2016年11月10日木曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その10

病伝の問題については、『霊枢』病伝(42)に類似した論述があり、これを「大気入蔵」という。すなわち大量の邪気が臓腑に侵入し、正気がささえきれず、危険な症状を発し、その伝変は一日・三日・五日・十日の間隔で心・肺・脾・胃・腎などの臓器に「以次相伝」〔【現代語訳】各蔵に疾病が発生しますと、それぞれ相剋の順序に従って転移〕し、五臓六腑十二経脈がみな邪気を受けるようになる。そのため、大気が臓に入ると、「皆有死期」〔【現代語訳】定まった死亡の時がありますから、鍼治療を施すことはできないのです〕、預後はおおかた不良である。これについては、学術界の研究は多くない。『素問』生気通天論(03)にいう「故病久則伝化.上下不并.良医弗為」〔【現代語訳】そこで病邪の留まっている時間が長くなると内に伝わって変化する。もし上下が互いに通じないような段階になると、良医であっても、どうしようもないのである〕とは、「病伝」した後は標本刺法では対処しがたい局面を指している。

これからわかるように、標本刺法の源は、『黄帝内経』成書以前、あるいは同時期の治療経験である。これは、多くの疾病の取穴部位についての経験をまとめたものであり、臨床上有効であった普遍的な刺法に手を加え、高め、磨きをかけたものでもある。標本刺法の誤読は唐代の王冰(約710-805)にはじまる。彼は『素問』標本病伝論(65)に注解したとき、「本,先病。標,後病。必謹察之」〔本は先の病である。標は、後の病である。かならず慎重にこれを診察しなければならない〕といい、「本而標之,謂有先病復有後病也。以其有餘,故先治其本,後治其標也。標而本之,謂先發輕微緩者,後發重大急者。以其不足,故先治其標,後治其本也」〔(経文にある)「本而標之」とは、先の病があって、また後の病があるという意味である。それは有餘であるので、先にその本を治療し、後にその標を治療する。「標而本之」とは、先に発したのは軽微でおだやかなもので、後に発したのは重大で急なものであるという意味である。それは不足であるので、先にその標を治療し、後にその本を治療する〕ともいっている。ここから、中医には、「先病為本、後病為標」〔張元素『医学啓源』引(長):「故経曰:先病為本、後病為標〕という説ができた。このような解釈は、『素問』標本病伝論(65)の冒頭にある「病有標本.刺有逆従」という精神をないがしろにしている。本篇の標本刺法は経脈という事実にもとづいていることをないがしろにしている。したがって標本と衛気との関係が見いだせず、衛気が疾病での集散変化が目に入らない。時間が「標本相移」中に起こる作用をないがしろにしている。したがってその説は、標本が経脈の上下にある部位であるという原義をこえている。なおかつ、王冰の説は、漏れがとても多く、たとえば彼の観点からすると、「先病而後泄者.治其本.先泄而後生他病者.治其本」〔【現代語訳】先にある病を患い、その後に下痢を生じた場合には、まずその本病を治療します。先に下痢を患い、その後にその他の病を生じた場合には、まず先の下痢を治療し、必ず下痢を治してからその他の病症の治療を行わなければなりません〕は、慢性喘息患者が腹瀉を発症したら、咳喘をとめるために、先病の本を治療すべきで、腹瀉はとめるべきではないことになる! ながく泄瀉している病人が風寒に感染した場合は、長い泄瀉の本を治療すべきで、風寒によって体中が痛むのはほったらかして無視する! 彼の説がつじつまが合わないのはわかるだろう。王冰の説には弱点がすくなくないが、それ自身がもっている論理性によって、後世の医家に受容され、中医の治病原則となった。今日では、「先病為本、後病為標」を不易の論と奉じて、中医治療理論の革新と発展だと考えられている。このほか、王冰は、彼が補った「運気七篇大論」で標本に言及しているが、五運六気の「標本中気」として述べており、その概念と標本刺法とはまったく別のものである。

0 件のコメント:

コメントを投稿