2016年10月24日月曜日

卓廉士先生の『素問』標本病伝論(65)講義 その2

衛気には邪気に向かい、これと争う特性がある。この特性は病邪の拡散をふせぎ、邪気が深く侵入するのを阻止し、病因を除くことができる。邪気が本にあれば、衛気は本にあつまる。邪気が標にあれば、「衛気帰之」(『霊枢』癰疽(81))、向きを変えて、標にあつまる。この現象に焦点をあてた「治反為逆.治得為従」という方法がある。衛気が本部にあつまることを「得」といい、標部にあつまった相反する情況を「反」という。「逆」と「従」は「標本相移」に焦点をあてた鍼刺方法であり、標を刺すのが逆であり、本を刺すのが従である。具体的にいえば、「有取標而得者.有取本而得者.有逆取而得者.有従取而得者」〔標に取りて得る者あり、本に取りて得る者あり、逆取して得る者あり、従取して得る者あり〕である。衛気のゆくえを追っていえば、つぎのようにあらわせる。「有其(衛気)在標而求之於標.有其在本而求之於本.有其在本而求之於標.有其在標而求之於本」〔其(衛気)の標に在りてこれを標に求むるあり、其の本に在りてこれを本に求むるあり、其の本に在りてこれを標に求むるあり、其の標に在りてこれを本に求むるあり、と〕。

よって衛気の移動と集散をおえば、疾病の病機〔疾病にいたる機序〕をとらえることができ、気血の虚実と邪気の存亡などの情況を理解できる。それによって標を刺すか本を刺すかが決まる。考え方からすると、辨症論治のひな形をすでにそなえているようにみえる。しかし、秦漢時代の医者はそれを当時流行した思想である「執一」と結びつけて一連の刺法を形作った。この方法は、すこぶる複雑なものを簡潔にでき、理解応用を容易にした。

『老子』二十二章「聖人執一以為天下式」〔『老子』二十二章「是以聖人抱一為天下式」。出土『老子乙道經』「聖人執一以為天下牧」〕。いわゆる「執一」とは、鍵となる法則を自分のものとし、複雑な局面に対処することである。『素問』標本病伝論(65)は「夫陰陽逆従.標本之為道也.小而大.言一而知百病之害.少而多.浅而博.可以言一而知百也.以浅而知深.察近而知遠.言標与本.易而勿及」〔【現代語訳】 陰陽、逆従、標本の道理は、一見すると非常に簡単にみえますが、その応用価値はきわめて大きいのです。したがって標本逆従の道理を語るならば、多くの疾病による危害を知ることができるのです。少ないものから多くを知り、小から大を推しはかることができるので、一を語って百を知ることができるといっているのです。浅いところから深いところを知り、近くを調べて遠くを知ることができます。標本の道理というものは、非常に容易に理解はできますが、その臨床応用となりますと、けっしてそれほど容易に会得することはできません〕という。ここに二回も言われている「言一而知百」が、「一を執る」の意味を存分にあきらかにしていることがわかる。

『文子』微明は「見本而知末,執一而応万,謂之術」という。文子は標本(「本」「末」ともいう)を一つの不変によって万変に応じ、いろいろな複雑な変化に対処する方法とみなした。『漢書』芸文志は文子を「〔老子の弟子で〕孔子と時を並ぶ」という。よってこの思想は、『黄帝内経』以前か同時期にすでに存在し、秦漢時代にはすこぶる流行していた。『呂氏春秋』有度は「先王不能尽知,執一而万物治」といい、高誘は「執守一道,而万物治理矣」と注する。また後漢の王弼は『周易略例』で「物雖衆,則知可以執一御也;由本以観之,義雖博,則知可以一名挙也」〔《明彖》〕という。よって文化概念の継続性からみれば、『黄帝内経』が提唱する「標本の道」は「一を執って万に応ずる」という思想の伝承とすべきである。その目的は、医者に一つの有効な原則あるいは法則を身につけさせ、臨床上の複雑な病情に対処させることにある。筆者の考えでは、『素問』標本病伝論(65)が掲載するのは、このような方法の一つであり、簡便でおぼえやすく行ないやすい。「少而多.浅而博」であり、相当な実用性がある。

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