2023年5月24日水曜日

成都老官山漢墓の漆塗り人形から見た足陽明経脈の変遷進化 02

   2 足陽明経の発展変化に関する認識


 2.1 経脈循行は単純から複雑へ

 老官山漆人を双包山漆彫,『足臂』『陰陽』および『霊枢』経脈の足陽明脈の循行と対比してみれば,その間に多くの類似点が存在することを発見することは容易なことである。たとえば,いずれもみな下腿・膝・大腿部・乳房および顔面頰部を循行している。もちろん,支脈があるかないか,循行して連係する臓腑器官があるかないか,交叉する経脈があるかないか,そして腧穴に言及しているかいないかなど,多くの相違がある。

 『足臂』『陰陽』における当該経は一本の主脈があるのみで,支脈および臓腑との属絡に言及していないが,老官山漆人と比較して,最大の相違点は連絡する器官にある。双包山漆彫では,この経は縦方向に分布する一本の主脈であり,他の経との交叉は少なく,経脈には腧穴は表示されていない。老官山漆人の体表では8本の経脈線と交叉し,経絡循行ルートとの合流に関する情報などは双包山漆彫より豊富で複雑である。そのうえ腧穴が経上にある。しかし,臓腑との属絡はまだ見られていない。もちろん,これは模型上で内臓との絡属関係を描写するのに不便であることと関係があるかもしれない。『霊枢』経脈になると,この経の循行の記述はさらに改善され,循行はより詳細で複雑なものになり,足陽明経には3本の支脈があり,さらにこの経は「胃に属し脾に絡し」,鼻・歯・口唇・乳内廉などの器官と連係することを明確に提示している。

 双包山漢墓が漢の武帝の前、老官山漢墓が西漢の景帝・武帝の時期であることから勘案すると,出土した漆人はその時期より遅くはないはずである。しかし,老官山漆人はより精緻に作られており,その経脈の数,循行ルート,交叉などはいずれも双包山漆人より豊富で複雑であるため,この時期の経絡学説研究に対してより重要な医学と文化財としての研究価値がある。老官山漆人に見える足陽明経に関する線刻は,馬王堆漢墓の先秦医書と『霊枢』の間にあり,三者の間には簡から繁へ,不十分な状態からから徐々に完備へと発展する傾向が明らかに現れている。そのため,足陽明経を含む経絡理論全体が発展形成される過程における異なる発展段階をあらわしている。


 2.2 循行して連係する臓腑と器官

 『黄帝内経』は「夫(そ)れ十二経脈なる者は,内は府蔵に属し,外は肢節に絡す」という。人体の五臟六腑,四肢百骸,五官九竅,皮肉筋骨などの組織器官は,すべて十二経脈に依存して有機的な全体を構成している。十二経脈もまたそれぞれ臓腑器官,体幹四肢と連絡することによって異なる機能を持っている。馬王堆帛書に記載された足陽明経の循行は,内在的な臓腑の連絡には言及がなく,わずかに乳・口・鼻・目などとの連係しか記載されていない。2つの漆彫人では,経脈の循行は体表に記されている。この経が乳内廉・口・鼻につながることはわかるが,体内の循行は描きようがない。したがって足陽明経は胸腹を循行するが,体内に入って臓腑に属絡するかどうかはまだ不明である。『霊枢』経脈では足陽明経の体内にある支脈は「膈を下り胃に属し脾に絡す」。脾・胃との連係,この経の体内での循行はその記載により十分に明らかになった。そのため、われわれは,人類が足陽明経脈が臓腑・器官と連係することに関する認識も絶えざる発見と改善の過程にいたことを見いだせた。


 2.3 命名の変遷 

 古今の経脈の名称を見渡すと,その陰陽の気の多少,循行する部位および属絡する臓腑との関係などによってその名が付けられていることが多い。『陰陽』は陰陽からのみ命名され,足陽明胃経を「陽明経」と命名し,『足臂』は『陰陽』を基礎として足臂を追加し,この経を「足陽明脈」と呼んだ。双包山漆人の経脈については,古代文献に基づいて漆人の経脈の名称を推論し,「足陽明脈」と命名した。老官山漆人ではこの経を主に老官山漢墓から出土した医簡にある経脈に関する記載に基づいて「足陽明脈」と命名した。以前の経脈の命名とくらべて最も際立っている『霊枢』経脈の命名の特徴は,足臂と陰陽を基礎として臓腑を補充し,「足陽明胃経」を考案したことである。


 2.4 流注方向の分析

 経脈流注の方向はずっと鍼灸領域の討論の重要な問題である。同一名称の経脈に対して,その開始部位と終止部位は文献によって記載が異なり,しかも求心性と遠心性という流注の方向の問題においては,完全に反対の主張すらある[5]。足陽明胃経の循経について,馬王堆帛書の流注の方向は下腿から顔面あるいは鼻へで,すなわち求心性である。双包山漆人の足陽明経の流注は,馬継興先生の考察によると、目から足に達する。即ち遠心性である。『霊枢』経脈では,足陽明胃経の流注は目下から足に至る。即ち遠心性である。老官山漢墓から一緒に出土した医簡には経脈に関する記載がある。それに基づけば,現在のところ,漆人の体表の足陽明経の流注は下腿から鼻へ,即ち求心性であると考えられる。経脈が流注する順序に関する文献間の記述の不一致は,足陽明胃経に既に存在していることがわかる。経脈循行の方向は,根本的には経気が運行する方向であり,それは経絡理論が形成された初期において,人類が経気が運行する方向の多様性に対する観察をあらわしており,求心性と遠心性が同時に出現していることは,経気の運行に関する双方向性の観点をあらわしている。即ちツボを刺激する時,経脈に循う感伝は,経脈の循行線に沿って遠心性と求心性の双方向性の伝導を呈する。もちろん更に重要なのは絶えず練り上げ改善される過程で,単一の経脈循行を主とし,『霊枢』経脈の「環の端無きが如く,……終わって復た始まる」全身の経気が環状に流注する移行が完成したことである。更に経絡の形成は循行方向が定まらず,経絡間の連絡が定まらず,臓腑の属絡関係が定まらない状態から発展し,循行方向が規則的になり,経絡間の連絡が相対的に固定し,臓腑の属絡関係が確定する過程が確認された。


0 件のコメント:

コメントを投稿