に中医の経絡現象をあらわしているのかどうか、いったいどれほど経絡のはたらきをあらわすことができるのか、感伝と古医書に書いてある経絡との間にはどのような関係があるのか。これらの一連の問題は、数十年来納得させるような論証をしめしていない。十分な証拠もなく古医書に書いてある経絡は鍼刺感伝の線路であると説明するのなら、「循経感伝実験」の結果は、きわめて大きな疑いをまねくであろう。

2016年10月12日水曜日

李建民「作為方法的中醫出土文物」から その3

たとえば《脈經》巻三は五段あり、主に四時の脈を講じていて、肝・心・脾・肺・腎の五節に分かれる。本巻はすべて古書《四時經》を抄写したものである。たとえば春の脈は「其色青」であり、以下順を追って各時期の赤・黄・白・黒の五色の診がある。黃龍祥によれば扁鵲学派に入れられる《素問.移精變氣論篇》に「夫色之變化,以應四時之脈」とある。四時の脈は五色に相応じる。《隋書經籍志.醫方》には《三部四時五藏辨論色訣事脈》一巻が記録されている。《四時經》はこの類の色診の佚文にちがいない。森立之には1863年に著わした《四時經考注》がある。《四時經》佚文には、あいだに双行の小字注解があるが、作者は不詳である。この書の各篇の後には、みな「《素問》、《鍼經》、張仲景」というような形式で新たに付加された文がある。色脈学説が各家に派生し、仮託の方式も一様ではないことの証明になる。《四時經》も扁鵲学派が発展して変化した文章の断片なのだろうか?錢熙祚は〈脈經跋〉で、「西晉去古未遠,所據醫書皆與今本不同」〔王叔和の時代は、いにしえからいまだ遠くはなく、よりどころとなった医書はみな現代に通行している本とは異なる〕と考えたが、《脈經》が「引扁鵲脈法,並不見於難經,而書中引難經之文,又不稱扁鵲曰」〔引用している扁鵲脈法は『難經』には見えないし、『脉經』が引用している『難經』の文では、「扁鵲曰く」とは言っていない〕。扁鵲脈法という総称はいったい誰がはじめたのだろうか?

同じように五色診にふれる、《中藏經.五色脈論》も黃氏の扁鵲学派のリストにはない。《脈經》は《中藏經》を引用していた。《中藏經》の一部の内容は六朝人によると疑われている【李伯聰,〈關于扁鵲、扁鵲學派和中醫史研究的幾個問題〉,《醫學與哲學》1994年3期】。〈五色脈論〉が講じているのは死脈を診ることであり、その内容は、《中藏經》の中では非常にわずかな量しかない。

面青,無右關脈者,脾絕也;面赤,無右寸脈者,肺絕也;面白,無左關脈者,肝絕也;面黃,無左尺脈者,腎絕也;面黑,無左寸脈者,心絕也。五絕者死。夫五絕當時即死,非其時則半歲死。然五色雖見,而五脈不見,即非病者矣 。

  上文は色と脈が互いに見えるものと、色と脈が互いには見えないものを論じている。「関」、「寸」、「尺」の部位はどこか?その原理は五行(色)の相克である、木→土;火→金;金→木;土→水;水→火なのか?これは扁鵲の五色診のニセモノか?あるいはあまった無用のものか?以前に扁鵲に似たテキストはあるのか?誰がこのような五色診をおこなっていたのか?《中藏經.五色脈論》にかなり近いものに《素問.藏氣法時論》がある。残念ながら後者は黃氏が前に述べた扁鵲学派の「医籍」リストにはない。五色診の各種テキストにはあるいは矛盾するところがあるのか、まだわからないので、しばらく論じない。後漢以降、五色診は扁鵲学派の独占特許であるかどうかに論争はあるのか?六世紀の蕭吉《五行大義.論配五色》が引用する《黃帝素問》の「草性有五」は今本《黃帝內經》には見えない。蕭氏はさらに「五常之色,動于五藏而見于外」〔五常の色は五臓を動じて、外にあらわれる〕と展開している。黃帝に仮託しながら、さらに増補している。一書のように見えて、二種類あるようだ。

扁鵲はある時に書は残ったものの技術は滅んだのか?いつか?黃龍祥は、「扁鵲医学には『六絶』と『六極』の学説が知られている」と考える【『経脈理論……』391p】。関連する佚文の多くは、六朝の人、謝士泰《刪繁方》に見える。その中には「襄公問扁鵲曰」という長篇の問答があり、《靈樞.五色》の扁鵲の文章と合わせてみることができる【『経脈理論』386-389p】。「六極」学説は、《外台秘要》と《千金要方》の各巻では並び順が異なる。《外台》にある「扁鵲曰」の各文はみな16巻の〈虛勞〉の中に編入されている。しかし《千金要方》では巻11・巻13・巻15・巻17・巻19の各巻に分かれて編入されている。そのうち、蘇禮と王怡は〈《千金要方》所引扁鵲佚文及其學術價值〉において扁鵲の佚文、全部で121条という多くを分析したが、「《千金要方》巻11には扁鵲と襄公の対話があり、興味深い」という。ここの襄公は、《史記.扁鵲傳》中の虚構の人物である齊桓侯に類似する。このほか、黃龍祥は《千金》巻13の「襄公と扁鵲の問答」を引用するが、この書籍は襄公の問答の記述形式を明確に示しているわけではない【『経脈理論』396p】。黃氏はさらにすすめて《內經》の問答形式の経文に手を加え、たとえば「『黃帝』を『扁鵲』に改める」【『経脈理論』396p】ことさえする。もともと《內經》の問答形式での黃帝はみな扁鵲を指すのか?いくつかのテキストははっきり扁鵲医書として存在し、後代のひとが書き換えたのか?余嘉錫の考えでは、他書からの引用した文について、「援群書所引用,以分真偽之法,尚非其至也」【『古書通例』】〔多くの書物が引用していることを根拠に真偽を分かつ方法も、なお完全ではない〕という。正否は分かちがたく、佚文がいまの十倍百倍あったとしても、水増しした文もある。文字づらから分類して整理しようとしてもますます収拾がつかないのではないか?

2016年10月11日火曜日

李建民「作為方法的中醫出土文物」から その2

試みに一例を挙げる。《素問.大奇論》は《素問》の中ではもっとも古い篇だといわれている【小曽戸洋「『脈経』総説」】。内容は、「寒熱獨」など、各種の死脈におよぶ。曹東義などの考証によれば、「《素問.大奇論》の全文は《脈經》にある〈扁鵲診諸反逆死脈要訣第五〉に見える。なおかつ《素問》のこの篇にははじめから終わりまで、黃帝と岐伯の問答の文言が見えないのも、別にもとづくところがあることを示している」。《脈經》巻五では,冒頭から「扁鵲曰」を引き、最後に二度、「問曰」を引き、師が回答して終わる。実際は、大きな段落の文がみな《素問.大奇論》には見えない。《脈經》のこの篇には、なお〔末尾に〕「華佗倣此」とあるが、なにを意味するのか?四角い柄を丸い穴に入れようとするように全く相容れないのではないか?いわゆる「大奇」とは漢代の人の慣用語である。《說文》に「大㱦」に作るのがすなわちこれである。〔『說文解字』「㱦:棄也。从𣦵。奇聲。俗語謂死曰大㱦。」〕劉盼遂(1896-1966)【『文字音韻學論叢』】は医書を引用し、「大奇」を死証の語とする。「また通じて「奇」に作る。《黃帝素問》に〈大奇篇〉有り、皆な人の死証を言う」。 〈大奇論〉の「暴厥者,不知與人言」という句もまた《素問.厥論》の厥症に「令人暴不知人」と見える。

五色診法は扁鵲学派の唯一無二の技術である。黃龍祥は、「『五色診』は実際、扁鵲医学の『専売特許』である」という。《周禮.疾醫》は五色診法を掲載し、五気・五声とならべて挙げている。鄭玄(127-200)は五色診を「審用此者,莫若扁鵲、倉公」〔この法を周到に使えるのは、扁鵲と倉公(淳于意)が一番である〕と考えた。黃龍祥は《脈經》の巻一から巻六まで少なからぬ扁鵲五色診の遺文を探し出した。五色は中国医学ではおおく「五臓」と関連がある。《左傳.昭公二年》に、「五色比象,昭其物也」とある。五色はしばしばその他の事物、たとえば季節や方位などと配される。顔面部の五色で,臓腑や肢節に関連する病候が推測できる(下文に詳しい)。《靈樞.五色》と《千金翼方.色診》には「扁鵲曰」の佚文が大量に引用されている。たとえば、「四墓當兩眉坐直上至髮際,左為父墓,右為母墓,從口吻下極頤名為下墓,于此四墓上觀四時氣」などは、すべてみな扁鵲学派の異なる伝本なのであろうか?医学流派が異なっていても、術語は似る。黃龍祥がいうようにすべては同じ酒瓶なのか?彼は医書の手直しの過程について、「ラベルを替え、包装を改めるだけでなく、時には酒瓶さえ交換した」という。ビンが黃帝のラベルだとしたら、ビンの中はどれほどまだ扁鵲の酒なのか?

李建民「作為方法的中醫出土文物」から その1

扁鵲學派の特徴は、黃龍祥先生の説によれば、いわゆる「独」診の脈法である。第一に、単一の部位およびその他の脈を診るところを診察して比較する。第二に、脈象は単一(たとえば大・小)で、基本の複合した脈象であることが強調される。第三に、脈形と同時に人体部位である皮膚の寒熱の変化を診察する。黃氏は扁鵲の脈法を標本診法と名づけた。つまり人体の上下に相関する部位および浮絡・皮膚・脈動を診察する診法でもある。この特徴によれば、今本《黃帝內經》には黃氏が扁鵲学派としたテキストには、たとえばつぎのようなものがある。《素問》の〈大奇論〉、〈刺瘧〉、〈金匱真言論〉、〈五藏生成篇〉、〈移精變氣論篇〉、〈湯液醪醴論〉、〈脈要精微論〉、〈玉機真臟論〉、〈三部九候論〉、〈厥論〉、〈陰陽別論〉、〈五臟別論〉、〈經脈別論〉、〈玉版論要〉。《素問》の〈著至教論〉、〈示從容論〉、〈疏五過論〉、〈徵四失論〉、〈陰陽類論〉、〈方盛衰論〉、〈解精微論〉も含まれる。《靈樞》の〈五色〉、〈脹論〉、〈五十營〉、〈根結〉、〈癲狂〉、〈寒熱病〉、〈論疾診尺〉等も含まれる。《靈樞》を代表する名だたる篇の〈經脈〉、〈禁服〉、〈玉版〉などでさえも扁鵲学派の一部の断片をとどめている。これらの三十篇あまりの黃帝《內經》の内容が、扁鵲医学の一種の複写といえる。黃龍祥の考証は扁鵲学派を活性化させた。しかし、黃龍祥も「一つの脈法からいろいろな要素を抽出できるし、容易に古い方法から新しい方法を類推することができる」という。なにが扁鵲の古法であり、なにがその変化したものなのか?テキストは重複していて、要素も似ていれば、それらはすべて扁鵲学派なのか?失われた歴史の世界について、われわれは往々にして史料を補う(filling in)心理がある。歴史の空白は注意深く補うべきである。どのような歴史的事柄は無理に補うことができないのか?范行準(1906-1998)は扁鵲の技術は呪禁であって、脈診ではないと考えた。「おもうに、扁鵲が長桑君が授かったのは、禁方と上薬であり、いわゆる禁方とは禁呪の術である」【《范行準醫學論文集》】。前漢の各種の脈診は扁鵲の名に仮託したものである。莫枚士(1837-1907)は、「扁鵲脈法,具載《脈經》,果以診脈為名,豈其言皆虛節耶?」【《研經言》】という。つまり、扁鵲は診脈で名をなしたのではないという。《脈經》の扁鵲脈法も単なる虚文にすぎないのか?《素問.徵四失論》には、当時の医学の風潮を批判して、「受師不卒,妄作雜術,謬言為道,更名自功」(龍伯堅の翻訳:「師匠についてもその修行をおえずに、自分でいいかげんに治療方法をでっち上げ、それを正しい医道として病人をあざむき、功績を立てようとする」【《黃帝內經集解素問》】)という。上述した扁鵲のテキストにはこのような自ら功とする情況はないのか?

《內經》から大量の扁鵲学派の佚文を集めて出したとしても、論者【周海平、申洪硯,《黃帝內經書名與成書年代考証》】が指摘しているように、「『扁鵲』という称号は具体的な医学の学派を指すべきものではない。《左傳》および《史記.扁鵲倉公列傳》の記載にもとづけば、二つの医学学派にはたしかに指し示す内容がある。一つは秦国の医学学派であり、もう一つは後漢時の公乗陽慶と淳于意の医学学派である」。 この二つの東土と西土の医学流派【李零,《蘭台萬卷:讀漢書.藝文志》】は、みな「黃帝と扁鵲の脈書を伝えている」。早期の医学文献の篇巻は確定してなかったり、重複があったりする。淳于意は、みずからその師である公孫光から「方の《化陰陽》及び傳語の法を受く」と述べている。その内容は「陰陽」脈法と口説の書におよぶ。

黃氏の考証方法は、主に異なる医書あるいは文献にある似た文句(phrase)を対比させることである。例を挙げれば、《鹽鐵論.大論》に「聖人從事于未然,故亂原無由生」とあり、《靈樞.玉版》に類似の文、「聖人自治于未有形也;愚者遭其已成也」がある。両者はいずれも「聖人」に言及している。前者は扁鵲の言葉を引いている〔この前文に「扁鵲攻於腠理、絶邪氣、故癰疽不得成形」とある〕。このためこのような医書の似たような文句の由来は扁鵲の遺文から来た可能性がある。聖人とは一人の名医を特に指すのではない。朱維錚(1936-2012。〈歷史觀念史:國病與身病───司馬遷與扁鵲傳奇〉,收入《朱維錚史學史論集》)の考えでは、司馬遷が扁鵲を書いたのは、医術にすぐれていて不幸に遭遇したからであり、その中に引かれている聖人は「在位中の漢の武帝を指す」。《史記》にある文は上述した二つの文に似ている。〔『史記』扁鵲傳:「使聖人預知微、能使良醫得蚤從事、則疾可已、身可活也」。〕このような例は実に多く、似ている文句は時に価値がない(null)。

2016年10月9日日曜日

黄龍祥説に対する批判・支持

・山田慶児先生が『太素』は『素問』や『霊枢』より古い形態をとどめているという,どう考えても勇み足としか思えない説をかつて出されました。学会の方たちは,京都大学の教授の権威をおそれたのか,それを否定する論文を書いた人はいませんでしたが,それに真っ向から反論したのは島田隆司先生でした。
・どこの馬の骨ともわからない鍼灸師から論文を受け取って,岩波書店も困惑したようです。結局,反論は岩波書店の雑誌には掲載されませんでした。無視されたわけです。
・こういう昔話を思い出したのは,わたくしが中医薬大学の論文誌をまったく読んでいないからかもしれませんが,黄龍祥氏が提唱する「経脈穴」なる概念について,発表以来十年以上たつのに,それを批判する論文もそれを肯定する文章も,読んだ記憶がないからです。
・どなたか,黄龍祥「経脈穴」に言及した書籍・論文をご存知でしたら,ご教示下さい。
・最近は様相がかわってきましたが,かつては白川静先生の「字源研究」に言及する学者はほとんどいませんでした。無視されたといっていいでしょう。一般読者からは支持された。鍼灸師が書いた文章にはよく引用されていました。
・白川説を批判しようとすると,その思想体系を相手にしなければならない。非常に厄介です。敬して(いるかは別にして)遠ざける。それと事情は異なるのかも知れませんが,同調しようとすると,自分の先生を批判することになりかねないし,批判しようとすると,これも大仕事になるし,トップの研究所の偉い方だし,共産党員だし……ということで,中国ではやられていないのでしょうか。
・黄先生,今度は『黄帝内経』の中から扁鵲医籍の「遺物」をたくさん抽出して来ました。黄先生の勢い留まるところを知らず,です。
・大陸からの反論は期待薄です。

・ということで,李建民先生の新しい論文には,黄龍祥「扁鵲医学」に言及するところがありますので,一部紹介したいとおもいます。

2016年10月8日土曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』に出てくる「テキスト発生学(文本发生学)」

(法)德比亚齐 文本发生学 2005年

内容介绍编辑
尽管文本发生学是以数字来表示的,通常是超文本的,但它仍然是一种敏感和审美的文学方式。文学手稿的分析并不很规范:这不仅关注“重要文献”,也关注二流作品;它不仅关注符合规范的文本,也关注在档案中被挖掘出来久被遗忘的文本。文学手稿的分析原则要求尽可能多地关注作家的写作、行为、情感及犹豫的举动,主张的是要通过一系列的草稿和编写工作来发现作品的文本。是这些草稿和编写工作使文学手稿分析的目的呢?就是为了更好地理解作品:了解写作的内在情况,作家隐秘的意图、手段、创作方法,经过反复酝酿而最终又被删除掉的部分,作家保留的部分和发挥的地方;观察作家突然中断的中间,作家的笔误,作家对过去的回顾,猜想作家的工作方法和写作方式,了解作家是先写计划还是直接投入写作工作的,寻找作家所用过的资料是先写计划还是直接投入写作工作的,寻找作家所用过的资料和书籍的踪迹等等。

作品目录编辑
引言
一、问题的起源
1 从誉写到亲笔写:现代手稿
2 新价值的出现
3 现代手稿的传统方式
4 现代时期
二、写作过程与文本的发生阶段
1 术语简介
2 写作方式与文本发生阶段
3 前编辑阶段
4 编辑阶段
5 前出版阶段
6 出版阶段
三、手稿的分析:原则与方法
1 写作手稿的方式
2 杠子的范围
3 分析方法
4 科学鉴定的技术
四、起源的版本
1 目标与问题
2 起源版本的两个方向
3 横向版本
4 纵向版本
5 手稿的电子版本
五、发生校勘学:对作品的起源进行解释
1 发生学与文本的校勘:变动,冲突,补充性
2 目的论的问题
3 内起源与外起源:起源的文章间的相互联系性
4 起源与创作论
5 发生学与传记评论
6 发生学与自传
7 起源与精神分析法
8 发生学与主题评论
9 发生学与现象学
10 发生学与语言学
11 起源与历史
12 起源与文学社会分析学派
六、微观发生学的例子:《圣·朱丽叶修士的传说》中的第一句话
1 为什么要对手稿进行分析?
2 一个研究的例子
3 开头词的起源变化
结束语:发生学的前景
参考书目
原本は,Pierre-Marc de Biasiの
La Génétique des textes, coll. « 128», Nathan, Paris 2000, 128 p. ; réédition Hatier, 2005
であろうか?
http://www.universalis.fr/encyclopedie/manuscrits-la-critique-genetique/

2016年10月7日金曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第17章

この章は,『季刊 内経』No.203(2016)に岡田隆先生が訳された「散佚扁鵲医籍の識別・収集・連結」(の原文)とほとんど同文ですので,こちらを参照して下さい。

最近,臺灣・中央研究院の李建民先生からいただいた論文「作為方法的中醫出土文物」(方法としての中医出土文物/掲載誌未詳)では,「扁鵲醫學不因最近幾年新出土的醫書又重新發現」(扁鵲医学で最近出土した医書ではなくまた新たに見出されたもの)の引用文献として,『季刊 内経』岡田訳があげられていました。他の箇所では,本書『經脈理論還原與重構大綱』が引用されているのにもかかわらず。
考えられる理由としては,
この章のもととなった雑誌掲載文より,岡田訳を先に読んで原稿を書いた,
あるいは日本人も読者対象とするので,日本語訳の存在を知らせようとした,
からでしょうか。

ともかくこれにて,本書のメモ的翻訳,終了します。

2016年10月5日水曜日

第16章 続々

 第5節 「脈は気穴の発する所と為る」から「穴は脈気の発する所と為る」へ
 脈と穴との関係について、『千金要方』〔『千金翼方』巻26〕は「凡孔穴者.是経絡所行往来処.引気遠入抽病也」といい、楊上善は「気穴」に注して、「三百六十五穴、十二經脉之氣發會之處、故曰氣穴也」〔『太素』巻11・気穴〕という。これにより、かつてひとびとはみな「穴は脈気の発する所と為る」〔穴とは脈気が発せられる場所〕と考えていた。
 ここで提出する「脈は気穴の発する所と為る」〔脈とは気穴が発せられる場所〕には、二つの意味がある。第一、四肢本輸の遠隔診療作用は、経脈循行のよりどころである。第二、経脈概念が形成されたのち、あらたに発見された輸穴(おもに本輸と標輸)の遠隔治療作用が既存の経脈による解釈範囲をこえた場合は、随時あらたな分枝をくわえたが、新しい脈をつくることさえして、輸穴が主治する遠端部位に直接達するようにした――これも漢代以前の経脈循行が変遷したおもな形式である。

  一、脈は穴によって発せられた
 それぞれの穴は遠隔の診療作用をもってさえいれば、穴も脈である。あるいはどのような穴であってもはじめて発見されたときは、絡脈や陰蹻・陽蹻穴などとみな同様に、すべてに一本の専用の脈――有形あるいは無形の――があった。この理念は『素問』刺腰痛論(41)と『素問』気穴論(58)にすでにあらわれている。穴と脈との関係は、穴が脈を決定するのであって、脈が穴を決定するのではない、ということをはっきりと認識すべきである。まさに梅建寒先生の名言、「経脈の過ぐる所は、主治の及ぶ所」である。経脈がその場所をめぐるのは、本輸が主治する病症の部位がその場所に及ぶからである。もしさらにわかりやすくこの観点をあらわすとすると、「本輸主治の及ぶ所は、経脈絡脈の至る所」といえよう。
  二、一穴専用の脈から、多穴共用の脈へ
 早い時期、古代人が発見した遠隔治療作用を有する穴が少なかったときには、「一穴一脈」の段階があった――一本の脈が一穴専用に設けられた。脈の起点は穴の所在地となり、脈の終点が穴が主治する病症部位のもっとも遠い端となる。この段階では、脈と穴とは完全に同じ名称を用いて命名された。現在でも伝世本『内経』やその他の古い文献にこの時期の脈穴名の遺物が見られる。たとえば、「手太陰」あるいは「臂太陰」は脈名であり、穴名でもある。同様に、列欠は絡脈名であり、絡穴名でもある。陰蹻・陽蹻は脈名であり、穴名でもある。穴が増えるにしたがって、穴は分けるために異なる名称を用いて命名しなければならなくなった。
 ……絡穴はのちに相応の経脈に帰属することになったが、絡穴の作用は依然としてその元々所属していた絡脈が介在しているのであり、帰属している経脈によるのではない。足三焦の別である「委陽」は、足太陽経に入れられたが、その三焦病症に対する治療作用は、足三焦の別を通して実現するのであって、それが帰属している膀胱経によってその道筋が変更されたのでは決してない。照海と申脈は足少陰と足太陽に入れられたが、それが眼の疾患を治療する作用は、依然として陰蹻と陽蹻が介在する。
 もし『素問』気府論(59)の「脈気発する所」という概念がなかったら、腧穴は一穴一脈という形態が保持され、実際的な意味のうえでの三百六十五穴が三百六十五脈(あるいは三百六十五絡)に連なることになる。現在まで伝承されている別の鍼灸流派である「董氏鍼灸」は一穴一脈というモデルを保持していて、早い時期の古典鍼灸にあった「脈」「穴」関係の「生きた化石」とみなせる。唐代以後、『明堂』の穴は経に帰属したが、大多数は局部か近隣部に治療作用がある腧穴であって、「脈」の介在やつながりは必要なく、「脈気の発する所」の必要もない。これらの穴についていえば、経に帰属させる意味は、おもに腧穴の分類法を提供して、記憶して臨床で取穴するのに便利にすることにあるにすぎない。
 もし最初の一穴の脈という穴がそれ以上増えなかったら、穴名と脈名は依然として穴と脈が同じ名前である形式を保持し続けた〔原文:那麼穴名与脈名依然保持着脈、名同名的形式。//「脈、名同名」を「穴、脈同名」として訳した〕。たとえば、宋代になっても、陰蹻・陽蹻の脈と穴は依然としてまったく同じ名称をつかっている。
 もし穴がずっと一穴一脈の形態――今日の「董氏鍼灸」の脈-穴関係――を保持していたら、現代人の経脈の意味に対する理解はきっと大いに異なったにちがいない。少なくとも今日の実験研究者が「経絡とはなにか」という問題に執着せず、問題の出し方をかえるか、ちがう問題を提出することができただろう。
 経に帰属する穴がふえると同時に、対応する経脈の循行路線の描写もますます詳細なものにかわったので、参照すべき穴の座標点がさらに多くなった。一般に、本輸穴・六府合穴・気穴論の要穴・四海の輸、脈穴(特に標本脈と頸項にある十の脈穴)、さらに絡脈穴さえもみな『霊枢』経脈(10)の経脈循行路線の上にあらわすようになり、なおかつ経穴部位にもとづいて経脈の循行路線を修訂したり増補したりした。

 【まとめ】
1.2. 省略。
3.『内経』中の腧穴の多くは穴名がない。その中の「灸寒熱病兪」にはまったく穴名がない(唯一の穴名である「関元」は、テキストの誤りによる)。穴名があるおもなものは、以下の三種類に見られる。脈穴――脈と同名の穴(たとえば、大迎と天突、天府、天牖、扶突、天窓、委陽)。部位穴――解剖学的部位と同名の穴(たとえば、缺盆、上関、下関、犢鼻、完骨、肩解)。経脈穴――経脈と同名の穴(たとえば、手少陰、陰蹻、陽蹻)。厳密にいえば、みな腧穴の専用名とみなすことができない。ほかによく見られる命名の方式としては、経脈名+部位名がある。たとえば、「足少陰舌下」「厥陰毛中急脈」。
4.『内経』にある腧穴の専門篇は前後で呼応している。例:その一:「手少陰に五輸穴がない」ことは、各篇で一致している。特に説得力のあるいくつかの腧穴の誤りも一致していて、用語も同じである。これは、『内経』にある腧穴の専門篇と専門の論が同一の文献を出自としているか、あるいは同一人物によってまとめられたことを示している。その二:十一の脈穴しかない。気府論・気穴論・本輸篇はすべて十一脈のみである。

2016年10月4日火曜日

第16章 つづき

 第4節 『内経』時代の腧穴総覧
一、穴の概念
 『内経』の腧穴専門篇である気穴論は「気穴」と名づけるが、「三百六十五」の気穴以外に「孫絡」「谿谷」がそれぞれ「三百六十五」ある。『霊枢』の第一篇である九針十二原篇も「節の交、三百六十五会」という。もしこの四者が異なる概念だとすると、『内経』時代の穴数は1460もの大きい数字に達することを意味することになり、『素問』気穴論が掲載する穴の総数の十倍に相当する。しかし、『内経』にいう「節」「気穴」「孫脈」「谿谷」は多くの状況下では、類義語として使用されているとすべきで、いわゆる「節の交三百六十五会は、絡脈の諸節を滲灌する者なり」(『霊枢』小針解(03))、「夫(そ)れ十二経脈は、皆な三百六十五節に絡す」(『素問』調経論(62))、「孫絡三百六十五穴会は亦た以て一歳に応ず」(『素問』気穴論(58))である。実際のところ、これらの異なる言い方はそれぞれの異なる「出身」の一側面――異なる時期の異なる理論的枠組を反映している。いわゆる「孫絡」は、「刺脈」(および後の「刺皮部」)との関係がより密接である。「谿谷」は「刺肉」「刺骨」と関連がある――いわゆる「肉の大会を谷と為し、肉の小会を谿と為す」「谿谷は骨に属す」は、『素問』骨空論にいう「骨空」(孔)の概念にいたり、「刺骨」とより関係が密接となった。これらの起源は「皮肉脈筋骨」という五体刺法の産物である。実際、伝世本『内経』に掲載される鍼灸処方の鍼刺部位である穴には、経脈理論が誕生する以前の、このような「五体刺法」の腧穴概念が大量にある。『内経』刺法の専門篇である『霊枢』官針(07)が掲載する各種の鍼術では、「五体刺法」が圧倒的多数をしめていて、その当時、「気穴」の概念はやっと起こったばかりである。『内経』に多量に記載されている時期の異なる「四時刺法」には、このような「五体」の穴から「気穴」の穴への変化移行の過程がはっきりと見て取れる。これらの異なる時期の異なる理論的枠組の下にある「穴」の概念が、みな「気穴」という名を冠されて、腧穴の専門篇である気穴論に集められた。この篇が編まれたとき、「穴」の外延はおおいに拡張され、もともと異なっていた「穴」が融合しはじめた。いわゆる「谿谷三百六十五穴会」「孫絡三百六十五会」は、概念が融合したことをあらわしている。しかしわれわれは、気府論ないし漢代の腧穴経典である『黄帝明堂経』からこの整理統合の過程を比較的はっきりとなお感じ取ることができる。
二、分類体系
 『内経』では、腧穴の分類で主要なものは、部位・効能・臓腑・経脈によって、四つに分けられる。その中で、部位による、あるいは部位と効能を合わせた分類法の応用がもっとも広い。『素問』気穴論は典型的な実例である。
 【部位による分類】「背兪」と「膺輸」、「本輸」と「天牖五部」など。
 部分けは、体幹部位によるものを除いて、ほかに臓腑によるものがあるが、これも二つに分かれる。その一、後背部の臓腑の腧を指す。いわゆる「五臓の腧の背に出づる者」(『霊枢』背腧(51))である。その二、十二経脈が臓腑と関連ができたのち、経脈の本輸――五輸穴も「臓兪」と「腑兪」と見なされる。いわゆる「臓兪五十穴、腑兪七十二穴」(『素問』気穴論(58))である。もしさらに細かに分ければ、やはり二つに分けることができる。その一、五臓は「十二原」に出る。いわゆる「五臓に六腑有り、六腑に十二原有り、十二原は四関に出で、四関は五臓を主治す。五臓に疾有れば、当に十二原に取るべし」(『霊枢』九針十二原(01))。その二、六腑は「下合輸」に合する。いわゆる「胃の合は三里に、大腸の合は巨虚上廉に入り、小腸の合は巨虚下廉に入り、三焦の合は委陽に入り、膀胱の合は委中央に入り、胆の合は陽陵泉に入る」(『霊枢』邪気蔵府病形(04))。
 経脈による分類も実際上は、「部位による分類」の一つの特例とみなすべきである。指摘が必要なことは、『内経』の穴で経脈に属するものは、本輸と標輸のみであり、この両者のなかで特に重視されるのは本輸である。特に「経兪」という語は、本輸――五輸穴を指す。これが実際的に反映しているのが、経脈理論が構築された時期の脈-穴関係である。

  経脈十二、絡脈十五、凡そ二十七気、以て上下す。出づる所を井と為し、溜〔なが〕るる所を滎〔けい〕と為し、注ぐ所を腧〔しゅ〕と為し、行 〔めぐ〕る所を経と為し、入る所を合と為す。二十七気の行〔めぐ〕る所、皆五腧に在るなり。(『霊枢』九針十二原(01))
 

 絡脈によって分類する穴は簡単で、十五絡にはそれぞれ一穴――十五絡穴がある。特に注意が必要なことは、十五絡穴はおそく現われた概念である、ということである。『内経』の腧穴の専門篇などには「十五絡穴」は見得ない。『内経』にある「絡兪」という語は十五絡穴を指すものではない。

  故春刺散俞,及與分理,血出而止,甚者傳氣,閒者環也。夏刺絡俞,見血而止,盡氣閉環,痛病必下。秋刺皮膚,循理,上下同法,神變而止。冬刺俞竅於分理,甚者直下,閒者散下〈新校正云:按《四時刺逆從論》云:「夏氣在孫絡」、此「絡俞」即孫絡之俞也。〉。(『素問』四時刺逆従論(64))

 按ずるに、新校正の言うことはきわめて正しい。四時鍼法は、「皮肉脈筋骨」という五体刺法にもとづく古い刺法であり、伝世本『内経』にはたくさんの記載がある。そのうえ、篇章が異なれば、異なる時代の特徴も表現されている。五体刺の旧態を基本的に保持しているものもあれば、五体刺から五輸刺への過渡期のものもあるし、五体刺から五輸刺へ完全に変化したものもある。しかし総体的にはつぎのような変遷の特徴が見いだせる。春と夏には「五体」の刺法を引き続き用いているが、秋と冬では「五輸」の刺法に改める。夏に取るのは「孫絡」であり、いわゆる「夏気は孫絡に在り」であり、すなわち『素問』診要経終論にある「絡兪」の意味でもある。

  ・是故春気在経脈.夏気在孫絡.長夏気在肌肉.秋気在皮膚.冬気在骨髄中.(S.64四時刺逆従論)
  ・故春取経血脈分肉之間.甚者深刺之.間者浅刺之.夏取盛経孫絡.取分間.絶皮膚.秋取経腧.邪在府.取之合.冬取井滎.必深以留之.(L.19四時気)
  ・春取絡脈諸滎.大経分肉之間.甚者深取之.間者浅取之.夏取諸腧孫絡.肌肉皮膚之上.秋取諸合.餘如春法.冬取諸井諸腧之分.欲深而留之.此四時之序.気之所処.病之所舎.蔵之所宜.(L.02本輸)

 これからわかるように、『素問』診要経終論にいう「夏刺絡兪」とは、『内経』の他の篇で対応しているのは「夏刺絡脈」であり、『素問』気穴論(58)にいう「孫絡三百六十五穴会」の絡穴であり、林億がいう「孫絡之兪」でもある。対応しているのは、『霊枢』官針(07)の「絡刺」法――「絡刺は小絡の血脈を刺すなり」である。当然のことながらこの「絡兪」を十五絡穴と理解すべきはない。

 【効能による分類】「熱兪」二種類、水兪、寒熱病兪などがある。この中で「水兪」は実際上は「腎之兪」に相当する。

  帝曰.水兪五十七処者.是何主也.岐伯曰.腎兪五十七穴.積陰之所聚也.水所従出入也.尻上五行.行五者.此腎兪.故水病下為胕腫大腹.上為喘呼.不得臥者.標本倶病.故肺為喘呼.腎為水腫.肺為逆不得臥.分為相輸.倶受者.水気之所留也.伏菟上各二行.行五者.此腎之街也.三陰之所交結於脚也.踝上各一行.行六者.此腎脈之下行也.名曰太衝.凡五十七穴者.皆蔵之陰絡.水之所客也.(『素問』水熱穴論(61))

 これからわかるように、経文中の「水兪」と「腎兪」の意味はひとしく、「腎は水を主る」という観念と関連する。

2016年10月3日月曜日

第16章 気府と気穴――『内経』の穴図をあつめ、新たに解釈する

 第1節 気府論新解
 結論
1.『素問』気府論(59)の「脈気発する所」は、人体の三陰三陽によって分けられていて、『素問』陰陽離合論(06)と応じている。『黄帝明堂経』の腧穴は経脈によって分類されていて、文字は同じであるが、意味は大いに異なる。この点を見抜くことができないと、気府論を理解できない。このほか、気府論の手足三陽穴の排列には一カ所異なるところがあり、その中の手三陽の順序は陰陽離合論と一致し、太陽、陽明、少陽の順序で穴を論じている。足三陽は「太陽」「少陽」「陽明」とする。
2.王冰は気府論と陰陽離合論の関係を明らかにできなかったために、『明堂』『黄帝中誥孔穴図経』をつかって気府論のテキストに大胆な改編をおこなった。その中で後世の鍼灸学に対する大きな影響を生じたものが四つある。第一、足太陽脈に背兪穴を増やした。第二、陰経の五輸穴を削除した。第三、足陽明脈を削り改めた。第四、衝脈の脈気発する所の穴を加えた。この四つの改変は、気府論の様相をまったく変えてしまって、関連する篇章との間に多くの矛盾が生じることになった。
3.絡穴がないのは、脱文によるのではなく、当時がまだ「絡穴」は出現していなかった。
 第2節 気穴論新解
 結論
1.『素問』気府論(59)は、人体を三陰三陽でわけて全身の穴をまとめて述べているが、『素問』気穴論(58)は、効能によって臓兪・熱兪・水兪・寒熱病兪などに分類している。そのため楊上善は篇末に「以上九十九穴、通じて諸病を療するなり」と注している。その主旨を深く得ているといえる。本篇で述べられている穴には、『霊枢』本輸(02)の本輸・標輸(天容・人迎・天池の三穴を欠く)・熱兪の一、気街・水兪・下合穴・陰陽喬の四穴をふくむ。これからわかるように、本篇の腧穴は異なる理論の枠組みの下にある腧穴をあつめたもので、異なる枠組みの中で重なっている穴もそのまま残してある。〔表がある。省略〕
2.「関元一穴」「斉一穴・肓輸二穴」はみな、「灸寒熱法」の原文についての誤解である。臓兪十五穴〔「五十穴」か〕を除いて、本篇が述べているのはみな陽経の穴であり、上肢の穴を欠き、十五絡穴を欠き、いずれも灸寒熱法の特徴と同じである。『素問』水熱穴論(61)が載せる熱兪五十九穴も同様である。
 第3節 熱兪と灸寒熱病新解
 熱兪五十九穴には二説あり、一つは『霊枢』熱病(23)に見られ、もう一つは『素問』水熱穴論(61)に見られる。灸寒熱之法は、『素問』全元起本では『素問』刺斉論にあり、王冰注本では骨空論にある。楊上善『太素』では分けられ独立して「灸寒熱法」という篇になっている。
 二つの熱兪五十九穴の文は、本来のすがたが比較的失われておらず、後代のひとの理解に相違は少ない。しかし、灸寒熱之兪については、理解がたいへん困難で、灸処方全体がいくつの穴で構成されているさえ、確定しがたい。そのため唐代の楊上善のこの篇に対する注は少なく、王冰は、その大部分の腧穴に注解してはいるが、注をつけた穴もそれぞれ的確ではないので、明代の楼英が『医学綱目』で『素問』の灸寒熱之法の王冰注を引用する際は、疑問がある箇所には、「未詳是否」と注をつけている。「灸寒熱之法」のもともとの方には一つも穴名がなく、非常に古い灸処方であるので、伝世本『素問』が編集されたときには、このテキストにはすでにかなり多くの誤りがあって校正できなかった可能性がある。後世の伝承過程でもあらたな誤りがうまれ、この処方を解読がむずかしくなった。よって以下では、この灸寒熱病兪を重点的に考察する。
 この灸処方を考察してわかった、その腧穴の排列規則は以下の通り:第一、縦方向に上から下へ排列されている。第二、橫方向では行ごとに排列されている。
 同時に、やはりわかったことは、伝世本『内経』の腧穴専門篇あるいは専門論が相互に関連することである。具体的にはこの灸寒熱病処方は『素問』気府論(59)と密接に関連する。

2016年9月29日木曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第15章 経別——原型と影  つづき

 3.「六合」と「離合」
 『霊枢』経別は、経別の循行を論じるのに、明確に「六合」を用いているので、現代人も「六合」を経別の別称としている。また経別で述べられている経別の循行では「離合」するところが強調されているので、明代の張景岳『類経』は「離合」を経別の文の篇名としている。『素問』陰陽応象大論を調べてみると、「帝曰く、余聞くならく、 上古の聖人は人形を論理し、臓腑を列別し、経脈を端絡し、六合に通ず、と」とあり、王冰は、「六合は、十二経脈の合を謂うなり。『霊枢』に曰く、太陰陽明 一合を為し、少陰太陽 一合を為し、厥陰少陽 一合を為す、と。手足の脈各々三、則ち六合を為すなり」という。しかし、この一例だけでは、「六合」が当時流行していた六組の「経別」を指した規範的な術語であることを証明するには十分ではない。さらに、「六合」という語は伝世本『霊枢』『素問』には合計八回出現し、「経別」と解釈して通じることができるのはこの一箇所のみであり、他の七箇所はみな「経別」とは関わりない。同様に、「離合」は『内経』でもっぱら経別の循行の特徴を指しているわけでもなく、その他の概念内容もある。このように、「六合」と「離合」を経別の総称とすることは、術語の一義性の要求に合致しないことがわかる。
 4.「与別倶行」と「復属於」
 『霊枢』経別全体をみると、陽経の循行に「正」と「別」があるのみである。まず本経と別「離」して、四肢から心に近いところで相応ずる陰経に合する。その「別」は陰経の道を借りて「入って」胸・腹腔に行き、相応ずる臓腑に属絡し、頸項部にある陽経の標脈箇所に「出て」、本経に「復た属す」。いいかえれば、陽経は陰経に「合した」のち、頸項から表に「出る」前までのすべての行程をずっと陰経の道を借りて行く。対して陰経はその本経に沿って四肢から心に近いところに行き、経と離れてめぐる陽経の別とともに入って裏に行き、臓腑に属絡し、さらに陽経にしたがい、頸項部に出て止まる。いいかえれば、陰経は相応ずる陽経と「合する」「出」口があるだけである。したがって陰経の循行は簡略であり、「正」があるだけで、「別」はない。そのため「別と倶に行く」は陰経にみられるだけで、陽経には見られない。「別れて行」かないので、当然「復た属す」という説明もない。したがって、本経に「復た属す」という説明は陽経に見えるだけで、陰経には見えない。この点を意識さえすれば、経別篇の真意を正しく理解することができる。「陽脈の別は内に入り、腑に属する者なり」という理論を構築するための通り道だったのである!これからわかるように、経別篇冒頭のいわゆる十二経脈の「離合出入」は、実は陽経にのみ言っているだけで、陰経は含まれていない。現代人がいう「十二経別」は適切ではなく、錯誤や誤解を生じやすい。

2016年9月27日火曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第15章 経別——原型と影

第2節 術語と定義
 これまでずっと、「経別」という語についての理解は学術界で大きな相違があり、対応する英文翻訳も一致していない。問題の鍵は、経別篇テキストを正確に理解できないところにある。したがって「経別」概念には正確で明確な定義が欠けている。
 1.「正」と「別」
 『霊枢』経別に述べられている経脈の「正」は、経脈篇の経脈循行と同じであるので、「正」とはすなわち「正経」(あるいは「本経」)であることがわかる。経別篇に述べられている「別」は、陽経が本経から別れて、相表裏する陰経に合し、内に入って行き、腑に属する分枝のことを指している。ここには特に注意すべき点が二つある。第一に、経別篇が述べる経脈の「正」の文には、経脈篇で対応する経脈循行と完全には一致していないものもあるが、これは経別篇の定稿年代が経脈篇の定稿年代よりあきらかに早いためである。第二に、経別篇が述べる「別」は、経脈篇で対応する経脈循行の描写に欠けることなく見られる。以上の理解にもとづけば、経別篇にある十二脈の「正」は「脈」か「経」に完全に取り替えることができる。当然のことではあるが、このように交換したあとの、経別篇と経脈篇に述べられている十二経脈の関係は一目瞭然である。しかし、二つの篇に述べられている脈の方向は異なり、そのうえ経脈篇の作者は両篇の経文中の方向が異なる対応する文字について相応の調整をおこなうことができず、経別篇の脈を「植え込んだ」、はっきりとしたまとまった標識をとどめたので、後代の人や現代人はずっとこの両篇の相互間の関係を知らなかった。まさに経脈篇の作者のこの手抜かりが原因で、後世の経別篇に注をつけた者は、この二つの底本にある単純明解な術語「正」と「別」に多くの理解しがたい解説を書き表わした。
 2.「経別」と「正別」
 「経別」という語は、唐代の楊上善『黄帝内経太素』巻九・経脈正別は「経脈之別」とも「正経之別」とも解している。彼の注した『黄帝内経明堂』は「別なる者、正別の別有り、即ち経別なり。別に走る者有り、即ち十五絡なり。諸脈は此れに類するなり」という。1957年の江蘇新医学院編『針灸学』は「別行の正経」と解しているが、意味は同じである。このように「経別」と「正別」は同義語と見るべきである。ただし理解の上ではやや異なるところがあり、「経別」という語は一般に「経の別」とのみ理解され、「正別」は「正経の別」と理解できるので、さらに「正」と「別」とに理解できる。もし「経別」を「経脈の別れ」の略称と理解するとすると、経脈篇に述べられている経脈循行の支絡脈「其支者」と十五絡脈、さらには陰蹻脈(足少陰の別)、陽蹻脈(足太陽の別)などでさえ、みな「経別」と呼べるようになってしまう。実際、古い『黄帝内経』の注釈者はたしかにこの意味で「経別」という語を使用している。たとえば、明代の馬蒔は、「正なる者は、正経なり。宜しく経脈篇の其の直行なる者と相合すべし。別なる者は、絡なり。宜しく経脈篇の其の支なる者、其の別なる者と相合すべし」という。清代の張志聡は、あらゆる絡脈(十五絡脈・五蔵六腑の大絡・『素問』繆刺論の諸絡など)をみな「経別」といい、十二経脈の絡は、直接「十二経別」といっている。
 『内経』にある異なる経脈分枝を区別するために、王冰は経脈篇の「其支者」を「絡」といい、十二経脈の絡を「別絡」といい、経別篇の脈を「正別」という。たとえば、『素問』繆刺論の「故に絡病は、其の痛み、経脈と繆する処、故に命(なづ)けて繆刺と曰う」に、「絡は、正経の傍支を謂う。正別に非ざるなり。亦た公孫・飛揚等の別絡を兼ぬるなり」と注している。このような区別はぴったりではないが、経別篇の脈を「正別」という点では、楊上善の処理法をまったく同じであり、伝世本経別篇にあたる楊上善『黄帝内経太素』では、「経脈正別」という篇名となっている。しかしながら、この術語は具体的な脈の名前をあらわすときに用いると(楊上善と王冰がいう「手太陰正別」「手陽明正別」など)、やはり明らかな欠陥がある(詳細は下文)。『霊枢』の経文では、同様の概念を述べるときは、単に「正」か「別」というのみで、「正別」と連ねてはいわない。
 これからわかるように、「経別」あるいは「正別」は篇名として用いる場合は問題ないし、経別篇の脈の総称としても通用するが、具体的な脈の名前として用いることはできない。たとえばわれわれは「手太陰経別」あるいは「手太陰正別」ということはできない(一つには経脈篇の手太陰経脈そのものの「支絡」脈と「手太陰之別」と区別するすべがない。二つには、さらに重要なことは、経別篇の六陰経には「正」があるのみで、「別」はない)。術語の一義性と科学性、および英文翻訳の便を総合的に考慮すれば、「手陽明腑絡」「足陽明腑絡」などのように、経別篇の具体的な脈名には「陽経腑絡」を用いるのがよい。このようにすれば、『内経』のその他の絡脈と区別できるし、正確な定義と英文翻訳に便利である。つぎのように問うひともいるかもしれない。なぜ別に「陰経臓絡」を立てて、経別篇の六本の陰経をいわないのか、と。なぜなら陽経は「経別」という特殊な通道を借りなければ腑に入り絡すことができないが、陰経は自前の主幹となる道と相応ずる五臓との連係があり、道を借りなくとも行けるのである。楊上善や朱肱などが十二経脈の循行路線を述べる際、陽経で経別篇の文を引用しているのみで、陰経ではみな引用していないのは、まさにこういう理由である。
 「経別」を「経脈別論」の略称と理解するひともいるが、この説は根拠を欠く。文法上からいえば、「経脈別論」の四字のいかなる一字も省略できないし、このような略称の先例はさがしても見つからない。文献上からいえば、伝世本『素問』には「経脈別論」という篇名がすでにあり、一冊の本の上下巻にまったく同じ篇名があらわれるというのも通らない。

2016年9月26日月曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第14章 十五絡脈 疑いなきところに破綻をさがす

 第2節 術語と定義
 1.別・支と支別
およそ経脈と絡脈の分枝は、みな「別」という。『霊枢』経脈は十二経脈に関する分枝を「其支者」「其別者」に作る。『霊枢』営気は、つらねて「其支別者」に作り、王冰注『素問』が引用する十二経脈の分枝の循行の経文は、多く「其支別」に作る。『鍼灸甲乙経』には「支別」を篇名とするものさえある〔巻二・第一〕。絡の別は孫絡である。経の別は四つに分類される。第一、環の端なきがごとき「経脈連環」を形成する以前からあった経脈循行の分枝(病候と関連する)。第二、「経脈連環」を構築するために経脈篇の作者が新たに増やした分枝(病候とは無関係)。第三、陽経が内臓に入って属する分枝。第四、十五絡(厳格にいえば「十四絡」で、脾の大絡は含まない)。明以前、古代人はすでにこの四分類の「別」を認識していたが、この四分類の「別」に規範となる術語と明確な定義を出していなかった。その中で、王冰は第一の分枝を「絡」といい、滑寿は第二の分枝を「絡」という。第三の分枝を現在はまとめて「経別」といい、第四の分枝を「十五絡」あるいは「十五大絡」という。現代の鍼灸界は、前の二種類にあたる経脈の分枝を区別せず、経脈の分枝とまとめていう。実際のところ、この二つの分枝の意味には、本質的な相違があるので区別しないと、ひとびとがそれらを正確に理解し評価するさまたげとなる。事実、現代人の経脈学説についての誤読と誤解は、まさにこの二つの性質を異にする「別絡」を混淆していることによることが少なくない。
 2.別・絡と別絡
 上述のように、絡は「別」の一種に属す。『霊枢』経脈にある十五絡は、脾の大絡を除いて、みな「別」という。篇末に「凡そ此の十五絡、実するときは則ち必ず見(あら)われ、虚するときは則ち必ず下り、之を視れども見えず、之を上下に求む。人の経同じからざれば、絡脈の別かるる所を異にするなり」とある。三焦の下輸「委陽」は、『霊枢』本輸では「太陽絡也」にも「太陽之別也」にも作る。ここでの「別」と「絡」が等しいことが見てとれる。王冰は二つの術語を合併して「別絡」というが、『黄帝明堂経』は十五絡以外の絡脈を「別絡」という。王冰による「別絡」の用法は、後代のひとには受け入れられず、『黄帝明堂経』に掲載された「別絡」もまたひとびとに熟知されなかったので、この二つの「別絡」の用法はともに流行しなかった。ここで特に取り上げるべきことは、滑寿『十四経発揮』が上述の第二類にあたる「経之別」(「経脈連環」の統一を構築するために新たに増やされた分枝)をみな「絡」といっていることである。この命名法は、はやくも楼英によって疑義が提出されたが〔『醫學綱目』卷一・陰陽:「許昌滑壽著《十四經發揮》,釋經脈為曲,絡脈為直;經為榮氣,絡為衛氣,乃所以惑亂來學也。謹按經云……」〕、ひとびとからは、ほとんどすっかり忘れ去られた。しかし、忘れていけないことは、この不合理な命名法の背後にある貴いところ、つまり『霊枢』経脈にある十二経脈の循行には、性質と異にする二種類の分枝があることを認識することである。この点を積極的に意識することは、現代の鍼灸界にとって特別な意味がある。
 3.十五絡脈と十五大絡
 「十五絡脈」は、『内経』で明確に使用されている術語であり、「十二経脈」と相対するものである。しかし、楊上善・馬蒔・張志聡といった『内経』の注釈者は、十五絡脈を「十五大絡」ともいっている。現今の鍼灸学・経絡学教材も、この二つの術語を同義語としてしばしば使用している。実は、「十五大絡」という語の不合理性は、それと対応する「十二経脈」と照らし合わせれば、一目瞭然である。古代であれ現代であれ、「十二経脈」を「十二大絡」というひとはいない。さらに重要なのは、「大絡」という言葉は『内経』では、特定の概念内容を有することである。第一に、体表にある「小絡」に対する経脈を「大絡」といい、『霊枢』経脈が述べる「十五絡」に限定されない。たとえば、「三焦の病は、腹気満ち、小腹尤も堅く、小便するを得ず、窘急し、溢るるときは則ち水あり、留まるときは即ち脹と為る。候は足太陽の外大絡に在り。大絡は太陽少陽の間に在り。亦た脈に見(あら)わる。委陽を取る」(『霊枢』邪気蔵府病形)、「邪 三焦の約に在れば、之を太陽の大絡に取る。其の絡脈と厥陰の小絡の結ぼれて血ある者を視る」(『霊枢』四時気)。「十五大絡」の妨害によって、現代人は『内経』にある、こういった「大絡」を一見すると、「十五大絡」のことだと理解するのを当然だとおもう。第二に、特に内臓の絡脈を指す。たとえば、「胃の大絡、名づけて虚里と曰う。膈を貫き肺を絡(まと)い、左乳の下に出で、其の動は衣に応ず。脈の宗気なり」(『素問』平人気象論)、「胞絡は腎に繫る」(『素問』奇病論)、「夫(そ)れ衝脈は、五臓六腑の海なり。其の下る者は、少陰の大絡に注ぎ、気街に出づ」(『霊枢』逆順肥痩)。経脈篇に述べられている十五絡の文では、その術語である「別」と「絡」は同一視できるが、「大絡」とは同一視できない。臓腑の脈をあらわす「大絡」を「別」ということができないのは明らかであり、実際は「経隧」の概念に相当する。まさに『霊枢』玉版にいう「胃の気血を出だす所の者は、経隧なり。経隧は五臓六腑の大絡なり」である。
 以上の理由をかんがみて、以下のことを提案する。今後の鍼灸学教材と関連する標準テキストでは、「十五絡」を標準術語とすべきであり、「十五大絡」はもはや規範となる術語としては使用すべきではなく、現代人およびこれからのひとが『内経』の「大絡」概念の誤解と英文翻訳上の混乱を招かないようにすべきである。

2016年9月25日日曜日

前野直彬『漢文入門』 (ちくま学芸文庫)

185頁:「湖-西」とあるのは,この二字をまとめて「こせい」と音で読めという印である。もしも「みづうみのにし」と訓で読ませたければ「湖」の下に「ノ」と送りがなを入れ,さらに「湖_西」と,左側に寄せたハイフンをつける。すべて-が中央ないし右側にあれば音,左側ならば訓で読むことを示す。
 送りがなも「知ヌ」は現在ならば「知ンヌ」となるところだが,「ン」を省略してもわかるのだから,省略してある。また「〆」は「シテ」,「˥」は「コト」である。昔の送りがなには,このようにカタカナ二字を一字であらわした符号が多い。たとえば「然レドモ」の「ドモ」は「| モ」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%82),「するとき」の「トキ」は「寸」と書く。
186頁 訓読法の改革
 「言へば」は,平安朝では「言ふからには」の意味であったが,江戸時代となるとしだいに仮定を示すときも使われるようになった。……そこで,平安朝ならば当然「言はば」となるべきところにも,「言へば」と送りがなをつけることが多くなった。……日本語に「霧」の動詞はない。そこで古い訓読では「霧フル」などとして動詞化したが,江戸時代となると送りがなをなるべく減らして簡潔にしようとする意識がはたらき,「霧ス」に変わっていった。「霧(きり)す」では日本語として意味が通じないが,訓読特有の語法として通用するようになったのである。
 この類推が動詞にも及んで,「死」は古くは「死にき」「みまかりぬ」などと読んでいたが,一様に「死す」と読むようになった。
 また,原文の漢字をなるべく多く読もうとするのも,有力な傾向となった。……「学而時習之」の「之」は,平安朝では読まなかった。ここの「之」は特に何をさすという代名詞ではないのだから,読まないほうがむしろすっきりする。しかし江戸時代になると,「学びて時に之(これ)を習ふ」と「之」まで読むのが一般化してきた。同時に「吾不関焉」は「吾関せず」(私は関係がない)でさしつかえがないのだが,「吾関せず焉(えん)」と助字まで読む読み方も生じた。
 このようにして……訓読のしかたに変化がおこると,それを整理して新しい訓読法の原則を作ろうという動きがおこる。……【佐藤一斎の】一斎点などの訓読には,「謂(おも)へらく」などという奈良朝時代の言葉から「君,これを為(な)せば如何(いかん)」などという江戸時代の言葉を含んだ表現まで,日本語の歴史を一つにつきまぜたような,妙な日本文ができあがった。
 平安朝では「猛虎は已(すで)に死にき」と読んだはずだが,新訓読では「猛虎已に死す」と現在形にしてしまう。したがって一度訓読しておいてから,ここの「死す」は過去のことなのだと説明しなおさなくてはならない。
 こう書くと,江戸時代の新訓読はいかにも不合理なように見えるかもしれないが,それが成立するには,やはりそれだけの歴史的必然性があった。新訓読法はなるべく訓読を簡便にして誰にでも漢文が読めるように留意してあるとともに,漢作文をするときにも便利なようになっている。
 新訓読法が行きわたったころは,もう明治維新になっていた。……明治四十五年三月二十九日,「漢文教授に関する文部省調査報告」(http://snob.s1.xrea.com/fumikura/19120329_kanbun/)として発表された。……これは調査報告であって強制力は持たないが,以後の漢文教科書はみなこの訓点法に従うようになった。……
 われわれが漢文を訓読して,これが昔から伝わった読み方だと言っても,実は江戸時代からの,場合によっては江戸末期からの百年あまりの期間に伝えられた読み方なのである。漢文訓読の長い歴史の中では,ごく短期間にすぎない。

2016年9月23日金曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第13章 十二経脈の道筋――「直」「支」「別」「絡」の規則

 第2節 術語と定義
 1.胸中・膻中・心主・心包・心包絡・手厥陰・心主手厥陰心包絡之脈
 手厥陰経に対応する内臓の概念と術語は、非常に複雑な変遷過程をへている。経別篇では「胸中」に作り、営気篇では「膻中」に作り、経脈篇の手少陽の別では「心主」に作り、手少陽経脈と手厥陰絡脈と足少陰絡では「心包」に作り、経水篇も同じく「心包」に作り、邪客篇は「心之包絡」に作る。経脈篇にあるその他の十一経脈の命名方式に準ずれば、手厥陰脈のフルネームは「心包手厥陰之脈」とすべきである。しかしながら、「心包」と「心主」はまた、異なる時期の手厥陰脈が対応する内臓名であり、「絡脈」「経筋」「経別」「皮部」「標本」「経水」などはみな「手心主」あるいは「心主」に作る。経脈篇は手厥陰経では「手厥陰」に作るとはいえ、手太陰と手少陰経の循行するところではやはり「心主」に作る。「手厥陰脈」の名は伝世本『霊枢』では遅い時期にできた経脈篇にしか見えず、後出の『難経』や『黄帝明堂経』にすら見えない。このように「手厥陰」の三字は後代の人が加えた注文にかかるとすべきで、結果として「心主手厥陰心包絡之脈」という滅多にない非常に奇異な経脈名称となった。このような後代の人が加えた注文が混じって正文となった例はひとり経脈篇のみではなく、『鍼灸甲乙経』巻三にも見え、明抄本はもとは「手心主及臂凡一十六穴第二十五」に作るが、通行本では「手厥陰心主及臂凡一十六穴第二十五」に改められている。
 2.脈と経脈
 経脈篇の篇名は「経脈」に作る。これは経数の脈を指し、集合概念に属す。そのため「十二経脈」という。まとめて「経脈」というのはよいが、具体的なそれぞれの脈を、たとえば「手太陰経脈」とか「手陽明経脈」などと称することはできない。後代の人はこの慣例を理解できていないので、しばしば混用している。
 3.「其直者」と「其支者」
 「其の直なる者」は経脈が循行する主幹をあらわしている。「其の支なる者」は経脈の分枝をあらわしている。「支」と「別」の意味は同じである。しかし、経別篇では「別」に、「別れて六府に走る分枝」という特別な意味を付与している。

2016年9月22日木曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第12章 誤解から理解の道筋と境界を読む

第1節 経脈テキスト理解の例示
 第一に、発声器官の構造と機能について、「少師学派」の観察がこれほど細密で、これほど高い解剖学的水準に達して、『黄帝内経』中、その他の学派の文章と比して、このような目立って独特なのはなぜなのか?〔『鍼灸甲乙経』卷十二 寒氣客於厭發瘖不能言第二〕 『周礼』春官には「小師」という楽官名があり、『儀礼』大射では「少師」という。そのため、山田慶児は少師派の「少師」とは、この楽官であると考えた。
 〔第二、『霊枢』憂恚無言(69)の失音鍼処方、と『黄帝明堂経』天突の関係。〕
 第三に、……『黄帝内経』にある「少師曰」の文を通覧すると、おもなものは理論を述べることであり、具体的な治療案は見えない。『霊枢』の編者が治療処方を補ったのは、原文に脱文があったためではなく、「少師派」の理論に実践を呼応させ、読者により十全な情報を提供するためである。
 第四に、もしテキストにある鍼刺治療の内容が「少師派」から直接由来しているとしたら、われわれが現在見ている文章とどんな本質的なちがいはあるのか?前述のように、伝世本『霊枢』『素問』には「少師派」による具体的な鍼灸治療の内容は見えない。そのため、どのような鍼灸処方を提出できるのか判断はむずかしいが、一点だけ判定できることがある。それがどのような鍼灸処方であれ、経脈理論によっては解釈できないということである。なぜなら、『内経』でのあらゆる「少師曰」の文中には、経脈理論が見えないだけでなく、『内経』でひろく応用されている「三陰三陽」の陰陽理論すら見えないからである。大量に応用されているのは、「太少陰陽」の陰陽二分法での鍼灸治療原則の説明であって、「岐伯派」の学術思想とは完全に異なる。よって、たとえわれわれは今日、「岐伯曰」という文字を削除した『甲乙経』のテキスト形式しか見ることできないとしても、そこに存在する「陰と陽を取り違えた」ような誤りを見抜くことができるはずである。学術のバックグラウンドと学術思想がかなりかけ離れている二つの学派の文章をぎこちなくつないで一つにしているのは、「張冠李戴〔張氏が李氏の帽子をかぶる〕」というべきである。
 第五に、舌下の「両脈」は、何脈か、あるいは何穴か?漢代以後、足少陰の経穴に入れられなかったのはなぜなのか?舌下の両脈は『内経』では「廉泉」といい、任脈の「廉泉」穴と同名である。足少陰の標と結はみな「舌下の両脈」にある。『素問』気府論(59)が掲載している本輸を除くと、唯一ある足少陰の穴が「足少陰舌下」である。これは、足少陰経の「喉嚨を循って舌本を夾(はさ)む」という循行と完全に一致する。この穴が足少陰経に帰属することは、確実で疑いないことがわかる。任脈の同名穴「廉泉」の干渉を受けて、『黄帝明堂経』の編者はこの足少陰の「廉泉」穴を鑑別できず、『黄帝明堂経』に記載した。後世のひとは、『内経』にある「廉泉」をみな任脈の「廉泉」と誤解するようになってしまった。明代にいたって、足少陰の廉泉がやっと再発見されて、失音・失語の治療に用いられるようになったが、穴名が「金津玉液」にかえられた。
 〔第六:会厭の脈について。古代人にとっては非常に簡単で、だれもいつでも、一つの治療経験によって新しい一本の脈を構築できるし、もともとあった脈に新しい分枝を加えることができる。〕
 第七に、……『黄帝内経』時代の経脈に属する穴は、関連する経脈の本輸と標輸だけである。……今日いう「循経取穴」の穴概念は宋代以来のもので、十四経に帰属するあらゆる穴を指す。

2016年9月16日金曜日

経脈別論十九条 つづき

・第六条:扁鵲医学は、経脈理論誕生のゆりかごである。
 扁鵲医学は血脈理論と経脈理論を創造しただけでなく、両者の統一と分裂を直接操作した。経脈学説をはぐくんだだけでなく、その帰結も決定した。
・第七条:「経脈病候」が「経脈の循行」を決定し、本輸の主治が脈の終始を決定した。
 「病候」は、経脈学説理論の原点である。経脈は、遠隔関連部位の病症表現に対する解釈である。
・第八条:経脈辨症の重点は部位にあり、循経取穴〔経に循った取穴〕はおもに本輸を取る。
 経脈循行線の意義は、その脈の診療に関連する各点――節目となる点をつないだもので、経脈辨症を指導するこれらの節目となる点にあるのであって、循行線にあるのではない。
 現代人の「循経取穴」についての誤解は、「寧(むし)ろ其の穴を失うとも、其の経を失うことなかれ」という古訓の曲解をもたらし、認識上のきわめて大きな混乱を引き起こした。十二経脈には一経一穴の段階があった。この段階では、いわゆる「循経取穴」は該当する経脈にある唯一の穴を取ることである。補足すれば、十五絡脈・陰蹻脈・陽蹻脈は、ずっと一穴しかない段階にとどまっている。その穴を失えば、一切を失うことになる。穴を失ってよいのだろうか?
・第九条:「標本」は十一脈の母胎であり、「根結」は経脈連環の基盤である。
 「根結」は表面上、「標本」の部位と同じか近いところにあるが、実は本質的なちがいがある。両者が述べているのは同じ問題ではない。まず文字が意味するところが示しているのは、「本」には「根」が含まれるが、「根」は「本」を統括できない。つぎに、「標本」は、診法に用いられ、その部位が診病部位である。三番目に、「標本」には一定の範囲があり、ひろがる動的過程があるが、「根結」は多く限局的、固定的な位置があり、特に「根」は一つの限局点である。四番目に、もっとも根本的な区別は、「標本」概念は経脈理論・経脈の穴・診断・治療というそれぞれの部分に滲透しているが、「根結」概念は実践的な直接指導作用を示していない。
・第十条:「診-療一体〔診断即治療〕」は、人体各部の関係を研究する一石三鳥である。
 「診-療一体」観念の確立、病が見られるところがすなわち診察箇所で、そこを取って治療する。この病候の診療で表現される人体遠隔部位の縦方向の関連についての解釈が経脈であり、「本」の脈処から出発し、病症の診療が向かうもっとも遠い端の部位に向かってすすむ。これが「経脈学説」の懐妊から分娩までの全課程を凝縮した再現である。
・第十一条:「陰陽法則」は経脈循行の描写の規範化を促進したが、経脈理論を硬直化させもした。
 「三陰三陽分部」の出現は、三陰三陽の脈を明確な脈の道に区分した。それによって経脈循行をえがくための規範化によりどころを提供した。
 経脈の走行分布の決定は、「陰陽の法則」に従うべきではなく、脈口診病部位が及ぶところと本輸主治が及ぶところに従うべきである。
・第十二条:「経脈連環」が成立すると、「経脈の木」が倒れた。
 『霊枢』経脈が構築した「経脈連環」は、実際的には経脈理論の十二脈を借りて、血脈理論の周って復た始まる「循環説」をなしとげたものである。経脈理論が構築されるなかで、「木」型モデルは、重要なはたらきを啓発し生み出した。人体を樹木に類比させ、とりわけ標本と終始の概念を重視し、四肢末端を本とし根として、頭面体幹を標とし結とした。「経脈連環」が形成されると、いわゆる「標本」と「終始」はなくなり、十二経脈の独立性も消失した。十二脈は一脈となり、そこでは十二経遍診法や三部九候はあきらかに余分なものとなり、これにかわったのが「人迎寸口脈診」であり、最終的には「独り寸口を取る」脈法へと向かった。
・第十三条:「十五絡」は、ある種の早期バージョンである経脈学説を改編したものである。
 もし十五絡を経脈の別絡と理解すれば、経脈と異なる病候を診療できるのか?もし病候の診療が同じであるというのであれば、この十五本の絡脈をその所属する経脈から分離して、別に一説とするどんな必要性があるのか?
 最新の研究結果によれば、十五絡のうち、手足三陰三陽の絡は、実際は古い経脈学説のバージョンに手を加えたものである。
・第十四条:「経別」は「理論の継ぎ目貼り」として経脈の中に組み込まれた。
 「経別」の本来の意義は、「合で内府を治す」である。つまり、六腑の合輸で六腑の病を治療した経験が理論の支えとなった。『霊枢』邪気蔵府病形にいう「此れ陽脈の別、内に入り、府に属する者なり」のごとくである。
・第十五条:変化に富む衝脈は、血脈理論の第一次革命の記録である。
 衝脈がこのように〔複数の異名があること、少陰脈・陽明脈・任脈・督脈との間に分かち難い関係があること、「衝脈」の名の下に異なる概念内容と多くの属性・機能があること〕独自性が目立つのは、古代人がこれを借用して、漢代に生じた気血理論の革命の成果――原気説にもとづいて再構築した血脈理論を保存しているからである。
 「衝脈」概念が形成された過程をさかのぼることによって、衝脈の機能として重なり合っているものすべてが新たに発見された機能ではなく、既存の脈と臓腑の機能を、少しずつ「衝脈」の中に移したことがわかる。全過程の起点は、堅実な「経験」の上に立脚しており、少しずつ演繹していく過程で、意識してかあるいは無意識に「経験」の境界を越えた。これは実際、古典中医鍼灸理論が共有する特性――理論は経験の上に生長するが、その発展は経験の束縛を受けない――でもある。
 「衝脈」がどれほど多種多様であったとしても、その本態はかならず確認しなければないが、その本態は「伏膂の脈」であり、その特徴は、「之を揣せば、手に応じて動く」である。
・第十六条:「気府論」は、腧穴分部の産物である。
 『素問』気府論の腧穴は、三陰三陽によって分類されており、経脈によっては分類されておらず、『素問』離合真邪論と合わせて読んでみて、はじめて理解できる。
 唐代の王冰は『素問』に注をほどこしたが、この点を認識できなかったので、この篇を理解するすべがなかった。そこで経脈学説を準則として、『黄帝明堂経』の腧穴の「脈気発する所」を参照して、気府論に対して大胆な改編をおこなった。その中で後世の鍼灸学にもたらされた重大な影響は四つある。第一、足太陽脈の背兪穴が増えた。第二、陰経の五輸穴を削除した。第三、足陽明の脈気発する所の穴を削り改めた。第四、衝脈の脈気発する所の穴を加えた。
・第十七条:経脈篇がはなはだしく混乱している根源は、編者によるあってはならない三つの見落としのせいである。
 第一、六本の脈の循行方向を改変したのに、この六脈にあった循行方向を示す文字に相応の調整をおこなうことを忘れ、経脈循行方向の衝突をおこした。
 第二、経別の文を取り入れたときに、「其別者」という標識となる文字を添えることをいつも忘れて、二つの性質の異なる文章が混在し、理論の無矛盾性をおおいに下げた。
 第三、「経脈循環」を構築するために編者が新たに加えた11本の分枝は、原テキストにあった経脈分枝の意味とまったく異なる。それなのに、いかなる説明や注釈もないので、後世の人の意味も実りもない論争を引き起こした。
・第十八条:経脈理論の価値は、「経脈線」にあるのではなく、線上の関連点にある。
・第十九条:経脈の本質、鍼刺鎮痛、鍼灸作用メカニズムの研究、これらは実のところ一つのものが三つに分かれているにすぎない。 

2016年9月15日木曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』経脈別論十九条――書き終わった後に書いた提要

 本篇は実際のところ、全体(附篇を含む)の結語なのだが、各章ごとに結語がみなあるし、書末にも「結語」をさらに加えたので、読んできてそぐわないので、現在のタイトルにかえた。摘要のつもりで書いたので、全文を読む必要があるかどうかわからない読者と全文を通読する時間がない読者を想定して、できるかぎり圧縮して書いた。
・第一条:経脈とは常脈、すなわち経数の脈である。
 もっとも普遍的な意味を持ち、臨床でもっとも常用される「脈」が、常脈で、三陰三陽で命名され、手足あわせて十二脈、これを「経脈」という。経数の脈は、「十二」という天の大数に応じる。二種類〔血脈と血脈ではない経脈〕の理論の「経脈」概念の本質的な区別を認識できないと、「経脈」に明確で科学的な定義を与えることは根本的にできない。
 「経数」とは常数であり、術数でいう天地の数でもある。
 「経数」の枠組みに入れることができなかった大量の「脈」と「絡」は、あるものはすぐに消え去り、あるものは別の大きな分類である「絡」に繰り入れられた。
・第二条:経の数にもともと定数はなく、脈のめぐりにも定型はない。
 馬王堆『十一脈』、張家山『脈書』および『素問』『霊枢』の多くの篇では、記載されているのは十一脈にすぎず……これらの文献が共通して遵守しているのは「天六地五」という「経数」である。……たとえ当時、手心主あるいは手少陰脈の二脈がともにすでに流行していたとしても、片方は「絡脈」に組み入れられた。
・第三条:経脈学説とは、「人体遠隔部位縦方向関連律」についての解釈である。
 経脈理論とは、人体遠隔部位間の縦方向関連律についての解釈である。この関連には、体表と体表間の遠隔関係、および体表と内臓間の遠隔関係がふくまれる。古代人は特定部位間の連係は、特定の「脈」をとおして直接につながってなされていると認識した。この理論仮説は木型隠喩にもとづいて構築された。すなわち四肢末端を根本とし、頭面体幹を末梢とし、本末が相応じる。ゆえに脈はみな四肢末端から頭面体幹の方向へ循行する。四肢にある手首・足首の本部の脈で、上部標部および関連する内臓の疾患が診察できる。「本」部の穴に鍼灸する。本輸は「標」部および関連する内臓の疾患を治療できる。
・第四条:経脈学説は「人体遠隔部位縦方向関連律」を解釈した仮説の一つにすぎない。
 ひとびとは、「経脈理論」(または「経脈学説」)が「人体遠隔部位縦方向関連律」のすべての仮説、あるいは唯一の仮説であると、惰性的にずっと思い込んでいた。そしてまさにこのひとびとの完全に無意識で、かつ今にいたるまで真相を知らない誤った認識が、経脈理論研究に種々の誤り、困惑、混乱の根源となったのである。
 古典中国鍼灸学という林の中の「一本の木」を林全体とみなしていたのである。
 実験研究において、現代人が提出した「経脈」あるいは「経絡」という名の各種の仮説は、実際は明確な目標を欠いた――経脈理論が指向した問題の状況下で提出した――種々の仮説なのだが、研究者は、古代人が二千年以上前に提出した「経脈仮説」を証明している、とかたく信じている。
・第五条:経脈で脈候を解釈するのは、「陰陽脈解」という旧説に対する革命である。
 脈の本来の意味は、鍼灸の遠隔治療作用のルートについて提出された新しい仮説――旧来のあらゆる哲学的解釈に対する不満が提出した新しい仮説である。この解釈が普遍的に受け容れられ、新しい理論規範となったのは、古代人が新しい理論が提出されたのち、経験的に得、これを治療した経験から、理の中に事実を求めて、理論を武器として新しい事実を発見し、大量の新事実から条理あるいは法則を概括し、新しい学説の理論解釈力をたえず上昇させ、最終的には「脈」から「経脈」への遷移〔おそらく物理学を意識した用語〕をなしとげた。変化きわまりない関連病症を解釈した「所生病」の出現は、この遷移がなされた指標となった。

2016年9月14日水曜日

 第11章 確実に証明することと偽りを立証すること――目標と道筋の選択

270頁に引用される『アナトミー・トレイン』(第3版)に対応する箇所の日本語版の訳:
 この関連を自分で触診するには、両手掌を頭の両端、両母指を頭蓋後部の真下に置く。後頭骨隆起下の深部組織が実際に感じられるように、浅層筋を通り越すように母指をそっと動かす。目を閉じ、眼球を左右に動かすが、両手は原則として耳にかぶさるようにし、頭が動かないようにする。母指の下で筋の緊張が小さく変化したのが感じられるであろうか?頭は動いていなくても、大昔からある主要な筋は眼球運動に反応している。目を上下に動かすと、後頭骨稜下の筋系で異なる筋が同じように連動するのが感じられる。これらの筋を動かさずに目を動かそうとしても、およそ不可能である。眼球と後頭下筋とのつながりは椎骨が発生したときからあり、このつながりは極めて不可欠であり、眼球運動によって後頭下筋の緊張が変化する。この深部神経の「プログラミング」を変化させることは困難であるが、視覚障害や読字障害、頸部の特定の問題では変化が可能な場合もある。残りの棘筋はこれらの後頭下筋の言うことを「聞いており」、後頭下筋のリードに従って機能する傾向がある。(97頁)

・『重構大綱』の引用文にある、「它们是一种原始的连接(几乎经历我们整个脊椎发展的历史)……」は、日本語版では「眼球と後頭下筋とのつながりは椎骨が発生したときからあり」と訳されている。

2016年9月13日火曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第10章 視点と構想の再構築――三歩二段階  三、理論の再構築構想

 (一)足太陽之脈
 足太陽脈の背部での循行については、二つの異なる説がある。早期は一行であったが、『霊枢』経脈では明確に二行となっている。これ以前の経別篇にも二行説の影響が見いだせる。経脈病候と本輸主治で経脈循行を決定する法則からみて、足太陽脈の背部は一行説がより理にかなっている。
 表裏の経と臓腑が相合する説では、足太陽脈と足少陰脈が相表裏をなし、関連する臓腑は膀胱と腎である。腎は左右の二つがあるが、膀胱はひとつだけである。そのため古代人は別に「三焦」という一腑を設定してこれに応じるようにし、「腎は三焦膀胱に合する」という説がある。あわせて専門の合穴と専門の三焦腑と連接する脈があった。ここでの「三焦」は、実際は下焦であり、その作用は膀胱の影のようなもので、目的は一つの膀胱を両腎に応じさせることであった。よって関連する「足三焦」の内容を足太陽脈の中に整理統合する。

 (四)足太陰之脈
 足太陰脈はもともと胃と関連する。『霊枢』経脈は脾と足太陰脈を関連させているが、一番はじめに築かれた足太陰と胃の「臍帯」は断ち切れず、かつ足太陰と脾を関連させる新しい臍帯もずっと築くことができなかった。よって今回の再構築では、足太陰と関連する内臓は、胃の内容を留めておく。

 (六)足厥陰之脈
 早期の足厥陰脈は男性のみを対象としたものであり、それに対応する女性の病症があらわれたのは後のことである。しかし、経脈の循行はずっと女性に関する循行部分を補充してこなかった。今回の再構築では、『霊枢』五色にある男女の生殖器の対応関係にもとづき、対応する循行路線をおぎなった。男女の生殖器の対応関係について、古代人は「蓋し卵と乳とは、乃ち男女の根蒂、坎離の分属なり」〔『医学綱目』巻二十三・脾胃部・大便不通〕という認識があった。この認識にもとづけば、足厥陰脈は女性では分枝が「乳」に至るべきであるが、既存の足厥陰病候には、明確な女性の乳疾患に関する記載がない。よって今回はしばらく女性の乳房あるいは乳頭を支配する経脈の分枝は補わない。

 第5節 解決が待たれる問題
 一、皮・脈・筋病の診断と評価
 理論面からみて、「十二皮部」「十二経脈」「十二経筋」という三つの異なる説があるが、三者に共有される病症をいかに識別するかは、不可避の問題となっている。
 経筋学説があらわれたのは、十二脈をコピーしたというような単純なことでは決してなく、実際上古代人が同じ診療経験に対して異なる認識をしたことを反映している。

恥ずかしながら…

 高校の時の不勉強が祟りました。文語文法の「仮定条件」と「確定条件」というのを、全く知りませんでした。

順接の仮定条件(もし~なら)…未然形+ば
順接の確定条件(~なので)…已然形+ば

例えば、
血氣倶盛、而陰氣多者、其血滑、刺之則射。(『霊枢』血絡論第三十九)
は、「もしこれを刺したら」ということで仮定条件になり、「これをささばすなはち」となりませんか?
所謂少氣善怒者、陽氣不治。陽氣不治、則陽氣不得出…(『素問』脉解篇第四十九
は、「~ならば~、そして~」という論理的な流れの中にあるので確定条件となり、「やうきぢせざればすなはち」となりませんか?
それとも、「則」のときは必ず確定条件なのでしょうか?(僕は違うような気がします。「A則B」とした場合、仮定条件か確定条件かはA自信が仮定か確定かの問題だからです。「則」が表しているのはAとBとの関係です。
もちろん以上のことは、訓読なんかしなければ全く問題のないことなんですが。

質問を整理します。
①以上二つの例文に対する僕の訓読、妥当でしょうか?
②「則」と仮定条件・確定条件との関係、僕の認識で妥当でしょうか?
よろしくお願いいたします。

2016年9月12日月曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第10章 視点と構想の再構築――三歩二段階

 二、理論と経験が対応しない
 概念が厳密でなく、術語が規範的でないことよりさらに重大な問題は、理論と経験が対応していないことである。それが主に二つの面であらわれている。第一に、理論と経験のずれ。第二に、理論と経験の食い違いがあり、発展の歩調があっていない。特に後者の問題の存在は、経脈理論の再構築にきわめて大きな困難をもたらす。
 理論と経験のずれについては、以前に言及した「手心主脈」と「手少陰脈」の名実の争いが典型的な実例の一つである。先にはおもに概念術語の規範性の角度から論じたが、問題は概念の混乱といった簡単なものとはかけ離れている。もし『霊枢』経脈による術語の規範化の成果を正統なものとみなせば、「手厥陰之脈」は「心包絡」に属し、「手少陰之脈」は「心」に属することになるが、まずつぎのことを確定しなければならない。この二つの脈は「心」との関連の程度には差があるのか?もし差があるのなら、どちらの脈が「心」との関連度はより高いのか?われわれが見る『内経』の時代では、経脈病候からみても、本輸の主治病症からみても、いずれも、手少陰脈にくらべて手心主(手厥陰脈)の方が関連度がより高いのは、明白である。『内経』以後の文献であっても、たとえば『脈経』は、巻二では心病の診断と治療はどちらも「手心主之脈」を取っている。巻六の「心病症〔証〕」第三篇でも、手心主之脈しか述べられていない。六朝時代の『産経』の「十脈図」も「手心主心脈」と明言し、そのうえ心の兪募穴もともに手心主脈に属している。このような情況は、ずっと唐代の(宋人の校改を経ていない)『孫真人千金要方』〔新雕孫真人千金方〕まで依然としてそうであった。心は手厥陰脈を出し、心包絡は手少陰を出した。もし経脈篇の編者が新たに発見した経験的な事実にもとづいて、手少陰脈と心がより相関すると認定したのであれば、かれがすべきことは、経脈名とそれに関連する内臓の標準化作業だけでなく、二つの脈の経脈病症と五輸穴の主治病症にも相応の調整をおこなって、名実を合致させなければならなかった。もしなされた改変が根本的に臨床診療実践というよりどころがないのであれば、この改変はきわめて誤ったものである。同様の論理で、「心之原」と「手少陰之原」を交換することも、単にラベルを貼り替えるような簡単なものでは決してない。このような名実が乖離した誤りも、現代の経脈理論の実験研究のおおきな困惑をもたらしている。たとえば、現代の「経脈-臓腑相関」についての実験研究では、手厥陰脈の内関・大陵と心との相関を研究することが主であり、実験研究のデータも、手厥陰脈と心との相関をさらに支持しているようである。もし実験結果が信頼でき十全であるのなら、それが踏み込んで示しているのは、経脈篇の編者による手厥陰と手少陰の二つの脈の名称とそれと関連する内臓に関する改変は誤りであり、『霊枢』九針十二原と本輸篇の説明がより臨床に近く、より実験に符合するということである。
 理論と経験の食い違いについての典型的な実例は、手三陽経と内臓との関連が経験による支持を欠いていることに見られる。古代人は経脈と五臟との関連を発見したのにつづいて、陽経と六腑との関連という診療の法則、これは陰経と五臟との関連とは異なり、横隔膜より下に位置する六腑は足の六〔ママ/「三」の誤りではないと思う〕陽経と関連し、手の経とは関連しない、ということも発見した。しかしながら、『霊枢』経脈の編者は十二経脈の「内は臓腑に連なり、外は肢節に絡す」〔『霊枢』海論(33):「夫十二経脈者、内属于府蔵、外絡于肢節」〕という環の端無きが如き「経脈連環」を構築する必要があり、どうしても十二経脈と五臓六腑を一対一で対応させなければならず、ついには「大腸」と「小腸」を手陽明脈と手太陽脈に帰属させ、また上・中・下の位置をしめす「三焦」概念を手少陽脈と関連させた。こうなると、理論形式上は気血がリングのように切れ目なく運行する「経脈連環」が構築されたが、かえって経験的事実という支柱を完全にうしなってしまった。『霊枢』本輸の「六腑合輸」説に違背するだけでなく、『霊枢』邪気蔵府病形にある六腑病の診療での臨床応用にも違背する。『黄帝明堂経』の手三陽脈にある五輸穴の主治に合致しないだけでなく、背兪穴の腰背部での分布法則とも合致しない。つまり、腑兪の中の大腸兪・小腸兪・三焦兪はみなその表裏する臓兪である「肺兪」「心兪」「厥陰兪」とはなはだ遠く離れてしまって、まったく臓腑の表裏関係を示すことができない。同時に、古代人は人為的に手三陽脈と大腸・小腸・三焦の経脈循行上の連係を加えただけだが、この三本の経脈の病候には関連する腑病の症候が見られず、この三本の経脈循行と病候が対応しないという論理上の破綻をきたしてしまった。

2016年9月10日土曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第9章 理論構造と科学的概念内容――「鏡」に照らすと「ふるい」にかける

第9章 まとめ
1.経脈理論の「脈」と「絡」は、コンテキストに依存する概念である――異なるコンテキストにおいては異なる概念内容をあらわす。経脈理論の発展過程全体からみると、早期の文献中の「脈」と「絡」は、実体概念により重きを置いている。晩期の文献は、抽象概念をより多くあらわす傾向にある。まさにこのような抽象概念にもとづいて、手足の三陰脈は、四肢近位端の循行においてはじめて、体表解剖学で実証された三脈が一つに合わさった実線から発展変化して、『霊枢』経脈篇にある三脈が並行する虚偽の線にとなった。「絡」の一種である「経別」は、完全に抽象的な概念であり、その機能は、六陽脈と対応する六腑との連係を説明することにある。
2.「経脈理論」あるいは「経脈学説」は、古代人が「人体遠隔部位にある縦方向の関連律」を解釈する仮説の一つにすぎない。しかしずっとわれわれはこれを一つの関連律の「仮説集」とみなし、「仮説体系」全体とさえみなしていた。
3.生体の遠隔部位間にある連係の本質について、古代人は前後して多くの仮説を提出した。最初の陰陽五行の哲学面での解釈から、すすんで医学面での「脈」の解釈にいたった。経脈学説以後の諸学説はみな一つの共通した特徴をあらわしている。つまり、接続する実体構造をつかって直接に連接する解釈であるが、それぞれの学説はいずれもこの「定式」をこえてない。これからわかるように、いかなる時代の科学理論もその時代の特徴を深く留めざるを得なく、理論の構築者は、かれのいる時代を超越した科学的仮説を提出することは不可能である。
4.古典経脈理論の価値は、それが提出した問題にあり、それが問題をみる特殊な角度にあり、それが問題を解決した様式にあるのであって、それが出した具体的な答案にあるのではない。経脈理論は、四肢末端を本となし、頭面を標となす木型モデルにもとづいて構築され、数千年にわたって鍼灸臨床実践を指導している。有力な証拠によってこの理論をささえる経験事実が強固で信頼にたることを証明できさえすれば、中西の医師が異なる「生命の木」を発見したことを意味することになるし、あるいは同一の樹木が異なる条件下では異なる特徴を表わすといえるかも知れない。この意味は、鍼灸学そのものをはるかに超えているし、これは未来の生命科学を創り出すについての重大な啓発的意義があり、多くの高い評価をしてもしすぎることはないことは論ずるまでもない。
5.元素周期律理論という「鏡」に映すことによって読み取れる経脈理論に欠けている点は、事実に対する鑑別と検証、概念の明確な定義、基本仮説にもとづく推論である。したがって未来の研究は、経験を検証し、法則を明確にすることを重視すること――偽りを去り真実を残し、漏れているものを拾い集め、欠けているものを補うことをしなければならない。
6.現代医学という「鏡」に映すことによって、現代の鍼灸人が失った自信を取り戻させる。つまり、「関係」を研究して、法則を探り出し、そして関連法則を効果的に利用する。古典鍼灸学には非常にあきらかな強みがあり、特に経脈理論は非常に有効な研究道具と研究素材を提供する。

2016年8月29日月曜日

デカルト『省察』

岩波文庫『省察』、中公クラシックス『省察/情念論』、白水社『方法叙説/省察』には、『大綱』掲載の図はなかったので、調べてみた。

この図は、マルゴッタ『図説 医学の歴史』(岩本淳訳)によれば、デカルトの『人間について』(たぶん、Traité de l'homme)の挿絵。熱さと痛みを知覚する図(脳の中にその中心がある)。

白水社『方法叙説/省察』にある解題=訳者あとがきに、

 『省察』は、『哲学の原理』と並んで、デカルト哲学(そしてデカルト形而上学)の中核的な著作である。……『哲学の原理』のフランス語訳本の……のなかで、デカルトは、一本の樹に譬えつつ、その根を形而上学に、その幹を自然学に、幹から岐れる三つの主要な枝を医学と機械学と道徳(倫理学)とに配しているが……『省察』と『哲学の原理(第一部)』……の主題はまさしく、<一本の樹>なる学問全体の<根>たるべき<形而上学>……であった。

とある。こうしてみると、黄龍祥氏の『大綱』を構想する上で、勿論『内経』の「標本」「根結」が基礎としてあるが、デカルトの考え方も、その下地・下支えとなったのではないかと、想像する。

ちなみに、『大綱』での『省察』引用部分
※青空文庫 三木清訳:
私が足の苦痛を感覚する場合、自然学は私に、この感覚は足を通じて拡がっている神経の助けによって生ずるのであって、この神経は、そこから脳髄へ連続的に綱のごとくに延びていて、足のところで引かれるときには、その延びている先の脳髄の内部の部分をまた引き、このうちにおいて、精神をして苦痛をばあたかもそれが足に存在するものであるかのごとくに感覚せしめるように自然によって定められているところの或る一定の運動を惹き起すのである、ということを教えるのである。しかるにこれらの神経は、足から脳髄に達するためには、脛、腿、腰、脊及び頸を経由しなくてはならぬゆえに、たといこれらの神経の足のうちにある部分が触れられなくて、ただ中間の部分の或るものが触れられても、脳髄においては足が傷を受けたときに生ずるのとまったく同じ運動が生じ、そこから必然的に精神は足においてそれが傷を受けたときのと同じ苦痛を感覚するということが起り得るのである。そして同じことが他のどのような感覚についても考えられねばならない。

2016年8月26日金曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第二篇 理論の再構築:構造から内容へ 引言 経脈学説はどのように説明するのか――事を明らかにして理を求める

第1節 「理論」は処方の解説のごとし,「事実」は処方のごとし

 いわゆる「手の太陰肺経」とは,手の太陰五輸穴がもつ肺病を治す作用メカニズムに対して古代人が提出した一種の仮説である。簡単に言えば,「本輸の主治の及ぶ所は,則ち経脈循行の至る所である」。

第2節 事実には確かな証拠があるが,理論には定まった形はない

 ここで特に注意してほしいのは,異なる時期,異なる学派が構築した経脈学説には異なる特徴があるが,たとえ同一学派の経脈学説であったとしても異なる発展段階にあっては異なる特色が表現される。われわれが今日熟知しているのは,標準化処理をへた経脈理論の定型テキスト,経脈理論にもとづいたフォーマットにすぎない。

 もし今日の経脈理論に対する実験研究が,相変わらず古代人が同様の関連の法則から出した異なる経脈解釈である一本一本の異なる循行線に固執し,実験室でこれらのたえず更新されつづけた定まった形のない線に対して,対応する実体構造を意固地に探せば,おそらくは古代人にさえみな笑われるであろう。

 「有線」と「無線」,古代人が伝えた意味は,まったく同じである。しかし,なぜこのような異なる表現の仕方は,現代人の理解に大きな相違を生じさせたのだろうか。

 理論の束縛がなければ,経験は伝承しがたいこともある。まさに酒瓶がなければ,酒はとうになくなっているようなものである。一旦経験が継承できれば,なすべきことはそれを緩めることで,瓶の蓋を開けて瓶の中にある酒を注ぎだし,そうした後で新たな時代に科学技術の発展した新たな高みに立ち,新品の酒を重視して酒を鑑定し,経験が構築する新たな理論の容れ物とする。

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第9章 理論構造と科学的概念内容――「鏡」に照らすと「ふるい」にかける

  第2節 概念と仮説
 鍼灸診療の経験がたえず蓄積されるのにつれて発見された人体の遠隔部位間の連係が多くなればなるほど、血脈の直接的なつながりを使って解釈することが難しくなった。こうして一種の純粋に連係機能をあらわす「脈」「絡」という抽象概念が生長してきた。まさにこのような抽象概念を基礎として、手足の三陰脈の四肢の近位端における循行は、体表解剖学で実証された三脈が一つになった実線から発展変化して、はじめて経脈篇での三脈が並行する虚偽の線となることができた。「絡」の一種である「経別」は完全に抽象的な概念であり、その機能は六陽脈とそれに対応する六腑との連係を説明することである。

 デカルトの『第一哲学についての省察』で、神経は血管につきしたがう、中空の管であり、体表から途切れることのない直線のかたちで直接大脳とつながって、感覚を生じているとし、「これらの神経は縄のように足からまっすぐに大脳内にいたる……かならず腿部・臀部・腰部・背部・頸部を通過する」という。
 【『省察』中の図あり】もし中国人が図の注の助けをかりずにこの図をみたら、經脈図にある足の太陽経の図だときっと理解する――体表の循行路線は完全といっていいほど重なっている。

 これからわかるように、いかなる時代の科学理論も、その時代の特徴を深くとどめていいないものはなく、科学者はその身を置くその時代を超越した科学仮説を提出することはできない。

 すでに発見された古典経脈理論中の論理的な弱点や理論と経験的事実のあいだにある矛盾は、当時のメンデレーエフの元素周期律理論とくらべて見ると、多い。これは、理論仮説に人体の「体表―体表―内臓関連律」の本質が反映されていないことを示している。われわれの今日の理論と実験研究の目標は、よりよい仮説を探求し、解釈する力がより強い、論理性のより高い理論を再構築することであって、数千年前に古代人が提出した、今日からみて明らかな弱点のある仮説を証明しようとすることでは、絶対にない。

2016年8月25日木曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第8章 経絡学説の発展――内外の要素の力を合わせた作用  結語:木と支柱

  まとめ
1. 経脈の標の延長あるいは増加は,経脈循行路線に変化をもたらした主要な内的駆動力である。たとえば,足の太陽は,かつては「天柱の脈」で終わっていたので,「項に中(あ)たる者は太陽を下る」【『霊枢』邪気蔵府病形(04)】や,「項の太陽」【『霊枢』寒熱病(21)】「項の大経」【『霊枢』癲狂(22)】という説があったが,「頭の太陽」「目の太陽」という説はなかった。のちに天柱で目を治療できることが発見され,解剖的にも目系が項に出ることが発見されたので,太陽脈の循行は延伸して「脳に入り,目に至」った。ついには「気の頭に在る者は,之を天柱と大杼に取る。知(い)えざれば,足の太陽の滎輸を取る【『霊枢』五乱(34)】。故に気の頭に在る者は,之を脳に止(い)やす【『霊枢』衛気(52)】」という処方ができた。
2. もし経脈の標に変化がないのに――新たな関連部位の発見がないのに,経脈の循行に明らかな変化が生じたとすれば,これは経脈理論に変化が生じたことを意味しているのではなく,単に経脈の循行を描写する新たな方法があらわれたのにすぎない。
3. 同じ脈の循行路線についての描写には,二つの異なる様式がある。第一は,主幹と分枝の形式で関連する各点をつなぐやり方である。第二は,単に一本の線でそれぞれの関連点をつなぐやり方である。この二つの様式,特に第二の様式では,それぞれの関連する点が直線上にない場合,多くの異なる描写様式が存在し,陰陽が相反する道筋にしたがってさえもかまわないし,異なる方式で関連する各点をつないでも,みな許されるし,また正常であり,どの説がよくて,どの説がよくないかを判断する基準はない。なぜなら同じ様式の下では,異なる様式で描写してもその意味は同じこと――関連する部位を指示すること――だからである。これも経脈循行線の本来の意味である。「三陰三陽分部」の確立にともない,十二脈も統一されて三陰三陽で命名され,経脈循行の描き方にもよるべき法ができ,したがうべき規則ができた。それらの「陰陽の法則」に合致する経脈の循行の案は普遍的に受け入れられて規範となった。その他の案は,きわめて少数のテキストが幸いに残って伝わっている以外は,大多数はみな早くに散佚した。しかしながら,どうしても指摘しておかなければならないことがある。経脈理論が定型化したテキストである『霊枢』経脈篇が伝承しているのは,決してすべてがすべて「規範」に合致したテキストであるわけではない。少なくとも,その「手太陽脈」と「手少陽脈」の頸項部以上の循行のテキストは,歴史上にあらわれたあらゆるこの二脈の循行に関する描写の中で最も「陰陽の法則」に合致しているわけではない。これからわかるように,選択されたのは必ずしもすべてが「本物」ばかりではないし,棄てられたものも必ずしもすべてが「偽物」であるわけでもない。
4. 今日見られる経脈の「木」の形態は,どれほどの人,どれほどの回数の「剪定」をへているのかわからないが,自然に成長したものではない。その「剪定」の過程には,自覚的,意図的なものと,意識しない,偶然による誤りがある。陰経が内に五臟とつらなるのは,陽経は上って頭面に達し,体幹部には陰経の分布はないからである。「面に中たれば則ち陽明を下り,項に中たれば則ち太陽を下り,頰に中たれば則ち少陽を下り,其の膺背両脇に中たるも,亦た其の経に中たる」(『霊枢』邪気蔵府病形(04))。十二経脈のなかで,手足の陽明脈のみが左右に交叉して「顔を環り」「面熱する者は足の陽明病む」(『霊枢』邪気蔵府病形(04))。「五七,陽明脈衰え,面始めて焦(やつ)れる」(『素問』上古天真論(01))。「熱上がれば則ち陽明を熏(くす)ぶる」(『史記』扁鵲倉公列伝)。衝脈と少陰脈との複雑な連係など,背後にはみな「陰陽の法則」の三陰三陽分部という見えざる手による操作がある。
5. 古代人は陰陽の法則にある負の影響を超えようとして,異なる方式をこころみたが,その中でもっとも有効で,かつ応用がもっとも多い方式は,「絡」の概念の設定であった。聯繋する脈の枠組みでは,三陰三陽で命名された「経脈」は厳格に「陰陽の法則」にそって延長されたが,「絡」はまったくその制限を受けなかった。診療経験ではどこへ向かうかを示し,理論の解釈ではどこに出現するかが必要で,絡はどこへも通じることができた。陰脈と陽脈には人体を走行するうえで,それぞれ進入できない「禁止区域」がある。たとえば陽脈は表から入って内臓に属そうとするには「絡」――経別を通過しなければならないのである。

経脈=点線説

『大綱』の著者は,経脈において重要なのは,標と本であるという。それをつなぐ線は実線である必要はなく,点線でいい。
実験研究者は経脈を実線(実態のあるもの)だと思い込んでいるから,長い時間をついやしても,その本質にせまることができず,徒労に終わっている。
この考えを推し進めると,『経絡の研究』にはじまる経絡敏感人についても,当然疑義が生じることになる。

2016年8月22日月曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第7章 奇経の奇――八脈の謎は,衝脈に網をかけて綱となす  結語:謎を解く

  まとめ
1.  十二経脈のテキストとくらべて,奇経八脈はまだ厳格な意味での確定されたテキストではなく,定稿以前の草稿のようであり,その上,それぞれの脈の成熟度も異なり,いくつかのテキストの破片を留めているにすぎないものさえある。
2. 八脈中の衝脈は,漢代に生まれたひとつの気血理論革命の系統的な成果――原気説にもとづいて再構築された血脈理論——を継承している。「臍下腎間の動気」「三焦」「原気」という三つの鍵となる概念を採用し,衝脈をその運び手として全体をあらわしている。衝脈は「腎間の動気」「三焦」「原気」の代名詞といえるかもしれない。そのため,気の源,血の海であり,十二経脈はみなこれによって発動する。衝脈が担ったこの一連の新概念に十分な時間と土壌があたえられたとしても,それは最終的には旧説に取って代わり,新たな規範となることはできなかった,と誰がいえようか。【蔵象学説の「脾が太陰を主る」は,「脾胃が共に主る」という過渡期をへて,最終的に「胃が太陰を主る」に取って代わった。】
3. 衝脈の本体は,「伏膂の脈」にすぎなかった。それが「腎間の動気」と関連が生じた後,一歩一歩「命門学説」への道をつくり橋を架ける役割を構築した。この過程で「腎命」のために事をおこなうことによって,種々の「肩書き」を賦与され,異なる顔が生まれたが,衝脈の病候は依然として我々が今日知っている,本体の「胎生期の記憶」にすぎない。【衝脈の循行と病候との間には,おおきな落差がある。】
4. 蹻脈の循行が反映しているのは,「人体三陰三陽分部」説が確立する以前のものである。脈の循行については,同一の脈でありながら異なる道筋をめぐってもよいように描かれている。対立する方向に向かっても,始めと終わりがつながっていさえすればよいのである。これは,経脈循行の意味をさらに明確にしている。つまり,重要なのは具体的な循行路線ではなく,起始と停止,「出る」ところである。

2016年8月19日金曜日

「二十七」という術数について

黄龍祥先生は,「二十七」という数字について,単に「術数」としか述べていないので,以下補足してみる。
12+15=27であるが,これはまた3×9でもある。
九は,『素問』三部九候論(20)に「天地之至数,始於一,終於九焉。……因而三之,三三者九,以応九野」とあるように,至数である。
したがって,鍼の数は九でなければならない(『霊枢』九針十二原)。
『黄帝内経』の巻数は18巻(2×9)。
『素問』も『鍼経』も理論上,81篇(9×9)ずつあることになっている。
それで,二十七気であるが,『霊枢』九針十二原:「六府六腧,六六三十六腧。経脈十二,絡脈十五,凡二十七気。以上下……二十七気所行,皆在五腧也」。
『国語』周語には「天六地五,数之常也」,『易』繋辞上には「天五地六」とあり,六も重要な数字で,6×6=36であるが,36=4×9でもある。
ということで,九針十二原の編者は,九という術数にあわせて,二十七という数字が設定されたのであろう。

2016年8月18日木曜日

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』 第6章  十五絡脈の脈絡――整理統合と再生

 結語:覆われていたものを解きはなつ  まとめ
1. 「二十七」という数にあわせて揃えるために,古代人は当時では主流ではない,あるいはすでに旬を過ぎた古い「十一脈」の経脈学説バージョンを基礎として,四本の絡脈を加え,あわせてふさわしいように改編したのち,「十五別」と名づけ,十二経脈とともに「二十七気」を構成した。『霊枢』経脈(10)篇の十五絡には,手少陽・任脈・督脈・脾の大絡とその他の十一絡というまったく相容れない特徴が見られ,後人が編輯を続け改編した痕跡があきらかである。【『霊枢』九針十二原(01):「経脈十二,絡脈十五,凡二十七気,以上下,……二十七気所行,皆在五腧也」。著者は「二十七」(12脈+15絡)という数について,単に術数であると述べるのみである。】
2. 経脈篇の十五絡は,その性質にもとづけば,少なくとも二つの部分に分けられる。任脈と督脈の別,および脾の大絡は,手足の十二絡とは性質が異なる。特に脾の大絡は臓腑に属する絡である。十五絡に入れられたのは,おもに十二経脈と一緒にして「二十七」という特殊な意義を持つ数字にあわせ揃えるためである。このほか,テキストの内容にもとづいても二つの部分に分けることができる。第一の部分は,古い旧テキスト――脈の循行と病候であり,第二の部分は,後人が加えた,あるいは改編した部分――絡穴と絡の「別走」である。『内経』で腧穴を記載する専門の篇である「気府論」「気穴論」,および「熱兪」「水兪」「灸寒熱病兪」などの穴には,みな絡穴の影は見えず,その出現もかなりおそいことを示していて,「経数の脈」という概念が形成された以後の産物であるとすべきで,経脈篇の編者の手によるのかもしれない。そのため腧穴の専門篇にその穴は掲載されず,診療篇にその脈は引かれず,臨床応用は何も記されていない。
3. 経脈篇にある手足三陰三陽の十二絡と接合するのは,経脈篇バージョンの「十二経脈」ではなく,非常に古いある種の経脈学説にある「経脈」である。したがってその表現は経脈篇より早いだけでなく,経筋篇よりも早いし,馬王堆帛書『十一脈』と比べてもより古い経脈循行の特徴をあらわしてさえいる。テキストに見えるいくつかの部分は晩期になってはじめてあらわれる内容の特徴を呈している。これは異なる時期に異なる人が編輯をつづけ改編した結果である。

黄龍祥著『経脉理論還原与重構大綱』第一篇 理論体系:還元と解釈 第5章 標本と根結は似て非なるものである——誤解が習い性となれば正解にまさり,最後まで悟らない

  結語:惑いを解く まとめ

1. 脈口は経脈の虚実盛衰を診察する窓口であり,本輸と標輸は経脈病候を治療する「経兪」である。『内経』の時代では,経脈で分類された穴は,本輸と標輸しかなかったし,経脈の循行をあきらかに体現しているのも本輸と標輸の位置であった。その他の穴は,循行路線上には示されることはほとんどなかった。経脈循行の描写は,あいまいなものから具体的なものへの途上にあるが,これは主に本輸と標輸の拡張と増加によるものである。
2. 伝世本『内経』の「本輸」には二つの異なる概念の内容が含まれている。一つは一穴の本輸である「経脈穴」であり,もう一つは五穴の本輸である「五輸穴」である。年代が本輸篇成立以前である『霊枢』『素問』の各篇では早期の「経脈穴」の本輸の概念が用いられ,年代が本輸篇以後の各篇では「五輸穴」の本輸概念が用いられていて,これらが文集としてまとめられているのである。【本輸篇以前のものとしては,『霊枢』五乱(34)・『太素』卷三十・衄血・『素問』通評虚実論(28)が,本文ではあげられている。】
3. 『内経』刺法の規範的専門篇である『霊枢』官針(07)での腧穴に関連する刺法は,みな本輸にあり,臨床では経脈および臓腑病の治療に用いられる。「循経取穴【経に循〔したが〕って穴を取る】」とは,すなわち経脈の病を辨して本輸の穴を取ることである。現代人は,「循経取穴」を「経に循って,宋以後に経に帰属したあらゆる361穴を取る」と理解している。現代人の「循行取穴」についての誤解は,「寧ろ其の穴を失するとも,其の経を失すること勿れ」【標幽賦に対する『鍼灸大成』楊氏注解に見える】という古訓の曲解をもたらし,認識上きわめて大きな混乱を引き起こした。【たとえば照海はもともと陰蹻穴に属していたが,宋以後,足の少陰経に帰属することになった。足の少陰経に循って照海穴を取って目の病を治療するときに,足の少陰経は目に達していないのに,現代人は「循経取穴」をどのように理解し,どのように説明するのか。どのように臨床実践を指導するのか。】
4. 標本は『十一脈』に芽生えた。根結は経脈篇の「経脈連環」の基礎である。「根結説」が構築した手足同名経脈の「根づくことろは対応し,結ぶところは同じか近い」という理論構造は,後の経脈篇が構築した十二の「経脈連環」への道をひらいた。ここに最大の意義がある。伝世本『霊枢』根結(05)には脱簡がなく,それに述べられている「三陰三陽」の根結には,すでに手足の六経がふくまれている。【根結篇には,手足の陽経のみが述べられて,陰経についての記述はない。】
5. 「根溜注入」【根結篇を参照】が反映しているのは,血脈循環理論の内容であり,標本根結の「木型」モデルの意味とはまったく異なる。これは,異なる時代の異なる問題に対する論述である。
6. 早期の経脈命名法には,おもに二種類ある。第一に,「手太陰」「手陽明」「足太陰」「足陽明」のように,「本」を名とするもの。第二に,「歯脈」「耳脈」「肩脈」のように「標」を脈の名とするもの。そのうち,第一の,三陰三陽で命名された経脈名称は,同時に相応ずる脈口と本輸の名称でもある。たとえば,「手太陰」は手から胸にいたる手太陰経脈全体の名称であるが,また手太陰の脈口の名称――寸口脈――でもあり,また早期の手太陰本輸の名称――すなわち脈口のところで,のちの太淵と経渠に相当する場所――でもある。
1. それぞれの脈あるいは絡にはただ一穴のみの段階があった。十一脈あるいは十二脈について言えば,それはすなわち脈口の「経脈穴」である。経脈と対応する十一あるいは十二の絡脈について言えば,これは「別れる所」にある絡穴である。陰蹻と陽蹻の脈について言えば,脈と名前が同じである「陰蹻」「陽蹻」穴である。まさにこれらの穴は,関連する脈あるいは絡が生成し延伸していった方向と路線を決定している。これらは脈あるいは絡が発生し発展していった原点であり,この意味からこれを「原」あるいは「源」穴と称するのは,非常に妥当である。