(3)楊上の学風は楊上善と同じである。墓誌は楊上に隠士の風が少ないことを述べるのに多くの筆墨を費やしている。特に「年十有一,虛襟遠岫,玩王孫之芳草,對隱士之長松〔年十有一,虛襟(虚心)遠岫(遠き峰),王孫の芳草を玩(もてあそ)び,隱士の長松に對す〕」という。もし彼が在家の隠居にすぎなかったなら、この年のことを記録する必要はない。したがってこれは彼が出家して道観に入った年にちがいない。唐代の人である盧蔵用〔664ごろ~713ごろ?〕は終南山に隠居して道を修め、『芳草賦』を著わしたが、後に出仕し、「終南捷径〔終南山は仕官の近道〕」とそしられた〔1〕。この墓誌にいう「王孫の芳草を玩(もてあそ)ぶ」は、楊上が若い頃道士であったことを指しているのかも知れない。しかし「隠士〔隠居して官に仕えないひと〕」には道士が含まれるし、当然のことながら楊上がのちに還俗して隠士になったことも排除できない。中国古代の医学と道教には密接で複雑な関係があり、道士の多くは医学に通じていた。墓誌には、楊上は「於是博綜奇文,多該異說,紫臺丹篋之記,三清八會之書,莫不得自天然,非由學至〔是こに於いて博く奇文を綜(あつ)め,多く異說を該(か)ね,紫臺丹篋の記,三清八會の書,天然に自(よ)るを得ざる莫く,學に由って至るに非ず〕」とある。これは彼が道教の書に精通していたことを言っているが、「異說」と「八會」の書には医書が含まれているはずである。『漢武帝内伝』には、「上元夫人語帝曰:阿母今以瓊笈秘韞,發紫臺之文,賜汝八會之書,五嶽真形,可謂至珍且寶〔上元夫人 帝に語って曰わく:「阿母 今ま瓊笈の秘韞(玉飾りの書箱の中の道書)を紫臺〔道家のいう神仙の居所〕の文を發(ひら)き,汝に八會の書,五嶽の真形を賜う。至って珍且つ寶と謂っつ可し」〕」とある。中国医学はまた人体内の八つの気血が会合するツボを八会と称する。『史記』扁鵲倉公伝に、「會氣閉而不通〔會氣 閉じて通ぜず〕」とあり、張守節の『正義』は『八十一難』を引用して、「府會太倉,藏會季脅,筋會陽陵泉,髓會絕骨,血會膈俞,骨會大杼,脈會太淵,氣會三焦,此謂八會也〔府會は太倉,藏會は季脅,筋會は陽陵泉,髓會は絕骨,血會は膈俞,骨會は大杼,脈會は太淵,氣會は三焦,此れを八會と謂うなり〕」という。墓誌の下文、「又復留情彼岸〔又た復た情を彼岸に留む〕〔2〕」以下の文は、楊上が仏典にも通暁していたことを言っている。「學包四徹〔學は四徹を包(か)ね〕〔3〕、識綜九流〔識は九流を綜(あつ)む〕〔4〕」は、その学風の概括である。簡単に言えば、楊上は、基本的に道教の学者であり、同時に医学・仏学にも通暁していた。残念なことに、墓誌にはその著述の情況の記載がない。楊上善には道家の著作が6種40巻、医学の著作が3種43巻、仏学の著作が2種16巻、全部で10〔ママ〕種99巻がある。墓誌に述べられている楊上の学風は、楊上善の著述状況と完全に一致しているため、彼らは事実上同一人物であると推定するのが合理的である。
〔1〕『新唐書』盧藏用傳:司馬承禎嘗召至闕下,將還山,藏用指終南曰:「此中大有嘉處」。承禎徐曰:「以僕視之,仕宦之捷徑耳」。藏用慚。
〔2〕彼岸:佛教用語。指解脫後的境界,為涅槃的異稱。
〔3〕四徹:未詳。仏典に用例が多い。あるいは四境と同じで、四方國境のことか。
〔4〕九流:先秦至漢初的九大學術流派。包括儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縱橫家、雜家、農家。
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