2022年11月16日水曜日

『難経』五輸穴の主治病症とその五行観念に関する分析 04

   4 『黄帝内経』の五輸穴が季節に応じることの着想


  4.1 「出づる所を井と為す」

 「五輸穴」の最初の穴は「井」と呼ばれ,経脈が求心性に循行する理論に基づいている。この理論モデルによれば,経脈は四肢末端に起こり,手足部から肘膝にかけて五つの腧穴が分布し,所在する形体部位の組織は小さく薄いところから大きく厚いところまであり,その気血は指端から肘膝に注ぎ流れる。それはあたかも水が泉から出て,渓流が川となり,合流して海に入るがごとくであり,「井・滎・腧・経・合」と呼ばれている。これがすなわち,『霊枢』九鍼十二原にいう「經脈十二,絡脈十五,凡二十七氣,以上下所出為井,所溜為滎,所注為腧,所行為經,所入為合。二十七氣所行,皆在五腧也〔經脈十二,絡脈十五,凡(すべ)て二十七氣,以て上下の出づる所を井と為し,溜する所を滎と為し,注ぐ所を腧と為し,行く所を經と為し,入る所を合と為す。二十七氣の行く所,皆な五腧に在り〕」[1]3である。「井」とは,もともと地下に隠れていた水が地表に出ている状態を指して,ここでは手足の末端にある穴の名称として用いられている。つまり体内の気が体表外部に行くところが,すなわち「出づる所を井と為す」である。したがって,五輸穴の中では井穴の「気」の源が最も深い。楊上善はこれについてはっきりと説明している。「井者,古者以泉源出水之處為井也,掘地得水之後,仍以本為名,故曰井也。人之血氣出於四肢,故脈出處以為井也〔井とは,古者(いにしえ)泉源 水を出だすの處を以て井と為(い)う。地を掘って水を得たるの後も,仍(な)お本を以て名と為す。故に井と曰うなり。人の血氣は四肢に出づ。故に脈出づる處 以て井と為すなり〕」[2] 189〔『太素』卷11本輸〕。 「太古人家未有井時,泉源出水之處,則稱為井〔尊経閣文庫所蔵本に「故井」二字あり〕者,出水之處也。五藏六府十二經脈,以上下行,出於四朱(末)〔尊経閣文庫本は「末」〕,故第一穴所出之處譬之為井〔太古の人家 未だ井有らざる時,泉源 水を出だすの處を,則ち稱して井と為(い)う。故に井とは,水を出だすの處なり。五藏六府十二經脈,以て上下に行き,四末に出づ。故に第一穴の出づる所の處 之を譬えて井と為(い)う〕」[11]。


  4.2 「井」と冬の気

 「井」穴が冬に対応するのも,深浅説と関連している。その起源は天人相応の観念であり,人の気は天地の気に対応し,季節が変われば,人の気の深さも変わる。すなわち『霊枢』本輸にいう「四時の出入する所」[1] 4である。楊上善は「秋冬,陽氣從皮外入至骨髓,陰氣出至皮外;春夏,陰氣從皮外入至骨髓,陽氣出至皮外〔秋冬,陽氣は皮外從(よ)り入りて骨髓に至り,陰氣は出でて皮外に至る。春夏,陰氣は皮外從り入りて骨髓に至り,陽氣は出でて皮外に至る〕」[2] 188という。鍼治療の深さは,これと対応しなければならない。『霊枢』終始にいう,「春氣在毛,夏氣在皮膚,秋氣在分肉,冬氣在筋骨,刺此病者,各以其時為齊〔春氣は毛に在り,夏氣は皮膚に在り,秋氣は分肉に在り,冬氣は筋骨に在り。此の病を刺す者は,各々其の時を以て齊と為す〕」[l]27である。この中で最も深い層は「冬の気は筋骨に在り」である。冬の気は閉蔵し,五行は水に属し,腎気はこれに応ずる。そのため,四時に刺す場所や層も最も深い。『霊枢』寒熱病は,つぎのようにいう。「春取絡脈,夏取分腠,秋取氣口,冬取經輸,凡此四時,各以時為齊。絡脈治皮膚,分腠治肌肉,氣口治筋脈,經輸治骨髓、五藏〔春は絡脈に取り,夏は分腠に取り,秋は氣口に取り,冬は經輸に取る。凡そ此の四時は,各々時を以て齊と為す。絡脈は皮膚を治し,分腠は肌肉を治し,氣口は筋脈を治し,經輸は骨髓と五藏を治す〕」[1]57。文中にいう「経輸」とは,四肢部にある類穴であり,主に蔵府に対して遠隔的な主治作用を有する肘膝以下にある五輸穴を指す。皮膚・筋肉・筋脈・骨髄五蔵の各層では,骨髄と五蔵が最も深い。治療箇所の絡脈・分腠・気口・経輸などの各所では,経輸で治療するところが最も深い。『素問』診要経終論に,「春刺散俞……夏刺絡俞……秋刺皮膚……冬刺俞竅〔春は散俞を刺し……夏は絡俞を刺し……秋は皮膚を刺し……冬は俞竅を刺す〕」[12] 92とあるのもこの意味である。経輸を各季節に割り当てる具体的な方法では,井穴を冬に対応させ(表3),井穴がここでは「内部の深い源」に取るという意味を示唆している。これについて,『黄帝内経』は異なる角度から繰り返し述べ,また解釈している。たとえば,五輸穴を詳しく載せている『霊枢』本輸には「冬取諸井諸腧之分,欲深而留之〔冬は諸井諸腧の分に取るは,深くして之を留めんと欲すればなり〕」[1]8とあり,『素問』水熱穴論には,「帝曰:冬取井滎何也?岐伯曰:冬者水始治,腎方閉,陽氣衰少,陰氣堅盛,巨陽伏沈,陽脈乃去,故取井以下陰逆,取滎以實陽氣〔帝曰わく:「冬は井滎に取るとは何ぞや?」岐伯曰わく:「冬は水始めて治し,腎方(まさ)に閉じ,陽氣は衰少し,陰氣は堅く盛ん,巨陽は伏沈し,陽脈は乃ち去る。故に井に取って以て陰逆を下し,滎に取って以て陽氣を實す」〕」[12] 330とある。楊上善と張介賓らの注家は,腎蔵と井穴が冬の気の閉蔵をつかさどるという角度から解釈している。〔『太素』卷11・本輸〕「冬時足少陰氣急緊……故取諸井以下陰氣〔冬の時は足少陰の氣 急緊……故に諸井に取って以て陰氣を下す〕」[2]201,〔『類經』卷8・井滎俞經合數14〕「脈氣由此而出,如井泉之發,其氣正深也〔脈氣 此れに由って出づること,井泉の發するが如し。其の氣 正に深し〕」〔『類經』卷20・四時之刺18〕「諸井諸藏皆主冬氣〔諸井諸藏は皆な冬の氣を主る〕」[13]。唐代の『外台秘要方』(巻三十九)は十二脈の腧穴を掲載し,井穴の後ろには「冬三月宜灸之〔冬の三月は宜しく之を灸すべし〕」という句がいずれにもある。すなわちこれは『黄帝内経』を源として発展させたものである。


  4.3 古代の時令観の影響

〔時令とは,季節,時節に応じて頒布される政令。それにしたがい,為政者が各季節に合致した政治をおこなわないと(春に夏令をおこなったりすると),自然と人間の調和が狂って災害が生じるとする天人相関にもとづく思想・観念を時令観(念)という。〕

 古代の時令観念から生まれた風習の中には,四季十二ヶ月の行事制令にしたがう儀礼のシステムがある。『黄帝内経』の「井」が冬に応ずるという説は,それと無関係ではないようである。

 先秦両漢の典籍の記載には,冬令閉蔵の気に順応することに関する行事の要求があり,冬は水に属するため,祭祀用の五蔵の祭祀品は腎蔵を先にして,四海・大川・名源・淵沢・井泉を祭り,水泉・池沢の賦税を徴収するなど,みなその時の気に従う。たとえば『呂氏春秋』孟冬紀には,「孟冬之月……其祀行,祭先腎〔孟冬の月……其の祀は行,祭るに腎を先にす〕」「是月也,乃命水虞・漁師,收水泉・池澤之賦〔是の月や,乃ち水虞・漁師に命じて,水泉・池澤の賦を收めしむ〕」[15]とあり,『禮記』月令には,「孟冬之月……其祀行,祭先腎〔孟冬の月……其の祀は行,祭るに腎を先にす〕」「盛德在水〔盛德は水に在り〕」「閉塞而成冬〔閉塞して冬を成す〕」「仲冬之月……天子命有司祈祀四海・大川・名源・淵澤・井泉〔仲冬の月……天子は有司に命じて四海・大川・名源・淵澤・井泉を祈祀せしむ〕」[16]541-55とある。その方法観念について,鄭玄は「順其德盛之時祭之也〔其の德の盛んなる時に順って之を祭るなり〕」 [16] 555,すなわち「順五行〔五行に順う〕」[17]79 と注する。その中の「祀行」を,漢代の文献の多くは「祀井」に作る。例を挙げれば,『淮南子』,後漢の『白虎通義』と『論衡』などである。班固〔『白虎通義』卷2・五祀〕は「冬祭井。井者,水之生藏在地中。冬亦水王,萬物伏藏〔冬は井を祭る。井なる者は,水の生 藏して地中に在り。冬も亦た水 王じ,萬物 伏藏す〕」[17] 80という。清代の陳立『白虎通疏證』の按語に,「高誘注『呂氏春秋』云:〈行,門內地也,冬守在內,故祀之。行或作井,水給人,冬水王,故祀之也。〉……然則祀行即所以祀水,與祀井之義合也。兩漢・魏晉之立五祀,皆祀井……其實〈井〉・〈行〉一也〔高誘 『呂氏春秋』に注して,〈行は,門內の地なり,冬の守りは內に在り,故に之を祀る。行或いは井に作る。水は人に給し,冬に水は王す。故に之を祀るなり〉と云う。……然らば則ち祀行とは即ち水を祀る所以にして,祀井の義と合するなり。兩漢・魏晉の五祀を立つる,皆な祀井……其の實〈井〉と〈行〉は一なり〕」[17] 78とある。陳奇猷『呂氏春秋新校釋』が引用する楊昭儁〔1881-1947後〕の語に,「商・周の彜器の文中の〈行〉字は〈〓〉に作り,正に十字の道の形に象る。高氏は行を解して門內の地と為す。即ち道路の字に從って引申するの說なり。〈井〉に作る者は,即ち〈〓〉の偽なり」[18]とある。要するに,先秦両漢が四時十二ヶ月に政令を割り当てた時,冬には腎を祭る。五祀の「祀行」を,漢以降は「祀井」に多く作る。祈祀・徴税などの儀礼と時政〔時令〕は水と関連する。その中には井泉と水泉が明確に含まれていた。「井」はあるいは「行」の誤りで,その影響は久しい。

 上述した関連内容は,伝世文献のほかにも,出土文献の実物で証明された。20世紀90年代初めに甘粛省敦煌の漢代県泉置遺跡で出土した『使者和中所督察詔書四時月令五十条』(以下『月令詔書』と略称する)である。原文は墨書で建物の泥壁の上にあり,出土時にはすでに砕けていたが,関連する学者が断片を集めて補修し,考証解読をへて,陸続と釈文が公表された。その中の「孟冬月令四条」の部分の釈文は以下の通りである。

 〔https://zh.m.wikipedia.org/zh-hans/%E6%82%AC%E6%B3%89%E7%BD%AE%E9%81%97%E5%9D%80〕


    ·命百官,謹蓋藏; ·謂百官及民囗(六七行)

    ·毋治溝渠,決行水泉,……,盡冬。(七一行)[19 ]7

 (七一行を)「ここで規定されているのは,時の気に応ずる〈水徳〉と関係がある」と研究者は考えている[19] 30。『月令詔条』は前漢の平帝元始五年(西暦5年)に公布され,「県泉置は河西要道に設立された郵便物の収集中継・命令の伝達・賓客の接待が一体となった総合機関,すなわち伝置〔駅〕であり」,「敦煌郡と効谷県の二つの行政機関から管轄を受けていた」[20]。『月令詔書』はこの機関の(「当時の掲示板・宣伝欄であった」[19]53)壁に書かれていて,四時月令理論に関する内容が漢代に与えた影響の反映であり,これは当時の行政機関が社会生産と民事活動などの管理において遵守を求めていた実際の規定である。

 井滎輸経合の五輸は,すべて(地表の内外の状態の)水を比喩としているが,五穴がそれぞれ一つの季節に配当された時,『黄帝内経』の中で「井」は冬と腎に対応し,名称と特性にかかわらず,みな月令行事制令の儀礼と明らかに関連し,合致するところがある。時令行事に応じた社会性と儀礼性は,知らず知らずのうちにその観念と方法に普遍的な影響があり,『黄帝内経』が天時と疾病の関係を認識した時代思想の背景でもある。具体的な五輸穴が四時に配当された方法とその源を探究する際には,このような関連を無視したり排除すべきではない。


  4.4 五輸穴が五時に応ずる論

 ふたたび『黄帝内経』の中で唯一四時に長夏を加えて五輸穴に配当した内容,すなわち『霊枢』順気一日分為四時篇を見てみると,穴と時の関係が論じられ,五輸穴の順に展開されているが,これは他篇の四季の順序とは異なる(『難経』は四季の順序に従って五輸穴を言う)。その具体的な論述と方法は,非常に複雑で入り組んでいる。五蔵にはそれぞれ「色・時・音・味・日」という五つの特性があり,「五変」といわれる。たとえば,「肝為牡藏,其色青,其時春,其音角,其味酸,其日甲乙。心為牡藏,其色赤,其時夏,其日丙丁,其音徵,其味苦……」[1] 86とある。五輸穴はそれぞれ五変をつかさどり,その対応は,「蔵・色・時(この「時」は前文の「時」とは指すところが異なる)・音・味」である。篇の二箇所で論じられているものには,実は二つの論理構造がある:

 その一,五変には「(五)時」が含まれる。すなわち五蔵がそれぞれ一時に対応し,五時に分かれて五輸穴を刺す。すなわち,冬は井を刺し,春は滎を刺し,夏は輸を刺し,長夏は経を刺し,秋は合を刺す。このような方法は,おもに季節と五輸穴の抽象的な特性に基づく。

 その二,「五変」そのものはまた五時に応じてそれぞれ対応する。すなわち一つの「変」は一つの季節に対応し,それによって各々五輸穴の一つに対応する。このように形成された方法は,各類ごとの(病)「変」に五輸穴の一つをもちいて治す。すなわち凡そ「蔵」の病変(病が蔵にあるもの)は井穴をもちいて治し,「色」の病変(病が色にあるもの)は滎穴をもちいて治し,「時」に軽重の病変がある(病が時によって軽重する)ものは輸穴をもちいて治し,「音」の病変は経穴をもちいて治し,「味」の病変は合穴をもちいて治す,などである。この部分こそ本篇が提案した五輸穴の主治病症であり,主に病症の性質特徴と五輸穴の主治の特徴に基づいている。その中の「病在胃,及以飲食不節得病者,取之於合。故命曰味主合〔病 胃に在るもの,及び飲食不節を以て病を得る者は,之を合に取る。故に命(なづ)けて味は合を主ると曰う〕」[1]86は,すなわち「合治內府〔合は內府を治す〕」〔『霊枢』邪気蔵府病形〕[1] 14の応用である。

 『黄帝内経』での五輸穴の主治原則に関する論述には,さらに以下のものがある。

    「明於五輸,徐疾所在〔五輸を明らかにす,徐疾の在る所〕」[1] 131。(『靈樞』官能)

    「本腧者,皆因其氣之虛實疾徐以取之,是謂因衝而瀉,因衰而補〔本腧は,皆に其の氣の虛實疾徐に因って以て之を取る。是れを衝に因って瀉し,衰に因って補すと謂う〕」 [1] 128 。(『靈樞』邪客)

    「有餘不足,補瀉於榮輸〔有餘不足は,榮輸を補瀉す〕」[12] 169。(『素問』離合真邪論)

    「病在脈,氣少當補之者,取以鍉針于井滎分輸……病在五藏固居者,取以鋒針,瀉于井滎分輸,取以四時〔病 脈に在り,氣少なく當に之を補すべき者は,取るに鍉針を以て井滎分輸に于(お)いてし……病 五藏に在って固く居する者は,取るに鋒針を以てし,井滎分輸を瀉し,取るに四時を以てす〕」[1] 21。(『靈樞』官針)

    「各補其滎而通其俞,調其虛實〔各々其の滎を補して其の俞を通じ,其の虛實を調う〕……」[12] 249。(『素問』痿論)

    「病在陰之陰者,刺陰之滎輸;病在陽之陽者,刺陽之合〔病 陰の陰に在る者は,陰の滎輸を刺す。病 陽の陽に在る者は,陽の合を刺す〕」[1] 18。(『靈樞』壽夭剛柔)(按ずるに,「陽之陽」は,上下の文義によって「陰之陽」とすべきである。)

    「治藏者治其俞,治府者治其合,浮腫者治其經〔藏を治する者は其の俞を治し,府を治する者は其の合を治し,浮腫は其の經を治す〕」[12] 217。(『素問』欬論)

    「滎輸治外經,合治內府〔滎輸は外經を治し,合は內府を治す〕」[1] 14。(『靈樞』邪氣藏府病形)

 これらの内容は,形式的には「井滎輸経合」全体を網羅するのはごく一部(「五輸」「本腧」など)であり,ほとんどは五輸の一部にしか言及しておらず,しかも「井滎」「滎輸」が主である。虚実の補瀉に用いるというのは,実際には脈動の盛虚が反映された病が内部にある蔵府を指していて,「井滎」「滎輸」という言葉は,実際は常に五輸穴を指している。主治の内容は具体的な病症の表現であり,かつ五輸穴全体に言及しているのは,上述したの『霊枢』順気一日分為四時が論じていることである。

 五輸穴と季節の配当関係が『難経』と『黄帝内経』とでは全く異なることについて,先人の徐大椿や日本の丹波元簡などはすでに気づいていた。しかし徐氏はそれを指摘して,「越人之說,不知何所本也〔越人の說,何れの本づく所かを知らざるなり〕」[7]94-95というだけであり,丹波氏は「必『難經』之誤〔必ず『難經』の誤りならん〕」[21]と率直に述べている。いずれも『黄帝内経』をおおもととして比べていて,『難経』の説の本質を分析し,指摘してはいない。

 以上の分析によって以下のことが分かった。五輸穴と四時を関連づけるにあたり,『黄帝内経』は,五輸穴が反映する蔵府経脈の気と四時の気の活動特徴の一致を考慮した。理論の構築において時代の思想観念の影響があるとはいえ,腧穴の作用の法則性を逸脱していない。『難経』が『黄帝内経』と異なるところは,その後の鍼灸実践経験に基づいた法則性の発見と理論的解釈ではなく,五行学説の理論から導き出されたものであり,井滎輸経合と春夏秋冬の両者を機械的対応させたものある。このような医学理論構築の観念と方法は,ここだけにとどまらず,『難経』に終始一貫している。『難経』の五輸穴の主治病症は具体的であるだけでなく,五行の属性特徴を含んでおり,それによって五蔵に関連する明示的であれ暗示的であれ特定の病変などの要素は,それを伝授され学習する者がその説に実践的経験に源があると思い込んで,機械的理論を臨床実践に用いる方向に誤って導かれやすい。


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