2023年12月25日月曜日

首藤傳明著『やさしい鍼治療 臨床70年。「効く」への道しるべ』

 2024年1月10日 医道の日本社 

目次

初級……16

一,鍼灸医学の特徴……16

二,経脈……18

 気を感じるのは……20

 経脈の流れ……22

  その次は……23

 経穴 ツボ……25

 気血の生成……26

三,五臓 古典鍼灸の内臓……28

 東洋医学に於ける五臓の働き……29

 (一)肝臓……29

 (二)心臓……29

 (三)脾臓……30

 (四)肺臓……31

 (五)腎臓……31

 五神とは……32

 心包の働き……34

四,鍼灸治療の診断……35

 四診……35

 (一)望診……35

 (二)聞診……37

 (三)問診……38

 (四)切診……46

五,診察の要点……55

治療篇……55

 本治法……57

 (一)肝虚証……57

 (二)腎虚証……61

 (三)肺虚証……62

 (四)脾虚証……62

 局所治療……67

 (一)問診……67

 (二)動作……69

 (三)触診……69

 刺鍼……72

 使用鍼の問題……76

中級……78

 一,病因……78

 二その他の刺鍼法……81

  (一)秘鍼法……81

  (二)「名人は左手を使う」刺方……85

 三,症例集……87

 [症例1]月1回の治療……88

 [症例2]腰痛と復溜……91

 [症例3]虚血性腸炎と太白……93

 [症例4]本治法の刺鍼で叫び声……95

 [症例5]妊婦の腰痛……97

 [症例6]頸の激痛……100

 [症例7]新聞に載った患者さん……103

 [症例8]急性膝痛と皮内鍼……108

 [症例9]緑内障と柳谷風池……112

   緑内障と柳谷風池〈その1〉……112

   緑内障と柳谷風池〈その2〉……115

 [症例10]一鍼愁訴をとる 歩行痛……116

 [症例11]座位の腰痛……119

 [症例12]腰部打撲……121

 [症例13]潰瘍性大腸炎……124

 [症例14]顔面部ヘルペス……127

 [症例15]食欲不振……130

 [症例16]高齢者と突発性難聴……134

   高齢でない難聴……137

 [症例17]耳痛……139

 [症例18]季肋部自発痛……146

 [症例19]気分が他所(よそ)に存在(あ)る 移精変気……152

 [症例20]鼠蹊部痛……156

 [症例21]めまい……160

 [症例22]不正出血……162

 [症例23]妊婦の治療……163

 [症例24]首さがり症候群……165

 [症例25]後鼻漏……170

 [症例26]排尿痛……172

 [症例27]顔面神経麻痺2例

 [症例28]顔の激痛……183

 [症例29]目の痛み……188

 [症例30]諸気憤鬱病痿皆属肺金……191

 [症例31]頸の痛み……195

 [症例32]熱いがめまいに効く……198

 [症例33]最近の治験例……204

 [症例34]私の治療例……204

 鍼灸治療銘々……207

上級……236

終わりに……246

2023年10月9日月曜日

張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁05

  以上,本論は出土文献と伝世文献を結びつけ,『靈樞』九針十二原にみえる個々の語句に対して校詁をおこない,以下のように考える。「余子萬民」の「子」は,「字」の通仮字とすべきで,意味は「養」である。「令各有形,先立針經」の「形」は「鍼灸の実践から帰納された理論著作」を指す。「粗守關,上守機」の「關」の本義は「引き金を保護する部品」であり,「機」の本義は「引き金」であり,文中では比喩的として用いられている。「掛以髮」の「掛」は「掛ける」の意味であり,「髮」は「頭髪」を指し,「掛以髮」は「頭髪を使って引っ掛ける」ことを指している。

 また,中国医学文献の語句を校詁する際には,さまざまな方面の資料に適切な注意を払いながらそれを引用することで議論に十分な根拠を持たせることが必要であるとも考える。


  参考文献


[1] 佚名,灵枢经[M].北京:人民卫生出版社,1981:1.

[2] 龙伯坚,龙式昭.黄帝内经集解:灵枢[M].天津:天津科学技术出版社,2016:1299.

[3] 戚燕平,与中医工作者谈谈怎样学习医古文〔续〕[J].北京中医药,1985〔1〕53-55.

[4] 质夫.医古文语法[J].四川中医,1987〔4〕:53-56.

[5] 邵玉凤.学习医古文贵在学懂学通[J].中医函授通讯, 1989〔1〕:4.

[6] 蓝醒生.《内经》词类活用浅析[J].福建中医药,1981〔6〕:33-35,56.

[7]  傅海燕.医古文旨要〔三〕[J].中医函授通讯,1997,16〔3〕: 9-11.

[8]  傅海燕,赵鸿君.中医古籍中的实词活用及其辨析[J].辽宁中医学院学报,2001,3〔4〕:249-250.

[9]  傅维康,吴鸿洲.黄帝内经导读[M].北京:中国国际广播出版社,2008:279.

[10] 孙合肥.说"子万民" [J].安徽文学〔下半月〕,2009〔5〕:294.

[11] 高亨.古字通假会典[M].董治安,整理.济南:齐鲁书社,2012:427.

[12] 白於蓝.战国秦汉简帛古书通假字汇纂[M].福州:福建人民出版社,1989:23.

[13] 顾野王.大广益会玉篇[M].北京:中华书局,1987:134.

[14] 十三经注疏整理委员会.春秋左传正义[M] //十三经注疏.北京:北京大学出版社,2000:1480.

[15] 汉语大字典编辑委员会.汉语大字典[M].缩印本.武汉:湖北辞书出版社,1992:424.

[16] 司马迁,史记[M].北京:中华书局,1959:3.

[17] 徐宗元.帝王世纪辑存[M].北京:中华书局,1964:15.

[18] 常璩,华阳国志校补图注[M].任乃强,校注.上海:上海古籍出版社,1987:62.

[19] 刘斐,朱可,互文考论[J].当代修辞学,2011〔3〕:19-29.5-6.

[20] 李今庸,古医书研究[M].北京:中国中医药出版社,2003:

[21] 刘安.中华经典名著全本全注全译丛书:淮南子[M].陈广忠,译注.北京:中华书局,2012:77-78.

[22] 王冰.黄帝内经素问[M].北京:人民卫生出版社,1979: 6,243.

[23] 徐谦德.《内经》互文探析[J].安徽中医学院学报,1997〔1〕:55-57.

[24] 吴富东.针灸医籍选[M].北京:中国中医药出版社,2003:16.

[25] 常小荣.针灸医籍选[M].北京:中国中医药出版社,2016:15.

[26] 高希言.针灸医籍选[M].上海:上海科学技术出版社,2018:8.

[27] 王弼,孔颖达.周易正义[M] //李学勤.十三经注疏.北京:北京大学出版社,2000:303.

[28] 陈鼓应.庄子今注今译[M].最新修订版.北京:商务印书馆,2007:363-833.

[29] 王海成."形名" "刑名"之辨:兼论先秦名家的若干问题[J].诸子学刊,2019〔2〕:169-178.

[30] 黎翔凤.管子校注[M].梁运华,整理.北京:中华书局,2013:771.

[31] 张双棣.淮南子校释[M].北京:北京大学出版社,1997:1627. 

[32] 刘熙.释名疏证补[M].毕沅,疏证.王先谦,补.祝敏彻,孙玉文,点校.北京:中华书局,2008:1.

[33] 张少康.中国文学理论批评史教程[M].北京:北京大学出版社,1999:54.

[34] 司空图.二十四诗品[M].罗仲鼎,蔡乃中,译注.杭州:浙江古籍出版社,2018:53.

[35] 马莳.黄帝内经灵枢注证发微[M].田代华,主校.北京:人民卫生出版社,1994:3.

[36] 张景岳.类经[M].范志霞,校注.北京:中国医药科技出版社,2011:342.

[37] 张志聪.黄帝内经灵枢集注[M].孙国中,方向红,点校.北京:学苑出版社,2006:3.

[38] 黄龙祥.中国古典针灸学大纲[M].北京:人民卫生出版社,2020:131.

[39] 杨上善.黄帝内经太素[M].李云,点校.北京:学苑出版社,2007:268.

[40] 刘向.说苑校证[M].向宗鲁,校证.北京:中华书局,1987:402.

[41] 睡虎地秦墓竹简整理小组,睡虎地秦墓竹简[M].北京:文物出版社,1990:176.

[42] 高希言.针灸医籍选[M].上海:上海科学技术出版社,2014:8.

[43] 高希言.针灸医籍选[M].上海:上海科学技术出版社,2008:8.

[44] 兰鹏飞,郑文艳,刘世琼.浅谈对"不可挂以发" "叩之不发"的认识[J].内蒙古中医药,2009,28〔22〕:81-82.

[45] 佚名.中华经典藏书·黄帝内经[M].姚春鹏,译注.北京:中华书局,2009:237.

[46] 佚名.黄帝内经[M].影印本.北京:人民卫生出版社,2015:213.

[47] 卓廉士.释"知机之道者,不可挂以髮,不知机道,叩之以發"[J].云南中医学院学报,1991〔2〕:39.

[48] 孙机.汉代物质资料文化图说[M].增订本.上海:上海古籍出版社,2008:168.

[49] 许维遹.吕氏春秋集释[M].梁运华,整理.北京:中华书局,2009:421.

[50] 胥荣东,张义帅,张军伟."上守机"释义[J].针灸临床杂志,2006〔10〕:9-11.

[51] 孙机.中国古代物质文化[M].北京:中华书局,2014:372.


張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁04

 4 「掛以髮」の校詁


 『靈樞』九針十二原:「知機之道者,不可掛以髮。不知機道,扣之不發」。

 この文にも歴代解釈がある。『靈樞』小針解は「不可掛以髮者,言氣易失也,叩之不發者,言不知補瀉之意也。血氣已盡而氣不下也〔〈不可掛以髮〉とは,氣は失い易きを言い,〈叩之不發〉とは,補瀉の意を知らざるを言うなり。血氣 已に盡きて氣 下らざればなり〕」と解釈している。『素問』離合真邪論は「不可挂以髮者,待邪之至時而發針寫矣,若先若後者,血氣已盡,其病不可下,故曰知其可取如發機,不知其取如扣椎,故曰知機道者不可挂以髮,不知機者扣之不發,此之謂也〔〈不可挂以髮〉とは,邪の至る時を待って針を發して寫す,若しくは先んじ若しくは後るる者は,血氣 已に盡き,其の病 下す可からず,故に曰わく,〈其の取る可きを知れば機を發するが如し,其の取るを知らざれば椎を扣(たた)くが如し〉と。故に曰わく,〈機の道を知る者は挂(か)くるに髮を以てす可からず,機を知らざる者は之を扣くも發せず〉とは,此れ之を謂うなり〕」と解釈している。『內經』の解釈に問題はないはずだが,明清医家の見方は大きく異なっている。たとえば馬蒔は,「知機之道者,唯此一氣而已,猶不可掛一髮以間之。故守此氣而勿失也。不知機之道者,雖叩之亦不能發,以其不知虛實,不能補寫,則血氣已盡,而氣故不下耳〔機の道を知る者は,唯だ此れ一氣のみ,猶お一髮以て之を間して掛くる可からず。故に此の氣を守って失うこと勿かれ。機の道を知らざる者は,之を叩くと雖も亦た發すること能わず,其の虛實を知らざるを以て,補寫すること能わず,則ち血氣 已に盡きて,氣 故に下らざるのみ〕」[35]と考えた。張景岳の見方もこれに似ている[36]。張志聰は,つぎのように言う。「靜守於來往之間而補寫之,稍差毫髮之間則失矣。粗工不知機道,叩之不發,補寫失時,則血氣盡傷,而邪氣不下〔靜かに來往の間を守って之を補寫し,稍(すこ)しも毫髮の間を差(たが)えば則ち失す。粗工は機道を知らず,之を叩いて發せず,補寫 時を失すれば,則ち血氣 盡く傷(やぶ)れて,邪氣 下らず〕」[37]。

   明清人の見方は『鍼灸医籍選』の教材に吸収された。例えば呉富東主編『鍼灸医籍選』は 「掛は差である。毫髮の間も差(たが)うべからず,適時に鍼刺の補瀉を行なうべきであることを指している」[24]。常小榮主編『鍼灸医籍選』[25]もこれに従っている。高希言主編の第3版の『鍼灸医籍選』は多少の違いがあるとはいえ,実質的には同じである。第2版の『鍼灸医籍選』では,「掛は,差錯〔間違い,過ち〕。毛ほどの差錯もあってはならない。適時に補瀉を行なうべきことを指す」[42]。第1版[43]と第3版[26] の『鍼灸医籍選』の注釈は同じで,「掛は差である。毫髮の間も差(たが)うべからず,適時に鍼刺の補瀉を行なうべきであることを指している」とある。呉富東の教材に比べて 「補瀉」〔「鍼刺」の誤りか〕の二字が減っている。

 王洪圖・郭靄春・孫國中などの学者も,前人の注解を基礎として,「不可掛以髮」を「不可差之毫髮〔之を毫髮も差(たが)う可からず〕」と解釈し,「叩之不發」を「弩機をかけ止めて発射しない」と解釈し,この句の「發」を「発射する」 [44]と解釈している。しかし,この「掛」を「差」と解する意見については,古今の学者はみな字書や文献による証拠を提出していないので,ひとを納得させるのは難しい。

 姚春鵬は,「不可掛以髮〔簡体字表記:不可挂以发〕」を「矢を弦に強く掛けすぎなければ,かなり容易に矢を発出することができる」[45]の意だとしているが,これは「发」の字の違いに気づかず両者を混同していて,実際上,誤解である。〔繁体字の「髮」と「發」は,簡体字ではともに「发」と書かれる。〕

 人民衛生出版社の明代趙府居敬堂影印本『靈樞』[46]は,二つの「发」字をそれぞれ「髮」と「發」に作る。

 ある学者は「髮」と「發」の違いを認識したうえで,「髮」は「發」の書き誤りであると考え,さらにつぎのように力説している。「もし〈不可掛以髮〉とは,間 髪をいれずという意味だとしたら,いささか牽強付会である」,〈以〉は接続詞であり,その意味は〈而〉と同じである。「掛」字は鏃をかける,矢を弦にかける動作であり,「掛而發」とは,弓を引いて矢を射る準備をし,満を持して発するという意味である[47]。

 本論は,この説には議論の余地があると考える。その原因は『靈樞』の原義を理解していないことである。ここの「掛」は頭髪を使って引き金すなわち懸刀を引っかけることを指しているにちがいない。その後の第一の「发(髪)」は頭髪である。「不可掛以髮」は「不可以髮掛之」,すなわち頭髪を用いて懸刀を引っかけることはできない,と読むべきである。これはなぜか。

 弩は強度がかなり強いので,しばしば「石」で表現された。漢代では1石の弩を引くためには,1石(約30kg)の重さの力が必要であり,常用されたのは4石の弩であり,40石(約1200 kg)の力が必要な弩さえあった,と孫機は指摘している[48]。

 想像すればわかるように,頭髪を使って弩の発射を制御しようとするのは非現実的である。そのため『靈樞』が強調しているのは,鍼刺補瀉の法則を知るのは,弩で矢を発射するのとおなじで,頭髪で懸刀を制御するべきではなく,そんなことをすれば容易に経気が失われる,ということである。

 第二の「发(發)」はまさに「発射」である。『呂氏春秋』察微に「夫弩機差以米則不發〔夫れ弩機 差するに米を以てすれば則ち發せず〕」[49]とある。

 『靈樞』小針解には「扣之」とあり,『素問』離合真邪論には具体的に「錐」となっている。この「錐」字について,ある学者は「楗」が正しく,形が近いための誤字であると考えている[50]。この説にはしたがうべきであるが,補うべきところがある。この字は「鍵」の誤字とすべきである。なぜなら弩は,鍵を用いて弩牙・鉤心・懸刀〔みな弩の部品名〕を内部に組み合わせたものであり,鍵は弁でもある[51]。経文は,経気運行の法則を知らなければ,鍵を扣(たた)いても,弩の発射をつかさどる機関ではないので,発射できない,そのため経気の運行もあやまつことになる。『素問』離合真邪論の「待邪之至時而發鍼寫矣,若先若後者,血氣已盡,其病不可下〔邪の至る時を待って鍼を發して寫す,若しくは先んじ若しくは後るる者は,血氣 已に盡き,其の病 下す可からず〕」は,まさしくこのような二つの情況を高度に要約したものである。一つは「先」である。すなわち「挂以髮」はもともと頭髪を用いて弩を制御することを指し,経気も血気が到来する前に補瀉すれば,先走って時機を失することになる。一つは「後」であり,「扣之不發」を指している。弩を扣いても鍵となる部位である「懸刀」ではないので,たとえとしては,補瀉の時期がすでに来ているのにとらえられず,時機を失することを指している。


2023年10月8日日曜日

張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁03

 3 「關」「機」の校詁


 『靈樞』九針十二原:「粗守關,上守機」。

 ここの「關」について,吳富東主編『針灸醫籍選』の注は,「關:四肢関節の腧穴を指す」,「機:弓弩の機で守気の機を比喩している」[24]という。常小榮主編『針灸醫籍選』[25]はこれに従う。高布言主編の第3版『針灸醫籍選』の「關」字の解釈は,上記の教材を継承している。たとえば,2018年版は「機」字を「経気が至る動静の時機」[26]としている。各版の教材の説明は異なるとはいえ,実際のところ古人によるものである。たとえば,明代の馬蒔は「粗工は則ち徒(いたず)らに四肢の關節を守れども,血氣正邪の往來を知らず。上工は則ち能く其の機を守る,即ち此の氣の往來を知るなり」[35]と解釈している。張介賓は,「〈粗は關を守る〉とは,四肢の關節を守るなり。〈上は機を守る〉とは,氣 至るの動靜を察するなり」[36]という。張志聰は,「〈粗は關を守る〉とは,四肢の關節を守る。〈上は機を守る〉とは,其の空を守って刺すの時に當たって,弩機を發するの速きが如きなり」[37]という。本論は,古代の注釈であれ,今日の教材の説明であれ,いずれも厳密さを欠くと考える。たとえば,「機」字の使用については,古い注釈も現代の説明もみな比喩の一種だと考えているが,「關」字が比喩的用法であるかどうかは指摘していない。黃龍祥はつぎのように指摘している。「『黃帝內經』の経文に描かれている〈機〉と〈關〉の構造的関係から,秦代の弩特有の特徴がはっきりと見いだされる。秦代の弩は非常に巧妙に設計されていた。すなわち「機」 の周りに「關」(また「闌」とも書く)という竹製の囲いが設けられていて,「機」を保護する役割があり,誤発射を防ぐことができた」といい,あわせて「秦兵馬俑1号坑から出土した秦弩復元模式図」を載せていて,図には「機」と「關(闌)」の位置が示されている[38]。本論は,黃氏がいう「機」「關」に対する解釈に同意するが,黃氏は「關」字の語義に関連する文献による根拠を挙げていない。また秦代の弩の絵が挙げられているので,秦弩にのみ「關」という部品があるのだと読者が誤認しやすい。

 「機」を比喩用法とするのは,さかのぼれば,最も早いのは楊上善からだろう。楊上善は『靈樞』小針解を基礎として,さらにその注に対する疏として,小針解篇の「粗守關者,守四支而不知血氣正邪之往來也〔〈粗は關を守る〉とは,四支を守って血氣正邪の往來を知らざるなり〕」に「五藏六府出於四支,粗守四支藏府之輸,不知營衛、正之與邪、往來虛實,故為粗也〔五藏六府は四肢に出づ,粗は四支藏府の輸を守り,營衛と,正の邪と,往來する虛實を知らず,故に粗と為すなり〕」という。「上守機」は『黃帝內經太素』では「工守機」と書かれていて,小針解篇の「工守機者,知守氣也〔〈工は機を守る〉とは,氣を守るを知るなり〕」について,「機,弩牙也,主射之者,守於機也。知司補瀉者,守神氣也〔機とは,弩牙なり,之を射るを主る者は,機を守るなり。補瀉を司る者は,神氣を守るを知るなり〕」[39]という。楊氏の「機」に関する解釈には議論の余地がある。かれは「弩牙〔弦を引っかける爪〕」を「神氣」の比喩として用いているが,「關」が比喩的用法であるかどうかは指摘していない。

 小針解篇の注釈から,この篇の作者は「關」を「四肢」を指していると考えたことがわかる。明清代のひとはさらに進めて,「四肢の関節」と特定した。この篇の作者は「機」は「氣」を指すと考えたが,楊上善はこれを「神氣」,明清のひとは「氣之往來」「氣至之動靜」と考えた。実際のところ,これらの説明はいずれも議論の余地がある。なぜなら「關」と「機」を対として併用する現象は,他の文献にも見られるからである。たとえば,『說苑』談叢に「口者關也,舌者機也。出言不當,四馬不能追也〔口は關なり,舌は機なり。出言 不當なれば,四馬も追うこと能わざるなり〕」 [41]とある。『說苑』と同じ表現は,出土文献にも見られる。たとえば成書がより早い睡虎地秦簡『為吏之道』の簡295・305・315に,「口,關也;舌,幾(機)也。一堵(曙)失言,四馬弗能追也〔口は,關なり。舌は,幾(機)なり。一堵(曙)失言すれば,四馬も追うこと能わざるなり〕」とある。整理小組は「關と機はともに弩の部品の名称である。機は引き金であり,その外側にあって機を保護する部分を關という」 [41]と注する。整理小組の意見は「關」と「機」の意味について確乎たる訓詁であると本論は考える。伝世文献である『說苑』と出土秦簡『為吏之道』は,いずれも「口」は「關」にたとえられ,「舌」は「機」にたとえられていて,不適切な発言をすれば,取り返しのつかない損失をもたらす可能性があることを指摘している。九針十二原篇の「粗守關」の「關」も弩の上にある「機を保護する部分」を指していて,四肢の腧穴をたとえていて,「上守機」の「機」は弩の引き金であって,弩牙〔弦を引っかける爪〕ではなく,神氣を指してたとえている。


張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁02

 2 「形」字の校詁

 『靈樞』九針十二原:「令各有形,先立針經」。

 この中の「形」字について,吳富東主編『鍼灸醫籍選』は,「形は,鍼具の形状を指す」[24]と注している。常小榮主編『鍼灸醫籍選』[25]はこれに従っている。高希言主編の第3版『鍼灸醫籍選』(ここでは2018年版を例とする)もこれに従っている。本論は,これらはみな誤読であると考える。各版の教材では,この箇所の意味を後文の「九針之名,各不同形」の「形」字の影響を受けて,両方の「形」字とも「鍼具の形状」を指していると考えたのかも知れない。実際は「令各有形」の「形」字は,「鍼具の形状」ではなく,この前にある「必明為之法」の「法」と「為之經紀」の「經紀」を指している。「法」と「經紀」が指しているのは,みな「以微針通其經脈,調其血氣,營其逆順出入之會〔微針を以て其の經脈を通じ,其の血氣を調え,其の逆順出入の會を營す〕」という鍼灸臨床実践を総括し,さらに進んで理論にまで高め,形,すなわち文章に形づくることであり,この文ではまず『針經』を編纂することを指している。〔訳注:「文章」,原文は「文字」。単に「もじ」という意味だけではなく,「文章・書籍」の意味でも用いられる。〕

 「形」には「形象」の意味があり,『周易』繫辭に「在天成象,在地成形,變化見矣〔天に在っては象を成し,地に在っては形を成して,變化見(あら)わる〕」[27]とある。『莊子』天地に「泰初有無,無有無名;一之所起,有一而未形。物得以生,謂之德;未形者有分,且然無間,謂之命;留動而生物,物成生理謂之形〔泰初に無有り,有無く名無し。一の起こる所にして,一有れども未だ形あらず。物得て以て生ず,之を德と謂う。未だ形あらざる者に分有り,且つ然も間無し,之を命と謂う。留動して物を生ず,物成って理を生ず,之を形と謂う〕」[28]とある。『靈樞』のこの箇所の「形」は「形象」の意味からさらに引伸して「文章」の意味となった。これは後面の「針經」の成立と一致する。「形」と「針經」とは,実際上,ひとつの論理上の関係がある。すなわち「形」には「針經」が含まれ,「針經」は「形」一部分である。

 これは実際には古代の重要な哲学の思弁問題,すなわち「形名」の弁[29]に関連している。『管子』心術上に「物固有形,形固有名,……故曰聖人〔物に固(もと)より形有り,形に固より名有り,……故に聖人と曰う〕」[30]とある。『淮南子』說山訓に「凡得道者,形不可得而見,名不可得而揚,今汝已有形名矣,何道之所能乎?〔凡そ道を得る者は,形 得て見る可からず,名 得て揚ぐ可からず,今ま汝已に形名 有り,何の道をか之れ能くする所あらんや?〕」[31]とある。先秦時代から漢代にいたる形名の弁の最大となる成果は『釋名』の編纂である。『釋名』の自序に「名號雅俗,各方名殊,……夫名之於實,各有義類,百姓日稱而不知其所以之意,故撰天地、陰陽、四時、邦國、都鄙、車服、喪紀,下及民庶應用之器,論敘指歸,謂之《釋名》,凡二十七篇〔名號の雅俗,各方に名 殊にす,……夫れ名の實に於いて,各々義類有り,百姓 日々に稱えて其の所以(ゆえん)の意を知らず,故に天地・陰陽・四時・邦國・都鄙・車服・喪紀を撰び,下は民庶應用の器に及び,論じて指歸を敘す,之を『釋名』と謂う,凡(すべ)て二十七篇〕」とある。「名」は最終的には「字」「語」の形式で表現される。すなわち鍼灸医学の実践は,文字で構成された理論的な作品として形づくられるのである。

 『靈樞』のここでの 「形」 の使用は,『荘子』の言意の弁と共通するものがあり,抽象的な思考をどのように表現するかという問題にも及んでいる。『莊子』外物に「筌者所以在魚,得魚而忘筌;蹄者所以在兔,得兔而忘蹄;言者所以在意,得意而忘言〔筌なる者は魚に在る所以,魚を得て筌を忘る。蹄なる者は兔に在る所以,兔を得て蹄を忘る。言なる者は意に在る所以,意を得て言を忘る〕」 [28]とある。言語は思考を表現する道具ではあるが,完全に表現することはできず,比喩や象徴や暗示などの方法の助けを借りて,人々の想像や連想を引き出し,人々の生活の中で経験したある種の認識や印象の回想から,多くのさらに豊富で複雑な思考内容を結びつけ,形づくることによって,「言外の意」 [33]を獲得すると荘子は考えている。唐代になって,「言」は「字」に変わり,「意を得て言を忘る」説は,洗練されて司空圖の『二十四詩品』含蓄の「不著一字,盡得風流〔一字も著わさずして,盡(ことごと)く風流を得〕」[34]となった。『靈樞』のここは,まさに『莊子』の「意を得て言を忘れる」過程とは反対に,『靈樞』は普段にまとめられた抽象的思考,すなわち臨床経験(「法」と「經紀」)が形象つまり文字に変えられ,「令各有形〔各々形有らしむ〕」,「針經」は「形」の一部分であるので,「先ず立てる」ことが必要だった。


張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁01

 1 「子」字の校詁


 『靈樞』九針十二原:「黃帝問於岐伯曰:余子萬民,養百姓,而收其租稅」。[1]

『靈樞』九針十二原は中医学の各版企画教材『鍼灸医籍選(読)』にも収録されているが,「子萬民」に対する注解は一つもなく,この語句は理解が容易で,議論も何もないようである。『黄帝內經集解』は「歴代医学家の『內經』論著に関する精華を広く引用」(張孝騫の語)した集大成の著作である[2]が,この本を読んでも古人の論述は見られなかった。古人は論述していないが,現代の学者は多く言及していて,見解はおおかた同じである。「子」は名詞を意動詞〔訳注:名詞・形容詞が賓語(目的語)を取って他動詞として用いられ,主観的な判断・評価をしめす〕として用いられていて,「萬民」は「子」の賓語であり[3],「子萬民」は「万民を以て子と為す」[4-5],「一般大衆を自分の子と同様にみなす」[6],「万民を子とみなす」[7-8]と考えており,各家の説はほぼ一致している。しかし,本論ではこのような「子」を意動詞と見なす説には議論の余地があり,また「子」を「愛」[9]と解釈するのも十分には厳密ではないと考える。

 「子萬民」は『戰國策』齊策の「趙威後問齊使」篇にも見られ,文章は高校の教材に採用され,一部の古文選読の専門書にも収録されている。これらの資料を通覧したところ,「子萬民」に対する解釈は,前述の意見と一致していた。しかしこれに対して異を唱える学者もいる。かれはその他の古籍に見える「子」の用法を整理し,「趙威後問齊使」にある「子萬民」中の「子」は,「慈」の通仮字であって,その意味は「愛する,かわいがる」であり,「子萬民」とはすなわち「愛萬民」であると考えている[10]。本論は,この説には従うべきだと考えるが,依然として議論の余地がある。

 「子」と「字」は通用する。伝世文献では『尚書』益稷に「予弗子〔予 子とせず/わたしは父として可愛がってやりもせず〕」,『列子』說符〔楊朱の誤りか〕に「子產弗字〔子 產れども字(いつくし)まず〕」が見える[11]。出土文献では,『張家山漢簡』二年律令・雜律に「吏六百石以上及宦皇帝,而敢字貸錢財者,免之」とある。張家山漢簡研読班は「字」を「子」と読んでいる[12]〔吏六百石以上及び宦皇帝,敢えて錢財を字貸する(利子をつけて貸す)者,之を免ず〕。「字」には「養」の意味もある。『玉篇』子部に「字,養也」[13]とある。『左傳』昭公十一年の「〔僖子〕宿於薳氏,生懿子及南宮敬叔於泉丘人。其僚無子,使字敬叔〔薳氏に宿り,懿子と南宮敬叔とを泉丘の人に生ませしむ。其の僚 子無かりければ,敬叔を字(やしな)わしむ〕」の杜預注に「字,養也」[14]とある。『漢語大字典』は,この文を引用して,「字」の語釈として「撫育,養育」[15]と注している。黄帝が万民を撫育する例はさらに多い。たとえば,司馬遷『史記』五帝本紀に「軒轅乃修德振兵,治五氣,蓺五種,撫萬民,度四方,教熊羆貔貅貙虎,以與炎帝戰於阪泉之野〔軒轅乃ち德を修め兵を振(ととの)え,五氣を治め,五種を蓺(う)え,萬民を撫で,四方を度(わた)り,熊羆貔貅貙虎を教え,以て炎帝と阪泉の野に戰う〕」 [16]とある。関連する文献としては,皇甫謐『帝王世紀』自皇古至五帝に「及神農氏衰,黃帝修德撫民〔神農氏の衰うるに及んで,黃帝 德を修め民を撫づ〕」(『藝文類聚』卷11と『群書治要』卷11の注の引用では,いずれも「撫」字となっているが,『太平御覽』卷79のみは,「化」に作る [17])。「子」と「撫」はいずれも黄帝の作法を形容していて,『史記』『內經』『帝王世紀』に歴史的な一致がある。

 「子萬民」は後文の「養百姓」 と互いに関連させて理解すべきであると本論は考える。すなわち互文の修辞法である。「撫」と「養」はまた意味も近い。たとえば,『華陽國志』漢中志に「撫其民以致賢人〔其の民を撫で以て賢人を致す〕」とあるが,任乃強は校注で「『漢書』は〈養〉に作る」と指摘している。「互文」とは,「前後の言語単位間で互いに省略されたり補完されたりして,その両者を綜合してはじめて完全な意味を表現できる言語現象」[19]〔精選版 日本国語大辞典:対をなしているような表現で,一方に説くことと他方に説くことが,互いに相通じ,補いあって文意を完成する表現法〕を指す。

 指摘しておく必要があることは,「萬民」とは一般庶民のことではなく,諸侯を指す。李今庸は『孝經』天子章と『禮記』內則の鄭玄注の「天子を兆民と曰い,諸侯を萬民と曰う」にもとづき,ここの「百姓」と「萬民」は対句の関係にある[20]と指摘しているが,まさにその通りである。『靈樞』九針十二原でいう「百姓」とは「百官」を指していて,一般人民大衆のことではない。丹波元簡〔『靈樞識』〕は,「『國語』周語注:〈百姓,百官有世功者〉。又『書』堯典・孔傳:〈百姓,百官〉。」[2]を引用し,「百姓」とはすなわち「百官」であることを指摘している。

 ここでは「百姓」と「萬民」が対となってあげられていて,「子」は「字」として読むべきであり,「字」には「養」の意味がある。本文は「互文」中の「語義が近似する互文」に属す。この二つの文は,「萬民と百姓を撫育する」ことを示している。この言語構造と表現方式は,伝世文献にも類似した記載がある。たとえば,『淮南子』俶眞訓の「今夫積惠重厚,累愛襲恩,以聲華嘔符嫗掩萬民百姓〔今夫(そ)れ惠を積み厚を重ね,愛を累ね恩を襲ねて,聲華(=聲譽榮耀)嘔符(=撫愛)を以て,萬民百姓を嫗掩す〕」に,陳廣中は「嫗掩は,撫育」[21]と訳注をつけている。この「嫗掩」は「子」「養」と意味は同じであり,この例も前文にある「子」字の校詁意見の証拠とすることができる。

 「互文」は『內經』においても常用される手法である。たとえば『素問』上古天真論の「提挈天地,把握陰陽」[22]に,李中梓は「提挈は,把握なり」[23]と注している。『素問』痺論の「五藏有俞,六府有合」 [23]に,高世栻は「但だ六府に俞有るのみならず,五藏にも也(また)俞有り。但だ五藏に合有るのみならず,六府にも也(また)合有り」[23]と指摘している。『內經』のその他の箇所にも互文の手法は多く使われているが,ここでは省略する。

 本論は,『靈樞』九針十二原:「子萬民」の「子」は動詞であるべきで,「撫育」の意味があり,後面の「養百姓」とともに,互文の修辞手法として用いられていると考える。


張雷 『靈樞』九針十二原 語句校詁00

    【要旨】 出土文献と伝世文献を結びつけることによって,『靈樞』九針十二原中の語句について校詁〔訓詁研究〕をおこなった。「余子万民」の中の「子」は,「字」の通仮字であり,「養」の意味であると解釈すべきであると考える。「令各有形,先立針経」の「形」は,「鍼灸実践を帰納した理論著作」を指す。「粗守關,上守機」の中の「關」の本義は「引き金を保護する部品」であり,「機」の本義は「引き金」であって,文中では比喩として用いられている。「掛以髮」中の「掛」は「かける」の意味であり,「髮」は「髪の毛」を指し,「掛以髮」は「髪の毛で引っ掛ける」ことを指している。


    【キーワード】 『靈樞』;簡牘;校詁


 九針十二原篇は,『黃帝內經靈樞』巻1の第一篇の文章であり,文中の語句の解釈については,『靈樞』巻1の「小針解」篇から現代にいたるまで,豊富な成果がある。しかしながら,依然として深く検討するに値するところが数多く残されている。本論はこの篇にある語句の解釈について意見を提出し,専門家の批判に供する。 

2023年9月7日木曜日

和田東郭『蕉窓雑話』序跋 その2跋

 蕉窗雜話跋

先子少時學醫於東郭和田先

生其侍次先生每有說話輒與諸

子筆以記之後會輯成卷名曰

蕉窓雜話其言之於醫治一語金

玉以故為人所竊寫遂以流播

乎世矣先子懼其魯魚誤實荊璧

失真與諸子謀欲請之先生以上

  一オモテ

梓而先生忽易簀遂不能之果爾後

諸子亦繼逝先子每以慨恨戊寅

夏病疔瘡湯藥之間乃取而挍

之又附以一二之言將以上木既愈

而礙乎事務稽留越年則

舊毒復發遂不能起及其辭

世囑予以梓事予不肖斬焉

在衰絰哭擗之中未能奉命

  二オモテ

也今茲除服則急謀剞劂以壽

之于世聊以冀稱遺命懇〻

之萬一云爾

文政辛巳夏六月

      服部主一謹識



  【訓み下し】

『蕉窗雜話』跋

先子 少(わか)き時,醫を東郭和田先生に學ぶ。其の侍次,先生 每(つね)に說話有り。輒(すなわ)ち諸子と筆して以て之を記(しる)す。後に會輯して卷と成し,名づけて『蕉窓雜話』と曰う。其の言の醫治に於けるや,一語 金玉なり。故を以て人の竊(ひそ)かに寫(うつ)す所と為り,遂に以て世に流播す。先子 其の魯魚 實を誤り,荊璧 真を失うを懼れ,諸子と謀って,之を先生に請い,以て

  一オモテ

梓(あずさ)に上(のぼ)さんと欲す。而(しか)れども先生 忽ち簀(すのこ)を易(か)え,遂に之を果たすこと能わず。爾(しか)る後,諸子も亦た繼いで逝く。先子 每(つね)に以て慨恨す。戊寅の夏,疔瘡を病む。湯藥の間,乃ち取って之を挍す。又た附するに一二の言を以てし,將(まさ)に以て木に上(のぼ)さんとす。既に愈ゆるも事務に礙(さえぎ)らる。稽留して年を越し,則ち舊毒 復た發す。遂に起(た)つこと能わず。其の世を辭するに及んで,予に囑するに梓事を以てす。予 不肖,斬焉 衰絰・哭擗の中に在り,未だ命を奉ずること能わず。

  二オモテ

今茲 服を除く。則ち急ぎ剞劂を謀り,以て之を世に壽す。聊(いささ)か以て遺命の懇懇の萬一に稱(かな)わんことを冀(こいねが)う云爾(のみ)。

文政辛巳夏六月

      服部主一 謹んで識(しる)す



  【注釋】

○窗:「窻・窓」の異体字。 ○先子:称亡父。  ○少時:年輕時;年幼時[in the cradle]。 ○侍:伺候。在一旁陪著。敬うべき人のそばに控える。お仕えする。伺候する。 ○次:~の間。~の際。 ○說話:用語言表達意思;發表見解。發言、講話。閑談。話をすること。ものがたること。 ○輒:每、總是。每次 [always]。そのたびに。~のときはいつも。 ○諸子:諸君。多くの人々を親しみや敬意を込めていう語。同等または、それ以下の人々をさしていう。 ○筆:寫作、記述。用筆寫。筆で書くこと。 ○會輯:聚集。/會:集合、聚合。/輯:蒐錄後整理。如:「編輯」。 ○金玉:黃金與珠玉。泛指珍寶。珍重すべきすぐれたもの。【金玉之言】比喻珍貴的勸告或教誨。 ○以故:猶言因此,所以[therefore]。ゆえに。それで。 ○竊:偷偷的。ひそかに。人知れず。 ○流播:流傳。[spread;circulate;hand down] 傳播。広く伝わる。 ○魯魚:“魯”“魚”兩字相混。指抄寫刊印中的文字訛誤。《「魯」と「魚」の字は字体が似ていて誤りやすいところから》まちがいやすい文字。また、文字の誤り。 ○荊璧:即和氏璧。春秋時楚人卞和自楚國山中得一玉璞,獻給楚厲王,經玉工鑑定其為普通的石頭,厲王以卞和撒謊欺騙,乃刖其左腳。後武王即位,卞和再獻,仍視為石頭,卞和又被刖去右足。至文王即位,卞和抱玉石至荊山下大哭三天三夜,文王得知,命玉工加以琢磨,終得一塊寶玉,命名為「和氏璧」。見《韓非子.和氏》。中国の春秋時代、楚の国の卞和(和氏)という人物がある石を見つけ、磨けばとても美しい宝石(璧)になると考えて、王に献上しました。しかし、専門家の鑑定では、それは宝石ではないとのこと。卞和はうそをついたとされ、罰として左足の筋を抜かれてしまいました。次の代の王に献じても結果は同じで、今度は右足の筋を抜かれてしまいます。その次の代の王の時、卞和が泣いているところに、王が通りかかって、その理由を尋ねたところ、「宝石なのにそれが認められず、正直者なのにうそつき呼ばわりされるのが、悲しいのです」という返事。気になった王が試しにその宝石を磨かせてみたところ、美しい宝石になったということです。この宝石は、後に、いくつもの城と交換できるほど価値があるとされたところから、「連城の璧」とも呼ばれるようになりました。 ○失真:與真相不合。失去本意或本來面目[distort;be not true to the original]。 ○上梓:把文字雕刻在版上,即付印。古時以木版印刷,將文字刻於木版上,謂之上梓,亦稱付梓。)《梓(あずさ)(キササゲ)の木を版木に用いたところから》文字などを版木に刻むこと。書物を出版すること。

  一オモテ

○忽:突然 [suddenly]。迅速。にわかであるさま。 ○易簀:更換寢席。簀,華美的竹席。易簀指曾子臨終時,因席褥為季孫所賜,自己未嘗為大夫,而使用大夫所用的席褥,不合禮制,所以命人換席,舉扶更換後,反席未安而死。典出《禮記.檀弓上》。後遂比喻人之將死。《「礼記」檀弓上の、曽子が死に臨んで、季孫から賜った大夫用の簀(すのこ)を、身分不相応のものとして粗末なものに易(か)えたという故事から》学徳の高い人の死、または、死に際をいう語。 ○爾後:從此以後[henceforth;henceforward]。然後。その後。 ○繼:隨後、跟著。つづけて。 ○逝:死亡。多用于對死者的敬意。 ○慨恨:感嘆憤恨。感慨遺憾。残念に思う。 ○疔瘡:毛囊汗腺等處疼痛腫硬的泛稱。中醫指病理變化急驟並有全身症狀的惡性小瘡。隋 巢元方《諸病源候論‧丁瘡候》:「疔瘡者,風邪毒氣於肌肉所生也……初起時突起,如丁蓋,故謂之疔瘡」。[malignant boil;furuncle] 病名。又名疵瘡。因其形小,根深,堅硬如釘狀,故名。多因飲食不節,外感風邪火毒及四時不正之氣而發。 ○湯藥:中醫指用水煎服的藥物。湯液治療。 ○挍:「校」に同じ。比較。校正。 ○礙:阻止。妨害 [prevent;stop]。 ○事務:事情、雜務。要做的或所做的事情。[work]∶指具体的事情。 ○稽留: 耽擱、停留。延遲[delay] 。とどまること。とどこおること。滞留。 ○越年: 年を越すこと。新年を迎えること。年越し。 ○起:復甦、痊癒、好轉。治愈;病愈。[stand up]起床 [get up;get out of bed]。【不起】不起身。久病不癒。【不起之病】不易康復甚或導致死亡的疾病。 ○辭世:去世、死亡。逝世。この世に別れを告げること。死ぬこと。死に臨んで残す言葉。 ○囑:叮嚀、託付。托付 [entrust]。ものを頼む。 ○予:我。同「余」。 ○梓:出版。 ○不肖:子不似父。不賢,無才能。[unworthy]∶品行不好,没有出息。 [Nothing doing]∶謙辭。不才,不賢。取るに足りないこと。未熟で劣ること。また、そのさま。父に、あるいは師に似ないで愚かなこと。自称。わたくし。自分をへりくだっていうのに用いる。 ○斬焉:因喪哀痛貌。《左傳‧昭公十年》:「孤斬焉在衰絰之中」。喪中の悲しみの状態にあるさま。〔左伝、昭十年〕晉の平公卒(しゆつ)す。~既に葬る。諸侯の大夫、因りて新君に見(まみ)えんと欲す。~叔向(しゆくしやう)之れを辭して曰く、大夫の事(弔礼)畢(をは)れり。而して又孤に命ず(謁見を求める)。孤、斬焉、衰絰(さいてつ)(喪服)の中に在り。 ○衰絰:喪服。古人喪服胸前當心處綴有長六寸、廣四寸的麻布,名衰,因名此衣為衰;圍在頭上的散麻繩為首絰,纏在腰間的為腰絰。衰、絰兩者是喪服的主要部分。 ○哭:因傷心或激動而流淚,甚至發出悲聲 [cry;weep;sob]。 ○擗:用手捶拍胸部。《廣韻.入聲.陌韻》:「擗,撫心也。」《孝經.喪親章》:「擗踊哭泣,哀以送之。」 ○奉命:接受尊長或上級的命令。[receive orders;act urder orders;follow the cues of sb.]∶接受命令,遵守命令。貴人から命令をうけたまわること。→受けた命令を実行する。

  二オモテ

○今茲:今年。 ○除服:脫去喪服。謂不再守孝。守孝期滿,脫去喪服。《三國志‧魏志‧武帝紀》:「葬畢,皆除服」。喪服を脱ぐ。 ○剞劂:刻鏤的刀具。雕板;刻印。雕版、刊印。【剞劂氏】指刻板印書的經營人。 ○壽:序文などに「壽諸〔=之乎〕梓」とよく使われる。たとえば,張介賓『景岳全書』卷20に「祈壽諸梓,以為後人之鑑」とある。日本では,田中知箴撰『鍼灸五蘊抄』中村伯綏序に「求壽木」,高田玄達撰『經穴指掌』武田信邦序に「壽之乎梓」,佐藤仲甫撰『灸驗錄』井潛仲龍(井上四明)序に「今欲壽之梓以公於世」とある。壽=長命から引伸して,版木に刻んで長く保存することをいうのであろう。しいて訓ずれば,「ひさしくす,たもつ,きざむ」か。 ○聊:姑且、暫且。略微。かりそめ。とりあえず。少し。わずかばかり。 ○冀:希望,期望 [hope]。 ○稱:適合。 ○遺命:猶遺囑。人死前所遺留下來的遺言或命令。死ぬときにのこした命令。また、臨終に言い付けをのこすこと。 ○懇〻:至誠。誠摯殷切貌。心の込もったさま。 ○萬一:萬分之一[one ten-thousandth]。形容極微小。 ○云爾:語末助詞,表如此而已的意思。常用於句子或文章的末尾,表示結束。

 ○文政辛巳:文政四年(1821)。 ○服部主一:服部流謙の子であろう。


2023年9月6日水曜日

和田東郭『蕉窓雑話』序跋 その1序

 『対訳蕉窓雑話』(福岡・蕉窓雑話を読む会 たにぐち書店 2023/05発売)の購読者から序跋の【訓み下し】について,要望があったため,それにこたえる。


https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000250

京都大学附属図書館富士川文庫(シ/382)

                                                                              

蕉窓雜話序

我邦醫政上古邈矣不可得而詳

焉中葉以來專宗李朱之言陰陽

旺相司天在泉只管推求不敢違其

範其弊多騁空理而失實際雖有

俊傑之士亦未能出其窩窟也然以

其人誠慤慎重失於密而不失於疏

其言傳于今亦多可以為準則者至

  一ウラ

享寶之間豪傑並出始盛唱復古直

求之于漢代一以長沙氏為宗斥宋

元諸家以破其拘惑其績固非不偉

而其持論過高求勝其弊全廢陰

陽六經之說不問虛實不論根因一從

見證以施治亦未免通此而礙彼之

誚也於是古方後世兩派分立彼此

紛〻莫之能折衷及乎吾東郭先生出

  二オモテ

曰聖賢在古用心盡力我儕生千歲

之下讀其書而學其道各法其所善

而闕其所疑則古人孰非吾師傷

寒金匱固我道之詩書然而殘缺不

完宋元方書雖旨趣不同亦孔註鄭

箋所謂夏取時商取輅周冕韶舞採

擇不遺學醫法亦如此而已矣是

以先生施治不必於古亦不拘於今

  二ウラ

自有一種活致而可傳於後世者多

矣當時門人侍函丈以國字錄其說

輯為數卷名曰蕉窓雜話距今

殆將二十年先生已沒錄者亦漸

就木豈得無感舊之情乎是以不顧

其固陋欲挍訂之以公于世久矣今茲

戊寅夏偶嬰疔毒幾死而幸免因謂

此雖瑣言亦先生之遺教今而不謀

  三オモテ

梨棗永將滅蠹塵乃黽勉從事先

以其一卷上于木如其二編三編則

追次續鍥庶幾乎先生之遺澤不

亡而門人之功力亦永存矣

文政紀元戊寅冬至日

     近江  服部流謙謹撰


  【訓み下し】

『蕉窓雜話』序

我が邦の醫政,上古邈(はるか)にして,得て詳らかにす可からず。中葉以來(このかた),專(もっぱ)ら李朱の言を宗(むね)とし,陰陽旺相,司天在泉をば,只管(ひたすら)推求して,敢えて其の範に違(たが)わず。其の弊 空理に騁(は)せて實際を失うこと多し。俊傑の士 有りと雖も,亦た未だ其の窩窟を出づること能わざるなり。然れども其の人 誠愨・慎重を以て,密に失すれども疏に失せず。其の言 今に傳わり,亦た以て準則と為す可き者多し。

  一ウラ

享寶の間に至って,豪傑 並び出でて,始めて盛んに復古を唱う。直(じか)に之を漢代に求め,一に長沙氏を以て宗と為す。宋元の諸家を斥(しりぞ)け,以て其の拘惑を破る。其の績 固(もと)より/固(まこと)に偉ならずんば非ず。而(しか)れども其の持論 高く勝を求むるに過ぐ/高きに過ぎ勝を求む/高く勝を求むるに過(あやまり)あり。其の弊 全く陰陽六經の說を廢し,虛實を問わず,根因を論ぜず,一に見證に從い,以て施治す。亦た未だ此れに通じて彼れを礙(さまた)ぐの誚(そし)りを免かれざるなり。是(こ)こに於いて古方・後世の兩派 分立し,彼れ此れ紛紛として,之を能く折衷すること莫し。吾が東郭先生出づるに及んで,

  二オモテ

曰わく,「聖賢 古(いにしえ)に在り,心を用い力を盡(つ)くす。我が儕(ともがら) 千歲の下に生まれ,其の書を讀んで其の道を學ぶ。各々其の善とする所に法(のっと)りて,其の疑わしき所を闕(か)けば,則ち古人 孰(たれ)か吾が師に非ざらん。『傷寒』『金匱』は,固(もと)より我が道の『詩』『書』なり。然り而(しこう)して殘缺して完(まった)からず。宋元の方書,旨趣 同じからずと雖も,亦た孔註・鄭箋なり。謂う所の夏に時を取り,商に輅を取り,周冕・韶舞,採擇して遺(のこ)さず。醫法を學ぶも,亦た此(か)くの如きのみ」と。是こを以て先生の施治は,必ずしも古(いにしえ)に於いてせず/古(いにしえ)を必とせず,亦た今に拘(こだわ)らず。

  二ウラ

自(おのずか)ら一種の活致 有って,後世に傳う可き者多し。當時の門人 函丈に侍して,國字を以て其の說を錄す。輯して數卷と為し,名づけて『蕉窓雜話』と曰う。今を距つること殆ど將(まさ)に二十年にならんとす。先生 已に沒し,錄する者も亦た漸く木に就く。豈に感舊の情 無きことを得んや。是こを以て其の固陋を顧みず,之を挍訂して,以て世に公(おおやけ)にせんと欲すること久し。今茲 戊寅の夏,偶々疔毒に嬰(かか)り,幾(ほとん)ど死なんとして幸いに免かる。因って謂(おも)えらく,「此れ瑣言と雖も,亦た先生の遺教なり。今にして

  三オモテ

梨棗を謀らずんば,永(とこしえ)に將(まさ)に蠹塵に滅びんとす」と。乃ち黽勉として事に從う。先ず其の一卷を以て,木に上(のぼ)す。其の二編・三編の如きは,則ち次を追って鍥を續ぐ。庶幾(こいねが)わくは,先生の遺澤 亡びずして,門人の功力も亦た永く存せんことを。

文政紀元戊寅 冬至日

     近江  服部流謙 謹しんで撰す


  【注釋】

蕉窓雜話序

 ○我邦:日本。 ○醫政:Medical Administration.医療に関する治政。下文から推測すれば,我が国では,遠い昔は,どのような治療方法(醫政)がおこなわれていたか,ということか。 ○上古:遠古時代。大昔[ancient times] 。 ○邈:久遠、遙遠。年月が長く隔たっているさま。 ○不可得而詳:はるか昔のことで,詳細に知ることができない。/不可得:不可能得到。 ○詳:審察議斷。明白、知道。細述、陳述。 [explain in detail] [know clearly] ○中葉:朝代或世紀的中期[middle period]。なかごろの時代。中期。 ○以來:以後。 ○宗:尊崇、效法 [follow]。根本、主旨。尊敬 [respect]。第一のものとして尊重する。たっとぶ。 ○李朱:金元四大家とされる李杲(東垣)と朱震亨(丹溪)の二人。 ○旺相:陰陽家指得時運。漢.王充《論衡.命祿》:「春夏囚死,秋冬旺相,非能為之也。」/星命家以五行配四季,每季中五行之盛衰以旺、相、休、囚、死表示,如春季是木旺、火相、水休、金囚、土死。凡人之八字中的日干逢旺相的月支為得時,逢囚、死的月支為失時,如日干為木,逢春為旺,逢冬為相,皆屬得時。/また,旺盛、興隆。 ○司天在泉:運気論の術語。司天(一年の前半)と在泉(一年の後半)の運気の情況。『素問』至真要大論(74)を参照。 ○只管:只顧;一直;一味。そのことだけに意を用いるさま。もっぱらそれだけを行うさま。 ひとすじに。いちずに。 ○推求:[inquire into;ascertain] 深入研究。以知道的條件為據,推究、探索未知。 ○不敢:心中怯懦,以致於不能付諸行動。謂沒膽量,沒勇氣。亦表示沒有膽量做某事 [I dare not;how dare I]。 ○範:法式、法則。如:「典範」、「規範」。守るべき規範。手本。模範。 ○弊:害處、毛病[harm]。害。 ○騁:直馳、奔跑。施展、放開。 ○空理:現実とかけ離れた、役に立たない理論。 ○俊傑:風姿瀟灑,才智出眾的人[elite]。才智傑出。 ○士:男子的美稱。知識分子的通称 [intelligentsia]。成人した男子。また、学識・徳行のあるりっぱな男子。 ○窩窟:窠窟。あな。いわや。ほらあな。好ましくないものが、隠れひそんでいる所。 ○誠慤:誠樸;真誠。/慤:「愨」の異体字。誠實、忠厚。つつしむ、まこと。 ○慎重:謹慎認真,不苟且[cautious;prudent;discreet]。注意深くて、軽々しく行動しないこと。 ○疏:粗心、不注意、不細密。粗忽 [neglect;slack;be inattentive]。粗。疎。おろそか。大ざっぱ。 ○準則:法式、標準。所遵循的標準或原則[norm;standard;criterion]。よりどころとすべき規則。 

  一ウラ

 ○享寶之間:貞享(1684年~1688年)。宝永(1704年~1711年)。享保(1716年~1736年)。宝暦(1751年~1764年)。/和田東郭(1742--1803)。名古屋玄医(1628--1696)。後藤艮山(1659--1733)。香川修庵(1683--1755)。山脇東洋(1705--1762)。吉益東洞(1702--1773)。→おそらく享保~宝暦。 ○豪傑:才智出眾的人[person of outstanding talent;hero]。才知・武勇に並み外れてすぐれていて、度胸のある人物。 ○並出:同時出現、同時存在。漢.班固〈公孫弘傳贊〉:「群士慕響,異人並出。」 ○唱:倡導。通「倡」[promote]。人に先立って言う。 ○復古:恢復舊的制度、習俗等[restore ancient ways;return to the ancients]。昔の状態・体制に戻ること。 ○直:不彎曲的。沒有間隔的 [straight]。一直 [directly]。まっすぐ。純粋な、他のものを交えない、の意を表す。 ○一:專注的。專一 [single-minded;concentrated]。もっぱら。ひたすら。 ○長沙氏:張仲景(150年—219年?)。長沙の太守をつとめたという。 ○斥:排除拒絕、摒棄不用 [drive out] [abandon]。如:「排斥」。 ○拘:束縛,限制 [restrain;constrain]。つかまえて自由を奪う。とらえる。かかわる。こだわる。「拘泥」。 ○惑:疑難。懷疑。欺騙。[puzzle;delude;confuse;mislead]。心が何かにとらわれて正しい判断ができなくなる。まどう。まどわす。「惑乱/疑惑」。 ○績:功業、成效 [achievement;merit]。積み重ねた仕事やその結果。「業績・功績」。 ○固:當然、誠然。必,一定 [surely]。確實[certainly]。 ○非不:非常;極其。 ○偉:盛壯、卓越。偉大 [great]。大きくりっぱなこと。すぐれていること。 ○持論:立論,所持理論或主張。提出主張[present an argument]。かねてから主張している自分の意見・説。持説。 ○求勝:爭取勝利。求取勝利。/『春秋存疑錄』四庫提要:是皆務高求勝之過也。 ○陰陽六經:三陰三陽經。 ○根因:根源,緣故。 ○見證:顯明的功效。證明;證據[evidence;clear proof]。 ○礙:限制。阻止。妨害。[prevent;stop]。 ○誚:責備、責怪 [blame;censure]。 ○古方:古医方派。 ○後世:後世方派。 ○紛〻:多而雜亂的樣子。入り乱れてまとまりのないさま。 ○折衷:折中。調和太過與不及,使之得當合理。調和不同意見或爭執。いくつかの異なった考え方のよいところをとり合わせて、一つにまとめ上げること。

  二オモテ

○用心:盡心。使用心力;專心。【用心竭力】竭盡心思、力量。 ○盡力:竭力。竭盡能力。竭盡全力。 ○儕:同輩、同類的人。如:「吾儕」。同類の人々をさしていう語。仲間。 ○千歲:千年。年代久遠。 ○下:在後面的。 ○闕其所疑:【闕疑】有所疑問則暫時擱置,不下斷語。遇有疑惑,暫時空着,不作主觀推測。《論語.為政》:「多聞闕疑,慎言其餘,則寡尤。」劉寶楠『正義』:「其義有未明,未安於心者,闕空之也」。疑わしいものとして、決定を保留しておくこと。 ○古人:古代的人。古時的人。[the ancients;one who has passed away] 泛指前人,以區別於當世的人。昔の世の人。 ○孰:誰。 ○傷寒金匱:『傷寒論』と『金匱要略』。 ○我道:醫道。 ○詩書:《詩經》和《書經》,亦泛指一切經書。詩経と書経。 ○然而:轉折連詞。用在子句頭,表示雖然有前句所敘述的事情,卻亦有末句所表達的狀況、行為等。/表示轉折。連接的兩部分意思相反。猶言如此,不過;如此,但是[yet;however;but]。 ○殘缺不完:殘破,缺損不完整。/殘缺:缺壞而不完整、不完備。缺損。 [incomplete;fragmentary]部分缺如。書物などの、一部分が欠けていて不完全なこと。 ○宋元:中国、北宋・南宋および元代。 ○方書:醫書 [medical book]。 療治の処方を記した書。医書。 ○旨趣:宗旨和意義。大意[purport;objective]。おもむき。内容。 ○不同:不一樣。不相同。不同意。おなじでないこと。異なっていること。 ○孔註鄭箋:(儒学)経書に対する注釈。/孔註:漢・孔安國によるとされる『尚書』に対する傳(注)。あるいは,唐・孔穎達による『周易』『尚書』『毛詩』『禮記』『春秋左傳』に対する正義(注)。/註:用來解釋或說明的文字。「注」におなじ。本文の意味を詳しく説明したり補足したりするために、本文の間に書き込んだり、別の箇所に記したりする文句。/鄭箋:漢・鄭玄による『周禮』『儀禮』『禮記』に対する注(箋)。/『近世漢方医学書集成(15和田東郭一)』の松田邦夫先生の解説に以下の文が引かれている(9頁。出典未調査)。「我曹千歳の下に生れその書を読み,その術を学び,その善に法ってその疑を闢〔石原保秀「和田東郭先生」,『漢方と漢薬』第6巻第20号の引用文は,この序と同じく「闕」に作る。〕くときは,古人いずれか吾が師に非ざる。傷寒金匱はもとより我道の詩書なり,残欠ありといえども,要領備さに存す,歴代の方書はなお鄭訓(後漢の鄭玄の訓詁)朱義(宋の朱熹の釈義)の如し……」とある。 ○所謂夏取時商取輅周冕韶舞:古いか新しいか時代に関係なく,よいものであれば選んで利用する。

    ・『論語』衛靈公:顏淵問為邦。子曰:「行夏之時,乘殷之輅,服周之冕,樂則韶舞……」〔顏淵問怎樣治理國家,孔子說:「用夏朝的曆法,乘商朝的車輛,戴周朝的禮帽,提倡高雅音樂……/Yan Yuan asked how the government of a country should be administered. The Master said, "Follow the seasons of Xia. Ride in the state carriage of Yin. Wear the ceremonial cap of Zhou. Let the music be the Shao with its pantomimes.〕。/夏王朝からは暦を,殷王朝からは車を,周王朝からは礼帽を,舞楽は帝舜の時代のものを採用する。

    ・『論語集注』衛靈公第十五:子曰:「行夏之時〔集注:夏時,謂以斗柄初昏建寅之月為歲首也。天開於子,地闢於丑,人生於寅,故斗柄建此三辰之月,皆可以為歲首。而三代迭用之,夏以寅為人正,商以丑為地正,周以子為天正也。然時以作事,則歲月自當以人為紀。故孔子嘗曰,「吾得夏時焉」而說者以為謂夏小正之屬。蓋取其時之正與其令之善,而於此又以告顏子也。〕,乘殷之輅〔輅,音路,亦作路。商輅,木輅也。輅者,大車之名。古者以木為車而已,至商而有輅之名,蓋始異其制也。周人飾以金玉,則過侈而易敗,不若商輅之樸素渾堅而等威已辨,為質而得其中也。〕,服周之冕〔周冕有五,祭服之冠也。冠上有覆,前後有旒。黃帝以來,蓋已有之,而制度儀等,至周始備。然其為物小,而加於眾體之上,故雖華而不為靡,雖費而不及奢。夫子取之,蓋亦以為文而得其中也。〕,樂則韶舞〔取其盡善盡美。〕。/

    ・韶舞:舜時樂舞名。『論語集解』「韶,舜樂也。盡善盡美,故取之」。

    https://kanbun.info/keibu/rongo1510.html

    

 ○採擇:選取、採納。選用 [to choose and use]。いくつかあるものの中から選んで取り上げること。 ○不遺:不漏。もらさない。 ○是以:所以,表示因果的連詞。因此[consequently;therefore]。それゆえに。 ○不必:不一定、未必。沒有一定。「必」を動詞と解すれば,「古を必とせず/古方を必須のものとは考えない」。

  二ウラ

 ○活致:未詳。臨機応変な道理か。/活:有生命的。生動,不死板。如:「靈活」。不固定的、可移動的。/致:旨趣、意態。事物的道理。 ○函丈:舊時講席間相隔一丈,以容人聽講。【席間函丈】討論、鑽研學問時,保持丈許距離,以便指畫。『禮記』曲禮上:「若非飲食之客,則布席,席間函丈」。鄭玄注:「謂講問之客也。函,猶容也,講問宜相對容丈,足以指畫也」。原謂講學者與聽講者坐席之間相距一丈。後用以指:講學的坐席。師に対して、一丈ほども席の間をおいてすわること。また、その間隔。 ○國字:漢字に対して仮名をいう。和字。また和文,日本語文。漢文に対していう。 ○輯:蒐錄後整理。聚集 [gather;assemble],特指聚集材料編書。材料を集めてまとめる。「輯録/編輯」。 ○為:創制。製作;創作 [make;compose]。「つくる」とも訓ず。 ○蕉窓雜話:本書の序を書いた服部流謙による凡例に,「此書,『蕉窓雜話』と名づくること,固より意義あるにあらず。先生家塾の窓前に芭蕉ありて筆記したる故に名づけしなり」〔カタカナをひらがなに変え,濁点・句読点を打つ。以下おなじ〕とある。/雜話:指胡乱編造的佳人才子的故事。さまざまな事柄をまとまりもなく話すこと。また、その話。 ○漸:慢慢的、逐步的。逐漸 [gradually]。 しだいに。だんだん。 ○就木:入棺木,比喻死亡。[enter the coffin;about to die] 入殮;垂危。棺に入る。死ぬ。服部流謙の凡例に「此書初め伊豫國久保喬德,首としてこれを錄し,同國柁谷守清これに續く。其他諸子の續て錄する者ありと雖も,歳月を歷ること久して,其姓名を遺失し,知ること能はずして喬德・守清の苦心最大なりとす。二子なくんば,此書も亦成ることなからん。但二子不幸にして皆夭し,草稿を改むること能はず。語辭雜駁にして完からず。故に予,二子の志を續ぎ,實に質して刪訂し,且これを補綴す」とある。 ○得無:能不、莫非。表測度語氣的語氣詞。 ○感舊:懷念故舊。住時をなつかしく思い起こす。 ○不顧:不顧慮。指不去計較或無法考慮。ろくに顧慮しないで。 ○其:わたしの。われわれの。 ○固陋:見聞淺陋。[ill-informed and ignorant] 見識淺薄,見聞不廣。見識が狭くてがんこなこと。 ○挍訂:校訂。校正改訂。校勘訂正。/挍:「校」におなじ。比較;估量。 ○今茲:今年。/茲:年、時。《孟子.滕文公下》:「今茲未能,請輕之,以待來年。」 ○戊寅:文政元年(1818)。 ○嬰:遭受;遇 [suffer]。【嬰疾】為疾病所困。 ○疔毒:[furuncle] 症狀發展到很嚴重地步的疔瘡。疔瘡爲病名。出《仙傳外科集驗方》卷六。泛指多種瘡瘍。古無疔字,丁通疔,泛指外科證情較重之多種瘡瘍。 ○幾死:危うく命をおとそうとする。/幾:將近、相去不遠。表示非常接近,相當於「幾乎」、「差不多」[almost;nearly]。 ○幸免:僥幸免除。[escape by sheer luck;have a narrow escape] 僥幸避免某種災禍。 語本《論語‧雍也》:「人之生也直,罔之生也幸而免」。 ○謂:認為、以為。 ○瑣言:瑣碎的言談;閑談。記述逸聞、瑣事的一種文章體裁。 (「瑣」は小さい、細かいの意) ちょっとしたことば。とるに足らないことば。これを和田東郭の『導水瑣言』と解するのは,うがちすぎであろう。 ○遺教:前人所遺留下來的思想、學說、主張等[theory,work and view left over by the dead]。 ○今而:いま,すなわち。 ○不謀:不商量。不求。不籌劃〔企画する.計画する.段取りする〕。/謀:あれこれと手段を講ずる。計画する。

  三オモテ

 ○梨棗:梨子和棗子。舊時雕版印書,用梨木棗木,故稱書版為「梨棗」。[wooden printing blocks (usu.made of pear and date wood)]舊時刻版印書多用梨木或棗木,故以“梨棗”為書版的代稱。 梨(なし)と棗(なつめ)。転じて、梨と棗はともに版木に用いられるところから、版木、また、版木にして出版すること。 ○蠹:蛀蟲。蛀爛、腐蝕。虫が食い破る。むしばむ。衣魚(しみ)の別名。 ○塵:飛揚的細小灰土。汙染。 ○黽勉從事:努力工作。勤勤懇懇。《詩經.小雅.十月之交》:「黽勉從事,不敢告勞。」/黽勉:勉勵、努力。盡力。つとめはげむこと。精を出すこと。/黽:勤勉、努力。 ○從事:行事;辦事 [handle affairs]。參與做(某種事情);致力於(某種事情)[engage;go in for]。處置;處理[deal with]。 ○上于木:図書を版木に彫りつけること。書物を出版すること。上梓(じょうし)。出版。 ○追次:先に行くもののすぐ後を追って続く。後からつぎたすこと。追加。/追:「近」字の可能性もあるが,下文の「近江」の「近」とは異なるとひとまず判断した。 ○鍥:刻。用刀子刻。 ○庶幾:表示希望的語氣詞。心から願うこと。 ○遺澤:遺留給後世的恩惠德澤。留下的德澤。後世まで残る恩沢。 ○功力:效驗。功夫和力量。功徳の力。効験(こうけん)。 ○永存:永遠存在。長存不滅。ながく存在すること。また、ながく保存すること。

 ○文政:1818年から1831年。 ○紀元:年歲的始元。[beginning of an era;epoch] 指紀年的第一年。歴史上の年数を数えるときの基準。また基準となる最初の年。年号を建てること。建元。改元。また、年号。 ○戊寅:1818年。 ○冬至:二十四節氣之一。此時太陽直射南回歸線,所以北半球夜最長,晝最短,南半球則相反。通常落在國曆的十二月二十一、二十二或二十三日。二十四節気の一。太陽の黄経(こうけい)が270度に達する日をいい、太陽暦で12月22日ごろ。太陽の中心が冬至点を通過する。北半球では一年中で昼がいちばん短く、夜がいちばん長くなる日。 ○近江:旧国名の一。現在の滋賀県にあたる。江州(ごうしゅう)。「近江」の文字は浜名湖のある遠江(遠つ淡海)に対して近江(近つ淡海)と称したもの。 ○服部流謙:松田邦夫先生の解説:「泰沖の子であろう」。「和田東郭には男子がなく,門人中の逸材中村哲を養子とし,長女を配して後を嗣がしめた。哲は字を哲郎,通称を泰沖といい,黙所と号した」。 


2023年8月23日水曜日

辻本裕成ら『医談抄』 (伝承文学注釈叢書)三弥井書店,2023年。

 辻本裕成『医談抄』解題:

秦鳴鶴の説話(上古針術実事・五の7。64頁:風眩に苦しんでいた唐の高宗に対して百会・脳戸から刺絡したところ,高宗は「我が眼あきらかになりぬ」と曰った)に関して,

「高宗の頭に鍼を打って血を出すような治療が実際に可能であったとは思えない」(402頁末~)

と述べている。

これに関しては,鍼灸にたずさわっている人たちからは,異論が出ると思うし,鍼灸治療をうけた患者が「眼が明るくなった」という感想を漏らすのは,決して珍しいことではなかろう。


以下,鍼灸関連記事で,ひっかかたところ。


○42頁:『重広補注黄帝内経素問』巻二十五「宝命全形論篇」

○44頁:『重広補注黄帝内経素問』巻二五「宝命全形論篇」:

・「宝命全形論」は,『重広補注黄帝内経素問』の第25の篇名。第8巻にある。『重広補注黄帝内経素問』は24巻本で,25巻はない。

○75頁:六 頂心…頭のいただき。

・穴名をあげれば,百会穴であろう。『鍼灸甲乙經』卷3・第2:百會,在前頂後一寸五分,頂中央旋毛中,陷可容指。『聞見後録』(1157年成書)を撰した邵博(?—1158)は「皆古今方書不著」というが,『太平聖恵方』(992年)には,百会穴の主治に脱肛が挙げられている。『太平聖惠方 』卷第九十九:百會一穴。在前頂後一寸半。頂中心。督脈足太陽之會。主療脱肛。

○77頁下段:王懐院。

・王懐隠の誤り。

○79頁:大意 『明堂経』の名の由来は,黄帝が岐伯に明堂で教えを受けたからである。

・本文にしたがえば,『明堂経』の名の由来は,「黄帝が雷公に明堂で教えを授けたからである」となると思う。

○80頁:『銅人鍼灸経』巻四に「心兪」は「不可灸」との記載がある。

・『銅人腧穴鍼灸図経』と『銅人鍼灸経』は異なる書物であり,ここで『銅人鍼灸経』を引用するのは不適切である。あるいは,『銅人腧穴鍼灸図経』のデータが得られず,『銅人鍼灸経』で代用したか。『銅人腧穴鍼灸図経』の「心腧」に「不可灸」の記載がある。

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100231700/108?ln=ja の末行から。

・また,『銅人腧穴鍼灸図経』の注釈で,「原刊本は早くに失われ」とのみいい,石刻拓本(宮内庁書陵部・蓬左文庫本等)に言及がないのは不審。

○80頁:閑邪瞶痩(金代)が一一八六年に改編した五巻本『新刊補注銅人腧穴針灸図経』

・清・劉世珩の跋文などによれば,閑邪瞶痩は「鍼灸避忌太一之図」にかかわっているだけで,『新刊補注銅人腧穴針灸図経』の改編者は書軒陳氏とすべきではなかろうか。

○82頁:若し針して灸さず,灸して針せず

・「灸せず」。注釈も「灸さず」となっているが,活用の誤りだと思う。

○86頁:『外台秘要』巻十九「論陰陽表里灸方」

・「表裏」。

○87頁:「徐論」(『外台秘要』に「徐論」として引用があるのはここ一箇所だけで「徐」が誰を指すのかは不明)

・高文鋳によれば,初唐の蘇恭(蘇敬)と同年代の徐思恭。華夏出版社『外台秘要方』外台秘要方叢考,948頁末~。

○87頁:「時剋」は「ちょうどよい時」の意。

・時剋:「時刻」とも表記する。

○90頁:出典・類話 『外台秘要』巻十九「灸脚気穴名」

・86頁において出典・類話を『外台秘要』巻十九「論陰陽表里(まま)灸方」としているのだから,ここも同様にすべきである。なぜなら「徐論」は,「灸脚気穴名」(目次にこの項目なし)の後にあるからである。この90頁の話は,徐論につぐ「蘇恭云」に見える。92頁(本書には言及がないが,唐臨の説)も同じ。全体で調整するのであれば,出典・類話は,『外台秘要』巻十九「論陰陽表裏灸方・灸脚気穴名」とするのがわかりやすいと思う。

○92頁:帰へりて…「却って」の意か。

・『外台秘要方』巻十九「論陰陽表裏灸方・灸脚気穴名」:唐論……當反害人耳。

○94頁:肩隅…穴の一つ。

・現在は,肩髃と表記されるが,引用元の『医説』にかぎらず,『鍼灸資生経』など医書にも「肩隅」という表記が見られる。

○96頁:灸瘡のみだれざるは…かさぶたがとれない時には。

・『鍼灸資生経』巻2・治灸瘡:「下經云:凡著艾得瘡發,所患即瘥。不得瘡發,其疾不愈」。待考。

○104頁:五月五日,日出以前に人形の如(く)なるを採るべしと云(ふ)

・『荊楚歳時記』:五月五日,謂之浴蘭節。四民並蹋百草之戲,採艾以為人。……常以五月五日雞未鳴時採艾。見似人處,攬而取之。用灸有驗。

○109頁:壮数足らざれば厥疾(けつしつ)瘳(い)えず。

○110頁:注釈:厥疾…気が逆上して,四肢の寒冷状態が起こり,意識消失に至ることもあるが,やがては元に復する病症。

・考えすぎでしょう。「厥」は「其」とおなじで,代詞。お灸の壮数が足りない場合,「その」病気は治らない,という意。特定の病症(厥疾)を言っているわけではなく,一般論を述べているのだと思う。『孟子』滕文公上などにも「若藥不瞑眩,厥疾不瘳」とある。参考にしましょう。

○111頁:膏肓の穴………膏肓愈ともいう。

・膏肓兪。

○110頁:易簡方

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000927

69/90コマ目みぎ。

2023年5月25日木曜日

成都老官山漢墓の漆塗り人形から見た足陽明経脈の変遷進化 03

   3 討論

 古代の異なる時期の鍼灸に関連する文物や文献の足陽明経脈の循行に関する記載と,文物が所属した年代や経脈循行の総体的な特徴を結びつけてわかることは,経絡の形成過程は単純から複雑へ、浅いものから深いものへ,あいまいなものから明晰なものへの複雑な過程である。それは一元化した単線的な発展変化ではなく,多元化した発展の総合的結果である。『内経』以前にもっと初期の経脈理論が存在したかもしれないし,地域性のある経絡理論の観点と認識が存在したかもしれない。老官山漢墓から出土した漆塗り人形にこの点が特に顕著にあらわれている。


  参考文献

[1] 梁繁荣,曾芳,周兴兰,等.成都老官山出土经穴髹漆人像初探[J]. 中国针灸,2015,35(1):91-93.

[2] 梁繁荣,谢克庆,和中浚,等,西汉人体漆雕经脉研究[J].上海中医药杂志,1998(5):36-39.

[3] 马继兴.针灸学通史[M].长沙:湖南科学技术出版社,2011:189.

[4] 赵树宏,张艳春,马淑然,从《帛书》到《黄帝内经》经脉名称发展之探究[J].中国中医药现代远程教育,2012,10(22):70-71.

[5] 马继兴.双包山汉墓出土的针灸经脉漆木人形[J].文物,1996(4):55-65,98.


2023年5月24日水曜日

成都老官山漢墓の漆塗り人形から見た足陽明経脈の変遷進化 02

   2 足陽明経の発展変化に関する認識


 2.1 経脈循行は単純から複雑へ

 老官山漆人を双包山漆彫,『足臂』『陰陽』および『霊枢』経脈の足陽明脈の循行と対比してみれば,その間に多くの類似点が存在することを発見することは容易なことである。たとえば,いずれもみな下腿・膝・大腿部・乳房および顔面頰部を循行している。もちろん,支脈があるかないか,循行して連係する臓腑器官があるかないか,交叉する経脈があるかないか,そして腧穴に言及しているかいないかなど,多くの相違がある。

 『足臂』『陰陽』における当該経は一本の主脈があるのみで,支脈および臓腑との属絡に言及していないが,老官山漆人と比較して,最大の相違点は連絡する器官にある。双包山漆彫では,この経は縦方向に分布する一本の主脈であり,他の経との交叉は少なく,経脈には腧穴は表示されていない。老官山漆人の体表では8本の経脈線と交叉し,経絡循行ルートとの合流に関する情報などは双包山漆彫より豊富で複雑である。そのうえ腧穴が経上にある。しかし,臓腑との属絡はまだ見られていない。もちろん,これは模型上で内臓との絡属関係を描写するのに不便であることと関係があるかもしれない。『霊枢』経脈になると,この経の循行の記述はさらに改善され,循行はより詳細で複雑なものになり,足陽明経には3本の支脈があり,さらにこの経は「胃に属し脾に絡し」,鼻・歯・口唇・乳内廉などの器官と連係することを明確に提示している。

 双包山漢墓が漢の武帝の前、老官山漢墓が西漢の景帝・武帝の時期であることから勘案すると,出土した漆人はその時期より遅くはないはずである。しかし,老官山漆人はより精緻に作られており,その経脈の数,循行ルート,交叉などはいずれも双包山漆人より豊富で複雑であるため,この時期の経絡学説研究に対してより重要な医学と文化財としての研究価値がある。老官山漆人に見える足陽明経に関する線刻は,馬王堆漢墓の先秦医書と『霊枢』の間にあり,三者の間には簡から繁へ,不十分な状態からから徐々に完備へと発展する傾向が明らかに現れている。そのため,足陽明経を含む経絡理論全体が発展形成される過程における異なる発展段階をあらわしている。


 2.2 循行して連係する臓腑と器官

 『黄帝内経』は「夫(そ)れ十二経脈なる者は,内は府蔵に属し,外は肢節に絡す」という。人体の五臟六腑,四肢百骸,五官九竅,皮肉筋骨などの組織器官は,すべて十二経脈に依存して有機的な全体を構成している。十二経脈もまたそれぞれ臓腑器官,体幹四肢と連絡することによって異なる機能を持っている。馬王堆帛書に記載された足陽明経の循行は,内在的な臓腑の連絡には言及がなく,わずかに乳・口・鼻・目などとの連係しか記載されていない。2つの漆彫人では,経脈の循行は体表に記されている。この経が乳内廉・口・鼻につながることはわかるが,体内の循行は描きようがない。したがって足陽明経は胸腹を循行するが,体内に入って臓腑に属絡するかどうかはまだ不明である。『霊枢』経脈では足陽明経の体内にある支脈は「膈を下り胃に属し脾に絡す」。脾・胃との連係,この経の体内での循行はその記載により十分に明らかになった。そのため、われわれは,人類が足陽明経脈が臓腑・器官と連係することに関する認識も絶えざる発見と改善の過程にいたことを見いだせた。


 2.3 命名の変遷 

 古今の経脈の名称を見渡すと,その陰陽の気の多少,循行する部位および属絡する臓腑との関係などによってその名が付けられていることが多い。『陰陽』は陰陽からのみ命名され,足陽明胃経を「陽明経」と命名し,『足臂』は『陰陽』を基礎として足臂を追加し,この経を「足陽明脈」と呼んだ。双包山漆人の経脈については,古代文献に基づいて漆人の経脈の名称を推論し,「足陽明脈」と命名した。老官山漆人ではこの経を主に老官山漢墓から出土した医簡にある経脈に関する記載に基づいて「足陽明脈」と命名した。以前の経脈の命名とくらべて最も際立っている『霊枢』経脈の命名の特徴は,足臂と陰陽を基礎として臓腑を補充し,「足陽明胃経」を考案したことである。


 2.4 流注方向の分析

 経脈流注の方向はずっと鍼灸領域の討論の重要な問題である。同一名称の経脈に対して,その開始部位と終止部位は文献によって記載が異なり,しかも求心性と遠心性という流注の方向の問題においては,完全に反対の主張すらある[5]。足陽明胃経の循経について,馬王堆帛書の流注の方向は下腿から顔面あるいは鼻へで,すなわち求心性である。双包山漆人の足陽明経の流注は,馬継興先生の考察によると、目から足に達する。即ち遠心性である。『霊枢』経脈では,足陽明胃経の流注は目下から足に至る。即ち遠心性である。老官山漢墓から一緒に出土した医簡には経脈に関する記載がある。それに基づけば,現在のところ,漆人の体表の足陽明経の流注は下腿から鼻へ,即ち求心性であると考えられる。経脈が流注する順序に関する文献間の記述の不一致は,足陽明胃経に既に存在していることがわかる。経脈循行の方向は,根本的には経気が運行する方向であり,それは経絡理論が形成された初期において,人類が経気が運行する方向の多様性に対する観察をあらわしており,求心性と遠心性が同時に出現していることは,経気の運行に関する双方向性の観点をあらわしている。即ちツボを刺激する時,経脈に循う感伝は,経脈の循行線に沿って遠心性と求心性の双方向性の伝導を呈する。もちろん更に重要なのは絶えず練り上げ改善される過程で,単一の経脈循行を主とし,『霊枢』経脈の「環の端無きが如く,……終わって復た始まる」全身の経気が環状に流注する移行が完成したことである。更に経絡の形成は循行方向が定まらず,経絡間の連絡が定まらず,臓腑の属絡関係が定まらない状態から発展し,循行方向が規則的になり,経絡間の連絡が相対的に固定し,臓腑の属絡関係が確定する過程が確認された。


2023年5月23日火曜日

成都老官山漢墓の漆塗り人形から見た足陽明経脈の変遷進化 01

  1 歴代の関連文献文物の足陽明経に対する異なる記載と特徴の比較


 1.1 成都老官山漢墓経穴漆塗り人形像

 老官山漆人の正面には,おおむね縦方向に走る線がある。この線は口鼻・胸腹・下肢の前部を通るが,明確な分枝はない。その具体的な循行部位は「足の小指次指―足背に上る―脛の外廉―膝蓋骨―大腿全部―気街―小腹――乳内廉―咽喉―唇を環る―鼻」である。帛書や綿陽双包山漆人などの文献文物中の経脈循行分布の特徴と比較勘案して,われわれはこの線を足陽明経と確定した。

 この漆人の足陽明経の左右循行分布は基本的に対称であり,左右とも循行線は一本だけで,主に頭・体幹・下肢の前面に分布し、起点・止点はそれぞれ足の小指次指と鼻であり,走行区域は乳内廉・咽喉・唇などの組織構造と連携している。この経には支脈はない。


 1.2  綿陽双包山漢墓人体経脈漆彫〔堆朱〕

 1993年に四川省綿陽市永興鎮双包山漢墓から人体経脈漆彫が出土し、この漆彫の体表には経脈10本が彫り描かれている。その中には足陽明経が含まれている。研究成果によれば,双包山漆人の足陽明は顔面部,目下の正中から起こり,頰部から口角へ下り,ここで手太陰脈の起始部と合流した後,まっすぐ下行し,前頸部の結喉外方を過ぎ,手少陰脈の起始部と合流した後,鎖骨を越えて下行し,胸部乳頭正中(前胸第二縦線)を経て,垂直に下って上腹部から下腹部へ過ぎ,鼠径溝の正中,大腿部(前面,正中線),膝蓋部(前面,正中線),下腿部(前面,正中線),足背部(正中線)をへて,足の中指端で止まる[2]。

 この漆人の体表にある足陽明経は一本しかなく,支脈はない。この経は顔面と体幹と下肢の前側に分布し,目下から起こり,足の中指端に止まる。走行する区域は頰骨部と口角と乳中に連係し,口角で手太陰と交叉し,頸部で手少陰と交叉する。


 1.3 『足臂十一脈灸経』『陰陽十一脈灸経』

 『足臂十一脈灸経』(『足臂』と略称する)と『陰陽十一脈灸経』(『陰陽』と略称する)で足陽明経の内容に関連するところは以下のとおり[3]:①『足臂』:「足陽明脈,循胻中,上貫膝中,出股,挾(夾)少腹,上出乳內兼(廉)出膉(嗌),挾(夾)口,以上之鼻」。②『陰陽』:「陽明脈,繫於骭骨外廉,循骭而上,穿髕,出魚股之外廉(「廉」字は原欠),上穿乳,穿頰,出目外廉,環顏」。

 『足臂』と『陰陽』に記載されている足陽明経にはいずれも支脈がなく,主となる一本の脈しかないが,実際に経過する箇所には違いがある。共通するところは,どちらも下腿から始まり,膝部・大腿前部・乳をへて,最後に顔面に至るが,顔面での循行については両者の差が大きい。『足臂』にはこの経が「膉(嗌)に出で,口を挟み,以て上って鼻に之く」と記載されているが,『陰陽』には「頰を穿ち,目の外廉に出で,顏を環る」と記載されており,顔面で関連する器官が全く異なり,前者は老官山漢墓漆人に似ているが,後者の「頰を穿ち,顏を環る」などは『霊枢』に記載されている内容と類似するところがある。


 1.4  『霊枢』経脈および後世の医書

 『霊枢』経脈は経絡理論の基礎を定めた書とみなされている。後世の多種の医書,たとえば『鍼灸甲乙経』『鍼灸大成』『医宗金鑑』などの経脈循行に関する内容は『霊枢』経脈の説を模範としていることが多いため,ここでは『霊枢』経脈に見える足陽明経の循行についてのみ論ずる。

 『霊枢』経脈には「胃足陽明之脈,起於鼻,交頞中,旁約太陽之脈,下循鼻外,入上齒中,還出挾口環唇,下交承漿,卻循頤後下廉,出大迎,循頰車,上耳前,過客主人,循發際,至額顱;其支者,從大迎前,下人迎,循喉嚨,入缺盆,下膈屬胃絡脾;其直者,從缺盆下乳內廉,下挾臍,人氣街中;其支者,起於胃口,下循腹里,下至氣街中而合,以下髀關,抵伏兔,下入膝臏中,下循脛外廉,下足跗,入中指內間;其支者,下膝三寸而別,下入中指外間;其支者,別跗上,入大指間,出其端」と記載されている。

 この経の循行は体内と体外の両部分に関連し,1本の主脈,3本の支脈があり,循行する間に脾臓・胃腑と連絡する。これは足陽明経が臓腑と連絡することを最も早く明確に提出した文献記載である。それと同時に鼻・歯・口唇・乳内廉などの器官と連絡する。


 1.5  足陽明経の循行特徴の比較

 老官山漆人,双包山漆人,『足臂』『陰陽』に示される足陽明経はいずれも主となる脈が1本あるだけで,支脈はないが,『霊枢』経脈にはこの経に3本の支脈があり,そのルートは他よりはるかに複雑である。この経の循行方向や連絡する臓腑器官の記載は,各本ごとに相違がある。具体的な内容を表1にまとめた。


  表1 足陽明経循行特徴の対比


出典       起点      止点    循行方向   連係臓腑   連絡器官     支脈

成都老官山漆人 小趾次趾  鼻      未知    未見   乳内廉・口・鼻   なし

綿陽双包山漆人 目下正中 足中趾端  由上至下    未見    口角・乳     なし

足臂十一脈灸経 胻(脛骨) 鼻    由下至上    未見    乳・口・鼻    なし

陰陽十一脈灸経 骭骨外廉  顏    由下至上    未見    乳・目外廉      なし

        (脛骨外) 

霊枢.経脈   鼻   中趾内間     由上至下    脾胃  鼻・歯・口唇・乳内廉 支脈3本

                                                                 (支脈:具体的には経脈の循行に関する記載を参照)


2023年5月22日月曜日

成都老官山漢墓の漆塗り人形から見た足陽明経脈の変遷進化 00

           『遼寧中医雑誌』2017年第44卷第1期

 印帥1,程施瑞1,曾芳1,謝濤2,3,周興蘭1,江章華2,3,梁繁榮1

(1. 成都中医药大学针灸推拿学院,四川 成都610075;2. 成都市文物考古研究所,四川 成都610075; 3. 成都市博物院,四川 成都610075)


 【要約】成都の老官山漢墓から出土した経穴漆塗り人形は我が国で今までに発見されたうちで最も早く,最も完全な経穴人体模型であり,古代における経絡理論の形成発展を理解するうえで重要な学術的価値がある。本文は老官山漢墓人形の経絡線が循行するルートと歴代の関連文献の記載を総合的に分析し,足陽明胃経の循行が変化した状況を検討し,経絡理論の発展の流れを整理するための根拠を提供する。


 【キーワード】足陽明胃経;成都老官山漢墓;漆塗り人形


 2012年7月,四川省成都市金牛区天回鎮で前漢時代の土坑木椁墓4基が考古学者によって発見された。地元ではこの地を俗に「老官山」と呼んでいることから,老官山漢墓という。その中の3号墓から木製で漆塗りの人物像が出土した。考古学者が調査したところ,現在のところ我が国で発見された最も早く,最も完全な経穴人体模型と認定された[1]。この木人像は木製漆塗りで,高さは約14 cm,五官〔鼻・眼・口唇・舌・耳など〕の位置造形は正確で,頭と四肢の構造の比率は調っている。その体表には陰刻の白い経脈をえがいた細い線が29本あり,『霊枢』経脈篇に記載されている十二経脈循行布置の特徴とほぼ類似しているが,具体的な循行にはなお多くの違いがある。同時に,帛書の十一脈の循行や綿陽双包山漆人の十脈循行と比較すると,その経脈循行路と交差に関する情報などはいずれもより豊富で複雑であることがわかる。そのため,この漆塗り人形の経脈循行システムを包括的かつ詳細に研究をおこなうことは,古代の経脈理論の源流をさかのぼり,より完備し,統合されたものにするために重要な学術的および臨床的意義がある。

 老官山漆塗り人形にある陰刻の29本の白線のうち,漆人の頭部・体幹・下肢の前に位置する1本の白線の循行ルートは古籍に記載されている足陽明胃経の循行とかなり類似度が高く,課題グループの研究によって足陽明胃経と認定された。本文は足陽明経脈から着手し,老官山漆人・綿陽双包山漆人・帛書および『霊枢』の文を画像化したものに対して総合的な比較分析をおこない,足陽明胃経の循行が変化した状況を深く検討し,経絡理論の発展過程を整理するための根拠を提供する予定である。


東洋文庫ミュージアム 企画展「東洋の医・健・美」

 会期:2023年5月31日(水)~9月18日(月・祝)

詳細は,

http://www.toyo-bunko.or.jp/museum/ikenbi-detail.pdf

http://www.toyo-bunko.or.jp/museum/ikenbi-pressrelease.pdf

2023年5月2日火曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 06

   参考文献

[1] 成都文物考古研究所,荆州文物保护中心.成都市天回镇老官山汉墓[J].考古,2014(7):59-70.

[2] 梁繁荣,王毅.揭秘敝昔遗书与漆人:老官山汉墓医学文物文献初识[M].成都:四川科学技术出版社,2016:257. 

[3] 黄龙祥.老官山出土汉简脉书简解读[J].中国针灸,2018,38(1):97-108.

[4] 中国中医科学院中国医史文献研究所,成都文物考古研究所,荆州文物保护中心.四川成都天回镇汉墓医简整理简报[J].文物,2017(12):48-57.

[5] 灵枢经(点校本)[M].北京:人民卫生出版社,1963.

[6] 张家山二四七号汉墓竹简整理小组.张家山汉墓竹简〔二四七号墓〕(释文修订本)[M].北京:文物出版社,2006.

[7] 裘锡圭.长沙马王堆汉墓简帛集成(六)[M].北京:中华书局,2014.

[8] 裘锡圭.长沙马王堆汉墓简帛集成(五)[M].北京:中华书局,2014.

[9] 李克光,郑孝昌.黄帝内经太素校注(上册)[M].北京:人民卫生出版社,2005:190.

[10] 黄帝内经素问(点校本)[M].北京:人民卫生出版社,1963.

[11] 山东中医学院.针灸甲乙经校释[M].北京:人民卫生出版社,2009.

[12] 王先慎.韩非子集解[M].北京:中华书局,2003.

[13] 何宁.淮南子集释(下册)[M].北京:中华书局,1998:1153.

[14] 裘锡圭.中国出土简帛古籍在文献学上的重要意义[M]//中国出土古文献十讲.上海:复旦大学出版社,2008:89.

[15] 张家山汉墓竹简整理小组.江陵张家山汉简概述[J].文物,1985(1):9-15.

[16] 韩健民.马王堆古脉书研究[M].北京:中国社会科学出版社,1999.

[17] 张灿岬.出土文物中的经络学说解析[J].山西中医学院学报,2006,7(2):2-3.

[18] 杜锋.新材料与新观点:出土涉医文献研究综论――第二届全国出土涉医文献研讨会纪要[J].中医药文化,2017,12(6):14-18.

[19] 赵争.古书成书与古书年代学问题探研――以出土古脉书《足臂十一脉灸经》和《阴阳十一脉灸经》为中心[J].中国典籍与文化,2016(1):7-12.

[20] 黄龙祥.针灸学术史大纲[M].北京:华夏出版社,2001:470-481.

[21] 裘锡圭.长沙马王堆汉墓简帛集成(一)[M].北京:中华书局,2014:1.


2023年4月30日日曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 05

   5 討論

 この半世紀,簡帛医学文献の出土が次第に増えてきたが,その中の大きな分野を経脈文献が占めていて,学者のそれに対する認識も日増しに明晰になっている。最初に注目されたのは,伝世医籍である『黄帝内経』,特に『霊枢』経脈との関係であった。例えば,裘錫圭先生は「簡帛古籍から分かることは,数術・方技の本には継承性が特に強いことである。伝承されたこのような著作は,かなり古い同類の著作を基礎として,徐々に修改増補をかさねて定本となったものが多い。張家山竹書と馬王堆帛書の『脈書』が,『霊枢』経脈篇の祖本であることは明らかである」[14]と指摘している。

 しかし,これらの出土した経脈文献を整理した当初は,学界ではこういった文献をどのように命名し,区分するか,意見が分かれることが多く,意見が統一されなかった。その後,張家山から『脈書』が出土し,竹簡の背面から「脈書」という題名が発見されたので,張家山漢簡整理小組は,張家山の竹簡『脈書』の内容は,帛書の『陰陽十一脈灸経』『脈法』『陰陽脈死候』の3種に相当すると考えた。帛書に欠けていた文字は,竹簡が発見されたことにより,基本的にほとんど補うことができる。〔竹簡の文字も〕帛書の釈文と対照すれば,一部を除いて,やはり誤りなく釈文できる。このように,帛書『五十二病方』の巻前にあって失われた部分は,実際は『足臂十一脈灸経』と『脈書』の二種類であると考えられる。このことは,いわゆる『足臂十一脈灸経』が『陰陽十一脈灸経』とは確実に異なる別の本であることを証明している[15]。韓健民[16]は,馬王堆帛書の経脈文献を研究した専門書を著わしたが,その題名を『馬王堆古脈書研究』とした。張燦岬[17]は文献の名称についても論じていて,張家山の『脈書』はもともとあった題目であり,これは『史記』倉公伝が称する『脈書』と同義であるはずであると主張した。「脈書」は経脈の書であり,脈診を言う書ではない。したがって馬王堆に二つの「灸経」本には,もともと題名はなかったが,この例に照らせば,これも「灸経」ではなく「脈書」ではないかと疑われる。『霊枢』経脈という篇は,『脈書』などの各本の基礎の上に発展して成立した可能性がきわめて高い。李海峰[18]は,出土した経脈類文献の主要な内容は近く,体例は類似していることを根拠に,いずれも経脈の脈名,循行ルート,主治病症を述べていて,いずれも生死を判断する診断学的内容を含んでおり,張家山漢簡『脈書』には明確な題名簡があるという。その上,『史記』扁鵲倉公列伝の記載された『脈書』の伝承体系が存在し,これに類する経脈文献は,『脈書』と統一して命名すべきであり,その後にその出土した土地と書写された書写材料〔帛書か竹簡かなど〕の違いにもとづき注を加えて区別すべきであると考えている。趙争[19]は,古脈書の『足臂十一脈灸経』と『陰陽十一脈灸経』の両者の内容と構造を分析することにより以下のように指摘している。すなわち,その形成はいずれもかなり複雑な過程をへていて,そのテキストの構造と成書過程は相対的な年代問題と密接に関連しているため,『足臂』と『陰陽』の相対的な年代関係をおおまかにまとめて論定するのは難しく,テキストの内部に深く入り込んで,古書そのもののテキストの階層に基づき,より小さな単位――段落ごと,さらには各文ごとに――を基礎として分析をおこなうべきである,と。

 上に述べてきたことをまとめると,秦漢時代には多くの地域に普遍的に「脈書」文献が流布しており,その内容と体例はすでに比較的固定的なパターンを形成している。とはいえ,各伝本にはそれぞれ違いがある。馬王堆からは『足臂』と『陰陽』が出土し,今回,天回医簡にも『脈書』下経と『経脈』があり,同じ墓から異なる伝本の経脈文献が出土したのは,当時のこのような文献の流布が複雑で,分離統合が定まっておらず,まさに発展変化の活発な時期にあたることを示している。伝世経典としての『霊枢』経脈篇は,まさにこのような「脈書」が集大成された後に定型化した産物で,体例と構造は,出土「脈書」の基本的な構造を継承していて,そこには経脈の名称・循行・主病・診治法・脈死候等の部分が含まれている。経脈循行の主体と経脈病候という核心となる内容からみると,天回『経脈』に類似する「直系」文献とすべきである。その改造され増加された部分は,おもに以下の面である[20]。第一に,「営衛学説」の成果を吸収し、経脈の循行方式を四肢末端から起こる「求心性」流注を,十二経脈が首尾相い貫く循環する流注に改造した。第二に,『霊枢』禁服の「人迎―寸口」脈法と「盛則瀉之,虛則補之,熱則疾之,寒則留之,陷下則灸之,不盛不虛,以經取之」という鍼灸治療の大法を移植し,次第に衰微していた「有過之脈」の診察法と砭・灸の治療法に取り替えた。第三に,「十五別絡」の内容を増やした。この部分は天回『経脈』と張家山・馬王堆諸脈書には見られないが,天回『脈書』下経の「間別脈」の一部の体例に近い。このことから,『霊枢』経脈の文献の由来が非常に複雑であることがわかる。

 天回医簡が埋葬されたのは,前漢の景帝と武帝の際のころである〔BC140年前後〕[4]。そこに保存されていた二つの経脈文献を見ると,『脈書』下経はこれ以前の『脈書』(BC186年)[6]および馬王堆『足臂』(BC168年)[21]を総合したものであるが,わずかに残っている『経脈』の方は伝世の経典『霊枢』経脈の原始的な様相に近い。江陵〔張家山〕・長沙〔馬王堆〕・成都〔天回〕の三箇所から出土した六つの経脈文献は,前漢初期の五六十年間に,すでに「分散から集合」の傾向を示していた。これに対して『霊枢』経脈が形成された時期は,学界での定説とみなされている成帝の侍医であった李柱国が天下の医書の校正を始めたとき(BC26年)とは限らず,後漢の和帝(88~105年)時代に,太医丞の郭玉が涪翁から伝えられた『鍼経』の時まで時代が下る可能性があるかも知れない。天回『経脈』が『霊枢』経脈に発展するにいたる二百年以上の間に,各種の「伝承された異本」の経脈文献がどれほど相互に浸透融合をへているか分からないが,最終的に「学は官府に在り」という影響の下に,次第に統一を見た。

 『霊枢』経脈篇に「經脈者,所以能決死生,處百病,調虛實,不可不通」[5]とある。この数十年来,陸続と出土した経脈文献は,われわれにこの経文についてより真意に近い理解をもたらし,それによって学者のまなざしは経脈の循行ルートという枝葉の部分から経脈の病候と診療という主要な項目に移った。注目点が移行した背景には,実はいわゆる「経絡の本質」という問題に対する新たな認知,すなわち経絡は「生理システム」であるという認識から「疾病分類システム」であるという認識へのパラダイムシフトがある。『霊枢』経脈の原始形態により近い天回医簡『経脈』の発見は,まさにこのタイミングである。これは間違いなくわれわれに秦漢時代の経脈文献が「百舸争流〔多数の船が流れに競いあう〕」から「百川匯海〔多数の川の水が海に集まる〕」までの伝承の流れというパノラマを見せていて,「鍵となる部分」の新史料を提供している。またわれわれに天回漆塗り経脈木人の体にある赤と白の経脈系統を解釈する新しいアイディアを思いつかせ,それによって必ず中国医学の経脈学説の幾重にも重なって形成された歴史的なプロセスを探索するための新たな弾みとなることもまた間違いない。


天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 04

   4 脈死候

 本篇の簡一四「人有病平臍,死」に似ている文は,『鍼灸甲乙経』巻八第四の「水腫大臍平,灸臍中,腹無理不治」[11]に見える。「唇反人盈,肉死」は,『脈書』51と馬王堆『陰陽脈死候』2に見え,「肉死」を「肉先死」に作る。『霊枢』経脈は「人中滿則唇反,唇反者肉先死」[5]に作る。『甲乙経』でも巻八第四に見えるが,並びの順序は上に挙げた文の前にあり,「水腫,人中盡滿,唇反者死」[11]に作る。この簡の内容は,「脈死候」に属する。この部分の内容は出土と伝世の経脈文献の中で,いずれも比較的安定した形式で存在する。上述した『脈書』『陰陽脈死候』以外でも,天回医簡『脈書』上下経の両方から見つかった。ただ『霊枢』経脈篇には説明的な言葉としてあらわれ,「伝注」の体例に近い。このことから,「脈死候」は文章としては長くはないが,秦漢時代の「脈書」類の文献にあっては,欠くべからざる重要な内容であり,伝世の経脈文献と対照して読むことで,経脈文献の伝承が変遷発展する流れを理解する上で有益であることがわかる。

 このほか,本篇の一五と一六には治療器具(鍼具か?)の形状のような内容が記載されているようだが,破損がひどく,ここでは論じない。

2023年4月29日土曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 03

   3 治法

 本篇で述べられている経脈病の治法は,簡の六・八・十に,「啟〔啓〕」と「灸」の治法が見られる。たとえば簡六には,「凡十一病,啟郄,灸骭上踝三寸,必廉大陰之際」とあり,簡十には「凡七病,啟肘,灸去腕三寸」とある。簡の一一と一二には,「除」の治法が述べられている。

 啟〔啓〕とは,砭石を使用して脈を刺して血を出すことを指す。『脈書』58に「氣壹上壹下,當郄與跗之脈而砭之。用砭啟脈者必如式」[6] とある。

 郄は,本篇では「【𠯌+卩⿰】」と書かれていて,意味は「隙」と同じで,ここでは膕窩〔膝裏のくぼみ〕を指す。『脈書』および『陰陽』『足臂』では,この字は字形が月と𠯌に従っていて,異体字に属す。「郄中」という語は,『素問』の蔵気法時論・刺瘧論〔「論」は原文のまま〕・刺腰痛篇・刺禁論などの篇にしばしば見られ,王冰の注にはなはだ詳しい。たとえば『素問』刺腰痛に「足太陽脈令人腰痛,引項脊尻背如重狀,刺其郄中太陽正經出血,春無見血」とあり,王注に「郄中,委中也,在膝後屈處膕中央約文中動脈,足太陽脈之所入也」[10]という。また,「解脈令人腰痛……刺解脈,在膝筋肉分間郄外廉之橫脈出血,血變而止」に,王注は「膝後兩傍,大筋雙上,股之後,兩筋之間,橫文之處,努肉高起,則郄中之分也。古『中誥』以膕中為太陽之郄,當取郄外廉有血絡橫見,迢然紫黑而盛滿者,乃刺之,當見黑血,必候其血色變赤乃止,血不變赤,極而寫之必行,血色變赤乃止。此太陽中經之為腰痛也」[10]という。『足臂』『陰陽』で「郄」字が用いられているところは,『霊枢』経脈ではみな「膕」字に作る。啟肘は馬王堆の『脈法』3にも「氣出郄與肘之脈而【砭之】」と見える。「肘」を『脈書』は「胕」に作るが,おそらくは誤りであろう。按ずるに,肘と膝は,みな『素問』にいうところの「四肢八谿」の部に属す。『素問』五蔵生成に「此四支八谿之朝夕也」といい,王冰の注に「谿者,肉之小會名也。八谿,謂肘・膝・腕也」[10]とある。

 久は,「灸」と読む。本篇には全部で四回見える。その法はまた『脈書』57-58:「治病者取有餘而益不足,故氣上而不下,則視有過之脈,當環而灸之。病甚而上于環二寸益為一灸」[6] にも見える。本篇で言及される施灸部位として,「骭上踝三寸」と「去腕三寸」がある。按ずるに,「骭上踝三寸」は三陰交穴の位置に当たる。『鍼灸甲乙経』巻三第三十に「三陰交,在內踝上三寸骨下陷者中,足太陰・厥陰・少陰之會。刺入三分,留七呼,灸三壯」[11]とある。足厥陰脈の循行が足太陰脈と交叉することは,各種の経脈文献に掲載されている。たとえば『陰陽乙』14には「厥陰脈……上踝五寸【而】出於太陰【之】後」[7](『霊枢』経脈は「上踝八寸」に作る)とある。按ずるにこの場所は,まさに『脈書』『脈法』の「診有過之脈」と『素問』三部九候論「知病之所在」の部位であり,この竹簡にいう「必廉大陰之際」に当たる。「去捾(腕)三寸」は,支溝穴の位置に当たる。『甲乙経』巻三第二十八には「支溝者,火也。在腕後三寸兩骨之間陷者中,手少陽脈之所行也,為經。刺入二分,留七呼,灸三壯」[11]とある。

 足少陰脈に灸して「強食生肉」する説は,多くの経脈文献中に見られ,「生きた化石」のように経脈文献に伝承されている。たとえば『脈書』43には「少陰之脈,灸則強食產肉,緩帶,被髮,大杖,重屨而步,灸幾息則病已矣」[6]とある。『霊枢』経脈はこの文を依然としてとどめていて,「腎足少陰之脈……灸則強食生肉,緩帶被髮,大杖重履而步」[5]に作り,わずかに最後の一文を省略しているにすぎない。

 除もまた,脈を刺して血を出す法を指す。『韓非子』説林下に,「巫咸雖善祝,不能自祓也;秦醫雖善除,不能自彈也」とある。「祝」と「祓」,「除」と「彈」は互文である。また『韓非子』外儲説右上には,「夫痤疽之痛也,非刺骨髓,則煩心不可支也;非如是,不能使人以半寸砥石彈之」[12]とある。『淮南子』説山訓には,「病者寢席,醫之用針石,巫之用糈藉,所救鈞也」とあり,高誘は,「石針所砥,彈人雍痤,出其惡血」と注する。鍼石と砥石は,ともに砭石の異名である。『霊枢』九針十二原にいう「宛陳則除之」とは,まさにこの法のことを言っている。宛陳も,悪血を指す。「啟」と「除」はともに砭刺の術ではあるが,名称を異にする。筆者はその治療器具や操作の術式に違いがあると推測しているが,証拠が足りないため,なお定論とはしがたい。

 簡の一二と一三は,「除法」の使用を記述していて,同じ病であるが,「咳」または「腹盈」という随伴症状の違いによって異なる経脈に治療をおこなっている。このような「分経論治」の治法は,『霊枢』の寒熱病・癲狂・厥病・雑病などの篇にも見られる。たとえば,『霊枢』雑病には,「齒痛,不惡清飲,取足陽明;惡清飲,取手陽明。聾而不痛者,取足少陽;聾而痛者,取手陽明」。「腰痛,痛上寒,取足太陽・陽明;痛上熱,取足厥陰;不可以俯仰,取足少陽。中熱而喘,取足少陰、膕中血絡」[5]とある。これが現在,古本『経脈』篇に見られるということは,由来するところがあるということである。

 以上に述べたことを,天回医簡『経脈』,『脈書』(とその異なる伝本である『陰陽』),『足臂』,『霊枢』経脈,および同墓から出土した『脈書』下経における主要な相違点として表1にまとめ,比較参照に資する。

                    表1 出土した六種類の経脈文献対照表

  張家山『脈書』/ 馬王堆『陰陽』

数  十一

命名

    足:三陰三陽(「足」字が冒頭にない)

    臂:鉅陰,少陰

    肩・耳・歯脈

経脈の順序

鉅陽之脈―少陽之脈―陽明之脈―肩脈―耳脈―歯脈―泰陰之脈―厥陰之脈―少陰之脈―臂鉅陰之脈―臂少陰之脈(陽脈が先にあり,陰脈が後にある)

循行の方向 

    足三陽:踝から頭足の三陰に走る:踝・足から腹に走る(泰陰脈は胃から踝に走る)

    耳・歯:手から頭に走る;肩:頭から手臂の二陰に走る:手・臂から心に走る

循行の起点 

    足三陽:踝部 

    足三陰:少陰,踝;泰陰,胃;厥陰,足大指

    耳、歯:手;肩:耳後

    臂二陰:鉅陰,手掌;少陰,臂

循行の止点 

    足三陽:目,耳 

    足三陰:少陰,腎、舌本;泰陰,踝;厥陰,陰器

    肩・耳・歯:手背,耳,歯 

    臂二陰:心

経脈の病候 

    「是動」「所産」に分かち,病候数の合計がある

病証の治法 

    啟,灸

*******************************************************

  馬王堆『足臂』

数  十一

命名 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にある)臂:二陰三陽

経脈の順序

足太陽脈―足少陽脈―足陽明脈―足少陰脈―足泰陰脈―足厥陰脈―臂泰陰脈―臂少陰脈―臂太陽脈―臂少陽脈―臂陽明脈(足脈が先にあり,臂脈が後にある)

循行の方向 

    足三陽:踝から頭に走る 

    足三陰:踝と足から腹に走る

    臂三陽:手から頭に走る

    臂二陰:臂から心と脇に走る

循行の起点 

    足三陽:踝部

    足三陰:少陰,踝

    泰陰と厥陰:足大指

    臂三陽:手指

    臂二陰:臂

循行の止点 

    足三陽:目,鼻

    足三陰:少陰,舌本

     泰陰:股内;厥陰,陰器?

    臂三陽:目,耳,口

    臂二陰:心,脇

経脈の病候 

    「其病」で概括し,足脈の病候は循行の順序に排列する

病証の治法 

    灸

*******************************************************

  天回『脈書』下経

数  十二

命名

 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にある)

 臂:二陰;手:三陽;別に「心主之脈」がある

経脈の順序

足大陽脈―足少陽脈―足陽明脈―足大陰脈―足少陰脈―足厥陰脈―手太陽脈―手少陽脈―手陽明脈―臂大陰脈―臂少陰脈―心主之脈(足が先で臂が後,陽が先で陰が後,陰陽内では「太と少が先にあり,厥陰と陽明が後にある」順序で排列)

循行の方向 

    足三陽:足から頭に走る

    足三陰:足から腹に走る

    手三陽:手から頭に走る

    臂二陰および心主:手から心に走る

循行の起点 

    足三陽:足指

    足三陰:少陰,足心;泰陰と厥陰,足大指

    手三陽:手指 

    臂二陰および心主:手掌

循行の止点 

    足三陽:目,耳,鼻

    足三陰:少陰,舌本;泰陰,腸胃,嗌;厥陰,陰器?

    手三陽:目,耳?,口

    臂二陰および心主:心

経脈の病候 

「其病」で概括するが,病候の排列にははっきりとした法則性は見られない

病証の治法 

    ――

*******************************************************

  天回『経脈』

数  十一

命名

 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にない)

 臂:二陰三陽

経脈の順序

本来の順序は不明。暫定的に「大陽脈―少陽脈―陽明脈―太陰脈―厥陰脈―少陰脈―臂陰脈(大、少未詳)―臂太陽脈(闕)―臂少陽脈―臂陽明脈」とする。

 (足脈は『脈書』の順序に,臂脈は『足臂』の順序による)

循行の方向 

    足三陽:足から頭に走る

    足三陰:足から腹に走る

    臂三陽:手から頭に走る

    臂二陰:(未詳)

循行の起点 

    足三陽:足指

    足三陰:未詳,『下経』と同じか。

    手三陽:手指 

    臂二陰:(未詳)

循行の止点 

    陽明脈:鼻に属す(他はみな未詳)

経脈の病候 

    「是動」「所生」に分かち,病候数の合計がある

病証の治法 

    啟,灸,除

*******************************************************

  『霊枢』経脈

数  十二

命名

 足:三陰三陽(「足」字が冒頭にある)

 臂:三陰三陽(「心主手厥陰心包絡之脈」が多い)

経脈の順序

 肺手太陰之脈―大腸手陽明之脈―胃足陽明之脈―脾足太陰之脈―心手少陰之脈―小腸手太陽之脈―膀胱足太陽之脈―腎足少陰之脈―心主手厥陰心包絡之脈―三焦手少陽之脈―胆足少陽之脈―肝足厥陰之脈 (循環流注)

循行の方向 

    足三陽:頭から足に走る

    足三陰:足から腹に走る

    手三陽:手から頭に走る

    手三陰:胸から手に走る

  陰陽相貫,如環無端

経脈の病候 

    「是動」「所生」に分かち,病候数の合計はない

病証の治法 

 盛則瀉之,虛則補之,熱則疾之,寒則留之,陷下則灸之,不盛不虛,以經取之

*******************************************************

 表1から分かるように,天回医簡『経脈』は他の出土した「古脈書」と比べると,以下の特徴を持っている。第一に,経脈の数は,依然として「十―脈」系統に属し,まだ「心主之脈」がない。第二に,経脈の命名の原則は,いずれも「三陰三陽」で命名され,『足臂』と基本的に一致し,『陰陽』が部位によって命名された「肩」「耳」「歯」の脈は見えなくなった。しかし足脈はすべて「足」の字を冠しておらず,臂脈は「臂」で名付けられ,「手」では名付けられていないようだ。第三に,経脈の循行方向は,いずれも四肢の末端から始まり,下から上への求心性を呈し,『足臂』と『脈書』下経に一致しているが,『霊枢』経脈の「環の端無きが如き」経脈相貫の形式はいまだに形成されていない。第四に,経脈循行の起点は,『足臂』と『陰陽』の十一脈の多くが,四肢のくるぶし・手首の部位から起こり,四肢の指・趾端の下に移動するのと比べると,『脈書』下経および『霊枢』経脈とかなり一致する。第五に,経脈循行の止点は大部分未詳であるとはいえ,『霊枢』経脈のような十二経脈と五蔵六府の属絡関係はなお未形成であるとほぼ断定できよう。第六に,経脈の病候は,みな明確に「是動病」と「所生病」に分かたれ,病候の数が数えられているが,『足臂』と『脈書』下経が「其病」を混同している体例は採用されていない。特に病候の表わし方は,『霊枢』経脈と一致度が非常に高く,同じ墓から出土した『脈書』下経とは明らかな違いがある。『脈書』下経にある病候の内容は,『足臂』と『陰陽』両書の特徴を同時に参考して吸収している特徴があり,『霊枢』経脈篇の数よりも多くさえある。まさに黄龍祥は,「老官山『脈書』の中の〈十二脈〉のテキストがもとづく底本は張家山漢簡『脈書』本『陰陽十一脈』(『丙本』)と『足臂十一脈』であり,編纂方式は両書の合抄改編である」[3]と指摘している。これと比べて,天回医簡の『経脈』は『霊枢』経脈の早期の原型のようである。

2023年4月27日木曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 02

   2 主病

 大陽脈:簡二の残文に「腨皆痛」があり,『霊枢』経脈の「膀胱足太陽之脈……項背腰尻膕踹脚皆痛」[5]と文が近い。『陰陽乙』2の「鉅陽脈……其所產病:頭痛,耳聾,項痛,耳疆,瘧,背痛,腰〖痛〗,尻【痛】,痔,郄痛,腨痛,足小指【痹】」[7],『足臂』3-4の「其病:病足小指廢,腨痛,郄攣,𦞠痛,產痔,腰痛,挾脊痛,【頭】痛,項痛,手痛,顏寒,產聾,目痛,鼽衄,數癲疾」[8]とは,ともにこれとは対応しがたい。

 少陽脈:竹簡は主病の文を欠く。『霊枢』経脈は「膽足少陽之脈……胸脇肋髀膝外至脛絕骨外踝前及諸節皆痛」[5]であり,『足臂』8は「足少陽脈……其病……脇外腫」[8]である。ただ,その循行は「脇外廉」を通過するので,上述の病候とそれほどかけ離れてはいないと推測される。

 陽明脈:簡四の残文は「是動則病,洒洒」であり,『霊枢』経脈・足陽明脈の「是動則病洒洒振寒,善呻數欠顏黑……」[5]と前の六字が一致する。

 太陰脈:簡五の残文は「煩心,心痛,□□洩,水閉,黃癉,股……腫蹷,不臥,強欠,大指不用」であり,『霊枢』経脈の「脾足太陰之脈……煩心,心下急痛,溏瘕泄,水閉,黃疸,不能臥,強立股膝內腫厥,足大指不用」[5]と文が高い割合で一致する。しかし『脈書』『陰陽』『足臂』等とは内容から体例までいずれもかなり違いがある。『霊枢』経脈は「強立」に作るが,『太素』経脈連環は「強欠」[9]に作る。按ずるに『脈書』33-35は「泰陰之脈……不能食,耆臥,強吹(欠),此三者同則死」[6]に作り,『太素』が「強欠」に作るのが正しいことを証しているし,この簡ともまた符合する。

 厥陰脈:簡六の残文は「癃,遺溺。凡十一病」であり,『霊枢』経脈の「肝足厥陰之脈……狐疝遺溺閉癃」[5]と病証が一致する。『脈書』38は「熱中,癃,㿗,偏山(疝),為五病」[6]に作り,『足臂』20は「病脞瘦,多溺,嗜飲,足跗腫,疾痹」[8]に作り,どちらも一致しない。また「病有煩心,死,毋治」を,『陰陽乙』16は「五病有〖而〗煩心,死,勿治也」[7]に作り,『足臂』21は「偏有此五病者,又煩心,死」[8]に作る。本篇とは病候数の合計が異なるが,「病」の前の「五」を除けば,文の意味はほぼ同じである。

 少陰脈:簡七から簡八の残文は「上氣,嗌乾痛,煩心心痛,……內廉痛,厥痿,嗜臥,足下熱」であり,『霊枢』経脈の「腎足少陰之脈……口熱舌乾,咽腫上氣,嗌乾及痛,煩心心痛,黃疸腸澼,脊股內後廉痛,痿厥嗜臥,足下熱而痛」[5]と文が高い割合で一致する。しかし『脈書』『陰陽』『足臂』等とは,文の表現や列挙される順序の違いが大きい。

 臂少陽脈:簡一〇の残文は「……腫。所生病,目外顏腫,耳後、肩、後廉痛,汗出,中指不用,喉痹」であり,『霊枢』経脈の「三焦手少陽之脈……是動則病耳聾渾渾焞焞,嗌腫喉痹。是主氣所生病者,汗出,目銳眥痛,頰痛,耳後肩臑肘臂外皆痛,小指次指不用」[5]と文の多くが一致する。唯一,「中指不用」と「小指次指不用」は明らかに異文である。按ずるに,『霊枢』経脈の手少陽脈は「小指次指之端に起こる」ので,所生病には「小指次指不用」が見える。しかし『足臂』の臂少陽脈は「出中指,循臂上骨下廉,奏耳」(31)[8]であり,循行と主病はともにこの竹簡と一致する。この循行と主病の変化が生じた理由は,『霊枢』経脈では「中指」は「心主手厥陰心包絡之脈」の循行が経過する部位であるからである。しかし『足臂』にはまだこの脈はなかったので,中指は「臂少陽脈」の循行部位であった。『霊枢』経脈では「手厥陰脈」が増えて,「十一脈」が「十二脈」になると同時に,「手少陽脈」の循行にも調整がくわえられ,主病についてもこれに応じて変更がおこなわれた。このことから,われわれは本篇の経脈は依然として「十一脈」系統であり,「手厥陰脈」は収載されていなかったと推測できる。これは同じ墓から出土した『脈書』下経が「十二脈」系統であるのとは,大きな違いであり(『脈書』下経で増えたものは「手心主之脈」と称する),両者は異なる伝承系統に属するようである。

 このほか,用語の細部を見ると,足と手の指の病を表現する場合,『脈書』では「○○指痺」,『足臂』では「○○指廃」,本篇と『霊枢』経脈では「○指不用」がそれぞれよく使われ,本篇と『霊枢』経脈は「所生病」を,『脈書』『陰陽』は「所産病」を用いていて,特徴的な違いが見られる。記述の体例を見ると,本篇と『脈書』『陰陽』等はみな「所生(産)病」の病候を数に入れているが,『足臂』は「足帣(厥)陰脈」をのぞいて,みな数に入れていない。『足臂』では足脈の病候は循行の前後にしたがい順番に排列されているので,「○○指廃」はみな一番最初にある。これに対して本篇と『霊枢』経脈中の「○指不用」は一律に最後に並べられている。注目に値することは,『霊枢』経脈における経脈の循行順序は,この竹簡とくらべると大幅に変更されているが,病候の排列順序,特に「○指不用」を最後に並べる体例は,依然として本篇との一致を保っていることである。


天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 01

   1 循行

 大陽脈:簡一「大陽脈,起足小指外廉,循外踝後,以上膝」。

『霊枢』経脈の「膀胱足太陽之脈……出外踝之後,循京骨,至小指外側」[5]と膝以下の循行が一致する。ただし方向は反対である。これと比べて『脈書』17は「鉅陽之脈,繫於踵外踝中」 [6]で,『陰陽乙』1は「踵外踝婁中」に作り[7],『足臂』1は「出外踝婁中」[8]に作る。足の小指には起こらず,外踝であって,かなり差が大きい。

 少陽脈:簡三「少陽脈,起小指之次,循外踝前廉」。

『霊枢』経脈の「膽足少陽之脈……下出外踝之前,循足跗上,出小指次指之端」[5]と外踝以下の循行と一致するが,方向が反対である。『脈書』20は「少陽之脈,繫於外踝之前廉」 [6]に作り,『足臂』5は「出於踝前,枝於骨間」[8]に作る。

 陽明脈:簡四の上端は破損しているが,残っている文は「上□貫乳,夾喉,回口,屬鼻」である。

『霊枢』経脈の「胃足陽明之脈,起於鼻之交頞中……還出挾口環唇,下交承漿,却循頤後下廉,出大迎……其支者,從大迎前下人迎,循喉嚨,入缺盆……其直者,從缺盆下乳內廉」[5]と対比してみると,乳・喉・口・鼻という鍵となる循行部位が高度に一致する。しかし『脈書』23は,「陽明之脈……上穿乳,穿頰,出目外廉,環顏」[6]であり,喉と鼻への言及がない。『足臂』10は,「足陽明脈……上出乳內廉,出嗌,挾口以上,之鼻」[8]であり,乳・口・鼻が含まれるが,「出嗌」は「夾喉」とはやはり循行が異なるし,具体的な用語にも違いがある。

 臂鉅陰/少陰脈:簡九の残余の文は「臂內陰兩骨之間」に見える。

按ずるに,「臂內陰兩骨之間」を循行する者には,臂大陰と臂少陰の二つの脈がある。『陰陽甲』33は,「臂鉅陰脈:在於手掌中,出內陰兩骨之間,上骨下廉,筋之上」であり,『陰陽甲』36は,「臂少陰脈:起於臂兩骨之間,之下骨上廉,筋之下」[8]である。下文が欠損しているため,どちらであるか詳らかではない。

 臂陽明脈:簡一一「臂陽明脈起手大指與次指」。

『脈書』31は「齒脈,起於次指與大指上」[6]。『足臂』は「出中指間」[8]。『霊枢』経脈は「大腸手陽明之脈,起於大指次指之端」[5]。按ずるに『霊枢』には「與」字がない。そうするとこの脈の起点は「大指」と「次指」という二本の指から「大指の次指」(すなわち示指)という一本の指に変じたことになる。


2023年4月26日水曜日

天回医簡『経脈』残篇と『霊枢』経脈の淵源 00

   顧漫,周琦,柳長華,武家璧  『中国針灸』2019年10月/第39卷第10期


 【要 旨】

 成都から出土した天回医簡には,欠落部分がほとんどない経脈文献『脈書』下経のほかに損傷のはげしい経脈文献が『医馬書』とともに同じ箱の中に入れられていた。本篇を記した竹簡には題名がいまのところ見つかっていない。その文の内容は,馬王堆帛書『陰陽十一脈灸経』『足臂十一脈灸経』,張家山漢簡『脈書』,および天回医簡中の『脈書』下経などとはいずれも異なっているが,『霊枢』経脈の文とは類似していることが多いので,整理者は『経脈』という名称を提案した。本篇と出土した経脈文献および『霊枢』経脈との比較を通じて,秦漢時代の中国医学の経脈学説の起源とその変遷を示し,あわせてこれを例に中国医学の経典理論の構築過程を検討した。

 【キーワード】

 天回医簡『経脈』;脈書;陰陽十一脈灸経;足臂十一脈灸経;『霊枢』経脈


 成都天回鎮の前漢墓葬出土医簡(以下「天回医簡」と略称する)の中には,M3:121に欠落部分がほとんどない経脈文献(整理者は『脈書』下経と命名した)が含まれていたが,それ以外にも,M3:137の中に損傷のはげしい経脈文献が,『医馬書』と混じって発見された。最初の『考古』簡報〔概要報告〕には報告されなかったが[1],研究が進むにつれて,この部分の内容の性質が日増しに明らかになってきた。たとえば楊華森は,『医馬書』には多くの竹簡があり,その中には経脈の循行状況と一部の疾病の表現あるいは予後が記述されていること,さらに竹簡の中の語句を詳しく調査してみると,その内容は人体の病変や人体の経脈循行に関する状況を記述しているようなので,それは『医馬書』そのものに属するものではなく,医簡の他の部分に入れるべきではないかと疑問を呈していた[2]。黄龍祥もこの部分に注目し,M3:121の「十二経脈」の関連条文と対照して引用した[3]。竹簡整理簡報は次のように明確に指摘している。M 3:137には『医馬書』以外に,「『医馬書』とは全く異なる27本の簡があり,その内容は人体経脈の循行と病候であるが,損傷がはげしい(完全なものは4本のみ)。その書風(丙号字)はM3:121の肆号字に近く,M 3:121の簡五に類する独立した経脈書とすべきである」。[4]

 同類に属するが内容に欠けている部分がないM3:121『脈書』下経とくらべて,本篇は竹簡の損傷がはげしく釈読が難しいため,已発表の関連研究論文の著作の中では言及されることがより少ない。筆者は天回医簡の整理作業において,テキストの細かい調査を通じて,M 3:137の経脈文献は,馬王堆帛書『陰陽十一脈灸経』『足臂十一脈灸経』,張家山漢簡『脈書』,および同墓から出土したM3:121『脈書』下経などとは,内容から体例までいずれも一定の違いがあり,伝世経脈文献である『霊枢』経脈篇と最も近いことに気づいたため,『経脈』と命名した。研究者が比較研究しやすいように,本篇の釈文を以下のように収録する。

  【釈文】 

  {・}{大}{陽}{脈},{起}足小{指}外廉,循{外}踝後,以上{厀}(膝)〼 一050 

   〼□腨皆{痛}□〼 二054

  ・{少}{陽}{脈},{起}{小}指之次,循外踝前廉,上循〼/〼□脅外廉,{支}者至□〼 三114+218

  ……□{上}□{貫}{乳},夾矦(喉),回口,屬鼻。是動則病,洒=(洒洒) 四003

{煩}也=(心,心),{痛},□□{洩},水閉,黃{癉},股□〼〼□□□穜(腫){蹷},不臥,強欠,大指{不}{用}□〼 五113+195+196

   □〼(癃),{遺}弱(溺)。・凡十一病,啟【𠯌+卩⿰】(郄),久(灸){骭}上踝三寸,必廉大陰之祭(際)。病有煩也〈心〉,死,毋治。 六051〼上氣,嗌干痛,煩心=(心,心){痛},□〼 七057内廉痛,瘚(厥)痿,耆(嗜)臥,足下熱。・凡□□{病},{啟}{【𠯌+卩⿰】}(郄)□□肉□□。久(灸)則{強}食生肉,{緩}帶被{髮},大丈(杖)重{履}步,久(灸)幾息則病已矣。 八004

  〼臂內{陰}兩骨之閒(間),□□□□□□〼 九128

  穜(腫)。所生病,目外顏朣(腫),耳後、肩、{腝}(臑)後廉痛,汗出,中指不用,矦(喉)痹。・凡十〈七〉病,啟肘,久(灸)去捾(腕)三寸。 一〇052

  ・臂陽明{脈},起手大指與次指,上循{臂}〼 一一112

  〼□則除臂大□。・欬上氣,匈脅盈,則除臂陽明;頸項痛,則除臂太陽。・欬上氣而窮詘 一二066

  國(膕)中{大}{陽}。・{腹}{盈}而渴,則除國(膕)中大陰。{・}□除足太{陰}。〼 一三063 

  〼□□□□□□{不}□。人{有}{病}平齊(臍),死L。唇反人盈,肉死。 一四043

  ・□□□□{末}三分寸{一}□□□□□□□{大}□□ 一五065

  〼□□□□皆四寸半□〼 一六047 

  □{則}{能}□〼 一七056

  〼{大}陰 一八118

  {國}(膕)中大陽〼 一九139

  □□{頭}{頸}□□□□〼 二〇058 

(注:釈文記号の説明:□は,識別できない文字,および竹簡の断裂によって欠落した文字を表わす。〼は,この部分で竹簡が断裂しているため文字が脱落し,文字数が不詳であることを表わす。釈文を外枠で囲ったところは,簡の文字の筆画に欠落があるが,残筆または上下の文例によって弁釈できた文字を表わす〔訳注:ブログの表示の都合上,訳文では外枠を{}記号で代替した〕。=は,竹簡にもともとあるもので,重文または合文〔「重文」とは一般に異体字のことをいうが,ここでは繰り返し記号のこと〕を表わす。釈文は直接省略された文字を書いて,括弧をつけて表記する。Lは,竹簡にもともとあるもので,句読を表わす。・は,竹簡にもともとあるもので,項目分けや段落を表わす。各簡の後についている漢数字は整理小組が竹簡の内容から並べ替えた後の整理番号であり,アラビア数字は竹簡が出土したときにつけられた番号である。)


 本論は経脈の循行・主病・治法などの面から,本篇の内容と馬王堆帛書『陰陽十一脈灸経』甲本・乙本(以下,それぞれ『陰陽甲』『陰陽乙』と略称する),『足臂十一脈灸経』(以下,『足臂』と略称する),張家山漢簡『脈書』(以下,『脈書』と略称する),および『霊枢』経脈篇について比較分析をおこない,異同を確認した。書面表示の煩雑さを避けるために,すべての釈文で正字を表示した者は,引用文では一般にただちに正字を使用し,括弧をもちいた注はつけない。『陰陽甲』『陰陽乙』『脈書』の三部は源を同じくし,文の内容は大同小異であるため,引用する時は最善のものを選んでそれに従い,例証としての重複は避けた。


2023年4月15日土曜日

2023年4月14日金曜日

天回漢墓医簡中の刺法 06

 6 結び

 総合的に考察すると,『史記』倉公伝や『素問』繆刺論などの篇に掲載されている灸刺の方法は『㓨(刺)数』にかなり近い。その腧穴理論はまだ形成されておらず,固定された位置と名称のある穴はまだ現れていない。倉公が故(もと)の濟北王の阿母の熱蹶を治療して,「其の足心各三所を刺し」,本篇では「女子腹中如捲,兩胻蹷陰、足大指讚(攢)毛上各五」(632)を治療しているように,当時はまだ涌泉・大敦などの穴名はなかったのだから,「腧穴帰経」などの理論構築などがなかったことは言うまでもないことがわかる。したがってその鍼刺の部位は,今日われわれがよく理解している「腧穴」ではなく,主なものは「血脈」と「分肉」であり,両者はまたそれぞれ「脈刺」と「分刺」の法に対応している。脈刺の部位は,みな診察して脈に異常があるところ(すなわち「切病所在」「診有過之脈」)に取る。同時にそこは経脈が体表から出て,脈息を診察しやすい部位,すなわち「脈口」であり,「気口」とも呼ばれる。天回医簡に反映されている「経脈医学」の核心理論は「通天」であり,同時に出土した『脈書』上経と照らし合わせてみると,脈刺を施術する脈口部位は,まさにいわゆる「十二節通天」の場所である。「脈刺」と「分刺」の法を深く読み込むことによって,天回の経脈人に刻まれた丸い点や文字を解明するための新しい考え方と視野が提供されるだろう。本篇に保存されていた古い刺法は,まさに『霊枢』官鍼などの篇に記されているものと相互に裏付けとすることができるが,その法は長い間埋没して伝わっていなかった。この文献が出土したことによって,われわれは二千年前の先賢を直にたどることができるようになった。これは非常に貴重なことである。中国の学問の伝承は,しばしば薪を積み重ねることにたとえられるが,その結果として出てくるものは,決して前からあるものに取って代わることはできない。これはまさに中国の学問の特質である。


 (謝辞:簡662と簡667中の「切」字は,『文物』誌に発表した際は「扑(拊)」と釈字していたが,復旦大学の陳剣教授の指摘を受けて改めた。また簡667中の「循」字もまた陳剣教授の釈字による。簡667中の「審」字は「害(会)」と釈字していたが,中国社会科学院歴史研究所の鄔文玲研究員の指摘を受けて改めた。特に感謝の意を表す。)


参考文献

[1] 班固.汉书·艺文志[M]. 北京:中华书局,1962:1776.

[2] 张骥撰,尹承整理.《汉书·艺文志·方技》补注[M]//二十五史艺文经籍志考补萃编(第五卷).北京:清华大学出版社,2012:341-343.

[3] 柳长华,顾漫,周琦,等.四川成都天回镇汉墓医简的命名与学术源流考[J]. 文物,2017(12):58-69.

[4] 灵枢经(影印明代赵府居敬堂刊本)[M].北京:人民卫生出版社,1956.

[5] 黄帝内经素问(影印明代顾从德翻刻宋本)[M]. 北京:人民卫生出版社,1956.

[6] 李伯聪.扁鹊与扁鹊学派研究[M].西安:陕西科学技术出版社,1990:155-162.

[7] 杨上善.黄帝内经太素(排印萧延平兰陵堂本)[M].北京:人民卫生出版社,1965.

[8] 中国中医科学院中国医史文献研究所,成都文物考古研究所,荆州文物保护中心,四川成都天回镇汉墓医简整理简报[J]. 文物,2017(12):48-57.

[9] 裘锡圭.文字学概要[M].北京:商务印书馆,2015:139.

[10] 曾武秀.中国历代尺度概述[J]. 历史研究,1964(3):163-182.

[11] 段玉裁.说文解字注[M].上海:上海古籍出版社,1981.

[12] 凤凰山一六七号汉墓发掘整理小组.江陵风凰山一六七号汉墓发掘简报[J]. 文物,1972(10):31-37.

[13] 中国社会科学院考古研究所,河北省文物管理处.满城汉墓发掘报告[M].北京:文物出版社,1980.

[14] 钟依研(马继兴).西汉刘胜墓出土的医疗器具[J]. 文物,1972(3):49-53.

[15] 赵京生. 针灸经典理论阐释[M]. 上海:上海中医药大学出版社,2000:116-118.

[16] 森立之. 素问考注[M]. 郭秀梅,冈田研吉,校点.北京:学苑出版社,2002:380.

[17] 严健民.䐃肉、肉䐃、分肉之间解析[J]. 中医文献杂志,2004(1):16-18.

[18] 成都文物考古研究所,荆州文物保护中心,成都天回镇老官山汉墓发掘简报[J]. 南方民族考古,2017(1):215-246.

[19] 裘锡圭.长沙马王堆汉墓简帛集成(五)[M].北京:中华书局,2014:217.

[20] 司马迁,史记·扁鹊仓公列传[M].北京:中华书局,1982:2802.

[21] 张家山二四七号汉墓竹简整理小组.张家山汉墓竹简〔二四七号墓〕(释文修订本)[M]. 北京:文物出版社,2006:126.

[22] 梁繁荣,王毅.揭秘敝昔遗书与漆人[M].成都:四川科学技术出版社,2016:247-248.

[23] 李克光,郑孝昌,黄帝内经太素校注(下册)[M].北京:人民卫生出版社,2005:626.

[24] 何爱华. 试论淳于意在针灸学上的成就――――兼论经络与腧穴关系[J].针灸学报,1988(1):46-52.

[25] 马继兴.敦煌古医籍考释[M],南昌:江西科学技术出版社,1988:433,438-439.

[26] 黄龙祥.从《五十二病方》“灸其泰阴、泰阳"谈起――――十二“经脉穴"源流考[J]. 中医杂志,1994,53(3):152-153.

[27] 黄龙祥.扁鹊医学特征[J].中国中医基础杂志,2015,21(2):203-208.

[28] 刘敦愿.汉画象石上的针灸图[J]. 文物,1972(6):47-51.

[29] 叶又新.神医画象石刻考[J]. 山东中医学院学报,1986(4):54-60.

[30] 叶又新. 试释东汉画象石上刻划的医针――――兼探九针形成过程[J]. 山东中医学院学报,1981(8):60-68.

[31] 马元.《灵枢·官针》刺法探析[J].山东中医学院学报,2009(5):404-407.


2023年4月13日木曜日

天回漢墓医簡中の刺法 05

 5 本篇に見える古い刺法の検討


 整理者がすでに指摘しているように,本篇に述べられている刺法の多くは,『史記』所載の倉公の法と一致する(例:簡666,630)。同様に,本篇と倉公伝にあらわれる灸・刺部位は,いずれも三陰三陽の経脈部位をいうのみで,後世の穴名はいまだ出現していない。これと例を同じくするものとして,『素問』の繆刺論・長刺節論・通評虚実論・刺熱論・刺瘧篇・刺腰痛篇,『霊枢』の寒熱病・癲狂・雑病,および馬王堆『足臂十一脈灸経』などの篇がある(張家山『脈書』と馬王堆『陰陽十一脈灸経』には「足少陰」に一灸法があるにすぎない)。梁繁栄等がすでに指摘しているように,本篇にみえる数,「各五」「三」などは『史記』扁鵲倉公列伝にある鍼灸医案の「各三所」や『素問』繆刺論の「各二痏」などと記述されているものと含意が一致する。「所」の意味は「処」であり,痏は鍼孔である。『太素』巻十五・五蔵脈診「已發鍼,疾按其痏」の楊上善注に「于軌反,謂瘡瘢之也」とある[7]305。『太素』巻二十一・九鍼要道「外門已閉,中氣乃實」の楊上善注に「痏孔為外門也」とある[23]。

 倉公伝と『内経』に見られるこれらと同じような例である灸・刺部位はつまるところ経脈なのか腧穴なのかについて,中国医学界では20世紀八十~九十年代に論争があった。何愛華は『千金要方』と敦煌から出土した『灸法図』の残巻に見られる「灸××(脈)」という例から,『史記』倉公伝中の「灸・刺××脈」は,みな経脈名にもとづいて命名された腧穴を指すと考えた。馬継興先生は敦煌の『灸法図』を考釈し,「手陽明」は「古経穴名」,「足陽明」は「古経穴名。具体的な位置は不詳だが,ほぼ足の甲にある」,「足太陽」は「古経穴名」と注解している。黄龍祥はこのような経脈名と同じ名称の腧穴を「経脈穴」と称し,『脈経』等の記載にもとづき,「その部位はみな手首・くるぶしの部位をこえず,多くは対応する脈口部位に相当する」[26]とし,また特に倉公伝の鍼灸方に見られる「足厥陰之脈」「足陽明脈」「手陽明脈」などは脈口名であって経脈名ではなく,これらの脈口は脈を診る部位であり,鍼灸治療部位でもある[27],と指摘している。

 『史記』倉公伝に見られる古刺法は,山東省の漢代画像石「扁鵲行鍼図」がちょうどその裏付けとなる。山東省の美術史家劉敦願[28]と葉又新[29]の両先生は,漢代の画像石に見られる扁鵲の形象にかなり早くから関心を注いでいた。葉氏は山東省微山県両城山から発見された後漢中葉の『神医画象石』乙(曲阜の孔子廟に現存する)とともに,当時の刺法の取穴を検討し,それぞれの箇所の鍼刺数痏の特徴を次のように指摘している。「しかしやや後の和帝時代の『乙石』の上には,かえって一穴多鍼の画象が現われた。右側〔訳注:原文「右边」。画像では左側の婦人のことか〕に坐っている病気の婦人には鍼が三ヶ所に留められており,各所にそれぞれ三痏(一つの穴に三鍼を刺す)ある。中間に坐っている病気の婦人は四ヶ所に鍼を留め,剥落している頭頂部を除き,その他はみな四痏であり,腧穴を一つの面あるいは一つの線とみなしている」。『霊枢』官鍼に記されている刺法を参照すると,葉氏の考えでは,図中の二痏を刺すものは,官鍼中の「直刺傍刺各一」の「傍鍼刺」に近く,三痏を刺すものは,「直入一,傍入二」の「齊刺」(或曰三刺」)に近く,五痏を刺すものは,「正内一,傍内四,而浮之」の「陽(揚)刺」[30]に近い(図3〔省略〕)。

 図:山東省漢代画像石「扁鵲行鍼図」

 注:図は,「叶又新.试释东汉画象石上刻的医针 ――兼探九针形成过程.山东中医学院学报,1981(8):60-68」から引用。〔省略〕

https://zhuanlan.zhihu.com/p/85304388

 葉又新はすでに画像石に表わされていた刺法について「腧穴を一つの面あるいは一つの線とみなしている」と注目していたが,『㓨(刺)数』簡が出土したことによって,画像石に表わされていたのはまさに本篇中の刺法の描写であることがわかった。本篇の刺法によく見られる数,「各五」は「脈刺」であり,その刺鍼部位は経脈あるいは絡脈である。『霊枢』官鍼篇と対照するならば,「豹文刺」に近い。「豹文刺者,左右前後鍼之,中脈為故,以取經絡之血者,此心之應也」[4] 24。馬元の解釈によれば,「賛刺と豹文刺は多鍼散刺放血法に属す。その中で前者は浅表の血絡を散刺し,出血量は比較的に少ない。後者は深層の経脈を散刺し,出血量はかなり多く,形状はまだらの豹文に似る」[31]。本篇の脈刺「間相去七分寸一」という論述と結びつけると,刺鍼顎の五箇所の鍼孔の配列は十字状であり,左右前後各所の鍼孔と中央との距離は,まさに本篇にいう0.33cmであることがわかる。

 三痏を刺すのは本篇にある「分刺」であり,『霊枢』官鍼の「合谷刺」に対応する。「合谷刺者,左右雞足,鍼於分肉之間,以取肌痹,此脾之應也」[4]24。『太素』巻二十二・五刺の楊上善は,「刺身左右分肉之間,痏如雞足之跡,以合分肉間之氣,故曰合刺也」と注している[7] 359。馬元の解釈によれば,「谷とは,肉の大会である。痺痛が肌肉の厚いところに生じたときは,ここで〈左右雞足〉刺法(すなわち鍼を筋層に直刺したのち,浅い層に引き上げ,さらに順次両わきに斜刺して,鍼刺痕をニワトリの爪の形にさせる)をおこなうとよい[31]。本篇の分刺「間相去少半寸」の論述と結びつけると,刺鍼後の三ヶ所の鍼孔の配列はまさにニワトリの足の形状になり,左右二ヶ所の鍼孔と中央との距離はまさに本篇にいう0.77cmになることがわかる。

 『霊枢』官鍼に記されている刺法には,「九刺」「十二刺」「五刺」の違いがあるが,実際は異なる基準に基づいて分類されているため,それぞれの分類のもとにある刺法は互いに重複していて,はっきりと分けることはできない。したがって上文で述べた,「病在脈,取以鍉鍼」の刺法と「中脈為故……此心之應也」の豹文刺は対応し,「病在分肉間,取以員鍼」の刺法は,「鍼於分肉之間……此脾之應也」の合谷刺と対応する。これはちょうど『㓨(刺)数』簡の「脈刺」と「分刺」にそれぞれ対応させることができ,さらに『史記』倉公伝と漢代画像石「扁鵲行鍼図」に描かれた刺法で確認することができる。けだしこれが前漢初期の鍼刺の古法なのであろう。


天回漢墓医簡中の刺法 04

 4 各類の病症に関する刺法を論ずる

 竹簡の文例:

 【蹷】,兩胻陽明各五,有(又)因所在。(666)𥢢=(㿗,㿗)山(疝),暴L,侖,𤵸(癃),轉胞,蹷(厥)陰各五。(630)

  脛(痙),北(背)巨陽落各五。(643)

  身盈,在肌分㓨(刺),在胻=(胻胻)㓨(刺)。(657)

  水,巨陽落(絡)與腹陽明落(絡)會者各八。(637)

  厀(膝)攣痛,因痛所,以劇昜(易)為數。(664)


 本篇の各論部分には42条があり,風・脛(痙)・水・單(癉)・顛疾・𥢢山(疝)・痿・蹷・狂・膚張(脹)・肘(疛)・欬上気などの病証におよぶ。各条はおおむね「病名-鍼刺部位-(数)」という規範的な体例に従って書かれている。鍼刺の数には五・十・三・八・四があり,「五」とするものが最も多く,全部で29箇所ある。「八」と「十」はそれぞれ2箇所,「三」「四」はともに1箇所のみである。ほかに6条には数は記載されておらず,1条は数の部分が闕文となっている。

  鍼灸部位で分けるならば,「巨陽」「少陽」「陽明」「大陰」「少陰」「厥陰」という三陰三陽の名称はすべて経脈(あるいは絡脈)を指している。その刺法がすなわちいわゆる「脈刺」であり,全部で32条ある。本篇の特徴は,言及されている経脈の前には,足・辟(臂)・胻・肩・北(背)・項・頭・頰・耳前など,具体的な部位がみな冒頭にあることである。これ以外では,竹簡の文に督・心落(絡)・陽明落(絡)・巨陽落(絡)・兩辟(臂)內筋間・足大指讚(攢)毛上などの部位も現われることである。注目に値することは,本篇には『脈書』下経に見られるような「手心主脈」がないことである。鍼刺部位に「兩辟(臂)內筋間」(633)という呼称があることから,おそらく当時はまだ「手心主脈」という概念に進展していなかったのであろう。くわえて,本篇では「×落」「××落」とされ,「落」字がみな用いられており,「絡」字ではない。『漢書』芸文志の「医経」の小序でも「醫經者,原人血脈・經落・骨髓・陰陽・表裏」と,「經落」が用いられていて,これには必ず基づくところがあることがわかる。

 「分刺」はこの部分に「身盈,在肌分㓨(刺)」(657)の一条が見えるだけで,「水」に言及するところも,「水,巨陽落(絡)與腹陽明落(絡)會者各八」(637)の一条だけである。しかしこの一条は刺絡法を用いていて,脈刺の条文に属すると思われるが,本篇にいう「刺水」のであるかどうかは,つまびらかではない。

 このほか,本篇には刺鍼部位について,「因(病)所在」の刺法もある。全部で11条(「脈刺」と3条重なる),その刺鍼数は3条では,「以劇易為數」(644),すなわち症状の軽重によって刺鍼数が決定される。これも後世の「以痛為腧」および「阿是穴」の取穴方法への道を開いた。本篇にある刺法と刺鍼数の対応関係を表にしてに示し(表1),参考に供する。


表 1 『㓨(刺)數』篇に見られる刺法と刺鍼数の対応関係

 刺鍼数 五  十 三  八  四 数なし 数闕

 脈刺  28  2  0   1   0    0          1

   分刺     0   0  0   0   0    1          0

 因所在    3   1  1   1   1    4          0

   不刺     0   0  0   0   0    1          0


 注:表にある数字「五」「十」などは,本篇に出現する鍼刺の数である。「なし」とは明確な鍼刺数の記載がないもの,「闕」とは文字の記載はあるものの筆跡がはっきりせず,判読が困難なもの。アラビア数字の28・3・1などは,その数が記載されている竹簡でそれぞれ見える頻度を示す。


2023年4月11日火曜日

天回漢墓医簡中の刺法 03

 3 鍼刺時の診法の運用を論ずる


【切】病所在,【脈】熱,勭(動)不與它【脈】 等,【其應】手也疾,【盛則】勭(動),其應手疾,其虛則徐。病不已,間日覆之;病(652)已,止。所胃(謂)分㓨〓(刺,刺)分肉間也。(669)


 【切】字は,実際は「扌」と「七」にしたがう字形であり,現在の「切診」の「切」字である。『霊枢』刺節真邪に「用鍼者,必先察其經絡之實虛,切而循之,按而彈之,視其應動者,乃後取之而下之」[4]122とあり,『素問』挙痛論に「黃帝曰:捫而可得奈何?岐伯曰:視其主病之脈,堅而血及陷下者,皆可捫而得也」[5]80とあるのが,この「切病所在」の法である。

 張家山『脈書』簡63~64に「它脈盈,此獨虛,則主病。它脈滑,此獨{氵𧗿}(澀),則主病。它脈靜,此獨勭(動),則主病。夫脈固有勭(動)者,骭之少陰,臂之巨陰、少陰,是主勭(動),疾則病。此所以論有過之脈殹"」 [21]とある。按ずるに,『㓨(刺)数』篇にある診脈法は,『脈書』と同じく「比較診脈法」である。趙京生[15]74-75がまとめたものにもとづけば,この方法は経脈の体表搏動点を診察部位とし,脈動が他の経脈と異なることをもって経脈の病変を診察する基準とし,診察時に人体の多くの経脈とその脈動点をまんべんなく診察する必要がある。『内経』にある「三部九候脈法」と「人迎寸口脈法」はいずれもこの診脈法を継承したものである。

 『霊枢』経脈は,この診脈法をさらに発展させている。「脈之卒然動者,皆邪氣居之,留于本末。不動則熱,不堅則陷且空,不與眾同,是以知其何脈之動也」[4]36。その「邪氣居之,留于本末」とは,この竹簡にいう「病所在」である。「不動則熱」は,この簡の「脈靜,此獨動」に対応し,「不動則熱」はこの簡の「脈熱……盛則動」に対応し,「不堅則陷且空」は「其虛則徐」に対応していている。すなわち脈の虚実である。「不與眾同」は「動不與它脈等」に対応している。すなわちいわゆる「有過之脈」である。たがいに裏付ける関係にあって,同一の源から出ているにちがいない。


㓨(刺)數,必見病者狀,切視病所,乃可【循察】。病多相類而非,其名眾,審察診病而〓6〔艸+咸〕(鍼)之,病可俞(愈)也;不審(667)其診,〓6〔艸+咸〕(鍼)之不可俞(愈)。治貴賤各有理。(670)


 按ずるに,この竹簡の文章は,『素問』繆刺論にある「凡刺之數,必(「必」字は『太素』により補う)先視其經脈,切而順之,審其虛實而調之」[5]127を参照すると,鍼刺治療はまず患者を詳細に診察し,病気の所在を知り,病名を明らかにする必要があり,そうしてはじめて鍼をして病を回復するができることを強調している。「切視病所,乃可循察」は,「視其經脈,切而順之」と対応し,竹簡にいう「病所」は『素問』では「經脈」と明示されている。「循察」の二字ははっきりとは判読できないが,残筆と証拠資料から釈読したもので,「順察」の意味である。「病多相類而非,其名眾」は,『史記』倉公伝に記載された皇帝に対して述べた「病名多相類,不可知,故古聖人為之脈法」[20] 2813とたがいに裏付ける関係にある。「審察診病而鍼之」とは,「審其虛實而調之」である。「治貴賤各有理」については,『霊枢』根結の「刺布衣者,深以留之;刺大人者,微以徐之」[4]19,『霊枢』寿夭剛柔の「刺布衣者,以火焠之;刺大人者,以藥熨之」[4]21が,その実例にあたる。


2023年4月10日月曜日

天回漢墓医簡中の刺法 02

   2 鍼刺による出血の処理および刺法の禁忌を論ずる


 㓨(刺)血不當出,㓨(刺)輒以【指案】,【有】(又) 以【脂肪】寒(塞)之,勿令得囗,【已】。(650)

 手指で圧を加えて止血する方法は,『霊枢』邪気蔵府病形に見える。「刺澀者,必中其脈,隨其逆順而久留之,必先按而循之,已發針,疾按其痏,無令其血出,以和其脈」[4]16。「又以脂肪塞之」については,『霊枢』癰疽に見える「豕膏方」もこの類に属する傷のあとの処理法である。「發於腋下赤堅者,名曰米疽。治之以砭石,欲細而長,疏砭之,塗以豕膏,六日已,勿裹之」[4]135。このほか,『五十二病方』諸傷にもまた動物性脂肪を用いた外用による傷の治療処方が多く見られる。たとえば,「令傷毋(無)般(瘢),取彘膏、囗衍並冶,傅之」(14)[19]がある。

  短氣,不【㓨】(刺)。(663) 

 この竹簡は各論部分で,刺法の禁忌が述べられている。早期の鍼刺治法は,虚証には適さなかった。『史記』扁鵲倉公列伝には「形獘者,不當關灸鑱石及飲毒藥也」とある。『素問』奇病論には「所謂無損不足者,身羸瘦,無用鑱石也」[5]94とある。これらは虚証のことを言っていて,からだが痩せ細っていることに着目している。『霊枢』邪気蔵府病形はさらに進んで,脈を診ることで虚実を判断している。「諸小者,陰陽形氣俱不足,勿取以針,而調以甘藥也」 [4]16。『霊枢』終始は明確に「少気証」の診断根拠と治療の原則を提出している。「少氣者,脈口、人迎俱少而不稱尺寸也,如是則陰陽俱不足。補陽則陰竭,瀉陰則陽脫。如是者,可將以甘藥,不愈(「愈」字は『太素』により補う),可飲以至齊」[4]25-26。これは,この竹簡についての詳しい説明,すなわち「伝〔=解釈〕訓詁」であるとみなせる。


2023年4月9日日曜日

天回漢墓医簡中の刺法 01

   1 刺法には「脈刺」「分刺」「刺水」の区別がある

【脈】㓨(刺),深四分寸一,間相去七分寸一。【脈】㓨(刺),箴(鍼)大如緣〓1〔艸+咸〕(鍼)。分㓨(刺),囗【大】囗,間相去少半寸。㓨(刺)水,〓1〔艸+咸〕(鍼)大如【履】〓1〔艸+咸〕(鍼),囗三寸。(簡653,図1)

 ★図1 『㓨数』簡中の「脈」字 簡652と簡653 〔省略〕

 簡653の内容は「脈刺」「分刺」「刺水」という諸種の異なる刺法の操作要領,およびその使用する鍼具の形状を概説していて,全篇の綱領である。整理者はその簡の背部にある刻み目上下2本と,その番号の断面図中の位置に基づいて,この簡を本篇の最初の簡とした[8]。

  1.1脈刺

  「脈刺」は,簡653に二カ所出現する。「刺」の前の一字は不完全であるが,整理者は残存する筆画からその字形を「〓2〔画像〕」,「月(肉)」と「永」に従う文字で,本篇の簡652(図1)にみえる「脈熱」「它脈」の「脈」字と形に違いがないので,「脈」字と解することができる(張家山『脈書』中の「脈」字の書法はこれと異なり,字形は「肉」と「𠂢」に従う。裘錫圭先生によれば,古文字の正写と反写には往々にして差がなく,「永」と「𠂢」はもともと二つの字ではない。金文の「永」字が「〓3〔画像〕」となっている例はしばしば見られる。「〓4〔画像〕」または「〓5〔画像〕」は川の支流を象っていて,おおむね後に字義を明確にするために,字形が左向きを「永」字,右向きを「𠂢」字と規定している[9])。『霊枢』官針に「病在脈,氣少當補之者,取以鍉針於井滎分輸」とある。すなわち「脈刺」の法に属する。また「経刺」「絡刺」の区別がある。「凡刺有九,以應九變……三曰經刺,經刺者,刺大經之結絡經分也。四曰絡刺,絡刺者,刺小絡之血脈也」[4] 22。〔簡653の〕「深四分寸一」とは,鍼刺の深さが四分の一寸のことを指す。すなわち張驥先生がいう「浅深出内」の法度である。「間相去七分寸一」とは,鍼刺部位間の距離が七分の一寸ということを指す。「少半寸」とは,三分の一寸のことを指す。秦漢時代の標準的な常用の尺度では,一尺は23.1cm[10],十寸が一尺である。したがって一寸は2.3cmである。よって「四分寸」は0.56cm, 「七分寸」は0.33cm,「少半寸」は0.77cmである。この数値からすると,脈刺の鍼刺の深さはかなり浅く,間隔はかなり近いが,分刺間の距離はやや遠い。

 脈刺に用いる鍼具は,簡の文によれば,「針大如緣針」,『説文解字』系部に「緣,純也」とある。段玉裁注:「此以古釋今也,古者曰衣純,見經典,今曰衣緣。緣其本字,純其叚(假)借字也。緣者,沿其邊而飾之也」[11] 654。縁とは衣服の縁どりを指し,縁針とは衣服の縁を縫うために用いる針であり,普通の縫い針よりもやや大きい。湖北省江陵鳳凰山第一六七号漢墓から出土した前漢初期(文景期)の縫い針は,長さ5.9 cm,最大径約0.05 cmで,針先はやや欠けていて,針体の太さは均一で,針孔は小さく,内部に黄色の絹糸を結んでいて[12],例証とできる。『霊枢』では「鍉鍼」に対応する。『霊枢』九針十二原:「鍉鍼者,鋒如黍粟之銳,主按脈勿陷,以致其氣」[4]6。『霊枢』九針論:「三者人也,人之所以成生者血脈也。故為之治針,必大其身而員其末,令可以按脈勿陷,以致其氣,令邪氣獨出」[4]128。河北省満城の前漢中山靖王劉勝墓から金・銀製の「九鍼」が出土した。その中の金の医療用鍼1:4446は鍉鍼にちがいない。その形状は上端を柄とし,断面を方形とし,下部を鍼身とする。断面は円形で,柄の上端には小さな穴があり,柄の長さは鍼身の長さの倍で,全体の長さは6.9 cm,柄の長さは4.6 cm,幅0.2 cm,鍼部分の長さは2.3 cmである(筆者按語:鍼の部分の長さはちょうど漢制の一寸に合致しているので,全体の長さは三寸であり,『霊枢』の鍉鍼の「長さ三寸半」の記載とは少し食い違う)[13]116。末端は鈍く,形状は半米粒と類似しており,『霊枢』九針十二原にいう鍉鍼の「鋒の黍粟の鋭の如し」という記述に合致している(図2参照)[14]。

 注:図は以下から引用:河北省博物館編.大漢絕唱 滿城漢墓.北京:文物出版社,2014:202。

 図2 劉勝墓出土金銀鍼(左から右に向かって:1:4366,1:4391,1:4447,1:4446,1:4390,1:4354 )

 〔図2 省略〕

 脈刺の具体的な操作方法についても,『霊枢』官針に次のように述べられている。「脈之所居深不見者,刺之微內針而久留之,以致其空脈氣也;脈淺者勿刺,按絕其脈乃刺之,無令精出,獨出其邪氣耳」[4]23。この刺法の要領は鍼をその脈に刺しても血を出さないことにあり[15],精気を回復させ,邪気だけを出すことにある(『霊枢』九針十二原の「針陷脈則邪氣出」もこのことを指している)。そのため下に「㓨(刺)血不當出〔血を㓨(刺)して當に出だすべからず〕」という処理法の文があり,ここにつなぐべきである。

   『霊枢』周痹:故刺痹者,必先切循其下之六經,視其虛實,及大絡之血結而不通,及虛而脈陷空者而調之,熨而通之[4]60。

   『素問』調経論:血有餘,則瀉其盛經,出其血;不足,則補(「補」原作「視」,『甲乙』『太素』により改む)其虛經,內鍼其脈中,久留血至(「血至」原作「而視」,『甲乙』『太素』により改む)脈大,疾出其鍼,毋令血泄[5]121。

引用文からわかることは,経絡を診察することによって,血の結留は実であり,脈が陥空であるのは虚であり,経脈の盛虚によって刺法は補瀉を使い分ける,ということである。瀉法は脈を刺して血を出す方法であり,補法は『霊枢』官針にいう「病在脈」の刺法に近い。『㓨(刺)数』篇では脈診が論じられて,盛虚を弁別する方法(下文の簡652に見える)があるとはいえ,その刺法には補瀉の区分はまだ見えない。したがって本篇中の「脈刺」は後世の経絡補瀉刺法の濫觴であると推測される。

1.2分刺

 分刺については,本篇内に注がある。「所胃(謂)分㓨=(刺,刺)分肉間也」(669)。『霊枢』官針に「病在分肉間,取以員針于病所」[4]22とあり,この「分刺」の法である。下文にある「五曰分刺,分刺者,刺分肉之間也」は,簡669が解釈するところと同じである。

 分刺に用いる鍼具は,『霊枢』では員鍼に対応する。『霊枢』九針十二原(01):「員針者,針如卵形,揩摩分間,不得傷肌肉,以瀉分氣」[4]6。『霊枢』九針論(78):「二者地也,人之所以應土者肉也。故為之治針,必筩其身而員其末,令無得傷肉分,則邪氣得竭(原作「傷則氣得竭」,『甲乙』卷五第二により改む)」[4]128。満城漢墓から出土した銀の医療用鍼1:4366の上端は欠損しているが,残存部分は細長い円筩形で,鍼尖は鈍い円形をしており,『霊枢』九針論(78)に描かれている「筩其身而卵其鋒」のようである。そのため九鍼中の員鍼である可能性がある[13]118。(図2)

 分肉とは,筋肉を指す。赤と白の境がはっきりしているので,その名前がある。『素問』診要経終論の「春刺散俞,及與分理」について,『素問攷注』で森立之は「凡肌表白肉刺而不見血之處,謂之肌膚,又曰肌肉。見血之處,謂之分肉,又曰分理,言榮衛血氣之相分之處也」[16]と注している。分肉の間とは,筋肉の間隙を指す。『霊枢』経脈では,十二経脈はみな「伏行分肉之間」に出る。『太素』巻五の「人有幕筋」に楊上善は「幕,當為膜,亦幕覆也。膜筋,十二經筋及十二筋之外裹膜分肉者,名膜筋也」[7]54と注している。「分肉之間」とは,各筋肉間にある筋膜の間隙[17]を指していて,分刺で刺す部位がこの場所であることがわかる。

1.3刺水

 刺水とは,『霊枢』官針に「病水腫不能通關節者,取以大針」[4]22とあるのが,この法である。用いる鍼具は,竹簡にみえる「針大如履針」によれば,古代人が履(くつ)を編むときに用いた針の大きさぐらいである。『霊枢』では「大針」である。『霊枢』九針十二原(01)に,「大針者,尖如梃,其鋒微員,以瀉機關之水也」4]6とあり,『霊枢』九針論に「九者野也,野者人之節解皮膚之間也。淫邪流溢於身,如風水之狀,而溜不能過於機關大節者也。故為之治針,令尖如挺,其鋒微員,以瀉機關內外(「瀉機關內外」の五字は『鍼灸甲乙経』から補った。原文は「取」に作る)大氣之不能過於關節者也」[4]129とある。筆跡が劣化して不鮮明になっているため,竹簡にある「□三寸」が鍼具の長さであるかどうか詳細は不明であるが,もし鍼具の長さであるとすると,『霊枢』にいう大鍼の「長四寸」とはやや異なる。

 天回医簡が墓主とともに埋葬されたのは,前漢の景帝から武帝の時代(紀元前157年~紀元前141年)[18]である。中山靖王劉勝は,漢の景帝劉啓の子で,武帝劉徹の庶出の兄であり,武帝の元鼎四年(紀元前113年)二月[13]336-33に亡くなっているので,天回墓の主人の死後,50年足らずである。竹簡『㓨(刺)数』の内容は,『霊枢』官針と満城漢墓から出土した医療用鍼と対応しているので,出土文献・伝世文献・出土文物が相互に実証する関係になっていて,前漢以来の鍼刺治療法の伝承と推移を研究するために多くの証拠を提供している。


2023年4月8日土曜日

  天回漢墓医簡中の刺法 00

 『中国針灸』2018.10.01

顧漫,周琦,柳長華(中国中医科学院中国医史文献研究所)


  【要旨】四川省成都天回鎮の漢墓から出土した医簡のうち,整理者が「㓨(刺)数」と命名した部分は鍼刺治療法に関する専論であり,中国医学鍼灸の伝承発展を研究する上で非常に貴重な新史料である。本論は出土文献と伝世文献および出土文物の相互確認の方法を用いて,そこに保存されている前漢初期の鍼刺古法について散逸した史料の収集探求をおこなった。これにより,論中の述べられている「脈刺」「分刺」「刺水」という異なる刺法操作の要領およびその使用する鍼具の形状は,『霊枢』の記載や考古学で発見された「九鍼」とたがいに裏付けられた。論中の多くの初期の鍼処方は,『史記』倉公伝や『素問』繆刺論などの篇および漢代の画像石「扁鵲行鍼図」に見える鍼刺方法を反映している。鍼刺と脈診との密接な結びつきは,古代における経脈医学の「通天」思想をあらわしている。


  【キーワード】㓨数;天回医簡;刺法;脈刺;分刺;『史記』扁鵲倉公列伝:『素問』繆刺論;『霊枢』官鍼


『漢書』藝文志[1]醫經の小序:「醫經者,原人血脈經落(絡)骨髓陰陽表裏,以起百病之本,死生之分。而用度箴(鍼)石湯火所施,調百藥齊和之所宜〔醫經なる者は,人の血脈・經落(絡)・骨髓・陰陽・表裏を原(たず)ね,以て百病の本,死生の分を起こす。而して用(も)って箴(鍼)石湯火の施す所を度(はか)り,百藥齊和の宜しき所を調う〕」。

 近代〔歴史学的にはアヘン戦争から五四運動までの時期〕成都の名医,張驥先生は「箴石湯火所施」を解釈して,「余按箴、石、湯、火是四法〔余(われ)按ずるに箴・石・湯・火は是れ四法〕」といい,あわせて『素問』『霊枢』諸書を引用して,箴は九鍼,石は砭石を指すと指摘する。「是鍼以取其經穴,淺深出內,補瀉迎隨,各有法度;石以刺其絡脈,去出其血,癰瘍多用之。後世瓷鋒刺血,即砭石之意〔是れ鍼は以て其の經穴を取り,淺深出內(=納),補瀉迎隨,各々法度有り。石は以て其の絡脈を刺し,去って其の血を出だし,癰瘍多く之を用ゆ。後世の瓷鋒(陶器片)刺血は,即ち砭石の意〕」。湯は蕩滌〔洗い流す〕を,火は蒸熨を指す,「是湯以蕩之,火以灸之也。故曰箴、石、湯、火是四法〔是れ湯は以て之を蕩(あら)い,火は以て之を灸するなり。故に曰わく,箴・石・湯・火は是れ四法,と〕」[2]という。四川省成都天回鎮漢墓出土医簡M 3:121(以下「天回医簡」と略称する)には,石・犮・灸・㓨(刺)・傅(敷)・尉(熨)・湯・醪・丸などの多種の治療方法に関連する名詞が見え,前賢の「箴・石・湯・火は四法である」というのには先見の明があることが十分に証明された。本論は天回医簡中の鍼刺方法に関する内容を討論し,その他の治療方法については稿を改めて述べる。

 天回医簡の簡六部分は,全部で48本の簡があり、そのうち25本は完全で,簡の長さの平均は30.2cm,秦漢尺の1尺3寸にほぼ合致する。3本の縄によって編まれ,簡の背部には刻みが入っている。この簡の字体はすでに隷定後の隷書に属し,字形は平たく長く,波磔がはっきり見られ,漢代前漢中期以降の碑刻の隷書とほとんど変わらない。本篇には題名は見えないが,整理者は簡の内容にある「㓨(刺)數,必見病者狀,切視病所」(簡670)に基づき,『㓨(刺)数』と命名した[3]。

 『霊枢』邪客:「黃帝問於岐伯曰:余願聞持針之數,內針之理,縱舍之意」[4]113。

 『素問』湯液醪醴論:「今良工皆得其法,守其數」[5]33。

 『素問』疏五過論:「聖人之術,為萬民式,論裁志意,必有法則,循經守數,按循醫事,為萬民副」,「守數據治,無失俞理,能行此術,終身不殆」[5]195-96。

 以上の『内経』の文例では,「数」は常に「法」「理」と互文〔同義語の重複を避ける修辞法〕である。李伯聡氏[6]はすでにこの現象を指摘し,「ここから分かるように,いわゆる〈守数〉は〈得法〉(法則を掌握する)の意味であると互いにあきらかにしている」と論断した。また『太素』巻二十三・量繆刺の「凡刺之數」の一節の楊上善注には「數,法也」[7]381とあり,特に「㓨数」とは「刺法」の意味であることの証明とすることができる。

 本篇は内容と体例によって,総論と各論の二つに分けることができる。総論は刺法の原則を論述し,全部で6本あり,文は連続して書かれている。各論では,40種類以上の病症の具体的な鍼刺治療法を記載し,全部で42本あり,1本の簡にはそれぞれ一つの病症の刺法しか記されていない。ここでは本篇の記載に基づき,前漢の初期鍼刺治療法のいくつかの特徴を探求することをこころみる。以下に分けて論述する。